⑨ ■■■■■■■・■■ナディ
時は遡る。
現在は未来となり、過去は現在となる。
──それは一人とヒトリしか知らない物語。
※ ※ ※ ※ ※ ※
どこか無機質な光が灯る部屋で、彼は簡素なベッドに寝転がっていた。
両手を胸の上で組み、目を瞑っている姿は、すでに永遠の眠りについた後のようでもある。
ゆっくりと闇が世界を覆う中、密やかに部屋に忍び込んだ影は、その姿に一時だけ静止した。
ほんの少し躊躇したような、少しだけ何かを待ったような、わずか一瞬だけの動作。
その刹那、静かな室内に声が流れた。
「……また、か?」
唐突にかけられた短い言葉に、けれど侵入者は驚かなかった。
相手の放つ力無い声は、無関心さの表れだ。言葉を省略されているので分かりにくいが、こう言いたいのだろう。『また来たのか』と。
もしくは──『またお前か』と。
「また、と言われましても。まだたったの……八度目ですよね?」
「……それのどこが『たったの』なんだ……」
ベッドに転がっていた青年──アルトリートは、ぼやくように呟き、ゆっくりと体を起こした。
そのままぼんやりと部屋を見渡し、何かを確認する。
部屋の中は、彼が目を閉じた時よりも紋章珠による明暗がハッキリとしていた。
──夜が来たのだ。
数秒だけその様子を眺めていたアルトリートは、音もなく現れた侵入者に視線を向ける。
どうでもよさそうな顔で言った。
「……ボクに、まだ何か用なのか?」
その声に、影──ポテトはゆっくりと床に降り立った。
実際に降りた瞬間よりも後に、コトリ、と思い出したかのように音が主を追う。珍しく、『無』に呑まれなかった音があったようだ。
(……影響力に、乱れが生じていますね……)
その音に、常なら均一に制御している力が、ここにきて不安定になっているのを感じた。それはすなわち、強大な力をコントロールしきれていない、ということだ。
(少し、魔法を使いすぎましたか……)
ここ最近を思い出し、ポテトはほんのわずか、自嘲した。
強すぎる力は災いを呼び寄せる。
魔法というものがお伽話にしか存在しなくなって久しい今、一つの魔法を使うには、三つの『目隠し』魔法も同時に使わなくてはならなかった。
だが、ポテトにとって魔法とは諸刃の剣だ。
自分の気分や感情だけで行使するものならばともかく、そうでないものは臓腑を灼き、血肉を食い破る。それを押して使い続けた結果が、今の状況だ。
(……ですが、これで最後です)
ポテトは前に座る青年を見下ろした。
死刑囚を閉じこめるための『西の塔』。牢の中で最も厳しい警備のここに、ポテトは何度も足を運んでいた。
正規の手続きをとった訪問で無いことは、アルトリートにも分かっているのだろう。
それどころか、常識的な手段ですらない。
そのことに慣れつつある己を自覚してか、アルトリートはなんとも言えない嫌そうな顔をした。
「……あんたは、よほど暇なんだな」
そうかもしれないと、ポテトは思った。
あちこちに分身をばらまいたり、気になる気配を魔法で探ったりとなかなかに忙しいのだが、その一方で間を見つけてはここに来てしまうのだから、自分はきっと暇なのだろう。
(暇……暇つぶし、ですか……暇つぶし……ダメですね。これでも発動の条件にはならない……)
魔法を構築する様を一瞬だけ想像し──倒れる自分を予知して嘆息をついた。
自分のためだと心底思えなければ、全ての魔法は破壊の刃を生む。──まだ死ねない。その思いがあるうちは、危険を冒すことはできなかった。
「それなりに期待してたんですけどね……」
「……いい加減、人の話を聞く気がないのなら、来るのをやめてくれないか」
思わずぼやいたポテトに、少しだけうんざりしたようにアルトリートもぼやく。
ため息は、何故か同じタイミングだった。
「なんというか、どうしてこう……諦めのいい人はとことん諦めがよくて、諦めが悪い人はとこっっとん諦めが悪いんでしょうねぇ……」
「せめて最後に何しに来てるのか説明しないか? ……正直うんざりしているんだが」
「いえもう、なんていうかね……ああでも、時間がもうあまりないですから、どうやっても最終手段なんでしょうね」
「……いい、もう……帰れ」
とことんかみ合わない会話に、アルトリートは脱力して手を振った。
今は夜。
朝になれば、最初で最後の朝陽を拝むことになる。
──明日が、処刑日なのだ。
「バルバロッサ大神官から処刑の日時については聞いている。おそらく、おまえ達が警戒していただろう暗殺者も、もう来ないだろう。……最後の夜ぐらい、一人で過ごさせてくれ」
