29 永遠の繋がり
何を言われたのか、一瞬、分からなかった。
ポカンとしたあたし達の前、愕然とした顔で突っ立っていたアルは、凍りついたようにアルトリートを見つめる。
──アルトリートの表情は、依然として静かだった。
昨夜の狂態が嘘のように、ひどく泰然とそこに立っている。
「なに……言ってんだよ……アルトリート」
カラカラに乾いた声で、アルは声を絞り出した。
衝撃の深さを物語る声音に、あたしもギュッと唇を引き結ぶ。
「なぁ……今、どういう状況か……分かってんだろ……?」
後ろによろめきかけた足が、危ない足取りで前へと踏み出された。硬い石の床が乾いた音をたて、それは牢の中で奇妙に大きく響く。
(……アル……)
あたし達は、思わず息をつめて二人を見守った。
けれど、何かに縋ろうとするアルの悲痛な目に対し、呼びかけられたアルトリートの目は、どこか作り物めいた冷たい色をしている。
「……ボクは、帰れ、って言ったんだ」
「……ッ」
「……聞こえなかったのか?」
静かな拒絶に、アルの顔が歪んだ。
それは、誰にとっても意外な言葉だった。
凍りついているアルのやや後ろで、ポテトさんだけが面白そうに目を細めている。
「……これは意外ですね。そちらから拒否がきますか」
アルトリートは一瞬だけポテトさんを見たが、すぐアルに視線を戻した。そこにいる超絶美形も、今の彼にはどうでもいいことらしい。
アルトリートの目は、最初から、ずっとアルにだけ注がれていた。
「……言っておくが、クリス、ボクはおまえのことが嫌いだ」
ただし、その瞳にあるのは、ハッキリとした拒絶だけ。
「ボクに似てるくせに馬鹿すぎる、その顔を見るのもうんざりだ。どれだけ躾ても下街くさいし、要領も悪いし、微妙にトロくさいうえ、押しも弱い。小さなことにこだわりすぎて周りを見ることもできないし、自分の行動の先に何が待ってるのかを想像することもできやしないし、今の自分に何ができて何ができないのかも分かっちゃいない」
思い当たる節が多々あるのか、アルの表情が情けないモノになる。
アルトリートはたたみ掛けるようにして言った。
「結果が出ている状態で、今更、ノコノコとここにやって来るか? 処刑の身代わりなんか申し出て、それをボクが受けるとでも思っていたのなら、こんな侮辱はないぞ」
静かな表情の中、そこにだけ激しい怒りを込めて、アルトリートは自分によく似たもう一人の『アル』を睨みつけた。
「王族の血を狙えば死罪。そんなこと、最初から分かっていた。おまえが邪魔だと言われ、話を進められた時から、ボクは生きるか死ぬかの二択を受け入れていた。おまえを殺せなかった時は、ボクが死ぬんだと覚悟を決めていた!」
ふいに歩み寄り、無造作に伸ばされた手がアルの胸ぐらを掴む。
一瞬バルバロッサ卿が動きかけ── すぐに構えを解いた。
分身のような相手を睨み据えて、アルトリートはハッキリと感情を露わにする。
どこか悲しげに歪んだ、怒りの表情に。
「そうでなくて、命のやり取りなんかできるわけがないだろう!」
(……ぁ……)
あたしは、その声に思わず息を呑んだ。
その激しさは── 思いの裏返しだった。
だからこそ、あたしは自分の思い違いを悟らずにはいられなかった。
アルトリートは──アルとの思い出を失っていたわけじゃなかったのだ。
むしろ、覚えていたからこそ、あれほど追いつめられた表情をしていたのだ。
大切だと── 本当には、大切だと思っていたからこそ。
「全部、終わったんだ。──いいか? 三度は言わない。全部、終わったんだ! もうおまえがどうこうできる問題じゃない。おまえにはそこまでの力はない。だから……帰れ!」
キッパリとした言葉に、あたしはよろめくようにして牢から離れた。
──あたしは間違っていた。
根本的なところで、アルトリートという一人の人間を見間違っていた。
わずかな情報だけを鵜呑みにし、本当のことに気づくこともできず、駆け足で全てを明らかにしようと間違った道を突き進んで──
(……あたし……達は……)
取り返しのつかない間違いを……したのだ。
(……大事なことに……気づいてなかったんだ……)
アルは言っていた。
幼なじみである彼を信じたいのだと。
アディ姫は言っていた。
アルとアルトリートにあった暖かな時間は、間違いでは無いのだと。
状況は揃っていた。
偽りの名前。入れ替わっている事実。命を脅かされた現実。罪を犯す理由になりそうな事情。
けれど── 抜け落ちていたのだ。最も大事な部分が。
アルトリートが、アルに、明確な殺意を抱いていたかどうか、という部分が。
(本当に……殺したいって思っていたなら……)
そして自分が成り代わって、生き続けたいと思っていたのなら──
最後まで悪あがきをするはずだ。
チャンスがあるならそれにすがるはずだ。
自分が生き残って、相手を殺す道を選ぶはずだ。
そもそも、最初に自分の命を天秤にかけるような、そんな覚悟を決めたりはしないはずだ!
そう、かつて、エットーレが断罪の間際にレメクにすがりつこうとしたように……往生際悪く命に固執するはずなのだ!!
