22 惨劇
「いなくなった、というのが分かったのは何時?」
愕然と硬直したあたしの前、厳しい表情のままでアディ姫はフェンに問いかけた。
美しいメイドさんは、必死の面持ちでアディ姫を見る。
「一時間ほど前です」
……あたし達が、アルを追いかけてる頃ぐらいだ。
「気づいたきっかけは?」
「姫様はいつも、この時間帯にお茶をお飲みになります。今夜の夜会には出席なさいませんから、お部屋でゆっくりなさっているはずだったのです」
「それで、お茶を用意して持っていったら、いなかった、と」
「はい」
頷くフェンに、アディ姫は静かな表情になる。
フェンは震える手を握りしめて言った。
「部屋の中は探し尽くしました。もしやと思い、ベランダや窓の外なども見回しました」
……あたし達が通った窓の外のなんちゃって通路を疑ったんだろーな……
「ですが、どこにもお姿が……」
おそらく、ここに来るまでの一時間、探しに探したのだろう。もしかすると、あたしの部屋の方も探したのかもしれない。
「……陛下や、懇意にしてくださっているナザゼル王妃様、アデライーデ殿下、妹姫様なら何かご存じではないかと思い、人手を割いてご連絡申し上げているところです」
「……ネーサマはけっこうフェリに甘いしね、ネーサマがいたらもうちょっと別の視点からいろいろ聞けたんだけど……」
小さく呟いて、アディ姫はトントンと自分のこめかみを指で叩く。
「ね~ェ、椅子は暖かかった?」
「……え?」
きょとんとしたフェリに、アディ姫は腕組みをする。
「フェリがいつも座っているだろう椅子よ」
「!」
ハッとしたメイド達を見回して、アディ姫は軽く頷いた。
「お気に入りの場所、お気に入りの椅子、そういうものがあるはずよ。いつもお茶を飲むのなら、いつもの場所に座って、読書なりなんなりをしているのが普通、ってことでしょ?」
「はい!」
「その椅子は暖かかった? それとも、人がいた気配がないぐらい、部屋そのものもガランとした感じだった?」
「いた気配が……ないぐらい、ガランとした感じでした!」
だからこそ、フェン達は焦っているのだろう。
本来なら、そこに彼女達の主がいるはずなのに。
「……誰か、見張りとか、いなかったの?」
アディ姫の声に、フェン達はひどく悲しげな、そして口惜しげな顔になる。
「部屋の外と、窓際には、いつも護衛の者がついております。けれど、此度は……姫様は、クレマンス伯爵のことでたいそう気を落とされておられましたから、ゆっくりと考えたいから一人にしてほしい、と言われると……」
「……拒否できず、一人にしちゃったのね」
「はい……ですが、部屋の中にこそ人は配置いたしませんでしたが、扉にはわたくしどもがつめておりました。なにかあれば、すぐに駆けつけることができるように!」
フェンの必死の顔は、フェリの失踪が自分達の落ち度だから、という感じではなかった。
ありえないことが起きた。
それが信じられなくて、どうしていいかわからなくて、不安で不安でたまらないのだ。
それを感じ取って、あたしはアディ姫に視線を向けた。
あたしの熱視線に気づいて、アディ姫がチラッとこちらを見る。
「……末姫ちゃん、どう思う?」
「誰かに攫われたとかじゃ、ないと思うのです」
あたしはハッキリとそう断言した。
フェン達がどういう人なのかは、実は未だによく知らない。
けれど、ただのメイドではないことだけは分かっていた。
アディ姫とは比べるべくもないけれど、足運びや身のこなしに関しては、そこらの警備兵よりキビキビしていた。
それに、身をもって体験した強烈な力……そこから考えるに、彼女等はメイド兼護衛なのだ。……たぶん。
「……牢屋の件もあるわ。プロが動いてる可能性もある」
ちょっと面白そうな目になって言うアディ姫に、あたしはマジメな顔のまま答える。
「でも、そういうプロなら、理由とかがあると思うのです」
「…………」
「牢屋の件は、理由があったのです。でも、フェリ姫はないのです」
口封じをされる理由のあった、牢屋の囚人達。
……けれど、フェリ姫には『今』『この時に』『攫われる』理由がない。
「それに、フェリ姫はアザゼル族なのです。心の声を読み取っちゃうフェリ姫に、怪しい人は近づけないのです!」
そう、フェリ姫の探索能力はずば抜けているのである。
なにせ『気配で人を察知する』ナザゼル王妃と同じ早さで、遠くから来るアウグスタ達に気づいちゃったほどである!