「……あやや。あなたはちゃんと気づいてるんですねぇ」
「暗殺者のことか?」
ポテトの言葉を鼻で笑って、アルトリートは秀麗な顔立ちを歪めた。
「あの公爵のことだ。消しに来るのが当然だろう。屋敷の中に隠れてた奴等のうち、何人がボクを消すための者だったのか……もしかすると、全員なのかもしれないな」
よく理解しているな、とポテトはやや皮肉な思いで苦笑した。
アルトリートは決して馬鹿ではない。
ある意味においては愚かだったが、頭が悪いわけではないのだ。
けれどいつだって、人は同じものに気づき、同じものを見ているわけではない。
視点の違い、考え方の違い、思いの違い、過去の違い。数多くの相違によって、まったく違うものを見、別のものに囚われ、視野を狭めたり広げたりする。
アルトリートの視界は、貴族として正しく、王族としても申し分ない。
けれどたった一つ、彼の半身とも言える人に関することだけが、彼の視る世界を極端に狭めてしまったのだ。
「……あなたの大親友くんは、ちっとも気づいてないんですけど」
「……。──あの馬鹿と一緒にするな」
一瞬だけ思考を止め、けれどすぐに力無く吐き捨てた相手に、ポテトはふと苦笑を浮かべ──次いで小さく嘆息した。
(……『足りる』でしょうか……)
そんなことを思った。
(……微妙なところですね)
答えはすぐに出た。
(けれどもう、方法があまり無い)
ポテトの思考は、ポテトにしか分からない。
見ている場所が違い、分かっていることが違いすぎるため、誰も彼の思考を理解できない。
ポテトはそれでいいと思っていた。『意味のある言葉』を口にすれば、世界に新たな変化が起きる。それは必ずしも良いものだけではない。
ポテトは頭の中にイメージを浮かべる。
組むべき術式。付加すべき事柄。それらを念頭において口を開く。
「『私は──』」
強い意志を乗せた声で。
「『──魔法を使えます』」
──言えた。
ポテトは思わず大きく目を瞠った。
それが意味するところは──即ち、実行の『可能』と『成功』の確立。
(……けれど)
その瞬間、わずかに胸が痛んだような気がした。
(それでは……)
望みの一つが叶うと分かっても、心が浮き立つことはなかった。
それは『術式』が正しく発動して成功を収めるというだけのこと。『奇跡』を起こせるという事実を掴んだわけではない。
思わずジッと見つめてしまった相手は、なにやら気味の悪そうな顔で言った。
「……それがどうしたんだ?」
端正な顔立ちに、柔らかいがゆえにクルリと丸くなってピンピンあちこちに跳ねている癖毛。その髪を見て小さな『子魔女』が『クリンクリンさん』と呼んでいたのを思い出す。
(……この子が助かれば、あの子も喜ぶでしょう)
菫色の小さな幼子。すぐにそれは別の人の顔になる。非常に整った顔立ちの、いつもどこか憂い顔でいた愛しい名付け子。ずっと見守り続けていた愛し子の顔は、また違った人の顔になる。
……誰よりも愛しい、自分にとっての黄金の魔女。
まるで泉から水が溢れるように、次々に人々の顔が浮かんだ。
愛しい魔女と同じ血を持つ一番若い王弟。その王弟を守ろうとしている赤毛の勇猛な姫。愛し子といつの間にか友誼を結んでいたらしい、人間にしておくには惜しい巨躯の大神官。自分の父にどことなく似た、ちょっと間が抜けているぐらいお人好しの宝飾技師。
喜ぶ人は沢山いる。喜ぶ姿を見るのは楽しいことだろう。だからそれを思って口を開いた。
けれど──
「『あなたは── 』」
──助かるでしょう、と。
口に出して、言えなかった。
誰かを操るための言葉遊びでなく、真っ直ぐに『<起こりうる事実>を語ろうとして口にできなかった言葉』は──絶対に『現実にはならない』。
本当のことしか口にできない、ということが、どれほど残酷なことなのか……分かる『人』はいないだろう。
──唯一人、もう一人の自分とも言うべき愛し子以外には。
(……嗚呼。だから嫌なんです)
この力が。
この在り方が。
自らを誤魔化すことも、騙すこともできない。希望を持つことなど決してできないこの特性に、どれだけ嫌な思いをしてきただろうか。
「……ボクが、なんだって?」
こちらの事情を知らないアルトリートは、ただ不審そうな目でポテト見ている。
ポテトは笑った。口の端を上げて。
あらゆる言葉を瞬時に頭の中に組み立てて、口にしようと意志をこめて、愛おしく思う人々が願うだろう沢山の『希望』を片端から試す。試す。試す。
