⑤ フェリシエーヌ・アルヴァストゥアル
声が止んだ。
フェリシエーヌは顔を上げ、ゆっくりと体を起こした。
明るい色調でまとめられた部屋には、フェリシエーヌ以外誰もいない。
耳に届くのは窓を撫でる風の音や鳥の囀りばかりで、人の声など一つもなかった。
けれど──
(……声が……止みましたわ)
青ざめた顔で虚空を見渡す彼女には、耳には聞こえない『声』が届いていた。
それこそ耳を塞ぎ、壁の厚い小部屋に逃げ込んでもなお、逃げる自分をあざ笑うかのように届く、人々の偽らざる本心の『声』が。
(あの……声は……)
フェリシエーヌは一度だけ、痛みに耐えるようにギュッと目を瞑った。
誰よりも他人の心の『声』を感知してしまう彼女のために、女王が施してくれた精神の封印。それすらも無視し──それどころか他のあらゆる『声』すらもかき消してしまうほど強い力で──その『声』は必死に叫び続けていた。
恐ろしくも悲しい──絶望に染まった慟哭で。
「……あの……『声』は……」
よろよろと力無い動きでカウチから降り、フェリシエーヌは近くのテーブルに置かれていたカップを手に取った。
カチカチと耳障りな音をたてるのを聞きながら、震える手でゆっくりと冷めた紅茶を一口だけ口にふくむ。
飲むというより口を湿らせるだけの一口は、今まで味わったことがないほど苦かった。
その苦みが、脳裏に一人の青年を思い浮かばせる。
(クリストフ……王弟殿下……)
敬愛する女王と同じ金髪と紫紺の瞳をもつその青年は、それまでフェリシエーヌが知る誰とも違う人だった。
黙って立っていれば王宮にも稀な美青年だというのに、口を開けば物語に登場する『傭兵』や『ゴロツキ』のような物言いばかり。態度も実に粗野で、嘘の名前を名乗っていた時には、これがシーゼルをいじめていた異父兄かと怒りを新たにしたこともあった。
──それが嘘なのだと知ったのは、件のいじめをベルが叱った時だ。
本人の意図に拘わらず、強い心の声は肉声と同様にフェリシエーヌに届く。ベルに叱られてとっさにあげた彼の心の声が、フェリシエーヌに『王弟の入れ替え』という事実を知らせたのだ。
そう──彼等の『偽り』を最初に暴いたのは、光の紋章でも闇の紋章でもなく、アザゼル族の血統能力だったのである。
フェリシエーヌは即座に『光の紋様』を通じてアリステラにその報告を行った。時期が時期だったため、騒動にならぬようまずは様子を窺うという方針を伝えられなければ、フェリシエーヌはその場であの青年を弾劾していただろう。
だが──
(むしろ……そのほうがよかったのかもしれませんわ……)
思わずにはいられない。
もしあの時、すでに企みはバレているのだと知らせていれば、その後に起きる悲劇も惨劇も、止められたのではないだろうか、と。
もちろん、あんな風に事態が進み、あんな結果を出すなど、あの時点では誰も予想していなかった。だからこそ『今』に至るまでにあった分岐点に、なぜあの時にこうしなかったのか、と悔やまずにいられないのだ。
──例えそれが、今となっては意味のない悔恨であったとしても。
「フェリシエーヌ姫」
深い思考に落ちかけた瞬間、控えめな声が部屋の向こう側からかけられた。
フェリシエーヌはハッとして顔を上げる。
可憐な内装で統一した部屋の扉には、可愛らしいリースが飾られていた。声はその向こう側からだ。
(シーゼル!)
フェリシエーヌは慌てた。
目覚めたばかりのため、着ているのは薄手の夜着だけ。おまけに髪はくしゃくしゃになっているし、洗顔すらしていない。
(嗚呼! なんてこと!!)
時計を見れば、針は昼をわずかに過ぎた時刻を指している。フェリシエーヌは頭を抱えた。
今日は大切な日だったのに。昼も夜もなく襲いかかる魂の慟哭に打ちのめされているうちに、こんな絶望的な時刻になっていたとは!
