17 揺るがざる信念
大広間をこっそりと抜け出すと、そこは夜の静寂が支配する別世界だった。
「はふー……」
華やかな喧噪から離れ、あたしは安堵の息をつく。
「お疲れ様」
そんなあたしを笑って見下ろして、ケニードは周囲を見渡した。
廊下だった。
ただし、大祭初日にも出たことのある中庭側の廊下ではない。その反対側にある、王宮の奥へと続く廊下である。
本来、こういう所には衛兵さんとか警備兵さんとか、そーゆー見張り役がいるのだろーが、今回はいなかった。
理由は簡単で、その出入り口がちょうどあたし達がいた休憩所で塞がれているからである。
「……つーか、変な場所に作ってるなぁとは思ったがな……やっぱ奥の入り口前に設置してあったのか。……悪い連中が逆側から侵入してきたらどーするつもりだったんだ? こりゃ」
丁寧に扉を閉めたバルバロッサ卿が、周囲を見渡しながらそんな風にぼやく。
かなり広めにとられている廊下には、あたし達以外に人の姿は無い。
扉一枚隔てた向こうでは今も音楽が鳴り響いているというのに、こちら側はシンと静まりかえっていた。
「……なんか……神々の間にいるみてぇだな……」
閉めたばかりの扉を振り返り、バルバロッサ卿はボソッと呟いた。
その言葉にあたしとケニードは顔を見合わせる。
「『神々の間』ってゆーと、いっぱい神様の像が建ってるトコ?」
「『戦勝の間』とも『宣言の間』とも呼ばれている、大戦時代に英雄ナスティアが演説を行った『神託の間』ですか?」
あたし達の言葉に、熊男はのっそりと頷いた。
「おぅ、そこそこ。……なんっか、あそこの気配に似てるんだよな、ここ」
頭を掻きながらぼやくバルバロッサ卿に、あたしは首を傾げた。
「似てる? あたし、どっちかっていうと、あの神殿の空気はおじ様の屋敷と似てるよーな気がするけど」
「あ? あぁ、そりゃ似てるだろーさ。どっちも暁の賢者が作った場所だからな」
……暁の賢者サマが?
きょとんと首を傾げると、バルバロッサ卿は厳つい肩を竦めた。
「文献ではそうなってるんだよ。負傷者や魔物の脅威にさらされてるチビどもや、じっちゃんばっちゃんを保護するために、暁の賢者が魔力の高まりやすい場所に結界を張ったんだそーだ。英雄サマが演説ぶちかましたのも、そこが一番安全な場所だったからだな。で、レメクの家っつったら、その暁の賢者が住んでた所だろ?」
……なるほど。
「もともとは『聖霊の森』と呼ばれる場所を模してるらしいな。神々の間は、聖霊の森の祭壇。クラウドール邸は、聖霊の森の中にある集落の家。だから、どっちも似たような気配がするんだろーな」
「ふぅん……」
「……ただな、さっきケニードが言ってたろ? 『神々の間』のことを『神託の間』って。あそこはちょっと特殊でな……巫女の素質のある人間が、時々、本来知りうるはずのない知識や情報を得ることがあるんだよな。忘れさっちまってた昔の記憶や、未来の出来事なんかも読んじまったりするらしい」
ほぅほぅ。
初めて知った知識に、あたしはフンフンと興味深く頷いた。
なるほど、さすがは教皇サマがいる大神殿。神秘的なコトがイッパイつまっているようだ!
……て。ん?
ふと何かひっかかりを覚えて、あたしは一人首を傾げた。
……なんか今、ちょっとひっかかったぞ?
