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対オジサマ攻略法!<闇の王と黄金の魔女>  作者: 関根麻希子
エピソード 【煉獄のルストシュピール <零>】
93/107

③ ケニード・アロック

 


 クレマリス大神殿に初めて足を踏み入れた時、最初に思ったのは『巨大な宝箱のようだ』という罰当たりな感想だった。

 大陸西中央において最も人々に信仰されている宗教──その総本山とも言える大神殿で思うにしては、いささか俗物的な感想だったなと今では思う。

 だが、そう思わずにいられなかった理由もよく分かっていた。

 本来、エラス教はその教えの中で『日々慎ましく生きよ』と謳っている。

 華美よりも質素を尊ぶ記述は多く、そのせいもあって、特に辺境の教会などは非情に慎ましい生活をしていると伝え聞く。

 だが、神の家とも呼ばれる大神殿は、天井から床に到るまで贅を凝らした造りをしていた。

 それこそ、神々の宝物庫と人々に揶揄されるほどに、である。

(……元々は、芸術家とその作品の保護に力を注いでいたわけなんだけどね……)

 戴冠式を描いた絵画の前に立って、ケニードは口元に微苦笑を浮かべた。

 世に『芸術家』と呼ばれる人々の中には、ただそれだけのために生き続ける人がいる。

 彼等は食べることよりも寝ることよりも美しく着飾るよりも、ただただ自分の手が生み出す作品にひたすら没頭し続ける。

 時にはそのために命を落とす者もいるが、彼等に「なぜそこまでして」と問うても答えは返ってこないだろう。

 ただ作りたくて作りたくて作りたくてたまらない人々の、その言葉にならない本能にも似た心など、どれほどの言葉を尽くしたところで語れるものではないのだ。

(一途、って言えばいいのかな……それとも、生きるのが下手だって言えばいいのかな……)

 ケニードは若葉の色に似た瞳を伏せる。

 ──師であるオーディルクが、まさにその典型だった。

 突出した技能を持ってはいたが、その方面のこと以外では恐ろしく生産性に乏しい、そして著しく生活力に欠けた人だった。

 どれほど体が壊れようとも、ひとたび作品に向き合えば、ただそれだけしか見えない人であり、そのために命が尽きても本望と言いきるような人だった。

 結局、最期まで作品を作り続け、作業場の片隅でひっそりと息を引き取った。その時作られた宝冠は、今も式典の度に女王の頭上で輝いている。

(……あれが、最後の作品だったな……)

 芸術家として最高の誉れだと人々は言う。

 彼女を羨む同業者はいても、彼女を哀れむ同業者はいなかった。彼等にとっては、それが常識なのだ。

 だけどケニードは思う。

 もしオーディルクがずっと昔から、父のような人の保護を受けていたら、もっともっと長生きができたのではないか、と。

 女性を心から愛し、ふわりふわりと風に舞う綿毛のように軽くて落ち着きが無くていつどこに飛んでいくか分からないような父ではあるが、その財力と商売の才能だけは他の貴族よりも図抜けていた。

 オーディルクがもっと早く父と出会っていたなら、彼女は貧困で病み衰えることなく作品を作り続けることができただろう。そうすれば、きっともっと長く生きることができたはずだ。

(……教会が芸術家を保護するのは……彼等が、あまりにも生きるのが下手だからだろうな……)

 家賃を滞納し、食費を削って絵の具を買いあさり、ただひたすら画布に描き続ける画家。

 作品を作りたいばかりに、飲まず食わずで山に籠もって岩をひたすら削っている彫刻家。

 芸術家と呼ばれる人の全てがそうであるというわけではないが、余人には理解しがたいほどに作品に没頭し、そのせいで生活が苦しい人が少なくないのもまた事実である。

 良い作品を作ろうと思えば、やはり素材にこだわる必要が出てくるし、そうすると原材料は非常に高くなる。

 また、優れた作品を長く保存するためには、それなりの技術と作品を保護し続けれるだけの財力がいる。

 結果、後援者(パトロヌス)の支援が必要となるのだ。

 教会は、彼等に作品を作らせることで仕事を与え、その身と作品そのものを保護してきた。

 教会の権威を高めるためにも優れた芸術は必要であったし、そういう意味では互いに良い関係が出来ていたと言えるだろう。

 だからこそ力ある教会の、力ある人物の元には優れた芸術が集まる。

 それこそ、人類の至宝、神々の寵愛の証、とまで言われるほどの芸術が。

(いつか──)

