30 虚飾の玉座
人の生きる意味というのは、いったい何なのだろうか。
生き続ける意味というのは、何なのだろうか。
生きていれば暖かいものや、優しいものや、美味しいものや、いい匂いのするものや、スバラシイいろんなものと出会うことができるのに。
それよりも満足のできる『終わり』なんて、いったいどこにあるというのだろうか。
そんなものに、いったいどんな意味があるというのだろうか。
そんなものが、いったいどれほどのものだというのだろうか。
生きて、いれば、
手に入れられるものはもっと沢山あって、
生きてさえいれば、
今まで知らなかったもっとスバラシイものにだって出会えるかもしれなくて、
生きていることによって、
得ることのできるものも沢山沢山増えていくかもしれないのに。
それなのに、なぜ、
選ぶことができるのだろうか。
死というの名の終焉を。
もう声を聞くことも触れることもできなくなるその残酷な現実を。
どうして───!
(……どうして……!!)
ひぐ、と喉の奥が大きく鳴って、あたしはギュッと体を小さく丸めた。
のしのしと、あたしを腕に抱えたバルバロッサ卿が歩く。
ゆっくりとした足取りで、階段を降りて行く。
どちらも何も言わなかった。
言える言葉など何も無かった。
どのような処罰も受け入れるというアルトリートに、あたしもバルバロッサ卿も、言うことのできる言葉を持たなかったのだ。
告解という名の最後の言葉をとり、牢を後にするあたし達に、アルトリートはただ静かな目を向けていた。
全ての現実を受け入れた、胸を打つような静かな瞳を。
……あたしは、アルトリートという人をよく知らない。
知る時間はあまりに短く、交わした言葉はもっと少なく、場所も状況もあまりに特殊すぎて、彼という一人の人間を知るにはあまりにも時間が無かった。
けれど、少しだけ、彼の本質を垣間見た気がする。
それは本当に、一瞬にも似た短さであったけれど。
──そうして、それが、最後になってしまうのだ。
「……あいつは……もしかしたら、いい神官になったのかもしれないな」
ずいぶんと歩いた後で、バルバロッサ卿がぽつりと呟いた。
あたしはグシュと鼻をならす。
大きな体でゆっくりと階段を下りて、バルバロッサ卿はため息のような声で呟いた。
「……孤独や、寂しさを知らないヤツは、他人のそれには、気づけないからな……」
──寂しくて、悲しくて──助けを求めてくる人と相対するなら、そういう人がいい。
同じ寂しさを、悲しみを、理解できる人がいい。
けれど─
けれどそれは──なんて悲しくて、残酷な現実なのだろうか。
そんな『もしも』は有り得ないのだ。
……もしかしたら、あり得たかもしれない未来であっても。
「こんなことは……本当には、間違ってるんだ」
ぽつりと……本当に、ぽつりと声を零して、バルバロッサ卿はまたため息をついた。
「……だけど、間違っていても……やらなきゃならねぇ世界なんだ。……そうじゃなきゃ守れない、弱い世界なんだよな……」
この国は、
そして、この国をとりまく周りは──
「もし、これをなんとかしようと思うなら……それこそ、世界を変えちまわなきゃならねぇんだろうな」
その全てを変えてしまうほどの力を得てはじめて──
間違いを間違いだとはね飛ばすことができるのだ。
「陛下は、必死にそれをしようとしている。……けど、まだ、力が足りないんだ。陛下も、国も、俺達も、みんな……な」
──深い深い、声だった。
その声に背中を押されるような気持ちで、目元を強く拭い、あたしは顔を上げる。
頭の痛みはもはや止まらず、目を開けるのもツライほど。
けれど顔を上げ無理にでも前を向けば、外へと続く扉から、明るい光が差し込んでいるのが見えた。
──その光に照らされた、憂いを帯びた女神の像も。
「……力が欲しいよな。間違ってるものを間違ってるんだと言って、正してしまえるぐらいの力が。……けどそういうのはきっと、あらゆる力の中で、もっとも難しい力なんだろうよ」
バルバロッサ卿は歩く。
外の方へ。
光の方へ。
あたしは眩しいそちらに目を細める。
──そこに、レメクが立っていた。
あたし達を入り口から数歩外に出た所で迎えて、けれどレメクは何も言わなかった。
ただ、深い眼差しで、あたし達を見つめる。
「……終わったよ」
そのレメクにバルバロッサ卿は告げた。
ゆっくりと歩み寄る振動にあわせて、ズキンズキンと頭が痛む。
「……やっこさんは、処罰を受け入れるそうだ」
──例えそれが、どんなものであっても──
声に出さずに示された言葉に、レメクはわずかに目を伏せた。
そうして、深い声で「……そうですか」と頷いた。
「……ほらよ。嬢ちゃんは、おまえさんが抱っこしてやんな」
いつもより憂い顔なレメクに、バルバロッサ卿は小さくなっているあたしを抱え、差し出す。
レメクの暖かい腕が、あたしをやんわりと抱きしめてくれた。
その腕の中で、あたしはギュッとレメクの服を握りしめる。やさしい匂いと温もりに包まれて、頭を針で突き刺しているような痛みが少しだけ和らいだ気がした。
暖かい手が、労うように背中を撫でてくれる。
「……彼の声は、聞きましたか」
低く深い声で、彼はあたしに囁く。
「……その姿は、見ましたか」
あたしの頭痛がわかっているかのような、耳に障りのない、柔らかな声で。
「見なくてはいけなかった、その全てを……」
手が髪を撫で、また背中を撫でる。
「……忘れてはいけませんよ。彼のことを。……その全てを」