(殺したくてたまらなかったんじゃ、ないんだ……)
憎しみで刃を握ったわけではない。
そういう、『殺意』によって起こした罪ではない。
でも、それなら──どうして、もっと別の形で終わらそうと思わなかったのだろうか?
邪魔でいなくなって欲しいのなら、こっそり家を出るとか、旅に出るとか、してもらうっていう手もあったんじゃないだろうか?
アルもアルトリートも、もともと大勢の人の前に顔を出しているわけじゃない。
シーゼルやフェリ姫みたいに、すごく沢山の人に『知られている』っていうわけでも無いはずだ。
なら、わざわざ殺そうとしなくてもよかったはずだ。
そう……わざわざ……
(……わざわざ?)
──そこまで考えて、あたしは愕然とした。
(……待って……今、さっき、アルトリート、変なコト言ってた……)
「……『邪魔だと言われ』……『話を進められた』……?」
ぽつりと呟いた声が、牢の中に響いた。
呟いたあたしに、牢の向こう側の人達がこちらを見る。
その視線を感じながら、あたしは呆然とアルトリートを見上げた。
──アルルじーちゃんの声が、あたしの頭の中でグルグル回った。
上手く利用され、自ら処刑台に登ってしまった、哀れな道化師。
嗚呼、そうだ。
昨日、狂態を晒したアルトリートに、アディ姫は言っていた。
──誰に、何を、言われたの? と。
「……誰……なの……?」
呟くあたしに、アルトリートは一瞬だけ眉をしかめた。
「……誰が、アルが邪魔だって、殺さないといけないって言ったの……?」
誰が、彼をこの最悪な状況へ向かうよう、最初に仕向けたの……?
あたしの声に、アルは大きく目を見開いた。
アルトリートは視線を逸らす。
ポテトさんは困ったような顔で小首を傾げ、そして───
「……レンフォード公爵だ」
バルバロッサ卿が、その人物の名をあたしに告げた。
振り仰いだあたしに、バルバロッサ卿は険しい顔で唇を引き結んだ。
その瞳には、ひどく苦い色と……わずかな憐憫がある。
「……レンフォード公爵だって……?」
思わずバルバロッサ卿を振り返ったアルは、呆然と呟いた。
その前にいるアルトリートも驚いた顔でバルバロッサ卿を見ている。だが、おそらく彼の驚きは、アルのソレとは違う種類のものだろう。
「……どういうことだよ……?」
のろのろと、アルは黙って立つアルトリートに視線を戻した。
アルトリートは答えない。
かわりに、顔をしかめて俯いた。
「……なんで黙ってんだよ……なぁ! 公爵がどうして……だいたい、あの人は、今回、俺達が王都に行くのに反対してた人だろ!? どういうことだよ!?」
「……うるさいな」
「アルトリート!」
必死なアルに、アルトリートは面倒そうなため息をついた。
アルではなくバルバロッサ卿に視線を向け、どうしてくれるんだと言いたげな目になる。
バルバロッサ卿は軽く肩を竦めた。
「今更、庇うような間柄でもねェんだろ? どうせすぐに公になる」
口調がいつもの熊さんだ。
「……それ以前に、どうして知ってるんだ?」
「何かオカシイ、ってんで、姫さんが調べてな」
「『姫さん』……?」
思わず口を挟んでしまったあたしに、バルバロッサ卿は苦みを堪えるような顔で微笑んだ。
「アデライーデ姫だ。……状況が揃いすぎてるのが気になって、そこら中走り回って調べたらしい」
「アディねーさまが……?」
あたしの声に、バルバロッサ卿は頷く。
あたしは首を傾げてしまった。
「でも、アディねーさま、アルのこと護ってたんじゃ……?」
少なくとも、レメクはそう言っていたのだが。
「私に代わりを頼んだのですよ、彼女は」
あたしの疑問に、牢の向こう側でポテトさんが苦笑しながら言う。
「取引をもちかけられましてね。……彼女はずいぶんと頭がいい。この私をどうすれば動かせるか、そして、どういう風にすれば有効に利用できるのか……この場にいる誰よりも理解しています」
意味深な笑みを浮かべながらも、どこか感心した風にポテトさんは言った。
あのレメクですら協力要請を躊躇する相手に、アディ姫はあっさり取引をもちかけたらしい。それはポテトさんからしても、感嘆するようなことだったのだろう。
剛胆と言うべきか、アディ姫ならやりかねない、と言うべきか……
いずれにしても、普通の人には決してできないことだった。
「それで起きた時、あいつ、いなかったのか……」
それなのに、ようやくそのことに気づいた、といった顔で、アルは呆然と呟いた。
なにやらポテトさんが気の毒そうな顔で、明後日の方角に視線を馳せた。
「……もうちょっと気にしてあげてほしい気がしますね……どーも……」
アディ姫を苦手にしている彼だが、別に嫌いだとかいうわけではないらしい。声は多分に同情含みだ。
「と言うか、アデライーデ姫はいったいどういう取引をもちかけたんですかね?」
「秘密です」
胡乱げなバルバロッサ卿に、ポテトさんは同情顔から一転、唇に人差し指を当ててニッコリ。
実に嘘くさい笑顔の相手に、熊男さんはあっさりと追求を諦めた。
「まぁ……あの姫さんなら、心配するよーな事ぁ無いと思うが……」
「それよりも、あいつ、どうしてそんなこと……だいたい、レンフォード公爵がどうとか、いつ気づいたって言うんだよ?」
不安と困惑を混ぜ合わせたような顔でアルが言い、ポテトさんが微妙な同情顔で遠い目になる。
無言の彼のかわりに答えたのは、やっぱりどこか同情顔なバルバロッサ卿だ。
「事が終わっちまった後……だな」
「終わった後……じゃあ、あの後か」
あの、と言うのは、たぶん、彼が眠らされた後ってことだろう。
「そう……だよな。それまで、そんな素振りなかったんだもんな……」
呟く彼に重い表情で頷き、バルバロッサ卿はぶっといため息をついた。
「……つーかな……俺等全員、じつに上手いぐあいに動かされたからな……」
「そうですねぇ……実に上手い具合に動きましたよねぇ……とはいえ、あれだけきちんと『終わった』後に、『違和感を覚えれた』のはさすがだと思いますよ」
軽く肩を竦めて、ポテトさんはあたしの方にチラと視線を向ける。
「お嬢さんも、なんとなく気づいていたようですし」
(あたし……?)