 ケニードは目を細め──ふいに浮かびかけた言葉を形になる前に打ち消した。

 考えても意味のないことは考えない。

 思ってもどうしようもないことは思い浮かべない。

 現実はいつだって弱者には辛く、厳しい。己が強者ではないことを知っているケニードは、幼い頃から心が潰れる前にその原因をやんわりと靄の中にくるんでしまう方法を覚えていた。

 力があれば無理やりにでも己の望むように進もうとするだろう。

 だが自分にはそんな力はない。

 それを知ってるからこそ、力に頼る前に心の中で曖昧なものにしてしまうのだ。

 ──そしてそれは、きっと悪いことではないだろう。

「……もう何年になるかな。その式を終えてから」

 ふいに背後から聞こえてきた声に、ケニードはハッとなってそちらを振り返った。

 窓から差し込む光を背に、女神と見紛う美女がそこに立っていた。

 周囲に光を撒くような黄金の髪。

 聖女の清純さと魔女の妖艶さと王者の覇気を同時にそなえた絶世の美貌。

 長い睫に縁取られた紫紺の瞳は、王家たるアルヴァストゥアル家のみに現れる稀有な色だ。

 直系の王族のほとんどが高齢となっている王家において、この瞳を持つ女性は二人しかいない。

 一人は降嫁した前国王の妹、マルグレーテ。

 そしてもう一人が、目の前にいる女神の如き美女。

 このロンディヌス大陸において、中央随一の美貌と称えられる女王。ナスティア王国が誇る黄金の薔薇── 

 ナスティア国王、アリステラ・レディウス・ルナ・ベアトリーチェ・フォン・アルヴァストゥアルその人である。

「……陛下」

 名だたる絵画すらも霞む美貌に、ケニードは嘆息混じりの声で相手を呼んだ。

 その声にわずかばかり非難めいたものが含まれているのは、相手が本来、今この時、この場にいてはいけない人だからである。

「……今、会議の真っ最中じゃありませんでしたっけ?」

「こうるさいことは言うなよ? アロック卿」

 さすがに声をひそめて言うケニードに、その美貌をニヤリと歪めて女王が返す。

 何故か一瞬、チラリとケニードの頭の上に視線をやってから、すぐに視線を戻して笑みを深める。

 何かあるのかとケニードも目線を上げてみたが、典雅な天井絵が見えるだけだった。

「今は息抜きの時間だ。さっきまでうちのジジイどもにうるさく言われていたからな。おまえ達にまで何か言われてはかなわん」

 心底うんざりした声に慌てて視線を戻せば、目の笑っていない笑顔がそこにあった。よほど絞られてきたのだろう。イヤイヤ小言を聞いている様が容易に浮かんで、ケニードは少しだけ微笑(わら)った。

 いろんな意味で型破りな女王だが、彼女は己に課せられた義務や責任の重さを理解している。

 ならば、彼女がこうしてこんな所に来ているのは、難題が一段落したか、もしくは何か大事な理由があってのことなのだ。

「……猊下の所にはお寄りにならないのですか?」

 大神殿にあって最も重要な人物と言えば、言わずと知れたエラス教の最高指導者、教皇アルカンシエルだろう。

 だがケニードの言葉を聞いたアリステラは、なんとも言えない嫌そうな顔をして嘆息をついた。

「私に、大陸最高の……いや『最硬』の頑固ジジイの小言を聞いてこいと?」

 どうやら小言をくらうのが前提のようだ。

「断言するが、今行けば絶対に『王族たる者の心得』とやらを数時間にわたって語られるぞ。……やつめ、自分だって若い頃は王家だの王族だのの面倒事をぶち放って暴れ回っておったくせに、年をとったからといって私にはやれ『王族らしくしろ』だの『規律は守れ』だのやかましくていかん! ラザストでカストラーゼの王侯貴族や大神官を相手に暗躍しておったのは一体誰だ!」

