① ルドゥイン・バルバロッサ
この物語はベルが主人公ではありません。
また、本編『陰謀の章』の後日談であり、別物語と絡むエピソードのため、このエピソードを読む前に本編をお読みいただければ幸いです。
※なお、このエピソードは①から始まる数話をまとめて、ある一つの物語へ続く話になっております。
ふいに遠くから聞こえてきた歌に、部屋の中にいた男は顔を上げた。
王都、西区、大神殿。
神王レゼウス神殿の一室である。
五つの神殿からなるクレマリス大神殿において、レゼウス神殿は最も高い建物であり、また、最も壮麗な建物だった。
ヒビ一つない白い壁には全面に彫刻が施され、太く頑強な円柱はそのほとんどが彫刻で出来ている。
信仰の砦としては申し分ない美しさであり、荘厳さであった。
例え中にいる者の何割かは神の教えとかけ離れていようとも、少なくとも外から見る神の家の神々しさは建国当時と変わらない。
そんなレゼウス神殿は、遠くから全体を見ると三角形に近い形をしていた。
中央の最も突起した場所には黄金の鐘があり、年に数回、祭事や祝事にのみその音色を響かせている。軽い一突きですら王都中に鳴り響くとされる鐘の音は、時を告げる大聖堂の鐘とはまた違った荘厳さであるという。
──その鐘の元に、今、一人の少女がいた。
遠く離れたこの場所にすら、歌声を響かせる少女が。
(……メリディスの……『呪歌』……か)
二人掛けのソファに深く腰をかけ、男は背もたれに体を預けた。
大きな男だった。
厚みなら常人の三倍ちかく、縦はさすがにそこまでではないが、この男相手に仰向かずにいられる者は稀だろう。のけぞるようにして見上げる者がほとんどで、もちろん目線が合うことなど無いに等しい。
男の名はルドゥイン。家名はバルバロッサ。
武の名門バルバロッサ侯爵家の三男にして、裁判官たる大神官だった。
(何年ぶりかな……これを聞くってぇのは……)
メリディス族は、数ある一族の中で最も世に出るのが『稀』だと言われる一族だ。
もともと少数民族であった彼等にとって、その類い希なる美貌と特殊な体質は災いにしかならなかったのだろう。人目を惹き、隠れ住まなくてはならない状況に追い込まれ、今はひっそりと深い森の中で暮らしている。
かつて彼等が祭事の主役であった時代、その血統魔術『呪歌』こそが祭りの要となっていた。だが、公式の記録で呪歌が記録されているのは、前王の時代を除けばおよそ三百年以上も昔の話である。
それほど前から、彼等は避難を余儀なくされたということだろう。
──かつて共に敵と戦った仲間だというのに。
(平穏な時代にこそ、魔物は出る……か)
昔、教皇から言われた言葉を思いだし、ルドゥインは嘆息をついた。
──その魔物の名を『人間』という。
共通の敵が在った時代には助け合って生きていたというのに、平穏が続けば敵意を剥くというのはどういうことだろうか。メリディス族には、隠れ住まなくてはいけない理由など、本当にはなかったというのに。
(……それでも……上手く隠れれれば、なんとかなるんだろうけどな……)
人の『戸籍』を預かる教会という立場上、人知れず生きるメリディス族と出会うこともある。
少なくともルドゥインは、今までに七人のメリディス族と知り合っていた。
人が一生のうちで一人会うかどうかわからない、とまで言われる現代では、おそらく驚くべき遭遇率だろう。
けれど、その中で世に『メリディス族である』と知られているのは、たったの二人だ。
(……王妃も、よく歌ってたっけな……)
そのうちの一人、かつて王国において最も有名だったメリディス族の女性を思い出し、ルドゥインはやるせないため息をついた。
後宮の奥深くに半ば幽閉されるようにして存在していた彼女を、本当の意味で見知っている者はほとんどいない。
彼女を盲愛した前王が、人目に触れさせるのを嫌ったため、第二王妃という地位にありながら、彼女の一生は虜囚のそれと同じだったのだ。
おそらく、彼女には唯の一つも自由など無かっただろう。
……その心すら一族の掟に戒められ、自由になることは無かったのだから。
(……メリディスっていうのは、悲しい一族だな……なぁ、レメク)
今、歌声を響かせている少女の傍らにあって、誰よりもその身を案じているだろう友人に心の中で語りかける。
