21 消えた姫君
「……つーか、俺ぁいったい何をすればいいんだ?」
アルがそう呟いたのは、ナザゼル王妃が退出してしばらく経った頃だった。
場所は未だに『獅子王の』と呼ばれる部屋。
派手な色彩に囲まれて、アルは早くも落ち着かないよーだ。
「アルルンは特に何もしないでほしいんだけどなぁー……下手に動くと、何が起こるかわかんないからさぁ」
「…………」
ソファの上に寝そべったアディ姫は困り顔。
それを見て、アルはなにやら暗い顔で俯いた。
アディ姫はぼりぼり頭を掻きながら身を起こす。
「……ん~。それよりもね~、アルルンには聞きたいことがあるんだけどね~」
何かを考える顔で、彼女はアルに問う。
「……なんでさぁ、君、自分の名前を貸そうなんて思ったの?」
その問いに、あたしもケニードもサッとアルに視線を向けた。
気になっていたのだ。
アルはどうして……今回の事、承諾したのか。
……何を考え、何を思い、名前を貸すことにしたのか。
「…………」
アルは答えない。ただ、何かを堪えるような目で顔を背けた。
アディ姫はそんなアルをジッと見つめ、わずかなため息を零してソファに背を預ける。
「……じゃあ、質問を変えるけど……アルルンて、向こうじゃどういう生活をしてたの?」
向こうの生活。
というと、レンフォード家での生活だ。
あたしは目をキラリと光らせて、弾力のあるソファでバウンドする。
「……別に、ふつーに暮らしてたぜ?」
「『普通』って言うのはさぁ……人によってそれぞれ違うんだって……アルルン、知ってるかい?」
「…………」
「君が馬番のおかーさんと、前王陛下の子供だっていうのは、ここにいる全員が知ってることだから、ぶっちゃけて話してよ。馬番ってことは、馬の世話はしてたんでしょ?」
「……あぁ」
「寝泊まりする家は、おかーさんが住んでた家?」
「……そうだよ」
「おかーさん以外に家族は?」
アルは目を伏せる。暗く沈んだその表情だけで、その答えは知れた。
「……いねェよ。他には。……いやしねェんだよ」
言って、彼は深いため息をついた。そのままどこか投げやりな動きでアディ姫の前にあるソファに座る。
動きといい、座り方といい、正真正銘ゴロツキみたいな感じだった。
……おーじサマなのになぁ……
「……つまんねェ話しだぞ?」
そのガラの悪い座り方のまま、アルはジロリとアディ姫を睨む。
アディ姫はニコリと微笑んだ。
「人の生い立ちに、つまらないものなんて何一つないわ」
アルの視線がちょっと戸惑ったように揺れ、微妙にアディ姫から逸れた場所で止まる。
誰もいないその場所に視線を逃がしたまま、アルはぽつりぽつりと話し始めた。
※ ※ ※
アルことクリストフ・オリガ・サイフォスが生まれたのは、二十二年前の初夏。
レンフォード家の厩舎近くにある、馬番の家での誕生だった。
家族は母一人。
本来馬番の仕事をするはずの『父親』も、母の両親も傍にはおらず、アルは物心つく前から馬の世話をさせられていた。
もともと体の成長は早く、頭もしっかりしていたアルは、五歳になる頃には簡単な世話なら一通りできるようになっていた。
二人が暮らすのに必要な食料は、量・質ともに粗末ではあるもののレンフォード家から全て支給され、衣服も上等ではないもののあてがわれていた。
本来、そういった支給品は、給料と同じく仕事内容や量によって決められる。
小さなアルには大人ほどの仕事はできず、か弱い女性であった母親もそれは同じだった。
それでもきちんと他と同じような食事を与えてくれるレンフォード家に、アルはとても感謝していたという。
……その実際は、隠しているとはいえ、王の子を餓死させるわけにはいかないという、ただそれだけのことだったのだが。
だが、他の労働者にとって、それは腹立たしいことだった。
自分達よりも仕事の劣る女子供が、汗水流して働く自分達と同じように扱われるのだ。何故あいつらだけ、と、嫉む者も少なくなかった。
結果、一部の下働きの人間からは辛くあたられた。くんできた水をひっくりかえされたり、わざと穴のあいた桶で水くみをさせられたこともあった。
けれど、彼の周囲にいる人の中には、素朴で優しく、暖かい人も多かった。
大きくなったら、もっと沢山働ける。
