番外編【始まりの日】
第一回、番外編主人公選出人気投票第2位ケニードの話です。
主人公はベルではありませんので、お気をつけください。
この小説は、改稿後の第一話とリンクするよう設定されています。
ケニードとレメクが出会った十五年前の話です。
王都の北区と言えば、言わずと知れた富裕層の街である。
貴族、豪商、大神官など、その身分は様々であり、屋敷の様相もそれぞれに特色がある。
豪商の屋敷は全体に大きく角張っているものが多い。どっしりと力強く、どこか商館に似た雰囲気がある。庭は小さく、そこに厩舎と倉が入っているため、敷地内はぎっちりと詰まった感が強かった。外壁は厚く、高く聳えるような形が多い。
神官の家は他に比べると少なく、特別高い地位にいる者が数人、屋敷を構えているぐらいだ。建物は瀟洒なものが多く、大きさよりも外装の荘厳さに目を瞠るものがある。また、庭が大きいのも特徴だった。
貴族の屋敷は、そのほとんどが『領地持ち』の街屋敷だ。
建物は王宮の建築様式を模したものが多く、装飾の類も華美を極める。街壁や門に至るまで手の込んだ意匠を施す者が多かった。
そんな北区の一角に、贅を凝らした白亜の屋敷があった。
王宮を精一杯小振りにしたような建物は、近隣の屋敷の中では大きい部類に入る。庭は広く、厩舎や大きな倉の他に美しい花園を有していた。
屋敷の持ち主はケニード・リンクス・アザルト・フォン・アロック。
アロック男爵家の跡取り息子である。
※ ※ ※
ケニードの朝は一杯の紅茶から始まる。
朝、九時。
他の貴族ならば、未だ眠りを貪っている時刻である。
貴族であると同時に事業家でもあるアロック家では、よほどのことがない限り『昼まで眠る』ということは有り得ない。
今日も時計の針が九を指すよりも早く起き出し、見計らったように現れる執事の紅茶で、体に残る夢の余韻を押し流す。
喉を潤している間に部屋中のカーテンが開かれ、手際の良い女中頭が洗顔の用意を調える。顔を洗い、拭き終えた後には服を素早く着付けられた。その流れは淀みがなく、目覚めてから着付けが終わるまでの時間は十分にもならない。
屋敷でケニードの傍らに立つのは、幼少より面倒を見てくれている執事のリットだった。
今年で七十八を迎える体は小柄で、顔の皺は深く、その髪は燻した銀に染まっている。だがその背はしっかりと伸ばされており、立ち姿はある種の貫禄すら備えていた。
「工房より、注文の品が出来上がったとの連絡がございました。係の者に取りに行かせましたが、かまいませんでしたでしょうか?」
「うん。なんとか間に合ったみたいだね」
「はい。──それから、侯爵夫人がネックレスに合わせてイヤリングも新調したいと仰っているのですが」
「……それも夜会用だよね?」
「左様でございます」
若い主は渋い顔になった。
ケニードは男爵家の跡取りであるが、同時に王都屈指の宝飾店の店主だった。彼の作った意匠は洗練されたものが多く、身分を問わず多くの人々から支持されている。
多くの場合、客は店に並べられた品を購入するのだが、上流階級の貴婦人ともなるとそれだけでは満足できないらしい。多くの者が伝手を使って自分だけの品を作ってくれるよう頼みに来る。特に王宮の夜会が開かれる時期になると、日に十を超える依頼状が届くようになる。そうなると、抱えている職人のほとんどが不眠不休となる忙しさだった。
「レトの工房はもう手一杯だろうから……セズンの所はどうかな?」
侯爵が相手ともなると、そうそう依頼を断ることもできない。困り顔の主に、老執事はおっとりと首を横に振った。
「彼の本領が発揮されるのは腕輪類です。イヤリングはあまり得意ではなかったと記憶しております」
「ん~、でも、イヤリングが得意なのって、レトとベンネの所だよね。ベンネはこの前倒れちゃったし……いっそ僕が作ろうかな」
「恐れながら申し上げます。御主人様がお作りになると、今度は別の方々から苦情が参ります。安易にお作りになるのはおやめになったほうが良いかと存じますが」
「う~……」
情けない声を上げて、彼は天井を見上げた。
部屋を整え終えた女中頭が、そんな主を見て口元を綻ばせて退出する。
二人きりになったのを確かめてから、老執事は軽く苦笑して言った。
「ナット殿の工房が、昨日最後の仕事を仕上げ終えたと記憶しております。あちらの専門はネックレスですが、同じ意匠のイヤリングを拵えるのでしたら、問題ないかと。なにせ最後の仕事が、件のネックレスでしたから、ある意味一番相応しいでしょう」
「あ~、ナットがいたか。うん。彼に頼もう。寝てる所を叩き起こす形になっちゃうだろうけど……起きられるかな」
「起きますとも」
力強くリットは請け負った。その意は「起こしますとも」だ。
「じゃあ、早速連絡してくれるかな。料金はちょっと色つけるから、って言っておいて」
「かしこまりました」
「他に急ぎの用事はあるかな?」
「フォーゲル伯爵夫人から指輪のご依頼と、ルーベン伯爵夫人からネックレスのご依頼が来ております」
さらりと言われた言葉に、主は三秒ほど固まった。
「……やっぱり夜会用?」
「おそらく」
老執事は深々と頷く。ケニードは盛大なため息をついた。
「も~、なんで間際になってから連絡してくるかなぁ!」
「先日、ケール侯爵の夜会にお二方が招かれておいでだったのを確認しております。おそらく、その折りに御主人様を見つけられたのでございましょう」
ケニードもまた、その夜会に出席していたのだ。
「……時期を考えて欲しいよ。こんな間際で何作れって言うんだか。だいたい、なんで二人からそれぞれ注文が来るんだい!」
「お二方は常に競い合っておいででしたから」
主はどっぷりと深い嘆息をついた。
「さすがに無理だ。新作は断るよ。既製品で良いのがあれば、見繕いもできるけど……」
「では、試しにいくつか品をお持ちいたしましょう。ご希望に添うものがあれば、そこで商談させていただきます。お断りの文面は、陛下からの品を仕上げているため、でよろしいでしょうか?」
「そうだね。あと、先方の依頼で余力が無いと……あぁ、僕が手紙を書くから、それを届けてくれる? 一言断った方がいいだろうし」
「かしこまりました」
「……もうちょっと早く依頼してくれていたら、どうにかできたかもしれないのにね……」
背中を丸めながら椅子に座った主に、老執事は眦を和ませる。
そうして、戸口に帰って来た女中頭に目配せをした。
「御主人様。本日の朝食は、クラウドール様よりいただいた品です。先日のお礼にと早朝お持ちくださいましたので、ぜひ御主人様にご賞味いただきたく、朝食に取り入れましてございます。どうぞお楽しみください」
ケニードの顔が輝いたのは、言うまでもない。
「あぁ~、生き返るというか、幸せすぎて死ねるというか……!」
二人前はあった朝食を珍しくペロリと平らげ、食後の一服を経てはじめてケニードはそう口にした。
食器を片づける侍女達を見守ってから、リットは主の姿に小さく微笑む。
「さすがはクラウドール様です。うちの料理長もずいぶん唸っておりました」
「皆の分もくれたんだね」
「はい。我々の分はおろか、工房の者の分までくださいました。忙しいだろうからと、工房の方にわざわざ届けてくださったようでございます」
工房の反応が目に浮かぶようだ。
「そういえば、前にレトがあの人の装飾品を作りたいって騒いでたなぁ……」
「御主人様が先約してるから駄目だと押さえつけたのでございましたな」
「う。いや、その。だって彼の装飾品を作るのは僕の十年以上前からの使命なんだよ!」
「そうでしたな」
「うん。店に置いてある品だって、彼をイメージして作ったものばかりだし!」
それが売れに売れて今のアロック宝飾店があるのだから、クラウドール侯爵の存在は大きい。
「そういえば、最初に作った品もクラウドール様の装飾品でしたな」
「うん」
お代わりの紅茶を味わいながら、ケニードは目を細めた。思わず顔が綻んでしまうのは、その時の記憶を思い出してしまったからだ。
今でも時折夢に見る。
頼れる人のいなかった王宮で、毎日心細い思いをしながら働いていた日々のこと。まだ周りの温もりに気づかず、向けられる侮蔑と悪意に怯えていた時代に、静かな眼差しでこちらを見てくれた人──
「思えば、あれが始まりだったんだよね……」
それは、今から十五年も昔の話だった。
※ ※ ※
王宮という場所は、なによりも爵位がものを言う。
爵位とは本来、領地に与えられるものである。
単純に言えば、公爵領を治める者は公爵であり、伯爵領を治める者は伯爵となる。
