7 保護された者とその理由
レメクの部屋に帰り、あたしはソファの上によじ登った。
上等のソファは驚くほど柔らかく、気持ちと一緒に体まで深く沈んでいく。
何故か、体がひどく重かった。
意識せず背中が丸くなる。まるで重さに引きずられるように、あたしの頭は下へと垂れ下がっていた。
呼吸は深いため息になり、深すぎるそれの音であたしは我に返る。
けれど頭の中は、なにか不思議な靄がかかったように鈍かった。
(……体、だるい……)
虚ろな頭の中で言葉を紡ぐ。
ふと誰かの顔を思い出した。途端、胸がツキンと痛くなる。
思い出した顔はどこか影を帯びていて、だからいっそう、あたしの胸は痛かった。
──あなたはまだ体調が万全ではないんですよ。
諭すような、窘めるような……少しだけ心配が透けて見える低い声。
あたしはその声に向かって、ぼんやりと心の中で声を送った。
(……体、重いの……)
まるで、体の中身が鉛に変わったかのようだ。
重く、重く。息をするのも苦しいほどに重く、押しつぶされそうなほどに重く、それは心をすりつぶしていく。
静まりかえった部屋はどこか威圧めいていて、ちっぽけなあたしの存在を排除しようとしていた。
あたしは天井を見上げる。
今まで気づかなかったが、高い天井には綺麗な模様が入っていた。
その模様はあまりにも細かすぎて、あたしの位置からでは細部がわからない。
ただ、ここから見えるそれはとても美しかった。
見たこともないほど、綺麗だった。
かつてあたしがいた世界には──決してない美しさだ。
(目……痛い)
瞬きもせずに見つめていたせいか、模様がぼやけてキラキラと輝いて見えた。白く白濁した視界の中で、それは胸に迫るほどに美しい。
何かが目から零れて、頬を伝って落ちた。
白濁した闇が、一瞬だけ黒くなる。
(……結局の所)
頭の中で、暗い声がする。
(レメクにとって)
昏く冷たく凍えた声が。
(……あたしは、厄介事でしか無いんだよね……)
ドク、と胸の奥が大きく軋んだ。
息が止まって、気がつけば体も丸くなっている。
「……痛……」
意識せず、声が零れた。
胸の奥にナイフでも刺したように、ジクジクと熱を持った痛みが広がる。臓腑に毒を流し込んだような不快感。灼熱の痛みを伴う鼓動と、同じリズムの死の誘い。
なのに、何故だろう?
体はどこまでも冷たくて、その熱すらも冷たく感じる。
あたしはただ丸くなって、その痛みが治まるのを待った。
(……当然……よね)
パチンと、心の中で泡のように言葉が浮かんでは弾けた。
(だって、あたし……何の価値も無いんだもの……)
彼にとっては、ただひたすら面倒な相手だったことだろう。
金も無く身分も無く、美しくも愛らしくもない。そんな痩せた子供につきまとわれて、けれど国の保護指定と他族の掟のせいで放り出すこともできない。
どうにかして追い払いたいと、そう思って当たり前なのだ。
細かく面倒をみてもらえるだけ、あたしはとても恵まれているのだ。
(でも……でも、レメク……)
あたしは、初めてだった。
初めて、他人に優しくしてもらった。
覚えてる。
助けた相手にいきなりぶたれても、怒りもせず突き放しもせず、ちゃんと面倒をみてくれた彼。
覚えてる。
何故か高熱を出したその日から、つきっきりで看病してくれたこと。
夜中に起きて喉が痛かった時、飲ませてくれた水はとても美味しかった。
頭が痛くて体が熱くて、意味もなく不安で喘いでいたら、痛くない程度にギュッと抱きしめてくれた。
ねぇ、レメク。覚えてるの。もう、覚えてしまったの。
夜に不安になった時に、手を握ってくれた大きな掌の感触を。
(……でも)
でも、レメクにとっては、
(……あたしは……)
思った途端、視界が歪んだ気がした。
慌ててあたしは目を瞑る。
膝頭に目頭を押しつけ、五秒数えて顔を上げると、強く押しつけすぎたのか目の前がほとんど見えなかった。
(……レメク)
レメクは孤児院の不正とやらを暴くだろう。
あたしの証言をとって、きっといろいろな人からも話を聞いて、証拠とかそういうのも集めて、それで裁判官である大神官に裁いてもらって……
