25 妄執の果て
「ボクがもらって、何が悪いって言うんだ!!」
扉を開いたの同時、耳に飛び込んできた大声に、あたし達はハッとそちらに視線を向けた。
アルの先導で壁から侵入した部屋の、四番目。
そこは今までの部屋よりさらに一回りほど大きな部屋だった。
壁の色は深い蒼。柱の色は美しい白。
どこか『青の間』を応接室を模したような造りだが、部屋から感じる印象は全く違っていた。
『青の間』の精錬された美しさは、その品格の高い調和にある。
けれどこちらの部屋は、ひどくゴチャゴチャとしていた。同じような色の部屋に、高そうな家具や調度品をめいっぱい並べたような感じだろうか。それはある意味宝の山であり、そしてある意味ゴミの山だった。
その部屋に、三人の男女がいた。
壁際で蒼白な顔色をしているフェリ姫。
そして、その前で床に転がされ、上に乗った青年に首を絞められている少年──!
(シーゼル!)
アディ姫が瞬時に駆けた。
だがそれよりも早く、真っ青で震えていたフェリ姫が壁にかけられていた短剣をとる!
(お義姉様!!)
あたしは何をしようとしているのかを察して青ざめた。
白くなったフェリ姫の顔の中で、その瞳が異様な輝きをたたえている。
(ダメ!)
「シーゼルを離しなさいッ!!」
悲鳴のような声をあげて、フェリ姫は走った。
手に刃。
おぼつかない手つきのそれを精一杯突きだして!
「!」
顔をあげた青年──『アルトリート』と、苦しげな顔でそれでもフェリ姫に何かを目で訴えようとしていたシーゼルが、驚愕の表情で固まる。
そして、
「ほっ!」
アディ姫の一蹴。
それこそそこに転がる樽でも蹴り飛ばすように、彼女は青年の横っ腹をけっ飛ばした。
どがっ! と痛そうな音がして吹っ飛ぶ青年。
そうして、駆けだした勢いのまま刃物ごと突っ込んできたフェリ姫を、アディ姫は苦笑めいた笑みを浮かべてヒョイと横抱きした。
「あっ!」
「はーいはいはーい、フェリ、そこまでよ~」
片腕で抱き上げられたフェリ姫は、驚いた顔でアディ姫を見つめ、その美しい顔をくしゃくしゃにする。
「あ、でぃ……ねぇ、さま!」
「そーですよぅ、あなたのネーサマのアディですよ~。……んん。怖かったわね、フェリ。遅くなってごめんなさいね」
「……ねぇさま! ねぇさま!! ねぇさまッ!!」
フェリ姫はボロボロ涙を零しながらアディ姫に抱きついた。
その手にあった短剣は、床にゴロンと転がっている。
……おそらく、アディ姫に抱きかかえられた時には、もう落としていたのだろう。
心底『お姫様』なフェリ姫には、刃なんて似合わない。
そのフェリ姫は、優しく頭を撫でてくれたアディ姫をギュッとやったあと、すぐに手を離し、パッと床に降りた。
そうして、咳き込みながらよろよろと身を起こしたシーゼルに抱きつく。
「シーゼル!」
「フェリ!」
シーゼルはしっかとフェリ姫を抱き留めた。
その顔は、よく見れば何カ所か赤く腫れている。
……殴られたのだろう。おそらく、『アルトリート』──えぇい! なんかアルとこんがらがるから、『偽王弟』でいいや! ──から大切な人を守ろうとして。
「くそ……おまえ、たち……よくも……」
その偽王弟が、蹴られた腹を押さえながらふらりと身を起こした。
アディ姫と二人の少年少女は身構える。
そして、そこにあたしを抱えたアルが歩み寄った。
「……アルトリート」
「!」
アルの声に、もう一人の『アル』でもある偽王弟はギョッとした顔になった。
自分達の喧嘩 (なのかな?)に夢中で、あたし達が隣の部屋からやって来たのに、まったく気づいていなかったようだ。
「なんで……どうやって、ここに来た!?」
かつて王宮であたし達に披露した『腰の低い青年』っぷりなどどこへやら、目を剥いて怒鳴る偽王弟に、アルは悲しげな目になる。
偽王弟を信じたいと言っていた彼。
……けれど、現実は、いつだって冷たくて残酷なのだ。
「……ここの隠し通路や仕掛けを教えてくれたのは……お前だろ?」
「!!」
その時の偽王弟の愕然とした顔に、あたしは(あぁ、そうか)と悲しく納得した。
……彼は、そんな過去なんてもはや忘れ果ててしまっているのだ。