(完璧な姿になるつもりだったのに! 声を失うぐらい完璧に装うつもりだったのにッ!!)
大慌てで手に持っていた紅茶を一息に飲み干し、近くに置いてあったヘアブラシで髪を必死に梳く。
(もう! どうしてこんなにからまってるの!?)
長く細い髪が互いにからまっていて、なかなかうまく梳けなかった。半ば八つ当たり気味にブラシを動かしていると、扉の向こうから不安そうな『声』が聞こえてきた。
(……まだ寝てるのかな……)
「起きてますわよ!?」
聞こえてきた心の声にクワッと返事を返して、(しまった!)とさらに高速で髪を梳きはじめる。起きていると返事をしたからには、顔を出さないといけないはずだ。嗚呼! 早く、早く!
「え、えぇと……姫、入っても」
「よくなくってよ!?」
こんな姿見せれるかとの思いを込めて叫ぶと、扉の向こうで後退る気配がした。
フェリシエーヌはさらに速度をあげてブラシを動かす。
からまった髪にブラシもからまった。
(ああっ! ブラシがひっかかったわ!?)
こうなるとどうやっても解きほぐせない。自身の自慢でもある繊細な髪を憎々しげに睨んでから、フェリシエーヌは視線を忙しく彷徨わせた。
(切るもの! いっそ切るものは無いかしら!?)
しかし、目に映るのは白と淡い桃色の家具達ばかり。洗顔道具や着替えの類も侍女達に任せていたため、ベッドサイドにも小物類がまるで置いてなかった。
(ああもう! フェンがいればこんなことは無かったのに!)
物心つく前から傍にいた側近の一人、黒髪の侍女は、今頃故郷への帰路についているはずだった。大祭の最中、最も悲惨な現場を見てしまった彼女だから、しばらくは故郷で心を癒す必要があるだろう。
フェリシエーヌもそう思ったからこそ、寂しく思いながらも暇乞いを許した。だが、彼女がいなくなった穴はとても大きい。
(フェンがいれば、一人でこんなところに蹲っていなかったし、そうしたら、最低限の用意だって出来たはずですのにっ!)
侍女は他にも沢山いるが、フェンはその誰にも代えられない、特別な能力を持っていた。
それは彼女のすぐ間近では、魔術のほとんどが無効、もしくは著しく威力を下げられるという能力だった。
フェン自身もどうしてそんな風になるのかよく分かっていない様子だったが、フェリシエーヌにとっては能力の理由などどうでもよかった。彼女にとって、それは何よりも素晴らしい能力だったのだ。
その彼女が傍にいない。それは、今まであった安らぎの場が無くなってしまったことを指してる。
(でも! 仕方ありませんわッ!! フェンはあの辛い現場を見て、なおかつ必死に自分の使命を果たしてくれたんですものっ!)
フェリシエーヌがレンフォード家の街屋敷に半ば軟禁されていた頃、それに気づいたフェンが自分を心配して探してくれていたのを知っている。城の一角で起きた惨劇は、その時に遭遇したものだということも。
(わたくしのせいだわ……)
フェンという侍女は、心の強い女性だった。だが、あの時に見た光景は、その女性をしても直視しがたく、恐ろしいものだったに違いない。
「あの……フェリ……?」
扉の向こうから、おそるおそる声がかけられた。
その存在を思い出し、フェリシエーヌは慌ててカウチにかけられていたガウンをひっ掴むと、素足のまま扉に走る。
「シーゼルっ? 開けてはいけませんことよッ?」
扉の前でガウンを羽織りながら、フェリシエーヌはもう一度ヘアブラシを握った。だが、何度引っ張ってもからまった髪から離れてはくれない。
(もういいですわ!)