それはきっと、『彼』にとっては何よりも大切なこと。
それが分かっていたから、あたしは腕の中でさらに小さくなった。
そうして問う。
「……おじさまは、さいしょから……わかって……たの?」
この結末を。
その全てを。
あたしの嗄れた声に、レメクは少しだけ押し黙る。
そして、ため息と同時に頷いた。
「……分かっていました」
さわり、と、風があたしの髪を撫でていく。
「彼の答えも。……あなたが、こうなるだろうことも」
「…………」
「……分かっていました」
静かな声が、あたしの耳を撫でる。
「……それでも、知るべきだと思いました」
塔の前に立つあたし達を暖かい日差しが照らしていた。
紋様で作った偽りの光では無い、陽光。
閉ざされた塔の中にあるものとは違う、あまりにも暖かなもの──
「決して目を背けてはいけないものがあるというのなら……それは、最後の結末までを含むのでしょう。……関わった限りは、見続けないといけないのです。その半ばで目を背けることは、許されません」
「……レメク」
バルバロッサ卿が窘めるような声をあげる。
けれど、レメクは深い声であたしに言った。
とても大切な一言を。
「……それが、人の命に『関わる』ということです」
あたしはしがみつく力を強くした。
人の命に関わる、ということは──
その人の命を──わずかなりとも──背負う、ということなのだ。
それを理解し、覚悟し、はじめて真正面から負うことのできるもの─
……なのに、あたしにはそれが無かった。
ただ気持ちに正直に動いただけで、覚悟どころか、理解すらも出来ていなかった。
「誰もが互いに関わり合い、支え合って生きています。……誰とも繋がっていない人というのは……おそらく……いえ、きっと……この世に一人も存在しないでしょう」
少しだけ沈んだ声で、レメクは「けれど」と小さく呟く。
「……それでも、繋がっていないのだと、思ってしまう瞬間はあります。そこにいるのに、いないかのように扱われる時……自分という一人の人間を見てはもらえない時……」
レメクの言葉に、あたしは小さく頷いた。
かつて孤児院にいた時、沢山の大人達に無視され続けていた孤児達という『存在』。
生きているのに、心とか気持ちとかあるのに、そんなものを全て無視されていた時が、確かにあった。
──だからこそ分かった。
それがどれだけ苦しくて、せつなくて、悲しいモノなのかが。
「一人の人間として、見てはもらえない場所というのは、あまりにも多いのです……」
その言葉に、あたしはかつてレメクから言われた言葉を思い出した。
そう……あれは、孤児院の不正を裁く前のこと。
裁判のことを説明されていた時のこと。
──なぜなら、今の世界には未だ道徳というものが浸透していないから──
(……嗚呼……)
だから、人はこれほどまでに罪を犯すのだろうか。
悲しくてやるせなくて、たまらない気持ちになるような結末になるというのだろうか。
「例え誰かと何かしらの繋がりがあったとしても、その人にとって自分は大多数の中の一人……『誰よりも一番に繋がっている』人というのは……出会える確率すら稀です」
けれど、きっと、人はそれを求めてしまうもの。
手を伸ばした時に、この手をとってくれる『誰か』。
傍にいて欲しいと思った時に、傍らにあってくれる『誰か』。
他の誰よりも自分のことを思ってくれて、他の誰よりも自分が思っている『誰か』。
誰よりも大切な『唯一人』……
「本当は……彼は最初から……それを持っていたのです」
同じ孤独を共感しあい、長い年月を共にしていた幼なじみ。
「……けれど、それに、気づくことが出来なかった」
そこにある確かな絆を。
誰にも壊されることのない繋がりを。
「……『王弟殿下』は、彼の前で、彼を止めるために毒をあおりました。……その行動で、彼は自分が欲した本当のものを、とっくに手に入れていたのだと……知ったのですよ」
それが結果として、アルトリートの狂態を止めることになったのだ。
断たれたと誤解し、手に入らないものと見誤り、それならいっそ他の全てを手に入れようとした彼を……止めたのだ。
「……私達は、『アルトリート』という人の命を救うことはできません。……けれど、殿下は、その覚悟一つで彼を救ったのです」
そう……アルトリートの、心を。
静かに語るレメクの声を聞きながら、あたしはギュッと目を瞑った。
レメクが言おうとしていることの意味は……なんとなく分かる。
分けるけれど、納得できなかった。
「……あたし、昔……宿のおねーちゃんに読んでもらった話を聞いて……少しだけ、思ってたことがあるの……」
掠れた声をあげるあたしに、レメクが「なにをですか?」と柔らかく問う。
「……探してたものが……ずっとずっと探してたものが……本当は自分のすぐ近くにあった、っていうお話で……」
幸せというものを探して、あてもなく彷徨う少年の話。
探して探して探して探して、そうして彼は旅の終わりにそれに気づくのだ。
──そう──探してた幸せが、本当は自分のすぐ傍らにあったのだということに。
「それって……すごく、あったかくて……いいなって……そういうお話って、『いいな』って……そう思ってたの」
けれど──
「けど……本当は、すごく……切ないことなんだ……!」
そこにあった幸せ。
気づかなかった大切なもの。
もっと早く、いっそ最初から知っていれば、そこには別の物語があったのかもしれないのだ。
幸せをもっともっと深められるような物語や──
新しい幸せを見つけられる物語が──!