……あたしなんて、せいぜいおじ様を匂いで察知しちゃえる程度なのにな……
「……いい線よ、末姫ちゃん。あたしも、フェリは王宮から誘拐されたわけじゃないと思うわ」
「本当ですか!?」
パッと顔を輝かせたフェン達に、けれどアディ姫は困ったような表情で言う。
「そう。王宮から誘拐されたんじゃなく、自分から出向いて行った、と考えるのが一番簡単でしょうね」
「ご……ご自分から!?」
その時のフェンの愕然とした顔は、まるで自分の人生が一変したかのような感じだった。
「あの、姫様が……ひ、姫様は、思慮深く、また同時に、ご自分が動いてはならぬ時や場所はわきまえておいでの方なのですよ!?」
「そんなもの、一番大事なものの前には消えちゃうわよぅ?」
フェンの悲鳴じみた声にそう答えて、アディ姫は深い嘆息をついた。
「……あたしもバカだわ。情報はつかんでたのに、そっちにまで頭まわらなかったわ」
「……どういうことなのです? おねーさま」
首を傾げるあたしに、アディ姫は頭をカシカシと掻く。
あたしをだっこしたままのケニードは、静かに皆の元へと歩いた。
「フェリが自分の命より大事にしてるものはね、お義母さまと、クレマンス伯爵なのよ」
……それはなんとなく、ピンとくるのだが。
「現状、その二人は、大変なことになってるわよね?」
「あ!」
言われて、あたしはハタとその『可能性』に気づいた。
公爵家の街屋敷を訪れてから行方がわからないシーゼル。
それを心配していたフェリ姫。
なら───
「お義姉さま……公爵家の屋敷に?」
「その可能性はあるわね」
「お、お待ちください!」
同じくその可能性に思い至ったのだろう、真っ青になったフェンに、あたし達はそろって視線を向ける。
彼女は青ざめながらもしっかりとした声で言った。
「そのためには、少なくとも姫様はご自身の足で赴かないといけません。ですが、姫様には殿下のように気配を消せるほどの技量はございません!」
つまり、自分達の守っている扉をこっそり抜け出すということは無理だ、と。
だが、言われたアディ姫は、困り顔のままで苦笑した。
「確かに、フェリは、そういう運動系の技量は、ちょっと残念な感じだけどね」
……残念な感じなのか……
「けど、根性いれれば、扉にはりついてる人達に内緒で抜け出すぐらいできるわよ?」
「……抜け道、ですね」
「そ」
小さく声を落としたケニードに、アディ姫は頷き、メイドさん達はそろって悲鳴をあげた。
そう。あたしも先程ケニードから教わっていたのだ。
王宮の部屋には、あちこち仕掛けがあったりするのだと。
「フェリの部屋は、確か『真白き花の間』だったわよね?」
優雅なお名前を口にして、アディ姫は深いため息をつく。
「……そこなら、緊急脱出用の抜け道があるわ。そのうちの一つは、厩舎前に出る。厩舎には普通、馬と、馬の世話をする者、それに待機を命じられている御者がいるわね」
「い、今は大祭中ですので、特に、上流階級の方々の御者が集まっていますわ!」
「その中の一人に『位の高い貴族の娘』として命令すれば、馬車を出してくれることもあるでしょうね。……フェリってば、見た目からして『高貴な姫』だし」
そう。あの、輝く光のような姿。
目の前にいる、アディ姫にも匹敵する美貌。
「フェリは正式に夜会に出る年齢になってないから、あの子を見て即『王女』とわかる者はそう多くないのよね。まして、着飾った姫君の多い今の時期なら尚更わかりにくいでしょーねぇ……。そーゆー『高貴な』女性の声に、従僕達はあっさり従うでしょうし。向かう先も高貴な公爵家なら、怪しまれることもないしねェ……」
「それに、彼等は『高貴な方々』のことを詮索するのは、失礼なことだと教えられますからね」
アディ姫の言葉を引き継ぐように、ケニードは声を落とした。
「だから、姫君を無用に詮索する者もいないでしょう。……フェリシエーヌ姫は、クレマンス伯爵を捜しに行かれたのですね」
例え行方不明になった先が、伯爵自身の実家であっても。
「……会いたかったんでしょうね。不安な時期だから余計に」
伯爵自身が、望んでいなくなったとは思えない状況だったから……余計に。
ケニードの声に深い嘆息を零し、アディ姫はわずかに伏せていた目を上げた。
「……まず、向かうべきは厩舎ね。あの部屋からの抜け道ならあたしの頭に入ってるから、案内するわ。厩舎前に出るのは一つだけよ」
「あ……ハイッ!」
不安を目にいっぱいためていたフェン達が、アディ姫の言葉に大きく頷く。
アディ姫はアルとあたし達を見て、もう一度、深い嘆息をついてから言った。
「あたしはフェリを探しに行くわ。三人とも、来てくれる?」
「「「もちろん!」」」
あたし達の答えは、一つだった。
※ ※ ※
王宮の厩舎前は、驚くほど華やかだった。
数十頭の馬を収容できる厩舎。その建物の大きさも凄かったが、その前にズラリと並んだ馬つきの馬車群はさらに凄かった。
「……すげェ……圧巻だな……」
行く手に見えるその光景に、走りながらアルが感嘆の息を吐いた。
その気持ちはよくわかる。
まだ遠くに見える距離だというのに、なんだか圧倒されそうなほどの煌びやかさなのだ。
華麗な馬車、豪華な馬車、品のよい馬車、ちょと格の劣っている馬車……
様々な馬車の前には、もちろんそれを牽く馬がいて、その馬の種類だけでもかなりのもの。栗色、青色、黒、白、灰、まだら。面白いものでは、白地に黒の縦縞が入っているものもいる。
……白馬に炭でお化粧したんだーか?
「裏の厩舎でコレなんだから、表の厩舎前はもっとすごい状況でしょうね」
同じものを見据えて走り、ケニードが苦笑しつつそう零した。
……てゆか、裏と、表?
キョトンとするあたしに、アディ姫はバインバイン胸を揺らして走りながら肩をすくめる。
おお。谷間が深まった!
「王宮には東西南北に厩舎があるのよ。たいていの馬や馬車は表のほうの厩舎が受け持つの。こっちのは、国内の貴族……この辺りだと、まぁ、下級貴族の馬車ね」
下級貴族!
あたしはじょじょに近づく煌びやかな馬車群を慌てて観察し、もう一度アディ姫のほうを見て目をかっぴらいた。
あれが、下級貴族の馬車!!
「馬車持ちの貴族っていうのは、それだけで地位が高いのよ。馬や馬車の維持ってけっこうお金かかるから。御者も必要だしねぇ」
……そ、そうなのか……
「夜会に呼ばれても足がない場合は、大商会とかから馬車を借りるの。そういう馬車は煌びやかなのが多いのよ。だから、ここにある馬車のいくつかは借り物よ」
言われてもう一度馬車群を見る。
確かに。すごいキラキラが多い。
中にはすごく落ち着いた赴きの馬車もあって……って…………あれれ?
「あの馬車、どっかで見たことある」
あたしはその一角にある、落ち着いた雰囲気の上品な馬車を指さす。
それを見てケニードが苦笑を零した。
「僕の家の馬車だよ。ベルも乗ったことあるけど」
「ああ!」
なるほど! どーりで見たことがある馬車だと!!
