② クリストフ・サイフォス
誰かに呼ばれたような気がして、クリストフは薄く目を開けた。
薄暗い視界の中、白いものが目の前でゆっくりと上下に動いている。
頬の下まで続くそれは、柔らかく、暖かく、しっとりとしていながらも、滑るような肌触りをしていた。
丁寧に仕立てられた絹なら、こんな手触りなのだろうか?
美しく装った人々をふと思い浮かべ、ふいに胸を穿った痛みに両目を固く閉ざした。
──■■■■■■もそうだった。
浮かんだその名前に、世界の全てが重く軋む。
白い服。縫い取りの美しい上着。趣向を凝らしたボタン。宝石をあしらったカフス。
そのどれもが上等で、最初に触れた時には、汚しはしないかとただただ恐ろしかった。
──あぁ、あれはいつの頃だったろうか?
あまりにも姿が似ていた自分達。同じ服を着ていれば、屋敷の使用人ですら、時折どちらがどちらなのか分からなくなっていた。
──時々、交代しようか。
そう言って笑っていたのは、いつの頃だったのだろうか。
──勉強から逃げたいんだろ。
そう言って逃げたのは─ あぁ、本当に、いつだったんだろう?
逃げる自分を追いかけて、■■■■■トは笑っていた。
笑ってはいたけれど……何故だろう? 今思い返せば、いつだって、その顔はどこか泣き顔に似ていた気がする。
逃げたかったのだろうか?
思った瞬間に、その答えが浮かんだ。
──嗚呼、逃げたかったに違いない。
八才年下の異父弟。シーゼルの同父兄でもある少年と、彼はいつも比べられていた。
■■■■ートが不出来だったわけではない。
けれど、自分の目から見ても、■■■リートと異父弟の差は明らかだった。
──だが、それはいったい誰の罪なのだろうか?
■■トリートの罪では無いだろう。
異父弟の罪でも無いはずだ。
彼等はただ生まれ、生きていただけなのだ。
人は皆、誰もが生まれながらに『己』という唯一無二の器を持つ。
そこからどんな風に育つのかは育て方次第なのだろうけれど、鳶が鷹にならないように、驢馬が馬にならないように、決して『己』という枠組みを超えた『何か』になれるわけではない。
それはきっととても当たり前のことで、嘆くべきことでも、他人から見下されるようなことでもないはずだ。
なのになぜ、■ルトリートは時折、とても辛そうな目で屋敷を見なければいけなかったのだろうか?
──なぁ……
今なら訊きたい。いつも目を背けていたその問いの答えを。
いつだって訊きたくて……けれど、それを聞いても自分には何もできないからと、ただ黙って見ないフリをしていたあの日々を覆して──
──アルトリート。
アルトリート。
なぁ、あの家から『出たい』と思ってたか?
どこに行けるか分からなくても、どこかに行きたいと思ってたか?
なぁ、それならなんでいっそのこと、俺に言ってくれなかったんだ?
頭のいいお前なら、きっとどこでだって上手くやっていけただろう。
独りで行くのが嫌だってんなら、どこにだって一緒について行ったんだ。
俺は頭が悪いから、言われたことも満足に出来やしないけど、荷物の一つや二つ持って歩くぐらいは出来たんだ。
なぁ、アルトリート。
俺は馬鹿だから、言ってくれなきゃ分からねェよ。
いつも嫌になるぐらい勝ち気なくせに、なんでたまにどん底みてェな顔で落ち込んだりしてたんだよ。
言ってくれよ。
頼むから声を聞かせてくれよ。
いなくならないでくれよ。
おいて逝くなんて、約束が違うじゃないか。
なぁそうだろ? 誓ったじゃないか。
あの二つに割れたコインがそうであるように、俺達は二人でようやく一人前だから、互いに補い合って生きていこうって。
おまえが俺に言ったんじゃないか!