「そういう所なせいか、あそこの結界は他とはちょっと違う感じなんだよな。閉じてる、ってゆーより、浸食されてるっつーか……空間から体の中に何かが染みこんでるみたいな感じでな」
バルバロッサ卿の声に、あたしは慌てて頭を切り換えた。
思い出すのは、あの神殿の独特の空気だ。
何か目には見えないもので満たされていた『空間』。
確かに、あの場所にいる間、何かが満ちて、体に染みこんでくるような感じがした。
そう──まるで世界が染みこんでくるような……
「魔力に満ちた場所ってのは、得てしてそういう感じがするらしい。魔力ってのは世界に満ちた純粋な力だ。魔術が発動する時なんか、特に顕著に現れる。ひどいモンになると時々空間が歪んだりもするらしい」
(それって……)
その言葉に、あたしはチラッとケニードを見上げた。
彼の肩を治している時の、何とも言えない感覚。あの不思議な感覚は、なるほど、魔力とかゆーのが満ちていたせいだったのか。
……てことは、魔力って、何かの気配みたいな感じなんだな。
「……同様に、強烈に魔力の強い『何か』がいるときも、こーゆー感じになるらしい。……俺ァなんか、いやぁな予感がするぜ……」
なにやら微妙な顔になっている熊男に、あたしとケニードはまた顔を見合わせてしまった。あたしも微妙にチンプンカンプンなのだが、ケニードはそれこそサッパリ分からないという顔をしていた。
「……僕にはよくわかりませんが、そんなに特別な感じがするんですか?」
どうやら、彼にはそーゆーサワサワした感じがわからないらしい。
あたしは周囲を見渡して、ケニードの足をペチッと叩いた。
とりあえず、感覚以外でハッキリとわかる異様を教えよう!
「会場の音楽が消えちゃってるのです」
「ああ!」
はたと気づいて声をあげるケニード。
……今まで気づいてなかったんだろーか。彼は。
「そういえば、やたらと静かだなって思ったんだよね。……そっか。扉一枚隔てただけにしては、この静けさは異様だよねぇ」
……彼はなかなか暢気な人である。
とはいえ、少なくとも頭の回転は暢気じゃない。彼はすぐさまバルバロッサ卿に心配げな声をかけた。
「でも、それってどういうことなんでしょうね? ロードのような別格クラスじゃないとしても、神殿に匹敵するような魔力が満ちてるなんて、普通じゃないでしょう?」
「……そこなんだよな」
バルバロッサ卿は渋い顔。
ぶっとい腕を組んで、周囲を用心深く見渡した。
「俺も王宮には何年も足を運んでるがよ……こんな気配を王宮内で感じるのは久しぶりだ。陛下かレメクが傍にいりゃあ、もうちっと詳しくわかったんだろーがな……」
「? なんで二人がいれば、詳しくわかるの?」
あたしの素朴な疑問に、バルバロッサ卿は苦笑した。
「陛下にゃあ真実の紋章があるからな。レメクの場合は……あー……なんつーか、魔力系統の関係なら、たいていのものは読みとっちまえるつーか、まぁ、なんだ。そーゆー感じだからな」
なにか一生懸命言葉を濁しているバルバロッサ卿に、あたしは眉をひそめつつ足下ににじり寄った。
……よくわからんですよ? 熊さん。
「……オメェの旦那は器用だっつーこった」
よくわかった!
即座に力一杯頷き、あたしはムンと胸を張った。
「おじ様は大変キヨーなのです!」
「……違う意味では大変ブキヨーだけどな……」
一瞬だけチョイ遠い目をしてから、バルバロッサ卿はデカイ手であたしの頭をワシッと撫でた。
「ま。ロードがいる以上、下手なモンは王宮に入ってこれねぇだろーからな。もしかしたら、誰かが結界でも張ってるのかもしれねぇし。たいして気にすることもねェだろう」
そう言って、彼はワシワシとあたしの頭を撫でた。
……なんか、華奢な髪留めがちょっぴり悲鳴あげた気がするけど、まぁ、だいじょーぶだろう。……たぶん。
「さて。嬢ちゃん」
「むぉ?」
ちょっと首がもげそうなぐらいあたしをナデナデしてから、バルバロッサ卿はデカイ手をのけた。
「嬢ちゃんの鼻が頼りだ。いっちょ気合いいれて頼むぜ!」
「まかしといて!」
グッと親指をおっ立てたバルバロッサ卿に、あたしもグッとサムズアップ。
そうしてから、フンフンと鼻をひくつかせた。
ふんふんふん……ふんふんふん!
「……こっちなのです!」
ビカッと目を光らせ、左側に伸びる廊下の奥を指さすと、男二人から力のない拍手が。
「……本当に嗅ぎ分けるんだなァ……嬢ちゃん……」
「メリディス族の意外な特技を見ましたよネー」
……なんですか! そのちょっと夢壊れてガッカリみたいな顔は!!
失礼な男二人にペチッと一撃喰らわせてから、あたしは匂いのする方に駆けだした。
置いていってやるのです。
遅れたって知らないのです!