大きくなったら、もっと母を楽にしてやれる。
その当時のアルの心は、それでいっぱいだったらしい。
「おふくろは、さ……俺が寝てる時も内職ばっかりしてたからな……」
力がなく、重いものを持てず、それゆえに仕事に差がでてしまうのを埋めるため、衣服のほつれを直したりすることで、他の人の助けをしていたお母さん。
そうやって違う面で埋め合わせをして、彼女達は暮らしていたのだ。
助けられ、助け合い……辛い思いを時々しながらも、アルはそれでも、そういう日々がいつまでも続くものだと思っていたのだという。
……体の成長とともに、少しずつ生活もよくなっていくだろうと期待しながら。
それが失われたのは、十五年前の秋。
収穫祭を前にして、誰もが心を浮き立たせていた時。
彼の母親は命を絶った。
詳しい事情は知らない。
ただ、自刃したと──それだけを伝えられた。
アル、七歳の頃だった。
「……あいつと……アルトリートと出会ったのは、その頃だ」
シンと静まりかえった部屋の中に、アルの悲しい声が響く。
あたしはゆらゆらする視界の中で、一生懸命アルを見つめていた。
アルはやっぱり、どこかあたしと似ていたのだ。
幼い頃に母親と死に別れたことも、苦しい生活の中でがむしゃらに生きていたことも。
「おふくろを亡くして……なんもかんも、虚しくて……正直、何のために生きてるんだろうって思ったな。……けどよ、喰って、仕事して、寝て……そういう、考えなくてもいい動きとかは、勝手に体がやってるんだよな」
どこか虚ろな苦笑を浮かべて、アルは言葉を続ける。
「……アルトリートと出会ったのは……」
どこか遠い場所を見る目で、虚空を見つめながら。
「……収穫祭の最中だった。埋められたおふくろの墓で突っ立ってた俺ン所に来て、収穫祭のお供えものをくれたんだ」
一年の収穫を祝う『収穫祭』。
春の大祭と同じく、人々にとって喜びの季節。
その中で、独り、悲しみに沈んでいたアルに、彼は手を差し伸べたのだ。
……その心がどんなものだったのかは、あたしにはわからないけれど。
「……悪い奴じゃないんだ。少なくとも、俺には優しい……イイ奴だった。親を亡くした俺のために、いろんなことをしてくれたんだ」
例えば、自分が使わなくなった服や、護身用のナイフ。
野を駆け、森を巡るための弓、乗馬。
書物を読むための文字や、紋章の見方。
ただの馬番であったなら知ることのない、様々な知識。様々な経験。
それらを教えてくれた。
他の誰でもない──あたし達が『偽王弟』と呼ぶ、アルトリートから。
「あいつが……どんな風に言われたって、俺は、あいつが優しかったことを知ってる。おまえ等が、あいつが、俺を殺そうとしてるって言ったって……信じられる、ワケ、ねェだろ!?」
……彼等は、きっと、一緒に時間をたくさん過ごしてきたのだろう。
十三年。
あたしからすれば、あたしの人生よりも長い年月。
身分の差や、立場の違いがあろうとも……彼等は、友として一緒の時間を育ってきたのだ。
今日という日まで。
「……あたしが知ってるのは、あたしが知りうる情報だけ」
真っ直ぐに睨みつけるアルの目を真正面でしっかりと受けて、アディ姫は静かに言った。
「王宮では、『アルトリート』の名はほとんど語られない。わずかに、女癖が悪いということと、借金をつくっているということぐらい」
「…………」
「レンフォード領内の貴族からは、悪評しか聞こえなかった。女性関係においては、最悪だったようね」
「……けど、俺には『いい奴』だった」
「そぅ……君が女だったら、違う意見が出たかもしれないけどね」
「それでも!」
アディ姫の声を遮るように、アルは悲痛な顔で叫んだ。
「それでも、俺には優しい、いい奴なんだ!」
アディ姫は口を閉ざす。
ただ、真っ直ぐな目で彼を見つめた。
あたしは二人の様子に、ある日のレメクの言葉を思い出していた。
……人は、決して『独り』では生きられない。
誰かにとっては悪でも、別の誰かにとっては大切な人であったりするのだと教えてくれたレメク。
……アルにとって、偽王弟は、本当に大切な人なのだ。
今、こんな風に、皆から悪人だと言われ、自らの命を狙っていると言われてなお……庇わずにはいられないほどに、大切な人なのだ。
