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9月の恋と出会ったら  作者: 佐伯龍之介
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新生活

 こうして、8月上旬に僕の新生活がはじまった。

 わずかな家具や日用品、そこまで多くはない服、ほどほどの本やCD、カメラと現像道具などが、僕と一緒に新居に引っ越した。

 例年以上の暑さににへきえきしながら、少しずつ新しい街に慣れていった。これまでは電車に乗らなくてもよかったのだが、今度のマンションは電車に乗らないと帰れないのだ。勤めを終えた後、今までより電車に乗り、お洒落な店がないこともないけれど すぐに終わってしまう駅前商店街を抜け、家々や畑の間を歩いて、土や緑のせいで柔らかく感じられる空気を吸いながら、マンションにたどりつく。

  前と同じ家具が広い所に入っているので余白の多い部屋の窓を開け、何よりありがたい風を感じながら、

 ここで同じマンションに住んでいて、日々の鬱憤を抱えているはずの、マンションの隣人達について。

 どんな人たちなのか、はじめは全くわからなかった。入居時の挨拶まわりはしなかったから、鴻上さんに相談したところ「いいんじゃないですか。あそこは皆マイペースみたいだし、オーナーもそういう日本的な習慣は好きじゃないし」という返事で、省略したのだ。

 そういうわけで、一階の郵便受けに書いてある名前と数字とアルファベット

神室(1A)、嶋(1B)、城田(2A)というほかに情報がなかった。その中で、最初に顔と姿をそなえて浮びあがったのは、一階B号室の住人だった。

僕が買い物から帰ってきた時、その人が部屋に鍵をかけている所に、出くわした。大きな楽器ケースを抱えていたが、そうでなくても目立つ人だ。三十代、背は高く少しだけ太っていて、やや上向いた鼻の下にちょび髭をはやしている。

 一瞬目が合い、自己紹介しようと思ったが相手が急いでいるようだったのでやめておき、軽く会釈だけしてうしろ姿を見送る。

 不動産屋の鴻上さんから「オーケストラでバイオリンの大きいみたいなのを弾いている人」が居ると聞き、ひと回り大きい楽器(ヴィオラだっけ?)を想像していた。男性が抱えていた楽器ケースは子どもが一人入ってしまうほどで、それとは違うようだったけど、とにかく僕の真下に住む嶋さんがオーケストラ団員に間違いないようだった。

 あとは何度かベランダから姿を見かけた印象的な女性が、一階A号室の住人、神室さんであるらしかった。やはり三十代で、美人だった。それもただならぬ迫力のある。後ろに束ねた長い黒髪、目の吊り上がったきつそうな顔立ちといい、全体的に引き締まり、かつ豊満で立体的な体つきといい。

 このマンションの入居条件として「よそで部屋を借りにくい人」というのがあった。

一階B号室の嶋さんに関しては、理由は楽器だろうけど、この人の場合も見当がついた。犬を飼っているのだ。それも大型犬、レオンベルガー。

 僕が見掛ける姿は、いつも犬を散歩に連れ出すところか、その帰りだったが、犬の大きさや無愛想な顔、薄青い瞳が、神室さんなる女性の眼光の鋭さ、大股歩きの歩き方などに似合いすぎるくらい似合っている気がした。

 残るひとり、二階A号室の「城田さん」に関しては、引っ越してから半月程の間一度も姿を見たことがなかった。とはいうものの、この人の存在を一番強く感じていたともいえる。

 このマンションは普通以上に防音がゆきとどいていて、ほかの住人が室内でたてる物音がまず聞こえてくることはまずない(真下で嶋さんが弾いているはずの楽器の音さえ聞こえたことがない)。けれども、二階の通路を歩く足音、A号室の玄関ドアを開け閉め数る音などは、こちらのドアを通して伝わってきた。

寝室でなくリビングにいれば、「隣の人が出ていった」あるいは「帰ってきた」ことが自然と耳に入ってくる。 

 そういう音が伝えるところでは、この人は土日を除く毎朝、僕が起きて朝食の支度にとりかかる頃に部屋を出てゆき、帰ってくるのはたいてい八時半とか九時の間。もっと早いことも時たまあり、もっと遅いことはちょくちょくあるが、しょっちゅうというわけではない。 

 鴻上さんによると、僕以外の住人は、オーケストラの楽器演奏者のほかに「お医者さんと普通のサラリーマン」、三人のうち二人が女性という事だった。一階の神室さんが女医、隣の城田さんも女性で会社員。そういう事なのだろう。神室さんの雰囲気からいっても、隣の住人の規則正しい出勤ぶりからいっても。 

「隣の城田さんって、どういう人なんだろうね」

 ある朝、城田さんが出勤してゆく足音を起き抜けのパジャマ姿で聞きながら、「気になるから、三十分早起きして家を出てみようか」などと一瞬思ったが、僕は首を左右に振る。とんでもない。



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