「今日、王都を発ちますので……その、見送りのことなのですが」
「ええ! 行きたいのですわよ!?」
『出立』と『見送り』の単語に、フェリは反射的に答えた。
「行きたいのですけれど、用意が……どうしてこういう時に用意が整っておりませんの!? あぁでも、シーゼル、正午過ぎには発つはずで……どうしてこんな時間なんですの!!」
「……えぇと……」
扉の向こうから心底困った声がする。シーゼルだって、こんなことを言われても困るだろう。そう思うが、焦った頭では上手く思考がまとまらない。
「一刻……いえ! 半刻でかまいませんわ! お待ちになれませんこと!?」
無茶を承知で思わず叫ぶと、さらに困った声で「それが」と答えられる。
シーゼルが王都を発つのは王命だ。レンフォード家の新当主として、女王アリステラの命を果たすために発つのだ。当然、フェリシエーヌの我が儘で出立を遅らせれるはずがない。
(わたくしは……わたくしは……!!)
それでもなお我が儘を言いたいのは、そうしなくてはと強く思うほどに、相手が特別だからだ。
「姫。……出立の見送りはいいんです。本来、僕はあなたに見送ってもらえるような立場ではありません」
泣きそうな顔で頭を抱えたフェリシエーヌに、扉越しにシーゼルが言う。
少しだけ微笑んだような、やわらかい声で。
「わざわざ見送りにおいでにならなくてもいい……それを伝えに来ました」
「な……」
(なんですって!?)
思いもよらなかったその言葉に、フェリシエーヌは絶句した。
シーゼルが自分の見送りを拒否する。
そんなことは今までなかったし、これからだってありえないと思っていた。互いに物心つく前から知っている相手だ。考え方も動き方も誰よりも理解している。
そのシーゼルが──
「わたくしの……見送りはいらない、と……おっしゃるの……?」
「……はい。『姫』」
姫、と。
あえて強く強調されたその言葉に、フェリシエーヌはあることに思い至って唇を噛んだ。
「それは……レンフォード家が、此度のことで処罰を受けたから……ですの?」
「……はい」
静かな答えに、ますます唇を強く噛む。
扉越しに聞こえる相手の声は、いつもより少しだけ遠く感じる。
「わたくしが……陛下の養女だから……ですの?」
「……はい」
「今は距離を置けと……そう……おっしゃるのね?」
「はい」
先程よりもハッキリとした答えに、フェリシエーヌはキリキリと胸が痛むのを感じた。唇をかみ切ったらしく、口の中にパッと血の味が滲む。
(ああ)
悔しい、と思った。
誰かを『憎い』ではなく。ただ、悔しいと。
それは『今』という現状であり、ここに至るまでの経緯であり、そしてこれからを正しく予想してしまった己自身に対してだった。
(どうしてわたくしは、こんなことにすぐに気づいてしまうの……!)
気づかないフリをしていれば、無邪気を装って見送りに立つことができる。なのに、そんな手段さえも自分で消し去ってしまうのだ。
馬鹿であればよかった、と思う。
もっと馬鹿であるか──もしくは、全てを見通すほどに賢ければよかった、と。
「陛下は……わたくしが婚約者を見送ることに異を唱えるほど、狭量な方ではありませんわっ。……だ、第一! あなたは此度のことで陛下より直々に『レンフォード家の全てを治めよ』と命じられていますわ! たしかにお家は処罰されましたけれど、むしろあなたは……」
「父がいます」
見送りに立つ正当性を見いだそうと、必死に訴えるフェリシエーヌの言葉を遮って、シーゼルは短くそう告げた。
あの父がいるのだと。
「姫。姫が僕の見送りに立てば、父はそこに光明を見いだそうとすると思います。少なくとも、婚約者であるあなたは、僕の味方なんだと」
「味方ですわ!」
「……ひいてはレンフォード家の味方だと。王家の味方ではないのだと曲解する可能性もあります」
「…………」
言われて、そんな馬鹿なと言い返せず、フェリシエーヌは俯いた。
確かに、そういう解釈はあり得るのだ。
「陛下はレンフォード家にも、僕にも、過分なる配慮をしてくださった。本当なら、レンフォード家はお取り潰しになってもおかしくないのに。……それなのに、陛下は立ち直る機会を与えてくださったんです」
「…………」
「まだ成人もしていない、未熟な僕が後を継ぐことで、どれだけの波乱があるのか……今はまだ分かりません。けど、ヴェルナー閣下が後見としてついてくださったし、有能な家人の何割かは僕のこともよく知ってくれているから……苦労はするだろうけど、何一つ上手くできない、なんてことにはならないと思うんです」
「…………」
「それもこれも、陛下がレンフォード家をほとんど無傷で僕に継がせてくれたからです。そして、王命という強い力が僕の統治を後押ししてくれる。……僕は、陛下や、あなたにこれ以上の迷惑をかけたくない」
フェリシエーヌは何も言わなかった。
シーゼルは確かに女王に許されはしたが、公的な場で処罰を与えられている。公的には彼もまた罪人なのだ。
王が裁いた家の罪人を王女が惜しむようにして見送れば、心ない人々はなんと囁き、噂するだろうか。
(ただでさえ、この大事な大祭の時期に、偽王弟の騒動があったばかり……!)