「ご主人様に噛みついた後、言ってたでしょう? 誰が、二人の間を壊したの、とかなんとか」
あたしは(あぁ)と納得した。一眠りしちゃったせいで記憶が薄ボンヤリになっていたが、確かにそんな話をしていたのだった。
「ちみっちょが……?」
アルに目を向けられて、あたしは痛む頭を堪えてしょんぼりと身を縮こまらせる。
「……アルトリートとアルが、最初から自分たちの境遇を知ってて、それでも友達だったのに……どうして途中でこんな風に悪い方向に行っちゃったのか、不思議だったの」
「……それは……」
言葉に詰まったアルに、あたしは一生懸命考えながら口を開く。
「どこかにきっかけがあるんだとしたら、それはどこだったんだろう、って思ったの。普通にしてたら、きっといつまでも同じ日常だったと思うの。なら、誰かが、間で何か言ったんじゃないかな、って」
アルだけでなくアルトリートも驚いた目でこちらを見て、あたしはその瞳を見つめて言った。
「人と人の間を壊すのは、何かの行動や、誰かの言葉なんだと思うの。互いの言動や、思いのすれ違いだってそうだろうけど……でも、もしそうなら、どうして『今』それが表立っているのかが分からなかったの。だって、アルは最初から最後までアルトリートを信じてて、大好きだったんだもん。長い間ずっとすれ違って不仲になってたのなら、あんな風にはならないでしょ?」
真実を見抜く『瞳』をもつアル。
その彼の前で、偽りを演じるのは並大抵では無いだろう。
そうして、アルトリートにはそこまでの演技力は無いと思うのだ。
アルは盲目的なまでにアルトリートを信じていたけれど、それでも、彼には真実と向き合う強さがあった。
だから、偽りがもっと前から発生していたのなら、あの時、ああまで無心に信じることはせず、辛くてもそこにある真実を探そうとしただろう。
なら、彼等の間に一方的な溝が出来、アルトリートが偽りの仮面でアルに接したのは、ごくごく最近ということになる。
人が一瞬でそんな風に変わってしまう何かがあったとして、それをもう片方が知らないということは有り得ない。
なれば、どうしてなのか。
答えは簡単だ。
誰かが間に入って、片方にだけ何かを囁いた、ということなのだ。
例えば悪意や、害意や……心の隙間に忍び込む毒のような言葉を。
「……でも、誰かは分からないし、そもそも、そういう人がどこにどういう風にいるのか、あたしには分からなかったけど……」
アルトリート達の人間関係なんて、あたしが知ろうはずがない。
けれど、あらゆる情報を知ることに躍起になっているアディ姫は、何かを知っていたのかもしれない。
けれど──それは、大事な局面には役に立たなかったのだ。
「まぁ、今回は相手が悪かった、というところですね」
今ソコにある現実を、ポテトさんはそう評した。
ハッとなって見るあたしに、彼は困ったような顔で言う。
「情報というものは『完全に』『ありとあらゆる全てを』把握するのが難しいものです。そもそも、人の手に集められる情報というのは限られています。全知全能とか言う、人が創り出した希望と妄想と願望が入り交じった『神様』ならどうか知りませんが、全ての出来事を全部知りうるだなんてことは、人ならざる者にだって無理な話です」
それは、例えば、ポテトさんですら、全てを把握できていなかったということだろうか。
ジッと見つめるあたしからわずかに視線を逸らせ、ポテトさんは目を閉じる。
その唇が小さく歪んで、皮肉げな笑みになった。
「賢い姫君も、情報通な宝石商さんも、健気な伯爵さんも、なかなかいい情報網を持ってますし、それぞれに賢明ですが……まぁ、年の功というやつですかね。今回の相手には及ばなかった、ということです。それに……今回のことに関しては、いろいろと複雑に入り組んでいるようですし」
す、と薄く目を開いたポテトさんの瞳は、どこかゾッとする色を帯びている。
「頭が良かったから、かえって上手いぐあいに動かされたという感じですね。本当なら、もっと緩慢に物事は進んでいくはずだったのでしょう」
「もっと緩慢に……?」
「えぇ。そうですね……」