「……ベル。物事を一つの局面だけで判断しては、いけませんよ」
嗚咽を堪えるあたしに、優しくて、少しだけ悲しい声で、抱きしめる力を強くしながらレメクは囁く。
「今ここにある現実は、確かに、あなたの言うとおりです。……けれど、その物語には、別の解釈があるのですよ」
髪に頬をあてて、彼はそっと声を零した。
「……物語の主人公は、見失っていた『幸せ』に、最後には気づくことができたという解釈が」
……たぶん、
いや、きっと……
そっちの解釈のほうが一般的なのだろう。
けれど、今ここにある現実を見るに、どうしても切なさを感じずにはいられなかった。
最後にならなければ気づけなかった幸せの……悲しさを。
──わかっている。
この悲しさを……レメクは、本当には、あたしに味あわせたくなかったのだということは。
──けれど、知っている。
こうなることが分かっていてもなお、あたしならそれを乗り越えれるのだと信じて、自由にしてくれていたことが。
知っている。
けれど、辛い。
悲しい。やるせない。くやしい。口惜しい!
だから──
「いつか……」
あたしは、暖かいの腕の中で思いを零した。
変な風に跳ね上がる、嗄れた声ではあったけれど。
「いつか……壊すわ」
誓った。
他の誰でもない、この自分自身に。
誰もが傷つくような結末なら、その結末そのものを。
正しくないものがまかり通るのなら、その世界全てを。
壊して──新しくしてしまえばいい。
「こんなこと、絶対、許さないんだから……!」
力が無い。力が無い。力が無い。力が無い。
変える力も直す力も切り開く力もあたしには無い。
なら手に入れればいい。
自分自身を変えてしまえばいい。
できないことができるようになればいい。
こんな思いをするぐらいなら、こんな間違いを許すぐらいなら! それならいっそ、無茶でも力を手に入れるほうがよほどマシではないか!!
そこにどれほどの苦痛が待っていようとも!!
「絶対……こんなの、防いでみせるんだから……!」
レメクは何も言わない。
無茶だとか、無理だとか、駄目だとか、出来るはずがないとか──
そういう、否定の言葉を口にしない。
ちっぽけなあたしの言葉に対して、否定することも、子供のたわごとと失笑することも
なく、ただ、全身をむしばむ痛みと戦うあたしをしっかりと抱きしめて──
こつん、と、あたしの頭に綺麗な顎を乗せて……頷いた。
※ ※ ※
……ふと、名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。
部屋の全てが青みがかって見える部屋の中で、あたしは一人、立っていた。
どこだろう? と首を傾げ、その間取りに(あぁ)と納得する。
青の間だ。
あたしはぼんやりと周囲を見渡し、誰もいない部屋にしょんぼりとして部屋を出た。
広い廊下は、何故か『青の間』と同じく青い色に沈んでいた。
夜なのだろうか? そう思って、時間の感覚がまるでないことに気づく。
……それ以前に、あたしはいつ、城に帰って来たんだっけ……?
無人の廊下をふわふわと歩き、いくつかの部屋を通過した所で、あたしはピタリと足を止めた。
綺麗な扉があった。
深みのあるその色は、やはりうっすらと青に染められていて、元の色がよく分からない。
誰の部屋なのかも知らなかったが、あたしはその部屋の扉をすり抜け、そっと中に侵入した。
(……本がいっぱい……)
一瞬、レメクの部屋に入ったのかと思った。
大きな部屋に並べられた重厚な本棚。沢山のそれの中に、何十倍もの本が収められている。
背表紙の装丁からして、かなり高い立派な本だった。どうあがいても青色がかってみえるそれらの中心で、金とも銀ともつかない色の文字が躍っている。
魔術理論、術式法定学、経済学理論、力学、地質学、薬草大百科、錬金術……
題名は読めても、薬草ウンタラ以外の意味がサッパリわからなかった。
ただ、その中に『格闘奥義大全集』なるものを見つけて(なんだアディ姫の部屋か)と納得した。
声が聞こえたのは、その瞬間だ。
「……あの義父を動かすことができたのは、紛れもなくあなたの功績ですよ。アデライーデ姫」
レメクだ。
思った瞬間、景色が変わった。
目の前にレメクと、カウチに力無く座ったアディ姫がいる。
レメクはこちらに背を向けていて、アディ姫はその対面側にいた。
俯いたアディ姫は、どこか仄暗い炎をまとっている。
暗い鬼火のような、恐ろしい色を。
「けど、結局『アルトリート』は消えてしまうのよ。アルはもう二度と……『アルトリート』には会えないわ」
仄暗い色をそのまま声に変えて、アディ姫は呟いた。
対峙するレメクは、わずかなため息を零しながら首を横に振る。
「……それは、あなたの責任ではありません」
「どうして? だって、あたしが突っ走っちゃったんじゃないの。花瓶の事件だけならもみ消しができたわ。でも、馬車の所ではそんなことできない……あまりにも人が死にすぎたんだもの……」
「…………」
「あそこにアル達を引っ張って行ったのはあたしなのよ。もっと慎重になればよかったのに……せめてアルだけでも部屋に残しておけば、あいつらだって香を焚いたりしなかっただろうし、アルも……あの事件を『自分の責任』みたいに感じなくてすんだのよ……」