その人を、心から信じきるほどに──
しばし見つめ合い、アディ姫はふと、小さなため息をついた。
ほんのわずかに目を伏せて、けれどアルを真っ直ぐに見たままで言う。
「……君の過去を……否定することはしないわ」
静かで、深い声が言葉を紡ぐ。
「君が過ごした年月を、育んできたものを……否定することは、誰にもできない。それは確かにそこにあって、いつまでも在り続けるものだからよ」
「…………」
アルは唇を引き結ぶ。
その姿を見つめて、けれど、とアディ姫は言葉を零した。
「人は、永遠に同じままではいられない。それもまた、間違いなく事実。……あなたと共にあった『アルトリート』という人は、確かにあなたと共にあった時間、優しくて頼りがいのある『いい人』だったのかもしれない。けれど、他の人達から見た時に、全く別の一面があったのもまた事実。……どちらも嘘じゃないわ。どちらも、本当のこと」
けれど、だからこそ──
「大事なのは、そこにある事実の全て。真実は人の数だけあり、決して一つになったりしない。けれど、起きた事実はその場その時その瞬間の唯一つだけ。例え誰かにとっての真実がいくつあったとしても、同じものは決してないからこそ、全ての事実を揃え、一つ一つを解きほぐさなくてはいけない。事情も、原因も……その人の心も」
……なぜなら、人は、その時の立場、思い、事情によって、いつだって簡単に人を裏切ったりするものだから。
「そして、罪や罰も、その事実それぞれに対してついてくる。あなたにとって、『彼』はよい人であった。それは事実。……この王宮で、『彼』は今、大きな罪を犯している。それも事実。……そして、私達は、後者の事実に対して罪を問い、罰を与えなくてはならないの」
「……だから、俺の知ってるあいつがどーであろうが、どうでもいいってことか」
「違うわ」
スッと冷ややかなものを宿したアルに、アディ姫は微笑む。
どこか慈愛めいたものを感じさせる、暖かい瞳で。
「忘れないでほしいの。今あたし達が問題にしている『事実』が、あなたの知る『事実』を消してしまうものではないことを。あなたの過去は、あなたのもの。そこにあった事実もまた、あなたのもの。暖かいものも、優しいものも、大切なものも、確かにそこにあって、それは誰にも否定されることのない本当のこと。……忘れないで。あなたの記憶は間違いなんかじゃない。そこにあったものも、きっと間違いなんかじゃないわ」
一瞬、アルの目が大きく揺れるのをあたしは見た。
アディ姫はこう言っているのだ。
あなたにとって、優しかったアルトリートは、決して嘘じゃない、と。
自分達がどんなに相手を否定し、批判したとしても、それを庇うアル自身の思いも、それを支える記憶も……決して偽りなんかじゃない、と。
「……おねーさま……」
彼女は、全てを受け入れ、全てを肯定し、そのうえで、その一つ一つに対して真摯に向き合い、答えを出そうとしているのだ。
かつて教えてもらった。彼女の自称。
真実の探求者。
まさに、彼女はその名を名乗るに相応しい人だったのだ。
「……信じてても……いいんだよな……?」
ぽつりと、アルが声を零した。
アディ姫は頷く。
「……俺は……信じたいんだ……」
ぽつりと、零れる声と一緒に、涙が零れた。
「信じていたいんだ……!」
あたしは唇を噛んだ。
ケニードは悲しげに眼差しを伏せた。
アルも、不安だったのだ。
何もわからず、決して今までの生活とは相容れるはずもない『王都』の『王宮』なんて所に連れて来られ、不慮の事故にあいかけ、見ず知らずの人を巻き沿いに傷つけてしまい、会うことすらないだろうと思っていた異母姉と会い───
立て続けにおこった事態に、めまぐるしく変化する現状に、きっと怖くてたまらなかったのだ。
大切にしてきたものも否定され、疑われ、友達を犯人と決めつけられて、けれど否定するだけの材料なんて自分の思いと他愛のない過去の話ぐらいしかなく……
辛かったのだ。
そうだ。なんで気づかなかったのだろう。
辛くないはずなんてなかったのだ。友達が自分を殺そうとしているだなんて話。
突然言われて、現実を見ろとばかりに状況や背景なんかを目の前で言われて、わけもわからず周りに流されて……!
