⑧
膝の上に抱いていた猫が、ほんのわずか身じろぎした。
上品なアイボリーでまとめられた室内は、箱形の馬車とはいえ、王族専用ということもあって驚くほど広い。
布張りの室は前と後ろに椅子があり、大人が三人ずつ乗ってもまだゆとりがある。天井は高く、座ったまま上に手を伸ばしてもかろうじて指先が触れるかどうかといったところ。椅子は弾力と厚みがあり、悪路でさえなければ快適な乗り心地を約束してくれていた。
長距離を動くことを考えてか、室内にはくつろげるように大きなクッションが設置されている。柔らかなそれの中に香草を仕込んでいるのだろう。室内にはほのかに優しい匂いが漂っていた。
大きめにとられた窓には、美しい模様のレースカーテン。降り注ぐ日差しをやんわりとくるみ、室内を柔らかく照らしていた。
乗客は三人。
典雅な衣装を纏った青年が一人と、従僕らしき服を着た男女が一組。
カーテン越しに窓の外を眺めていた青年は、ふと視線を上げ、何かを探すように虚空を見つめた。
そうして、自分の向かい側でひっそりと息を殺すようにして俯いている一組に視線を向ける。
「今、何か、頭の上を撫でていったような感じがしなかったかな?」
視線を向けられた者のうち、メイド服の女は俯いたままピクリとも動かなかった。かわりに、その膝の上の猫がペタンと一度だけ尻尾を動かす。
返事をしないメイドの代わりに、その横に座っていた初老の男が顔を上げた。灰色がかった白髪に、目にかぶさってしまうような同色の眉毛。ヒゲはなく、深い皺のある口元が動いて、穏やかな声が青年の問いに答えた。
「……おそらく、探索の魔法でしょう。殿下がもっていらっしゃる『生命の加護』が、その探索を妨げたのでございます」
青年は「ふぅん」と気のない相槌を打つ。
興味が無いというよりも、よく分かっていないといった感じの声だった。
「私にはよく分からないけれど、今の『探索』というのは……例えば、私の情報を持って行かれてしまうような感じなのかな?」
「……殿下に『生命の加護』がなければ、そのような形になったものと思われます。魔法の範囲内であれば、どこに誰がいて、その人物がどのような姿形をしているのか、瞬時に把握してしまうのが『探索』の魔法でございますれば」
穏やかな声は老執事にありがちな声色で、その容貌もまた、特徴的であるように見えてどこかで見たことがあるような凡庸なものだった。
そのせいもあってか、目の前でこうして会話をしていながらも、青年には初老の男の印象がよくわからなかった。ひどくぼんやりとしていて、記憶の中に残らないのだ。
横に座っている俯いたままのメイドのほうが、そういう意味ではずっと印象的だろう。だが、こちらは馬車に入った直後から一度も身動き一つしていない。まるで人形のように椅子に座ったままだ。
「その魔法というのは、いったいどれだけ離れていれば大丈夫なのかな……?」
初老の男は軽く顔を上げ、虚空に漂う何かを見極めるような間をおいてから青年を見た。
「……おそらく、今の規模程度でしたら、王都からかなり離れた場所に行けば相手の魔法範囲内からは脱出できるでしょう」
「……その言い方だと、相手は全力では無い、ということなのかな。今の規模程度、ということは」
「左様でございます」
頷いて、男は古の伝承を語る長老のように厳かに言った。
「ひとたびその力を解放すれば、国一つを完全に消滅させることのできる『相手』です。この数日間で行使された魔法の力たるや、知覚さえできれば列国の魔術機関は騒然となることでしょう。……けれど、周辺諸国は何も気づいていないに違いありません。わたくしも、この地に在って件の『探索対象』とされていなければ、かの強大なる力に気づくことはできなかったことでしょう。それほどまでに、卓越した技量を持って魔法の痕跡を隠しきっているのです。……この『魔法』の使い手というのは、そういう相手です」
言われて、青年は「ふぅん」とまた呟く。
今度は何かを考えるような色を含んだ声だった。
「それは、あの男だね? 麗しい女王陛下の傍にいた、恐ろしく美しい男」
「……はい」
どこか畏怖に震えるように、けれど歓喜を押し隠すように、初老の男は口元に亀裂のような笑みを浮かべて頷いた。
「かの者こそ、わたくしが長年探し求めていた相手……我らが血統において、唯一完全なる『神』の力を継承した者でございます」
「…………」