領地は滅多に他者に譲渡されることがなく、そのためそこを治める一族が代々爵位を名乗ることになるのだ。
ケニードが将来継ぐことになる『男爵』も、男爵領であるバルツァーを治めているからである。
逆に、役職や功績に対して個人に与えられる爵位がある。
これは一族で保有することのできない爵位であり、領地を伴うものでは無い。
そのため、領地持ちの爵位と領地無しの爵位であれば、基本的には領地持ちの爵位の方が上位となる。
ただし、それも同じ爵位同士であればの話だ。
もともと、個人に対して爵位を与えるという行為は、それ自体が相手の優秀さを示している。すでに王宮内に確固たる場所を得ているということであり、王宮内の立場としてはそちらのほうが高い。ましてその爵位が『領地持ちの爵位』よりも上であるなら、どちらが上位であるかなど考えるまでもない。
そんな王宮にケニードが初めて足を踏みれたのは、彼が五つになる少し前のことだった。
父である男爵が何か大変素晴らしい功績を残し、それを称えられてのことだ。
当時はよくわからなかったが、その時、次期男爵のお披露目として彼は連れられて来たらしい。それまで男爵の何人もいる子供の一人でしかなかったケニードは、その日を経て初めて男爵家の跡取り息子になったのである。
それから七年。
今年十二になるケニードは、王宮を走り回っていた。
「ビットナー伯爵はおられますか!?」
練兵場に飛び込んできたひょろ長い少年に、近くで談笑していた何人から顔を向けた。いずれも練習を終えたばかりらしく、体から湯気が出そうなほど汗をかいている。
「おぅ、ちび男爵。伯爵ならさっきオレ等のケツぶっ叩いてから向こう行ったぞ」
「今頃、ダーミッシュ子爵の所じゃねぇか?」
「ばぁか、それならその前にダマー夫人の所だろーが」
「おお、来たのかあのご夫人。旦那のいねぇ間にまたしけこむのかよ!」
「どうせだ、一緒に混ざってこいよ! なぁに、大人の段階なんざ、一足早い程度で丁度いいんだ!」
げらげらと笑う声に、ケニードは困り顔で俯いた。思わず耳まで赤くなる。
「おいこら、冗談ばっか言うな。こっちはあっちの旦那と違って真面目な坊やだ」
「おお、クラナッハが坊主庇ったぞ。なんだ、宗旨替えか?」
「阿呆、こちとらあっちの旦那に借金があるんだ。息子に優しくすんのは当然だろうが」
実に堂々とそう言う偉丈夫に、周りの兵士達が腹を抱えて笑う。
ちなみに、あっちの旦那、とはケニードの父親のことだった。
「なぁ、ケニード。オレ等ぁダチだろ。ちっとあの旦那に言ってくれねぇか? あと三日ばかり待ってくれってよ!」
「よせよせ! 坊主に言っても無駄だろクラナッハ! 借金こさえたおめぇが悪いよ!」
笑い声が大きくなって、クラナッハが眉を怒らせる。ケニードはそろそろと足を後ろに下げた。
「えぇと、僕はその、お父様の事業には関わってないから……」
「あン!? 言ってくれりゃあいいんだよ! 言ってくれりゃあ! それっぐらいしてくれたっていいだろ? 使えねェなぁ!」
途端に喉の奥で声を濁らせるクラナッハに、ケニードはパッと走り出した。笑い声と怒鳴り声が追いかけて来たが、足音は聞こえない。仕事時間のうちはまだ安全だと、ケニードは危険区域から逃走した。
また『お使い』を頼まれた時、クラナッハに会わないよう気をつけるのは大変そうだが。
(あぁもう、なんでお父様も金貸し業に手を伸ばすんだか……!)
廊下を駆け、庭に出てから少年は大きく息をついた。
ダーミッシュ子爵のいる西館へは、廊下を駆けるより庭を突っ切った方が早い。国指定保護機関に官吏見習いとして雇われて以降、伝言役として王宮のあちこちを走ったケニードの頭には、使用人通路を含む様々な近道が入っていた。それらの半分は、先輩である官吏から教えられたものであり、残りの半分は自分で見つけた道だ。
「王宮って……借金してる人が、なんであんなに多いんだろう……」
弾んだ息を落ち着かせながら、ケニードは思わず独りごちる。
王宮に赴くたび、彼はいつも複数の人間にからまれていた。その大半は父親に借金をしている者で、身分は一般兵から侯爵までと幅広い。
クラナッハの父はケニードの父と同じく男爵の称号を得ている。だが、彼等の男爵位は土地ではなく個人に与えられたものだった。そのため、クラナッハ自身は貴族では無い。彼の階級は騎士だった。
「にしても、騎士団って規律が厳しいはずなんだけどな……なんで借金を作ることになったんだろ……?」
首を傾げて木々の脇を通り抜けた瞬間、ケニードはギョッとなって元いた場所に舞い戻った。しかし、遅かった。
「ぉお! アロック男爵の跡取り殿!!」
(ああ! 見つかってた!!)
大仰な喜び声に、ケニードは木の影で飛び上がった。クラナッハに続いて、またしても借金組との遭遇である。
「やぁそんな所に隠れないでくれよ、ケニード。ボクと君の仲じゃないか!」
近づいて来る声に逃げれないのは、相手が自分よりも身分の高い人間だからだ。まだ爵位こそ継いでいないが、オーフェルヴェック伯爵家の嫡男である。フレートという名のその青年が、ケニードは大の苦手だった。
そろそろと顔を出せば、相変わらず不気味なニヤニヤ笑いをはりつけた男が、取り巻きと一緒にこちらに向かっている。二十をいくつか過ぎたばかりの、外見だけなら貴族らしい風貌の青年だったが、服を着崩して歩く様は街のゴロツキとそう変わらなかった。
(最悪だ)
ケニードは悟った。逃げたほうがマシだと。
なにせ、取り巻きを引き連れた時の貴族ほど、質の悪いものはない。
彼はそう判断するや否や、脱兎の如く逃げ出した。
しかし、相手の方も動きが速い。
「逃がすな!」
「捕まえろ!」
なにかの獲物にされたらしく、猟犬さながらに取り巻き達が走って来る。ケニードの足は素早いが、なにしろまだ子供である。鍛え方の差もあって、あっという間に追いつかれてしまった。
「おい! 伯爵が止まれって言ってるだろ!」
未だ伯爵では無いはずだが、フレートは仲間内で伯爵と呼ばれているらしい。伸ばされた手を避け、足払いを飛んで避けながら、ケニードは近くの茂みに飛び込んだ。そこから一直線に走れば、高官が集うエリアに出られるのである。そこまで行けば、いかにフレートとその取り巻きといえど、下手な真似は出来ない。
そう思って勢いよく飛び込んだのだが、茂みに上着が引っかかってしまった。
「うわ!」
しまった、と思った時には勢いを殺されていた。どうやら一際太い枝に引っかかったらしい。後ろに引っ張られ、嫌な音がして上着が裂けたのを感じた。しかも、伸びてきた手がそれを鷲づかみにする!
「捕まえたぞ!」
勢いよく飛び込んできた男は、その勢いのままにケニードを押さえつけた。それがあまりにも強かったため、二人してもつれるように地面に転がる。したたかに頭を打ちつけて、ケニードはその痛さに思わず頭を抱えた。
「手間かけさせんなよ」
「伯爵~。押させましたぜ~」
次々に到着した取り巻きが、どこのゴロツキかと思うような声を上げる。押さえつけた男が馬乗りになり、体格差のあるケニードは這い出ることも出来なくなった。。
「あ~あ~、駄目じゃないか、マテュー。相手はボクの財布の紐を握ってる相手……の息子なんだぞ? 怪我なんて無いだろうなぁ?」
「ありませんよ。なぁ、ねェよなぁ?」
覗き込まれた顔には地面で擦れた跡があったが、そんなものはもちろん無視されている。打ちつけた後頭部の痛みに涙目になっていると、面白いオモチャを見るような目でフレートは笑った。
「なぁ、ケニード。なんで逃げたかなんて聞いたりはしないよ。ボクは親切だろ? 君だって、誰かから逃げたいと思うことはあるんだ。そう、ボクが君のお父上から逃げたいと思うようにだ」
押し殺した笑い声は、取り巻きの何人かから。フレートがアロック男爵にしている借金は、噂ではかなりの額になるという。その取り立てに、オーフェルヴェック伯爵が渋面をしているという噂も聞いていた。
「なぁ、ケニード。ボク達は親友じゃないか。君の父親にちょっと言ってくれないかな。たかが男爵のくせに、伯爵家の金をむしり取りに来るあの男にさ」
顔を横からのぞき込み、いけしゃあしゃあと言ってくる男に、ケニードは怒りが沸いてくるのを感じた。
彼自身、父親が金貸し業をしているのには嫌気がさしていた。こういった目にあいだしてからは、嫌悪を通り越して憎悪すら抱いていた。
だが、借りた側のこの厚顔さはいったい何だろうか。
こんな連中が金を借りていくから、金貸しなんていう商売が成り立ち、父のような商売人が生まれるのだ。そして自分のような被害者が出る。
(借りる方が悪いんじゃないか!)