そこで少し考える顔になって、ポテトさんは意味深な笑みを浮かべた。
「例えば、そう……公爵は、今頃は驚いているでしょうね。大祭の真っ最中に事が起こるまでは予想の範囲内でも、大祭が終わる前に全部終わってしまうだなんて、彼にとっても不測の事態でしょうから。……それでも、唯一人の生き証人以外に証拠を残していないあたりは、やはり年の功と言ったところでしょうが」
「証拠を残してない……って?」
肌に感じる温度が二度は下がったような気がして、あたしはポテトさんを見つつブルリと身を震わす。
やはり意味深な笑みを浮かべたままの相手は「言葉通りですよ」と言った。
「王族を殺めようとした証拠である『暗殺者を雇ったという契約書』も、こちらの人の名前で書かれていました。交渉も、彼の名前で行われたことでしょう。……実際に、面識があったかどうかはともかく」
チラと視線を向けられたアルトリートは、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「……ボクは、彼等とは実際に会っていない」
「「え!?」」
「でしょうね」
驚くあたしとアルに、あっさりと納得するポテトさん。
バルバロッサ卿が深い深いため息をついた。
「……全部、公爵のお膳立て、ってやつだな」
「……さてはて」
少しばかり遠い目で、ポテトさんは軽く首を傾げるようにして口元に手をあてる。
「……まぁ、とはいえ、その証拠を掴ませるほど可愛らしい相手ではありませんよ。自分の所に手が伸びないよう、綺麗に布陣を敷いています。そもそも、こちらの人を使うところからして悪質というか……」
こちらの人、と示されたアルトリートは、微妙に嫌そうな顔で視線を逸らす。
「でもっ、おとーさまっ! 王族を狙ったりしたら、一族連座で処刑とか、そーゆーのもフツーだって言ってたですよ!?」
あたしは頭痛すら吹っ飛ばして、ポテトさんに大事なことを告げた。
けれどポテトさんはただ困り顔で笑うだけ。
「……そこの人は、レンフォードの一族では無いでしょう?」
言われて、あたしは棒立ちになった。
──そうだ。
アルトリートは、レンフォード家の血筋では無い。
「彼が犯人として捕まっても、レンフォードの一族が同じ罪を背負わされることは無いと、公爵はふんだわけです。一族の者がしでかしたことなら、お家断絶もあるでしょうが、残念ながら連座させれるほどの『縁』が彼等の間にはありません。少なくとも、公式には」
その言葉に、アルトリートが唇を噛んだ。
憎々しげなその瞳は、けれどそこにいる誰かに向けられたものでは無かった。
「だからこそ、罪を犯すよう唆せれたのでしょう。あの公爵は人の心の闇をそれなりに上手く利用します。それに、どういう風に情報を『整えれば』人を誘導できるのか、よく知っています。若いあなた方が翻弄されたとしても、それは仕方がありません」
けれど、それによって引き起こされた事の結果が、コレ。
奪われるべき命と、奪ってしまった命が存在する、『今』という現実。
「……おじ様が言ってた……『元凶』って……」
あたしの呟きに、ポテトさんは困ったような笑みを浮かべて肩を竦める。
「どのタイミングでその言葉を使われていたのか分かりませんが……」
「アルトリートを裁いても、元凶にまでは手を伸ばせるかどうか分からない、って」
ポテトさんはさらに困ったような微苦笑を浮かべた。
「……まぁ、難しいでしょうね」
「でも……」
その微苦笑に、あたしは鉄格子をギュッと握りしめた。
「そんなの……おかしいのです!」
見つめる先にいたポテトさんが、困ったように首を傾げる。
あたしはそのヒトをジッと見上げて言った。
「一番悪いのはその人なんでしょ!? どうしてその人を一番に裁けないの!?」
めぎょっ、と手の中で変な音がした。
「そんなのってない! そんなのオカシイわよ! だってそうでしょ!?」
お膳立てをしたという公爵。
暗殺者達とは面識すら無かったというアルトリート。
アルを殺そうと手はずを整えたのが公爵だというのなら、どうして、その人でなくアルトリートの方が、今こうしてここにいるのだろうか!!