同じ掟に縛られた少女を、なんとか自由にしようと画策していた友。
正直、掟があろうとなかろうと、結末は一緒なんじゃなかろうかと思うのだが、頭の固いあの友人のことだから、やると決めたからには何が何でもやり抜くだろう。──意味があるかどうかはともかくとして。
ルドゥインは軽く目を瞑り、聞こえてくる歌声に身をゆだねた。
不思議な歌声だった。
歌い手は一人のはずなのに、まるで何人もの人が一斉に歌っているように聞こえる。
一つの歌が二つになり、二つの歌が四つになり、四つの歌が八つになり、八つの歌が十六になる。
高い音も低い音も同時に発せられ、あたかも数人での唱歌を聞いているようだ。
それは歌というよりも音の波のようだった。
(王妃の時には、民族歌が多かったが……)
今、少女が歌っているのは歌劇の歌だ。
一族と離れて生まれ育ち、幼い頃に母親とも死に別れた彼女だから、知っている歌と言えばそういった『歌』に限られるのだろう。むしろ、ここで酒場の歌などが出てこなかっただけでも良しとするべきだ。
かつて彼女が知っている歌を披露するたび、慌てて「歌ってはいけません」と諭していた友人の姿を思い出し、ルドゥインは知らず笑みを零した。
あの少女が現れてから、いったいどれだけの奇跡を目にしてきただろうか。
何の感情も目に宿さなかった友が、笑い、嘆き、怒り、案じ、一生懸命生きはじめている。いつだって、目を離した隙にどこかに消えてしまいそうだったのに、今では生きることに対しそこはかとなく意欲的だ。
それはきっと、彼女が起こした最大の奇跡だろう。
王や、教皇や、あの人智を超えた力を持つ魔法使いですら叶えられなかったというのに。
(……あいつらも……もっと早く会っていれば……何かが変わったのかもしれねぇな)
思うのは、この歌を捧げられた青年のことだ。
利用され、その命を散らすことになった『彼』のことを……いったい何人の人が『知って』いるだろうか。
最初から彼に注意を払う者はおらず、最後までほとんどの人から認知されないままに生涯を終えた青年──アルトリート。
彼の一生は、いったい、どんな意味があったというのだろうか。
(……なぁ……もっと早く、会ってればよかったんだよな)
良い形の出会いであった、などということは無いだろう。
レンフォードのあの家で育てられたのなら、きっと自尊心や虚栄心を盛大に植えつけられてきただろうから。
けれどどんな出会いであったとしても、時の流れとともに、きっと、様々なことを知り合えれたことだろう。
生きていれば、そういうことがいくらだってあるのだ。
知るということは、認めること。
認めるということは、その人を愛するということ。
それは特別な意味である必要はない。
ただ、そこにあって、そこにあることをあるがままに認めることが、その人の命を大切に思うということなのだ。
人と人との関わりとは、きっとそういう形であるべきなのだろう。
──けれどいつだって、それは現実には叶えがたい、理想のようなものになってしまう。
本当には、とても簡単なことだというのに。
(あいつが変わったように……おまえさんだって、変わったかもしれねぇのにな……)
生きることにひたむきなあの少女は、いつだってその姿で自分たちの意識を変えていっていた。
何の力も無い小さな子供なのに、その身に宿る生きる力は、常に夜空で方角を示す強い星のようだ。
月や太陽のような大きな存在では無くても、いつだって変わらない形で旅人を導いてくれる。
(──そういや、昔話ってぇのは皆そうだな)
どんな物語でも、最後に人々の力になってくれるのは、太陽でも月でもなく、星なのだ。
それ自体には強い力は無いけれど、その力を借りる人に大いなる恵みを与えてくれるのが、星の力。
それはいつだって困難を打ち破り、最後に幸福を授けてくれるのだ。
──例えそれが、どんな物語であろうとも。
ルドゥインは硬く目を瞑る。
ややあって、深い嘆息とともに目を開いた。
──時は戻らない。
すでに処刑は執行された。
彼が王族の縁として毒杯を飲むところを、自分は見守ったのだ。
王族の自害用としても用いられる毒は、苦しみを与えることなく命を奪う。眠るようにして逝った青年の骸を、正規の手続きで埋葬した。
神官として、裁判官として……そして、彼に関わった人間として。
その命が確実に尽きたこともまた、場に集った人々とともに確認したのだ。