そう言ってやりたかった。
だが、相手はどれほど愚かであれ、自分よりも遙かに目上の男である。言いたくても、口に出すことはできなかった。
だが、時に目は口よりもものを言う。
「……なにかな? その目は」
押さえつけたひ弱な獲物に、フレートが鼻を鳴らした。マテューの押さえつける力が強くなって、ケニードは息苦しさに咳き込んだ。
「おまえの父親はな、政にたいした貢献もしたことがないくせに、その間に金集めばかりしているろくでもない男だぞ。そのうえ、政で忙しく、物いりになった父上のような人間に金を貸して、そこからもうまい汁を得ようとするような輩だ。おまも人の子なら、恥を知るべきじゃないか?」
嘲笑を浮かべながら見下ろしてくる男に、ケニードは押し黙る。言い返したい言葉は山とあったが、言葉が通じないことは今までの経験からもわかっていた。言っても意味が無いのだ。
「おまけに、最近じゃあ年若い女に入れ込んで、その恋人を陥れて自分のものにしようとしているらしいじゃないか。なぁ、ケニード。来年には新しい妹か弟が……おい、何だ」
得意げに言いかけたフレートの声が、不満げに揺れた。彼の視線の先を追うと、押さえつけているマテュー以外の取り巻きが逃げ腰になっている。
「おまえら、なにやって……」
言いかけて、フレートが沈黙した。
それと同時、マテューの力が緩む。胸を圧迫する力が消えて、ケニードは大きく息を吸った。
「何をしておいでですか」
声が聞こえたのはその時だった。
マテューが慌てて背後を振り返る。声の主は、彼の後ろ側──茂みの方にいたのだ。
体をひねったマテューの影から、わずかに黒い外套が見えた。王宮で黒い外套を羽織れるのは、公、候、伯の三位のみだ。
「別に、なにも……おい、マテュー、どけ!」
苦い顔になったフレートが、半歩後ずさりながら声をあげた。大慌てでマテューが大きな体を退かし、それでようやくケニードは相手を見ることが出来た。
「…………!」
その瞬間、衝撃がきた。
一瞬、昔見た、美しい人を思い出してしまった。幼かった彼が味わったその時の衝撃と、今の衝撃はよく似ている。違うのは、相手の性別が同性なことぐらいだ。
(……なんて……)
美しい人だろうか。彼はそう思った。
王都でも稀な黒髪に、驚くほど整った顔立ち。
昔見た美しい王妃を除けば、おそらくケニードが今まで見てきた中で最も完璧に近い美貌だった。年は自分より少し上だろうか。すらりとした体は細く、にじみ出る気品が眩いほどだ。
「ちょっと、ふざけてた、だけだよ。なぁ、皆……そうだよな? ほら、追いかけっこぐらい、誰だってやるだろう?」
相手の格に押されてか、フレートが後退りながら言う。
その様をじっくりと眺めていた少年は、視線を地面に転がったままのケニードへと向けた。
(赤紫!)
その瞳の色に、ケニードは大きく目を瞠る。
様々な一族が集まる王都でも、そんな色の瞳は見たことがなかった。思わず魅入っていると、ふいと視線を逸らされる。
「いささか、乱暴であるように思われますが」
「いいんだよ!」
叫んだ後、相手の身分に思い至ったのか、フレートが顔をしかめる。すでにじりじりと逃走を始めている取り巻きに舌打ちをしながら、彼はケニードの方を一瞥した。
「……後でな」
その言葉に反応したのは、ケニードでは無かった。
そのまま去ろうとした男に、少年は目を細める。整った顔立ちなだけに、その表情はゾッとするほど冷たかった。
「オーフェルヴェック伯爵のご子息とお見受けしますが」
ギョッとなって振り返ったフレートは、そこで冷ややかな眼差しと相対して息を呑んだ。
「アロック男爵にリメオン金貨にして八十枚以上の借金がおありだとか。理由は賭博と聞き及んでおります。伯爵ご自身の政とは全く関係ない、ご自身の借金だったとも記憶しておりますが、違いましたでしょうか?」
男の顔が引きつり、ケニードの目が丸くなった。
「残念なことに、伯爵はともかく、貴方様ご自身が王宮において何らかの働きをしたという記録はありません。最近、何かの勲功をおたてでしたか? 無いのであれば、すでに保護官見習いとしていくつかの論文を纏めた方のほうが、遙かに政に貢献しておいでですが」
フレートの目がケニードを見つめ、ケニードはぽかんと少年を見上げた。
保護機関に身を置いて以来、時折上官から保護物の論文を任されることはあった。だが、それらは上官の名で提出されているはずだった。なのになぜ、この少年はこちらの内情を知っているかのようなことを口にするのだろうか。
「最後に申し上げておきます」
そんな二人の様子には構わず、少年は淡々と言葉を続けた。
おそらく、フレートにとっては最終通告となる言葉を。
「王宮で、あなたの伺候を許可している者はおりません。そちらのお三方におかれましても同じくです。伯爵の名で登城されておいでのようですが、伯爵はそのような真似を許してはいないと、先日会議で仰っておいででした。あなたの行いは、すでに王宮中に知れ渡っています。そして今のあなたは、不法侵入者です」
「な……ッ!」
「大人しく、指示に従ったほうが賢明かと思われますが」
顔に血を昇らせた相手の気勢を上げた片手で削いでから、彼はチラと違う場所に視線を走らせた。それはケニードが逃げようと思っていた方向であり、見ればそちらからパラパラと複数の兵士が駆けつけている。
その向こう、建物側に数人固まっている人影は、こちらを指さして何か言っているようだった。衣服の色合いを見るに、高官だろう。どうやら、向こうからこちらは丸見えで、それなりに目立っていたようだ。
「……逃げれば、その分印象が悪くなると思いますが」
唖然としてケニードがそちらを見ている間に、フレート達は逃げ出したらしい。その後ろ姿に向かって小さく呟いてから、少年は転がったままの相手へと向き直った。
「立てますか?」
そう言って差し出された手は、驚くほど優雅なものだった。なんとなく掌に汗をかきながら、ケニードはその手に捕まる。容貌に反して、その掌は意外なほど硬かった。
「使いの途中であったとお見受けいたしますが」
立ち上がったケニードに、少年はもう片方の手を差し出した。そこにあったのは、彼が上官に届けようと握っていた書簡だった。
「あ、あー!」
「踏まれてしまっているようです」
見ればくっきりと足跡がついていた。どうやら逃げる途中で落としてしまったらしい。わずかな破れ目も見えて、ケニードはがっくりと肩を落とした。
「誰をお捜しですか?」
問われて、彼は力無く「ビットナー伯爵」と口にした。
「伯爵でしたら、ちょうどあそこにおられます。説明する手間が省けましたね」
少年が指さす方向では、未だ野次馬よろしくこちらを見ている高官の人影が。
「……あ、あんな所に……!」
ケニードは安堵するやら腹が立つやらやら、なんとも言えない気分を味わった。やっと書簡を渡せれるという気持ちと、彼がもっと捜しやすい場所にいてくれればこんな事には、という気持ちが半々だ。
肩を落として盛大に息を吐くケニードに、少年は静かに一礼をした。
「それでは、これで失礼させていただきます」
「待って……!」
あっさりと踵を返す相手に、ケニードは咄嗟に手を伸ばした。相手の二の腕あたりをしっかりと両手で掴む。
「あのっ、あり、がとう! 助かりました!」
「……はい」
「お名前は!?」
勢い込んで尋ねると、静かな表情のままで「レメクと申します」と答えられた。
(『レメク』)
ケニードはしっかりと心に刻みつけた。
その間に到着した兵達が、なにかものすごく奇怪なものを見る視線で二人を見比べ、レメクの目配せで走り去る。その腕を力一杯掴んだまま、ケニードは必死に考えていた。何を考えていたかというと、会話の糸口だ。
しかし、なぜか何も思いつかない。焦りばかりがどんどん募り、相手が口を開きかけた瞬間、遮る勢いで叫んでいた。
「好きなものは何ですか!?」
この顛末を聞いて、ビットナー伯爵は爆笑した。
「いやァさすがケニード君! もう、しばらく夜会の話題は君で決まりだよ!」
恰幅のいい伯爵の横で、縦に長いダーミッシュ子爵も笑いを噛み殺している。
「あのステファン老のご子息に、そういう問いをする人間は初めてだなぁ……ぶくっ」
噛み殺しきれなかったらしい。
さすがにぶすくれた表情で立っている少年に、二人は思う存分笑ってから労うように肩を叩いた。
「まぁ、なんだ。良かったじゃないか。通りかかったのが『彼』で」
「全くだ。『彼』に見つかった限り、あの連中もただでは済まないだろう。今までのこともあるし、下手をすると廃嫡だな」
「廃嫡!?」
その言葉に、ケニードは驚いて声をあげた。慌てて口を噤むと、目上の二人はにやにやと笑み崩れる。
「うん。ケニード君は相変わらず優しいな」
「痛めつけてきた相手でも同情するのかね? 彼等の所行を考えれば、同情には値しないと思うが」
「いやいや、子爵。これがうちのケニード君なのだよ。まだ十二……いや、十一だったか。将来が楽しみだと思わないかね?」
「保護官としては申し分ないが、間違っても兵士や騎士にはならぬほうが良いな。しかし十一……クラウドール侯爵は十六だったはずだが……」
「遠目にはさほど変わらぬ年のように見えたけど、確かそれぐらいの年齢だったはずだよ」
「侯爵がお若いのか、ケニード君の発育がいいのか……」
「両方じゃないかね? ケニード君は、十一にしては背が高いよ。うちの倅より高いぐらいだ」
伯爵の長男は今年で十五になる。ニョキニョキ伸びているケニードと違い、彼の子供はおっとりとしか成長していないらしい。
「成長は人それぞれだからねぇ……伯爵のご子息は、保護官にはならないのでしたかな?」