「……家を出るのはいいとして……」
ふと柔らかく染みこんできた声が、揺れる世界に波紋を広げる。
「どうやって暮らしていくつもりだったの?」
──どうやって暮らしていくつもりだったのか。
そんなこと、問われても答えようがない。
難しいことはいつだってアルトリートが考えて、自分はただ言われた通りに動いていただけだ。
「でも、本当なら、考えなきゃいけなかったのよね?」
……分かってる。
だから馬鹿にされるのを覚悟で、俺なりにいろいろ考えてみたんだ。
屋敷に来る連中に外の話を聞いてみたり、下街で会った知り合いに、それとなく尋ねてみたこともある。
『どうやれば、日銭を稼いで生きれるのか』
行商人ならいけるだろう。──連中からはそう言われた。
馬の扱いと、地図を見るのは俺でもできる。簡単な計算や読み書きも大丈夫だ。
話術と腹の探りあいは、きっとアルトリートが上手いだろう。
相手が嘘つきかどうかは、俺が常に見抜いてみせる。
物を売りながら村から町へ、町から街へ。二人でならもしかして、どこまでだって行けたかもしれないのに……
「……そうね。それは少し……楽しそうね」
笑った声がすぐ近くで聞こえて、クリストフは閉じていた目を開いた。
柔らかい弾力を右のこめかみに感じる。
白いそれはわずかに上下していて、目の前には布袋を二つ重ねて潰したような、深い谷間が境界線のように横たわっていた。
何だろう。この線は。
密着してるそれから、なんとも言えないいい匂いがする。花のような、果物のような、ほんのりと甘い優しい匂いだ。
「どこまでだって行けたかもしれない。きっと楽しかったに違いない。……そう思う相手は、あたしにもいたわ」
触れているそこから直に声が響いてきて、目線を上げると綺麗な赤銅色が流れていた。
「どうして人は、いつだって……後になってから、大切なことに気づくのかしらね」
白い貌に、整った鼻梁。長い睫に彩られた青い瞳。
静かな表情が女神のように美しい、アデライーデがそこにいた。
「……あ……ディ?」
なんとなく意外で、クリストフは思わず声に出して呼んでいた。
嗄れたその声にほろりと苦笑って、アデライーデは小さく頷く。
「……えぇ。そうよ」
手がそっと髪を撫で、あやすように背中を叩いてくれる。
まるで小さな子供に対するように、その手は暖かく優しかった。
思い返せば、ふと我に返った時に、必ずその手が傍らにあった気がする。
(……それは)
……いつのこと……だったんだろうか?
ひどく重く感じる頭の奥で、『考えるな』ともう一人の自分が言う。
けれど──
(……嗚呼……)
──考えずに……いられるはずが……ないのだ。
向けられた瞳。
告げられた言葉。
よく見知っていたはずの相手なのに、今まで一度も見たことがなかった表情。
(……アルトリート)
遠かった。あまりにも……その存在が、その心が。
何故と、問う言葉すら相手には届かなくて、結局最後まで答えを聞くことはできなかった。
最後まで。
そう──最期まで。
「……ッ!!」
突然襲ってきた衝動に、クリストフは息を詰まらせた。
一瞬で歪んだ視界が、音をたてて砕け散る。世界が壊れる音だと思った。理不尽な暴力のように、凶悪な嵐のように、全てを砕き、壊し、奪い、吹き飛ばし、この手にあったはずのものすらも力ずくで奪い取っていく暴虐なる音。軋み、ひび割れ、砕け散るその全てが、今まで自分が大切にしてきた世界なのだ。
(アルトリート……!)
どうしてこんなことになったのか。
何度考えても答えがでない。誰が悪かったとか、誰が企んだとか、そんなこと以前にもっともっと大切なものの答えが出ない。
アルトリート、俺が邪魔だったのか? アルトリート、俺はいなかったほうがよかったのか? アルトリート、俺はおまえを苦しめたのか? アルトリート、俺はおまえに何かしてやれたのか? アルトリート、俺達は出会わなかったほうがよかったのか?
最初に出会ったあの場所でやり直せるのなら、あの時差し伸べられた手をとらず、独りあの薄暗い小屋の中で朽ちてしまったほうがよかったのだろうか。
そうすればアルトリートは今も生きていて、もしかしたら立派な貴族になっていたかもしれないのだろうか?
(アルトリート)
年齢も生い立ちも育ち方も考え方も、何もかもが少しずつ違っていたけれど、背中合わせに立って世界を見るように、互いの見えない場所を互いで確認しあって生きてきた。
けれどアルトリート、本当には俺達は、見えないものの方が多すぎて、きっとそれにすら気づかずに生きてきたんだ。
だけどアルトリート、例えそうだったとしても……俺達には、それで十分だったんだよな?
足りないものは沢山あったけど、違う意味では足りないものは何一つなかったよな?
多くを望まなくても楽しくて、欲張らなくても満たされていて、必死にならなくてもそれなりに生きていられて、嬉しいこともそうでないことも沢山沢山あったよな?
なぁ、アルトリート。
どんなに問いかけても、もう答えはどこからも返ってこないんだ。どれだけ答えが欲しいと思っても、もうそれを得ることはできないんだ。
どうしてこんなことになったんだろうか?
繰り返し繰り返し嫌になるぐらい、延々と考えても答えが出ないんだ。
事実が知りたいわけじゃない。そんなものにはもう意味がない。
起きてしまった事を細かく分析したいわけじゃない。そんなこと、もうどうだっていいんだ。
アルトリート。おまえがあの時、あの瞬間に、何を思い何を願い何を絶望し何を望んだのかが知りたいんだ。
俺は邪魔だったんだろうか? いなかったほうがよかったんだろうか? 出会わなければよかったんだろうか?