自分のことだから辛かったんじゃない。
命を狙われたから辛かったんじゃない。
誰かを巻き沿いにしたから、辛かったという、ただそれだけじゃない……!
友達を、大切な人を、疑われ、犯人だと言われ続けたのが辛かったのだ。
「他の誰が何を言っても」
アディ姫は言葉を紡ぐ。
「どんな現実がつきつけられても」
静かで、けれど優しい表情で。
「その人を信じたいと思う限り、信じ続けてもいいの」
俯き、身を折るようにしてうずくまったアルに、アディ姫は音もなく立ち上がる。
「けれど、現実はいつだって残酷で、悲しいことも問答無用でつきつけてくるから」
小さな子を抱きしめるように、そっとその身を抱きしめて、アディ姫はアルの背をぽんぽんと叩いた。
「現実を否定せず、全てを見据え、冷静に受け止める覚悟だけはもってちょうだい。心が壊れてしまわないように」
アルは答えない。
ただ、押し殺した嗚咽の中で、確かに、わかった、と……そう頷いた。
※ ※ ※
アルトリートが落ち着くまでの間、あたしとケニードはソッと二人から離れて部屋中をぐるぐる徘徊した。
傍にいてあげたほうがいい気もしたけど、それはアディ姫がいるから大丈夫だろう。
あたしとケニードはなんだかちょっぴりお邪魔虫の気分で、コソーッと隣部屋のほうに移動する。気づいたアディ姫がチョイとこっちを見たけど、苦笑しただけで何も言わなかった。
だからこそ余計に思う。彼のことは、アディ姫に任せておけば大丈夫だと。
「この部屋って、本当に派手なのね」
五つ目の部屋をこっそり覗き見て、あたしはそう言葉を零す。
王妃ナザゼルが使っている部屋だからと、あまりうろちょろしないよう佇んでいたケニードは、そんなあたしを止めるために追いかけてきて、結局一緒にぐるぐる徘徊する形になっていた。
ナザゼル王妃のいる部屋も、あたしのいる部屋と同じく数多くの部屋を持っている。
廊下からすぐが応接室だったり、部屋数も五つとずっと数が少ないのだが、一つの部屋ごとの規模は似たりよったりだ。小さい小部屋がない分、ずいぶんと機能的な感じがする。
……いや、部屋の無意味なバカでかさとかは、すごく機能的じゃないと思うのだが。
「正式に言うなら『獅子王の間』かな」
その名称の由来は、三つ目の部屋で見つけた剥製で明らかだった。
巨大な獅子の剥製があるのだ。
……というか、獅子なんて、お祭りの時に見せ物小屋でコッソリ見たぐらいで、間近に見たのは初めてだったが。
「三代目国王は狩猟祭の時に、かつて見せ物小屋から逃げだし、野生化した獅子の子と会ったんだって。どうやって手なずけたのかまでは知らないけれど、それを育て、常に傍においたんだそうだよ」
だから、三代目国王を指して人は『獅子王』と呼ぶ。
「この部屋は、その獅子王が好んで使っていた部屋だそうだよ。なんでも、活力が湧いてくる気がするから、って」
「他にもおっきな部屋はあるのに?」
不思議に思って、あたしはケニードに問いかけた。
あの青の間なんか、ここの倍の部屋数がある。王様なのだから、すごく広くて立派で部屋数の多い場所をとると思ったのだが。
「王は基本、後宮の全てを所有してるんだ。全部自分の部屋だから、どこの部屋で過ごすかは、王の自由。王が使ってない部屋のいくつかが、年若い王子や王女に分け与えられたり、お妃様達に与えられたりするけどね」
「ふぅん……」
部屋の中をちょろちょろしながら、あたしは気のない相槌をうった。
正直、後宮に部屋がいくつかあるのかすら、微妙にあやふやだったりするのがあたしである。
……いや、なんとか頭の中に叩き込んでいる部分もあるんだけどね?