「本当に処罰されないといけないのは、公爵なんじゃない!!」
「……そうだよ……」
あたしの声に、アルも必死に声を振り絞った。
「そうだよ、なぁ……アルトリート! おまえじゃないだろ……!? おまえじゃなかったじゃないか! 俺を殺そうってしたのも、結局はおまえじゃなくて……」
「ボクだろう。……少なくとも、ボクはおまえを王宮へと誘ったんだ」
「だから、それだって……!」
「間違えるな」
縋るように伸ばされた手をアルトリートは厳しい顔で振り払う。
「事実は、事実だ。ボクはおまえが危険だと知っていた。知っていて誘った。おまえを罠にかけたんだ。そこに罪が無いとおまえは言う気か? 用意したのがボクじゃなくても、この場へとおまえを動かしたのはボクだ!」
「だけど、アルトリート……!」
「状況は変わらないんだ!!」
激しい声でそう叫んで、アルトリートは自分によく似た相手を見つめ、顔を歪めた。
「公爵が最初に話をもちかけてきた。それをおまえが今知ったからって、今ここにある状況が変わるわけじゃないんだ! ちゃんと話を聞いてたのか? ボクという証人以外に証拠は無いと、そこのヤツも言っただろう!」
そこのヤツと言われたポテトさんは、こんな場面だと言うのになにやら意味深な微苦笑を浮かべている。
「そのボクには、戸籍が無い。戸籍の無い人間の証言など、ほとんど塵芥と同じだ。まして公爵が大罪を犯した証拠の無い状態では、現状を覆すことなんて不可能なんだ。さらに言えば、たとえクラウドール卿の断罪をもちいたとしても、ボクの罪が消えるわけじゃない! ……おまえはボクに、三度目を言わせる気か?」
あたしはアルトリートを見上げる。
──もう、全て終わったのだ、と。
彼はその言葉をどれほどの絶望と達観をもって言ったのだろうか。
……何があっても、全ては終わってしまった後なのだと。覆すことは不可能なのだと。分かっていての言葉だったとしたら……
「……なんでだよ……」
アルは顔をくしゃくしゃにする。
──現実を否定するように。
「……なんでなんだよ……!?」
何かに必死にすがるように。
「このままでいれば……死ぬんだぞ? なぁ……アルトリート! おまえ、死にたいわけじゃねェんだろ!? じゃなきゃ、昨日、あんなに必死になってたりしないよな!?」
「うるさい!」
アルトリートは食い下がるアルをハッキリと拒絶した。
「三度は言わないと言った! いい加減、その馬鹿頭をなんとかしろ!」
「馬鹿馬鹿言うな! おまえだって馬鹿だろ!? なんだって乗せられたりしたんだよ! なにもしなきゃ、いつまでだって、今まで通りにやっていけたのに!」
「だからおまえは馬鹿なんだ!!」
怒鳴り合う二人の声は、目を瞑っていればどちらがどちらなのか分からないぐらいソックリだった。
けれど──
「いつまでも!? 今まで通りだって!? ありえるはずがないだろう! 王族として迎えられるおまえと、戸籍の無いボクでは根本から存在が違うんだ! おまえにはちゃんとした『繋がり』があった! けど、ボクには何もなかった!」
それこそ血を吐くような声で、背を向けたままアルトリートは叫んだ。
「唯一同じだったおまえですら、そうじゃなかったじゃないか!!」
その絶望の名を── きっと人は『孤独』と言うのだろう。
血の繋がった人は確かに存在しているのに、決して認めてもらえないアルトリート。
同じく認めてもらえていなかったアルの存在は、彼にとっては……あたしでは想像できないぐらい、とても特別な存在だったのかもしれない。
同情、共感、連帯感……たぶん、二人にしか分からない、深い深い絆のような何か。
それが断たれたと思った時から、歯車は狂ってしまったのだ。
……きっと本当には、断たれてなんかいなかったのに。
「……俺は、どこに行っても、俺でしかない……」
震える声で言いながら、アルは唇を噛みしめた。
「おまえだって、どこにいたって、おまえでしかなかっただろ……!?」
アルトリートと違って、何の覚悟もしていなかったアルにとっては、何もかもが信じられない事態だったに違いない。
身分のことも、境遇のことも……彼にとってはきっとどうでもいいことだったのだ。
大切だったのは、傍にいてくれた人の存在。
書類とかに書かれる繋がりでなく、傍らにあった温もり。
証しのようなものは何一つ無くても、けれど確かに存在する──形のない『繋がり』だったから。
「王族の血が何だよ! 今までソレが俺に何をしてくれた!?」
もう決して自分の手をとってはくれない相手に、アルは必死に叫んだ。
「今更、望んでもないのに与えられて! そんなもののせいで、おまえまで失うのなら! 俺はそんなものいらない!!」
それがどれだけ本気の思いなのか、傍で聞いているだけのあたし達にもよく分かった。
アルトリートにだって分かっただろう。
けれど、彼は何も言わなかった。
何も言わないことが──彼の答えなのだ。
落ちた沈黙の中、二人の様子を観察していたポテトさんが静かな表情で呟く。
「……あなたの負けですよ、龍眼くん」
それは、あたかも最終宣告のような響きを宿していた。
「ッ!!」
弾かれたようにそちらを見るアルに、ポテトさんは軽く肩を竦める。
「彼の意志はあなたでは変えられません。残念ですが、契約の履行は不可能です」
「契約!?」
あたしが思わず声をあげると、ポテトさんはニコと笑って頷いた。
「ええ。昨今では大変珍しいことですが、私と取引をしたのはあの賢明なる姫君だけじゃなかったんですねぇ。……彼もまた取引を望んだのですよ。……その命と引き替えに、人一人の運命を変える力を」
「!」
さすがにそれには驚いたのか、アルトリートも愕然とした顔になった。
……今まで、自分のことではそこまで顔色を変えなかったのに。
「対等の代償さえ用意していただければ、私に叶えられない願いはほとんどありません。奇しくも大神官殿のおっしゃった通り、私も『魔法使い』の端くれですので」
「……魔法使いってゆーより、昔話の魔女とか悪魔サンだと思うけど……」
「ふふふふふふ」
あたしの素直な一言に、ポテトさんは嬉しそうに笑う。
「そのように褒められても、何もしてあげられませんよ?」
……だから……褒めてはいないんだけどな……
「けれど、世に伝わるそこらへんの『悪魔』のように、叶えられない願いですら、契約を盾に代償をとっていくほど、私は愚かではありません」
胡乱な目で眺めるあたし達の前で、ポテトさんは朗らかに言う。
「契約には細かな制約がつきます。……今回は、お二人が合意しない限りは叶えられない願い。それが破綻した以上、契約そのものも無効です。結果、支払っていただく代償もありません」
言って、ポテトさんはアルに深い声で告げた。
「あなたの『負け』なのですよ、龍眼くん」
──それは『何』に対する負けなのか。
あたしにはよく分からなかった。
互いの『意志』のぶつかりあいに関してなのか。
──それとも、アルトリートを助けられない『現実』に対してなのか。
「負け、って……なんだよ……」
無惨にも望みを絶たれたアルは、今にも泣きそうな顔でポテトさんを見つめ、声を絞り出す。
「あんたなら、叶えられるだろ!? 魔法だとか、そういうんじゃなくても……!」
「いいぇ~。無理です」
必死なアルをにこやかに見守って、ポテトさんは自分の胸を掌で軽く押さえた。
「この『私』という存在は、こういう場合には何の役にも立ちません。あなた方は人の子の営みの中で罪を犯し、その罪によって裁かれようとしています。それをどうにかできるのは、やはり人の子の法であって『私』のような『存在』の『力』では無いのです。これが人の子の営みから外れたもの……そうですね、例えば天災などであれば、また話は別ですけど」
…………?