ずっとそればかりが頭から離れないんだ。邪魔だったのなら、いなければよかったのなら、俺の持てる全ての力で、全部を全部消して壊して滅ぼして、何もかもなかったことにしてしまいたいんだ。
きっと俺にはその力がある。
ただ壊すだけならば、ただ消し去るだけならば。
この身に宿した、虚無の紋章の力が──
ゾワリと、体の奥底から何かが世界に滲み出るのを感じた。
布に落とした水が染みとなって広がるように、音もなく色もなく、ただジワジワと溢れ出し広がっていこうとする気配が。
世界を浸食する気配が──
「……ッ」
すぐ近くにあった熱が、痛みを堪えるように息を詰まらせた。
自分を包み込んでいる熱。柔らかく優しい匂い。
それが何だったのか、何故か頭に思い浮かばない。
ただ暗く昏い闇のようなものが視界の全てを覆い尽くし、耳に聞こえるはずの音すらも塞いでいく。
(……アルトリート)
──最初からやり直そうか?
戻せるものならば、あの時から。
そうすれば何もかも無かったことにできるだろうか?
今という結末も、そこに至るまでの過程も……
(……一緒に在った日々の……全ても……?)
ふと、強く胸を押された気がして目を見開いた。
一緒に在った日々の……全ても?
最初から、全て……?
(アルトリート……)
その、全てを……?
(俺は……)
何かが違う。違っている。
今、決してしてはいけないことを願おうとしている。そう思った。
──音が聞こえたのは、その瞬間だった。
『 覚えていますか? 最初に会った日のことを 』
声だった。
歌だった。
祈りだった。
願いだった。
空から降り注ぐような、世界を包み込むような、歌う人の姿など見えないのに、まるですぐ近くで歌われているような──
(……メリディスの……)
圧倒的な力をもった──
(ちみっちょ……!)
触れていいのかも分からず 手を伸ばすこともできなかった
声を掛けていいのかも分からず 口ごもって立っていた
どう触れあえばいいのか 分からずに待っていた
世界が動いて 今を変えてくれるのを
覚えていますか? 最初に言葉をかわした日のことを
何度も口ごもって 言葉を探しあって
最後には笑って 互いの不器用さに涙した
他愛のない会話 できるようになったのは
いくつもの時 過ぎて 互いに距離を測りあってから
今という時間を 互いの手で作りあって
今という世界を 私達は作った
覚えていますか? 変わり続ける日々のことを
昨日より今日 今日より明日
少しずつ深まり 少しずつ離れ
少しずつ広がり 少しずつ狭まり
いつだって同じ形ではいない 不確かな世界
けれどいつだって 私達は
私達という 不変の生き物
覚えていますか? 変わらないものの形を
それはきっと目には見えず
色すらもないものだけれど
きっと私達のすぐ近くに 永遠にあり続けるものでしょう
覚えていますか? 最初に会った日のことを
全てはそこから始まった
あの最初の日のことを
もしあなたが忘れているのなら
どうか 今 思い出して
人はいつだって弱く 悲しく
思いはいつだって 儚く 不確かだけれど
どうか 今 思い出して
そこにあった本当のもの
嘘ではなかった 大切な日々を
見失ってしまうこともあるけれど
忘れてしまうこともあるけれど
無くしてしまうことはない
あの日々をどうか 思い出して
共にあった 懐かしく愛おしい日々を──
「……『永遠の始まり』」
呟かれた声は、近く、耳のすぐ横で。
「……ルドヴィカの歌劇『サウダード』の一曲……」
「……さう……だーど」
サウダード。
それは愛おしく懐かしく、切なく柔らかく狂おしいもの。
誰もがもう一度手にしたいと願う、あらゆる全ての『源』であるもの。
それを言葉で言い表すのはあまりにも難しく、それを一つの定義にあてはめるのも困難なもの。
だからこそ、それを表現しようと思えば口にするしかない言葉──『サウダード』。
それ故に、偉大と呼ばれた劇作家すら、その言葉でもってしかタイトルとできなかった言葉。
──誰もがかつて持ち、今は失い、心から切望する愛おしく懐かしいもの。
「……なんで……」
声と同時に、何かが目から零れた。
今まで流れていたものと同じであり、けれど何かが違う熱いものが。
「……なんで、この……歌……?」
「……末姫ちゃん、賛美歌とかあんまり知らないし……」
思わず呟いた言葉に、嘆息まじりの答えが返る。
「知ってる歌で『捧げられるもの』を選んだら、こうなったってことじゃないのかしら。『共にありて』『君を思う』『楽園の扉』『永遠の始まり』……全部、サウダードなのよね……そこに確かにあるけれど、決して手は届かない永遠の懐かしさ……」
声と共に柔らかな温もりを感じ、ふと自分を包む優しい体に気づいた。
幼い子供を抱きしめる母のように、アデライーデが自分を抱きしめている。
ボロボロになったベッドの上で。
「歌われる理由は、そこに込められた意味が同じだからじゃないかしら。……『この思いを忘れない』……『あなたを忘れない』、って」
柔らかな腕の中で聞こえたその声に、クリストフは大きく目を見開いた。
あなたを忘れない。
忘れない。
(……忘れない……)
忘れてはならないの……なら……!
(だったら……!!)
無かったことになんか、できるはずがない。
失えるはずがない!