納得の頷きをしてから、あたしは目をパチクリさせてケニードを見上げる。
ちなみに、あたしは走るケニードに抱っこされたままという、超! 楽な体勢である。
……なんかアルとメイドさん達が、息をはずませながら横を走ってますが。
「ケニードも、こっちなの?」
王都でも有名な宝飾技師さんで、お金持ちなのに。
疑問でイッパイなあたしの眼差しに、彼はただただ苦笑する。
「僕はまだ爵位を継いでないし、男爵家というのは、貴族の中では下のほうだよ」
……なるほど。
そういえば、彼はまだ男爵様ではなかったのでした。
「資金面でいえば、アロック卿は伯爵以上にお金持ちなんだけどね~」
「あはははは」
アディ姫の声に、ケニードは困ったような笑み。
アルがなにやら言いたげな顔になったが、息継ぎに必死らしく今回は声を挟んではこなかった。
……アル、あんまり体力ないのだな……
「こっち側は、伯爵家よりも下の者達が集まってる場所だからね」
「下手に上の位の集まりに行くと、フェリのこと王女として知ってる人もいるだろうからね。それを考えても、ちょうどよかった、ってトコでしょーよ」
「……姫様……」
アディ姫の推理に、フェンが悲痛な声をこぼす。
アディ姫は真っ直ぐに厩舎を見据えて、そんなフェンに声をかけた。
「心配なのは分かるわ。けど、フェリだってバカじゃない。おそらく、あの場の誰かに伝言ないし手紙を預けているはずよ。フェリの部屋には誰か残してある?」
「はい。シュネーがおります」
「なら、もしそっちに何らかの伝言があったとしても、こっちに届くわね」
今、厩舎に駆けているのは、アディ姫、ケニード(と、腕の中のあたし)、アルに、フェンの五人だけ。フェンと一緒に来ていたメイド達は、それぞれ他の部下やアウグスタに連絡するために別行動をとっている。
「まず、あたし達はフェリらしい女の子が馬車で出かけたかどうかを確認する。伝言とか預かった人がいれば、その存在も確認。そして、フェリの向かったであろう場所を確認して、そちらへ向かうわ」
その声に、ふとケニードはあたしを見下ろした。
「……ベル。匂いで追えない?」
大まじめなその問いに、
「……いや、犬じゃねェんだからよ……」
何故かアルがぼそっとツッコミをいれる。
あたしはムンと唇を尖らせた。
「今は匂いがするけど、馬車に乗られちゃったら、匂いが零れないから難しいのです!」
「……いや、ちみっちょ……それ以前の問題じゃねェのか?」
「あたしは、アルとアディ姫の匂いを辿って、二人に追いついたですよ?」
「アレお前の先導だったのかよ!?」
「……どーりで、早く追いつかれたわけよねぇ……」
チョイ前の追跡を思い出したのか、アディ姫までが唖然とした顔でぼやく。
「……まぁ、追跡者に末姫ちゃんがいることとか、ちょい聞こえてきた会話の内容から、そーじゃないかなぁとは思ってたけど」
そしてイロイロと先に察してくれていたよーだ。
……てゆか、本当に、このヒト頭イイな……
「でもまぁ、それなら、馬車で降りた場所なら、匂いで断定できるんじゃない?」
そして常識にとらわれずに対応できちゃうヒトでもあった。
未だに「嘘だろ!?」という顔をしているアルと違い、アディ姫はあっさりとゲンジツを受け止めて言う。
あたしはしっかりと頷いてあげた。
「もちろんです! 任せなさいってなもんですよ!」
胸を張ってドンと雄々しく受けてたったというのに、アルは未だに半信半疑っぽい顔だった。
ちっけいな男である。
「じゃあ、確認は任せるとして…… ……ん?」
ふと、アディ姫は眉をひそめた。
彼女が見ているのは相変わらず厩舎の方で、その様子にあたし達も彼女の視線の先を追う。
向かう場所でもあるから、厩舎自体は視界に入っている。だが、アディ姫が見ているのはちょっと違っていた。
馬。馬車。人。
とりわけ目を凝らして見ているのは『馬』だ。
「……なんだ?」
走りながら、アルも不審そうな声を零す。
「馬が、ちょっと、変だぞ、あれ」
「なにか緊張してるわね……」
「つーか、アレは、警戒してるんだ」
肩で息をしながら言い、アルは真剣な顔で馬車につながれた馬達を見る。
馬番をしていたという彼だから、馬達の異変には敏感なのだろう。
そう言えば、馬車の近くにいる御者さん達もなにか焦った顔でおろおろしている。
「変な気配も動いてるわ。……アルルン、あたしから離れないで」
「お……おぅ」
アナタヲ守ルワ宣言をされているアルが、ちょっと困ったような顔で頷く。
あたしはふと思いついて、アディ姫に問うてみた。
「おねーさま。もしかして、鬼みたいな気配とかまとったりしちゃってる?」
馬は大変オクビョーな生き物だと聞いたのだ。
そこに、こんなに強烈に強いオネーサマがやってきたら、そりゃあビックリするってなもんだろう。
「……あのね、末姫ちゃん。あたし、鬼にぐらいはなれるけど、こんな場所で気迫込めたり、鬼気まとったりはしないわよ?」
……シツレイシマシタ。
「ただ、変な気配が動いてるのは確かよ。数は二つ。……距離があるわね」
あたし達には分からない気配を感じ取って、アディ姫がスッと眼差しを細める。
鬼気とやらはまとっていないよーだが、その表情だけで十分あたしには怖かった。
馬車群の近くにまで走りこみ、あたしは周囲に満ちている喧噪に眉をひそめた。
……馬達が、神経質になっている。
その様子が肌で感じられて、否応なくあたしの神経もピリピリした。
御者さん達も必死になだめようとしているが、馬達の苛立った様子はいっこうに変わらない。
ゴーカな面々が走り込んできたというのに、こっちに注意を払う余裕もないほどだ。
(でも、なんで馬達が……?)