唇が動いた。
いくつもの試算を繰り返して。
声が紡がれる。
「『あなたは』『明日』『死ぬでしょう』」
それは決して変えられない、世界が認めた『現実』だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
「……そんな、最初からわかっていることを言いにわざわざ来ていたのか?」
不審そうな目から無関心な目に戻って、アルトリートは嘆息をついた。
ポテトはそんな相手をジッと見る。
アルトリートは知らない。今も、世界に対し、『可能な現実』を試していることなど。
「『けれど』『あなたの肉体は残ります』」
試して試して試して試して。残った結果を口にしながら、ポテトは(やはり)と内心でため息をついた。
最後にコレが残った。それしか残らなかった。
あとはただ、人の子が起こす奇跡にかけるだけ。
「契約をしませんか? アルトリート・ジュダ・フォルスト・レンフォード。『あなたの死によって残るその肉体を使わせていただくかわりに、あなたの願いを一つだけ叶えましょう』」
※ ※ ※ ※ ※ ※
しん、と牢の中に静寂が落ちた。
しみじみとこちらを見てくるアルトリートの目は、どういうわけか少しだけ呆れが含まれていた。
「……あんたは、よほど契約とやらを結びたいんだな」
「……別にそういうわけではないんですけどね」
なんだかそういう風に言われると、ちょっと今自分が頑張ってるのが悔しくなる。
「けれど、ちゃんとしておこうと思いまして。あなたの名前も、あなたの魂も、あなたの肉体も、他の誰でもないあなただけのものです。それを勝手に使うことはできないでしょう。だから、あなたの遺骸を使わせていただくのなら、あなた自身の承諾が必要なのです」
「……変な筋の通し方をするんだな」
「大事なことだと思いますけどね」
相変わらず呆れ顔の相手に、ポテトは少しだけ複雑な顔で言った。
「死んだ母が言っていました。人の死には最大の敬意を払いなさい、と。命ある者は、生まれた瞬間から死に向かって進んでいきます。決して踏みとどまることのできない道を、その先に死という断崖絶壁が待つのを知りながら、歩むのが定めなのです」
「…………」
「生と死は、全ての存在にセットでついているもの。決して切り離すことができないものです。生を理解するということは、死を理解するということ。死を尊ぶということは、生を尊ぶということ。そして、最も生を理解しているのは、最も死を理解している者です」
その言葉に、今度はアルトリートの方が複雑そうな顔をした。
昔の記憶を引っ張り出してでもいるのか、眉間に皺を寄せてポテトをマジマジと見ている。
探していた記憶は見つかったのか。奇妙な顔になってしみじみと呟いた。
「……コレを夫に望んでるのか……」
「……なんです。その、どことなく哀れみの入った眼差しは」
「……単純そうに見える関係のほうが、実は複雑だったりするのかもな……」
「なに分かったような顔で言っちゃってるんですか。って、しかもそのまま眠ろうとします!? そこ!」
「……あんたの相手は疲れるんだ……」
ごろりと力無くベッドに転がり、こちらに背をむけた相手に、ポテトは「はぁ~」と力一杯ため息をついた。
「あぁもう。どうしてこう最近の『人の子』は諦めが早いのと悪いのとが両極端になってるんでしょうかね!」
「……最初から希望なんて無いだろうが」
あっさりと言う相手のある意味揺るがない姿勢に、ポテトは半ば感心し、半ば呆れた。
背を向けたままでアルトリートは言う。
「最初から自分は死ぬと決めている。余計なことを言って惑わすな。……希望を与えるほうが残酷なこともあるんだ」
死を覚悟し、受け入れた瞬間に、人の心は不思議と凪ぐ。
だが、助かるかもしれないと思った瞬間に、その心は荒れ、他から見れば見苦しいほどに希望に縋りつくようになる。
だから惑わすな、とアルトリートは言っているのだ。
「……惑わそうと思って言っているのでは無いのですけどね」
なんとなく嘆息して、ポテトはふわりと浮き上がる。
実のところ、無の力を制限して地上に降りているよりも、中空に浮いているほうが彼には楽だった。
「魔法使いの『従者』というものをご存じですか?」
「……お伽話の世界だな」
「まぁ……今の時代ではそうですね」
頷き、ポテトは浮いている自分の真下を見る。およそ人の影とは思えない真円の影がそこにあった。ちょいちょいと指で招くと、影からぴょんと白い手が飛び出してくる。
手だけが。