かつて自分が過ごしてきた時間の中で、共にあった自分によく似た従兄弟との間に、確かに築いてきたであろう暖かいものを。
「……なにやってんだよ……」
感情を抑えようとする静かな声で、アルは言った。
「なにやってんだよ……! おまえは!!」
その掌が抱き合う少年少女を示す。
「おまえの弟だろ!? おまえの義理の妹になる奴だろ!? なんでこんな所で、あんな風に! 怯えておまえを見てるんだよ!?」
「うるさい!」
アルの悲鳴にも似た声を鋭く塞いで、偽王弟は甲高い声で怒鳴った。
「おまえがボクに何を言う気だ!? 本来なら、馬番だったおまえにボクと話す権利なんて無いんだ!」
「アルトリート!」
「呼ぶな!!」
アルの叫びに痛みの混じる声で叫び返し、偽王弟はひきつった顔でアルを睨み据えた。
「おまえが……どうして……ッ」
よろめくように半歩後ろに下がり、ぐ、と踏みとどまって相対する。
瞳の中に、悲痛な狂気が揺れる。
「どうして、おまえだけが……!?」
その目はこの場の全てを無視し、ただアルだけに注がれていた。
「なんでおまえだけが、王族と認められるんだ! 何の教育も受けてこなかったおまえだけが!」
「……アルト……」
「呼ぶなッ!!」
呼びかけを激しく拒絶して、偽王弟は叫んだ。
「どうしてだ!? おまえとボクの間に、いったいどれだけの違いがある!? 同じく片親が王族で、同じく王族外の人間として育てられた! ボクのほうが恵まれていたはずだ! 少なくとも、屋敷の中で育てられたのは、ボクの方だった!」
あたしは目を見開く。
……この人は……
「王族としての教養も、武術も、習うべき礼儀作法も! 全部教えられたのはボクの方だった! おまえはずっと、ただの馬番としてこきつかわれてきただけだった! ずっと……根っこは同じ立場だったのに! ずっとだ!!」
悲痛な色が混じる声で叫んで、ただ彼はアルだけを見る。
何年も何年も何年も、同じ境遇だと思ってきた相手を。
「だから、ボクはお前に力を貸してやったんだ!」
……けれど、その根っこのところでは、所詮は馬番の血と見下げていた相手を。
「それなのに、そのおまえが、ボクよりも高い位にある、だって?」
そして、決して『同じ境遇』などではなかった相手を。
「ボクがアイツと比べられながら必死で勉強してる間、ただ馬の世話だけしてたおまえが!?」
「…………」
アルは答えない。
ただ、驚きと悲しみに目を瞠り──ゆっくりと、細い息を吐いた。
まるで何かに……静かに別れを告げるように。
「そんなの、許されるはずがない! こんなこと、許されていいはずが無いんだ!! 同じ、王族の血を引いているっていうのにッ!!」
……その声と、言葉だけで……彼が、何を思って今回のことを引き起こしたのか、わかるような気がした。
嫉妬だ。
決して他に『認められない』自分と違い、突然、何よりも欲した『王家の一員』として認められたアルに……彼は嫉妬したのだ。
「……そう、あなた……ただ、それが許せなかった、って……それだけだったの」
美しい顔から表情を消して、アディ姫は冷たい眼差しを偽王弟へ向ける。
あたしを抱えているアルは、苦しげな顔で唇を引きむすんだ。
けれど俯くことも、目を背けることもしない。
彼は宣言通りに、きちんと真正面から全てを見据えているのだ。
「ただそれだけのために……こんな馬鹿げたことをしたの」
アディ姫は、右手側にフェリ姫達を、左手側にあたし達を庇うようにして、一歩、力強く踏み出した。
偽王弟は弾かれたように彼女を見る。
「馬鹿げたこと、だって!?」
「あら、そーでしょぅ?」
冷ややかに嗤って、アディ姫は相手を睥睨する。
「自分が認められないのが悔しくて、自分以外が認められるのが妬ましくて……おまけにそれが、自分と同等以下だと思ってたトモダチだったから、腹が立ってしかたがなかった、って……ただ、それだけだったんでしょう?」
「!? おまえ……アデライーデ姫……!?」
そこで初めて相手が誰かに思い至ったらしく、偽王弟に動揺が走る。
(……気づいて、なかったんだ……)
目の前にある光景すら、まともに把握できないほど……彼は、正気を失っているということだろうか?