「おーい、嬢ちゃん。急ぐと転ぶぞおまえさんは」
「ベル。危ないよ。裾踏んで飛ぶよ」
余裕で追いついてきやがる大人が二人。
ぬぁああ! ドレスでさえなければ! 踵の高い靴でさえなければ!!
「つーか、嬢ちゃんは指示だけして、俺等が走ったほうがよさそーだがなぁ」
「そうですね」
短い足でがんばっているあたしに対し、男二人はなんとも気配りにかけたコトを言う。
「ほら、嬢ちゃん。こっち来い」
「いらないのです! あたしだって走るのです!」
「つーか、急ぐんだろうが。残念だがなぁ、嬢ちゃんの足だと、俺等にゃ駆け足程度なんだわ」
「……ごめんよ、ベル。ジョギングにしかなってないんだよ……」
かえすがえすも失礼な二人に、あたしはギラッと一瞥を喰らわし──
すっぽーんっ!
「「「…………」」」
ものの見事に裾踏んで飛んだのだった。
※ ※ ※
夜の王宮に足音が響く。
「次はどっちだ!?」
「右っぽい」
どたどたどた。
「次はどっちだ!?」
「左っぽい」
どたどたどた。
「次はどっちだ!?」
「真っ直ぐ直進」
「窓越えろと!?」
あたしの指示に、なぜかバルバロッサ卿が絶叫した。
夜の王宮、二階、どっかそのへん。
細かい場所は不明なれど、やたらと広大な城の一部には違いない。
あの大会場から出て以降、あたしの指示のもとえんえん城をかけずり回っているのだが、あたし達はいまだにアディ姫もアルも見つけることはできていなかった。
……どんだけ力一杯逃げたんだろーか。アルってば……
というか、これはもう、普通に迷子になってるとかゆーレベルじゃない迷走っぷりなのだが。
「なぁ、嬢ちゃんや」
体のちっこいあたしを腕の上に座らし、バルバロッサ卿が真っ直ぐ直進した先の窓辺で声を落とす。
「……ほんっっっとーに、窓越えた先から匂いがしてるのか?」
「うん」
その彼に向かって、あたしは力一杯頷いた。
匂いを辿って走るうち、いつのまにか二階にたどり着いていたあたし達。つまり、窓の外は何もない空間が広がっていて、地面までチョイ距離があるという状況だ。
……でもねぇ、ほんっっっとに、匂いこっちからしてるのよねー……
あたしは引きつった顔をしているバルバロッサ卿と、窓の外を覗き込んでいるケニードを見比べ、開け放たれたままの窓辺を指さした。
「そこにね、匂いがついてるの。でね、右にも左にも曲がってないらしくて、そっちからは匂いがしないの。だから、外に出たのは間違いないはずなの」
「……えらく元気な王弟殿下なんだな……」
まぁ、ふつー、二階の窓から飛び出したりはしないだろーけど。
「……というか、これ、足場がありますね」
窓から身を乗り出していたケニードが、窓枠に足をかけながらそう言った。
慌てて窓に駆け寄るあたし達の前で、彼はひょいと外に飛び出す。
「「あ!」」
あたし達は思わず声をあげてしまった。
が、ケニードの体は半分ほど沈んだところで、ピタッと落下を止めてしまう。
「ここに足場があるんですよ。バルバロッサ卿だとちょっと苦しい感じですけど、人一人通れるぐらいの足場ですよ」
「……て、こたぁ……そこを走って行ったと考えるのが妥当なのか……?」
釈然としない顔で窓をまたぎ、足下にある『足場』とやらを見てバルバロッサ卿は呻いた。
「……俺にゃあ、ちっと狭いな……」
……そりゃまー、こんだけデカイ体じゃーねぇ……
実際、ケニードが言う『足場』は、あたしぐらいのサイズなら余裕で通路がわりにできる広さだった。
細身のケニードやレメクだって平気で歩けちゃうだろう。
そもそも通路として作ってるわけじゃないんだろうから、バルバロッサ卿みたいな巨物の通行は想定外に違いない。
「よっぽど切羽詰まってなければ、こんなトコ通らないと思いますけどねぇ。……もしかして、追いかけたアデライーデ姫に気づいて逃げてたんでしょうか?」
非常にありえそーなことを言うケニードに、しかし、ケニードに続いて窓の外に出たバルバロッサ卿は「まさか」と言わんばかりの表情になった。
「……あのアデライーデ姫の隠行を見ぬくのか? 他国に嫁がれたナザゼル殿下ほどじゃないにしても、かなりの腕前のはずだぞ?」
おんぎょー、ってナンダロウか?