「……何か、一介の下級貴族が聞いちゃいけないよーな、そこはかとなく面白そうな話が出ちゃってるんですけど……」

 アリステラの憤然とした声に、ケニードはなんとなくへにゃりと笑った。

 ラザストと言えば、ずいぶんと昔に滅んだ都の名前である。

 不吉な預言を『読んだ』ため、この世のありとあらゆる滅びを司る者を呼び込んでしまった、と伝えられているが、その真偽の程は定かではない。

 もともとラザストのあったカストラーゼ王国は、かつてのナスティアよりも貧富の差が激しい国であったと聞く。

 滅ぶ前から治安も悪化しており、それ故の滅亡だという噂もあるが、それらを立証するべき文献は残っていない。

 いや──それどころか、あの国に関する文献は、何一つと言っていいほど残っていないのだ。

 かの王国は、ほぼ一夜にして滅んでしまったのだから。

「猊下はラザストにいらっしゃったことがあるんですか……?」

「あやつがうんと若かった頃のことだそうだがな」

 ダメもとで呟くように問うたケニードに、実にあっさりとアリステラは頷く。

 滅んだカストラーゼ王国、なおかつラザストとの関わりは、今の大陸ではどの国でも『禁忌』とされていた。

 その謎に満ちた滅亡の経緯も、引き金になったとされる『予言』も、あまりにも不吉であるため、関わりにあえばそれだけで自分たちの国も同じ轍を踏みかねないという考えがあるからだ。

 そう──万が一名前などつけて、その名を呼んだために『呼び寄せて』しまうことを恐れて、かの強大なる『存在』に、誰も名前をつけられなかったように。

「……とはいえ、その時のことを奴にどれだけ聞いても語らんときているからな。何か知りたいからと問うたとしても、答えてはくれんだろうよ」

 そんな中、一説では『大陸一の美女』とも呼ばれる麗しい女王だけが、平然とこの話題を口にする。

「前にステファンがポロッと零したのを聞いておったから、だいたいのところは推測できるがな。……あのジジイも昔はイノシシのような男だったのだそうだ。頭の固い者達と衝突することも多かったと聞く。……それが今やアアだからな。まったく……!」

 じつに忌々しげに言ってから、アリステラはフンと鼻で息を吐いた。だが、

「まぁ、今現在その国が困難にあっているのならばともかく、もはや滅んでしまってどうしようもない国や都のことなど、容易く口にしたくない気持ちも分からんではない。それは己の無力を思い知るための言葉だからな」

 そう言った声だけは誰よりも深く潔く、無意識に深く頭を垂れてしまいそうなほどの強さと優しさに満ちていた。

 ケニードは、ともすれば膝を折ってしまいそうになるのを堪え、教皇への不満をぶつぶつ呟く相手に微笑みを返す。

「陛下。せっかくの麗しいお顔が歪んでしまっていますよ。──斜め右上に」

 女王はにゅにゅっと狼の微笑を閃かせ、次いで子供のように破顔した。

「まぁ、いいさ。あやつのやんちゃに比べれば、私の所行など児戯に等しいらしいからな。うるさいご老体が目こぼしをくれる材料になってるんだ。あやつが自ら語るまで、無理に聞き出すこともあるまい」

「そうですね」

 ケニードはその笑顔につられるように微笑みを深める。

 女王アリステラは好奇心の強い王だった。

 個人的な好奇心だけでなく、王として滅んだ他国への興味もあるだろう。

 それを押さえて待つことができるのは、ある意味『優しさ』というよりも『強さ』なのかもしれない。

(……陛下)

 だが──今回の場合、それが正しいのかどうかは、ケニードには分からなかった。

 なにせ、こう言うのはかなり気が引けるのだが……教皇はたいへん高齢なのだ。

 齢百を超える人というのは、国単位で見てもそれほど多くない。

 現在、西中央諸国での平均寿命は五十から六十ほどだと言われている。

 魔力の強い者、もともと長寿な家系の者、特殊な魔術で延命している者などは例外的に百を超えて生き続けているが、それらは一般的ではない例だ。

 短命な者ならば産まれてすぐに。そこまで極端ではなくても、環境によっては十に満たぬ間に命を落とす者は多い。

 その原因の大半は飢えであり、それ以外の理由のほとんども貧困が元だった。

 教皇であり王族でもある教皇が飢えることはまず無い。

 また、身に持った強大な魔力を鑑みれば、どれほど高齢であろうとも「もしも」を考えるのは難しいのかもしれない。

 だが──人は死ぬのだ。いつか必ず。

 一分一秒を惜しむように生きても尚、生きている間に語れなかった言葉や思いは山と残り強い後悔となる。

 かつての自分のように──そして、新しい王弟のように。

 ケニードは一瞬アリステラの方をジッと見つめ──目があった相手の瞳に言葉を呑みこんだ。

(──陛下は、わかっていらっしゃる……)

 待つことで守られるものと、失うかもしれないものの両方を。

 ……ならば、あえて自分が口にすることはないだろう。

 この王が覚悟をもって決めたことなら、受けて従うのが臣下たるケニードの役割だ。

(……他のところから情報を集めればいいわけだし)