「十三年ちかく前……ようやくこの国にいると探り当て、貴族の中に密かに潜り込んでみれば、件の者は入れ違いのように国を出てしまっておりました。あれから十二年と少し……やっと、彼の者の姿を見ることができました。あれが……あれこそが、人々より最大の畏怖をもって名前すらつけられることなく目を背けられ続けていた『恐怖』の具現者……」
己の震える掌を見つめ恍惚とした表情で語る男を見やって、青年はコツコツと御者台に合図を送った。
「速度を上げてくれ。早くこの場から離れるように」
「(……かしこまりました)」
分厚い壁の向こう側から、馬車を駆る御者の答えが返る。
それに薄く笑って、初老の男は静かな表情をしている優美な青年を見上げた。
「殿下。恐れられることはありません。殿下には、生命の樹と水の加護がおありです。彼の者がいかに強大であろうとも、対極の力に守護された殿下には届きにくい。……であればこそ、わたくしも殿下の加護のおこぼれに預かって、かの者の探索から逃れることができているのです」
その言葉に、青年は少しばかり苦笑じみた笑みを零した。
「私が馬車を急かしたのは、別にあの男が恐ろしいと思ったからではないよ。ただね、私もやはり男だから、同じ会話をする相手なら、今の君の姿よりもそちらの美しい女性の方がいいのだよ。君が未だにその人形の姿で私と話をするのは、あの男の魔法とやらが強いからだろう? 見つかってしまわないように、そんな風にしているのだろう?」
「左様でございます」
くすくすと笑って、人形と呼ばれた初老の男は横に座る女性を見た。
「こちらの姿では、いくら加護をもつ殿下のお側にあっても、かの者の魔法につかまってしまうことでしょう。わたくしも、彼の者を初めてこの目で見るまで、あそこまでの存在であるとは思いもよりませんでした。あれは、確かに人の力でどうこうできるものではありません」
「『魔女』である君でも、ダメなのかな?」
「真正面からぶつかって勝てるような相手ではないのですよ、殿下」
意味深な笑みを浮かべて言う男に、なるほど、と青年は頷いた。
「だから君は逃げることにしたわけだ。十二年以上この国に潜んでいたのに」
その言いように、けれど男は不快に思うどころかにこやかに笑って頷いた。
「仕方がございません。力量で負けている者が、相手の力場で戦って勝てるはずがありませんから。勝利とは、負ける可能性を全て排除した先にあるべきもの。……ならば、まずは相手の力を見極めることからはじめるべきでしょう」
「……先の長い話だね」
呆れたように言う相手に、初老の男は笑みを深める。
「そうでもありません。此度のことで、あの男の力はだいぶ絞れました。何が出来て、何が出来ないのか。どれが出来て、どれが出来ないのか。それを知っているのと知らないのとでは、まるで違います。……あの男は、確かに単体では最強でしょう。ですが、あの男には弱点が多い……」
「……弱点?」
青年は興味を惹かれたように目を輝かせた。
男は笑みをさらに深めて頷く。
「あの者は、人に執着しているのです。人に執着した時、魔女は死に至ります。かの者は確かに『現象』であり『神』であり『悪魔』でありますが、同時に万物の頂点に立っていた『魔女』の血統でもあります。……その血が、いつかあの者を害するでしょう」
「……よく分からないが……」
正直にそう言って、青年は首を傾げた。
「すくなくとも、伝承にあるような完全無欠な存在では無いんだね?」
「ええ。わたくしは運がいい……あれだけの弱点をもつかの存在と相対するとは……。これならば、わたくしの力が遠くかの存在に及ばなくても、わたくしはあの者を殺めることができるかもしれない。……人の子達を使って」
笑みを浮かべ続ける男を見やって、優美な青年は少しだけ困ったような顔で言った。
「けれど、それならなおのこと、君はこの国に残って策を巡らすべきではないのかな? 他国に行ってしまえば、難しいと思うけれど」
「策ならば何通りでも」
さらりと言って、男は小さく笑った。
「あの国にあった間に、仕込んでおりますれば。それに、今はわたくしが『私』であることに気づいていないでしょうけれど、あの者の力をもってすれば、いずれ遠からず『私』にたどり着くはずです。なら、束縛されぬうちに逃げてしまうほうが得策でありましょう。……それに、十二年以上あの国に潜んでいた甲斐はありました」
「今回のドタバタのことかな?」