前にレメクも言ってたよーな気もするが、説明してくれないので意味がサッパリだ。
「俺等でもたまにだしぬかれちまうぐらいの腕前だっつーのに……新しい王弟殿下は、もしかして何かの修行でも受けてたっつーのか?」
ハテナを飛ばしているあたしを抱え直して、バルバロッサ卿は遠い目。
アディ姫に抱えられていったアルを思い出し、あたしは真顔で手を横に振った。
ナイナイ。それはナイ。
「アルにはそんなカッコイイスキル無いのです!」
「いや、えーと……その……そこまでヒドくはないと思うけど、まぁ、普通の技量じゃないですかね。特別鍛えてるって感じはしませんでしたから」
「じゃあ、あの特別鍛えまくってる姫さんの尾行にゃあ気づかねェんじゃねーか?」
不思議そうにぶっとい首を傾げる熊に、ケニードは軽く笑う。
「『龍眼』の持ち主なんですよ。今代の」
「『龍眼』!」
さらりと言われた言葉に、バルバロッサ卿がギョッと目を剥いた。
「ちょいと待て! 王家の血筋で『龍眼』て……! 何か? そいつは『真実の目』の持ち主ってことか!?」
「アデライーデ姫の言葉から推理すれば、そうなるんだと思います」
「な……っ!」
「彼女の『染めた金髪』を前にして、どこが金髪なんだ、と言ってましたから」
「やべぇじゃねーか!」
チョコチョコとカニ歩きで通路を移動しながら、バルバロッサ卿は血相を変えて叫んだ。
「あいつ、会っちまってんだろ!? 『真実の目』にゃ、紋章の目くらましだって通用しねぇってのに!」
それがどういう意味なのかはよくわからないが、バルバロッサ卿にとっては一大事であるらしかった。
そう──カニ歩きでさえなければ、先を行くケニードを締め上げてしまっていたかもしれない。
……声と顔は緊迫感あるのに、格好がどーにも緊迫感ないなぁ……
「落ち着いてください、バルバロッサ卿。彼は大丈夫ですから」
「って……なァ、おい……」
なにやら切羽詰まった顔をしているバルバロッサ卿に、ケニードは自信満々に笑って言った。
「本当に大丈夫なんですよ、バルバロッサ卿。会えばわかります。なんていうかね、すごい真っ直ぐな子なんですよ。ちょっとベルに似てる感じで」
「……あたし?」
突然話しをふられて、あたしはキョトンと首を傾げた。
ちなみに、ここで大きく動いたりしてはいけない。
そんなことをすれば、あたしを抱えてくれているバルバロッサ卿ごと地上に落っこちてしまいそうだからである。
「人の痛みを自分のことのように感じたり、相手のことで一喜一憂したり……なんていうんですかね、人の裏側に慣れてしまった僕らみたいな、そういう変な曲がり方をしてないんですよ。びっくりするぐらい真っ直ぐで……」
「…………」
「……だから、彼なら大丈夫だと思うんですよね。今はまだ公爵家との繋がりが切れてないから、どっちの陣営になるんだろうかって不安なとこもありますけど……」
「…………」
バルバロッサ卿はチョコチョコ移動しながら、深い深いため息をつく。
真横に進んでいく視界を見ながら、あたしはそんなため息を盛大に浴びた。
「……おまえさんがそこまで言うなら、そうなんだろうって信じたいけどな……」
「たぶん大丈夫だと思いますよ。直感で判断するベルも『よい子』と言ってるわけですし」
「……つーか、俺ぁ、あのレメクまで『よい子』とか言い出すとは思わなかったがな……」
はぁあ、という、さらに盛大なため息を頭に浴びて、あたしは小さな掌でバルバロッサ卿の腕を叩いた。
「なにを心配しているのかはわかんないけど、バルバロッサ卿は心配性なのです!」
「……けどなぁ、嬢ちゃんや……」
「会えばわかるのです! 会ったことないから、イロイロ不安に思うのですよ」
「そういうんだけじゃねェんだけどな……」
あたしの頭をワシッと撫でて、バルバロッサ卿はチョコチョコ横移動しながら嘆息をつく。
「……人ってのはな、状況やしがらみなんかで、いつだって簡単に人を裏切ったりするもんなんだ」
深い声でそう言って、バルバロッサ卿はふと遠い目になる。
──ここにはいない、誰かを見るような眼差しに。
「……いつだって、な……」
※ ※ ※
二階、窓の外側通路は、ある程度進むと行き止まりになっていた。
「……おーい、じょーちゃーん」
って、ああっ!