例えもうこの手には戻らないものだとしても、触れることも声を聞くこともえきないのだとしても、だからといってあの日々を失えるはずがない!!
(……俺は……!)
だってそれは、アルトリートという人間を完全に消し去ってしまうことだ。
かわした会話も、過ごした日々も、思いも記憶も何もかもを捨ててしまうということだ。
(……できない……ッ!!)
例え今がどんなに苦しくても、悲しくても、そんなことできるはずがない。
だってこんなにも苦しいほどに、あの日々を愛していた。共に在った日々の全てをこれほどに愛していた。
無くしたくないものの全てが、今もまだこの胸の中にあるのだ。
忘れない。失えない。無くせない。消し去れない。
誰に何を奪われようとも、これだけはもう奪わせられない。
例えそのことでいっそう孤独と絶望を感じたとしても、喪ったものへの慟哭を癒せないままになったとしても、それでもずっと持ち続けていたいのだ。
この胸の奥にある、ただ一つの永遠だけは。
「……ねーぇ、アルルン」
声と同時、脳天に何か重いものが押しつけられた。
それに押されるようにして動いた顔が、目の前にある柔らかな肉に埋没する。
「むごぶ!?」
胸だ。
「ちょーっと落ち着いたっぽいから聞いていいかなー?」
ものすごく立派な胸だ。
「ももまめみもめっ!」
顎で頭を押さえつけられ、顔を胸で圧迫され、クリストフは死にものぐるいで両手をふんばった。
前と言わず横と言わず顔の全てがスバラシイ柔らかさに密着している。肌に吸いつくような滑らかな皮膚。涙の跡すらも温もりに溶かしてしまう暖かさ。
けれどそんな柔肉の温もりや感触を味わうどころではない。豊満な胸は密度が高すぎて隙間がなく、あまりの柔らかさに顔はその場で完全密封。息も絶え絶えに胸から顔を引き抜いた時には、正直、このオンナは自分を窒息死させたんじゃなかろーかと本気で思ったほどである。
(つ、つーか! よく考えたら、なんでこいつが、てゆかなんで俺がここに!? ってここって何処なんだよ!?)
今まで全く気にならなかったあらゆる疑問が爆発して、クリストフは息をするのも忘れて必死に頭を回転させた。
(俺、確か、部屋の一つに閉じこめられて、あいつの傍に行けなくて、あぁ、そういやこいつが俺を押さえ込んでたんだったっけかっつーかあの時と部屋変わってるよーな気がするんだがてゆかなんでベッドだよ? つかベッドボロボロなのはどーゆーことだっつーか目の前のこいつが服…………………………………………!? !? !? !?)
圧迫凶器を押しつけられぬよう、体を力一杯離していたのが悪かった。グルグルする頭で見た目の前の光景に、クリストフは愕然となった。
息が止まり、思考が止まる。
比喩でなく心臓も止まった。
「アルルンって」
その視界の中、珊瑚色の唇が動く。
「もしかし……」
「なんッで……裸ァー!?」
その言葉を遮って、クリストフは絶叫した。
目の前にアデライーデがいる。
それはいい。本当はちょっとイロイロな意味でヨクナイのだが、そこらへんは男の事情というやつだからとりあえず置いておく。
転がっているのがベッドの上なのもひとまず置いておくとして、そのベッドがどういうわけかボロボロなのも後で理由を考えるとして、とにかく今一番問題なのは、目の前にいる女が素っ裸でいることだ!!
「なんでってねぇ……アルルンが」
「俺じゃねェーッ!!」
「いやだって、アルルンの紋章が」
「俺はなんもしてねェ!! おふくろの名に誓って!!」
「……いや……おかーさんに誓われてもね……」
目の前のアデライーデはなんとも言えない困り顔で頭を掻いている。腕という隠しアイテムが動いたせいでいっそう豊満な胸が露わになり、クリストフは本気で死にそうな顔で叫んだ。
「動くな! 隠せ!! 頼むから隠せよ!!」
「……てゆか、見なきゃいいじゃん。そこまで見たくないってゆーんなら」
「見たくないとかじゃねェから見せるなっつーかう・ご・く・なァ!!」
なぜこの女は喋りながら身を乗り出してくるのかというか胸が大きいというか肌が白いというか首筋が綺麗というかすごい曲線美というか……
「……なんだかねぇー……アルルンの紋章がちまちま暴走するからあっちこっちがボロボロになってるってゆーのにねぇ……『魔法使い』の加護が無かったら、あたしだって今頃肉片なんだけどなぁ……」
いろんな意味でグルグルしているクリストフの前で、アデライーデがぼやきながら身を起こす。そのまま服を着に行けばいいものを、なぜか「うーん」などと背伸びをしはじめた。
大きな胸が揺れている。
「アディ!!」
「なぁに?」
「服着ろよ! 服……~~~ッ こっち真正面向くな!」
「……意外と純情よねぇ……アルルン……」
熟れた果実のような胸を反らし、腰に向かって流れる引き締まったラインを強調させてから、アデライーデはひらりと身を翻した。
白い二つの丘をこちらを向けて。
「尻を隠せッ!!」
「……見なきゃいいのに……」
ぼそっと呟かれるが、そんなことが出来るぐらいなら最初からそうしているとクリストフは内心で叫んだ。もちろん声に出しては決して言えないが。