暗い色を深めるアディ姫に、あたしは(それは違う)と首を振った。
けれどあたしに気づいていない二人には、あたしの思いは伝わらない。
一瞬だけレメクが身じろいだ気がしたが、(ん?)と思う前にアディ姫が言葉を紡いだ。
「『アルトリート』を処刑に導いたのは、あたしだわ」
思わず意識がそちらへと向かう。
「あいつらの流した言葉を鵜呑みにして、引き返せない場所に追いやった……でも、その責任を誰も追及しないのよ。人一人を死に追いやったっていうのに……」
その言葉に、あたしは(アルみたいだ)と思った。
自分の責任だと言っていた彼。
アルもまた、重い罰から外された己に苦しんでいた。
……今のアディ姫は、アルと同じだ。
自分たちがやったことに対して、自ら罰を望んでいる。
彼女等自身が、罪を犯したわけではないのに……
「……あなたは、ご自分ができる精一杯をされました」
暗く沈んでいるアディ姫に向かって、レメクは声をかける。
「人の世で起こせれる以上の奇跡すら、その手で引き寄せたのです。……もうそれ以上、自分を責めるのはやめたほうがいいでしょう」
「……意味がないから?」
「ええ」
自嘲を浮かべるアディ姫に、レメクはあっさりと頷く。
少しだけ苦笑が勝ったような声で彼は言った。
「自らの行動と、それによって引き起こされた事態を客観的に判断できるのは良いことです。……けれど、自分の罪だと言って引きこもれるほど、あなたは『自分を』哀れんではいないでしょう?」
「……えぇ」
苦笑に苦笑を返して、アディ姫は顔を上げた。
暗い色と激しい色を内包する瞳が、ギラギラとそこで輝いている。
「あたしの罪はハッキリしてるわ。……けど、自分の罪に浸れはしない。誰も罰を与えないのなら、自分で償う道を探すわ。あたしはきっと、これからも何度だって間違える。でも、立ち止まってなんかいられないのよ」
その言葉と目の色に、あたしはちょっと微笑ってしまった。
あぁ、アディ姫だ。
なんとなくそう思った。
うじうじと悩むより、自分を追いつめるより、心を奮い立たせるのが彼女には似合う。
「……それはあなたもですよ、ベル」
唐突にレメクがそう言って、あたしの方を振り返った。
きょとんとしたあたしの前で、同じくキョトンとしたアディ姫が目をパチパチさせる。
「末姫ちゃん? え? どこに?」
アディ姫の目はレメクの視線の先──あたしの方を──見つめていた。だが、まるで何も見えないかのように、ギュッと訝しげに細められる。
「……気配はするんだけど……」
「『精神転移』で来たのですね……。いけませんよ、ベル。あなたは今、高熱を出して眠っているのです。早く体に戻りなさい」
(高熱?)
あたしは首を傾げた。
熱なんていつ出したっけ?
「ベル……」
レメクが心配そうな顔であたしに歩み寄る。
あたしは咄嗟にレメクに向かって両手を伸ばし──
──ポカンと、そのままの体勢で固まってしまった。
(……え。どこココ……?)
突然、景色が一変したのだ。
さっきまでレメクとアディ姫がそこにいたのに、今は青い闇の中に一人でポツンと突っ立っている。
足下ではさわさわと草が揺れていて、伸ばした両手だけが、真実、先程まで目の前にレメクがいたことを示していた。
(……え~……)
抱っこしてもらなかったことに少なからずしょんぼりして、あたしはダラリと両手を下げた。足下の小石をコンと蹴ると、それは綺麗に飛んで近くの石柱に跳ね返る。
(……石柱?)
見回せば、満天の空の下、大きな石柱と石像がズラリと等間隔に並んでいた。
(……『神々の間』?)
あたしは唖然と周囲を見渡した。
どうしてこんな所に来たのかよくわからなかった。
だいたい、さっきまでレメク達と一緒にいたのに、なんでこんな所に来ているのだろう。
(おまけに……なんか変な気配がするし……)
以前、フェリ姫と来た時には、レメクの屋敷にも似た不思議な気配を感じていた。
けれど今は違う。
気がつけば、思わず自分の体を抱きしめていた。
シンと静まりかえった闇の中、空から圧倒的な力が押し寄せてきている。
日中に訪れた時とは明らかに違う、どこか異質な気配──
あたしは怖くなって石柱の影に逃げ込んだ。
(どこから帰ったらいいんだろう……?)
どっちに太陽の神殿があるのだろうかと周囲を見渡し、石柱の影からこそこそと反対側に顔を出す。
そうして、目をパチクリさせた。
白い石柱と石像の合間に、黒い人影が立っていた。
すらりとした長身。
遠目にもハッキリと白い美貌。
こちらに気づくことなくただ空を見上げているそのヒト──
ポテトさん。
怖い場所で見知ったヒトを見つければ、それはもう心強いってなもんだろう。
なんでこんな所にいるんだろう、とかいう疑問もどこへやら、真っ直ぐにポテトさんの方にすっ飛んでいったあたしは、相変わらず星空を見上げているポテトさんの傍まで駆け寄ると、その尻にエイヤと飛びついた。
「!?」
──なにやら、ビクッと跳ねられた。
おや? と思って尻に張り付いたまま顔を上げると、空を見上げた格好のまま、ポテトさんが妙に疲れた声でボソリ。
「……お嬢さん……『精神転移』でここに来ていることについてはどーとも言いませんけど……私の尻に張り付くのはどーかと思うんですが……」
その体がビミョーに震えてる気がするのは気のせいだろーか?