噂というのは、強固な鉄剣に入った小さなヒビのようなものだ。最初は目立たなくても、やがて強く鋭い刃すらも折ってしまう。
だから分かる。
現状を鑑みて、どう動くべきなのか。誰の言葉が正しいのか。
「……見送りに立たなければ、いらぬ波風をたてない、ということですわね……」
「そうです。姫」
「だから、見送るな、ということなのですわね……」
「いえ……」
悔しさを堪えて言ったフェリシエーヌに、扉の向こうにいるシーゼルがやや言葉を濁す。
次いで、ぼそぼそと弱ったような声で言った。
「その……なんていうか……今……見送っていただければ、と思って……」
今?
フェリシエーヌの頭が真っ白になった。
今?
よりにもよって、今!?
(嗚呼ッ!!)
思わず盛大に頭を抱えて天井を振り仰ぎ、次いで据わった目で扉を激しく睨みつける。
(ままよっ!!)
「……シーゼル」
「はいっ!?」
覚悟を決めて発した呼び声に、何故か扉の向こうから悲鳴じみた声が返る。
「……扉に背を向けてくださいませ。決して……けっっっして! 振り返ってはいけませんことよ?」
「は……はひッ……!」
こちらの覚悟が伝わったのか、相手も死を覚悟したかのような返答になった。
フェリシエーヌは(よし!)と気合いを入れる。
数秒待機し、おそるおそる扉を開くと、シーゼルはきちんと背中を向けていた。わずかでも振り向く素振りを見せたなら即座に部屋に帰れるよう、フェリシエーヌはそろそろと彼の後ろに近寄る。
未だかつて無いほど緊張している相手の背中に、それ以上の緊張をもって、そっと手を伸ばした。
『……シーゼル』
まだ肉の薄い相手の背に触れ、おずおずとその背中に頬をよせる。
呼びかけは心の声で行った。
肉声を出せば、きっと震えを感じ取られてしまうだろう。
『……あなたの行く先に、いつも光がありますように』
古来より、旅に出る者には親しい者が祝福を贈る習わしになっている。
それは最古の呪いの一つであり、原初の魔法の一つであるとも伝えられていた。
その通りなのだろうとフェリシエーヌも思う。だが、祈りや呪いもまた、冷酷なる運命の前にあっては何の意味も成さない。
(……あなたに、加護を)
シーゼルは未だ成人していない若輩者だ。
そのシーゼルが公爵家を率いることがどれほど困難なことなのか、フェリシエーヌにも分かっていた。
シーゼルは年の割には秀でているし、自分の目から見てもなかなかの資質を備えていると思う。
好意の深さ故に、やや盲目的であることは否めないが、実際、貴族の子弟の中では抜きんでた存在だったのだ。
けれど、それは同じ年頃の『子供の中』に限ったことだ。
年月によって培われた経験は、時に天賦の才すらも上回る。
まして『レンフォード公爵家』。そこに待ち受ける人々は、正嫡の子であり女王の勅命を受けたシーゼルにとっても、恐ろしく強く、難しい敵だろう。
──それでも勝たなくてはならないのだ。
(……どうか、無事で……!)