変な気配がしている、というから、きっとそのせいなのだろうが……
(それに、この匂い、ナンダロ?)
馬のものらしい臭いに、人の臭い、遠くからは干し草の臭い。
それらに混じって、なにやら不思議な臭いがする。
(食べ物じゃなさそーだけど……)
「これは……ちょっと、声をかけてる場合じゃない、って感じね」
嫌な予感でも感じているのか、アディ姫が警戒の眼差しで周囲を見渡す。
この、沢山いる馬車の御者さん達からお話を聞きたいのだが、馬をなだめるのに必死な彼等には声をかけるのが難しい。
だが───
「俺が声かけてくる。馬の扱いなら、得意だし」
「あっ! ちょっと! アルルン!」
速攻で駆け出すアルに、慌ててアディ姫が追い、それに引きずられるようにしてあたし達も再度駆け出す。
あたしは騒がしい周囲と、煌びやかな馬車、そして嘶く馬達を見渡して眉をひそめた。
(……なんで、こんなにピリピリしてるんだろう……?)
あたしには、馬達が変に興奮しているように感じられた。
緊張と、苛立ちと、興奮。混じり混ざって、なにか異様な気配になっている。
(でも……これだけ沢山の人がいて、馬が異常を感じてるような状況なら、かえってアヤシイ人も動けないんじゃないかな……?)
あたしはそんな風に思っていた。
変な気配というのが、どういう種類の人のモノなのか──それこそ劇とかで出てくるみたいな『暗殺者』サンなのか、それとも小銭で雇われたゴロツキっぽい人なのか、下働きの人なのか───そういうのは分からないが、少なくとも、アヤシイことをするのに、こんなに人がイッパイで賑やかな場所は相応しくないんじゃないかと思った。
それが間違いだと知ったのは、次の瞬間だ。
「むぉ!?」
ふいに強く感じた臭いに、あたしは鼻をひくつかせる。
「おねーさま。なんか臭うのです!」
「!?」
アディ姫が慌ててあたしを見た。
あたしはケニードの腕の中で、身を乗り出すようにして鼻をひくひくさせる。
「あっちから変な臭いがしてきたのです!」
「全員、集まって!」
アディ姫が叫び、あたし達はバッとアディ姫の周りに集まった。
一人出遅れたのは、馬の近くにいた御者に話しかけていたアルだ。
だが、その彼の襟をひっつかんで、アディ姫が一息でその体を自分の近くに引き寄せる。
喉でも絞まったのだろう、ぐぇっ! とか声が聞こえた。
その瞬間────
ヒィイイインッ!!
その場にいた全ての馬が、一斉に嘶きを響かせ、その蹄を振り上げた。
※ ※ ※
あっという間に周囲に満ちた阿鼻叫喚の光景に、あたし達は呆然と立ちつくした。
厩舎前にとまっていた馬車の馬達が、一斉に狂ったように暴れ始めたのだ。
近くにいた御者達はあっという間に馬の蹄に蹴り飛ばされ、踏みつぶされ、そこへ縄でしばっていた馬車の巨大な轍が鈍い音をたてながらのしかかる。
絶叫が周囲に満ち、土埃が舞い、ムッとするような血の臭いが他の臭いを圧した。
ガシャガシャと音をたてて、馬車同士がぶつかりあう。
もし──
あの馬車が、縄で固定していなかったら──
ふいに脳裏をよぎった光景に、あたしの体が硬直した。
この馬車が、暴れる馬の動きのままに、周囲に拡散してしまったら──?
「危ない!」
あまりの恐ろしさに硬直していたあたしは、耳元で聞こえた声にハッと我に返った。
ケニードの声だ。
向けられた先は──アル!?
アディ姫に引き寄せられたまま呆然と立っていたアルと、襟をひっ掴んだまま唖然としていたアディ姫の前に、後ろ立ちになった馬が──!
「ねーさま!」
あたしの声に、アディ姫は振り向くことなくアルを片手でぐるんと背後に回し、
「ハァッ!!」
裂帛の気迫と同時、繰り出した蹴りで馬を吹っ飛ばした。
馬車ごと。
「な……な……なッ!?」
アルが喉を押さえながら愕然としている。
巨体を吹っ飛ばされた馬は、そのまま自分をつないでいる馬車にぶつかり、馬車ごとさらに後ろに後退して他の馬とぶつかって止まった。
……てゆか……アディ姫……
強い、ったって──程度ってモノがないですか!?
そのアディ姫は、すぅ、と息を吸う。
バッと足を肩幅ぐらいに開き(スカートで見えないけど、足音とお尻の位置でピンときました!)、ふいに恐ろしい気配をその身にまとう。
その刹那──
ゾワッ! と、全身の毛が逆立った!
「構えて!」
ケニードが鋭い声をあげる。
理由などわからず、思わず体に力を込めるのと同時、ブワッとアディ姫のスカートがひるがえった。
「うわっ!?」
アルが思わず声をあげる。
風のような何かがアディ姫を中心に吹き荒れた。
それは生ぬるい風のようであり、圧縮された気配の塊のようでもあった。
少しだけレメクが魔術を使っていた時の感じに似ている。
けれど、明らか違うのは、その『風』がアディ姫の気配をもっているということ。
そして、こちらの意志も動きも奪ってしまうほどの、恐ろしさを秘めているということだ!
