⑥ レメク・クラウドール
歌が響いていた。
螺旋階段の中程に立って、レメクは歌声に耳を傾ける。
おそらく西区の全域に響いているだろう歌は、レメクには馴染みのない『歌』だった。
彼にとって『歌』と言えば教会の賛美歌か、魔術契約のための術契唱、発動のための詠唱歌、あるいは記憶の奥底に沈めてしまった種族歌に限定される。
世に溢れるその他の歌は『一般の娯楽』として一括りにされており、知識として知ってはいても、それを歌として認識することはなかった。
そんな歌をよりにもよってメリディスの『呪歌』として耳にする。
どんな皮肉だろうかと思った。──だが、種族歌でなかっただけマシだと言えるだろう。
(……これも……メリディスの呪歌……か)
ひどく透明感のある歌声が、最後の『音』を高く高く空へと放つ。
その余韻にも似た響きを追いかけるように、ふと意識が遠くへと離れるのを感じた。違和感や不快感はない。ほんの一瞬、ぼんやりとするような心地だ。
実際、薄く開いた瞳には、目の前にある階段も壁も映してはいなかった。
──だがそのかわりに、白く感じる世界の中に誰かの姿が見えた気がした。
(あれは……)
誰よりも近い存在であるはずなのに、誰よりも遠い存在だった人。
強大な存在に守護されていた自分を、唯一瀕死に追い込んだ人間でありながら、決して自分を見ることのなかった人──
(……何故)
これほどに違うのだろうか、と。
白くけぶる世界の中で、泡沫にも似た疑問が浮かんで消える。
他者の心をいともかんたんに奪ってしまうメリディスの歌。その声の美しさは彼の人もベルも変わらない。
いや、むしろ技巧だけで言うなら、遙かに彼の人のほうが勝っていただろう。
比べる方がおかしいのかもしれない。一族の中にあって最高峰の教育を受けてきた『魔術師』の血統継承者と、母親以外の一族と会ったことのなかった幼い子供では、最初から受け継いだものが違う。
(けれど──)
けれど、それならばなぜ、これほどに──この歌声の方を美しいと思うのだろうか。
あの時、あれほどに称えられていた彼の人の歌声を聞いても、心を揺すぶられることはなかった。音の質、その強弱のつけかた、どこまでも伸びる伸びやかさ、ゆらぎすらも計算しつくされたその『歌』という名の技術は、確かに自分でも「美しい」と思えたのに、心に響くものがなにもなかった。
ただ聞き難かった。
時に醜悪だとすら思った。
抱く思いは嫌悪がほとんどで、聞き惚れることができた瞬間など、ただ一度きりだ。
だからだろう。
『メリディスの呪歌』という言葉を聞いて、まず感じるのは嫌悪であり、次に感じるのは虚無だった。誰もが聞きたいと望むその歌をけれど自分だけは二度と聞きたくないと思っていた。
それなのに──
レメクは天を仰いで目を閉じる。
風に溶け込むように新しい歌が紡がれていた。
やはり聞き慣れない歌だった。歌、と認識してすらもいなかった、言の葉を旋律に乗せて発する『歌』だった。
それなのに、美しいと思った。
暖かいと思った。
優しいと思った。
切ないと思った。
呪歌の発動は、『魂』を『言葉』に乗せることにある。魂の宿った言葉は言霊となって、それを聞くあらゆる者を縛り、操る。
魂とは心だ。
心とは思いだ。
込められる身の内の狂おしいほどの思いが、歌となって大気を震わし奇跡を起こすのだ。
だから、これほどに彼女の歌は美しい。
ひたむきなほど真っ直ぐに、思いの全てを歌に変えるからこそ、技術や発声法を習わずしてこれほどの『呪歌』を発動させてみせるのだ。
(……あの人は、ただ、自分のためだけに歌っていた)
華やかな牢獄の中で、他の誰かを顧みることなく、ただ己のためだけに歌を歌っていた人。
(……ベルは、ただ、誰かのためだけに歌っている……)
分かっている。だからこそ、こんなにも違いがでるのだということは。
二度と会うことはなく、遇いたくもないと思っていたメリディス族だというのに、いつのまにか常に傍にあって当たり前の存在になってしまったのは、彼女が他の誰でもない『彼女』だったからだろう。