なんかバルバロッサ卿の視線が頭上からッ!!
「嘘なんかついてないわよ!? ほんっとーに、アルとアディ姫の匂いがするんだから!」
ビシビシッと匂いのする方向を指さし、あたしは頬を膨らます。
先に通路の行き止まりにまでたどり着いちゃってたケニードが、周囲を見渡しながら頭を掻いた。
「……まいったなぁ……、これ以上先に進むとなると、下に飛ばないといけないみたいですよ」
下に。
あたしとバルバロッサ卿は揃って足下を見下ろす。
地面までの距離は、あたしの体の何倍もある。
「腹ぁくくって、飛び降りるか?」
ひぃぃ……!!
「いや、一気にいかなくても、飛び石みたいに段階を踏んで降りれますよ、これ」
さすがにブルッたあたしに、ケニードは苦笑。
チョイチョイとケニードが指さす方向を見れば、なるほど、なにかの出入り口らしい場所の屋根とかが、イイ感じに段差になっていた。
「……あれを伝って降りたのか……」
ふんふんふん! ふんふんふんふんっ!
「アルの匂いがするのです!」
「……絶対、アデライーデ姫のことに気づいてますね。というか、どれだけ必死に逃げてるんでしょうかねぇ……これ」
そろそろと降りはじめしているケニードを見ながら、あたしは鼻をひくひくと動かす。
なかなか強めの匂いだ。
そろそろ追いつけるかもしれない!
「ゴールは近いとみた!」
「……それが本当ならいいんだがよ……」
順番を待って下りはじめたバルバロッサ卿は、あたしを頭の上に移動させながら呆れ顔だ。
「しっかし、逃げる殿下も殿下だが……追いかけてるアデライーデ姫もどーなんだろーなぁ」
「どう、って?」
あたしの問いに、バルバロッサ卿は肩をすくめる。
「あの姫さんの実力からすれば、追い抜いて取り押さえるなんざ簡単なこった。わざわざえんえん追いかけっこする必要なんざねェと思うんだがなぁ」
「……追いかけっこしたかったんじゃない?」
「……少なくとも、こういう時に、そーゆーオモシロイコトはしねェ姫なんだがな」
バルバロッサ卿の声に、あたしは目を瞠った。
……正直に言って、ちょっと意外だ。
常にオモシロイコトばっかりしてそーな姫に見えたのだが。
「あの姫さん、むちゃくちゃ頭がイイからな。遊んでいい時と、そうでない時の区別はきっちりつけてるんだ。……昔っからそーだったからな」
「……昔から?」
「あぁ、ちっこい時分……そうだな、今の嬢ちゃんぐらいの頃には、そこらの大人よりも遙かに分別があったな」
「ほぇ~……」
アディ姫の子供の頃を想像し、あたしはちょっと眉をひそめる。
……なにか、アヤシー器材を抱えてニヤリ笑いしてる姿しか想像つかなかった。
「その当時から、今みたいにケンキュー熱心だったの?」
「ケンキュー……? ……いや、つーか、すげぇ勤勉だったのは確かだけどな。あの頃は薬学や医術、それに魔術系統の勉強に没頭してたんじゃなかったっけかな」
「薬学とか、医術……?」
「おぉ。それも、王宮のトップクラスの連中に師事するぐらいのレベルだったな。……つっても、あの当時、まともに会話できるのがレメクや陛下ぐらいしかいなかったっぽいから、ほとんど独学だっただろーが……」
「……ほぇ?」
意味がわからずに、あたしは首を傾げた。
そんなあたしに、バルバロッサ卿は頭を掻く。
「うー……なんつーかな、あの姫さんとは、他の連中、会話にならねぇんだよ」
いくつかの段差を降りた先、地面への最後の関門の如き柱をずるずると滑り降りながら、巨熊は嘆息をつく。
「……ぁー……例えば、だな……会話ってぇやつの流れが、一から十までの段階であるとする」
熊の背中にしがみついた格好で、あたしは「ふんふん」と頷いた。
「普通は、一から十まで全部言うもんだ。時々、全部言わなくても相手がピンときて、飛び飛びで話しが進んじまうこともあるけどな」
「ふむふむ?」
「それが、あの姫さんの場合、一つ言えば十飛び越えて十一にまで話が進む。自分の家にオレンジの木があって、それがなかなか美味で、その様子を見ていた隣の家が同じ木を植えた、っていう状況の場合、『隣の家が木を植えました』つったら『オレンジが食べたかったのね』って、いきなりそこまで一気に話が飛ぶ」
おお? 中間の内容が無いぞ?
