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9月の恋と出会ったら  作者: 佐伯龍之介
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嶋さん再び

 ぎっしり詰まった満員電車の中でふいに僕が消え、一瞬だけ残った僕の形の空間が、砂地にこぼれた水のようにみるみる周囲に吸い込まれる。そんな空想にとらわれたりした。

 たった一つの現実だと思えた日々が、実際には二度目、オリジナルの『旧バージョン』に手を加えた『現行バージョン』みたいなものだった。ヒロタが鑑賞してきた九月一日以降は。そしてもともとの『旧バージョン』では、九月二十九日、移行には僕はいない。

 そのことを繰り返し考えた。その方がよかったのではないかとも、仕事は同僚に処理された方がうまく運んだかもしれない。レモンはほかの客に買われた方が幸せだったかもしれない。たとえ僕一人分でも朝の電車がすいていた方が、みんなが少し快適で、ほんの少し、一日をすがすがしく始めることができたかもしれない。

 自分が場違いな存在、闖入者のような気がした。幽霊になったような気がした。出なければプロデューサーの気まぐれで突然大きな役に抜擢された、身の程しらっずの大根俳優のような。

 もしも本当に、ひろたのしたこと、その結果起きたことが城田さんの手紙にあった通りなら、取るに足らない僕一人のために、世界そのものが『やり直し』をしていることになる。

あまりにも大それていて、ヒロタ・・・正体不明の未来の誰かを責めたいような気持にもなった。とはいえ、そんな風に感じるのは主に昼間、仕事や買い物をしたり電車に乗ったり周囲に人がいる時のことだった。

 一人でいる時、それもマンションの部屋に居る時は、理不尽な恐怖にいきなり身体をわしづかみにされているような気がした。特に夜は。ベッドの中で歯を食いしばり、必死に天井を見つめていることもあった。出ないとそれが落ちてくるとでも言うみたいに。

 そんな夜には、とにかくいきていられてよかった、そう思い、涙さえ浮かべヒロタに感謝する。 罪悪感のような居心地の悪さと恥も外聞もない安堵。その間で揺れながら、どうしても必要な恋買い何もしない日々を送っていた。半分しか生きていないような気がした。一日に口にする食事が、職場の同僚と食べる昼食だけということもあった。

 そんな日々に考えるのはヒロタ、僕にとって恩人でもあり、頭痛の種でもあるたった一人の人物のことだ。城田さんの言う『マグカップ一杯分の奇跡』を起こしたヒロタ。そして城田さんによれば、僕がすでに知っている、どこかで出会っているはずの人。

 僕とどんなかかわりのある人なのか。そして、どうしてあんな大それたことをしたのか。

城田さんの手紙を読んでから、一週間後。仕事が休みで、マンションに一人でいる気はせず、と言って遠くへ出かける気力もなく、駅前あたりをふらふら歩いていると、「おっ、久しぶりだね」と声を掛けられる。

 一階B号室の嶋さんだった。少し図々しいくらいの陽気さが懐かしく、誘われるままにコーヒーショップに入る。いつか僕が一人で入り、スケッチブックを持ったオーナーと出会った店だ。

「何か、感じが変わったね」◎テーブルをはさんで嶋さんが言う。

「そうですか?」

「前より大人びたように見えて、ちょっと見違えた」

「そんなことないですよ」

嶋さんは言い、僕は笑った。

 「神室さんとはどんな感じなんですか」僕は不意にたずねる。嶋さんには好意を持っていた。一方神室さんのことは素敵な女性だと思い、なるべくなら二人がうまくいってほしいと思っていた。