嬉しそうな男を不思議そうに見やって、青年はどこか不満げに首を傾げた。
「あの程度の騒動、どうということもないだろう? お家騒動など、どこの王家でもあることだ。未然に防ぎきったのだから、むしろ他国からの評価も高いだろう」
「けれど人の心に、深い傷が残りました」
嬉しげに言う相手に、青年は沈黙する。
「王に近しい人の心に、深い傷が残ったのです。それに、あの騒動によって人々の心に小さな野心がいくつも芽生えています。さらに、あの騒動の中で、彼の者は魔法を使いました。人のために使ってはならない魔法をあの男は使ったのです。それがどれだけ稀少で、どれだけ危うい行為なのか……それが理解できるのは、あの者と同じ『魔女』たるわたくしぐらいなものでしょう」
男は沈黙している青年に、喜びを持って告げた。
「ほんの数人の心を言葉で煽っただけで、あれだけの結果が出たのです。それに、騒動というものは、後の世にいくつもの連鎖を引き起こします。これからが楽しみではありませんか。あの国はいずれ、人の心によって荒れ、争乱を引き起こすことでしょう」
「……そうしたら、麗しい女王陛下は悲しむんだろうな」
優美な青年は俯きながらそう呟く。
その口元には、なぜか恍惚とした笑みが浮かんでいた。
「……それは素敵だね。あの方の打ちひしがれた姿を見れるなら、私は馬車数台分の黄金だって用意するよ」
「ふふふふふ。さすがです、殿下。あなたがそういう方でなければ、わたくしもあなたを選びはしなかった」
嬉しそうに言った男の頭が、その時、カクンと落ちた。
人形のように動きを止めた男のかわりに、メイドの膝に座っていた猫がゆっくりと体を起こす。黒い艶やかな毛に鮮やかな蒼い瞳の猫は、ピンとヒゲを前に向けて口を開いた。
「あなたはいつだって純粋なんですもの。純粋に好意を向け、純粋に相手の美しさを称え、純粋に相手の悲哀を喜ぶ。子供のように、とても残酷で純粋な人」
初老の男であった時とはまるで違う、どこか婉然とした美しい声。猫の声帯に近いのか、少しばかり丸まった舌足らずな口調だが、それは明らかに女性の声だった。
「あなたが用意してくれたものも、とても役にたちましたわ。あんなものが凶器になるだなんて、うふふ……この世は、魔法なんてなくても、いくらだって危険なものなのですわ」
「今度は猫が話し相手なんだね。私はいつになったら、そちらの女性と話せるのかな?」
「今よりもう少し、魔法の届かない場所まで行かなくては駄目ね」
笑い含みに言われて、青年はコンコンコンと御者台の方を叩いた。
すぐさま速度を上げた馬車の音を聞きながら、悪戯っぽい目をしている猫を見下ろして肩をすくめる。
「君が言っているのは、中庭で起きたという騒ぎのことだろう? 私は魔法なんてわからないし、粗暴な連中が何を武器にしようとするのかなんていうのも想像つかなかったけどね。話を聞いて、あまり美しいやり方ではないと思ったよ。相手はなかなか麗しい青年だという話なのに、あんな方法では顔が潰れてしまうじゃないか」
「あらあらあら」
非難を込めて言う青年に、黒猫は面白そうに目を細める。
「それなら、由緒正しい剣での決闘がお好みかしら? けれどそれは、舞台を整えるのがとても難しいわ。己を隠すのなら、いくつもの偶然を作り上げなくては」
「例えば配置を指示したり、相手を言葉で導いたり?」
「そうそう」
よくできました、と言わんばかりに頷いて、黒猫はくるりと尻尾を自分の足下にまわした。
「けれど、ついやりすぎてしまうのよね。焦ってはダメだわ。あんなに早く動いてしまうだなんて……頭が良すぎるのも考えものね」
「……?」
その言葉の意味は分からず、青年は首を傾げた。
黒猫は「うふふ」と笑うばかりで、それについては答えない。
「けれど、ねぇ? 王子様。しばらくは何もしなくても、勝手に人が動いてくれるでしょう。わたくし達は、黙って様子を窺っていればよいの。下手に関与しようとして、相手に気づかれてはダメよ?」
「……近くにいないと、あの人の悲しい顔は見れないな」
「いけない子。でもねぇ、考えてもみて? あの者がいなくなれば、きっとあの女王は悲しむわ。今だって悲しみを堪えてがんばっているのかも。なんだか我慢強そうな感じがしたもの、彼女。いつかきっと壊れてしまうわ。そうしたら、あなたの好きなようにできるわよ?」
「それは素敵だね」
魅惑的な言葉に、青年は爽やかに笑った。
