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ホラー短編集

引き戸の向こうに

作者: 長埜 恵

 その女性は、精神を病んでしまっていた。


 社会に疲れ、人に疲れ、自分にすら疲れた女性は、簡単な外出すらままならず、日がな一日家に閉じこもる毎日を過ごしていた。


 ある朝、女性の夫は、彼女が寝室と居間とを隔てる引き戸の前にしゃがみこんでいるのを見つけた。どうやら、寝室に向かって何かを呼び掛けているらしい。


 女性が一体何を話しているのかを問おうと夫が身を乗り出した時、彼女は初めて夫に気がついたように振り返った。

 そして、夫と目を合わせ、こう言ったのである。


「寝室にいる私を呼んでたの」


 曰く、女性は生きていくことにほとほと嫌気が差してしまったのだという。そこで、戸を隔てた寝室にいるだろう自分に、交代してもらうことを考えついたらしい。

 女性が寝室に向かって呼び掛けていたのは、自分の名前だった。


 それからというもの、女性は毎朝引き戸を隔てた寝室に向かって自分の名前を呼ぶようになった。そのたびに夫は咎めたが、少しでも精神の安定に役立っているのならと強く制することはしなかった。


 女性が寝室に向かって自分の名前を呼び掛けて、三ヶ月ほど経った頃だろうか。その朝も、女性は寝室を隔てた引き戸に向かって、自分の名前を呼び掛けていた。あと五回も呼べば、気が済んでいつも通り食事をするだろう。そう夫が思っていたその時だった。


「わかった。今行くわ」


 妻の声が、寝室から応えた。女性はその返事にすっと立ち上げると、引き戸に手をかけ、開けた。夫の場所からは、引き戸の中は見えない。その先には、寝室があるはずだ。誰もいない寝室があるはずなのだ。

 しかし、夫の無意識はその中にもう一人の妻の存在を確信していた。


 金縛りにあったような夫の目の前で、妻は音も無く寝室に入り、戸を閉めた。

 居間に夫しかいなかった時間は、そう長いものではないだろう。しかし、彼にとってその時間は、十年も老け込むような途方もない時間のように感じられた。


 彼の額には汗がつたっているのにも関わらず、手足は氷のように冷たい。ふいに胸苦しさを感じ、自分が息を止めてしまっていたことに気づいた頃、やっと引き戸が開いた。


 中から出てきたのは、妻だった。


 寝室から現れた妻は、腰を抜かしたようになっている彼の傍まで来ると、そっと頬を撫で優しく言った。


「さあ、朝ご飯にしましょう」











「妻の変化は、一般的に喜ばしいものでした。鬱々としていた頃が嘘のように、毎朝自分より早くに目覚め、朝の支度をしてくれました。積極的に地域の催しにも参加し、友達も増えたようです。また、家計を助けようと近所のスーパーマーケットの面接も受けていましたね。それから、妻が精神を病む以前のように、二人で出掛けるようにもなりました」

「それは、大変良かったですね」

「ええ」

「だというのに、あなたは一体何故彼女を殺し、それを三年間隠蔽し続けていたんですか?」


 刑事の取り調べに、男は淀んだ目で答える。


「一点において」

「は」

「一点において、妻は以前と決定的に違っていたのです」

「というと」

「妻が変化して数週間経った頃、私は彼女にあの時のことを尋ねたのです。あのとき、呼び掛けていた引き戸の向こうで何があったのかと」

「ええ」

「すると、妻は私の顔をじっと見て、こう言ったのです。“私は、返事しかしていないわよ”と。そこまで聞いて、私は妻が以前とはまったくの別人であると気づいたのです」


 今、目の前にいる女性は、あのとき引き戸の向こうにいた、妻の呼び掛けに応えた何かであると。


「だから私はその何かを殺し、引き戸の向こうに行ってしまった本当の妻を今でも待っているのです」


 でも、最近はもっといい方法を思いつきましてね。


 男性はそこまで言うと、対話相手に背を向けるように、寝室に繋がる引き戸に目をやった。


「なあ、そろそろ出てこないか」


 男性が引き戸に向かって呼び掛けたのは、自分の名前だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] あ、ごめんなさい。 したが、じゃなくて、したら。 間違えました。
[良い点] なんか不思議なところ。 [気になる点] ひとつだけ気になりました。 これは現場検証中なんですね? [一言] 刑事さんの目の前で、部屋の向こうから「はい」って声がしたがどうなるんだろう………
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