だいたいにして、そんなことを言われても飛びかかりやすい場所にあるのだから仕方がない。
おまけにポテトさんはレメクと体格が似てるから、いい予行練習になるのである。
「……いえ……もう、どーとも言いませんが……」
なにか、諦めの入った声で言われてしまった。
そのまましばらく存在を無視されたので、よじよじと背中側をよじ登り、高い肩まで(よいしょ)と登りきる。
そうして、相変わらず空ばかり見上げているポテトさんの顔を覗き込んだ。
(おとーさま。何か見えるですか?)
「……とりあえず、今はあなたのアップが見えますね……」
そんなことはどーでもいいのだが。
困り顔で眉を寄せたポテトさんに、あたしも困り顔で眉を寄せてみせる。
ポテトさんは軽く苦笑して言った。
「空を見上げてごらんなさい。……あなたは『巫女』です。おそらく『視る』ことができるでしょう」
(星を?)
「……そうですね」
どこか困ったような顔で頷く相手に、あたしは言われた通り空を見上げる。
恐ろしいほど澄みきった夜空だった。
青い海に光の粒をばらまいたような、気を抜けば空に向かって落ちていきそうなほどの光景である。
(……どっちが天地なのか分かんない……)
「……気をつけなさい。そのまま『天』に引き込まれてしまえば、戻れなくなりますよ」
恐ろしいことをサラッと言われて、あたしはギュッとポテトさんの髪を鷲づかみにした。
(一蓮托生なのです!)
「……そうきますか……」
ビミョーにぐったりした声を体の下で聞きつつ、引き込めるものならやってみろ、とばかりに空に向かってちょいと背伸び。
その瞬間、ふいに世界が一変した。
赤。
黒。
弾けたそれが、ゴウゴウと音をたてて天地をなめつくす。
倒れている人、人、人──
壊れた家の破片が大通りすらも塞ぎ、その中で赤に染まった鋼を持つ者たちが、武器を大きく掲げている。
それがただの剣であったら、それほど驚きはしなかっただろう。物語で聞く、戦争とやらの光景なんだと(どうしてそんなのが見えるのかはともかく)思って納得しただろう。
けれどそれは、剣ではなかった。
鍬であり、鋤であり、鉈であり、料理人が使うような包丁であった。
血に染まっているのは鋼だけではない。
箒の握り、杖、棍棒、それに似た鈍器のような棒……それらを手に徘徊する亡者のような人の影。
崩れた路地の端には身動き一つしない人が倒れ伏し、もはや動くことのないその体に向かって、まだ棒を振り下ろす者がいる。
水路の水も地上の炎と煙を映し、赤く、黒く、染まっている。
見つめている中で、人の形をしたものが、背中と後頭部だけを水面に出して流れていっていた。
そこにいる誰もが……普通の人、だった。
異国の民でもなく、兵隊でもない……紛れもなく、ナスティアの国民だった。
何が、
そこであったのか──
何が、
そこで行われているのか──
麻痺した頭では考えが追いつかず、ただ光景だけが勢いよく通りすぎていく。
その中に、
よく見知った二人の姿が見えた。
対峙している。
片腕を失い、血に染まった黄金。
顔の半分を血に染め、立っている闇の黒。
アウグスタと、レメク──
(───!!)
瞬間的に悲鳴をあげ、ギュッと手に力を込めた。
「お嬢さんお嬢さんお嬢さん。抜けます! 私の限りある資源が!!」
妙に切羽詰まった声が下から聞こえた。
あたしはハタと我に返り、慌てて下を見る。
情けない表情の超絶美貌が、あたしをジッと見上げていた。
「……視ましたね?」
断定での確認。
それに頷いて、あたしはいつの間にか止めていた息を吐いた。
(……アレ……何?)
「……さて」
少しだけ困った顔で首を傾げ、ポテトさんはまた星空へと視線を馳せる。
「呼び方は様々あって、どう言うのが一番正しいのか、私にもよくわかりません。……天啓、予知……そう呼ぶのが一番近い気がしますが……」
その瞳が暗い色を帯び、底なしの闇のようなものに変わる。
「星から読み取っているのか、天から受け取っているのか、それとも空気を読んでいるのか……判別がつきませんしね。ただ……ほら、あの星のあたり……星の名や配置がどうとかいう、そういう細かいことはわからなくても、嫌な感じがしませんか?」
白く美しい指が示す方向を視れば、確かになんとも言えずヤな感じの星々が。
(気持ち悪くて重い感じがするのです)
「『星見』と呼ばれる人々が書いた書物によれば、アレが示すのが、血と破壊……戦乱、暴動などと呼ばれるものなのだそうです」
戦乱。
その言葉と同時に先程『視た』ものが浮かんで、思わず総毛立った。
もしかして──
(……さっき視たのが……?)
「……えぇ。あれもまた、ある意味『戦』と呼ばれるものでしょう」
虚無を宿す瞳で空を見続け、ポテトさんは頷く。
あたしも怖々と空を見上げ、ギュッと唇を引き結んだ。
(どうして……アウグスタと、おじ様が……?)