「ベルの使ってる『青の間』は、暁の賢者が王宮にいる時に使ってた部屋だよ」
「ほぇ!?」
さらりと言われた言葉に、あたしは思わず飛び上がった。
「あの部屋も!?」
そういう情報は、サッパリだ!
「そう。……というか、ベルって、そう考えると『暁の賢者』と縁があるよねぇ」
あの、建国の立役者、女傑ナスティアの旦那さんという噂の賢者サマと!
「まぁ、クラウドール卿は『暁の賢者の再来』とまで言われてる人だから、その縁もあるんだろうけどね」
……そーいや、レメクは暁の賢者とすごく縁がある人でした。
過ごしてる邸宅もそうだし、断罪の紋章もそうだし。
「確か、あちこちに仕掛けがほどこされてるらしいよ。ただ、それを知っているのは王族でもごく限られた人だけなんだって。まぁ、王宮なんて、そういうもんだけど」
「隠し部屋とか、隠し通路とかがイッパイなのね!」
「そう。まぁ、貴族の屋敷でも、けっこうそういうの多いんだよね。……僕の家は、どれが隠し通路のつもりなのかサッパリな状況だけど」
そーいや、昔遊びに行かせてもらったケニードの屋敷は、ビックリ迷路のような感じだった。
……外見は王城のミニ版って感じで綺麗なんだけどな……
「クラウドール卿の屋敷もそういう仕掛けがいっぱいあるよ。中にはとんでもない呪術結界が張られてる場所もあるから、下手に探検しようなんて思っちゃいけないんだけど」
……ぎくっ!
一瞬ワクワクしたあたしの気持ちを読み取ってか、ケニードが「ダメだよ?」という目でこっちを見る。
「お……おじ様一緒に探検すればいいのですよ!」
「それは、クラウドール卿が一緒ならたいていのものは大丈夫だろうけど、体調が戻ってからにしたほうがいいよ? あとは……まぁ、時間があれば、だろうけど」
……ううっ!
言われた言葉に、あたしはグッと言葉をつまらせた。
ケニードは気遣わしげな顔で嘆息をつく。
「たぶん、今回のドタバタもあの人の肩にのしかかってくると思うんだ。あまり無理をしないといいんだけど……」
「……ううっ」
「あのさ……ベル」
ふと声を落として、ケニードは真剣な顔であたしを見た。
その瞳の強さを認めて、あたしはケニードの傍に舞い戻り、真面目な顔で見上げる。
そんなあたしを真剣に見つめて、彼は言った。
「……もし『生命の賛歌』を歌えるようになったら、僕じゃなくて、クラウドール卿のために歌ってくれないかな」
生命の賛歌。
彼が、彼の指を元に戻すために聞くべき歌を───
「あの歌は、生命の誕生や、実りへの賛美や、生きとし生ける者への愛おしさを歌ったものなんだ。荒涼とした荒れ地に、けれど光は満ちて、そこに命は宿るでしょう、と──そう祈りを込めて歌ったものなんだ。だから、きっと、疲れ果てたクラウドール卿の体も癒してくれる。あの歌は、誰が歌っても体が温かくなるような、そんな歌だけど……その歌い手は、たぶん、メリディスであるのが本当なんだと思う」
メリディスは音声魔術の使い手。
歌により人々の力を何倍にも引き出す、呪歌使い。
「最高峰の『言霊使い』になれるメリディス族は、そう多くない。それは魔術者の血統だけだって文献にはあった。特殊な魔術血統を受け継ぐ血族には、大別していろんな血の系譜があるんだ。例えば巫女血統や、魔術者血統、戦士血統……それぞれに特化したものを継承してる。そうして、その正統な血統者は特別な装身具を持つんだって」
「装身具……?」
あたしは、ふと、胸元にある大切な宝物を握った。
レメクから贈られた、レメクのお母さんの形見。
……あたしがお母さんからもらい、奪われてどこかへと持ち去られたお母さんの形見。
もしかして……これも?