アディ姫はそんな相手をことさらわざとらしく見下し、傲然と胸をはった。
「えぇ……ナスティア王国第十王女、アデライーデ・ギゼラ・エーレンベルク・アルヴァストゥアル。あなたが認めてもらいたがってる『王家』に、ずっと前から認めてもらっている娘よ」
アディ姫の言葉に、偽王弟の顔がさらに歪んだ。
王家の血を引いていながら王家に認められない彼にとって、その言葉はどれほど憎らしい言葉だったろうか。
だが、アディ姫はそんな相手の気持ちなどくんだりしない。
冷然と、激しい怒りすらその目にこめ、ふんぞりかえって見下した。
「ずいぶんと雰囲気違ってるわねェ、偽王弟さん? 気配からして違うもんだから、さすがのあたしも、ちょーっとビックリしちゃったわよぅ?」
?
気配が違うのか……?
あたしはアルの腕の中でキョトンと首を傾げる。
……そーいや、なんか、受ける印象が前と全く違ってるな。
「……貴様……」
そんな『気配すら違っちゃってる』偽王弟は、腹を押さえたままどす黒い目でアディ姫を睨んだ。
アディ姫はことさら冷ややかに嘲笑する。
「あら、貴様呼ばわりなわけ? たかだか前王女の私生児風情が。あたしとあなた、現在の身分は、圧倒的にあたしの方が高いんだけど?」
「黙れ! この、下賤民が!」
叫んで、偽王弟も一歩を踏み出した。
「王家の血もひかぬ者の分際で、王族の名を使うなど、許されると思っているのか!?」
「…………」
「魔物の群を退けた英雄ナスティアの血は、ボクの中にも入ってるんだ! 貴様らのような、ただ守られ、ナスティアの情けで平和を与えられた連中の血とは違う、気高いの血が!」
「…………」
「王族を名乗ってもいいのはボクの方だ! ボク達こそが王の血を引く者なんだ!」
血走った目でアディ姫を見る偽王弟に、あたしはわずかに眉をひそめた。
彼の妙にイッちゃってる言葉は、しょーじき、マジメに聞くにも値しないような内容だった。
だが、その言葉も、そしてアディ姫を睨み据える目も……なにか、ここにはいない誰かに向かっているような……そんな感じがした。
(……『誰に』……?)
そのことをアディ姫も感じたのだろう。
彼女は心底軽蔑しきった目を偽王弟に向けながら、ほんのわずか、眉をひそめていた。
「……あなた、誰に、何を言われたの」
「…………」
ふいに偽王弟が口をつぐむ。
「……誰に、そそのかされたの」
「そそのかされてないんていないさ!」
しかしすぐにその口は甲高い声をあげた。
「アッハ! このボクが、他の連中の言うことを聞くと思ってるのか!? 王の血筋であるボクが!?」
「……知らないのね、あなた」
どこか疲れた口調で、アディ姫は呟く。
「矜持の高すぎる人間は、それを上手に利用されてしまうんだってこと」
「利用するのはボクの方だ!」
完全にイッちゃってる目で、偽王弟はアディ姫を睨み、その斜め後ろのアルを見る。
「クリス! おまえ、言ったよな!? 協力してくれるって! ボクのために、力を貸してくれるって!!」
アルは答えない。
ただ、痛みを堪える目で唇を引き結ぶ。
「王族とかには興味ないって! 自分はそんなもんじゃない、って! そんな気概のない、母様達の希望にも答えられないおまえにかわって、ボクが立ってやってるんじゃないか!!」
フェリ姫とシーゼルがアルを見る。
アルはそれでも、何も言わなかった。
ただ、悲しみを堪えて偽王弟を見る。
「おまえもそれを承諾しただろうが!!」
偽王弟の言葉に、けれど、アディ姫は振り向かなかった。
ただアルの斜め前に立ち、その背であたし達を庇い、ただひたすら偽王弟と対峙する。
振り向かないのは、振り向く必要が無いからなのか。
……それとも、最初から、投げつけられる言葉を予想していたのか。
「ボクが利用するんだ! ボクが利用して、手に入れるんだ!」
どこか正気を失っているように聞こえる声に、あたしは眼差しを細める。
「地位も! 権力も! 名誉も!」
……そんなものに、いったい、何の意味があるのだろうか。
今まで築いてきた絆のようなものすら捨て、信じてくれている人を陥れてなお、手に入れないといけないものだったのだろうか?
