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 4 レメクにとってのあたし

「●△×□○◎ーッ!!!」

 その時のあたしの絶叫は、彼の度肝を抜くものだったらしい。

 ギョッとしたまま二歩は下がったレメクに、あたしは文字通り飛びかかった。

「◎×△△ーッ!!」

「ま、待ちなさい! そして人の言葉を喋りなさい!! まずは落ち着くことです!」

 むしろレメクのほうが落ち着きを忘れている。体に張り付いたあたしをどうにかして剥がそうと、変な踊りをしていた。

「だいたい、あなたはさっきから何を壁を叩いて……ヒビ!?」

 うわ、珍しい!

 レメクの声が悲鳴レベルに跳ね上がった!!

 ……てゆか、ヒビ?

 あたしは壁を見た。壁に亀裂が入ってる!!

「手は無事ですか!?」

 どんだけ力入れて叩いたんだ、と普通ならつっこむだろう。

 しかし、レメクが最初にするのはあたしの体の心配だ。

 その瞬間、あたしの感情パラメーターが一気に振り切れた!

 ……なんていい人!!

(あの魔女には渡さんッ!!!)

 感激してさらに力一杯張り付いたあたしに、レメクは奇妙にくぐもったうめき声を上げて抵抗した。

 しかし、両手両足を使って張り付いているあたしを引きはがすのは、なかなか至難の業であるらしい。

 しばらくエッチラオッチラと変な踊りにしか見えない抵抗をしていたが、とうとう諦めたのか、あたしをそのままに近くの椅子にどっかと腰を下ろした。

 微妙にぐったり。

「……ベル……」

「…………」

「落ち着いたら、とりあえず手を診せてください」

 ……その瞬間に逃げられそうな気がする。

 あたしは(ぎゅー)と心持ち力を強くした。

 レメクが深い嘆息をつく。

「……私はここにいますから」

 心読まれた!?

 思わずビクッとなったあたしの背を、レメクの大きな手がぽんと叩く。

 声帯の震えが伝わりそうなほど近くから、低く穏やかな声が聞こえた。

「そんなにしなくても、どこにも行きはしませんよ。……それにしても、あなたは本当に不思議な人ですね」

 ふと苦笑めいた気配がして、あたしは小さく身じろぎした。

 すると当然、すがりつく力も緩む。けれどレメクは先の言葉通り、あたしから逃げたりはしなかった。

 それに安心して、あたしはレメクのほうを恐る恐る見る。

(……ぁ)

 そして一瞬、息を止めた。

 わずかに苦笑を浮かべたその顔は、決して優しい表情とはいえない。

 けれど、その目だけが違っていた。

 顔立ちも雰囲気も、人を寄せ付けない怜悧なものであるのに、その目だけは暖かく優しい色をしている。どこか懐かしく、胸の奥がポカポカするような色。

 あたしはその色の名前を知っていた。そう……まだ覚えている。

 もうずっと昔、母から向けられた暖かな温もり。

 ……愛情という名の色だ。

(……お、かあ、さん……)

 暖かい眼差しに昔を思い出しかけて、あたしはとっさに俯いた。

 ギュッとレメクの服を握る手に力を込める。頭を彼の胸に預けると、上等な布越しに落ち着いた鼓動が伝わってきた。

 何よりも確かな、生きている命の音。

(……暖かい……)

 ぴったりと張り付いたあたしに、レメクが小さく笑った。どこか気が抜けたような、そんな笑いだ。

「あなたは……本当に……」

 その後の言葉は、声にならなかった。ただ苦笑が深まった気配がする。

「どこかへ行こうと必死に出口を探して……逃げたいのかと思えば、見つけた途端こうして私にしがみついてくる。この矛盾はどういうことなんでしょう」

 大きな手があたしの頭の上に乗って、小動物を撫でるように頭を撫でる。不器用な手つきだったが、それがとても気持ちよかった。

 あたしは鼓動の音に耳をすませる。

 レメクの胸板は思ったよりもずっと厚くて広かった。こうしているとなんとも言えない安心感があって、それこそ親鳥に守られる雛の気持ちになる。

 温もりに微睡みそうになりながら、あたしはスンと匂いをかいだ。

 香の匂いだろうか?