(レメク)
そうして、その後は、あたしを森に連れて行くのだ。
一族の長と会って、掟の例外を認めてもらって、
(レメク)
……それで終わり。
それで、全てが終わるのだ。
掟が無ければ、あたしがレメクの傍にいる理由が無くなる。
助けてくれてありがとう、と。そう言って終わってしまうのだ。
(レメクは……)
レメクはそれを望んでいる。
さっさとあたしを森に連れて行って、元の生活に戻ることを望んでる。
(……当然……だけど……)
徐々に晴れてくる視界。
けれどぼやけてくる視界。
品良く整えられた部屋。
あふれた水で屈折して、歪んで見えるその部屋。
(……レメクの……)
この数日間だけ過ごした、暖かい人の部屋。
きちんと整頓された広いその寝室は、あたしのいた範囲だけちょっとゴチャゴチャしていた。
置きっぱなしの水差し。整えられてないベット。サイドテーブルにも包みが一つ、置かれたままだ。
「…………」
あたしは導かれるように、そのテーブルの傍まで歩いた。
足音を包み込んで隠す絨毯。精緻な作りのテーブル。
その上に乗った包みだけが、そっけないほどに簡素だった。
(……もらっていいって、言われた)
素朴な布に包まれた『何か』。
それはまるでプレゼントか何かのように、小さな青いリボンをつけていた。
あたしはその包みを手に取る。
それなりに重く、けれど大きさに対してはそれほど重くない『何か』。
どこか柔らかく、握った手の形にあわせてクタリと形を変える『何か』。
大人しくしていれば、これを貰ってもいいということだった。
あたしが大人しかったのかどうかは、あたし自身ではわからない。けれど客が帰るまでは外に出なかったから、これは貰ってもいいのだろう。
客が引き返して大騒ぎするなんていうのは、たぶん、レメクにとっても予想外のことだったろうから。
「…………」
あたしは包みを見下ろす。
包みは麻縄で軽く縛ってあった。リボンを外し、麻縄をほどく。
すると、中から服が出てきた。
服が。
「……ぁ」
あたしは息を零した。途端、何かがまた目からこぼれ落ちた。
服だ。
服だった。
レメクの物にしては小さすぎる。
レメクの物にしては色が明るすぎる。
それにこれは、あぁ、スカートだ。
あたしは顔がくしゃくしゃに歪むのがわかった。
あたしの着ている物は、レメクのシャツだった。下着以外にはそれ一枚だ。
レメクは子供服や女性の服なんて持ってない。だから、レメクが自分のシャツを貨してくれていたのだ。
服を返せと言われるのならまだわかる。
元々着ていた服を着ろと言われるのなら、まだわかる。
けど……ねぇ、これはどうして?
どうしてこんなものを買ってくれるの?
(……レメク……レメク!)
暖かい。胸が痛い。目が熱い。頬が熱い。
どういう顔でこれを買ったのだろう。どういう顔で選んだのだろう。
店の人に尋ねられなかったのだろうか? 尋ねられたら、どう答えたのだろうか。
こんなに可愛らしい服……女の子用の服だって、すぐにわかる品を。
どうして?
(どうして)
どうして!?
あたしは服を抱きしめたまま、崩れるように床に蹲った。
暖かい温もり。今まで得られなかった優しさ。ずっと昔に忘れた、切なく懐かしい心の欠片。
(どうして!!)
ああ何故与えるのだろうかいなくなればいいと思うのなら、いっそいっそ何も与えずにそのまま放り出せばそれですべてが終わるのに!
子供の戯言など聞かなければいい。
子供の妄言など無視してしまえばいい。
保護なんかしなければいい。何もなかったと嘘をつけばいい。助けなければいい。知らない顔をすればいい。
だって誰も知らなかった。あたしの存在なんて、そんなちっぽけなものだった。
父には見捨てられ、母には先に旅立たれ、薄汚れた暗い孤児院で昏い目で蹲っていた。
あの日あの夜あの雨の中で、ひっそりと終わる命だった。
放っておけばいいのだ。拾ってくれと言われる前に。捨てないでくれと言われる前に。一緒にいたいと言われる前に!