その中で、あんな風に対峙していていたのか。
どうして、あんなに血まみれになっていたのか。
「……同じ形で『視た』のかどうかは、わかりませんよ。あれは、受け取った私達が自分で組み立てた映像です。実際に、『視た』ものと全く同じ現実が現れるというわけではありません。……恐ろしく不吉な『予兆』を感じ取った時、どういう風にそれが自分の身に関わってくるのか、自分にとって大切な人はどういう風になってしまうのか……そういったことを『読み取った内容』から『導き出し』、それを『映像化した』のが、私達が『視る』予知の光景なのでしょう」
……よく分からない。
「つまり……怖い何かがある、という大きな『予感』を最初に読み取るわけです。そして、そこから自分の知りたい事柄にその『予感』の内容がどんな風に関わってくるかを改めて『細かく感じ取り』、その内容をまるであたかもそこにある現実のように頭の中で想像する。……といった感じです」
(じゃあ……実際には、全く違うこともあるの……?)
例えば、想像じたいが間違っていたり、感じ取り方が違っていたり。
(本当には、違う未来が待ってたりするの?)
そうであってほしい。
心底そう思って問うと、ポテトさんは虚無の瞳のままで言った。
「わかりません。今私が言ったのは、受け取る『予知』が同じでも、『視る』内容が違うのはそういう意味だ、ということへの説明でしかありませんから。私自身は『未来を司る者』ではありませんから、こういったことを判別するのは不得意なのです」
よく分からんが、このヒトにも不得意なモノってあったんだな……
「私は、今、最も強く感じ取っている『いずれ訪れる未来』で、対峙するご主人様とあの子を視ています。……ひどい怪我をして、周り中が壊れていて……」
あたしは大きく目を瞠った。
それは、あたしが視たものと同じだと思った。
(アウグスタ……片腕が無かったのです……)
あたしの言葉に、ポテトさんはわずかに顔を曇らせる。
「……それは、実際に腕を失うか……それとも、それに近い誰かを喪っているのかの……どちらかなのでしょうね……」
虚無の色を深めて、ポテトさんはボソリと呟いた。
「……それでも……今受け取っている『予知』は、まだマシになったほうなのですよ」
未だ暗い目で空を見上げたまま、ポテトさんは痛みを堪えるように目を細めた。
青黒い夜空の下で、その黒髪がわずかに風に揺れる。
「初めて『視た』時、二人とも、ハッキリと死の予兆が出ていました。いつも、いつも……どれだけ祈って空を見上げても、『視える光景』にもさしたる違いはありませんでした……」
(……さしたる違い?)
あたしは首を傾げる。
ポテトさんは虚無の瞳のままで笑った。
「未来とは、決められた一本の道ではありませんから。道のようにみえるのは、その時々の変化、事情、縁、関わり……そういったものが複雑に影響をしあった末に『一番辿る確率の高い』もの。その『可能性の結果』です。だから、いくらでも変化するし、いくつでも道はある」
だから、今『視て』いるものが必ず訪れる未来かというと、そうではない。
「けれど……『一番訪れる可能性の高い』未来では、あるのです」
瞳が揺れて、いつもの綺麗な蒼に戻る。
そうして、あたしをハッキリと見上げ、少しだけ微笑った。
「あなたの存在を知った時、私は、あなたこそがアレを具現化する魔女なのかと思いました。ご主人様と対峙する……『敵対する』黄金の魔女なのかと……」
けれど、とその唇が言葉を紡ぐ。
「……あなたが現れてから、視えるものが少しずつ変化しているのです。今はもう、最初に『視た』未来はどこにもありません。けれど……まだ、あのような形のままです。どちらも傷つき、けれど対峙し、その傍らに、私の姿は無い……」
言われて、あたしはあの光景にポテトさんの姿が無かったことを思い出した。
いつもアウグスタに傍らにあって、おそらく、彼女を傷つける者を決して許さないであろうこのヒトの姿が──
「いなかったのは、駆けつけれなかったということなのか、存在しないためなのか……それすら、今はわかりません。……あなたの姿も見えない……それでもああして、あの二人が対峙する……」
ポテトさんの目がもう一度空へと向かい、暗い色を宿す。
「あの未来を変えるためなら、私はどんな犠牲も厭いません。誰が傷つき、誰が嘆き、誰が死のうとかまいません。そのことであの方やあの子が悲しもうと、躊躇することすらしないのです」
まるですでに行ってきたことを語るように、ポテトさんは言葉を紡ぐ。
その瞳はただひたすらに空へと向けられ、決して他を見ようとしない。
少なくとも、同じものを視るあたし以外は。
「あなたがもう一人の黄金の魔女になる未来は、変わりません。敵対する可能性も消えていません。……けれど、あなただけでは無い……」
空を見つめたまま、ふいにポテトさんは薄ら寒くなるような声で呟く。
顔からは感情が消え、瞳には虚無が宿り、その声は今まで聞いたことがないようなどす黒い何かを含んだ。
「……動いてる者がいるのです。影で。今もまだ動いている……」
その口が亀裂のような笑みを浮かべ、クツクツと心が冷えるような笑い声が零れた。
「嗚呼……そうですね、『私』という『存在』がこうして『ここに』在るのだから……こういうことだって起こりうるでしょう。先代や先々代のように、特殊な城に閉じこめられているわけでもないのですから……」
(???)