「たいていの噂や、相手の事情は全部頭の中に入ってるらしいからな。それで、最初の一言で会話の内容をはじき出しちまうらしい。その回転の速さに周りがついていけねぇんだよな。……なんつーか、まだ最初しか話してないのに『わかった』とか言われたら、普通は『はぁ!?』ってなるもんだからな」
「そ……それはそーかも……」
『龍眼』をあっさりと看過した時のことをを思い出して、あたしはちょっと眉を下げた。
ほんのわずかな情報と、直感。それだけで答えを導き出してしまうのだから、彼女はそーとー頭がイイのだ。
「レメクや陛下は、いきなり話が十も先に飛ぼうが、気にせずそのまま会話を進めていく。けど、普通の奴は違うだろ? 相手が理解してるかどうかは、ちゃんと語って、それを相手が聞いてるのを確認して、初めて『自分の話を理解してもらった』っつー認識になるわけだ。それがほとんど無い状態だったら、本当に理解しているのか、と疑う。……姫さんはそーゆーのが煩わしかったらしくてな。あんまり人と話さなかった」
「…………」
「……難しいもんだよな。姫さんを信じていれば、あぁ理解したのか、ですむ話なんだがな。なかなか、そうはいかないもんだ」
どん、と重い体を地面に降ろし、バルバロッサ卿は汚れのついた両手を叩く。
その背中からぴょんと飛び降りて、あたしはフンフンと鼻を鳴らした。
…………………おや?
「姫さんも一生懸命だったからなぁ。一生懸命すぎて、相手の心の機微になかなか気づけなかった。……そういう意味じゃあ、まだ子供だったしな。なんつっても、当時の姫さんはまだ九つかそこらだ」
ガシガシ頭を掻いて言うバルバロッサ卿に、あたしはソワソワと体を揺らす。
二階から降りて来た先は、巨大な円柱が並ぶ通路の端だった。
中庭と外庭を分けるような通路で、柱の一つ一つがかなり太い。
人間なんて軽く二、三人隠れちゃいそうな太さに、あたしはチラチラとバルバロッサ卿にアイコンタクトを送った。
が、それに気づかなかったのか、バルバロッサ卿は憂鬱げなため息をついて俯く。
「子供の時間ってのは、案外短いもんだ。俺もそうだったが……姫さんも、あんまり子供の時間を過ごせないままだったんじゃねェかな」
言って、彼はそのままあたしを見下ろした。
見上げた先にある巨熊の瞳は、ひどく深い色をしている。
「……嬢ちゃんを拾った時な、レメクがそれをやたらと気にしてたんだよな……。おまえさん、ちっこいナリのくせに、一生懸命背伸びしてただろ? 働かなきゃいけねぇって、そのことで頭いっぱいで」
「…………」
「あいつも、俺も……考えれば、ここにいる連中のほとんどが、子供らしい時間を過ごしてねぇんだ。だから、おまえさんを拾った時、せめておまえさんだけは子供の時間を大事にしてほしい、ってな……皆が思ったもんだ。実際におまえさんを拾ったレメクにとっちゃ、なおのことだったんだろうな……」
しみじみと言われて、あたしはジッとバルバロッサ卿を見上げた。
……あたしは覚えてる。
時を止めることはできないから、いつか必ず大人になるから、だから子供である今を大事にしてくれと言った人の瞳を。
「……バルバロッサ卿は、子供の時間無かったこと、後悔してるの?」
あたしの問いに、バルバロッサ卿は男臭い苦笑をこぼす。
夜に沈んでいる城を見上げ、その瞳に懐かしさを込めて、彼はゆっくりと首を横に振った。
「……後悔はねェな。最初はどうあれ、結局は俺が選んで進んできた道だ。……けど、少しだけ、ああすればよかった、こうしたかったっつって……思っちまうことがある」
「…………」