人と人との絆というものは、決して疎かにしてはならない、死して尚持ち続けることのできる宝物だというのに。
……何故、彼は……そんなことすら、見失ってしまったのだろうか?
妄執の果てに、破滅しか無い未来を手繰り寄せて──
「無理よ」
ひどく遠い場所にいるように見える相手に、アディ姫は嘆息混じりに言った。
「……あなたには、無理だわ」
アルがたまりかねたように顔を歪める。
そう……無理なのだ。
そもそも、最初から無理のある話だったのだ。
「最初から……王弟を名乗るなんて、無理な話だったのよ」
「そんなことはない!!」
「……いや、無理だったんだ……」
弾かれたように叫ぶ偽王弟に、アルは深い悲しみを堪えた声で言った。
「……初めから、成功なんてするはずがなかったんだ」
偽王弟はアルを見る。
その瞳に、いっそうの狂気が沸き上がった。
「……おまえが、裏切ったからか」
「違う!」
「じゃあなんでそこにいる!?」
指を突きつけられ、アルは唇を噛む。
偽王弟は叫んだ。
「なんでそいつらと一緒にいる!? なんで名前だけの王女や、あの断罪官が一緒にいたりした!? おまえが裏切ったんだろう!? やっぱり王族の名が惜しくなって、のこのこと名乗り出てみせたんだろう!」
「違う!!」
アルは叫んだ。
「最初から、嘘なんて通じるはずがなかったんだ! 陛下は、全てを見通す紋章を持っているんだから!!」
「真実の紋章は、虚無の紋章で相殺できる! おまえが持ってる虚無の紋章と、おまえがボクに与えた虚無の紋様で、ボク達の間にある嘘は見抜けなくなるはずだったんだ!!」
「光と闇の紋章があってもか!?」
偽王子の声に、アルは痛みを堪える顔で叫んだ。
「精神の光と、肉体の闇の紋章が揃ってるなら、真実の紋章を打ち消しても意味は無いんだ! 心をのぞける光の前には、どんな嘘だって通用しない! 全ての血肉を司る闇の紋章の前には、血統の虚偽なんて意味をなさないんだ!!」
「……そんな……」
「最初から、成功なんてするはずがないんだよ! 嘘なんて、通用する相手じゃないんだ!! だって、そうだろう!?」
ふらりと一歩を踏み出したアルの腕の中から、あたしはストンと地面に落下する。
アルは両腕をわずかに折り、偽王弟へともう一歩を踏み出した。
「……あの人達こそが、女傑ナスティアの正統な継承者だ。暁の賢者の後継者だ! 全ての重責も、全ての苦痛も、悲しみも! なにもかもを背負って立ってる人達なんだ!」
「クリス!」
「王族の名を背負えるのは、俺達なんかじゃない!」
『王族』という、例えようもなく煌びやかで、
例えようもなく重く虚しいその王冠を───
「背負って立てるほど、俺もおまえも、強くないじゃないか!!」
誰よりも美しく気高く力強い『女王』が、どれほどの努力をしてこの国を背負っているのか、アルはもう知っている。
例え全てを知ってはいなくても、垣間見たその姿に、その力に、彼はすでに膝を屈し、認めていたのだ。
間違っていた自分に。
そして、王族の血や名前を……軽々しく考えてはいけなかったということを。