「できればその時には、クラウドール卿にも昔みたいな人に戻ってほしいな。久しぶりに会った彼は、なんだか暖かくなっていてちょっとガッカリしたんだ。彼には、憂い顔が一番似合うと思うのに」
「ひどい子ね。人の幸せがそんなにいけないのかしら?」
「幸せになってくれるといいと思うよ。誰もが幸せだといい。けれど……人には一番美しく見える表情というのがあるはずだよ。それが、あの二人の場合は悲しげな顔だというだけのことだよ」
嬉しそうに語る相手の歪んだ視界に、黒猫はただ亀裂のような笑みを浮かべた。
「それでこそ、わたくしの同盟者だわ」
「ふふ? 魔女である君にそんな風に言われると、少し自分が強くなったような気がするね。あぁでも……彼を元に戻すのは簡単なのかな。新しいあの小さな王女。彼女を消してしまえば、戻りそうな気がするよ」
「あぁ、あの小さな、可愛らしい妹姫様」
何を思いだしたのか、ふいに楽しげにクスクス笑って、黒猫は尻尾でペチンとメイドの太腿を打った。
「確かに、あの妹姫様がいなくなれば、クラウドール卿は壊れてしまうでしょうね」
「だろう? どうだろうか? 君の力で、彼女を消してしまえないかな?」
「あらあら。あんなに優しく紳士的に対応してあげていたのに、目的のためには手段を選ばないのね?」
クスクスと互いに笑いながら、一人と一匹は楽しげに目を煌めかせる。
だが─
「けど、ダメよ? あの子はダメ。わたくし、あの子のことを気に入ったのですもの。あの子は、いずれわたくしの『従者』にするの。だって、とてもカワイイのだもの」
あっさりと拒否されて、青年は残念そうにため息をついた。
「『従者』というのは、その人形のことだろう?」
彼が示したのは、俯いたまま動かなくなってしまった初老の男だった。
言葉通り、人形のようにただそこに座っている。
「ええ。わたくしの従者。わたくしの力を分け与えた、わたくしの下僕。わたくしの人形。……あらあら。そんなガッカリな顔をするものではなくてよ? 自我を完全に無くさせてしまえば、消してしまうのと同じことではなくて?」
「そうだね……。うん。それに、生きているのに生きてないみたいな状態は、きっととても辛くて悲しいに違いないね」
何を想像したのか、とても嬉しそうに顔をほころばせる相手に、黒猫は一瞬だけ苦笑を零し、すぐに満面の笑みを作って頷いた。
「そう。悲劇を生み出すのは、いつだって人の心なの。愛おしく思えばなおのこと、愛した気持ちの分だけ人は絶望と慟哭を覚えるの。……楽しみではなくて? その時が」
「楽しみだね。早くそうなればいいのに」
爽やかに笑ってそう言う相手に、黒猫は膝の上に丸くなりなおしながらピコッと片耳を動かす。
「そのためにも、今はのんびりと傍観しておきましょう。一年、二年……周りの国を巻き込んで、ゆっくりと策を進めていけばいいわ。楽しみは長いほうがいいもの。そのためには、あなたの国は近くていいの。だって、バルディアはナスティアのお隣さんなんですもの」
その言葉に、バルディアの王太子は華やかに笑った。
「それに、年数が経てば私も王位を継いでいるだろうしね。そうしたら、今よりも出来ることが増える」
「楽しみね」
「あぁ、とても楽しみだよ」
彼は笑い、そうして、ふと思い出したように丸まってしまった黒猫を見下ろした。
「ところで、私は君をなんて呼べばいいんだろう? 魔女? それとも、君が今まで使っていた名前かな?」
黒猫は答えない。
深く俯くようにして座っているメイドの黒髪が、馬車の動きにあわせてサラサラと揺れていた。
「……そうね」
その唇から、その時初めて静かな声が零れた。
白い面が上がり、美しい貌が露わになる。
鴉の濡れ羽のような艶やかな黒髪と、美しい蒼の瞳の美女だった。お仕着せのメイド服なのが、実にもったいない。
「せっかくですもの。今までどおりの役を演じたいと思いますわ、殿下。私を侍女としてお雇いくださいな。そうすれば、いくらでもナスティアと繋ぎがとれますし、つじつま合わせも用意ですから」
「じゃあ、そうしようか」
嬉しそうに笑って、王太子は相手の美貌に目を細める。
愛する女王陛下が十一人目の姫君を養女にした時、その傍らにあった美しい女性。初めて見たあの時から、全く年をとっていないように見えるその麗しい魔女に、彼は心から満足して言った。
「じゃあ、これからもよろしく頼むよ、フェン。……私達の、大切な望みのために」