未来の城田さん②
「答えは簡単、尾行する相手は私なんです」
「えっ?」
「と言っても今話しているこの私ではなく、齋藤さんと同じ時間を生きているもう一人。私からすれば過去の自分ということになります。
齋藤さんのいるところから通路を隔てたA号室に、今まさにいるはずの女。会社員の城田かおる、ひらがなで『かおる』です」
「あのぉ・・・」
「おとなしいですよ。本人が言うんだから間違いない」
僕の混乱をよそに、相手は涼しい調子で続けた。
「かりに、尾行に気づかれたとしても・・気づかれないでやっていただきたいのはもちろんのことですが、不運にもそういう状況に陥ったとしても、齋藤さんが声を上げられるなんてことはありえない。
齋藤さんもうなずいてくれるじゃないですか?会った時の印象で」
確かに、おとなしい『声を上げる』なんてことができる人とは思えない。
けれども、僕はふと思う。あの時の城田さんのおどおどした様子と今エアコンの穴から聞こえる声がとても同じ人だとは思えない。
「おかしいとお思いでしょう。字本を尾行してほしいなんて」
声は相変わらず、余裕のある調子で続ける。
「ただ、現在私が陥っている状況・・大変深刻な、困った状況を打開するためには、それが何としても必要な事なんです。
今の私にはそれが分かっていますが、だからといっていかんともしがたい。そちらへ行って過去の自分を尾行するなんて無理な話ですからね。
そこで、願ってもないこの偶然を利用したい。当時の齋藤さんと話ができるという奇跡に便乗したい。そういうことなんです」
「でも、僕・・・」
「もちろん、毎日なんて図々しいことは言いません」
たった一回だって引き受けたわけではないのに、相手はそうたたみかけてくる。
「週に一度、休みの日で構いません。齋藤さんはシフト制の休みでしたよね?」
「えぇ、ですが・・・」
「休みの時で構いません。すみませんが一年前の私、そちらにいる城田を尾行していただく。お願いとはそういうことです。
朝の出勤からはじめて、私が営業で出かける先へついていく。そのばしょごとに、たしかにそこへ行ったということを、得意のカメラで記録してきてほしい」
「写真を撮るということですか?」
「そうです。いやぁ、私は幸運ですね」
相手はいけしゃあしゃあとそんな事を言う。
「齋藤さんみたいなおあつらえ向きの人にこうしてお願いできるんだから。同じマンションの隣に住み、写真が趣味で、しかもまじめでしっかりしたひとに」
「どうしてそんなことがわかるんですか?」僕は思わず口にしていた。
「『まじめでしっかりとした』という部分のことでしょうか?」
「えぇ、だって城田さんとは話をしたことも・・・」
「いやいや。それは、二〇〇五年九月初めの齋藤さんと、当時の私が話をしたことがないというだけで」
「二〇〇六年の城田さんはそうではないと?」
「まぁ、そんなところです。ややこしい話ですよね」
僕の頭に浮かんだのと同じ言葉を相手が言った。
「齋藤さんが今話している私と、そちらにいる一年前の私。どちらも同じ人間でありながら、別の存在ともいえる。
一年よけいに生きている私は、もう一人の知らないことを知っている。この壁の穴の秘密がそうだし、また齋藤さんに私の尾行をお願いせざるを得ない事情・・・
ただ事でない事情についても、そちらの城田は一切あずかりしらず、その意味では暢気に暮らしているんです。だから、こうしましょう。区別のために、呼び名を考える」
「呼び名?」
「えぇ。齋藤さんにとって城田というのは、ご自身と同じ時間軸、二〇〇五年のA号室にいる女の事でしょう?
だから私の事は別の名前で呼んだほうがいい。混乱を避ける為です。そうですね、『ヒロタ』というのはどうでしょう?」
「ヒロタ?」
「先週、齋藤さんが私をそう呼んだんですよ。初めて話したときに」
そうだった。今と同じ声が、聞き取りにくい早口で名乗り、「城田です」と言ったはずが、僕にはそう聞こえたのだ。
「せっかくだし、それを流用しましょう。本名の城田と似ているし」
「では、いいですね。私、すなわちヒロタが城田の尾行を齋藤さんにお願いする。そういう事です。で、その際、気を付けていただくポイントは・・・」
「ちょっと待ってくれませんか」僕は慌てて、「引き受けるとは言ってないのですが・・・」
「あれ、そうでしたっけ?」
「えぇ」
「それはこまったなぁ。一切引き受ける気はないということでしょうか?どんなに頼んでも?」
「いえ、そこまでは・・・」
「大事な意味のあることなんですが。それはもう、非常に大事な」
「そんな風に言われても、まずはその・・・」
その大事な事情とやらを話してもらわなくては。僕がそう言いかけるのに、
「おそらく何かこう、尾行というと」相手は聞かずに言葉を重ねる。
「他人のプライバシーを侵害するような、人聞きの悪い印象を持ってためらってしまうのでしょうね。
ですがこの場合は、尾行対象と同一人物、一年後の私が是非にとお願いしているんです。勝手に覗き見るのとはわけが違う」
「たしかにそうなるのかもしれないですが、やっぱりそうはならないと思いますよ」
相手が未来の自分でも、こちら側の城田さんからすれば「勝手に覗き見られている」ということになるのではないか?
「ともかく、もう少し説明をしてもらわないと」僕はそう訴える。
「どうして尾行をしなければならないのか。ただならぬ事情というのは何なのか。ただ、『大事なこと』われて、『あぁ、そうなんですね』というわけには」
「なるほど、ごもっともですね。それでは・・・・」
声の主 (ヒロタ)が」事情なるものを説明してくれると思ったのに、「まずは一回だけ試しにやってみていただくわけにはいきませんか?」
続いて聞こえてきたのはそんな言葉だった。
「齋藤さんの気持ちはわかります。とはいえこちらも、事情をすっきり打ち明けたあとに断られたのでは割りに合わない。そうではないですか?
だから、一週間分の見出しに免じて、私たちが今こうして話しているという一種の軌跡に免じて、一度だけやってみていただけないでしょうか?」
「あのぉ・・・」
「来週の休みの日、昼間の間だけで構いません。城田を尾行してもらって、夜九時になったらまたこうして話をする。
尾行の首尾を聞かせてもらい、わたしの方からは事情を説明する。こんな形でどうでしょう?そうしてもらえれば感謝します。心の底から」
最後の言葉は壁に空いた穴からまっすぐに僕の耳、そして胸にまで響いてきた。
その言葉の力と、ほんの少しの好奇心 (どういう事情なのか知りたい)に引きずられ、
「わかりました。とりあえず、来週だけ・・・」
「『とりあえず』来週だけ。そういう事でお願いします」
ヒロタは納得したようにそう続けた。
「その後のことは、また来週話し合う事にしましょう。。とにかく、ありがとうございます。恩に来ます。ちょっと失礼します」