「……未練ってやつだな。過ぎちまったことに対して、『もしも』を並べたってどーにもならねェ。それがわかってても、ついつい思っちまうのが未練だ」
「……未練と後悔は違うの?」
あたしの素朴な疑問に、バルバロッサ卿は小さく笑った。
「どうだろーなぁ。俺ぁ違うと思うが、もしかするとたいした違いはねェのかもしれねぇな。……俺ぁ、もともと体が弱くてな、ガキの頃はひょろひょろのモヤシみてぇだった」
……………。
「どぇえええ!?」
思わずあげたあたしの声に、何故か男二人がギョッとなる。
「どういう声あげてんだ嬢ちゃん!」
「……ベル。今のはちょっと、女の子としてどーかと思うよ?」
「い、いや、だって! だってバルバロッサ卿って……!」
あたしは驚愕に目をひん剥いて、ドンと聳えるバルバロッサ卿を見上げた。
いつ見ても巨漢を通り越えて巨熊にしか見えないこの男が!
人間の大きさの限界にチャレンジしてるよーなこの男が!
ひょろひょろのモヤシだったって……!?
「……いや……なんつーか……今じゃあ、誰も信じてくれねェ話しだがよ」
ぼりぼりと頭を掻いて、バルバロッサ卿は口の端をひん曲げた。
「俺が神殿に放り込まれたのは、そもそもそのせいだからな」
「…………へ?」
「うちの家は、代々将軍職を賜るぐらい武術に力を入れてきた家だ。『我らは王国の盾であり剣である』っつーのがうちの家訓でな。将来将軍になって、国民を守るのが我が家の仕事だという家だった。……そんな中じゃあ、病弱でひょろひょろの俺はお呼びじゃなかったってわけだ」
「……そんな……」
皮肉げな微苦笑を浮かべて言うバルバロッサ卿に、あたしは呆然と立ちつくした。
……昔、思ったことがある。
こんなに立派な大男が、どうして大神官なんかやってるんだろうかと。
お家は偉い武人さんだというのに、どうしてそっちの道に進まなかったんだろうかと……
「……小せぇ頃はよ、悔しかったっつーか、情けなくてたまらなかったな。自分がいらない人間扱いされたような気がしてな」
見上げる先で、並はずれた大男はほろりと笑う。
「……けどよ、悪いことばっかりじゃなかった。いいやつとも知り合えたし、いろんなことを学べれた。それに、神殿ってのは治癒魔術の最先端を担ってやがる。生活も俺の体にあってたらしくてな、あっちにうつってから、少しずつ体も丈夫になっていった」
「…………」
「それを狙って俺を放り込んだのかもしれねぇ。……そう思えるまでにだいぶ時間はかかったけどよ。少なくとも、あの当時、がむしゃらに寝る間もおしんで自分を磨いたのは、間違いじゃなかったと思うぜ。楽しみの少ない、今思えば無駄だらけの子供時代だったけどな。……全部、ちゃんと活かされてる」
「……バルバロッサ卿」
あたしの声に、バルバロッサ卿は笑った。
いつもと同じ強くて男臭い笑みで。
「だからな、後悔ってぇのとはちっと違うんだろーと思うわけだ。なにかの拍子に思い返した時、どうにも虚しいような悲しいような、変な気分になることもあるけどよ。……あの時、俺を支えてたものを含めて、全部今の俺に必要だったものだからな」
だからこそ、それはきっと、本当の意味では唯の一つも無駄ではない。
……そして、だからこそ、『後悔』は無いのだ。
「揺るがざる信念をもって進めば、どんな道でも自ずと開かれる。そして進んだ先で振り返った時、後悔の無い道であったと思うことができるんだそうだ」
そう締めくくって、バルバロッサ卿は大きく息を吐いた。
そうして、ゆっくりと太い円柱の向こうに視線を投じる。
ひどく静かな眼差しで。
「……姫さんらは、どうだい?」