「あやつは近衛に入りたいそうなのだよ、子爵。そんな仕事より、保護官の方がよっぽど充実していると思うのだが……」
「女王陛下が美しすぎるのがいけないのですよ、伯爵。あの美しさには私どもですら胸が騒ぎますからな」
「これ、子爵。そのように言っては、ロードに何をされるかわかりませんぞ? なんでも、女王陛下に邪な思いを抱いた公爵が、毎晩悪夢にうなされるという呪いをかけられたとか……」
「ああ、レンフォード公爵でしたかな」
笑う二人の間に挟まれて、ケニードは居心地悪げに視線を彷徨わせた。身分の高い人々は総じて噂好きで、その噂は大半が色事に関してのことだった。
「おや、退屈かな、ケニード君」
「い、いえ。そういうわけでは」
「ちなみにクラウドール侯爵は何が好きと答えてくれたのかね?」
ずいと顔を近寄らせて問う伯爵に、少年は顔を引きつらせた。
「こ……侯爵?」
「そう。クラウドール侯爵。かの名宰相ステファン老の秘蔵っ子だよ。君も噂ぐらいは聞いているだろう? クラウドール公爵のご養子で、陛下の覚えも目出度い宮殿一の美少年! 見たかね、あの神秘的な紫の瞳! 噂では、どこかのご令嬢との間にステファン老がもうけたご子息では無いかということなんだが……いや、かのナイトロード卿が後見として立ったというからには、卿のご子息なのかもしれないな。なにしろ、あの美貌だ。ロードのような人外の美貌では無いが……とすると、下手をすれば我らが女王陛下のお血筋かもしれんよ?」
「伯爵、それこそ人に聞かれてはならぬ類の噂では無いかね。それに、陛下のご子息であるのなら互いの年が近すぎる。第一、陛下は王女殿下であられた頃からずっと、変わらず引き締まった腰をしておられるぞ? 膨らんでいたところなど、見たことがない」
「う~むむむ。それもそうであった……」
ずんずん話が逸れていっている二人に、ケニードは大きく瞬きをした。
「では、あの人が『断罪官』……ですか?」
大人二人は、ピタリと口を閉ざした。両者とも「しまったそうだった」という顔だ。
「うむ。そうなのだ、ケニード君。かの麗しき侯爵閣下は、世にも稀なる王国史上二人目の断罪官様なのだよ」
「陛下から直々に侯爵位を賜るほどのお方であったな」
「紋章術師としては最高峰の地位であるな。確か術師としては猊下の次……いや、陛下もいらっしゃるから、第三位か?」
「ステファン老がいらっしゃるではないかな?」
「いや、ステファン老は、ご自身の紋章をほとんど侯爵に引き継がせたのだそうだ。なんでも、優れた器を持っておられるそうで」
「なんとまぁ……では、それを考えれば第二位となる可能性もなきにしもあらず……」
またもや脱線していきはじめたが、さすがに伯爵は目的を忘れてはいなかったらしい。「で」と前置きをしてから、彼は年若い見習い保護官の肩を掴んだ。
「その侯爵閣下は、何が好きと答えてくださったのかな? ん?」
「は、伯爵……なんだか目が恐いんですけど……」
「いや、ははは。なに、別に賄賂など送ろうとは思っておらんよ? うん」
贈る気だ。
目を輝かせている伯爵と、こっそり目を煌めかせている子爵に、ケニードは困った顔になった。答えを期待されているのがわかる分、答えを告げにくい。
なぜなら、あの少年は彼の問いにこう答えたのだ。
決して変わらない、真っ直ぐなだけの──空虚な目で。
「何も無いのだそうです。──好きなものも、そうでないものも」
※ ※ ※
レメクと会った次の日から、ケニードの日常が変わった。
あの断罪官と私的な話をした、という噂は、あっという間に王宮中に広まったらしい。相手の特殊な役職もあって、王宮に赴くたびにからんできていた人々は、反対にケニードの視界から身を隠すようになった。下手にからんで告げ口をされては敵わないと思ったのだろう。
実際のところ、告げ口をするどころか、あれ以降会えてもいないのだが。
前よりも積極的に伝言役を引き受け、王宮に入るたびに目を更にようにしてケニードは相手を探した。しかし、さすがに仕事を放り出してまで探すわけにもいかず、結果として全く出会えないまま数日が過ぎていた。こうなると、意地でも会いたくなってくる。
「彼がいそうな場所……いそうな場所……」
噂で聞く出没地を少しずつ巡ってみるが、範囲が広すぎて影すら見つけられなかった。広大な王宮ではバッタリ出会える確率などほんのわずかなのだ。
裏庭、西館の屋上、東の庭の片隅、王宮の端っこ。少しずつ行ける範囲でチェックしていった場所に頭の中で印をつけながら、ケニードは密かに首を傾げていた。彼が『仕事』でうろつく場所は王宮の中枢なのだが、それ以外の目撃情報はいつも人気がない場所に集中しているのだ。あまり人付き合いが好きでは無さそうだとも聞いている。
三番目の候補地も見回った後で、彼は使用人通路に忍び込んだ。そろそろ職場に戻らないと、上の人々から怒られてしまう。ケニードが並々ならぬ意欲でレメクを探しているのは、すでに職場内では知れ渡っており、上官達も面白がって協力してくれている。だが、それで仕事が疎かになるのは褒められたことではなかった。
そのため、彼は一回の伝言で探す場所は三カ所のみと決めている。
行き帰りですでに三カ所調べ終わっている。あとは、近道をして職場に帰るだけだ。
足早に狭く暗い通路を駆けていたケニードは、向こうからも人が来るのを感じて慌てて壁際に身を寄せた。使用人通路は狭いため、真ん中を通ってはすれ違う時に邪魔になってしまうのだ。
だが、すれ違う寸前、相手の顔を見て足が真ん中へと戻った。さらに一歩を踏み出した!
「クラウドール侯爵!」
ぎゅむ、っと。
足が何かを踏んづけた。
「「…………」」
二人そろって下を見る。
年に似合わぬ大きな足が、見事に相手の足を踏んでいた。
「すみませんッ!!」
ケニードは文字通り飛び上がった。
出会い頭に足を踏まれた相手は、微動だにしない表情で淡々と五歳年下の少年を見ている。暗い通路ではあったが、これぐらい近ければなんとか互いの姿を把握できた。形から察するに、身長差と同じく、足の大きさもほとんど変わらないらしい。ただ、身長とは逆に足はケニードの方が大きかった。
「あ、あの! 改めて、お礼を……」
「結構です」
相手の返答はニベもない。
そのまますれ違って去ろうとする相手に、ケニードは慌てて手を伸ばした。伸ばした手が、とっさに外套を掴む。
「あの! あなたのおかげで痛ッ!?」
ビンッ、という音とほぼ同時、上から落ちてきた何かに手を刺されて、ケニードは慌てて腕を引っ込めた。カツン、という硬い音が狭い通路に響く。
「……留め具?」
通路に転がった物を見て、少年は小さく呟いた。白い手が、黒い塊にしか見えないそれを拾い上げる。間近に覗き込んだそれは、確かに外套の留め具だった。
「す……すみません……!」
壊れた留め具とズレ落ちた外套を抱える相手は、表情はおろか感情も動いていなさそうだったが、ケニードは真っ青になって謝った。お礼どころか相手の持ち物を壊してしまったのだ。どう謝ればいいのか、それすら思いつけない。
「……元々、留め金が壊れかけていましたから。お気になさらず」
「そういうわけにも……!」
「古い品です。壊れたのは寿命でしょう」
そう言って終わろうとする相手に、ケニードは必死に食い下がった。
「駄目です! 古い品なら、尚更大事でしょう!? 僕が直します! 直させてください!!」
「……直すのですか、これを」
「はい!」
力一杯の返答に、少年はしばし考える風だった。
手の中に持っていた留め具を見下ろし、小さな嘆息と同時に必死の顔をしているケニードに向き直る。
「では、お願いいたします」
「はいッ!!」
声と同時に渡された品を、ケニードは顔を輝かせて受け取る。
掌にすっぽり収まってしまうそれは、彼の手にはずっしりと重く感じられた。
「う~む……」
小さな留め具の前で、ビットナー伯爵が唸った。
「う~ん……」
伯爵と反対側から、ケニードも唸った。
二人の間にあるテーブルには、凝った意匠の留め具が置かれていた。半球体の貴石を銀で装飾した代物だ。幾重にも重なった羽根の意匠だが、その繊細さは目を瞠るものがある。
「……なぁ、ケニード君。確か君は、幼少の頃、名工と呼ばれたオーディルクに学んだことがあったんだったかな?」
「はぁ……一応、お弟子さん達に混じって、いろいろ教えてはいただきました」
ちなみに、工房に踏み入れた限り、師匠と呼ばなければ拳骨を飛ばしてくるような『師匠』だった。
「そうか。では、その作品はだいたい知っているのかな?」
「作風というか……そういったものは、知っています」
「うむ」
伯爵は頷き、テーブルの上の留め具を指さして問うた。
「で、君の見立てでは、コレは?」
「オーディルク師匠の作品です。留め具の部分は何度か直した痕があるので、表の部分だけ、ですけど」
「……ステファン老の持ち物なんだろうね~これ~。それを壊されたのに怒らないっていうのもすごいけど、ポンと渡しちゃうのが一番恐いな……ケニード君が盗むとか考えなかったんだろうかねぇ?」
さすがに嘆息をついた伯爵に、周りで戦々恐々二人の様子を見守っていた一同が声を上げる。
「盗まれても、追いかけて追いつめられるっていう自負じゃないですかね……?」
「相手がケニードだってわかってるわけだし」
「素性はハッキリしてるよな」
だが、言われたケニードはそうでは無いような気がした。あの表情を見るに、なんだか何もかも興味無さそうだった。
「……あの、伯爵」
「ん?」
じっと留め具を見つめたまま、彼は声を落とした。
伯爵は軽く首を傾げる。
「これを直すのに、お弟子さん達の所に行きたいんですが……少し、休みをもらってもかまいませんか?」
※ ※ ※
