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9月の恋と出会ったら  作者: 佐伯龍之介
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休日①

 雨の水曜日、買い物に出かけた時、帰りがけに「アイスクリームが食べたい」という衝動にかられた。アイスクリームやチョコレートには、時々そんな風に「どうしても食べなくちゃ」と思わせる成分が入っているのではないかと思う。

 駅前には大手のチェーンのアイスクリームショップがあるが、通りに面した側がガラス張りで、勤め帰りにはいるのは何となくためらわれる。けれども同僚と会う気づかいがない今日なら・・・

 午後の早い時間のせいか、それともあめのせいか、狭い店に客はひとりいるだけだった。

僕は手前の椅子に座り、幸せな気持ちで、二種類のフルーツがまじりあったフレーバーを味わう。

 そうしているうちに、奥にいる客チョコレート系のコーンを手に置くに座っている男性が見おぼえのある口ひげを生やしていることにきづいた。

 口ひげだけではなくその周囲の顔、少しだけ太った全身のたたずまいも、僕の真下の住人、オーケストラ団員の嶋さんに違いなかった。僕がそう確信するのとほぼ同時に、相手のまなざしががわずかに揺れる。どうやら先方も、いつかすれ違った時のことを覚えているようだ。

 経験のある人にはわかってもらえると思うけれど、だれかとばったり会うとしたら、こういう店でアイスクリームを食べている時というのは最も気まずい会い方のひとつだ。店が狭く、アイスクリームがコーンに乗っている時は特に。お互い顔を知ってはいるものの、場所を移動しておしゃべりを始めるというほどの付き合いでない場合は特に。

 そういうわけで、嶋さんも僕もどこかそそくさという感じでアイスクリームの残りを食べることとなった。

 先に来ていた嶋さんが席を離れ、僕もだからと言ってゆっくりするわけでもなく、食べ終えて店を出る。軒先で傘を開いたとたん、

「二階に越してきた人ですよね」声を掛けられる。

嶋さんが店の前で僕を待っていたのだ。

「あっそうです。齋藤と言います」

「私は、嶋と言います。まだこの辺に幼児とかありますか?」

「いえ、そろそろ帰ろうかと・・・」

「もしよければ、うちに寄りませんか?おいしい紅茶をご馳走しますよ」

 こうして、嶋さんと一緒に」電車に乗り、マンションへの道をたどることになった。

 嶋さんは気さくな人で、オーケストラでチェロをひいているとのこと、地方公演から戻ってきたばかりでここ数日休みであること、今日出かけてきたのは高級スーパーで食材を飼うのが目的だったことなどを話してくれた。電車を降りると片手に傘をさし、片手にその高級スーパーの袋を下げて歩きながら、

「男一人の部屋なので、何もありませんが、」

「ぼくもおなじようなものですよ」

「我が隣人のメアリーに心を奪われているという事にしておいてくれてもいいですよ」

「メアリー?」

「一回A号室の彼女ですよ」

「神室さんの事ですか?たしか、お医者の・・・」

「そう。メアリーは私がつけた渾名。昔のB級映画に出ていた女優からとりました。サディスティックな役柄が得意な、スラブ系の美女です」

 たしかに、何度か姿を見かけた神室さんにぴったりな渾名かもしれないと思える。

 マンション一階のB号室は僕の部屋の真下で、間取りや内装はおなじはずなのに、まるっきり違って見えた。一言で言えば優雅な印象は、さりげなく置かれたチェロのせいばかりではない。

 間接照明のスタンド、深みのある色つやのサイドボードなどの一つ一つが、時間とお金、そしていい趣味のどれが欠けても得られない雰囲気を発散させていた。オーケストラ団員というのは特に羽振りのいい仕事とは思っていなかったけど、棒の勘違いなのかもしれない。または、それとは別の収入があるのかも。

 いずれにせよ、暮らしに困っている芸術家を援助するためのマンションというのはほんとに名目だけみたいだ。むしろ「オーナーの自尊心を満足させるために、本物の芸術関係の人が住んであげている」のかもしれない。

 見まわしている間に嶋さんが紅茶を運んできてくれ、僕はお礼を言って口をつける。 それまで抱いていた「紅茶」のイメージとは全然違う味だった。大きな柱時計、ぴかぴかの壜に入ったボトルシップ、猫の柔らかくピンと立った耳・・あこがれやなつかしさ、心地よさを掻き立てるいろんなものを一度に思い出させるような味。

 なんという銘柄ですか、とは尋ねないこととする。聞いても多分覚えられないだろうし、万一記憶に残り、どこかで出会ったとしても、きっと僕が買うのをためらうような値段だろう。

 嶋さんが僕を招待してくれた理由が想像できる気がした。アメリカ資本のチェーン店でチョコレートアイスクリームを食べているなどという、子どもっぽい場面を目撃されてしまい、それが本来のの姿ではないとアピールしたかったのだ。

「おいしいです」

僕が言うと嶋さんはさも当然というようにうなずき、

「それじゃあ、私の事ははなしたから、今度はあなたの事を聞かせてもらおうかな」

自分の家に来た成果、さっきまでよりくだけた口調になってそう言った。

「僕のこと?」

「介護の仕事をしているというのは聞いたけど、その他に何をやっている人なのか。このマンションに住んでいるからには、何か趣味があるんでしょう?」

 僕は写真の事を説明した。もちろんプロではなく、アマチュアの中でも本格的そんなに本格的にやっているわけではないこと、それが原因で前のアパートにいづらくなったこと、ふぢ宇山野の紹介でここにたどり着いたいきさつ。

「なるほどね」

嶋さんは聞き終わると軽く頷き、「そういう事なら乙種合格ってところだな」

「おつしゅ?」

「Bランク。何しろここはオーナーの方針で、よそではマンションを借りにくい芸術関係者を優先的に入居させるという建前になっているでしょう。

 、甲種合格つまり誰が見ても文句のつけようがなくその条件に当てはまると言えば、この私がそう。

プロの音楽家出し、どこでも楽器の練習が歓迎されるわけではない。

だからオーナーも私に敬意を払ってくれているというか、ここだけ特別にベランダの窓を取り替えて、防音性の高い二重ガラスにしてくれたりね。


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