意味不明な言葉に、あたしは首を傾げた。
相変わらず、ポテトさんは不思議の国の住人さんだった。
しかし、いつまでも不思議の国にいられてはかなわない。
(お義父さま……あの光景にならないために、あたしに出来ることって何?)
掴んでいる髪をギュッとすると、ポテトさんがいつもの顔に戻ってあたしを見た。
まるで今いる現実を確認するかのように、しばらくジッとあたしを見つめてから、
「……レンさんの傍にいてください」
そっと、言葉を零した。
「今まで、あの子には居場所が無かった。ここにしか無かったのです。ここにいても本当の意味では生きていると言えない状態でしたが……それでも、ここでしか生きることができなかった。……けれど、あなたがいてくれさえすれば、きっと、あの子はどこにでも行けるし、どこででも生きていくことができる」
(?)
意味がよくわからず、あたしは首を傾げる。
それにホロリと笑みを零して、ポテトさんは眼差しを柔らかくした。
「あなたが現れたことで、動き出すものもあり、変わりだすものがある。……そして、あなたがいてくれるからこそ、打てる手も……あるのです」
やっぱり意味不明なその言葉に、けれど少しだけ胸がザワザワした。
嫌な予感がした。
それは、悪い予感にも似て、ひどく胸をざわめかせる。
(お義父さま……)
「きっと、あなた達は怒るでしょうね。……全てが終わった後に、今日みたいに、あなたに知恵熱を出されてしまうかもしれません」
口を開きかけたあたしの言葉を遮って、ポテトさんは笑って言う。
その、どこか悲しげに見える、切ない笑顔。
「それでも、私は行うでしょう。あの光景を実現させないためなら……世界だって、壊してしまいたいのだから」
(世界を……)
思わず呟き、そして、あれ? と目をパチクリさせた。
また景色が一変していた。
今度目の前に広がっている光景は、大きな部屋の内部だった。
広間、と言ったほうがいいだろう。
沢山の人が集まっても大丈夫なぐらい、広い部屋。
天井は高く、そこからぶら下がっている綺麗なシャンデリアが、青い光を周りにそっと撒いている。
天井を支えるのはいくつもの巨大な円柱。
淡い青に染められたそれが、とても美しく、同時になにか寂しいもののように見える。
(……どこ?)
さっきまで肩車してくれていたポテトさんも、やはりここにはいなかった。
あたしは先程までポテトさんの髪を掴んでいた手をワキワキと動かし、ちょっとしょんぼりして頭上を見る。
天井で空を隠されたそこからは、あの不思議な光景は見えそうにない。
とはいえ、二度と見たくない類の光景だったから、それはそれでかまわなかった。
けれど、いったい、ここはどこだろうか?
天井には何かの絵が描かれているのだが、どういうわけかぼんやりとしか見えない。
よくよく見れば、うすぼんやりとしているのは天井だけではなく、部屋にあるもの全部がぼんやりとしていた。
まるで水を通して見る景色のように、青い薄闇に滲み、ぼんやりとぼやけている。
目を凝らして見れば、広い広い部屋の奥には豪華な椅子。
椅子の背後には、磨き上げられた沢山の硝子で出来た壁。
(……玉座の間……)
ふいに浮かんだ言葉に、あぁそうか、と納得した。
ここは玉座の間だ。
アルルじーちゃんと初めて会った後、フェリ姫と一緒にアウグスタに会いに来た場所だ。
あの時にはまだアルとも仲良くなっておらず、アディ姫やアルトリートとは会ってすらいなかった。
まだ一日ほどしか経っていないはずなのに、なんと昔に思えることだろうか。
あたしはぼんやりと周囲を眺め、ふと、玉座に沈んでいる人影に気づいた。
今まで気づけなかったのが不思議だった。
その人は椅子に深く腰掛け、項垂れるように俯いている。
……疲れた姿だと思った。
そして、悲しい姿だと。
あたしは何を思うより早くその人の元へと歩く。
あたし達以外には誰もいないその部屋で、ただ独りきり──
──アウグスタが、そこにいた。
ぐったりとした姿で、アウグスタは俯いていた。
いつも爛々と目を輝かせ、凛と顔を上げて立つ姿ばかりが印象に残っていたから、そんな姿を見ると、どうしようもなく胸が騒いだ。
青い世界にともに沈むように、その人の輝くばかりの黄金も、今は青く淡く沈んでいる。
一瞬、先程見た恐ろしい光景が蘇って、あたしは慌ててアウグスタに駆け寄った。
けれど飛びつくことはできず、おずおずと、力無く投げ出された手を握る。
ぴくりと、アウグスタが反応した。
緩慢な動きで重い頭をわずかに上げ、疲れた顔のアウグスタがあたしを見る。
「………… ベル」
その呼び声に、先程見た光景が霧散するのを感じた。
まるで夢から覚めるように、現実に引き戻されるように、怖い光景が色褪せていく。
そんな風になるほど、アウグスタの声は、あまりにも弱かった。
あまりにも悲しげで、あまりにも力がなかった。
あたしが傍にいて、ちゃんと支えてあげなきゃ、と思うほどに。
「……おまえ、今は、ちゃんと寝ていたほうがいいんじゃないか……?」
アウグスタはそんなことを言って、少しだけ口元に笑みを浮かべた。
細い手が伸びてきて、あたしの頬を優しく撫でる。
暖かな熱が上下するような、そんな不思議な感触がした。
あたしはその手に自分の手を添えて、アウグスタをジッと見つめる。
……アウグスタは、泣いているように見えた。
実際には目に涙は無かったし、頬に涙の跡があるわけでもなかったけれど。
それでも、泣いているように思えた。
「……辛い思いをさせたな……」
美しい唇から、ほろりと言葉が零れる。
「……まだ小さいおまえに、キツイ場面ばかり……見せたな……」
その言葉にあたしは首を横に振った。
アルトリートのことだと分かった。
だから首を横に振ったのだ。
辛かった。
きつかった。
けれど、それは自分で望んだもの。
──決して、目を背けてはいけないものだったから。
(見なくちゃ、いけなかったの)
きちんと。
(知らなくちゃ、いけなかったの)
そこにある現実を。
そこにいる人を。
(……でも、何も、できないの……)
助けたかった。
生きていてほしかった。
何かしたかった。
何かができるんじゃないかと思っていた。
奇跡なんか起きなくても、精一杯やれば『やれる』何かがあるんじゃないかと思っていた。
──そんなものは、ただの願望でしか無かったのだけれども。
(……どうして、何も、できないんだろう……?)