「!」
足を高々と跳ね上げ、馬達が跳び退くようにしてアディ姫から遠ざかろうとする。
だが、それは虚しい抵抗だったのか、次の瞬間には、馬達はバタバタと倒れ始めた。
その口元からは泡がこぼれ、目は完全に白目をむいている。
「お、ね……しゃ、ま」
あたしはもつれる声で、必死に声をかけようとした。
けれど、声が出ない。
まるで空気に胸と喉を押さえつけられたように、言葉で口から出ていかなかった。
(なに……これ)
怖かった。凄まじく怖かった。
けれどそれは、体がヒヤッとするような感じではない。
ただ、強く体を締めつけられるような、押さえつけられるような『恐怖』だった。
そう……動けば殺される。そう思わずにいられないほどの気迫。
アディ姫は力ある目のまま、口を開く。
そうして、
「下がれ!!」
一言。
ただそれだけで、残っていた他の馬達のほとんどが昏倒した。
わりと遠くにいた馬達だけはかろうじて立っているが、その体は完全にすくみあがり、暴れるどころか動くこともままならなさそうだ。
「あ……」
あたしはそちらを見て硬直する。
──馬の足下に、変な形に歪んだ人、の……姿……が……
「!」
あたしはそれを直視してしまい、思わず声にならない悲鳴をあげた。
慌てたケニードがあたしの頭を抱き抱え、その視界を奪う。
けれど、遅い。もう見てしまった。
その、あまりにも無惨な、惨劇の光景を──
「フェン! 人を呼んできて!!」
アディ姫が力強い声で叫ぶ。
あたし達同様棒立ちになっていたらしいフェンが、慌てたように動き出す気配を感じた。
そして──
「そこッ!!」
アディ姫が叫んだ。
それと同時にケニードが動き、片手でアルを引き寄せる。
視界の開けたあたしの目は、惨状の中を駆けるアディ姫の姿をとらえた。
下は怖くて直視できない。だからあたしの目は、アディ姫の姿に釘付けだった。
姫の行く手にあった馬車の影から、人がよろめき出て、瞬時に距離をつめたアディ姫にギョッとした顔になる。
その腕にはナイフのようなものが刺さっていたが、それがいつ誰がどうやって投げたものなのかは、あたしにはわからなかった。
アディ姫は、その相手を無視するかのように前を駆け抜ける。
駆け抜けるその寸前に放った拳の一撃が、負傷したアヤシイ人を吹き飛ばし、彼は派手な音をたてて馬車にぶつかり、痙攣しながらその場に崩れ落ちた。
アディ姫は止まらない。
そのまま真っ直ぐに別の馬車へと向かい、
「逃がすか!」
美脚むきだしの凄まじい一撃を放った。
ドォンッ!!
およそ人の放った一撃とは思えない轟音をたてて、馬車がまともに吹っ飛ぶ。
その影から寸前で飛び出してきたのは、先に負傷したのと似たような背格好の男だった。
アディ姫はその男の懐へと飛び込み、
「はっ!」
一撃、
「やっ!」
二撃!
「まだまだ!」
三撃!!
胴、胸部にパンチ、三撃目は蹴り上げ、それを追うようにして跳躍し、
「くらえ!」
回転蹴り!
「もう一丁!」
何もない空間を蹴っての膝打ち!!
「とどめ!!」
中空で一回転、その勢いをもっての、上空から地上へ向けた蹴り!!
凄まじい破壊音を響かせて、男は無惨な姿で地上に叩きつけられた。
……正直、馬に蹴り飛ばされた人のほうがまだ軽傷に思える連続攻撃だ。
「お……鬼だ……」
アルがしょーじきな感想をこぼす。
アディ姫は足下に倒れ伏す、もはや顔の原型留めてなさそうな男を凄まじい目で見下ろすと、くるりとこちら側に向き直った。
「「「「ひぃっ!」」」」
思わず悲鳴をあげるあたし達四人。
……ん? 四人?
あたしは慌てて周囲を見る。
あたし、ケニード、アルで三人。
フェンは、アディ姫の攻撃を見ることなく(あれだけすごい追撃だったのに!)、自分に与えられた役目を果たすべくすでにいない。
では、四人目は誰か。
それは、馬車に叩きつけられ、その場に崩れていたアヤシイ人Aだった。
アディ姫は人の感情など捨てきったような目でその男を睨み、ゆらりと足音一つたてずに歩み寄る。
男は悲鳴をあげ、必死に逃げようとみじろぐが、さっき受けた怪我のためにほとんど動けなくなっていた。
その哀れな男の前に立ち、アディ姫はスッと手を上げる。
その指の間に、いつのまに用意されたのか、小型のナイフが三本挟まっていた。
アディ姫はその手を躊躇なく振り下ろす!
「ぎゃぁああああッ!!」
絶叫が響き渡り、あたし達は思わず顔をそむけた。
「た、たす、たすけ……!」
けれど、男はまだ、生きている。
必死に懇願する声が聞こえ、ついで先よりも一層悲痛な絶叫が響きわたった。
思わずそちらを見ると、アディ姫が男の体に足を乗せていた。
そのまま、ぐ、と力をこめる。
「やめろ!!」
凄まじい悲鳴に、アルがたまりかねて叫んだ。
アディ姫はこちらを見ない。
ただ、絶叫が小さくなったところを見ると、力を込めるのはやめたようだ。
「やめろ……もういいだろ!? それ以上痛めつけるなよ!」
「……もう、いい……?」
ぽつりと、アディ姫は呟いた。
白く美しい顔が、今はいっそう白く感じる。
その表情は限りなく無に近く、その瞳には人間らしさがまるで無い。
ゾッとするほど美しい──それは鬼神か、死神の顔だった。
「……この場の惨劇を前に、もう、いい、と?」
心の宿らぬ冷たい声で、アディ姫はそう問うた。
アルは声を失う。
アディ姫のとんでもない動きに、思わず周囲の惨劇を忘れてしまっていた。
だが──そう、今、この目の前にある、目を背けたくなるほどの光景は……
踏みにじられ、もはや命の無い者もいる、この場の惨劇は……!