 ──もちろん、補佐するのも臣下の役割であるからして。

 自らの中で結論を出したケニードは、改めてアリステラを見た。

 こちらの考えなどお見通しなのか、女王はニヤリと覇気のある笑みを浮かべている。

「おまえが宮廷の重鎮になれば、こちらもずいぶんと助かるのだがな」

 前後の繋がりのない言葉に、けれどケニードは驚きもせずただニコリと笑った。

「僕には務まりませんよ」

「ほぅ?」

「……それに、身動きがとれなくなりますから」

「なるほどな」

 にゅにゅっとまた狼の微笑を閃かせて、女王は壁にかけられた絵画へと視線を向けた。

 壁一面を埋めるほど巨大な絵は、今は亡き巨匠フィオラが描いたものだ。

 絵画であれ宝飾細工であれ、女性の職人というのは、この大陸ではさほど珍しくない。

 むしろ大陸制覇を成し遂げたのが全て女性であることもあってか、国や地方によっては女性のほうが優遇される場所もある。

 ナスティアには、今のところ男女のどちらかだからといって冷遇されたり、逆に優遇されたりといったことはなかった。

 人の性は誰かが無条件に上下をつけるべきものではない──

 そう言って、かつて男女のどちらかに傾きかけた時期を乗り切り、頭上に宝冠を頂いた女王の治世が続く限り、今後もそれが揺らぐことはないだろう。

 そう──今目の前にある、この美しい絵画が描かれたその時代──かつて王女にして第一王位継承者だったアリステラが、不当に王位継承権を下げられかけたあの時代を繰り返そうとする愚者が現れない限りは──

(……あの当時、僕はまだ子供だったけど……)

 ケニードは眩しさを堪えるように目を細める。

 ──今から二十年以上も前。

 まだアリステラが王ではなく、自分が生まれて初めて美しい人に恋をしたあの時代──

 憧憬にも似た恋心に浮き立っていた自分が、その人の死に絶望するまでのわずかな間に、実に様々なことが王都では起こった。

 幼かった自分が、あの時、王都に満ちていた空気を理解できるはずもない。

 全ては何もわからないままに始まり──そして何もわからないままに終わっていた。

 ──自分だけではない。

 あの当時、王都にいた民のほとんどがそうだっただろう。

(……あの時……陛下は……)

 ──今だからこそ分かる。

 目に映る全てのものがふわふわしていた幼い自分でも、ふとした拍子にゾワリと寒気がするように感じた──あの時の王都中に漂っていた、ひどく嫌な気配が何だったのか。

 美しい女性がいれば必ず口説いている父が、あの当時だけは大人しくしていたのは何故だったのか。

 王宮で何が行われていたのか──

(……その渦中にいた)

 幼い自分が感じ取っていたものが、王宮を起点とする汚濁と水面下の闘争であるのなら、今、隣にいる美しい女王は、その真っ只中にいたことになる。

 なぜならその時の騒動を経て──彼女はその頭上に王冠を頂いたのだから。

「……ずいぶんと、皮肉った絵だと思わんか?」

 目の前に広がる美しい絵画に視線を注いだまま、アリステラは口元に皮肉げな笑みを浮かべた。

 荘厳な夢の一欠片だと、見る人はそう呟き、感嘆の吐息を零すだろう。

 教皇アルカンシエルの手で宝冠を被せられている新王はあまりにも美しく、その気高く凛とした表情に、見る者の全てが思わず目を奪われる。

 集まった人々は皆麗しく着飾り、色とりどりの衣装は百花の如く華やかで、それを表す絵画の色彩もまさに『色とりどり』と言うべきもの。それを巧みにまとめあげ、一枚の絵に仕上げた画家の腕前たるや、職は異なるものの同じく芸術の道に足を踏み入れていたケニードにとっても、思わず敬意を表さずにいられない素晴らしさだった。