ケニードがもらった休みは、七日ほどだった。
当時一番弟子だった人には会えなかったが、仲の良かった弟子の何人かとは会うことができた。その中でも特に男性用の小物が得意だったセズンに頼み込み、工房の隅を貸してもらってちまちま直させてもらったのである。
もともと、父親である男爵の伝手で知り合ったオーディルクに、幼少時、一から叩き込まれた経験がある。長年腕を磨いているセズンには到底敵わないが、その技術はきちんとしたものだった。細かい修復作業程度なら、なんとかこなすこともできる。
それでも七日かかってしまったのは、ついでだから新しいのも作れと、半ば無理やりセズンに作らされたせいだった。工房を貸す駄賃だと言われれば、嫌だとも言えない。デッサンしたいくつかは貸し賃の一部として持っていかれたが、それは別に構わなかった。
問題は、出来上がった品があんまり満足できる品では無いことだ。
ケニードはどんよりと出来上がり品を見る。
一緒に見ていたセズンもどんよりしていた。
「……おまえさんはなぁ……なんでこんなの作れるくせに、男爵家の跡取りだったり、保護官見習いだったりするんだろうなぁ……」
どんよりの意味が百八十度違うのだが、ケニードは落ち込んだままだった。
「やっぱり、上手く作れないもんだよね……羽根は野暮ったいし、全体的にどっしりしすぎてるし、全然洗練されてないし……」
「……これで不満か?」
「だって、セズンのほうがずっと綺麗に作れるじゃないか」
「そこは当たり前だ。年季が違う」
一生懸命職人と張り合おうとする子供に、大きな拳をやんわりとお見舞いしてから、セズンは苦笑を深めた。
「不満なら、時々腕を磨きに来るんだな。少しずつでも上達すりゃあ、おまえさんの理想の形も作れるようになるだろうよ。……まぁ、また、銀細工を扱えるぐらいの資金が貯まれば、だが」
なけなしの給料から持って行かれた銀の代金に、ケニードの肩がさらにしょんぼりと落ち込む。金を使うことに異論ないのだが、それで出来上がった品がコレというのがガッカリなのだ。しばらく、立ち直れそうにない。
変なところで職人魂が発揮される少年に、セズンは苦笑を深めた。
その横から、かつて同じオーディルクに学んだ男が顔を覗かせる。
「そういや、坊ちゃん。おまえさんのスケベ親父なんだがな」
「え。また誰かひっかけたの?」
ふられた話題に嫌な記憶を呼び起こされて、ケニードはパッと顔を上げた。その反応に工房のあちこちから苦笑が零れる。アロック男爵の恋のお相手はあまりにも多すぎて、家族ですらその全容を把握しきれていないのだった。ケニードがオーディルクと誼を結ぶに至ったのも、当時オーディルクの後見人がアロック男爵だったためである。オーディルクは年経てなお美しい女性で、男爵は彼女が作る作品に惚れて彼女と面会し、作者本人に惚れてしまったのだった。
以来、病で亡くなるまでずっと、その縁は続いていたらしい。
「今度は誰? まさか、また職人さん?」
オーディルクに会いに行く合間に、近隣の美女達にもふらふらと寄って行っていた父親を見てきたケニードなだけに、この手の話題で傷つくような心は持ち合わせていなかった。もともと、父は重婚可能なケルティ族だ。パルム族だった母と違い、その恋愛には自由がありすぎる。
もっとも、そのおかげで、十数人いる妻が産んだ『数十人の子供のうちの一人』であるケニードが、男爵家の跡取りに収まっているのだが。
「それがなぁ、今回はちっとややこしそうでなぁ……」
「……珍しい。後腐れがないよう、そのあたりは気をつかってたのに」
「いやいや、あれは相手が悪いよ。おまけにライバルもいるもんだから、よけに盛り上がっちまったんだろうな」
「ああいうのも悪女って言うんだろうな。俺ぁあの女のための装飾品をいったい何個作らされたか……」
「一人はそれで借金までこさえたんだろ?」
「で、その借金の相手がアロック卿」
「……泥沼じゃねぇか。つーか罠かそれ?」
口々に言う男達に、ケニードはふと嫌な予感を覚えた。どこかで聞いた話だと思ったのだ。
「……ライバルってことは、女の人には恋人がいたの? それとも、どっちも片思い?」
「いやぁ……一応、片方は恋人……だよな? 少なくとも、二月前までは恋人だったぜ」
「その半月前は、別の男が恋人だったけどな」
「歌姫ってのはそういうもんなのかねぇ? なんか、とうとう別れたって話も聞いたけどよ」
さらに嫌な予感がしてきた。ここ数日王宮には行ってないが、その前の段階で、すでに『彼』の様子はおかしくなっていた。そういえば、『彼』はあのとき、借金を三日待ってくれと言っていなかっただろうか?
「……あの、さ。その相手の名前分かる?」
「ん? 女? それなら、ほれ、ミュージックホールの歌姫メリッサだ」
「いや、男の人の方」
ケニードの問いに、男達は顔を見合わせた。セズンが肩を竦めて言う。
「西区のクラナッハだよ」
ミュージックホールは、港区の中央よりやや西より、大きな通路と通路を結んだ場所にあった。
この地区が最も華やぐのは深夜で、人通りが多くなるもの夜が深まってからだった。
今は夕刻になったばかり。オレンジ色に染まった通りには、ほとんど人の姿が無かった。ミュージックホールの係員達も、夜の準備で忙しいのだろう。劇場はまだ固く閉ざされ、奥の方で大勢が足早に駆けている音が響いてきている。
(……いや、ここに来たって、どうしようもないんだけど……)
大きな建物を呆然と見上げながら、ケニードは途方に暮れていた。
あまりにも自由人な父親の恋愛は、まだ十二にもならないケニードには理解しがたいものだった。だがそれでも、いつも女性に対して礼を尽くそうとする姿勢には一目置いていた。そういう父だから、人に恨まれるような恋愛は極力避けるだろうと、勝手に思いこんでいたのだ。
だが、どうも今回は勝手が違う。
なにより、惚れた相手が悪かった。
歌姫メリッサと言えば、噂で聞くだけでも、父以上に恋多き人だ。
二人がともに笑って出会い、笑って別れられるようならそれでもいい。だが、わざわざ他に恋人がいる時期に出会って仲良くしなくてもいいじゃないかと思う。おまけに、その恋人が貢ぎ物のために借金を作るようになったら、もはや波乱は必須だろう。
どこか捨て鉢な声を上げていたクラナッハを思い出して、苦労性の子供はどんよりとしたため息をついた。自分の与り知らぬこととはいえ、気が重い。
うろうろと玄関前を徘徊し、ケニードは聳える劇場を見上げた。なんとか中に入って、歌姫と会えないだろうか。そう思ったが、さて会って何を話せばいいのか、まさか父と別れてくれと言うのか、その辺りでぐるぐると思考が回っている。
「どうしようかな……」
ケニードはしばらくその場をうろつき、肩を落としながら背を向けた所で、建物の中から凄まじい物音が聞こえてきた。
悲鳴と、何かが倒れて割れる音だ。
「!?」
ギョッとなってケニードは扉に張り付いた。途端、扉の片方が大きく開かれる!
「おい! 早く警備兵呼んで来い! 急げよ!!」
ちょうどケニードが張り付いた扉と反対側だったため、急ぎ足で駆け去る男の姿を間近で見ることになってしまった。よほど急いでいるのか、飛び出して行った男はこちらに気づかなかったようだ。
建物の中からは悲鳴と物音がまだ続いている。
そろそろと扉から中を覗き込むと、舞台衣装だろう服を片手に支配人が右往左往していた。
「早く! 誰でもいいから、あの男を止めてこい! メリッサに何かあったら、どうするつもりだ!」
裏返ったその声に、ケニードは飛び出した。音が聞こえる方へと駆けると、見知った怒鳴り声も聞こえてきた。走る見知らぬ少年に何人かが気づいたようだが、止められる勢いでは無い。階段を駆け上がり、開かれたままの部屋の一つに飛び込むと、下着姿かと思うような身なりの美女が、偉丈夫を相手に眦をつり上げて怒っていた。
「なぁにが女の優しさですってェ!? あたしに捨てられかけてた男が、なに素人女に引っかかってるのよ! ちょっと甘い言葉かけられたらコロッといちゃってさ! あたしに本気だったって!? そんなコロコロ転がる心が、本気なはずあるもんか!」
なにか、想像と違う光景だった。
思わずポカンと見守ったケニードの前で、美女から陶器をぶつけられかけながらクラナッハが怒鳴る。
「バカヤロウ! その本気を鼻であしらってオレを捨てたのがおまえだろうが!! わざわざ最後のケジメで別れを言いに来てやったってのに、なんだその言いぐさは! 言ってることとやってることが違うだろうが!」
「うるさいわね! あたしが男を捨てるのはいいけど、あたしが男に捨てられるのは良くないのよ!」
「なんつう勝手な言いぐさだ!」
全くだ、と何人かの男がウンウン頷いた。
「だいたい、こっちは借金のかわりにおまえさんを諦めさせられたんだ。同情されるべきなのはオレのほうだろうが!」
「ハッ! それぐらいしか金が無いのがあんたの限界なんじゃないか! だいたいね! 金で女を諦めたんなら、そんなさばさばした顔してんじゃないよ! もっとメソメソするか、意地汚くしがみつくぐらいはするもんだ!」
「だからどういう勝手な言いぐさだそりゃ! なんでオレがおまえの思う通りの行動をしなきゃならねぇんだよ!」
「ほとんどしてたじゃないか! 別れないでくれ~って! それがなんだい!? 一日二日でコロッと変わっちまいやがって!」
「おま……本気で性格悪いな……」
恋人だったのに、そういう面は今まで気づかずにいたらしい。唖然として見つめていたケニードだったが、この様子なら自分の出番なんて無いようだ、と踵を返した。
しかし、その動きがかえって衆目の中では目立ったようだ。
「あ! ケニード!」
(うわ見つかった!)