「俺達は、軽く考えすぎてたんだ。王族の名っていうのがどういうものなのか、王族っていうのがどんなものなのか……! 誰かに渡せるものでも、誰かから譲られれるようなものでもなかったんだ! それができるのは、唯一、この世で陛下唯一人だったのに!」
「じゃあ、なんで王族の血をひかない王女が山ほどいる!?」
偽王弟をあたし達を睨み、鋭く指で指し示す。
「なんでそいつらがいるんだ! 何人も、何人も!」
「陛下が望まれたからだ! 陛下だけがそれを決めれるんだ! それ以外の者が、どうにかしていいもんじゃないんだ!!」
「ふざけるな!!」
叫び、大きな身振りで何もない空間をなぎ払って偽王弟は叫んだ。
「今更言うか!? 今更ッ!! もうボク達は動いたんだ! 勝たなきゃ終わりなんだよ!!」
「勝たなくていいんだよ!!」
アルはさらに一歩を踏み出して叫ぶ。
「……もう、終わりなんだ。終わりにしなきゃいけないんだ、アルトリート」
「……おまえ……」
偽王弟が驚きと、それを遙かに超えた憎しみでアルを睨み───
「それは……」
もう一歩を踏み出したアルの、その手が懐から取り出したものに、愕然と立ちつくした。
小瓶だった。
掌に隠れるほどの小ささの、中に透明な液体の入った瓶だった。
「! アル!?」
嫌な予感を感じたのか、アディ姫が思わず振り返る。
「終わらせるんだ」
「アル!」
見たこともないほど切羽詰まった顔でアディ姫が手を伸ばす。
だが、その手よりも早く、アルは小瓶の中身を口にあて、ぐいと仰向いた。
「アル!!」
アディ姫の悲鳴が部屋に響いた。
空になった小瓶が床に落ちる。
その両肩を掴んで、アディ姫が大きく揺さぶる。
「吐いて! 吐きなさいよバカ!!」
首を振り、叫ぶその激しい動きに、アディ姫の瞳から涙が飛んだ。
それはどこか美しい宝石に似て、硬直していたあたし達の呪縛を解き放つ。
「アル!」
あたしは走った。わずか数歩の距離を。
そして、
「……ぁ……?」
アルが、愕然とした顔で口を開いた。
その顔色は先程とまるで変わらず、その目の前にいるアディ姫も、涙に濡れた目を大きく見開く。
その二人の間に───小さな水の珠が浮いていた。
アルの口からぽろっと出てきた、小さな小さな水の珠が。
「……皆様方には、決して動かれませんように」
ふいに静かな声が、時が止まったようなその場に流れた。
感じるこの上なく馨しい匂い。
胸が熱くなるほど、強く深い気配。
「女王アリステラ陛下の名の下に、この場全ての権限を担わせていただきます」
あたしは声の聞こえたほうをパッと振り返った。
あたし達の左側。
夜空が広がる窓の方。
そこに、いくつもの水の塊を従えたレメクが立っていた。
「おじ様……!」
動くなと言われたというのに、あたしは反射的にレメクに飛びついていた。
レメクは小揺るぎ一つせずにそれを受け止める。
今まで外にいたせいでかちょっぴり冷たい服に張り付くと、目眩がするほど素晴らしい匂いがした。
「……少し、傍を離れてしまいましたね」
ええもぅ!
イロイロと心配したってなもんですよ!!