しなくちゃいけないことがあるのに。
したいと思うことがそこにあるのに。
してはいけないことがここにあるのに。
どうして、何もできないのだろう。
悪い方に動く動きを変えることも、
動いてしまうコトそのものを止めることも、
どうしてできないのだろうか?
国で一番エライ王様だって、それを望んでいるのに。
「……なぁ、ベル。私は、なんのためにここにいるのだろうな」
アウグスタは苦い笑みを零す。
泣くような顔で。
迷子のような目で。
「ここにいたって、見えないものはあまりにも多くて、知らないことも、聞けない言葉もあまりにも多くて……私はいつだって……本当にいつだって『足りない』んだ」
王という強大な権力を持っているはずなのに、
あまりにも足りないのだ。
それを行使するための……地場が。
「……国を……その立場を……守ろうとするのなら、切り捨てなければならない命があることは知っている……」
それはきっと、アルトリートの命。
「だが、その命だって……賢明に生きているんだ」
たとえ、間違いを犯したとしても、
そのせいで歪んでしまった沢山のものがあったとしても、
「正しいことを正しく行うことも、正しくないことを正しくないと切り捨てることも、こんなにも難しい……」
あたしに触れていない方の手が、ギシリと玉座の肘掛けを握りしめる。
まるで、そのまま握りつぶすかのように力をこめて──
「けれど……なら、私は、いったい、なんのために王になったのだろうか」
なんのために。
──なにをするために。
「権力など、欲しくはなかった。地位も、財宝も、欲しくはなかった。私は──」
アウグスタは──
「ただ、守りたかった。助けたかった。誰かが担わなければならないのなら、私が担わなくてはならないだろうと思った。私が逃げれば、あやつが生け贄にされる。哀れなあやつが、心を失ったままで、こんな重荷まで背負わされるのは……我慢ならなかった。私が助けるのだ。助けるのだと思い続けていた……!」
ギシリと、玉座が軋む。
その美しく、華やかな王の椅子が。
「だが……なんだ……私は、結局のところ、本当の意味であやつを救ってやることもできず、もう一人の弟すら守れないではないか! あれらが望むものすら、叶えてやれないではないか! 助けてやれないではないか!!」
声を振り絞って、アウグスタは叫んだ。
「なんのために、私はこの椅子に座ったのだ!!」
まるで血を吐くような声だと思った。
言葉の全てに魂がこもっていて、だからこそ、こんなに強く胸を締めつける。
(アウグスタ……)
あたしは触れている手に、そっと力を込めた。
何も出来ないことを悔しがっているのは、あたしだけでは無い。
あたしは自分に力が『無い』ことを嘆き、
アウグスタは、『ある』力を使えないことに嘆いている。
なれば、力の『ある』『なし』は関係ないということなのだろうか?
個人で持っている力ではなくて──
(世界を……)
あたし達が生きている、この世界そのものを──
(世界を動かせるだけの力を……)
得て、それを使って──
(世界を変えてこそ、初めて、あたし達の思いは果たされる……の?)
あたしの声に、アウグスタは一瞬、大きく目を瞠ってあたしを見つめた。
綺麗な色の瞳が、涙に濡れている。
……嗚呼、『力』があっても使うことができないのなら、それはなんて苦しくて悲しいことだろうか。
ただ、己の無力を嘆くだけよりも、よほど……
「……変えようか……」
ぽつりと、アウグスタは呟いた。
あたしはその声に頷く。
そうだ。
変えればいい。
あたしは誓った。
自分にそう誓ったのだ。
そしてまた、ポテトさんも──
(変えよう……アウグスタ)
そのための努力なら、あたしはいくらだってする。
アウグスタがそれを成し遂げるのなら、あたしはいくらだって力になる。……なれるよう、全力を尽くす。
(もう、こんな風に泣かなくてもいいように)
だって、分かっている。
アウグスタは、どんなに苦しんでも、傷ついても、決してその椅子から降りないのだということが。
例え美しく飾り付けられた、茨の椅子のようなものであっても──
彼女は座り続けるのだ。
──守りたいと願った、己の守るべき者達のために。
その虚飾の玉座に。