「かつて古の『真なる魔女』が行った魔法の一つに、他者を己の従者に変えるものがありました」
手首のあたりで切断されたようなソレが、ちょこちょこと指で歩き出す。
「その者が本来持ち得ない強大な力を与え、己の魔法行使権の一部をも貨し与え、全ての基礎能力を飛躍的に上昇させる魔法……その魔法で作られた存在を、魔女の『従者』と呼びます」
「……魔女のためにある召使い、というやつか」
「ええ」
頷いて、ポテトは軽く笑った。
「無敵に近い力と、永遠に近い寿命を得ることばかりが伝わって、その本当のおぞましさが伝わることの無かった魔法です。……知っていますか? 人の記憶とは、その血肉にも宿るのだということを」
器用に指で歩いていった手首は、簡素なベッドによじ登る。
「人の血肉に宿った記憶は、その血肉が変化することによって千々に千切れ、変化し、時に消滅します。人の魂は肉の器に宿るもの。その者が本来持ってはいない強大な力を与え、肉体を変化させれば、それに引きずられるようにして魂はあっという間に別のものへと変化します」
アルトリートは口を挟まない。
ベッドに登りきった手首は、じわじわと獲物を狙う狩人のように用心深く、その背中へとにじり寄って行った。
「血肉に宿る記憶すらも失い、魂の形すらも変わってしまったそれを……変化が起きる前の人物と『同じ』としてとらえることなどできません。血肉は闇の領域。私はその領域を支配する者です。人によっては、原初の神の力と呼ぶ者もいます。ですが、そういった『現象の力』を行使しても、それを防ぐことはできません。──人の魂とは、脆く儚いもの。器を変えれば、必ずその魂は変化する。……転生と呼ばれるものの原理です」
ポテトは言葉をそこで区切り、アルトリートの背に近づく手首を見つめながら、ゆっくりとした口調で告げた。
「『従者』となった者は、それまでの者とは別人になります。その記憶も思いもなにもかもを失って、ただ魔女の命令に従う召使いになる。──それが、魔女の従者と呼ばれる者の本当の姿です」
それを知らずにこの魔法を受けた者は、魔女の意のままに動く人形と化すだろう。
魔女は魔女のためにしか魔法を使えない。
魔女の分身ともいえる従者は、その身そのものが魔女のためのもの。そのため、魔女はこの従者のためには魔法を使えるし、従者は『真なる魔女の呪い』を受けることなく、己の主である魔女から貸し与えられた魔法を使うことができる。
魔女にとっては、これ以上ないほど優良な道具。
だが、従者となった者は──ただ、消滅し、操られるだけの哀れな奴隷だった。
「あなたは明日、死を迎えることを承諾した」
相手が言葉を理解するのを待ってから、ポテトは言うべき言葉を続ける。
「その死の後にこの世に残される肉体を私に貸し与えてくださるのでしたら、私はあなたに誓いましょう。来るべき時、来るべき場所で私の願いのために働く『従者』となる代わりに、『従者』に与える命令の第一項にあなたの願いをもりこむことを」
手首は「ぐっ」という感じに指に力を入れた。跳躍するタイミングを狙っている。
アルトリートの身体がわずかにこちらを向いた。
「……それは、つまり、死んだボクの体が亡者となって、あんたの手下になるということか」
「ええ。そのかわりに、その体はあなたの願いを叶えるでしょう」
ポテトの言葉に、アルトリートは皮肉げな笑みを浮かべた。
「願いと言っても……」
その瞬間、手首が跳ねた。
「うわ!? ああ!?」
ピョンッと飛び上がった手首は、そのままアルトリートの視界を横断し、向こう側にペタンと落ちる。
すぐさま指で方向転換するソレに、仰天したアルトリートが跳ねるようにして逃げた。
「なんだコレどわッ!?」
「……まぁ、狭いベッドで逃げようと跳ねれば、普通、床に落ちますよねぇ……」
見事に肩から床に落ちたアルトリートに、空中に浮いたままポテトはしみじみと嘆息する。
手首はベッドの端ににじり寄り、そこから床に落ちたアルトリートを狙っていた。
「なんだソレは!」
「『手』です」
「見ればわかる!」
痛む肩を堪え、じりじりとベッドから距離をとるアルトリートに、ポテトはやや面白そうな顔になって言った。
「ですけどねぇ、本当に『手』と呼ばれる生命体なんですよ。ちなみに、彼女達は通称『魔導人形』と呼ばれています。生きた血肉ではなく、人形に人の魂を宿らせたもののため、『従者』とは定義が異なりますが、どちらも等しく『魔女』に仕える者です」
「彼女『達』!?」