 レメクからは、穏やかで優しい良い匂いがする。

 ふんふんと鼻をならすあたしに、レメクが苦笑を深めた。

「……まるで子猫のようですね」

 実際にそういう経験でもあるのか、その声はどことなく懐かしそうだ。

(……意外だわ)

 その様子に、あたしは思わず失礼なことを思う。

(絶対、小動物とか飼わなさそうなのに)

 けれど思い返せば、あたしへの態度もどこか子猫を扱うような……感じで……

 ……え……

 いや、ちょっと待て!

(……てゆか、あたし、猫!? 猫と同レベル!?)

 とっさに思いついたその事に、あたしは絶句した。あまりのことに体も硬直する。あたしが本物の猫なら、たぶん全身の毛が逆立っていただろう。

 というか、「保護物(メリディス族)確保」以上にショックだ!!

「……ね……猫じゃないもん!」

 抗議したあたしに、レメクが微妙な表情で答える。

「……えぇ」

 ……その声と顔と間はいったい何なのか!

「猫では無いんですけどね」

 どこか苦笑めいた声での呟き。

 一応は否定しているレメクなのだが、そんな態度すらどこか気むずかしい猫を相手にしている様だ。

 あたしの眦がつり上がる。

(あ……あんまりだわ……!!)

 あたしは断固抗議すべく息を吸い込んだ!

 しかし、

「……猫は壁にヒビ入れませんしね……」

 ううっ!

 痛いところをつかれて、とっさに言うべき言葉を放り投げた。

 反射的に視線を壁と正反対の方へと逃がしたのは、後ろめたさのためだ。

 壁に入った亀裂は、もう『ヒビ』とかいうレベルを超えている。あれは紛う事なき「亀裂」だ。

 ……というか、あたし、いったいどういう力の入れ方を……?

 子供のわりに力は強いほうだったが、怪力というほどではなかったはずだ。

 壁に亀裂を入れるほどの力というのは、どれぐらいのものなのか。

(お……おかしいわね)

 突然パワーアップするような何かが、あたしにあっただろうか?

 ……いや、まぁ、死にかけはしたが。

 それとも、問題は壁にあったり……とか?

(ま、まさかこの家、実はものすごくボロいとか!?)

「ベル」

 名前を呼ばれて、あたしは身じろぎした。

 ……わかってる。言わなくてはいけない言葉は、わかっている。

 自分がやった不始末ぐらいは、ちゃんと認めて償わないといけない。それはわかっているのだが、さっきの猫疑惑が胸中に渦巻いていて、あたしはとっさにその言葉を言えなかった。

 かわりに、もそもそと動いて体勢を微調整する。

 椅子に座ってるレメクに横抱きにされてる感じに動いて……居心地の良い場所を探す。いい感じに落ち着いく所に収まって、ぎゅっと抱きついた。

(…………)

 レメクは何も言わない。

 あたしも何も言えない。

 微妙な沈黙が流れる。あたしは鼻を小さく動かした。

 胸の奥が暖かくなるような、懐かしくて優しい良い匂い。規則正しい呼吸と、鼓動の音。一、二、三、四……六を数える前に、あたしは口を開いた。

「……ごめんなさい……」

 レメクの手が、「よくできました」と言うようにあたしの頭を撫でる。

 優しいその手に自分から頭をこすりつけて、あたしはもう一度彼の胸に頭を預けた。

 猫扱いはショックだが、自身の行動を振り返るとレメクに対して強く出られなかった。

 悪戯して粗相する子猫と、あたし。いったいどう違うというのだろう?

 被害が小さい分、レメクにとっては猫のほうがマシな気がする。

(……あの壁……直すとなったらいくらぐらいするんだろう?)