誰もが注目する中、一人背を向けたケニードは悪目立ちしてしまったのだ。早速声をあげたクラナッハに、ケニードは飛びあがって驚いた。
「いいとこに来た! おい! こいつの本性見たか!? おまえ、親父に言っておけよ!」
「はぁ!? なんでそんなガキが……あら……ちょっと可愛いじゃない」
「おまえ十以上年下のガキまで手ぇ伸ばす気か!? つーか、男爵の息子の顔も知らねぇのかよ!」
「アロック男爵の息子!?」
周囲から一斉に注目されて、ケニードは心の中で父親に必死に抗議した。
「うそっ。やだ、まだちっちゃいって聞いてたのに、嘘じゃない。背ぇ高いわよ、可愛いわよ。肌綺麗だわ~」
「え。うわ、ちょ……!?」
「男爵の息子ってことは、時期男爵よね。ねーぇ? 坊や。綺麗なおねぇさんは嫌い?」
「そいつはまだ十一だ!」
「じゅういちぃ!?」
すかさず近寄って肌を撫でてくる美女に、ケニードが逃げ腰になりクラナッハが真っ赤な顔で怒鳴った。実年齢に驚いて手を引く美女から逃れて、ケニードは扉にへばりつく。
そんな子供をジロジロと見つめてから、美女はニンマリと微笑んだ。
「ま。そこまで育ってれば問題ないわ。男爵より綺麗な男に育ちそうだし~?」
「おい支配人! そいつ保護しろ! 男爵家から抗議がくるぞ!」
「なにさ! あんたはもう関係無いんだから口出ししてんじゃないわよ! さっさと素人女の所にでも行けば!?」
「アー行かせてもらうぜおまえさんの本性も見れたことだしな! おい、ケニード! しっかり親父にこいつのこと言っておけよ!? ろくでもねぇぞ、こいつ。金つぎこむだけ無駄だ!」
「い、いやあの、僕はお父様の恋愛には興味ないから」
「はぁ!? だから、ただ言えばいいだけなのがなんッで出来ねぇんだよおめぇは! つっかえねぇなァ!」
「……それがものを頼む人間の言葉ですか」
ふいに横から聞こえてきた冷ややかな声に、ケニードはおろかその場の全員がギョッとなって声の主を見た。
「クラウドール卿ぉお!」
一番反応が劇的だったのはケニードだ。
顔を向けた瞬間には、すでに両手を広げて相手に抱きついている。全力で飛びついてきたケニードに、少年は眉一つ動かさず、変わらぬ無表情で相手をぶん投げた。
「ぉおおお」
ひょろ長い体が宙を飛ぶ。
そのまま綺麗な弧を描いて廊下の端に転がるのを横目に、レメクはわずかに乱れた服を叩いて直した。
「……失礼。身の危険を感じましたので」
「ひ……ひどい……」
その横にいた支配人が、投げ飛ばされたケニードを見ながら同情混じりに呟いた。
「あのぅ……我々が呼ばれたのは、喧嘩の仲裁……ですよね?」
支配人の後ろから、二人の兵士が恐る恐る進み出る。問いは本来支配人にするべきはずだが、彼等は黒髪の少年に問いかけていた。
少年は周囲を見渡して静かに頷く。
「そこの男女二人です」
「ちょっと待ってくれ! オレぁ兵士に取り押さえられるよーな事はしてねぇぞ!?」
「はぁ!? なに言ってんのよ! 騒動の原因は、そもそもあんたじゃないの!」
「バカヤロウ! それはおまえだろうが! ビン投げたり鏡叩き壊したり!」
その声に、ケニードは床に転がったままで遠い目になった。
あの派手な騒動の音は、美女が暴れた音だったらしい。
「だからその原因があんただって言ってんのよ! なにさ! 負け惜しみが言いたくて、のこのこ捨てられた女の所に来ちゃってさ!」
「なんだとこの……!」
またもや言い争いだす二人に、レメクは静かな目で周囲を見渡してから二人の兵士に目配せした。
兵士がいそいそと二人に近づき、鼻息の荒いクラナッハの方を捕獲する。
「な……おい! ちょっと待てよ! なんでオレの方だよ!?」
「あなたはこの劇場の部外者です。暴れていたのが関係者の方であれ、この場から退出するべきなのは、どう考えてもあなたでしょう」
「だけどなぁ……!」
「そちらの女性も、ショーが終われば係の者が迎えに行きます。少なくとも、起こした騒ぎの責任はとっていただきます」
「そ、そんなぁ……!」
甘えた悲鳴を上げながら、美女は悲しげにうなだれてみせた。その様はハッとするほど美しかったが、黒髪の少年は表情一つ変えずに支配人に向き直った。
「そちらの関係者がされたことのようですので、損害賠償などはお身内の中で片づけられた方がいいでしょう」
「は、はい……!」
「それと、近隣の方々からも最近の『歌姫』の所行に対し、苦情が寄せられています。何か事件が起こる前に、本人に注意を促すべきだと思いますが」
「え。えぇ……それはもう、もちろん」
冷や汗をダラダラと流す支配人は、おそらく、相手の身分を知っているのだろう。チラチラと黒い外套を見つめ、その留め具に暗いため息をつく。
青い貴石をあしらった金の留め具に、遠くで転がっていたケニードも飛び起きた。遠くて意匠は見えないが、あの取り合わせは上級紋章術師に下賜される物に似ている。下賜品であれば、青玉に金の鳳凰だ。
彼は慌てて外套の内ポケットを漁った。布に包まれた二つの留め具の感触に、転ぶようにしてレメクに駆け寄る。
「あ、あのっ! クラウドール卿!」
「あなたも退出なさい。何故ここに来ていますか」
「ぇえぇと」
氷りの一瞥をくらって、思わずそのまま足踏みした。一歩踏み出してきた相手に、ぴょんと後ろに飛ぶ。
「聞けばあれから数日、仕事を休まれているとか。時期が時期です。男爵の所行に対し、何らかの行動に出たのではと思っておりました。ここにいるところをみると、あながち間違ってはいなかったようですね」
「……や、休んだ理由は違うんですが……」
「ではそれは後ほど伺うとして、何故このような場所に来ていますか。あなたの年では来場はできないはずですが」
ミュージックホールに入れるのは、十三歳以上に限られている。雑用係として雇われるのならともかく、十一の子供がやすやすと入れる場所では無いのだ。
「男爵の身内であるあなたは、もう少し身辺を警戒しなくてはなりません。今はあなたも王宮に仕える身。ビットナー伯爵が次期保護官長とみなしている人物です。せめて街中では護衛をつけなさい」
感情のない目で言われて、ケニードはしおしおと肩を落とした。これが怒り口調なら案じてもらえたと喜べるのだが、少年の口調はあまりにも淡々としすぎていた。彼は事実を言っているだけなのだ。
それにしても、次期保護官長とはどういうことだろうか。ケニードは俯きながら首を傾げる。それはダーミッシュ子爵のはずなのだが。
「支配人。後始末はおまかせできますね?」
「は……はい! それはもう……!」
「では、我々はここで失礼いたします。あなた方は、クラナッハ殿を騎士団長の所に連行してください。処罰はあの方が下します」
「「はっ!」」
綺麗に敬礼した兵士の間で、クラナッハが絶望的な悲鳴を上げた。
少年は綺麗にそれを無視して歩き出す。ケニードとすれ違い様、一瞬だけ視線を向けて言った。
「行きますよ」
やはり淡々とした声だった。
外に出ると、すでに周囲は青に近い紫色に染まっていた。
「男爵には、あなたの現状を伝えてあります」
その薄暗い道を歩きながら、闇に溶けそうな少年は口を開く。起伏の乏しい声は、報告書の文字がそのまま音になったようだった。
「借金はする側のほうに問題があるとはいえ、苦境に立たされた者がどのような動きにでるのか、わかっていて放置するのは問題がありすぎます。街の商会からも陳情が届いておりました」
「……陳情、ですか?」
「男爵は商会に関わっておられません。それなのに、商売は手広くやっておられる。商売人にも暗黙の了解というものがあります。事業に乗り出す貴族もまた、彼等の取り決めを知る必要があるのです。人は誰しも、自分だけで生きているわけではないのですから」
「…………」
「あなたは将来、男爵の後を継がれます。今のままでは、その時受け継ぐ遺産の中に、他者の憎しみが混じることでしょう。金銭の貸し借りだけでなく、商業においてもまた、彼には敵が多すぎます」
例えば、と少年を声を落とした。
「値崩れをしないよう調整をしていた品を暴落させられたり、値を安くするために出していた品を買い占められて高値に跳ね上げられたり……民の生活水準と自分達の利益との間で調整していた金の動きを、男爵は幾度となくかき回しておいでです。一番問題となったのが、値を下げていた塩です。これに関しては、王宮内部でも問題の声があがっています。わざわざ商会に手を回して値を下げせたものを、男爵が横から手を出して暴利を貪ってしまったのですから」
寝耳に水の話に、ケニードの顔から一気に血の気が引いた。声もなく目を見開いた相手に、レメクはただ静かな眼差しを向ける。
「ご存じではありませんでしたか」
「知りま……せんでした。僕は、父の事業には関わっていないから……」
「知らなくてはなりません」
弱い声を切り捨てるように、怜悧な美貌が冷ややかに紡ぐ。
「例えあなた自身がその事業に関わっていなくても、あなたは紛れもなく男爵の息子であり、次期後継者です。彼の行いの全てはあなたの肩にものしかかってきます。子であり跡継ぎである以上、知らぬ存ぜぬは通りません」
ケニードは俯いた。頭から冷水を被せられたように、衝撃が寒気を伴って全身を浸していた。
(……お父様の……事業……)
今まで、関わりないものだと思っていた。
父は父だと。自分とは違うと。
──だが、それはどうだろうか?