その言葉に不吉なものを感じ取ったのか、アルトリートはバッとポテトの方を振り返った。
宙に浮いてるポテトの下、なぜか真円の影から、わらわらと白い指が出ている。
──と思ったら引っ込んだ。
「……おや。見つめられて恥ずかしかったようですね」
「!!!」
総毛立って影を指さす相手に、ポテトはクスクス笑った。
「彼女達もまた、己の過去をほとんど知りません。取り出された魂が新しい器に入るとき、器が魂の形に引きずられて変化しないよう、忘却の魔法をかけられているからです。『従者』の魔法とは逆ですね」
声もない相手を見つめながら、(ならば)とポテトは思う。
もし、処刑された後の肉体を『時間を止め』『従者化』する時、魂に忘却の魔法をかければどうなるのだろうか、と。
真っ新になった魂は、最初から形を持っていない。変化した器によって引き起こされる魂の異形化は、忘却の魔法で防ぐことができる。
では忘却の魔法で失ったはず記憶が、後に蘇ることがあるのか、と自問すれば、ある、という答えを口にすることができるだろう。
無論、確実ではない。千人に試しても一人いるかいないかの確率だろう。だが、それでも「ある」と口に出して言うことができる。
なぜなら、現に一体、実例がいるのだ。
そう──目の前に。
「彼女達の力は、一体一体では微々たるものです。もともと魔女の世話役として創られた生命体ですので、他者を害したり何かを守ったりといった行為は不得意です」
ベッドの上、かつての己を取り戻した唯一の『手』は、うなずくようにグッと握り拳を作る。
「ですが、意識の共有化により一人が知った情報を全員が所得したり、小柄である身体を生かしてどこにでも忍び込んだりできます」
アルトリートが愕然とした顔で「小柄……」と呟く。
小柄だろう。なにせ手首から先しか無いのだから。
「彼女達も『従者』の配下となります。その力を用いれば、できることも増えるでしょう。……あなたの望みを叶えるのには、好都合かと思いますが」
ポテトの言葉の後、『手』がピョンッと飛び上がり、アルトリートの身体が反射的に逃げた。『手』はそのまま真円の影までチョコチョコと指で歩いて行く。
「…………」
しばらくそれをジッと眺めていたアルトリートは、『手』が影に飛び込んで消えるまでを見守ってから、深い深いため息をついた。
そうして、のそのそとベッドに戻る。
「……おや」
先ほどまでのやりとりなどなかったように、ゴロンと寝転がる相手に、ポテトは軽く小首を傾げた。
「心が動きませんでしたか」
「……今のでどうやったら心が動くんだ……」
「死後の世界に望みを託せれる、というのは、それなりにいいことだと思うのですが」
「……そもそも、願いが無い」
「……ほほぅ……」
ゴロンと背中を向けた相手に、ポテトはふわふわと近くまで漂う。
真上からのぞき込むと、イヤそうな声を上げられた。
「……なにより、あんたに何かを願っても、あんまりいいことにならない気がするからな」
「そうハッキリ言われると、私でもちょっぴり傷つくんですが……」
ポテトは横向きに転がっている相手をしばらく見つめ、やがて荷物に乗っかるかのように相手の頭の上に座った。
足を組んで何かを考えているかのようなポーズ。
「……………………………おい」
尻の下から抗議の声がかかったが、もちろんキッパリと無視した。
「あなたは何かを残したくてイロイロやってたんじゃないんですかね? 女性関係が派手というか節操なかったのだって、正直、家族が欲しいなとか温もりが欲しいなとかつながりが欲しいなとかそんなんでしょうに」
「……尻をどけろ」
「それを考えたら、死を迎えた先にあるものを確実に手に入れられるというのは、それなりに悪いことじゃないと思うんですよね。魔法まで使えるということは、望みは一気に叶えられやすくなります。まぁ、世界を滅ぼせとかだったら叶えられませんけど」
「……尻をどけろ」
「あると思うんですよ、あなたには。叶ってほしいと思う望みが。ちょっぴり過保護すぎというか執着すぎというか家族愛もそこまでいくとどーなんだろうな、って他人様からは思われてしまうぐらいアレな感じはしますけれども」
「……尻をどけろと言っているっ」
「しょうがないですよねぇ家族ですもの。一番繋がりの強い家族で親友で幼なじみっていったら、相当な思い入れでしょうに。おまけに年下でちょっと残念なぐらいお人好しで勉強不足な子だったら、オニーサンは一生懸命にならざるをえないんでしょうねぇ。私、末っ子なんでその辺りサッパリですけど」