貴族の出であるのならば、身の回りの危険については様々に教えられている。もし食事に毒を盛られたら? 寝室に刃を持つ者が忍び込んで来たら? そう考えると恐ろしくてたまらなくなる。
そんなことはありえないだなんて、思えるほど幸せな人生は送っていないからこそ余計にだった。
「……フェリ」
思わずすがりつくように背中に伏せるフェリシエーヌに、シーゼルはわずかに目を瞠り、背中に感じる温もりを心に刻みながらそっと声を落とした。
今はもう、二人きりの時でもめったに呼ぶことはない──懐かしい呼び方で。
「今回のことは、全部、レンフォード家の闇が招いたものだと思う。王女であったことに固執する母に、そんな母や王家の血に鬱屈を抱えている父。代々続いてきた名門であると、血を誇るしかできない親族達」
「…………」
「こんな状況を想像してたわけじゃないけど……いつか、こんな風に、いろんなものが壊れて、破綻してしまうんだろうなって……そう思ってた」
フェリシエーヌは相手の背に体を預け、目を伏せる。
「僕には……母の考え方はよく分からないけど……父が何を考えたのかは……分かる気がするんだ」
「……え?」
思いもよらない言葉に顔を上げると、さほど身長差のない相手の後ろ髪が目の前で小さく震えた。
「……父は……壊してしまいたかったんだと思う。自分の目の前にある、心を波立たせる『存在』を」
「……心を……波立たせる存在……?」
フェリシエーヌは思わず鸚鵡返しにその言葉を呟いた。
途端、するりと心の中に言葉が染みこんでくる。
(父は、王家の血ばかり強調する母を忌避していた)(憎んでいたといってもいい)(思い通りにはならなくて、自分より立場も上)(異父兄は、その象徴みたいなものだった)(自分以外の男と、王女の間に生まれた子)(王弟殿下も……)
「父が全てを企んだのだとしたら……たぶん、王宮をどうにかしたい、とか。国の威信を揺るがしたい、とか……そんな大層なことじゃなくて……」
(もしかしたら、意趣返しみたいな軽い気持ちで、そういうのを望んだりもしたかもしれないけど)
「異父兄か、新しい王弟殿下か……そのどちらかが王宮で罪を犯して、処罰されてしまえればいい……そんな感じで企んだんじゃないかな、って思う」
(どう考えても、計画性とか、全然ないから)
心の声と肉声の両方で語られて、フェリシエーヌは瞠った目をさらに大きく見開いた。
「……ただ……それだけのために……?」
言葉が零れたのは、無意識だ。
「たったそれだけのために……あんなことを!?」
あまりにもひどい、と思った。そんなことのために、沢山の人が悲しみ、苦しみ、命すら失うはめになったとは……!
「あなたのお父様は、いったい、何を考えていらっしゃるの!」
「何も考えてないんだ」
激昂したフェリシエーヌの声に静かに答え、シーゼルは低い声で呟いた。
「……そういうことは、何一つ考えてないんだ。誰かが傷つくとか、死んでしまうとか、王家や国が大変なことになるかもしれないとか、そういうのは。……自分と、自分の家と、利益と……それさえ守られていればそれでいい、って。そう、考えてるんだ」
「そんな……!」
「僕も、そういう風に教えられた。……フェリと出会ってなかったら、きっと、父の複製みたいな考え方になってたと思う」
(何度も何度も、何かの呪文のように聞かされたんだ)(大事なのは、レンフォードの家だ。他のことは考えなくてもいいんだ、って)(でも、僕は家よりも大事なものがある)
声に出す言葉よりも雄弁に語る心の声に、フェリシエーヌは痛みを堪えるような顔になった。
大貴族の血と、誇りと、選民意識に凝り固まったレンフォード家。
その嫡子として育てられたシーゼルが、いったいどんな風に育てられようとしていたのか。実際に目にしていなくても、どんなものなのかは想像に難くない。
おそらく、アルトリートがそうであったように、血統に対する異様な執着と異常な誇りを植えつけられ続けていただろう。