 絢爛たる新王朝の幕開けに相応しい見事な絵と言えるだろう。

 だがそれでもなお、アリステラの言葉を理解して頷いてしまう。

 そう──この絵は、あまりにも皮肉な絵なのだ。

 列席しているナスティアの重鎮。集まった数多の諸侯。

 新王アリステラの向こう側には、それを祝福する二人の王妃。

 群衆として描かれているため、その美貌をハッキリと見ることはできない。だが、陰影だけで表現されたその顔は、晴れやかに笑っているように見える。

 輝く金と、淡い紫銀。

 二人の王妃を区別するには、その髪の色で判断するしかない。もしくは、藤の花に似た王妃の傍らに、同じ髪の子供がいるのを見るべきだろうか。

 母親のドレスを小さな手で握っている少年が誰なのか、その当時王宮にあった者に分からぬはずがない。

 当時の王宮を二つに割りかねなかった危険な存在である彼は、やはり嬉しげに笑って異母姉を見つめているようだった。

 教皇アルカンシエルの傍らには、王位を譲った前王レーブレヒト。その顔もまた、祝福するように笑んでいる。

 ──そんなはずはないのに。

「虚構の戴冠式。偽りの列席者。……あり得るはずもない夢の残滓だ」

 その絵をそう評さねばならない、この王の胸中はどれほどの悲しみで満ちているのだろうか。

 ケニードはいたましさを堪え、静かな眼差しで絵を見つめる女王を見る。

 そうして、あえて彼女の眼差しと同じ静かな声で問いかけた。

「……レティシア王妃の没日時を過去に遡らせたのは……妃殿下と王弟殿下のため、ですね?」

 アリステラは絵を見つめたまま、その口元にほんのわずかな笑みを浮かべた。

 この絵は戴冠式を描いたものだ。

 だが、その戴冠式に、前王と前王の二人の王妃、そして異母弟は列席していない。

 前王はアリステラに無理やり王位を奪われ、王宮を追放された。

 二人の王妃は、そもそもどちらも死去している。

 列席している重鎮や諸侯の姿も虚像だ。

 描かれているのはいずれもかつての王宮を担っていた者だが、彼女の戴冠式にはその半数以上が列席していなかった。

 王宮を我が物顔で闊歩していた彼等のほとんどは、国を傾けかけた罪でそのほとんどが処罰されていたのだから。

 この絵に描かれているそのほとんどが嘘だった。決して有り得ない現実だ。

 ──けれど、だからこそ、この絵は美しい。

 まさにあり得るはずもない……幸せな夢だったから。

「……そうだ」

 アリステラはケニードの問いに答えながら、視線を絵の中、王妃の傍らにある少年へと向ける。

 藤色の髪の少年は、嬉しげに笑っているように見えた。少なくとも、絵の中では皆が笑っているように見える。

 顔の細部は分からず、濃淡と色彩によって笑んでいるように見えるだけの絵だが、見る者にそう感じさせるように描かれているのだ。

 当時の不穏の全てを覆い隠すために。

「……レティシア様は……私にとって、とても大切な方だった」

 ぽつりと、長い沈黙をはさんでからアリステラはその名を語った。

 王宮で禁忌とされ、重罪人として名前の抹消さえ検討されたその人の名を。

「亡くなられたのだと言われても……信じたくはなかったな」

 ケニードは唇を引き締める。

 当時幼すぎて王宮のことなどほとんど分からず、同じく幼すぎるが故に情報にも疎かった彼にとって、全てを知っているのだろうアリステラの言葉はどんなものでも万金に値する。

 問いたい事は山のようにあり、問いたい気持ちは激しい熱のように溢れている。

 だが、口を開くことはできなかった。

 当時の真実はそれほどに禁忌であり、同時に女王の傷はあまりにも深い。

「……この絵を依頼した時、この絵を見た者全てを騙すつもりで描けと命令した。後世、この絵を見た者が、当時の状況を誤解してしまうほどに力を尽くせ、とな」

 王宮の真実など、国民のほとんどが知らないことだ。

 王都に生まれ育った者であっても、噂ばかりで真実を知らない。

 まして後に生まれる者たちならば、真実は遙か彼方にあって、決して知ることの出来ないものだろう。

 ならば騙してやろう、偽ってやろう、誤解させてやろう、夢を見させてやろう。

 そんな風に思って描かせたのだろう……ケニードはそう思った。

 きっと、当時王宮にあった真実とは、それほどにおぞましく悲惨なものだったのだろうから。

「あの方が亡くなったとされる日……それは、あってはならない日だ。あの方の名誉のためにも、あの子のためにも、あってはならない日だ」

「…………」

「隠さなくてはいけなかった。けれど、すでに在ってしまった日を無かったことにはできない。だから……あの後、すぐ……あの方が亡くなったのだと言われた時……その日を……消滅させることにした」