全然人の話をきかない男に焦れて、アルトリートは叫んだ。
「尻をどけるのが望みだと言っている!」
「誰かさんが死んだあと、幼なじみ君はどうなるんでしょーねぇ?」
声に声を重ねるようにして言われた言葉に、一瞬、アルトリートの呼吸が止まった。
その瞬間に聞こえた心の声に、ポテトはくしゃりと笑む。
(願いましたね)
心の声は、嘘をつかない。
だから届く。あまりにも真っ直ぐな、強い思いであるが故に。
(これならば『足りる』でしょう)
奇跡を起こすのは、いつだって『人』だ。
強い思いだけが天を動かす。
だから──
「……では、それを叶えましょう」
声と同時に、ふわりと浮き上がった。
慌ててアルトリートが身を起こし、空中で足を組んでいる男を見上げる。
「なんだ、『それ』と言うのは! ……いや、尻をどけたから、それが『それ』か?」
「……いやー……お尻をのっけたのはただの嫌がらせといいますか、お茶目といいますか、魔力接触による術式の感応力試験のついでといいますか……」
「……要するに嫌がらせだろうが」
げっそりとした相手をにこやかに見守って、ポテトは大気に魔力を少しずつ溶かした。
大きな魔法を使うのならば、準備もまた念入りにしなくてはならない。
(さすがにこの魔法を使えば、いらぬ騒動を招きかねませんからね……)
常ならば三つ程度で済むだろう隠蔽の魔法も、今回は十倍に。その内側で空間そのものを遮断すれば、過剰な魔力が世界を浸食するのも防げるだろう。
(問題は、この塔を世界から切り離してしまうと、他国の魔術師達に「何かある」と感づかれることですか)
まして時は大祭の直後。常以上に他国の要人や魔術師達が国に入り込んでいる。
今なんの対処もせずに魔法を使えば、それは暗闇に打ち上げる閃光のように周囲の目を惹くだろう。
人の力では行使できない魔法を──『実際に』使う者がいる、という認識の下に。
(……おそらくその場合、最悪の未来を招くでしょうね)
魔法を使わないままであれば、警戒はされても脅威とまで見なされない。下手に騒いでやぶ蛇になるよりは、と、静観している国が多いからだ。
だが、実際に強大な魔法を使えば、列国は一斉に自分を──ひいては、自分を従えているこの国を脅威とみなすだろう。少なくとも百を超える試算では、強大な魔法の実行はいずれも『戦』の未来を引き寄せていた。
(……いずれ、避けることのできない戦が、この国にも起きるでしょう……)
少しずつきな臭くなっている他国。現れだした異形。
悪い方向へと進み続ける世界の中、平和に見えるこの国にも火種がある。
アルトリートという存在は、今現在、最も危うい火種だった。
どのような形であれ、生かせば必ず戦を呼び寄せる。内部の争いは別の争いを呼び、周囲を巻き込んで大きく広がるだろう。アルトリートの意志には関係なく。
(……ですが、今はまだ……その時ではない……)
世界に溶けたわずかな魔力に反応して、かつてこの城に張り巡らせておいた結界の一部が呼応した。
幾重にも重ねておいた結界のうち、塔の一部を少しだけ変化させ、ポテトは世界に『認識』を錯覚させる。
塔の近くにいる者ですら、魔法の気配を感じ取ることはできないだろう。距離が遠くなれば尚更に、誰にも知られぬまま全てを終わらせることができるかもしれない。
もっとも── あの『魔女』には感知されるだろうが。
(一度、『探索』も打ち切らないといけませんね……)
別の用事に奔走している間に、あっさりと姿を消してしまった『同族』。
かなり広範囲に探索の手を伸ばしているが、未だに情報を掴むことができなかった。
転移の魔法が使われた形跡も飛行魔法の痕跡も無いのに、どうやってこの地から姿を消してみせたのか。
(……馬や馬車であれば、人目につくはずですが……)
だが今のところ、そういった情報も入っていない。
単独ではなく協力者がいたのなら、人の目から身を隠すことは可能だろう。自分の探索が届かない理由は不明だが、相手が複数であるのならおのずと答えは出てくる。
(この魔法に成功して、余力があれば……もう一度探してみましょうか)
わずかに目を伏せ、広範囲に展開していた『探索』の魔法を打ち切る。
同時に、閉じた結界内に魔力を浸透させ、ポテトは頭の中にいくつもの複雑な術式を組み立てた。組み立てた術式が魔力に後押しされ、閉ざされた世界に出現しようとする。それをギリギリまで押さえて、ポテトは口を開いた。