 動けば動くほど、借金がかさんでいる。その全額を考えるだけで気が遠くなりそうだ。

 けれど、レメクはそれについては一切何も言わなかった。

 かわりに、静かな声が呟くように言う。

「後で手を診せてください」

 あたしはただ、レメクに強くしがみついた。


   ※ ※ ※


 昔、人が他人に優しいのには、二通りあるのだと言われた。

 一つは、自分のために相手へ優しくするタイプ。

 もう一つは、相手自身のために相手へ優しくするタイプ。

 前者は自分本位や自己満足、後者は自己犠牲や偽善的奉仕と呼ばれていた。

 けれどあたしは、そんな簡単に言い分けられるもんじゃないと思った。

 だってそうだろう? 人の優しさは、そんなものじゃないはずだ。

 誰かが故意にその優しさに別の名前をつけて評価しても、優しい人自身の本質が変わるわけじゃない。

 孤児院で誰かが寄付に来るたびに、コソコソと交わされる矮小わいしょうな陰口。

 院長はお金を貰うときだけニコニコ笑って、相手が帰ると金額によっては相手をこき下ろしていた。

 孤児院にいる大人はたいていそんな人達で、彼らを見て育ったあたし達も、きっと、そんな大人になっていくのだろう。

 だって、そんな大人しか傍にいなかった。

 そんな大人しか、見本がいなかったのだ。

 だからこうして、暖かい手で頭を撫でられていても、ろくでもない考えが浮かんだりする。レメクの優しさは、どういった種類のものなんだろうか、とか。

(……そんなの、あたしが勝手に解釈するべきものじゃないのに……)

 ここは日だまりのように暖かくて心地よいのに、どうしてあたしの頭の中は真っ黒なんだろうか?

(……あぁ、違うわ……誰かのせいじゃないわ)

 孤児院の大人のせいとか、そんなのただの言い訳だ。

 きっと、あたし自身がこういう人間なんだ。

 だから、あんな大人達の考え方がしっくりと馴染んでしまう。

(……レメクの傍は、こんなに暖かくて気持ちいいのに……)

 自分とはまるで違っているのに。

 ここにいてすら、自分はやっぱり、こんな人間のままで……

「……ベル」

 ふと名前を呼ばれて、あたしはハッと顔を上げた。いつのまにか俯き加減になっていたらしい。

 思考に没頭しすぎていたのか、しっかりしがみついていたはずなのに、今はほとんど体に力が入っていなかった。レメクが立ち上がれば、そのままずり落ちてしまっていただろう。

 変なところでつきあいが良いのか、レメクも力の抜けたあたしを抱えたままだった。

 あれほど必死にあたしを引きはがそうとしていたのに、チャンス到来とは思わなかったらしい。

 レメクは飽きることなくあたしの頭を撫でていたが、たぶん頃合いを計っていたのだろう。

 あたしが顔を上げたのを見て、躊躇ためらいがちにあたしの手をとった。

「……痛みますか?」

 あたしは首を横に振った。

 壁にあんな亀裂を入れておきながら、あたしの手は腫れもしていない。……我ながらこの頑丈さが不気味だ。

 というか、あんな亀裂を入れたこと自体、未だに信じられないのだが。

(……あんな大きな亀裂が入ってるのに、音にも気づかなかったし……)

 そう、叩いてる最中のあたしは、全く気づかなかったのだ。

 あの魔女が通り抜けた時には無かったのだから、あたしが亀裂を入れたのは間違いないというのに。

(……ぅう……)

 なんとも言えない気持ちで俯くと、あたしの手を触診していたレメクが嘆息をついた。

「丈夫な手ですね。多少は赤くなってますが、腫れてませんし、骨にも異常は無いようです。……本当に痛むところは無いんですよね?」

 フニフニと指やら掌やらを触られて、痛いというより、どちらかと言えばくすぐったい。

 あたしは頷きながら、この手をどうやって取り戻そうかと思案した。

鬱血うっけつも無いようですが、一応、後で軟膏を塗っておきましょう。……ところで、ベル」

 口調が変わったのを感じて、あたしは手をそのままにレメクを見た。

 レメクの目が真っ直ぐにあたしを見ている。

「大事なことなので、きちんと聞いていただけますか?」

 よほど大事なことらしい。

 あたしは姿勢を正した。……人様の膝の上に乗って『姿勢を正す』も何もないのだが。

 心持ち背を伸ばしたあたしに、レメクは満足したように頷く。膝の上に乗ってるのは、別にいいようだ。

「あなたが外に出たがっていることは、その理由を含め、充分に理解しています。私も悪意あってあなたを閉じこめているわけではありませんから、あなたの体調が良くなったら、ちゃんと外に出してあげます。今は駄目だというだけで、ずっと閉じこめる気は無いんです」