ポテトさんの説明に、あたしは首を傾げた。
正直、どーゆー意味なのかサッパリ分からない。
だがアルには理解できたらしく、ひどく口惜しそうな顔で押し黙っている。
「『現象』が支配できるのは『現象』でしかないということです。人の子の営みは『現象』ではなく『行為』。同じ『行為』でそれを覆すのであれば、『政治』『権力』などの力を使うしかありません。ただしこれらは多方向に対し影響が出ます。『魔法』であれば多少の誤魔化しが効きますが、私の場合、代償なしには他者の願いを叶えられないという制約があります。……まぁ、一つだけ何の代償もなしに使える手がありますけど、あまりオススメはできませんね」
「それって何だ!?」
「……てゆか、なんか激烈にヤな予感するけど……」
瞬間的に反応したアルと、突然感じた壮絶な悪寒に身を震わせるあたし。
ポテトさんはそんなあたし達を交互に見て、それはそれはスバラシイ笑顔で言った。
「王都中に疫病を流行らせるんです。おそらく半数以上が死に絶えるでしょう。一人や二人、人がいなくなっていたところで誰も気にしませんよ?」
「ふざけるな!」
激昂するアルを見ながら、あたしはポカンと口を開けてしまった。
……てゆか、ポテトさん、どーゆー力の持ち主なんだか……
突っ立ってるバルバロッサ卿やアルトリートなど、愕然とした顔になっていた。
「……大真面目な話なんですけどねぇ……」
ポテトさんは言葉通り至極真面目な顔だ。
「できるわけねェだろ!?」
「だからオススメできないって言ったじゃないですか~。ご主人様にも怒られてしまいますから、私としても極力それはしたくないんですよ」
「ソコん所だけ困った顔すんじゃねェ!」
子供のように地団駄を踏みかけ、アルはポテトさんを睨みつけた。
「ンなことして生き残ったって、どうやって他の命に償えばいいんだよ!? 誰かを助けるっていうのは、そういうことじゃねェだろ!?」
「……そうですねぇ」
何やら含みありげな笑みを浮かべて、ポテトさんはウンウンと頷く。揶揄を含んだその瞳は、真っ直ぐにアルを見つめていた。
「他に無いのかよ!? あんたの力なら……! 記憶を……そうだ、記憶を無くすとかもできるんじゃないのか!?」
「記憶、ですか」
首をコテッと傾げたポテトさんに、アルは名案を思いついたかのように顔を輝かせた。
「そうだよ! 公爵のことが駄目なら……そっちはいいから……! 俺が王族の血筋じゃなきゃ、アルトリートは死なずにすむんだろ!? だったら、俺が王族の血筋だっていう皆の記憶を消せば……!」
「他人を幾人も巻き沿いに殺しておいて、ですか?」
むしろ朗らかに笑って、ポテトさんはそう問うた。
アルは凍りつく。
気づいてはいけない部分に──けれど、決して無視してはいけないはずの部分に──彼は気づいてしまったのだ。
決して忘れてはいけない『現実』の、その最たる部分に。
「認識の変更は可能でしょう。……けれど、私の力をもってしても、実際に起こってしまった現実を『無かったこと』にはできないのですよ。……主人である地方貴族の方々につきあわされ、遠路はるばる王都にやって来て、故郷では誉れと憧れの目で送り出された彼等は、馬蹄に命を踏みにじられ物言わぬ骸と成り果てました。それはもちろん、あなたのせいではありません。そこの彼が自ら犯した罪でもありません。けれど、他ならぬあなた方によって引き起こされた騒ぎで、彼等は命を失ったのです。……ねぇ、龍眼くん。先程、あなたは仰いましたね? そんなことをして生き残って、他の命にどう償えばいいのか、と」
他者の命を奪っておいて、おめおめと生き残っていいのか、と。
「罪を償う機会というのは、どこで与えられるものでしょうか。あなた方が神と呼ぶ者からですか? それとも、人の子の手で作り上げられた法や掟によってでしょうか? 償うべき時に償わずに生きることと、償う道を選ぶことは、どちらが『人として』正しいのでしょうか?」
「……ぁ……」
よろりと、アルの足が後ろに下がった。
ポテトさんはただ微笑む。
慈悲深い、暖かな笑顔で。
「嗚呼、けれど、死したる彼等の命は、その人生は、あなたにとってどうでもいいことでしょう。名も知らず、言葉を交わすことすらしていない、ただの他人なのですから」
「……ッ!」
「えぇ。よいのですよ? 人とは所詮、己の世界にのみ固執する生き物です。自分と関わりのない他人がどうなろうとかまわないと言い切れるのなら、望んでみますか? 世界の記憶を書き換えるだけの魔法を。……もっとも、その対価となれば、あなたの命一つではとうてい足りませんが」
青ざめ、後退るアルに、ポテトさんはただ穏やかな笑顔を向ける。