醜いものも苦しいものもおぞましいものも恐ろしいものも、彼女が傍にいるだけで穏やかに消えていく。
今まで自分の中にあったあらゆるものが、彼女を通して全く違うものに変わっていく。
嫌悪や憎悪すらいとも簡単に昇華してしまうのだから、彼女が傍にいる限り、自分が自分以外の何かになることはないだろう。
──例え、いつか『断罪』の狂気に呑まれる日がきたとしても。
レメクは閉じていた瞳を薄く開いた。
光を有効に利用するため、内側を白い素材で統一されている尖塔の天井は、綺羅星をまぶしたような小さな輝きに満ちている。
なんとなくその様に小さく微笑してから、歌を捧げられた青年を思い、黙祷した。
結末を予想していたから、直視することのできなかった相手だった。
救える者と救えない者がいて、救うべき者を選んだ時から、レメクは彼を見殺しにすることを決めていた。一度心を揺るがせてしまえば、何もかもを失うことになるのだと分かっていたから、誰に何と言われても救いの手を出すことはしなかった。
花瓶を落とされた中庭の事件を見た瞬間に、もう、戻ることのできない場所に立っているのだと気づいてしまったから──あの瞬間に、彼を殺すことを決めたのだ。
(なのに、あなたは──恨むことすら、しなかったのですね)
手を差し出すことすらしない自分を。見殺しにすることを決めていた自分を。嘘をつき一人だけ安穏とした場所にいる自分を。その嘘がきっかけで命を奪われてしまうというのに、全てを知った後も──彼はただ静かに死を受け入れた。
憎しみを刃と変える術を教えていたのに、それを使うことすらしかなった人──
(だから──)
ギリ、といつのまにか噛みしめていた歯が強く軋んだ。
後悔や懺悔を己に許してはいけないと思った。
自分にはその資格などありはしない。
だからこそ、
(いつか──)
誓ったのだ。
いつか、別な形で『彼』の力となれる日がきたなら、他を裏切ることになっても『彼』の望みのために力を貸すと。
そこにはもう『彼』は存在しないけれど、『彼』の残した願いや思いは確かに別の形で続いていく。
ならば、そこにある願いが変わらない限り、どんな苦境であっても必ず力を尽くし、『彼』の願いを叶えてみせよう。
義父が魔法を使ったように。ベルが歌で奇跡を起こしたように。アルゼウスが命を賭してその魂を救済したように。
──今度こそ、『彼』のために。
レメクは閉じていた目をゆっくりと開けた。
やや翳って見える世界の端で、淡い紫銀の色が小さく揺れる。
つん、と上着を引っ張る力に気づいて、レメクはそちらを向いた。
いつの間に傍に来ていたのか、小さな少女が傍らで自分を見上げていた。
歌が終わっていることにも気づかなかったし、少女の足音にも気づかなかった。こんなに近くに来るまで何の反応もなかった自分を少女も訝しく思っただろう。けれどベルは、真っ直ぐな目でこちらを見上げるだけで何も言わなかった。
綺麗な金色の目がジッと自分を見上げている。
その魂にも似た、美しい黄金の瞳が。
「……ベル」
名を呼んでみた。
少女の顔が花開くように笑った。
苦しみも悲しみも力に変えて強く立つような、そんな鮮やかな笑顔だった。
「おじ様。おじーちゃまの所に行くのですよ」
王宮に行くことが決まってから出るようになったおかしな言葉遣いで、一生懸命背伸びしながらベルが言う。
その小さな体を抱き上げて、レメクは「えぇ」と答えた。
「……いきましょうか」
おそらくこの先、安穏とした人生は過ごせないだろう。
けれどそれでも、生きているのだから、ただひたすらに、これから先も生きていくべきなのだ。
時はただ過ぎ去っていくだけのものではなく、命はただそこにあるだけのものでもなく、一分一秒を惜しむように大切に生きなくてはならない。
──一度でも、生きたいと思ってしまったことがあるのならば。
そのために他を切り捨てたのならば──なおさらに。
「あいっ」
元気よく返事をして、ベルがグッと鳩のように胸をそらす。
そのやや赤くなっている目元を少しだけ見やって、レメクはゆっくりと歩き出した。
何かの終わりを告げるかのように、鐘の音が背後で鳴らされていた。