昔、婚約者として赴いたことのあるレンフォードの家は、まさにそんな雰囲気のある家だった。
あの家でかろうじてまともだったのは、シーゼルと、シーゼルの同父兄。そして、ごくわずかな従僕だけだ。
「きっかけは、クラウドール卿の婚約で、母がいつものごとく『王家の血筋』云々で騒ぎ出したことだと思う。父にとって、母のあの言動はすごく癇に障るものなんだ」
「……じゃあ、公爵は、公爵夫人が王都に行くのを知って……例えば、あなたの異父兄さまや、公爵夫人を……唆したの?」
「……そうだと思う。最初、母は一人で王都に来るつもりだったみたいだから」
シーゼルが語るところによると、こうだった。
孤児院に収容されていたメリディス族の少女が王族に迎え入れられ、クラウドール侯爵と婚約したと報じられた後、公爵夫人が癇癪を起こして王都行きを計画。その直後に公爵はシーゼルの異父兄であるアルトリートを部屋に呼ぶ。アルトリートはその数時間後に、王都行きの用意を調えている公爵夫人の部屋を訪問。その後、馬小屋の近くで起居するクリストフの所に向かった。
そして、ほとんど間を置かずして、三人で王都に発った。
「母の企みなのか、父の企みなのか、それとも異父兄の企みなのか……実際に王都に来たあの人達に会うまでは分からなかった。けど……すくなくとも、異父兄は違ってた」
「……そう……ですわね」
フェリシエーヌはふとレンフォード家の街屋敷でのことを思い出し、沈鬱な表情で俯いた。
フェリシエーヌの思った通り、シーゼルは実家の街屋敷に監禁されていた。だが、屋敷に乗り込んだフェリシエーヌは彼を見つけることはできなかった。
彼女の生家もそうだが、上級貴族の屋敷には幾つもの隠し部屋と、隠し通路が存在する。
シーゼルが閉じこめられていたのもそのうちの一つであり、そういった部屋や通路は余人には決して教えてはならない決まりになっているのだ。
おそらく、手助けがなければシーゼルとは会えなかっただろう。
彼女をシーゼルに引き合わせてくれたのは──アルトリートだった。
「……わたくし、今だからこそ思うのですわ……」
驚く自分を淡々と見つめ、決して明かしてはならない通路を教えてまで案内してくれたアルトリート。
相手の企みを知るために、その心の中を読み取ったからこそようやく知った。
「……あの方は、最初から……企みが成功することを、望んでいらっしゃらなかったんじゃないかしら、って」
──全てを手に入れるか、なくすかすればいい。
ただそれだけを望む、狂気と呼ぶにはあまりにも切ない相手の悲しみ。そして、どこか投げやりな気持ちしか伝わってこなかった『心』。
「……わたくしがどれほど『心話』の能力を高めても、あの方がついていた『嘘』は読み解くことができませんでしたわ。深い霧に妨げられているように」
おそらくそれはなんらかの魔術が関わっているのだろう。光の紋章を持つ女王の心が一切読み取れないように、強大な紋章を持つ者や、その加護を与えられた者、そして自身に複雑な魔術を施している者の心は読む解くことができない。
「でも、あの心だけは『聞く』ことができましたわ……」
迷子のような、だだっ子のような、それでいて深い諦念と、それに相反する執着をもつ、今まで感じたことがないような複雑な『心』を。
それを伝えると、目の前にあるシーゼルの背中が少しだけ落ち、ため息と同時にこう呟かれた。
「……フェリってば、それをまともに異父兄に言うんだもんね……」
「あっ、あれは……!」
あわや殴り合いの喧嘩になりかけた一幕を示唆されて、フェリシエーヌは真っ赤になった。
「だって、仕方ないじゃありませんの!」
婚約者ともども隠し部屋に半ば閉じこめられた状況で、敵を挑発するような言動がどれほど危ういか、フェリシエーヌにだって分かっていた。
だが、それでも思わず言ってしまったのだ。
──無か全しか選べないだなんて、あまりにも馬鹿げているのではありませんの?