状況を知らなければ、神々しいほど慈悲深く見える微笑みを。
けれど『それ』は違うのだと、あたし達は知っていた。
優しさに満ちた笑顔は嘘では無い。
けれど、きっと、悪魔とはこういう顔で微笑うのだ。
こういう顔で誘うのだ。
人として犯してはいけない禁忌を。
そして──
「……くだらなこと考えるなよ、クリス。おまえには所詮、その程度の力しかないんだから」
「アルトリート!」
偽りの世界をはぎ取るように、そっけない一言が悪魔の誘いを切り捨てた。
弾かれたように見るアルに、アルトリートは厳しい眼差しを向ける。
「言っただろう、覚悟はできていると。おまえの感情一つで、いちいち引っかき回されるのは迷惑なんだ。いい加減、もう納得しろ。……おまえの情けない願いごときで、無様に生かされるなんて、ボクだって冗談じゃないんだ!」
「アルトリート……!」
思わず叫んだアルに、アルトリートは堪りかねたように首から提げていたらしい何かを千切った。
──ブチリと、嫌に大きな音がした。
あたかも何かの絆が切れたかのような音が──
「おまえは帰れ!」
投げつけられたそれが、アルにあたる。
硬い音をたてて石の床に転がったソレは、ポテトさんの足下でくるりと一回転した。
──あたしの目に、ソレは古びたコインに見えた。
真ん中あたりで二つに割れた、ひどく古めかしいコインの一欠片に。
「おまえに生かされるなんて、まっぴらだ!」
投げつけられたことにショックを受けたように、アルがよろめき下がった。
それを鋭く睨みつけたまま、アルトリートは怒鳴る。
「そこまでこのボクを落ちぶれさせる気か!?」
「アルト……」
「おまえが死んだってボクは泣かない! だけどどうせ泣き虫なおまえは、ボクが死ねば情けなく泣くんだろうよ! 図体だけはデカくなったくせに、年下だからっていつまでも甘えるな!!」
激しい口調で吐き捨ててから、アルトリートはいっそ見事なほど人の悪い笑みを浮かべて言った。
「おまえの手なんかもう引いてやらない」
真っ直ぐな目で──
「おまえは一人で立って歩け」
真っ直ぐな声で──
「そして、せいぜい、情けない自分を思って嘆くんだな!」
その瞳の奥に、確かに涙を湛えて。
だから、憎まれ口でしかない台詞なのに、あたしにはソレは別の言葉に聞こえた。
──生きろ、と。
自分の分も生きろ、と。
──自分を思って生きろ、と。
……そういう風に。
※ ※ ※
わずか煉瓦一つ分の隙間から、滑り込むようにして風が入ってきた。
やや肌寒く感じるそれが、あたし達の間をゆっくりと旋回する。
最上階の牢には、重苦しい沈黙だけが横たわっていた。
その沈黙に耐えかねたように、バルバロッサ卿がため息を零す。
だが、その大きなため息ですら、沈黙を壊すことはできなかった。
あたしは唇を引き結んで牢の中を見る。
牢の中には、アルトリートだけがいた。
アルは──あの後も、なおアルトリートに必死に食い下がっていたアルは──ポテトさんに担がれて無理やり牢から連れ出されていた。
西の塔中に響くような声でアルトリートを呼んでいたが、その声が変なタイミングで途切れたところをみると、おそらく途中でポテトさんに昏倒されるか謎空間に放り込まれるかされたのだろう。
その時から、牢には沈黙が漂っている。
──声を零すことも憚れるような、重い沈黙が。
「……例え、現状を覆せなくても……」
ぽつりと、その中でバルバロッサ卿が呟いた。
なにかを深く考え、言葉を紡いでいる表情で。
「おまえさんの言葉は、おまえさんの名前とともに教会の記録に残される。それがどのような内容であれ、誰のどんな思惑がどういう風に絡んでこようと、必ずおまえさんの言葉通りに記すと誓おう」
硬い顔で俯いていたアルトリートは、その声にバルバロッサ卿を見た。
牢に来た時に見たのと同じ、ひどく静かな表情の彼は、ジッと誓いをたてる裁判官を見つめる。
「俺は、おまえさんから告解を受けることになっている。……そして、告解に先立ち、おまえさんを聖ラグナール院の末席に加え、洗礼を行う。略式だが、それによっておまえさんの言葉は公式なものとして扱われる。……『秘跡』を得ることは難しいかもしれんが……おまえさんは、完全に、ナスティア王国の国民として認められ……エラス教の庇護下におかれる」
「…………」
「……それがおまえさんに、どれほどのものを与えてくれるかは分からねェがな……」
バルバロッサ卿の声は、あまりにも苦かった。
あたしはジッと二人を見る。
……見ることしか、あたしには出来なかった。
(……アルルじーちゃん……)
全てを見てこいと、言ってくれた教皇サマ。
けれど、『全て』なんて、どうやって見ればいいんだろうか?