「でもねぇ、アルルン。他のことを気にして叫べるってことは……もう、お話しても大丈夫、って考えてもいいのよね~ェ?」
カウチの上にある服を物色しつつ、こちらを見ずにアデライーデがそう問いかけてくる。
できるだけ視線を外しながら──完全には外しきれず──視界の半分ぐらいで揺れてる白いものに向かって、クリストフは口を開きかけ──
言葉の意味を理解して、動きを止めた。
アデライーデは、「大丈夫?」と聞いているのだ。
もう大丈夫? と。
ずっとずっと傍にいて、もうそう問うても大丈夫かどうか、ずっと計っていたかのように。
「…………」
言葉がとっさに出なかった。
思わず向いた先にある肢体は、白く、細く、あまりにも美しく……そのあちこちに、沢山の傷跡を残していた。
(……あれ……は)
白い肌にある青紫は、力一杯叩いたり、突き飛ばそうとした時の痕だろう。
腕に走っているミミズ腫れは、力任せに引っ掻いた時のものだろう。
……覚えている。
何故今まで気づかなかったのだろう。
彼女は自分を押しとどめていたのだ。アルトリートの傍に行こうと、渾身の力で暴れ続けた自分を。
いっそ自分の動きを奪ってしまえば楽だったろうに。縄ででも括ってしまえば話は簡単だったはずなのに。
けれど彼女は、ただその体で、一見して華奢にしか見えないその細い体一つで、ずっと自分を抱きしめ、暴れ続ける間も抱き留めていたのだ。
──どうして。
「……アディ」
どうして── 泣いて叫んで暴れる自分を、彼女はずっと優しく抱きしめていてくれたのだろう?
どれだけ強かろうと、力任せに押しのけられたり、叩かれたりすれば痛かろう。
どれほど体が鍛えられていようとも、無いもののように扱われる瞬間に、心が痛まぬはずがないのだ。
(……俺は……)
押しとどめようとする彼女を一体何度叩いただろう?
腹立たしくて、悔しくて、獣がするようにその体に噛みついた覚えがある。そのまま肉の一つでも食いちぎってやろうかと、本気で思った瞬間もあったのだ。
なのにどうして、彼女はあんな優しい表情で、傍にいてくれたのだろうか?
痛かっただろうに。……腹立たしかっただろうに。
なぜ、叩き返すこともキツイ言葉をかけることもなく、ただ抱きしめてくれていたのだろうか?
「……なんで……」
服を着ていないアデライーデ。ボロボロになっているベッド。
紋章の暴走と、先程彼女はぼやいていた。
自分が宿している紋章は、公爵家が管理を命じられていた<全てを無に帰す>『虚無の紋章』だけだ。
どことも知れぬ場所から世界を浸食する虚ろなる闇。それに触れるものは全て塵と化し、消滅する。
……思い起こせば、最初の頃の彼女はちゃんと服を着ていた。
なら、その身の衣服を消し去ったのは──
「── ッ」
恐ろしい予感にクリストフは戦いた。
虚無の紋章は形のない破壊の手だ。全てを塵芥に変えてしまうその力が向かえば、どんなに強い人間ですら跡形もなく消滅してしまう。かつてまだ子供だった自分が、制御の仕方が分からずに結界内のあらゆる家具を消し去ってしまったように──!
「無事……なのか」
その力の暴走を受けて、
「アディ、おまえ……本当に……」
魔法なんて一つも使えず、魔力すら欠片も持っていないその身で。
「どうして……!」
思わず身を乗り出したところで、簡単に上着を羽織ったアデライーデが振り返った。
──どこか呆れたような表情で。
「アルルンってさぁ……尋ねてばっかりなんだよね~ぇ?」
少しだけ苦笑含みの声で。
「まぁ、分かんないコトばっかりだから、そーなるのも分かるんだけどね? ちょっとは考えなきゃ駄目よぅ? 考えて考えて考えたした先にある答えってのもあるんだから」
「かん……が……」
「ま。今問われてるのはまた別のコトだからそれは答えるけどネ。てゆか、マホーツカイって言った時点で気づくと思うんだけど。ほら、あたしってば魔力すっからかんの魔法サッパリンなわけじゃない。いくら力があってもねぇ……あんな凶悪な紋章の力に対抗なんて出来ないのよね~」
ひらひらと手を振って、白い下着を「よいしょ」と履きはじめる。……なぜ下着を最初に身につけないのかと脳みその端っこで疑問に思った。
「侯爵も陛下もいろいろあって身動きがとれないし、猊下はお年だから無理できないし、かといってアルルンを放っておいたら暴走した紋章に呑まれちゃうし、腐れ外道が未だに狙ってたから全部に決着つくまで一人になんてできないし」
薄いペチコートを何枚も重ね、綺麗なバッスルをお尻のあたりに設置し、細い腰にレースの紐で固定する。
「だからねぇ、魔法使いサンにお願いしたわけ。虚無を無効にする魔法をかけてくださいなって」
白くしなやかな指で自分を指さして、アデライーデは笑った。
「そうしたら、ほら、あとは身一つでなんとかできるでしょ? あの『魔法使い』は代償さえ用意すれば魔法が使えるんだもの。それに、対象が『虚無』なら、それこそあのヒトの力そのものじゃない。なんとかしてくれるんじゃないかって思ったのよね」
そう言ってなんでもないことのように笑う相手をクリストフは呆然と見つめた。
(……そんなに……簡単な話じゃ……無いはずだろ?)