と。
「最初から、全部、なにもかも無くすつもりという、そんな気持ちしか伝わってこなかったんですもの……!!」
胸を締め付けられるような『声』に負けて、思ったことをそのまま言葉にした。売り言葉に買い言葉をして、おそらくギリギリの線で狂気を押さえていた相手を揺さぶってしまったのだ。
結果、掴みかかられかけ、立ちふさがったシーゼルがかわりに殴られ──初めて見る殺気だった男の人の恐怖に、シーゼルが殺されてしまうのではないかと焦って──
何かを考える前に刃物を持って走ったところで、アデライーデ姫に凶行を止められたのだ。
「……馬鹿だったと、思いますのよ……わたくし自身。あんなに深い絶望を感じ取ったというのに、あんなに追いつめられていらっしゃることには……全く気づけなかったんですもの」
もっと深く理解しようと思って『読んで』いれば、いくらだって読み取れたし、どんな状態であるのかを察することだってできただろう。
けれど、それをフェリシエーヌはしなかったのだ。
なんのことはない。フェリシエーヌにとって『アルトリート』という存在は、王家に大罪を働いた不届き者という以前に、シーゼルをいじめた大嫌いな人だったのである。
「フェリ……異父兄は、僕にはイヤな人だったけど……でも、僕だって、異父兄にとってはイヤやヤツだったと思う。……人って不思議だよね。どれだけ沢山のことを知っていても、相手に向ける感情一つで、見えているものも見えなくなってしまうんだから」
「……そうですわね」
頷きながら、もし、これがベルだったならどうだったろうか、とフェリシエーヌは考えた。
あのどこまでも真っ直ぐな少女だったなら、瞳を曇らせることなく、相手をちゃんと見ることができただろうか。
──あの青年を……ほんの少しでも、救えただろうか。
「……あの方のことを考えると、今も──どうしてもっと、と……自分の至らなさを情けなく思ってしまいますわ。わたくしは、今もあなたをいじめたあの方を許すことができませんの。……けど、あの時のあの方は、少なくとも……あなたを引き合わせてくれたりと、少しだけ親切でしたし……あまりにも……可哀想でしたわ」
「…………」
わたくしは、と小さく呟いて、フェリシエーヌは瞳を閉じた。
「……あの方達のことを……未だによく知りません。そして、おそらくこれからも知る機会はないでしょう。……接点は小さく、時間は短く、そしてわずかな時間で相手を理解できるほど、わたくしも優れてはいないのですもの」
「…………」
「自分にできないことを誰かに望むのは、もしかするととても浅ましいことなのかもしれませんわ。けれど、わたくしはあの方達を理解できませんでしたし、あの時あの場に居合わせても、何一つ成せたことはありませんでしたけれど……祈り、願わずにはいられませんの。あの方達を救ってくれる存在が、あの時、どこかにいてくださることを」
それは都合の良い願望なのだろうけれど。
「……あの方達に、少しでも……暖かいものが……与えられれば……」
こみあげてきたものを堪えて、フェリシエーヌは言葉を紡いだ。
捕らえられたアルトリートが、どのような経緯を経て処刑されたのか。
保護されたクリストフ王弟殿下が、その間どのような心境でいたのか。
それをフェリシエーヌは知らない。
それは彼女の与り知らぬことであり、関わることを許されなかった事柄だ。
だが、少なくとも新しい王弟が絶望を感じ、慟哭にも似た声で泣き叫んでいることだけは分かった。彼の心の声が、後宮にいる自分の所にまで届いていたからだ。
「……僕も、あの二人があの後どうなったのか……全てが終わる直前まで、知らされなかった。もし、それを知っているとすれば……クラウドール卿や、君の妹姫だと思う。高熱を出して寝込んでしまったようだけど」
騒動の翌日、高熱で倒れて寝込んでしまったベルの痛ましい姿を思い出し、フェリシエーヌはギュッと強く目を瞑った。
愛らしく、小さな新しい義妹。まっすぐでひたむきで素直な彼女は、あの騒動で何を感じ取り、何を思ったのだろうか。
小さな体で受け止めるには、あまりにも辛い現実だった。熱を出したとしても、不思議ではない。
心が許容量を超えて強く揺さぶられた時、人の体は様々な症状を引き起こす。