 現実は変えられない。

 それだけは、例え誰であっても曲げられない。

 だが、人の認識を、その記憶を、変えることはできる。

 魔法や魔術などではなく、絶対的な王の権力をもって──

「王妃の没日を実際より早めた。……死したる者は、それ以後の世界で罪など犯せない。………私を殺そうとなど……出来はしないんだ」

「……ッ!」

 ケニードは息を呑んだ。

 レティシア王妃が当時の第一王位継承者であるアリステラを殺そうとした。その事実をアリステラが認めたのだ。決して公になっていない、誰もが口を噤み目を背けた過去の真実を。

 思わず周囲を確認するケニードに、アリステラはようやく視線を向ける。その顔は、どこか困ったような悲しい笑みを浮かべていた。

「誰もおらん。そうでなくて、私がこんな話をするはずもなかろう」

「そ……れは……えぇ……」

 動揺するケニードに軽く笑ってみせてから、アリステラは小さく息を吐いた。

 その視線は、また虚構の戴冠式へと向かう。

「ああ……だが、こうして事実を口に出すのは……はは……いつぶりだろうな。意外と気持ちは凪いでいるものなのだな……。もっとざわめくかと思っていたが」

「…………陛下……」

 なんと言っていいかわからず、ケニードは視線を彷徨わせた。

 この言葉を聞くのが自分でいいのか。思わずそんなことを思ってしまった。

 この気高く強い女王の弱い言葉を聞くべきなのは自分ではない。もっと相応しいヒトがいるのだと知っているからこそ、思わず探してしまう。

 その瞬間、ポンと肩に何かの温もりが触れた気がした。

 そこ見ても、大きく振り返ってすらも、誰の姿も見えはしなかったが。

「なぁ、ケニード」

 呼ばれて、ケニードは慌てて女王に視線を戻した。

 女王は飽きることなく絵を見つめながら、どこか遠い目で呟く。

「嘘を嘘で固め、それを本当とするために何度も何度も繰り返し嘘をつき続け、もはや何が本当で何が嘘なのかすら分からなくなるほどに重ね続けてもなお……真実というものはどこかから暴かれるものだと思わないか?」

 絵画を通して遠い日を見つめる女王に、ケニードも絵の中にのみ存在するその人へと視線を向ける。

 女王と同じく、遠い日を見る眼差しで。

「……陛下。僕はかつて、王宮の庭園を行くあの方を見たことがあります」

「…………」

「……けれどそれも……無かったこと、ですね」

 ケニードがその人を見たのは、王妃が没したとされている日よりも後のことだ。

 もちろん、本当にはその日その時、彼女は生きてそこにいた。

 ──だがそれは、あってはならない日の中に含まれるのだ。

「……すまない」

「……いいえ」

 ゆっくりと首を横に振って、ケニードはほろりと笑った。

「あの方が、本当にはそこにいたことを僕は知っています。……けれどそれは、いくつもの偶然が重なった奇跡のような一瞬でした。……陛下、きっとそういうのは『夢』と言うんだと思います」

「…………」

「いい夢を見たんです。僕ごときの身では見るはずもない、とても綺麗な一瞬の夢を。……それに、夢の続きは、今も見ていますから」

「……『夢の続き』か。いいな、それは」

「ええ」

 苦笑めいた笑みを浮かべた女王に、ケニードは心から微笑んだ。

「あの方はいなくなってしまったけど、あの人がいます。それに、ベルも。……陛下。僕はすごく幸運な人間で、すごく幸せな人間だと思うんですよ」

 アリステラは何故か唖然とした顔になった後、がっくりと肩を落とした。

「……おまえはそれを、心底本気で言いきるんだからな……」

「?」

 ケニードからすれば、なぜそんな反応が返ってくるのかがわからない。

 不思議に思って首を傾げると、相手はさらに脱力した顔になった。

「……おまえには、謝らなければならないことが多くあるんだが……」

「……ありましたっけ?」

「……それも本気で問うてるからな……まぁ、だからこそ、あの大馬鹿助が理を曲げる魔法を行使できたんだろうが……」

「???」

「……指は、どうだ」

 脱力した顔のまま指さされて、「あぁ」とようやくそのことに気づいた。

「指は……まぁ……えーと……予想通りに、と言いますか……」

「満足に動かんのだろう。……おまえは、それなのに……」

 ぼやき、言いよどみ、ややってどっぷりと重いため息をついて、アリステラは顔を上げた。

「レメクは……おまえの作品が好きだと言っていたぞ」

「……え」

「美しいものを美しいと感じる感性だけは、幼い頃から鍛えてやってあるからな。……だがな、千の品の中からただ一つを選ぶ時、あやつはいつだって、おまえが作った作品を……それも、おまえが初期に作った作品を選ぶんだ」