(ねぇ、レメク)
子供なら、心が無いと思っているわけじゃないでしょう?
子供なら、恋をしないと思っているわけじゃないでしょう?
いくつだって、どんな場面でだって、どんなに隔たりのある相手にだって、心が震えればその時に、人は恋に落ちるのだ。
(ねぇ、レメク)
時をかければかけるだけ、
手をかければかけるだけ、
心が増えていくのを、あなたはまさか、知らないの?
(……苦しい)
苦しい、苦しい、苦しい、苦しい。息ができない。目の前が熱い。声が零れそう。言葉ではない意味のない嗚咽が。
(レメク、レメク)
手放すのなら、はじめから与えないで。
手放すのなら、何一つ与えないで。
だって苦しい。だって悲しい。だって切ない! だってもうこんなに離れたくなくなっている!!
何と言われてもいい。裕福な相手への依存? 子供らしい小狡さ? 子供らしくない計算高さ?
そんなものどうでもいい。たとえそう言われてもかまわない。
一緒にいられるのなら、それでいい。
(……絶対に)
それを望まれてないとわかってても。
(手放されると)
……わかって、いても。
いつか必ず、さようならと言われると知ってても。
だから、
だから、
だからだからだから
だから、何も、与えないで。
捨てるのなら。どうか。
もう何一つ与えないで。
全か、ゼロか。
それしかいらない。
そうでなければ耐えられない。
これだけ貰ったからもういいだなんて、そんな風には思えない。
そんな風に思えるほどには、あたしはまだ『大人』じゃない。
なにもかも全部が欲しい、欲張りな子供だから。
(レメク……!)
あたしは唇を噛んだ。
自分の体が熱いのか寒いのかは、もうわからない。
ただ口の中には熱い血の味がして、頬を流れるものもまた熱かった。
はじめて貰った服を腕の中に、まるで宝物のように抱きしめて、あたしは小さく小さく蹲った。
視界の全てが闇色に染まる。
涙が止まらなかった。
※ ※ ※
いつ眠ったのかわからないまま、あたしは唐突に目を覚ました。
体を起こすと、あたしの上から布団が落ちる。
日はまだ落ちていない。
あかね色に変わりつつある空の中で、太陽が微睡むように色を沈ませていく。
(…………?)
あたしは首を傾げた。
頭の中がぼんやりとしている。
あたしはレメクのベットで丸くなっていたらしい。もそもそと体を起こすと、ひやりと冷気が押し寄せてきた。春はまだ遠く、大気はまだ冬の衣をまとっている。
けれど、どうしてか寒いとは思わなかった。
(……なんだろう……何か、変な夢でも見てたのかな)
頭が重い。体も重い。どうしたんだろう?
軽く混乱して身を起こすと、手の辺りに違和感があった。見ると服が握れている。
(……服)
淡い桃色のワンピース。
上着とセットになっていて、袖口に可愛らしい花の縫い取りがあった。
刺繍の糸は白と黄色。黄色の糸は、とても高価だ。普通の糸よりも何倍も高い。これに匹敵する色は深い紫。どちらも貴族か富豪ぐらいしか使わない色だった。
(刺繍入りの……)
刺繍だなんて、そんな手の込んだ品はそれだけでも高値がつく。生地もかなり良いものだ。
そして、この黄色の糸。
いったい、どれほどの値のするものなのだろうか。この服は。
「…………」
ぼんやりとそれを見て、あたしはその服を手放した。
頭が重い。何かを考えようと思うのに、ぼんやりとぼやけて上手く思考がまとまらない。
霧がかった頭の中で、こちらに背を向けた誰かの背中が朧気に浮かんだ。
あたしはベットから抜け出す。
ふかふかの絨毯の上に降りても、何の感触もしなかった。ふらふらと歩き、なぜともなく窓際に寄る。
あたしは窓の外を見た。
未だ青々と茂る木々のある庭を。
そして瞬きした。
庭の一角に、アロック卿が立っていた。