「……こいつらが、やったのよ……?」
静かで、冷たい声が告げる。
「臭い……ね。風上から、薬香を焚いて……それで、馬を暴れさせた」
暴れた馬は、周囲を巻き沿いにし、結果、目の前の惨劇となった。
「これだけのことを……しでかしてくれた。人の命を……不条理に奪う、惨劇を生み出した」
なぜ、と───
問う言葉すらも失う───
これほどの地獄を。
「許されることじゃあ、ないわ」
言って、姫はその眼差しに冷たい色を宿す。
あきらかにそれとわかる、殺意を。
「ねぇさま、ダメ!」
あたしは叫んだ。
そして、アルも。
「だからって、おまえが人を痛めつけていいことに、ならねェだろ!? 裁判を目指すんじゃなかったのかよ!?」
その言葉に、ふとアディ姫の体が揺れる。
アルは一歩を踏み出した。
「今助ければ、助かる命がまだいっぱいある! そいつらにかまってる間なんてねェだろ!?」
そう、今もなお足下で呻き、息も絶え絶えになっている人達。
彼等の今後をどうするのか、それを考えれば───
「……っ」
呻くように息をはいて、アディ姫は男の上から足をどけた。
かわりに、恐ろしい一瞥をもって眼下の男を見下ろす。
「……命拾いしたわね」
だが、その声を受けた男は、何の反応もかえさなかった。
とうの昔に失神していたのである。
アディ姫はその様子を冷たく睨み、バッとこちら側に向き直った。
「……って言ってもねぇ、アルルン! いくらあたしだって、これだけの負傷者をどうにかなんてできないわよ!?」
おお。いつものアディ姫に戻ってる!
「どうにかできなくても、医者の所に運ぶぐらいできるだろ!?」
「その前に医者を連れてくる方が早いわよ!」
「いや、それ以前に応急処置だと思うよ」
叫びあう若い男女を放っておいて、あたしを抱えたままケニードは一人のケガ人の前にしゃがみこむ。
あたしを降ろすと、彼は懐から大きめの布を取り出して、それをビリビリと破りはじめた。
「とりあえず、助かりそうな人が全員、助かるようにがんばろう。いざという時のために、一応眠り薬もいくつかもってるから、それを飲ませてあげて」
はい、と懐から小さな小瓶をいくつもいくつもいくつも取り出すケニードに、アディ姫とアルがそろってポカンとなった。
「「……なんでそんなもの、そんなに持ってるの……?」」
彼等の疑問はもっともだ。
ケニードは例によってお日様のような笑顔で「備えあれば憂いなしって言うからね」とよくわからないことを言って、テキパキと応急処置にとりかかった。
あたしもケニードの破いた布の一切れを持って走る。
肩を蹴り飛ばされ、呻いている人の傍にいって、動かないようにと身振り手振りをまじえて叫んだ。
「すぐにお医者様来るから! がんばって!」
相手はあたしを見て、苦しげに頷き、それからギョッとしたようにもう一度あたしを見る。
「みゅ?」
意味は不明だが、それよりも、他の人だ!
「がんばってね!」
叫んで、あたしは口から血を吐いている人の傍らに駆け寄った。
「が……」
んばって、と。
そう叫ぼうとした口が、その人をしっかりと見た瞬間に強ばった。
どく、と心臓が大きく跳ね上がる。
「お……」
ごぼ、と、さらに血を吐いて、その人は苦しげに息をした。
浅く、かすかな、息を。
血の臭いのする息を。
その腹は───馬に蹴られて、陥没していた。
「が、ん……ば、……って」
あたしは震える手をその痛ましい傷の前にかざす。
ごぼ、とはき出される血。
むっとする死の臭い。
「がん……ば、って……!」
涙が零れた。
がんばって、どうにかなる傷じゃないと、わかっていた。
口から血を吐くということは、体の中を怪我してるということだ。
助からない。
そういう人は、ほぼ助からない。
その人の顔はみるまに青ざめ、白くなり、どんどんどんどんホワッとした暖かさを失っていく。
「がんばっ……て……!!」
けれど、あたしに何ができるだろう。
何をすることができるだろう。
レメクのように奇跡を起こす魔術も使えず、ただ、傍らでガンバレガンバレとしか言えない、こんなあたしに……!!
(神様……!!)
無慈悲で、たった一欠片もあたし達に愛情を注いでくれない神様!!
どうしてこういうことが起きるのだろう?
なんでこんな風に、唐突に命を奪っていこうとするのだろう?
孤児院の時も、それ以前の時も、いつだって誰も助けてくれない神様。
確かに、今回は、アヤシイ人の暗躍があった。
けれど、それで巻き込まれ、人が死ぬのは違うと思う。
人の命は、その生は、もっと尊くて、大事で、一つ一つが何物にも代え難い大切なもののはずだ!!
なのになぜ、こんな風にして人はすぐに命を落としてしまうのか!
どうして……
どうして!!
(おじ様ッ!!)
あたしは叫んだ。
居もしない救いの神でなく、あたしにとって、一番大切な人に。
そう、祈る相手は、空想の神様なんかじゃなくて───
──神とは、ただ、そこに在る、強大な力の名前。
ふと、頭の中が白くなる。
──人智を超えた力、現象、それをさして、人は『神』と呼ぶ。
白い世界の中で、言葉だけが降りてくる。
──だからこそ、神は意志をもって奇跡を起こさず、人は自ら奇跡を起こすしかない。
その力を手繰り寄せるしかない。
そう───
天をも動かす心でもって───!
音が、
零れた。
真っ白な世界の中から降りてくる音が。
身の内に流れ込む音が。
奥底からあふれ出る音が。
そう、音が
音が
音が
音が音が音が音が音が音が────!!
うみよりの かぜ
だいちにふきて
ひとはただ
あれちのはてに
ぼうとたたずむ
唇が動いた。
体が熱で満ちた。
掌に力。
腹の底に熱。
頭に言葉が染みこんで、
喉が音を外へと押し出す。
かわきしだいち
うるおいをもとめ
そらへとてのひら
のばし ねがう
声は風に、
心は大気に、
魂は光を宿し、
それはどこまでも高く
どこまでも広く広がる。
ひとよ ひとよ
ねがうのならば
そのこころひとつ
つよくもって
そらへとむけて
おもいをはなとう
ひとはみな そのみのうちに
ねがいのはなと
おもいのたねと
きせきのかけらを
やどしているから
そう、空へ
空へ、
空らへ!