 心に受けた衝撃が強すぎて、ケニードは数秒、息をすることすら忘れていた。

 呆然と立っている青年に、アリステラは微笑(わら)う。

「おまえの作品は、とても美しい。けれどそれは、優れた感性や、卓越した技巧や、凝った意匠だけの評価では無い。……おまえの作品には、いつだって、身につけた人を一生懸命に思う気持ちが込められていた。私が作ってもらった首飾りも、髪飾りも、腕輪や耳飾りも同じく、な」

「…………」

「おまえが最初に作った作品があったろう? まだ宝飾技師ですらなかったお前が、あいつに渡した最初の作品だ」

 言われて、脳裏に拙くあか抜けない作品が思い浮かんだ。

 当時では精一杯の作品だったが、今思えば赤面を通り越して全身が赤く染まりそうなほどみっともない作品だった。

 同時にかつてベルとした会話も思い出す。

 そう──あの最初の作品を、その後つけている姿を見たことがないのだ。

 いくつもの作品を贈っているため、たいして気にしていなかった。あまりにも拙い作品だから、もしかしたらどこかに仕舞われたのかもしれない。また、他の家の家具達のように、不要だからと救貧院などに寄付されたのかもと思っていた。

 それでよかったし、ケニード自身、彼に渡す時にいつもそう言っているのだ。だからそうだろうと思っていた。

「あのマントの留め具、今、どこにあると思う?」

 だけど、女王がそんな風に言うということは、もしかして今もどこかでは使ってくれているのだろうか?

 赤くなったり青くなったりしているケニードに、女王はにゅにゅっと狼の笑みを浮かべる。

 そうして、ややも混乱しているケニードに向かって、それはそれは嬉しそうに言った。

「あれな、式典の時にいつもつけてるぞ」

「げぇっ!?」

 思わずとんでもない声を上げたケニードに、珍しい声が聞けたとアリステラは大笑いした。

「はっはっはっは! すごいことだぞ、ケニード・アロック! おまえの最初の作品は、式典とか儀式とか特別な行事の時に毎回つけられてるんだぞ!!」

「ちょ……ッ!」

「他の連中がおまえを真似てあちこちから上等な物を贈っても知らん顔なのにな! 特別な時にしかつけないんだぞ、アレ! 理由がまたふるっていてな……! 無くすと困るからだとさ!!」

 言って爆笑するアリステラに、愕然と固まったままケニードは顎をガクガク震わせた。

 何か言いたいのだが、声が出ない。

 言葉を探すのだが、どういうわけか頭がカラッポだ。

 アリステラが『式典』と表現するからには、それは年に数回開かれる特別な式典だろう。

 春の大祭の最初の式典しかり、初夏の水神祭しかり、夏の大祭しかり、秋の収穫祭しかり、冬の新年の祝いしかり……

 ケニードのような階級の低い者は、そういった式典の時、王の間近に侍ることはできない。常に王の近くに在るレメクとは、あまりにも隔たりがあって、その人の姿を遠目に見るだけで小さな装飾品にまでは目を通しきれていなかった。

(だ、だけど……だけど嗚呼! 確かに、そういえば、いつも……紫の宝石……ッ!!)

 思い返せばいつだって、マントの留め具はどこか古びた銀と、紫の宝石で出来ていたような気がする。銀がくすんでいたから、もしかしてステファン老の遺品だろうかとそんな風に思っていたのだ。……なのに!!

「ぅぁああああ……」

 思わず頭を抱えてうずくまってしまったケニードに、アリステラは遠慮無く大笑いする。

「あっはっは! いいじゃないか! すごく大事にされてて!」

「で……ですがッ!!」

「ハハハ! ……あぁ、はは、なぁ、ケニード。……あいつはな、あれで意外と……人からの贈り物に弱いんだ」

 笑いの中に何か少しばかり湿っぽいものを混ぜて、アリステラは穏やかな目でうずくまったまま見上げるケニードを見下ろした。

「それも純粋な思いが込められた作品ほど、どうしようもないほど大切にする。おまえの作品はどれも美しい。どれも美しいが……美しさを追求した作品は特に華やかに美しいが……レメクは、たぶん、おまえの手がかつてより拙くなっても、それでもおまえの作品を選ぶと思うぞ」