「ナスティア国内にいる血族は、たいてい似たようなものを持ってる。クラヴィス族も、メリディス族も、アザゼル族も、パルム族も……巫女なら腕輪、魔術師なら指輪、っていう感じでね」
腕輪!
あたしは息をつめた。
お母さんの形見! あたしの腕輪!!
ケニードはあたしを見た。とても真剣な目で。
「……クラウドール卿からね、君の奪われた腕輪を探してほしいって頼まれてるんだ。特別な骨で作られたものだから、決して壊されることなく誰かの手にあるだろうから、って。これはきっと知らないと思うけど……メリディスの血統装身具はね、竜の角で出来ているんだよ」
「……竜の……角……!」
あまりのことに、あたしは口をぱかっと開いた。
なんか、お伽話でしか聞いたことのない単語ですよ!?
「そう。……だから、決して人の手で壊せるようなものじゃない。必ず、どこかで見つかるはずだから、って。……ベル、君はね、巫女の正式血統なんだよ」
憧れと敬愛をこめて、彼はあたしを見つめた。
まるで、大切な宝物を見るような眼差しで。
「だから、君の歌声は、きっと他の誰が歌うよりも強く人の心と体に左右するはずだ。メリディスの歌は、天から授かった宝物。その歌で、クラウドール卿を助けてあげてほしい。僕はその後でいい。僕には、彼がいつも無事でいてくれることのほうが大事だよ」
その言葉は、彼にとって嘘偽りのない言葉だろう。
真っ直ぐにあたしを見ている彼の目は、けれど、同時にレメクをも見ているのだ。
きっと、世界で一番大好きなレメクを。
「……あたし、ちゃんと、歌、覚える」
例えようもない強い共感に、あたしは目に力を込めて言った。
「絶対、覚えて、二人に歌うわ!」
「うん……でも本当に、僕は後でいいから」
「一緒に聞いてくれればいいの! うんとうんと心込めて歌うから!」
ケニードはお日様みたいな笑顔で頷いて、あたしに向かって手を差し伸べてくれた。
あたしはピョンッとその腕に飛び込む。
レメクの次に居心地のいいその腕の中は、アウグスタと同じような暖かさで満ちている。
「メリディスの歌って、心の歌って言われてるから、きっとそれが極意なんだろうね」
「心の歌?」
ふんふん、と意気込みも新たに気合いをいれているあたしに、ケニードは笑って頷く。
「そう、心で歌う歌。歌っていうのは本来そういうもんだって、僕の母も言ってたけどね。メリディスの歌はさらに特別。まるで歌が空から落ちてくるような、体中に染みこんでくるような、体の奥から溢れてくるような、そんな感じなんだって」
「へぇ……」
あたしは大きく息をつく。
「そういえば、お母さんも、そんなこと言ってた」
「……ベルの、母さん?」
「そう」
あたしの、大好きな大好きなお母さん。
思い出すだけで鼻あたりがツンと痛くなるほど、大好きでたまらないお母さん。
やせ細っていたけれど、いつだって美しい顔で、声で、歌ってくれた人。
「『歌は心。心は魂。声は空に、歌は風に。乗ってどこまでも広がり、どこへでも届くのがメリディスの歌』……って」
だから、本当の意味で『歌う』とき、メリディスの歌はすごく遠くまで届く。
けれどそれは、本当に特別な『歌』。
王都では決して歌えない『歌』。
「いつかきっと、歌える日が来るから、って。……そう、言われたの」
今は決して歌えないけれど、きっと……例えば、いつか森に帰った時などに。