あたしはギューとレメクに張りつき、ピスピス鼻を鳴らしながらレメクを見上げた。
「おじ様、あの腹の立つ礼服のおっちゃんは?」
レメクは答えない。
ただ、あの時と同じウツクシクテコワイ壮絶な笑みを浮かべた。
……いやもう、それだけで答えがわかっちゃうってもんですよ。
「……さて」
その笑みを消し、けれど迫力だけはそのままに、レメクは悠然と硬直する人々に歩み寄る。
その周りにある水は、いくつかは未だに鋭い剣のまま、けれどその大多数は大小様々な水玉に変わっていた。
なんだかそれに囲まれているレメクは、ちょっと人じゃないっぽいぐらい、綺麗でカッコ良かった。
「……殿下。早まった真似はなさいませんように」
レメクは軽く手を伸ばし、アルに向かってそう声をかける。
アルとアディ姫の間でふよふよ浮いていた小さな水の塊は、レメクの伸ばした掌の上に飛んできた。
まわりに浮いている水と同じように見える、小さな水の塊。
……けれどそれは、ゾッとするほど嫌な気配をもっている。
「……自らの死をもってしても、他人の罪は償えません」
「!」
アルは激しく動揺する。
反射的に逸らした瞳が、ちょうど愕然と佇む偽王弟をとらえた。
「「…………」」
二人は互いに見つめ合う。
けれど……その瞳にある色は、もう、互いを理解しあえないほどに、違っていた。
「……アルトリート・ジュダ・フォルスト・レンフォード」
レメクが感情の無い静かな声で偽王弟の本名を呼ぶ。
ハッとなって顔を上げる相手に、彼は抑揚のない声で告げた。
「……私が来たことの意味は、お分かりですね?」
断罪官。
この国の全ての人を裁く権限を持つ、唯一の人。
国王ですら裁ける彼に、裁けない相手はいない。
よろめくようにして後ろに下がった偽王弟に、レメクはもう視線を向けない。
軽く振り返り、アルとともにいるアディ姫に目配せした。
「捕縛を。……全ては、陛下の御前にて」
「……御意」
恭しく一礼し、アディ姫は姿を消す。
次の瞬間、そのしなやかな体は偽王弟のすぐ後ろに現れ、気づくこともできない相手の首筋に鋭い手刀を叩き込んだ。
「アルトリート!」
ぐらりと前のめりに倒れる偽王弟に、クリストフが弾かれたように駆け寄る。
だが、偽王弟の傍に寄ることはできなかった。
厳しい表情をしたアディ姫に、その前に立ち塞がれたからだ。
「アディ……」
「……ダメよ」
静かな声でアディ姫は言う。
その目には、まだ涙の欠片が浮いていた。
「…………」
アルはその目に「どけ」とは言えず、ただ、苦しげな顔で倒れ伏す偽王弟を見る。
「……俺が、歪めたんだ……」
ゆっくりと集まる人々の視線を受けたまま、彼は悔しげに声を絞り出した。
「俺が、全部の始まりじゃないか……!」
あたしはその悲しい背中に唇を噛む。
ジッとその背中を見つめていると、ふいに頬になま暖かいものを感じた。
「の!?」
微妙に湿った暖かさ。
何事かと振り向くと、小さくて愛らしい鼻がそこにあった。
(……鼻!?)
黒い鼻。
黒い毛。
青い瞳。
完璧以上に整った愛くるしい顔に、素晴らしく美しい毛並み、しなやかかつ愛らしい体躯。
生まれて一ヶ月未満ぐらいの小さな子猫が、レメクの肩から身を乗り出すようにしてあたしのすぐ傍にいいた。
「……猫?」
あたしの声に思わずこちらを見たアディ姫が、何故かものすごく訝しげな顔で子猫を見る。
腕で乱暴に自分の顔を拭ったアルはというと、悲しみを湛えた瞳でこちらを振り向き、
「……あぁ」
なんだ、あんたか、と言いたげな顔で子猫を見た。
子猫はどこか満足そうにニュッとヒゲを前に向ける。
そのそこはかとなく意地悪な表情に、あたしその子猫の正体に思いいたった。
「ポテトさん!?」
「「「ええッ!?」」」
アルとレメク以外の三人から驚愕の声が放たれる。
美しい子猫はご満悦な顔でヒゲをそよがせると、つんと顎をあげて口を開いた。
「さすがはお嬢さんです」
……喋った!?