「どうもこうも、なかなか難しいね」というのが嶋さんの返事。

「だいぶ前に、神室さんと話したんですよ。土手のところで」

「あぁ。犬を散歩させていたんだろう」その口調がいつもの嶋さんと違って聞こえた。どこか声に力がなく、気弱な感じ。

「もしかして、犬が苦手なんですか?」

「うるさいな」図星らしい。「あの種族とは、子どものころからちょいといろいろあったんだよ」

「なかなか難しい、って言っていたのはあのいぬのせい?」

「馬鹿な事を言っちゃいけない」

 嶋さんは、一蹴して話題を変え、しばらく僕の仕事関係、年末年始に温泉に行くとしたらどこがおすすめとかと言ったことをあれこれ訪ねてきたが、

 「似たようなものなんだよ」話が途切れたときにいきなり言った。「私にとっての犬と、彼女にとっての男は」

 男の人が苦手、ということ?あの神室さんが?

「もう十年近く前のことが尾を引いているらしい。駆け出しの医者だった彼女が、上肢にあたる先生から研究論文の聖書か何かを頼まれた。詳しいいきさつは知らないけれど、他人には見せられない大事な書類を保管していたのを前の恋人、その時にはもう別れていた男が盗んだそうだ。彼女の留守に、こっそり忍び込んで」

 「忍び込んで・・・」

「そう。かのじょいわく『成り行きで付き合うようになった』パッとしない男らしい。付き合っている時に部屋の鍵を渡していて、別れる時に返してもらったというけれど、もちろん男の方は合いかぎを作っていたんだね。

 盗んだと言っても持ち出したわけではなく、すぐそのことがばれないように一ページずつ写真を撮ったらしい。だけどそんなことをするには時間がかかるよね?」

 もちろん、そうに違いない。

「その間に彼女が帰ってくればおしまいだけれど、彼女はちょうどデートをしていた。同じ職場に転勤してきたかっこいい男から誘われ、夢見心地で食事やらなにやらしていたらしい。都合よくその日に、前の男が忍び込んだというわけだよ」

 「それって、つまり・・・」

 「そう、その二人が示し合わせていた。どちらも彼女の上司のライバルとつながりがあり、かっこいい男の方はいわば餌というわけだ。

 彼女は職場でまずい立場に置かれた上、自己嫌悪にも陥った。男はこりごり、そう思ったと思うよ。顔のいいのも悪いのも、その中間も、まとめて全部たくさんだと」

 僕はどう応じていいかわからない。神室さんの過去のエピソードは、僕に最近起こった(と城田さんが推測している)ことの裏返しのような話だったからだ。

 「もし、誰かがタイムマシンを発明して、私に一度だけ使わせてくれるとしたら」

嶋さんがそんな事を言い、、僕の動揺に気づかずに先を続ける。

「その前の日くらいに行って、男二人を探し出してぶん殴って、足腰立たなくしてやるんだけどな。

 それで今の彼女が楽になるなら。結果として彼女が付き合う男が私じゃなくても構わない・・・そんな風に思うことがあるよ」

 「男性、女性に関わらず、そういうものですか?」

 僕はたずねる。失礼ないいかただったかもしれない。けれども嶋さんは怒らず、

「そういうものだよ」穏やかに言った。「よく女の人はけんしんてきだっていうけど、女の子の場合はあれだよね、相手に見える形で尽くす。こんなに尽くしてる私を見て、というところがどこがにあるんじゃないか。

 だけど男はそうじゃなく、相手の知らないところでひそかに尽くす。そのことにロマンを感じる」

「ロマン?」

「まぁ自己満足かもしれないけど、男の方がそういうところはあると思う」と嶋さん

「もちろん、だれにでもじゃなく、それだけ惚れ込んだ相手にはということだよ」

「それだけ惚れ込む・・・というのは、やっぱりよく知っている相手でしょうか?」

ぼくはたずねてみる。すると、

 「付き合いが長いとか、深いとかいう意味なら、そうとは限らない」という返事。

「短いあいだや、ほんのちょっとしたきっかけでも、十分ありうると思うね」

「その人のために奇跡を起こしたい?」

「そりゃ、そうだよ。男は皆奇跡を起こしたいと思っている。好きになった女の人のために」


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