そう思っているのは自分だけで、他人は誰もそうは思わないのだ。クラナッハやフレートだってそうだった。父親の行いは自分の行いも同じなのだ。
「例え自身の思いがどうであれ、その血を引き、その名を名乗り、その庇護において育つのならば、それ相応のものは背負わなくてはなりません。あなたは今まで、男爵の血筋として飢えることのない生活を送ってこられた。着る服も、身の回りの世話をする従僕も、王宮に士官できる境遇そのものも男爵の血筋であればこそです。その恩恵を受けた限りは、必ず果たさなくてはならない使命があります。それが子としての使命であり、人としての使命です」
与えられた恩恵には、相応の代価を。
「与えられるものを当然と受け取ってはなりません。また、受け継ぐものは良いものだけだと思ってもいけません。裕福であれば裕福であるだけ、そこには誰かの悪しき感情が交じっているのです。『継ぐ』のであれば、それら全てを理解し、受け止めなくてはなりません。そして『受け継ぐ者』は常に、それを念頭において、受動的にならぬよう努めなくてはならないのです」
「どの……ように?」
「あなたの場合は、金貸しを止めることが先決でしょう。最も恨みを買いやすく、憎しみが長引きやすい事業です。また、商会の規則を知り、男爵の事業が枠組みから外れないよう監理しなくてはなりません。今のあなたには難しいかもしれませんが……ダーミッシュ子爵に相談されれば、良い案を授けてくださるでしょう。彼はグスタ商会の重鎮です。男爵と話をする際、どのように誘導すれば良いかなどを教わるといいでしょう」
頷きながら、ケニードは掌に滲んでいた冷たい汗を服で拭いた。その顔にわずかに血の気の戻ったのを確認してから、少年は口を開いた。
「最後にものを言うのは、おそらく、男爵のあなたへの愛情でしょう」
「……それは期待できないと思う」
世の正論である言葉に、ケニードはほろ苦く笑って首を横に振った。
赤みがかった紫の瞳が、小さく瞬きをする。わずかに意志の宿ったその目は、話を促しているようだった。
ケニードは口を噤む。そうして、ため息を零すようにして言葉を零した。
「お父様の子供はいっぱいいるけど、男は僕一人だった。だから跡継ぎに据えられた。……それだけだから」
アロック家唯一の男児。
幼い頃、ただそれだけの理由で王宮に連れていかれた。あの時、もし他の『お母さん』達に男児が生まれていれば、その子供が後継者になっていただろう。
数十人も子供がいるのに、男児が一人しかいないというのは男爵家としては良かったのだろう。明確な線引きのおかげで、後継者争いが熾烈化することは回避された。
けれど、ケニードの母にとって、それが良いことであったのかどうかは分からない。
「僕のお母さんは、パルム族だったんだ。どこかの劇場で、ショーをしていた時に見初められたんだって。他のお母さん達より身分も低いし、パルム族は重婚も愛人も認めない一族だから、一族全体から存在否定されてる状態だし……そういう意味で、立場はすごく弱いんだ」
父親の『妻』の中には、伯爵の娘もいれば、富豪の娘もいた。
突然『跡継ぎの母』となった母親と、後継者に選ばれた子供に、彼女等が嫉妬しないはずがない。
「領地の本邸に行けば、どんな目にあわされるかわからない。うんと小さい頃に一回だけ連れて行かれたけど、食べ物を食べればかえって具合悪くなるような場所だったから、すぐに王都に逃げ帰っちゃった」
少年がわずかに目を細める。
気づかず、ケニードは俯いて自嘲した。
「本邸の記憶は、だからあんまり残ってないんだ。僕とお母さんは、王都の小さな家にずっといて……『お父様』に王宮に連れられて行ったあとは、無理やりまた領地に連れ帰られそうになったけど、死にたくないから嫌だって言ったら、今の街屋敷を作ってくれた。時々手紙はくるけど、そういえば、直に会ったのはその時が最後だったな……」
しみじみと思い出した過去に、ケニードは顔を歪めた。教育を執事に任せて、父親は領地の生活に戻って行った。母が死んだ時にも来なかった。そういえば、それだけの関係だったのだ。
「だから、お父様の事業にも関心なかった……お父様も、僕のことに関心は無いと思う。与えられた分野の勉強さえしていれば、それでいいみたい」
だから、愛情が決め手と言われれば苦笑するしかない。そんなものは無いと、心の底から思っているから。
「ですが、男爵は、少なくとも金貸しに関しては、手控えると明言されましたよ」
「……え?」
「あなたが襲われたという事は、彼にとっても衝撃だったようです」
「…………」
「それが愛情によるものなのかどうかは、私にはわかりません。そして、関与するべきことでもないと思っています。ですが少なくとも、どうでもよいと思われているわけでは無いようです」
客観的な意見ですが、と締めくくった少年に、ケニードはぽかんと口を開けた。何か熱のようなものがじわりと胸に染みたが、それが何なのかはよくわからなかった。
ただ、体の奥が暖かい。
「……そう……かな。でも、たぶん、深い意味ないと思うよ」
「そうですか」
「うん。お父様のことだから、他の跡継ぎ選ぶのが面倒だってだけだろし」
「あなたがそう思うのでしたら、そうなのでしょう」
「……うん」
「先程、あなたの屋敷に男爵の馬車が来ていたりもしましたが、あれもきっと意味が無いことなのでしょうね」
「…………」
さらりと言われた言葉に沈黙して、ケニードは口を引き結んだ。なにか、変な表情をしそうな気がしたのだ。
そんな年下の少年に、黒髪の少年は瞬きをする。形良い唇が動いて、淡々と言葉を紡いだ。
「嬉しい時には人は笑うのだと、義父は言っていましたが」
ケニードの顔がくしゃりと歪んだ。
笑い顔なのか泣き顔なのか、よくわからない表情だ。
「嬉しい、のかな、これ。よくわからないよ」
「口は笑っているようですが」
「笑ってる? そうかな?」
「口角が上に上がっていますので、笑っているのではないかと。……ところで、アロック卿」
ふと声の質が変わって、ケニードはふにゃふにゃな口元を引き締めた。
見返した相手の表情は変わらない。だが、その目を見た瞬間、湧き上がっていた暖かいものが急速に萎んでいくのを感じた。
「護衛をつけたほうが良いと、先程私が言ったのを記憶しておいでですか」
「え……うん」
「今はまだ、つけておられませんね?」
「うん」
ケニードは頷いた。
見つめる紫の瞳の中に、静かな炎のようなものが揺らいでいる。その色に、ざわざわと肌が粟立つのを感じた。少年が初めて目に宿した感情がなんなのか、ケニードにはわからなかったのだ。
どこか底冷えのする瞳のままで、少年はケニードを眺める。ほとんど身長差のない縦長の体は細く、訓練を受けた者の体躯では無かった。
「参考までにお聞きしますが、武術や剣術は習っておいでですか?」
「いや……えと、いえ、習ってないです」
「武器もお持ちではありませんね?」
「……はい」
少年は素早く腰から短剣を取り外す。装飾のない実用的な剣だった。
「これを持っていてください。無闇に抜かないように。誰かが抜き身の武器をもったまま向かってきたら、構えてくださって結構です。……走りますよ」
言うや否や、力強い手がケニードの腕を引っ張った。半ば引き倒される勢いでケニードは駆けはじめる。
「な……何!?」
「喋らない!」
初めて鋭く叱責された。それと同時、他に通行人もいなかった路地から慌ただしい足音が響いてくる。
ケニードは驚いたが、振り返ることはできなかった。問答無用で引っ張って行く力は強く、余計な動きをすればそのまま引き倒されて引きずられそうだったからだ。
だが、その力故に感じずにはいられなかった。
今は、暢気に問答をするような場合では無いのだと。
「……!」
ケニードは必死に足を動かした。フレートとその取り巻きに追われていた時以上に懸命だった。後ろから聞こえてくる足音は大きく荒く、数も多い。
「……逃げ切るのは無理ですね」
いくつかの路地を通りすぎた所で、少年が呟いた。ケニードは初めて周囲を見渡し、息を弾ませながら声をあげる。
「あのっ大通りっ行けば」
「塞がれてます」
素早く口をはさんで、彼は周囲を見渡した。ほとんど暗がりでしかない路地の一つに眼差しを細め、そこへと躊躇無く飛び込んで行く。
「あ……あのっ」
「命のやりとりを今までしたことは?」
「な……ない、ですっ」
細い路地を通り、奥へ奥へとひたすら走る。すると、前方に異様に高い壁が見えた。
行き止まりだ。
「な、そ、そんな……!?」
「壁に背を向けていなさい。その壁の向こうから敵が来ることはありません」