クリストフは知っている。彼女の言う『魔法使い』がどういう『存在』なのか。
「分かってるのか……アレは」
だからこそ言わずにはいわれなかった。
「アレは、『魔法使い』なんていう可愛らしいもんじゃないんだぞ!?」
その姿をこの『龍眼』で見てしまった身としては。
最初に見た瞬間に、この世の絶望の全てをそこに見た身としては──!
「『名前のない悪魔』」
必死の形相で見つめるクリストフに、ひどくあっさりとした口調でアデライーデはその言葉を放った。
硬直しているクリストフに軽く肩を竦めてみせてから、そんなところでしょ? と悪戯っぽく笑う。
「曰く、原初にありし名も姿も無き神。全ての絶望、全ての慟哭、全ての災厄、全ての終焉。死に結びつくありとあらゆるものを司りながらもそれに留まらず、死神や災厄の神としてだけで終わることのない異常なる存在。誰もが恐れ、名前をつけてそれを呼ぶことすら恐ろしくてできなかった……故に今でも『名前のない』もの。恐ろしくおぞましいがゆえに『悪魔』の呼びで口にされることもあるけれど、あれは原初の神の力。その結晶。……まぁ、カミサマって感じ全然しないけど、そんなとこでしょ?」
「……おまえ……」
「悪魔との契約を果たせば、魔女になって魔法が使えるんじゃないかナーなんて考えたことがあってねぇ。文献を徹底的に調べた時期もあったのよね~。だからわりと早くあのヒトのことは知ってたの。まさか今の世に実在してるとは思わなかったけど。あ。ちなみに三代目なんですって! だから『現象』として『力』と、その身を形成する『魔女の血統』としての『力』の両方をもってるから、出来ることと出来ないことがいっぱいあるんですって」
「……いやマテ、そんなのまで本に載ってるのかよ」
さらさらと驚愕の事実を話してくれる相手に、クリストフは唖然とした顔で問うた。
例え真実を見抜く目を持っていても、それはあくまで『見える』ということだけでしかない。視界から得た情報を感覚で理解する『真実』だから、知識で裏打ちされた『全き真実』には程遠い。
だからこそ、知識を持つアデライーデの『真実』には遠く及ばないのだ。ただ視覚から得るだけの真実など。
「尋ねたのよぅ。載ってないわよそんなコト。だって、ナマの生きた実物がそこにいるのよ? 質問して質問して質問し倒してマッパにひんむくぐらいに解剖、じゃなかった解体、でもなくて分解しなきゃもったいないじゃない!」
……なにか、相手がだんだん気の毒に思えてきた。
目をキラキラさせて語るアデライーデは、握り拳にくっきりと青筋までたてている。どれだけの熱意で相手をひんむくつもりなのだろうかと、ヒトゴトながら背筋が凍る思いだ。
「現象の物質化……個体化? 三代目ってことは初代と二代目がいたってことで、てことはその母体となった『産みだした者』が存在するってこと! 魔女の血統ってことはその母体は『魔女』! あれだけの強大な『力の存在』を産みだすことができるのなら、それは『真なる魔女』の血統に違いない……!! てことは! 神をも滅ぼすとされた真なる魔女が原初の神と交わって次代を産んだってことで! てことはその魔法は真なる魔女のそれであると考えるわけで!! さらに言えば真なる魔女は原初の魔女から末代まで続く呪いをかけられているから、そのために他者の願いは叶えられないという制約がかけられていてッ!! つまりあのヒトが代償が無ければ叶えられない云々はそこからきていると推測できるわけよッッッ!!」
「近いっ! 近いッ!! なんで俺にむかって突撃してくるんだよおまえはッ!!」
フンフンと鼻息も荒くブルンブルン胸を揺らせて迫ってきた巨乳美少女に、クリストフは慌てて身をのけぞらせた。離れていたはずなのに、一瞬で間合いをつめられたのが恐ろしい。
「分からないの!? 再三言われてたじゃない! 他者の願いは叶えられない、自分が真に望むものでしか叶えられない。それが原初の魔女が真なる魔女の全てにかけた呪いなのよ! かつての大陸制覇者、宵闇の魔女エリュエステーラですらその呪いを覆すことができなかったとされる凶悪かつ強大なる呪い!! それが神の力の具現者であるあのヒトすらも縛ってる! てことは無敵ではないということ!」
「いや、それ以前の問題で……」
「だから! あのヒトがあなたの願いを叶えられなかったのは! その身を縛る呪いのせいだって言ってるの!!」
言われた言葉の意味が理解できず、クリストフは一瞬ポカンと相手を見つめた。
目の前にいる美しい少女は、爛々と輝く瞳でこちらを見ている。