 そう言って、レメクの手があたしの手を離した。

 とっさに、あたしは離れたレメクの手を掴んでしまう。

 理由はわからない。

 けれど、手放されるのは嫌だと思った。

 ……どうやって取り返そうか、思案したばかりだったのに。

 レメクはチラとあたしの手を見てから、微苦笑を浮かべて問うた。

「だから、今しばらくで結構です。このままで大人しくしていてくれませんか?」

 あたしは一瞬、答えを返せなかった。

 不器用な手が、そんなあたしの頭を撫でる。

「不自由をかけていることはわかっています。ですが、今はこれがあなたの身を守る最善なんです」

 ちょっと恐いぐらい怜悧な顔の中で、暖かいその瞳だけがレメクの本質を表していた。

 あたしは頷く。

 ……本当は、あたしにもわかっている。レメクの言うことのほうが正しいのだと。

 あたしはまだ小さな子供で、体調だって万全じゃない。見た目だけでもそれは判断できるだろう。今までの生活が悪かったせいで、陰干しにされた乾物ひものみたいな姿をしているのだから。

 この数日間寝たきりだったという事実もある。

 レメクの手厚い看護がなかったら、あたしはとっくにこの世からいなくなっていただろう。部屋で大人しくしてないといけないのは、至極当たり前のことだ。

 ただあたしが……あたしの気持ちが、今までの生活と違いすぎる『今』に慣れなくて、変な風に暴走しているだけで。

(でも……)

 でも、ちょっとだけ、

 ほんのちょっとだけ、ずるいと思う。

 こんな風に真っ直ぐに見つめられたら、あたしはもう諸手をあげて降参するしかない。

 どうやらあたしは、レメクの真っ直ぐな眼差しが弱点であるらしい。

 もごもごとまごついていたら、レメクがそんなあたしを見てちょっとだけ微笑った。綺麗な夜明け色の目が、穏やかに細まる。

(……あれ?)

 あたしは引っかかりを覚えてその目を見返した。

 ごく最近、どこかで似た色を見たような気がする。

(……どこで見たっけ……?)

 ぼんやりとした記憶をかき集める。

 けれどそれが明確な形になる前に、立ち上がろうとレメクが動いた。途端に記憶が霧散する。

「あ、あ、あ」

「何です? まだ抱っこがいるんですか?」

 抱っこ。

 いや、違うとも言い難いけど、よりによって『抱っこ』……

「……なんでそこで拗ねるんです」

 口を尖らせてしぶしぶ降りたあたしに、レメクが呆れ顔で言う。

 ……これだから乙女心のわからない男は……!!

 ジロリと睨みあげたが、鈍感な男がその理由に気づくはずがない。

 だが、その服が微妙に皺になっているを見て、とりあえず言おうと思っていた文句を引っ込めた。

 あたしにも『罪悪感』というものはあるのだ。

 ……たぶん、人並みよりちょっと小さめぐらいには。

「あぁ、そうです。ベル、一つ提案をよろしいですか?」

 ふと何かを思い出した顔で、レメクがあたしを見ながらそう言った。

 あたしは一瞬、きょとんとする。

「あなたの働き口のことです」

 思わず目を瞠った。

「前々からあなたが気にしているようでしたので、考えていたんです。あなたの体調が良くなってから、が前提ですが……これからしばらく、あなたを一族の森に連れて行くまでの間、私があなたを雇いましょう」

 まん丸になった目が落っこちるんじゃないかと思うぐらい、あたしは力一杯目を瞠った。

 そのあたしの前で、レメクは真面目な表情のままで言う。

「あなたは非常に活発で、なおかつ真面目な性格であるようです。奇抜な行動さえとらなければ、幼いながらも十分な働き手になると判断しました。細かな内容についてはおいおい調整をつけていきますが、それなりの報酬もお約束できます。いかがです?」

 いかがも何もなかった。

 あたしは返事の前にレメクに飛びついた。

 これで声が輝かなかったら嘘だろう。

「やるわよ! もちろん!!」


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