天へ────!
幽き光 野辺に満ちて
幾千の命 大地に灯す
万の祈り 天へと放ち
幾憶の光 風へ乗せよう
光は闇へ 闇は光へ
巡る螺旋のその中で
命はここに
心はここに
奇跡をもって 生まれいずる
巡れ 巡れ
世界の果てまで
届け 届け
全ての人へ
風よ 風よ
叶うのならば
この心の全て
その身に溶かして
命ある全ての人に
この奇跡を届かせ賜え──
──音が響いていた。
幾重にも重なり、どこまでも広がり、永遠に溢れ続ける音が。
音だけが響く世界は、白い眩さに包まれている。
その白い世界に色が宿り、それはゆっくりと沢山のものをあたしの目の前に映し出した。
人。人。人。人。
沢山の顔。沢山の人。せっかくの綺麗な服なのに、血と土埃で汚れている人々。
その、呆然とした顔。
……ん?
あたしはパチクリと瞬きをする。
沢山の人がそこにいた。
近くには壊れた馬車や、倒れている馬の姿も。
(あれ?)
キョトンとするあたしの後ろに、ふと、暖かな熱が触れた。
すぐに感じる、スバラシイ匂い。
「……ベル」
深い声が降りてくる。
誰よりも何よりも大好きな声が。
「おじ、様?」
あたしは真上にあるその人の顔を見上げる。
レメクは、なにか激しくて暖かいものを堪えるような顔で、あたしに微笑みかけた。
「……よく、やってくれました」
……?
よくやった?
あたしはキョトンと瞬きをする。
いつのまにレメクが来てくれていたのか、あたしの興味はそっちにばかりいっていて、今ひとつ周りの状況がわからない。
そういえば、なんで周りの人達は、地べたに半分寝転がった姿でこっちを見ているのかな……?
「……す……げ……」
ふと震える声がそうこぼして、見ればアルが顔をくしゃくしゃにしながらこっちを見ていた。
……ハテ?
「すげぇ……すげェぞちみっちょ! 奇跡だ!!」
アルはそう叫ぶと、あたしに駆け寄り、あっという間にあたしを抱き上げて抱きしめた!
「むぎゅる!」
「すげェちみっちょ! おまえすげェよ!!」
スゲェばかりを繰り返されても、意味がちっともわからない。
とりあえず絞まった首をなんとかしようとジタバタ暴れていると、後ろから延びてきた腕が──
アルを引き剥がさず、そのまま問答無用で力一杯あたしごとギュムッと抱きしめた。
「「むぎる!!」」
悲鳴、二つ。
「……くらうどーるきょー……?」
遠くからアディ姫らしい呆れ果てた声がする。
あたしごとアルを圧迫してくれたレメクは、咳き込みながら腕をゆるめたアルからあたしを取り返し、しれっとした顔でアルを見る。
「ベルは子供です。小さいのですから、圧迫するほど抱きしめないように」
「さっきのアレはいいのかよ!?」
アルのじつに真っ当なツッコミを、しかしレメクは綺麗に無視した。
そうして、ゼヒゼヒいってるあたしに向かって、スバラシイ微笑みを向けてくれる。
「ベル。素晴らしい『歌』でしたよ」
「???」
て、歌?
「メリディスの『呪歌』です。効果のほどは、目で見たほうが明らかでしょう」
言って、レメクは前を掌でさし示した。
あたしはくるりとそちらを向く。
血と土埃で汚れているが、わりと元気そうな人達を。
……いや、中にはまだ重症っぽい人もいるが。
「あの……?」
「『生命の賛歌』です。命ある者の生命力を活性化させ、傷を癒す歌」
傷を癒す歌。
あたしは目を瞠り、慌ててあたし達の足下を見た。
いたはずだ。そこに。
とても助からない重症の人が……!!
「あ……」
その人は、変わらずそこにいた。
血の気のひいた顔で。
けれど……ハッキリと命を感じさせる目で、あたしを見上げて……
「たす、か……た、の?」
その人は、力のない笑みを浮かべて、けれどたしかに頷いてくれた。
体を起こすことはできないけれど、もう、口から血を吐いたりはしていない。
「だいじょうぶ、な、の?」
相手の頷きに、涙が零れた。
助かったのだ。
助かったのだ!
助かったのだ!!
「よかっ……」
涙があふれて、こぼれて、あっという間にそれはあたしの全身を浸してしまった。
わんわん泣き出したあたしをレメクが優しく抱きしめてくれる。
その体に抱きついて、あたしはぐしゃぐしゃの顔で叫んだ。
よかった。よかった。よかった。よかった……!
助かる人がいてよかった。
消えてしまう命が、助かってよかった!
それがどんなものであってもいい。生きていてくれてよかった。
せめて……せめて、助かる人だけは……!
「……『雫の間』に、全員の収容を。医師陣はすぐに治療を」
あたしの背を撫でながら、レメクが誰かへと指示をとばす。
「王女の『歌』は一定範囲の傷は癒せますが、完治させるものではありません。できるだけ早く治療を。治癒術師は揃ってますか? ……あぁ、では、神官達も呼び寄せなさい。地下牢前にバルバロッサ卿がいます。彼にも協力を要請してください」
はっ、という短い声と同時に、沢山の人が動く気配がする。
その中で近寄ってくる足音、二つ。
アルとケニード。
……なら、足音はしなくても、アディ姫もいるはずだ。
……音も気配もないけど。
「……とりあえず……お三方には、何故ここに居合わせたのかを聞きたいですね」
ホラいた! 三人目(アディ姫)!