「この私の完璧な人外分身を見て、即座に私と気づくとは」
「……つーか、何一つ変わってねぇじゃねーか……」
なんかアルトリートが不思議そうな顔で言う。
その目が赤いことに気づいたが、あたしは何も言わなかった。
猫ポテトさんは形の良い耳をピコッと後ろに向けると、アルにむかってこれみよがしなため息をついてみせた。
「『龍眼』のあなたには全部『私』に見えるでしょうけど、他の人には愛くるしい子猫に見えるんですよ。そもそも、ぬいぐるみに魂移してるんですから、私が人型で見えるほうがおかしいんです」
……猫もため息つくんだな……
……いや、猫じゃないけど。
「……てことは、アル……あなたの目には、あれ、まさか、侯爵の肩にロードが乗ってるよーに見える……わけ?」
「……つーか、ふつーに、横に立って肩に腕のっけて、ヤな笑み浮かべてるっつー姿だけどよ」
「あ、あぁ! そーなの。なーんだぁ……そーなのー……」
「……まて。なんだおまえ、その途方もなくガッカリな顔は」
ちなみに、シーゼルの腕の中にいたフェリ姫も、ものすごーくガッカリした顔をしている。
……彼女等はいったい、レメクとポテトさんにどんな姿を希望していたのだろーか……
「……まぁ、面倒みるって言ってたのにアルルンがこっち来ちゃってるから、ロードもどっかから何かしてるんだろーなーとか思ったけど……」
「ふふふふふ。さすがの賢者姫も、私がこんな手段で来てるとは思わなかったでしょう!」
「……というか、そういう、お伽話でお約束な姿になるとは思わなかったわ……」
ピン、としっぽを立ててご機嫌顔のポテトさんに、アディ姫は呆れたような感心したような顔で言う。
ポテトさんはしっぽピーンの姿のまま、ヒゲをそよそよとそよがせて見せた。
……なんか誇らしそうだな……
「てゆか、危険なのに、なんでアルを自由にしちゃったの?」
あたしの問いに、しっぽピーンのままでポテトさんは答える。
「あのまま王宮に龍眼くんを監禁しててもよかったんですけどね。ちょっと精神的に危険な状態でしたので、まぁ、荒療治みたいな気分で『心のままに動きなさい』と言ってあげたわけですよ」
「……お義父さん……」
「で、そのまま放置だと、そこらへんでしつこく狙ってるお馬鹿さんにサクッと殺されちゃいますからね。私の一部をこうして人形に移して護衛させてもらったということです。まぁ、目くらまし程度の術しか使ってませんが、そのおかげでここまで誰にも邪魔されずに走ってこれたというわけです」
「……なるほどねぇ」
アディ姫はアルとポテトさんを見比べて頷く。
あたしにはちょっとイマイチわからない所が色々あるのだが、アディ姫はあれだけで全部納得しちゃったよーだ。
……あとで説明してもらおう。
「おやおや、簡単ですよ、お嬢さん。なんで自分達の所にワラワラ出てたアヤシイ男達に、龍眼くんが見咎められなかったのかなー、というのに納得したってだけです」
……おとーさま……人の心を読んじゃダメなのです……
「読んでませんって。あなたの考えることは分かりやすいんですよ。今も。ホラ、今も。……で、まぁ、屋敷の途中までご一緒したのですが、どーもレンさんが面白いことを……いや、なにか大変なお怒りモードになってるようですから、ちょっと熱を冷ましに行こうと別行動をとらせていただきまして」
「……いきなり顔に猫が張り付いてきた時には、ベルが変身でもしたのかと思いましたが」
……ひどッ!?
「残念! 変身したのは私でした!!」
「……頼みますから、ベルみたいな真似はしないでください。誰にでも飛びつかれていいというわけではないんですから」
「おやおやおやおやおやおやおやおや」
ニヤニヤ笑いを浮かべて、ポテトさんはレメクとあたしを見る。
あたしは猫のニヤニヤ笑いという珍しい笑みに、しげしげとポテトさんを見つめてしまった。
「……おじょーさんは、もう少し、言われた言葉の意味を深く深く考えるようにしましょうね?」
ん? なんか今、窘められちゃった?
キョトンと首を傾げるあたしにアディ姫が苦笑し、そうして少しだけ気が抜けたような嘆息をついた。
「……とりあえず、ひとまずは一件落着?」
「まさか」
ややも気が抜けているあたし達に、けれどレメクは静かに「否」を出す。
「これからが本番ですよ」
「……裁判は、侯爵や裁判官達の仕事でしょ?」
「もちろん、裁判のこともありますが」
言って、レメクは倒れたままの偽王弟を見た。
「面倒な人が控えていますからね。そちらにちょっと話しをつけてこないといけません」
「面倒な人……?」
ポテトさんの素敵なおヒゲにジッと視線を注いでいたあたしは、レメクの声に顔を上げる。
彼は薄い笑みを浮かべて言った。
「……少なくとも、公爵夫人は色々と騒ぎ立てるでしょうからね」
……あ!
