④ マルグレーテ・レンフォード
──静かだ、と思った。
壊れた天井から差し込む日差しが、荒れ果てた部屋を照らし出している。
かつては贅を凝らした豪奢な部屋だったのに、今では見る影も無い。
抉り取るようにして崩された天井は、そこにあったはずのシャンデリアごと瓦礫の山と化していた。廊下と部屋を隔てる壁はほとんど残っておらず、巨人がハンマーを振るったかのように破砕されている。
窓のある外側の壁は、鋭利な刃物で切り落とされていた。恐ろしく切れ味のいい刃だったのか、断面は職人が磨き上げた大理石よりも滑らかだ。
毛の長い絨毯の上には塵と瓦礫の欠片が散らばり、動くたびに足の下でジャリジャリと嫌な音をたてる。
キィキィと響く軋んだ音は、蝶番の外れた扉だろう。今にも崩れ落ちそうな風情で、部屋の片隅で揺れていた。
風が運んでくる街の喧騒は遠く、けれど周囲には壊れた音が満ちている。
それでも──静かだと思った。
半壊した屋敷の中には、ほとんど人の姿がない。
後難を恐れて暇乞いをする者は多く、傅く人であふれていた屋敷は、今はほんの数名が残っているだけだ。
マルグレーテは緩慢な動きで周囲を見渡し、難を逃れていた古めかしい揺り椅子に深く腰を掛けた。
感情がこそげ落ちたような目が見つめるのは、壁の残骸にひっかかった王都の絵画だ。
(…………)
ふと、何かが頭の中で言葉を紡いだような気がした。
描かれた白く美しい王城を虚ろに見つめてから、マルグレーテは視線を下げる。
絵画の下には白く大きな暖炉があった。その暖炉も、左下あたりが見事に吹き飛ばされている。衝撃で割れたらしいレンガの欠片が、白い粉となって周囲に散っていた。
暖炉の上には、小さな銀細工が一つ。無造作に転がったそれが、鈍い光を反射している。
マルグレーテの眉が、一瞬、痙攣するように震えた。
暖炉の上には、金細工の燭台や宝石が填め込まれた美しい花瓶などが置かれていたはずだった。それらの姿は、今はどこにも無い。
おそらくかつての使用人に持ち去られたのだろう。……あれだけの騒動の中だ。見咎める者もいなかったに違いない。
(…………)
また何かが頭の中で言葉を紡ぐ。
だが、それをきちんとした『言葉』として理解することはできなかった。
マルグレーテは立ち上がり、どこか緩慢な動きで暖炉の前へと歩く。
転がっているのは、別の場所に置いていた腕輪だった。
それなりに美しいが、たいして目を惹くような品では無い。蔓草の意匠はありふれているし、銀の質もそれほど良いものでは無かった。だいたいにして、華やかさに欠けていてマルグレーテの好みではない。
装飾品ならば、銀よりも金の方がいい。
さらに宝石がついていればもっといい。
意匠は美しく洗練されているものが自分には相応しく、また高価なものでなければ身に着ける価値もない。
そう思っている彼女だから、その腕輪をつけたことなどほとんど無かった。
同様に、その程度の品だからこそ、こんな所に放置されたのだろう。
別の場所にあったこの腕輪を盗んだ者も、この部屋にあった品を見て、より高価なそちらを盗んでいったに違いない。。
沢山の使用人が逃げるように去った後だから、誰が何を盗っていったのかは分からない。
追求して後悔させてやろう、と思う。
思うが、どういうわけか行動する気にはならなかった。
(…………)
三度、頭の中に何かの言葉が浮かんで消える。
何だろうか?
思うが、それすらも靄がかかったようにぼんやりとしている。
(…………)
緩慢な動きで何かを探すように部屋を見渡し、マルグレーテはもう一度暖炉の上へと視線を投じた。
何度見ても、つくづく素朴でつまらない腕輪だった。なんでこんなものが残ったのだろう。
いっそ『これ』が消えて、お気に入りの髪飾りでも残っていれば、まだ少しは晴れやかな気持ちでいられただろうに。
(…………)
頭の中で言葉が舞う。
それが何かは分からない。
分からないのに、気にかかる。
ぼんやりとした頭の中、それだけがいやに気になって気持ちが悪い。
なのに、それすらもどうでもいいような気がする。
マルグレーテは腕輪を見続ける。
価値のない腕輪だった。好きで手元に置いてあったわけでもない。
けれど、どうしてか捨てようという気の起きなかった品だった。
「…………」
唇がかすかに動く。
けれど言葉は紡がれない。
マルグレーテは腕輪を手にとり、好きでもなんでもないそれを左腕にはめてみた。細く美しい手首には不似合いな、どこかやぼったい腕輪が鈍く光る。
なんでこんなものが残っているのかと思う。
そして……なんでこんなものを──あの子は作ったのだろうか、と思った。
頭の中に浮かぶのは、在りし日の少年の顔だ。
後で生まれた子には遠く及ばないものの、それなりに利発な子だった。造作も悪くなかった。教育係達も、下の子が生まれるまではあの子に満足していただろう。
だが、役にたたない子だった。
最初から最後まで、役にたたない子だった。
いてもいなくても変わりない、どうでもいいような子だった。
何を思ったのか、遊びで細工物などを作ったりして、王族の血を引いているのに何をしているのかと嫌悪したこともあった。
いつだったか神官になりたいなどと言われたこともあった。その時には幻滅を通りこして絶望した。
なのに、何故、自分はあんな子の作った腕輪を捨てずに持っていたのだろうか?
(…………)
視線が下がる。
腕輪が光る。
捨てよう、と思った。
処刑された子だ。その子に関するものなど、何一つ持っておくべきではないだろう。
関係するようなものは何もかも捨ててしまって、自分とは関わりが無いという風にしないといけない。
自分には末の子がいるし、あの子がいる限りはレンフォード家も安泰だ。誇り高い王家の血もきちんと継いでいる。問題はない。
(…………)
マルグレーテは唇を開いた。
使用人を呼ぼうと思った。
この腕輪を渡して、どこかに捨てさせようと思った。
いっそ使用人にやってしまってもいい。処分してくれるならなんでもいいだろう。
ほとぼりが冷めた頃にでも新しい装飾品を技師達に作らせて、あれがいいかこれがいいかと選ぶのも楽しそうだ。
いっそこの機会に昔のものは全部捨ててしまって、何もかも新しくしてしまおうか。
そうしよう。
そう思った。
(…………)
マルグレーテは腕輪に手を添える。
人を呼ぼうと唇を開く。
けれどその手は腕輪を外すことはなく、唇は言葉を紡ぐことはなかった。
マルグレーテはただそこに立つ。
──ずっと、ただそこに、立っていた。