意図せず流れてしまう涙や、頭が壊れてしまいそうなほどの激しい頭痛。そして、他に何の原因も無いのに、突然心身を襲う高熱。
それらは全て、心に起因する病だった。目に見えない悪魔が体に忍び込んだわけでも、生まれ持った病への抵抗力が消えてしまったわけでも、怪我や病気で引き起こされたわけでもない、人の持つ『心』が引き起こす体調異常。
(……ベルは、また、辛い現実に遭ってしまったのですのね……)
長い間、辛い現実の中を必死で生きてきたというのに。ようやく暖かい場所に保護されて、穏やかに幸せに生きるのだろうと思っていたのに。あの少女はまた、辛い現実を間近に見ることになったのだ。
あの二人の青年のことを思うと同時、あの愛おしい妹のことも思う。
少しでも、暖かく、優しいものを得られていればいいのに、と。
「……シーゼル」
しばらく無言で立った後、フェリシエーヌはそっと相手に声をかけた。
シーゼルが一瞬振り向きかけ、慌てて真正面に向き直る。
「わたくしは、強くなりますわ」
「……フェリ?」
「自分の感情にふりまわされて、見るべきものを見ずにいただなんて、こんな情けないことはありませんわ。これからも、わたくし達は沢山の事にあい、沢山の人と出会うでしょう。そんな時、同じ事を繰り返すわけにはいきませんもの」
「……フェリ……」
「強くなりますわ、わたくし」
フェリシエーヌの言葉に、シーゼルが小さく息を詰まらせた。
(……君が、そう言うのなら)
心の声が、口に出される言葉よりも前に伝わってくる。
「僕も、強くなるよ……」
(君のために)
フェリシエーヌは唇をほころばせる。決して読もうとしなくても、シーゼルの心はいつだってこんな風に自分の元に強く届く。込められた思いが強ければ強いほど、心の声は強く大きくなるのだから。
(……でも、これ以上強くなられたら、僕、生きていられるかな……)
「……どーゆー意味ですの。シーゼル」
これまた先と同じぐらいハッキリ伝わってきた相手の心の声に、フェリシエーヌは即座に目を険しくした。
シーゼルの背中が一瞬で強ばる。
「フェ、フェリ……姫、ぼ、僕は別に何も……」
「わたくしが強くなるのが、どうしてあなたの生き死にに関わってくるというのです?」
「読んだの!?」
「勝手に伝わってきたのですわ!」
慌てて弁明のために振り返るシーゼルに、フェリシエーヌはクワッと目を見開く。
シーゼルは青ざめた顔であたふたと言葉を探し──
ふいにキョトンとした顔になって首を傾げた。
「あの……フェリシエーヌ姫?」
「なんですの!?」
「……御髪に、ブラシがくっついているのですが……」
言われて、フェリシエーヌは真っ赤になった。別のことに気を取られて忘れてしまったが、自分は今、とても人様には見せられない格好をしていたのだ!
「ふ……振り向くなと言ったでしょー!?」
「わぁっ!?」
真っ赤な顔のまま、フェリシエーヌは相手に投げつけるべく髪にくっついたままのブラシを握る。しかし、とれない。
仕方なく近くにあった大きなカウチへと走り、設置されていたクッションを投げつけると、すでにシーゼルは扉の近くにまで逃げていた。
「シーゼル!!」
「フェ、フェリシエーヌ姫! しゅ、出立の時間が過ぎてますのでっ!」
「お待ちなさいッ!!」
「ごきげんよう!!」
最期に精一杯手を振って飛び出ていく相手に、フェリシエーヌは思う様地団駄踏んだ。
「もう……! お馬鹿さんッ!!」
かけるべき言葉も、与えるべき祝福も、結局中途半端になってしまった。
フェリシエーヌは憤然と息を吐き、(まぁいいですわ)と腰に手をあてて胸を張った。
(どうせこちらが一段落ついたら、わたくしもレンフォードに行くのですもの)
今はまだ心配事があるから動けないが、それが片づけばいつでも動ける。すでに王の許可もとってあるし、なによりシーゼルには渡さなくてはならないものがあるのだ。
(……もし領地で女の子と遊んでいたりしたら、承知しないんだから)
相手の日々の生活を思って、フェリシエーヌはこめかみに青筋をたてながら寝室に戻った。
おそらく隣部屋からこちらを窺っているだろう侍女達を呼ぶべく、ベッド近くの台に置かれた呼び鈴を手に取る。
これからの目標も、行くべき先も決まった彼女がまず最初にとるべき行動は──自分の髪にからまった、強情なブラシを取り除くことだった。