「全能じゃないの。万能でもないの。神であろうと魔であろうと、限界はあるの。できることとできないことがあるの。叶えられるものと叶えられないものがあるの。なんでも出来るだなんて、有り得ないの。そんなの夢物語か妄想でしかないの。だって世界は、不完全で歪なものなんだもの」
「…………」
「意地悪じゃないの。嫌がらせでもないの。誰も、出来ることを出来る範囲でやってたの。出来ることしか出来なかったの。それを超える奇跡は起こせなかったの。陛下も、侯爵も、猊下も……あの魔法使いも、みんな」
「───」
白い貌が俯いて、コツンと自分の胸を小さく突く。
すぐ真下にある形の良い頭。流れる綺麗な赤銅色の髪。
「あたしはあの塔には行かなかったから、交わされた会話は知らないわ。どういうやりとりがあったのかも知らない。……それはあたしが関わっていいことじゃないと思ってる。……けどね、アルルン。どうして、って……あなたは何度も何度も叫んでたけど……無自覚なままに呪ってたけど……たぶん、その答えを口にできる人は……いないのよ」
どうして助けてくれないのか。
どうして奇跡を起こしてくれないのか。
どうしてこうなってしまったのか。
……『どうして』と問う言葉の、その答えを──
「理由なんていくらでもある。現実なんていくらでも語れる。……けれど、あなたが口にする『どうして』は、そういうのが聞きたいわけじゃないでしょ。あたしでさえ分かったんだもの……あの人達にはもっとよく分かってると思うわ。だからね……誰も答えられないの。答えることができない問いだから」
それは、心を問う言葉だから。
そこにある現実を知るための言葉ではなく、そこにいる人々の気持ちを問う言葉だから。
「助けて欲しい。助けたい。救ってほしい。救いたい。……誰だって、命っていうものの大切さは知っている。けれど許してはいけないもの、曲げてはいけないもの、歪めてはいけないものがこの世には沢山あって、間違ってはいけない判断と、覆してもいい内容の狭間で必死に調整をつけているの」
けれど──
「けどね……どうしても……できないことっていうのは、あるのよ。例え『今』を救うために何かを歪めて誰かを救ったとしても、その結果によって引き起こされる災いで、どうしようもないほどの被害が出ると分かっていたとしたら……それを……することはできないの。王は、国の全てに責任を持たなくちゃいけないから、一人の願いのために、多数の国民が犠牲になる決断をしてはいけないの」
そして、
「……そしてね、魔法使いサンは、奇跡を起こしてくれる都合のいいカミサマじゃないの。ちゃんと大切なものがあって、そのためだけにこの地に在るヒトなの。だから、自分の命を代償にしてまで、誰かを救うことはできないの。……魔女の呪いは、神すらも滅ぼすもの。等価である代償のない他者の願いを叶えれば、あのヒトは滅んでしまうんですって」
だからこそ、叶えられなかった。
諦めなさいと、言うしかなかった。
「どんな言い方で言ったって、あなたは納得しないでしょう。怒ってくれれば、いっそ元気になるんじゃないかしら。恨んでくれれば、いっそそれを糧に生きてくれるんじゃないかしら。そういう話をね……してたの」
少しだけ笑った声でそう言って、アデライーデは面を上げた。
柔らかな表情の中にある、青い湖のような美しい瞳。揺れる水面のような波をたたえて、その瞳が自分へと向けられている。
「あたしはね、アルルン。あなたみたいな目を持ってないし、陛下みたいな紋章も持ってない。フェリみたいに心の声を聞く耳もないし、嗅覚で察知できる末姫ちゃんみたいな鼻も持ってない。猊下みたいに感覚が優れてるわけでもないし、侯爵ほどには世の中のことを読み解けない。……けどね、考えることはできるの。自分で見たもの、聞いた言葉、肌で感じた空気、そこにあるヒトの熱。そういったものを一つ一つ分析して、考えて答えを出すことはできるの」
ねぇ、と微笑って、少女は目元を和らげた。
「あのヒト、あなたのこと、けっこう好きみたいよ。だからね、あなたを助けるための力をあたしに貨してくれたの。腐れ公爵を糾弾する資料を渡すかわりに、一つ二つ力を貸すかわりに……虚無に浸食されない魔法をあたしにかけてくれたのよ。いつだってあなたの傍にいられるように」
笑ったその瞳の中に映っている自分が、ひどく情けない顔をしていることにクリストフは気づいた。
自分が己の殻に閉じこもり、ひたすら絶望し、嘆き、もてあました感情のはけ口を求めるようにして世界を呪っている間に、自分を取り巻く人々はずっと動いてくれていたのだろうか。