偽王弟のお母さん!!
「賓客の多い王宮でやられてはかないません。私はそちらに行ってきますから、アデライーデ姫、それから、ナザゼル王妃。年少組の保護をお願いいたします」
「あいさー」
「承知した」
アディ姫の返事とほぼ同じタイミングで、色っぽい声も「応」を返す。
声と同時に何もない空間から現れた美女に、フェリ姫とシーゼルがビックリして目を瞠った。
「アルティルマの王妃!?」
「ナザゼルお義姉さままでいらっしゃってたの!?」
「うむ。おったのじゃ。……したが、ちとやっかいなのと対峙しておったから、あまり役にたてなんだのぅ」
「……アレを押さえていてくれただけで、かなり助かりましたが」
「んふふふふ」
どうやらあたし達の知らない所で知らない戦いがあったらしく、労うレメクの声にナザゼル王妃は嬉しそうに微笑んだ。
「自分だけが突出して強い、というわけではないのは、困るようでもあり、嬉しいことでもあるのぅ。久方ぶりに妾の血が騒いだぞ」
「……また動きがあるようでしたら、お願いするかもしれません」
「ふっふっふっふっふ。任せるがよい。そこそこの報酬で引き受けてしんぜよう」
無料でいい、とは言わないあたり、さすがは暗殺が金儲け手段であった国の王妃だった。
そんな面々を軽く眺め、レメクは「さて」と呟いてあたしを見る。
「?」
反射的にキュッとレメクに抱きついたあたしに、彼は少しだけ優しい顔で笑った。
「ベル。私は公爵夫人と話をつけに行ってきますから、あなたは皆と一緒に先に帰りなさい」
「……おじ様は、大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
彼は柔らかく微笑む。
それは鬼モードの時とは全く違う、本当に暖かくて優しい笑みだった。
「……お屋敷、こんなにしちゃったけど、怒られない?」
「……彼等がしてきたことを考えれば、お家断絶のうえ、当主クラス全員の首を城壁に並べてもかまわないぐらいなのですよ」
それを考えれば、家屋敷の一つや二つ、と言うレメクに、あたしは思わずシーゼルを方を見てしまった。
シーゼルは、強ばった顔ながら、強い決意を秘めた目でしっかりと頷く。
「……今度のこと、重く受け止めています」
「……よい覚悟です」
それに優しい目で頷きを返してやってから、レメクはあたしをソッと床に降ろした。
あたしは一瞬レメクに飛びつきかけ──けれど我慢して、かわりにレメクの肩に乗ったままのポテトさんを見上げる。
「おとーさま!」
「……わかってますよ」
眼差しを柔らかく細めて、猫ポテトさんはしっぽでピタンとレメクの肩を叩いた。
「レンさんの監視は承りました」
「……私の監視なんですか……」
「お願いするのです!」
「……お願いされるんですか……」
なんかレメクがちょっとしょんぼりな顔になったのだが、その理由は果てしなく不明だ。
あたしは苦笑しながら近づいてきたアディ姫に抱えられ、そうして未だ暗い色を瞳に宿しているアルにムギュッと押しつけられた。
「ほら、アルルン。末姫ちゃんだっこして。……そっちのロクデナシはふんじばって、他の人達に見られないうちに王宮に連れて行きましょう」
パンパンと肩を叩かれて、数歩たたらを踏んだアルが腕の中のあたしを見る。
あたしはそれを真面目な顔で見上げて、うん、と頷いてみせた。
「帰ろう、アルルン」
王宮に。
未だに全く馴染めてはいないけど、それでも『家族』と言える人達がいる場所に。
……もう一つの『家族』のいる場所には、もう、なかなか帰ることはできないだろうけれど。
アルは空虚な色の目を何度かしばたかせ、そうして、悲しい微笑みを浮かべて頷いた。
ほんのちょっと苦笑じみた声で言う。
「……アルルンって言うな」
雄叫びでも喝采でもなく、その苦笑混じりの一言が、レンフォード家での戦いの終わり告げる声だった。
※ポテトの分身について、誤解しか与えない書き方がありましたので、修正いたしました。
修正箇所「変化分身」→「人外分身」