ただ見るだけしかできないのに、カミサマみたいな目も、それこそアルが持つ龍眼のような目もないあたしには、見ていても『見えない』ものがあまりにも多すぎる。
こんな場所に立っていても、本当に何一つできやしないのに。
(……あたしは……)
そんなのおかしいと、言ってしまうのは簡単だけれど──
だからといって、『オカシイこと』をなんとかするために、あたしに出来ることは──
──何一つ……無いのだ。
(……どうしたらいいの……?)
出来もしないことをただ口にして、それでいったい誰が救われるというのだろう?
(どうすればいいの……?)
自分の気持ちだけ叫んで、それでいったい、誰が助かるというのだろうか?
(あたし……ここにいたって、何もできやしないままなの……?)
それならあたしは、一体、何のためにこうしてここにいるのだろうか?
蘇ってきた頭痛を堪えて、あたしはひたすらアルトリートを見つめ続けた。
その視線に気づいたのか、アルトリートがあたしを見る。
彼の瞳には、もう、一番最初に会った時から感じていた、あの『ドロッとしたもの』は無かった。
──だから思う。
あれは、彼の心だったのだろう、と。
今のあたしでは理解することができない、深く深く複雑に混じり合った様々な気持ちが、あんな風にドロッとなっちゃうほど苦しい状態だったから……だから、そういう風に感じたのだろうと。
何故、あたしは──その時に気づけなかったのだろうか。
何故、もっと早くに察することができなかったのだろうか。
もっと沢山のことを知っていれば、こんな現実は無かったのかもしれないのに。
そう、もっと早く。もっと沢山。もっともっともっともっと──!
「……なんで、おまえまで、そんな顔なんだろうな……」
あたしを見つめて、アルトリートはぽつりとそんな言葉を零した。
あたしは唇を引き結ぶ。
頭の痛みと、ぐちゃぐちゃな思いとで、自然に涙が零れた。
「泣くようなことじゃないだろ。……少なくとも、他人のおまえが、ボクのために泣く理由が無いだろ」
あたしはただただ唇を引き結ぶ。
何かを言いたかった。
けれど、言えなかった。
あたしの気持ちを叫んだところで、そんなことに意味は無いのだ。
あたしには何の力もない。
ただ泣いて、叫んで、駄々をこねるだけしかできなかった。
何の役にも立たなかった。
誰かを助けるだなんて、そんなことはできなかったのだ。
誰も彼も可哀想で、なんとかしたいのに──気持ちだけでは、何もできないのだ。
「……ボクは可哀想なのか」
嗚咽を堪えて泣くあたしに、アルトリートはただ静かに呟く。
「他人のおまえがそんな風に泣くほど、ボクは可哀想なのか」
それは静かで……ほんの少しだけ、苦笑が混じったような、そんな声だった。
「様は無いな……。……けど……悪いもんじゃないんだな、そういうのも」
苦笑の中に混じる、自嘲めいた何か。
遅くに気づいてしまった『何か』をそっと暖めるような、そんな何か。
「……なぁ……ボクが知るだろう……最後の、王女」
そんな風にあたしを呼んで、彼は少しだけ皮肉げに唇を笑ませた。
「そこまで泣かれるほど、ボクは可哀想では無いと思うぞ」
──何故、と。
そう問いたかった。
今ここにある現実の、どこが可哀想では無いというのだろうか。
誰もが絶望と無力だけを感じずにいられない現実の、どこが……?
「少なくとも、ボクはもう、生きることに執着してない」
あたしを見下ろしたまま、彼は言う。
昨夜とは別人のような顔で。
さっきまでともまた違う表情で。
まるで、全てに納得のいく決着がついて、満足しているような顔で──
「ボクが欲しかったのは……地位や権力を持って生きることじゃ無かった……」
諦めにも似て、けれど諦めとは明らかに違う充足感をその瞳に宿して、全てを奪われてしまうその人は言った。
「不思議なもんだよな……ここに至って、そんなことにようやく気づくなんてな……」
その笑みはどこか透明で──
本当に、満足しているのだと分かったから、あたしはただ必死に声を殺して唇を噛んでいた。
納得ができなかった。
彼がそんな顔をしている理由も分からなかった。
けれど─
「ボクは何とも繋がっていなかった。例えどこかで死んでも、誰も気にとめたりしないし、それは例え生きていても同じだろうと思った。……たとえ少しばかり泣くヤツがいたとしても、ボクという存在は、それだけのちっぽけなもので、それは変わらないだろうと」
そんな風に、語るから──
「どこにも記録に残らないまま、ボクは消えていくんだろう……独りで……そう思っていた……」
だから─
「けれど……あいつは、ボクのために死ぬんだな……。弱虫のくせに、毒なんてこっそり持ったりして……」
分からずには、いられなかった──
「あいつは、きっと、ボクを忘れないだろう。……永遠に、今日という日を忘れないだろう。今回の全てを……ボクという存在の全てを忘れないだろう」
彼が得た、
彼が得たいと思った、それを──
「……だったら、もう……それだけでいい」
──彼は、この時、誰にも壊されることのないものを手に入れたのだ。
人が一生のうちで、必ず得られるどうかも分からないものを。
──唯一人との、永遠の繋がりを。