「『魔法が最終的に発動し、あなたが『従者』化するのはあなたの死後。ですが、死に至るまでにあなたの意志で『契約』を承諾しなければ、魔法は体内で眠ったまま消滅し、あなたはごく普通に人としての一生を終えます』」
身構えている相手に向かって、ポテトは言葉を紡いた。
魔法の『条件付け』は、細かければ細かいほど、その威力が強くなり、精度も上がる。
無期限よりも期間を制限されたもののほうが綻びが少なく、無条件よりも条件をつけられたもののほうが威力が強い。
これは、例えば打撃の攻撃で、面の破壊と点の破壊のように、広範囲の破壊よりも一点集中のほうが一カ所への威力が高いのと同じだった。どの魔法、どの魔術においても、この法則が崩れることはない。
覆ることがあるとすれば、それは術者の能力差だ。
「『承諾の条件は、あなたの願いを『従者』の遵守命令の第一に入れること』」
「……だから、その、ボクの願いってのは、いったいなんだ」
満ち始めた魔力に気づいているのだろう。アルトリートの顔にはハッキリと警戒の色が出ている。
もともと魔法との親和性の高いクラヴィス族だ。魔力が全く無いアデライーデ姫と違い、魔法の気配には敏感なはず。
だが、そのアルトリートにしても、まさか自分に向けられた魔法が、すでにすぐ近くで発動しかかっているとは思ってもいないだろう。
数十からなるなる魔法陣は全て、薄皮一枚隔てた向こう側にあるのだから。
「まだ自覚なしですか?」
相手の様子に少しだけ笑って、ポテトは一秒だけ間を置いた。
肉体に施す魔法の場合、いかに相手の隙をつくかが重要になってくる。警戒の強い相手には魔法が効きにくいためだ。
そしてそういう意味において、問いの答えは非常に都合が良かった。
「『クリストフ・オリガ・サイフォスを守ること』」
その瞬間、相手の目が大きく開かれるのを見た。
(──今──)
ポテトは静かにその瞬間を突く。
文字通り、その手で。
──ポテトの白い手が、アルトリートの胸を貫いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※
「……え?」
絶句した相手の瞳には、狼狽よりも唖然とした色が強かった。
その瞳にポテトはニコリと朗らかに笑う。
「契約の種を植えさせていただきます。言うなればこれが契約書です。『承諾の印は特別な方法でなくてかまいません』。そうですね……『契約を受理する、と心の中で唱えるか、もしくは口にしたならば、それが契約を承諾した証しとなります』」
アルトリートの視線がポテトの顔から自分の胸元へと動く。
その胸には、文字通りの意味でポテトの手が潜り込んでいた。
だが、本来なら胸板を貫き、背中へ貫通しているはずの指先は、アルトリートの背から出てはいない。体内に潜りこむのと同時に、それは純粋な力と化して相手と同化していた。
「『魔法は永久的に持続するものではなく、解除の条件がつきます。もし誰かが『従者』となった『かつてあなたであった者』の正体に気づき、それを『かつてあなたであった者』に告げた時、私の魔法は効力を失い、本当の死が訪れることでしょう』」
驚きのあまり目を見開いている相手には、この言葉が本当に聞こえているのか、微妙なところだった。
だが、契約の内容は血肉と魂に刻まれる。今、衝撃のあまり言葉を聞き流してしまっていても、必ずその言葉は頭の中に残るのだ。
「『けれどそれまでの間、あなたは『あなたであってあなたではない者』となって、私の手足となり、有事の時以外はあなたの友を守ります。──契約のままに』」
ポテトが言葉を句切った瞬間、世界の向こう側に隠していた魔法陣が一斉に具現化した。
「な……!?」
突如自分の周りに出現した幾重もの魔法陣に、驚いたアルトリートが身じろぐ。
その胸にはやはりポテトの手が生えているのだが、一瞬、それすらも忘れてしまったのだろう。もともと胸を貫いた一撃は相手を傷つけてはいないのだから、意識が別なところに奪われても当然だった。痛みや違和感といったものもないのだから。
(いい感じに隙だらけになりましたねぇ……)
ポテトは嬉しげに笑う。
傍から見れば罠にかかった獲物を見る悪魔そのものの笑顔なのだが、本人は純粋に嬉しさを表した笑顔だった。
【この思いは 我が思い】
ポテトの唇から、世界を騙すための呪文が紡がれる。
自分の欲得だけでしか魔法を使えない『魔女』が、それでも他のために魔法を使う時に唱えられる呪文。
【この願いは 我が願い】
脳裏に閃くのは、ただただ愛おしい二人の姿。
(守らなくては)