「……そっか」
ほろりと微笑んで、ケニードはあたしの頭を撫でてくれた。
あたしはスンと鼻をならす。ちょっぴり揺れた視界に目をごしごしやってから、背中をシャンと伸ばした。
「あたし、そういう、大事なところを忘れてた気がする」
「お母さんから教わったこととか?」
「そう! だから、それもちゃんと一生懸命思い出して、二人のために歌うわね!」
あたしの声に、ケニードは微笑んだ。本当に優しくて暖かい笑みで。
「無理はしちゃダメだよ?」
「もちろん! でも、あたしもね、歌うのは好きなの! でも、歌う歌によってはおじ様にすごい慌てて止められるのよ?」
「……どういう歌を歌ってるのかな、そーゆー時って」
ケニードの声に、あたしは早速歌ってみえた。
宿のおねーちゃんから教わった歌を。
「……それは……クラウドール卿は……止めるだろうねぇ……」
次の歌を歌ってみた。
酒場のおねーちゃんから教わった歌を。
「……それは……すごい止められるだろーねぇ……」
……よくわかるな。ケニード。レメクの反応とか。
「でも、こう、歌のリズムとか、音とかすごく綺麗なのよ? 酒場のおねーちゃん曰く、ちょっと甘ったるく歌うのがポイントなんだって!」
しかし、その『甘ったるく』がよくわからない。
しかたなく、握り拳で力強く歌ってみるのだが、そうすると酒場のおねえちゃん達には大ウケだった。
……何故ウケたのかよくわからないのだが。
「まぁ、その、歌詞とかがね、ちょっと子供らしくないなーっていう歌だからね。なんだったら、その旋律に好きな歌詞つけて違う歌にして歌っちゃうといいよ。たしか酒場の歌は、教会の歌や、船乗りの歌をアレンジしたものが多いから」
「教会の歌?」
首を傾げると、笑って頷かれる。
「そう。今度教会に聖歌を聴きに行こうか。とても綺麗だよ」
「あい!」
「そしてクラウドール卿のために歌ってね!」
「もちろん、たっぷり愛を込めて歌うのです!」
歌のお勉強は大好きだ。
ええ! ムヅカシーお勉強よりもずっと好きですとも!
あたし達はウフフアハハと笑いあいながら、そろそろいいカナと元居た部屋に帰還する。
最初の部屋から最後の部屋まで移動しちゃってたために(もちろん、最後の部屋は寝室だ)かなり長い距離となったが、まぁ、アルが落ち着く時間をかせぐには、ちょうどいいだろう。
そう思って帰還すると、そこには思いもよらない光景が広がっていた。
「……あれ? フェン……さん?」
険しい顔で立っているアディ姫と、驚いた顔をしているアルトリート。
そして、その前に立つ三名の美人メイド。
そのうちの一人は、いつもフェリ姫の傍らにいたフェンさんだ。
「妹姫様!」
フェンはあたしを見て、その美貌をくしゃくしゃにした。
必死に感情を抑えようとしているその瞳に、あたしは心臓が一気に冷えるのを感じた。
嫌な予感がした。すごく嫌な予感が。
「お義姉さまに、何かあったの!?」
直感は、かつて感じた嫌な予感に裏付けられている。
会場に入る前に別れたフェリ姫。
あの後ろ姿に、ひどく嫌な予感を覚えていた。
「妹姫様……姫様が、わたくし……姫様、が!」
必死に自分を落ち着かせようと努力し、けれどその努力が報われないままに彼女は叫んだ。
「姫様が……いなくなってしまわれたのです!!」