今更、その相手に向かって何を言ったところで意味は無い。それはただ、自分が何もできなかった息苦しさから逃れたいだけの戯れ言で、相手へと届くことは無いのだ。
それが『人の死』というものだ。
生者と死者を隔てる、超えることの出来ない壁なのだから。
(…………)
大きな体を丸めるようにして俯いた後、ルドゥインは勢いよく立ち上がった。
──生きている者には、生きるために負わなければならないものがある。
……生き続けるために。
(まずは、王弟殿下……か)
最も気がかりであり、一つ間違えば火種になるだろう相手のことを考えて、ルドゥインは顔を引き締めた。
アルトリートを唆した公爵については、すでにあらかた決着がついている。
降格こそ無かったものの、現当主は王都の街屋敷に蟄居後、その公爵位を剥奪。
かわって公爵位を拝命したのは、若干十三歳のクレマンス伯爵だった。
実子であり、もともと後継者でもあったシーゼルが公爵位を賜ることに異論は無いだろう。実母であるマルグレーテが夫の処罰に対して何も言わなかったのも、おそらくそのためだろうと思われた。
(……いや)
ルドゥインは頭を振る。
もしかすると……少しは、実子アルトリートを奪われたことに対する何らかの思いがあったのかもしれない。
アルトリートの処刑に対し、マルグレーテは公の場では何も言わなかった。
夫の処罰に対しても、それこそ表情一つ動かさなかったという。
ただ淡々と人々を眺め、己自身も蟄居を命じられた街屋敷へと帰った彼女の胸中を知る者はいない。
だが、実子や夫を庇わなかったことで、ある意味、彼女は王族に対する反逆がどれほどの罪かを身をもって示した。
──気がかりと言えば、それをレメクと『魔法使い』が注意深く見ていたことだろうか。
(……あいつもなぁ……気になることがあるなら、こっちにも言やぁいいもんを……)
『魔法使い』が無言なのはともかく、レメクが何も言わないのは、何らかの疑惑があったとしてもそれを証明するものが無いからだろう。
ただの直感や疑問で、他人にまで疑惑や先入観を抱かせることはできない──というのが彼の持論だ。
もっとも、今回はそれが強烈に裏目に出てしまったわけだが。
(……つーか、そりゃ、あれだけ皆が急ぎ足で動かなけりゃ、それでもなんとかなったんだろーが……)
それを気にして一人コッソリ落ち込んでいた友人に、ルドゥインは頭を掻く。せめて一言なりこちらに言っておけば、ああやって自分の責任として落ち込まずにすむものを……
(……あっちでもこっちでも『自分のせいだ』っつって落ち込んでたら、それこそ敵の思うツボだろーが)
ルドゥインとしてはそう思う。
もっとも、彼にしてみたところで、救えたはずの相手を救えなかったという思いは、やはり己の責任として心の中にあるのだが。
(ぇいクソ! 今考えなきゃならねェのは王弟殿下のことなんだよ!)
思わず落ち込みそうになる己を叱咤して、ルドゥインはぶっとい息を吐く。
──そして、情けなく眉を垂れさせた。
(……しかし……ありゃあ、本気なのか……?)
今朝方教皇から聞かされた命令には、剛胆をして知られるルドゥインですら、思わずそうならざるをえなかったのだ。
(……前例が無いわけじゃあ、ねェが……)
そう。前例がないわけではない。
ある意味『彼』のその後の身の振り方としては上等だろう。
下手に王宮に留まって、落ち着く間もなく、お互いの中に禍根を残すよりはよほど良い。
だが──
(……アデライーデ姫は、どうするんだろうかな……)
今回の事件で、最も精力的に動いていた姫君を思い出し、ルドゥインは重いため息をまた一つついた。
──部屋の扉をノックされたのは、その時だ。
「……?」
ルドゥインは思わず体ごと扉の方を向いた。
彼がいるのは、教皇の私室の一つだった。
教皇を交えての会談後、王女と友人は鐘楼へ、教皇は公務のために席を外し、結果的に一人で留守番となったのである。
各国の王をして最大限の敬意を向ける教皇の私室となれば、入室を許可される者など限られている。まして、教皇から人払いが命じられている今、この部屋に入ってくる者はいないだろう。
そう──
「おや。『頑強なる裁判官』殿だけですか」
意味深な笑みを浮かべた、美しい悪魔以外は。
「それはまた。丁度良い」