 ケニードは答えない。

 ただ、泣きそうな顔で唇を噛みしめた。

「もう、作ってはもらえないのだろうかと……今更、作ってはもらえないかと頼むのは、おかしいのだろうかと、ぼやいていたよ」

「…………」

「いつも貰ってばかりで、何も返せないままで、頼む前に持って来るから依頼したことも一度もなくて、今更こんな状態の時になって依頼してもいいものだろうか、とな。……柄にもなく悩んでいた。うちの男共は存外、意気地がないからな。ぐじぐじとくだらんことで悩みすぎる」

 ぼやけた視界の向こう側で美しい女王が腕組みをしてふんぞりかえる。子供のようであり、慈母のようであるその笑みは、やはり水の中に溶けたままで──

「欲しいのなら欲しいと言えばいい。頼みたいのなら頼みたいと言えばいい。なにかをする前にうだうだと頭で考えて何もできないまま終わるのなら、何も考えずにいっそ行動してしまえばいい。今まで一度だって欲しいものを欲しいと言ったことがないあいつだからな、待っていたらジジイになっても言い出せやしないだろう」

 瞬きと同時に一瞬だけハッキリと見えた。

「だからな、ケニード。私からの頼みだ。もしおまえが嫌でないのなら……少しずつでいい、ゆっくりでいい、慌てなくていいから……あいつのための作品だけは、作ってやってくれないか。……昔、私が頼んでいた例のやつも、おまえにこそ仕上げてほしい」

 その美しい紫紺の瞳が、

「あれはきっと、おまえにしか出来ないもので、おまえだけにしか頼めないものだからな」

 その美しい金の髪が、

「おまえは知らなかったかもしれないが、私も、あいつも、おまえの作品のファンだからな」

 そのあまりにも美しい、黄金の如き魂が。

(……僕、は……)

 いつか── 

 いつか──作りたいと、そう思っていた。

 大神殿におさめられているような、神々の秘宝の如き美しい作品。

 それを身につけたあの人は、どれほど本来の姿に近くなるだろうかと。

(僕は……)

 女王から頼まれ、教皇の許可を得て、少しずつ作っていたただ一つの宝物。

 いつ仕上がるのか、自分でも予想がつかないほど丁寧に丁寧に作り続け……今、諦めなくてはいけないのだろうかと、心の奥底に鎮めようとしていたその思いを……持ったままでいいのだろうか?

 いつ完成するのかどうかも分からないのに?

 きっと、本当なら早く仕上がって欲しいだろうに……?

「……僕で……いいんですか?」

 ──それはきっと問いではなく、

「おまえ以外の誰が作れる?」

 ──それはきっと、答えですらなく、

「いつになるか……分かりませんよ……?」

 どちらもきっと、確認という名の言葉のやりとり。

「いつになってもいいさ。どうせ、どんなに早くても十年は待たねばならんだろうしな」

 契約という名の約束。

「十年ですか……それって、早いのかな、短いのかな……」

「気長にやればいいさ。あの頑固者が首を縦に振るまでには、もっと長い時間かかるかもしれないんだからな」

 しゃがんだままのケニードの頭の上に、綺麗な掌が優しく乗る。

 そのままぐしゃりと頭を撫でられて、ケニードはくしゃくしゃの笑顔を俯かせた。

 偉大な女王に頭を撫でられた貴族が、いったい何人いるだろうか?

 偉大な女王に、我が子にも似た大切な人物を頼むと言われた人物が、いったい何人いるだろうか?

 一人もいないということは無いだろう。けれど、それほど沢山でも無いはずだ。

(……僕は、本当に幸せだと思うんです……)

 声にならない思いを心の奥底で言葉にする。

(なんて幸せなんだろうと、本当にそう思うんです)

 ぐしゃぐしゃと綺麗な指がいっそう頭を撫でる。

 光の紋章を持つ女王には、こちらの思いは嫌でも伝わっているのだろう。どこかぶっきらぼうな動きは照れと苦笑が半々な感じで、いっそう胸の奥が熱くなった。

「おまえはいつだって、おまえのままでいればいい。おまえがいてくれることで、救われる者は多いからな」

「……はい」

 頷いたケニードを見下ろして、アリステラは頭の上から手を退ける。

 顔をぬぐい、立ち上がる相手を今度は見上げて、深い色の目で言った。

「……頼んだぞ」

 何を、なのか。

 誰を、なのか。

 そんなことは問うまでもない。

 だから返した。

 ただ一つの思いを込めて。


「はい」







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