自らの命を投げ出すほどの強い思いで、生まれてくる新しい命を守ろうとした『主』。
その『主』に守られた、自分の名を分け与えた愛しい子供。
どちらも守りたいと思ったのだ。人であったことなどとうの昔に忘れてしまっていた自分が。……心から。
(──そう──)
【綿々と紡がれし『魔女』の血の系譜にかけて】
(──誰を犠牲にしようとも──)
【我は我が願いのままに其を叶えん】
「ちょ……っと待て! おまえ、ボクは……!」
尋常ならざる魔力に、アルトリートが我に返って叫んだ。
──だが、遅い。
すでに種は植えられた。
薄い笑みを口元に貼りつけて、ポテトは心臓と同化させた手とは別の手を相手の額にあてる。
──臓腑の焼け付くような痛みを押し殺して。
【汝に魔女の祝福を】
──それが呪いであることなど、承知のうえで。
※ ※ ※ ※ ※ ※
夜の神殿は静まりかえっていた。
塔に入った時とには東の空でゆらめいていた月が、今は中天に近い場所で輝いている。
鮮やかなその光に照らされて、夜の城もまた静寂の中で眠っていた。
大祭の直後とはいえ、夜は夜。連日の夜会疲れも手伝って、早めに床につく者も多いのだろう。
警備の兵もどことなく眠そうで、そのことが今のポテトには有り難かった。
空間を飛び越え、よろめくようにして入った神殿の一室は、どこか深い海の底のような色をしていた。
人影はない。
もともと特別な時にしか人が入ってこない場所だ。ホッと息をついて、ポテトは力のない足取りで歩いた。
ほとんど家具らしいものが置かれていない円形の部屋。
中央の天井には巨大な天窓。
驚くほどの透明度を誇るそこから、夜の光が部屋に投げかけられている。
「…………」
ポテトは部屋の中央、月の光を真っ向から浴びる窓の下へと歩くと、音をたててそこに崩れた。
(さすがに……疲れました……)
重い体をようよう転がし、天井のほうを仰向く。
天窓の端から月の欠片が覗いていた。
淡く輝く月は、いつか見た誰かの髪のように、美しい青銀色をしている。
「…… ……」
こふ、と──一瞬、咳き込みかけてそれを堪えた。
なぜか笑いが込み上げてきたのだ。
なにが可笑しいのかは自分でも分からない。ただ、笑いたいと思った。
(嗚呼……結局……私は、貴女のようにはできないのですよ)
空高くから自分を覗き込む蒼い月。
記憶の中に住む永遠の魔女。
(……お母さん)
真なる魔女の血統でありながら、自分以外の誰かのために白き魔法を使い続けていた人。どれほど魔法を使っても、呪いで傷つくことのなかった魔女だった。
(……私は、このザマですけどね……)
契約の承諾と、相手の死によって起きる『正式な発動』すらまだなのに、すでにかなりのダメージを受けている。気を抜けば言葉以外の何かを吐きそうだ。全力で自己修復をしているが、ゴッソリと失った魔力はなかなか回復しないだろう。
(けれど……種を植えることは、成功しました……)
部屋に施された術式にそって、月光の魔力が高められる。
それを貪欲に貪りながら、ポテトは口元に笑みを浮かべた。
懐かしい色の月を見ていると、当時のことが思い出される。
かつて、いくつもの奇跡をこの目で見てきた。
遙かな昔、まだ人であった頃には、魔法とは素晴らしいものなのだと……そう思っていたのだ。
母が紡ぐ魔法はいつだってそうだったから、だから先代も母に永遠を捧げたのだろうと理解した。
己のもつ、永遠の命すら手放すほどに──
(……いつか)
いつか、自分もそうなるだろう。
その予感は昔からあった。いつかああなるだろう、と。
人を愛した時に、自分たちは永遠を失うのだから。
「『いつか』」
閉じた瞼の裏側に、金色の輝きが見える。
「『私は』」
真なる魔女の系譜ではないけれど、確かに魔女と呼ばれる力を有してしまった人。
その美しい黄金の髪ではなく、輝ける美貌ではなく、その魂の美しさ故に「黄金の」と呼ばれる人。
そう、黄金の魔女とは、その身のもつ色を指して言うのではない。
「『愛する人のために』」
黄金の魔女とは、黄金のごとき魂の輝きをもつ魔女。
血ではなく、その魂の力で悪魔をも魅了し従える魔女。
故に呼ばれるのだ。
黄金の魔女、と。
だから──
「『死ぬでしょう』」
思いをこめて、力をこめて、願いをこめて、祈りをこめて、全ての試算を終えたのちにそう言葉を口にした。
決して変わることのない、自分だけが知る未来の結末を。
──ポテトは微笑う。
その顔は、どこか安堵したかのように──穏やかだった。