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9月の恋と出会ったら  作者: 佐伯龍之介
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引っ越し②

「だって、それを言うなら、今この世界、『現行バージョン』のヒロタは別に恩人なんかではない。私達が、彼女を説得しない限り、彼女は何もせず、たとえ奇跡を起こす能力を持っていても、宝の持ち腐れです。

 今、齋藤さんが恩義を感じるとしたら、むしろこの私に感じなくてはいけない。これから先の働きに価値があるのは私のほうなのだから。齋藤さんは自分でやると言うけれど、こういうことは私のほうが上手に決まっている。理論的だし、仕事で人を説得し慣れている。」

 城田さんの言う通りだった。僕はうつむいて、子どものころに親に叱られた時のように、頭のてっぺんでその言葉を聞く。けれども城田さんは、怒った時の親より頑固ではなく、

「今のは忘れてください」

 いかにも自分が嫌になったというようなため息と一緒に、

「恩を着せるなんて最低だし、私は齋藤さんに何もしてあげていないのに」

「いいえ、そんなことは・・・・」

「ヒロタは齋藤さんのために奇跡を起こしたのにおこがましいですよね」

 さっきより大きな、自分自身を吹き飛ばしてしまうようなため息をつく。

「馬鹿のことを考えたこともある。もしかして、この私がヒロタだったら、旧バージョンの未来と過去をつなぎ、齋藤さんを助けたのが私自身だったらと」

 城田さんはまた目を伏せ、唇を強く結んで、

「ありえませんよね。いろいろな意味でありえない。私がB号室に引っ越すことも。

それには二年分の家賃を前払いしなければならないけど、私には三か月分だって無理だから」

 それは、僕も考えたことだった。そう、僕も、城田さんと同じ可能性をすでに考えていたのだ。

「それに、シュナとミサトのことも」

「えっ?」

 シュナとミサトとは、城田さんの部屋に飾ってある二体の美少女フィギュアの名前だ。いつか話に聞いた郷里の友達がプレゼントしてくれた、オリジナルのキャラクターだという。

「あのフィギュアがどうかしたんですか?」

「前に言ったでしょう、旧バージョンでのヒロタ、齋藤さんの命を助けた人物は、現行バージョンにおいて意識の表面ではそのことを忘れているはず。

 けれどもそれだけの強烈な経験は意識の奥に残り、何かの折にあふれ出すんじゃないか。夢に出てきたもう一人の齋藤さんが話をするみたいに。

 齋藤さんの夢とは違うけど、人形の類が部屋にあるなら、それが口を聴いてもいいはずなのに、私の部屋のフィギュアは口を聞く気配すらない。バウンティハンターのシュナも超能力女子高生のミサトも」 

 そこだけ聞けばおかしな人のような台詞を、城田さんは大まじめに口にしていた。

けれども考えてみれば、城田さんと僕の会話は最初からずっとそうだった。

九月の終わりに、私が「どうしてエアコンをつけたりしたんですか」と城田さんをなじった時から。

 「まぁ、こんなことを言っても意味はありません。この私がヒロタであるはずがない。人にはそれぞれ器というものがあって、小学校以来バスケットボールで一度もシュートを入れたことがないような人が奇跡を起こせるわけがない。

 でも、私は齋藤さんが好きだ。ヒロタが誰だったとしても、きっとその人よりも」

テーブルのむかいに座る城田さんが身を乗り出し、両手が僕のほうにわずかに動いた。

 けれど、僕は自分の手をさしのべて迎えはせず、城田さんの手もそれ以上動きはしなかった。

 ヒロタという見えない存在が、僕たちのあいだに腰を下ろしているみたいだった。透明なまぼろしがテーブルの上に横向きに腰をかけ、脚を組み、輪郭だけがかすかにわかるかげろうのような顔を城田さんと僕に交互にむけている。

 「引っ越さないで、ここにいてください」城田さんは言う。

けれど、僕と同じまぼろしを見ているみたいに、言葉にはさっきより力がなかった。

 「できません」

 「私は齋藤さんをビンタすればいいのかもしれない」高く澄んだ声、苦々しく聞こえる口調。僕や城田さん自身など、いろいろなものに腹を立てているような口調で、

 「行かないでよ。ばか。そう言って。もっといいのは、ここで齋藤さんを押し倒して、すごいセックスをして、私から離れられないようにすることかもしれない。もしそんなことができたら、できないってわかってるのに」

 僕は何も言えず、息を潜め、そこに座っていた。 

しばらくして、同じように黙っていた城田さんが視線を上げ、

「いつ引っ越すんですか?」静かに、穏やかに、そうたずねた。

「十一月の終わりに」

「じゃあ、もう少し時間がありますね?私たち二人でこのことを話し合う」

「えぇ」






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