自分からアルトリートを奪っていった人々も……処刑を命じた王も、手を貸してくれなかったあの悪魔ですらも……
「ねぇ、アルルン。今という現実を無くしてしまいたいと……そう思うことはこれから先もいくらだってあるけれど……だけど、ねぇ、一つだけ大切なことを考えて? 本当に大切なことだから、自分で考えに考えて……その答えを聞かせてほしいの」
白い手が伸びてきて、自分の頬を優しく撫でる。
労るようなその掌は、しなやかな美しさに反して、ひどく硬かった。
「ねぇ……あなたは、出会わなければよかったって、本当にそう思う?」
アルトリートと。
口には出さず、唇の動きだけでその名を告げられて、クリストフは息をつめた。
彼女には、どれだけ理解できているのだろうか。
その名を他者の口から聞きたくないほどに、今の自分が狂おしいほどに大切だと思っているその名前のことや──ずっとずっと心の中で叫び、嘆き、考え続けてきたことまで。
……いや、もしかしたら、ずっと口に出して叫んでいたのかもしれない。
紋章の力を制御できなかったように、心だってきっと制御できていなかっただろうから。
だから、近くにいた彼女は知っているのかもしれない。いくら考えても答えを出せずに、全てを無かったことにしてしまいたいとすら思った自分の弱さを。
けれど──
「会ったことは……間違いだった?」
そう問う彼女の顔は、
「過ごした日々は、無くしてしまっていいもの?」
あまりにも優しくて、暖かいものだったから。だから、無様な弱さも何もかも、受け入れて前に進むための答えを出していいのだとそう思った。
だって、そうだろう?
「……俺は……」
最初の時に戻れたら、あの瞬間に戻ったなら、
「会えて……嬉しかった」
自分は、もう一度だって、あの手をとって、共に在る道を選ぶだろう。
「一緒にいられて……幸せだった」
どんな結末、どんな過程を経てもなお──
「一緒に……生きれて……幸せだったんだ……!!」
愛している、この気持ちだけが全ての答えだから。
友として、幼なじみとして、いつだって誰よりも近くにいた唯一人。
どんな思いを味わったとしても、その思いを捨てるためだけに手放してしまえるような、そんな簡単な気持ちではなかったのだ。
アルトリートがどう思っていたのかなんて、分からない。その答えは永遠に得られない。
けれど自分の心だけは分かる。それだけは見失わない。
大切だった。本当に大切だった。
だってそうだろう? それが家族というものだ。
誰とも繋がっていなかったけれど、彼とだけは繋がっていた。他者に簡単に壊されてしまうぐらい弱く儚いものだったのかもしれないけれど、それでもこれほどの思いをもって、相手のことをずっとずっと愛していた。
共に生きていられたことが、自分の誇り。
彼と繋がっていられたことが、自分の幸せ。
もう二度と誰にも壊されない、この世で唯一自分が持つ、永遠の繋がり。
「……忘れないでね、その言葉。……その思い。その全て」
蘇った慟哭に蹲る体を柔らかい温もりが包んでくれる。
今までずっとそうしてくれたように。
……いつまでもそうしてくれていたように。
「もう二度と、手放そうなんて思わないでね」
手が頭を撫で、背中を撫でる。
暖かくて優しいその形。……覚えていようと思った。彼のことと同じく、彼女のことも。
それはきっと、とても大切なことだから。
「……落ち着いたら、猊下の所に行きましょう。あなたが落ち着くまで、ご自身の部屋を貨してくれたのは猊下なの。……王宮だと、きっと、落ち着けはしないだろうから」
ここは教会なのよ、と言われて、クリストフは大きく息を吸った。
教会。──神への信仰の砦。
そして、神の名をその背に背負うことのできる場所。
「……アルルン?」
のろのろと顔を上げた自分に、アデライーデが少しだけ不思議そうな声を上げる。
白く美しいその顔を見つめて、クリストフは唇を動かした。
「……その名前はやめろ」
「……まだこだわるー……」
「……俺はクリフトフだ」
呆れ顔でぼやいた相手が、一瞬で口を閉ざした。
……彼女は本当に頭がいい。その反応で、改めてそう思った。
「俺は、クリストフにしか、ならない」
与えられた王族名。差し伸べられたもう一つの手。
けれど──それをとることだけは、決してないだろう。
「俺は、王族にはならない」
だから王族名はいらない。その名前で呼ばれることは拒否する。
そう告げた自分に、アデライーデは静かな眼差しを向ける。
柔らかな表情のままのその瞳には、動揺も困惑も無かった。
まるで最初から、その言葉を予想していたように。
ただ、軽く頷いてこう言ったのだ。
「……わかったわ」
──と。