……てゆか、日頃から足音消してるんだろーか……アディ姫……
「というか、クラウドール卿。ここも大変なんですが、同じく大変なことが!」
慌てたような声はケニード。
「てゆか、これ……あきらかに、俺のせいだよな……」
暗い声はアル。
「待ち伏せがあるとはね。一応、叩きのめしたけど、なんか手段を全く選ばない感じが、かな~り腹が立つわ。……てゆか、クラウドール卿」
静かな声で言って、アディ姫は声をすごく小さくしてから告げた。
「……フェリがいなくなったわ」
「……『どちら』で」
すぐに小声で返したレメクに、アディ姫は満足そうに口の端を笑ませる。
「たぶん、公爵家。フェリ、部屋から抜け道つかってここに来たみたい。公爵家に向かうつもりだったんでしょ。そうアタリをつけてここに来たら、馬を薬で暴れさせられて……」 そして、この惨事。
未だ血の臭いのする、この……
「……おじ様」
あたしはブルリと体を震わせ、ギュッとレメクの服を握った。
「……馬に、怪我、させられた、人……」
「……あなたが沢山、助けてくれましたよ」
「でも、でも……!」
踏みつぶされた人がいた。
それが人なのだと一瞬気づけないぐらい、歪になっている人がいた。
蹴り飛ばされ、馬車に押しつぶされた人も……
「……ベル」
震えるあたしを抱きしめて、レメクは深い声を落とす。
「……私達に、神々のような力はありません」
そう……どんな『有り得ない現象』を生み出す奇跡を起こしたとしても、それは、願いの全てを叶えるような、そんなとんでもない奇跡では無い。
「失った命は、決して、呼び戻すことはできません」
それは、つまり、
この場で命を落とした人が、やはりいるということで……
「死者の復活は、人の分を超える奇跡です。我々はただ、我々に起こすことのできるほんのわずかな力を……歌を聴きし人々自身のもつ『奇跡の力』を高めるだけです。……メリディスの『呪歌』とは、そういう力なのですから」
あたしはレメクの胸に顔を埋める。
優しくて暖かくて素晴らしい匂いに包まれても、目に焼き付いた光景が消えない。
無惨に倒れ伏していた、人々の最期の姿が消えない。
「……早めに決着をつけないと、事ですね」
「ナザゼルねーさまも動いてるわ」
低いレメクの声に、同じく低い声でアディ姫が告げる。
「……動いていて、これ、ということは……相手は複数ということですね」
「の、ようね」
言って、アディ姫は暗い顔のアルと腕組みをした。
スバラシイムッチリを腕に感じて我に返ったのか、アルがギョッとみじろぐ。
「アルルンの護衛はあたしがするとして、ちょっと、人のいない場所にこもっていたほうがいい気がするわ。……連中、周りを巻き込むことの重大さ、全く考えてないっぽいから」
「……あまりにも浅はかですね」
「万死に値するわ。そうでしょ?」
「異論はありません」
互いに底冷えのする目になって、二人は頷きあった。
「陛下から勅命を受けました」
レメクは静かな声で言う。
「此度の件、断罪の許可も得ています」
「!」
その瞬間、アディ姫の目がギラリと輝いた。
断罪の許可。
それは即ち、裁判なしにレメクの判断で処刑してもいいということ。
「……断罪対象は?」
「証拠さえ揃えば、関係者全員」
ビクリとアルの体が硬直した。
その関係者の中には、彼も含まれている。
そして……彼の友であり、あたし達が首謀者と見る『偽王弟』も。
「……けれど、王族の血統であることに配慮して、できるだけ私の断罪でなく、別の方法でお願いしたく存じます」
「……うん。侯爵の立場も大変だしね。つまり、命令もらって、あたしが好き放題暴れちゃダメってことね?」
「考慮していただければ幸いです」
薄い笑みを口の端に浮かべて、レメクは言葉を続ける。
「ただ、アデライーデ姫。実力行使が必要な時は、私は私の権限をもってそれを許可します。生かさず、殺さず。……あなたなら、できるでしょう?」
「……完璧よ」
レメクと同じ薄い笑みを浮かべて、アディ姫は獰猛な色をその瞳に宿した。
「あたしは許さない。絶対に許さない。……鬼姫アデライーデの名のもとに、全員叩きのめしてあげるわ」
「許可します」
深い声で彼女の行動に『断罪官』の許可をあたえ、レメクは周囲を見渡した。
多くの人々が負傷者と、死者を運び出し、嘆きと喧噪の満ちるこの場所を。
そして、
「王妃。あなたも、お力添えいただけますか」
その声に、何もない空間がゆらりと揺れた。
ギョッとなったあたし達の前で、その人は幽鬼のように笑う。
「……妾も、かなり怒っておるのでのぅ」
美しく、妖しく、恐ろしい黒い魔女がそこにいた。
その瞳には、アディ姫と同じ獰猛な色がある。
「ネーサマ。牢屋の『標的』は?」
「捕らえた。……ロードに引き渡してきたから、今頃、地獄を見ているであろうよ」
その言葉に、あたしはちょっと遠い目になった。
文字通り、地獄を見さされているかもしれない。
あの、虚無の世界とか。
「したが、この惨状……なるほどのぅ……アディ、おぬしの、してやられてイラッとくる気持ち……わかるぞ」
それこそイラッとしている口調で言って、王妃は恐ろしい気配を身にまとった。
先のアディ姫にも匹敵する、鬼のような気配を。
「妾も、許しておけぬ。レメクよ。いやさ、断罪官殿よ。妾にも権限も。此度はアルティルマの王妃でなく、アリステラ殿の盟友、ナザゼルとして戦いたい」
「もちろん」
鬼二人を前にして、まったく動じずにレメクは立つ。
その身に、二人にも増して恐ろしい気配を宿して。
そうして、一台の馬車に目をとめて言った。
力ある声で。
「……さぁ、反撃といきましょうか」