その壁際へとケニードを押しやって、少年は通路の中で立ち止まった。その手には何もない。
「あ、あの……っ」
「なんです」
こんな時でも静かな声に、ケニードは空気の塊を飲み込んだ。ぎょぐ、っと鳴った喉の痛みに、夢ではなく現実なのだと思い知る。
「なにが、どうなって……?」
「わかりません」
「わ……え!?」
「誰かがつけてきている。それも複数。そして殺気がある。これらは事実です。分からないのは理由です。狙いがあなたなのか、私なのか。二つに一つです。どちらが狙われていたのかがわかれば、理由がわかります」
「いや、あの……狙われるって、でも、それに殺気って……」
「私を邪魔だと思っている人は多いです。あなたの場合は、男爵の関連でしょう。言い忘れていましたが、オーフェルヴェック伯爵は、フレートを廃嫡することにしたようです。決定がくだされたのは三日前。時機的に、何かしてくるとすればここ数日であり、その相手は彼でしょう」
ケニードは頭が真っ白になるのを感じた。唐突に足から力が抜けて、そのままその場所にへたりこむ。
「私があの場にいたのは、男爵と、ビットナー伯爵、ダーミッシュ子爵にあなたの保護を頼まれたからです。この二日間、フレートの身柄を確保することはできませんでした。先程、ようやくよからぬ場所に出入りしていたと情報を掴んだのですが、あなたは登城されてない上に、あまり治安の良くない南区に行っていました」
静かな黒い背中をケニードはただ見上げる。
「次からは護衛をつけなさい」
路地の向こう側から音が聞こえてきた。追いつかれたのだ。子供でも並んで通れない狭さのため、走る速度が鈍っているのだろう。粗野な足音と聞こえ始めた怒号に、ケニードは青ざめた。
「……あ、あの、くら、くらら」
「……誰を呼んでいらっしゃるのか存じませんが、私ならばレメクかクラウドールです」
「あの、剣、剣は」
渡された短剣をガチガチいわせながら差し出すと、静かな目が一度だけ振り返った。震えているケニードと剣を見つめて、一言。
「それはあなたが使いなさい。この狭さなら、一体一です。突き刺して、引き抜いて、また突き刺せば倒れます」
恐ろしいことを言われて、彼の血の気は瞬く間に下がってしまった。白いその顔を一瞥してから、少年は見え始めた追っ手へと向き直る。
「しばらくすれば、『誰か』が動きます。それまで永らえていることが大事です」
「でも、あなたは……つ、強いんですか!?」
ケニードの目にも、少年の体ごしに追っ手の姿が見えた。自分達の二倍以上ありそうな男達だ。その手には、大ぶりのナイフが握られている。
「剣術とか、あの、この剣とか」
「その剣はあなたが使いなさいと言ったはずです」
言ってから、少年は無造作に一歩踏み出した。ケニードと違って震えることも、体を強ばらせることもない。
いつもと同じ淡々とした声で、彼はこう言った。
「残念ながら、私が習ったのは護身術だけです」
そうして、勢いよく突進してきた大男のナイフを、避けることなくその場で受けた。
「……な」
無意識に零れた声に、ケニードは気づかなかった。
少年の黒い背中が一歩分後ろに下がる。向かってきていた男の体勢から、ナイフを突き刺されたのだと思った。
だが、倒れたのは大男の方だった。
「……が、ご」
何が起こったのかよくわからなかった。彼の目には動きが見えなかったのだ。
突進してきていた男の体が傾ぐ。その喉には、少年に突き立てたはずのナイフが深々と刺さっていた。
───喉を貫かれたのだ。
「い……いぇああッ!」
気勢を削がれながら、二人目がナイフを振りかぶって襲いかかった。ケニードの目には、少年がその脇をすり抜けたように見えた。だが、ナイフを避け、すり抜けた時には、男の胸には深い一撃が刻まれている。
そうして、三人目に向き直る彼の手には、血に濡れたナイフが握られていた。
「……ぇ」
音をたてて倒れた二人目に、追っ手もさすがに足踏みをした。暗がりで表情が見えなくても、警戒と恐怖の気配は伝わってくる。ケニードは剣を胸に抱いて、闇に溶けそうな少年の輪郭を必死で追った。
レメクはただ、静かにそこに立っている。
「な……なんだ、こいつ!」
「護衛か」
「馬鹿な……ガキだぞ」
彼等に比べれば縦も横も厚みも無い相手だったが、だからこそいっそう不気味に思えたのだろう。瞬く間に二人を屠った腕は、とうてい普通のものでは無い。
動揺を見取って、レメクは無造作に声を放った。
「金貨を何枚摘まれた。百枚か。千枚か」
「……は?」
言われた言葉に、全員が唖然となった。その隙に、少年の体が動いた。
「な……!?」
「ごッ!」
「ぎっ」
連続して響いた鈍い音と悲鳴に、一人置いてきぼりになっているケニードは体を竦ませる。少年が動くたびに距離が離れていってしまうため、今の彼には暗がりの向こうから悲鳴や物音が聞こえるだけとなっていた。
壁に背中をこすりつけるようにして、震える足でなんとか立ち上がる。何もしていないのに呼吸が荒いのが、ひどくおかしく感じた。
「は……は」
荒い息がまるで野良犬の呼吸のようだ。必死に深呼吸を繰り返していると、ふと闇が揺らぐのを感じた。ぎょっとなって剣を構えると、それは少年の姿をとった。
「……あ」
今まで見たものが夢であったかのような、劇場で会った時と変わらない姿の少年だった。わずかに髪が乱れているものの、差違があるとすればその程度だ。いや、違う───
ケニードの目は、そのまま少年が持つナイフへと吸い込まれた。夜にそれとわかるほど濡れている刃は、青い銀色に黒い筋をいくつもつけている。
「……それでは誰も倒せませんよ。よくても打撲です」
少年のほうもケニードの剣を見て、相変わらずの口調でそう告げる。ケニードは自分が構えた鞘をつけたままの剣を見て、そのままへたりと座り込んだ。
その瞬間、
「伏せなさい!」
理解より早く、体が地面にくっついた。ドンッ! という音と同時、すぐ近くの地面に土埃がたつ。黒い大きな足が地面を躙るかのように一瞬動き、
「わ……わぁっ!」
大きく揺れて、ケニードの方に倒れかかった。
反射的にかいくぐるように隙間へと飛び退くと、いままでケニードがいた壁際に男が倒れ込む。その背には深々とナイフが食い込んでいた。
「……壁を越えて来ましたか」
その声だけは、今かで聞いた声の中で最も低く苦いものだった。
予想が外れたからだろうか。そう思ったが、見上げた視線の先にいたのは、ゾッとするほど冷ややかな顔をした少年だった。
先程までとは、あきらかに顔が違う。
ケニードは改めて最後に倒れた男を見た。不思議なことに、最後の一人だけは他の連中と服装が違っていた。反対側に倒れている男達は、粗末ながら町人らしい服を着ている。だが、最後の一人は全身黒ずくめだった。その手にもっているのも、湾曲した太短い刀だ。
「……クラウドール卿……」
「…………」
少年は答えない。ただ、空を見上げるようにして高い壁の向こう側を見ている。
「……いないようです」
しばらくしてから、彼はそう呟いた。武器を失った手をパンパンと軽く叩いて、汚れを落とすような仕草をする。ケニードは慌ててハンカチを差し出した。
「あ、あの、怪我、とかっ」
「ありません」
「……し、死んじゃったんですか、あの、全員……」
「最初と最後は。後は余裕がありましたので、気絶させています」
ケニードは足下にある遺体をそれぞれ見下ろした。寒気が足下から昇ってきたのは、今まで人の死というのを見たことが無かったからだ。
唐突に命を奪われる──そんな現状を目にしたことがなかったからだ。
無意識に震えだした唇が、ぽつりと言葉を零した。
「……護身術……です、か」
これが。
この、一撃で相手を殺す術が。
「護身術です。生き残るために、叩き込まれましたから」
息が止まった。
ケニードは大きく目を瞠る。
言われた言葉の意味を本能で理解したせいだった。
生きるために学んだ術が、人を一撃で殺す術だとすれば、その意味は一つだ。
──殺さなければ、殺される。
そんなやりとりが、普通に行われてきたというのだろうか? この、王都という大きな都市の中で。王宮の中枢にいるであろう、この少年の周りでは。
「……兵が来たようですね」
ふとざわめきに顔をあげて、少年が踵を返した。立ちつくしていたケニードは、弾かれたようにその後を追う。
「あのっ!」
しかし、その後の言葉を考えていない。
振り返った少年の目にそれに思い至ったケニードは、足踏みをしながら手を握りしめた。
気づいた。
「け、剣、ありりがととうございました!」
どもっていることにも気づかない。
「……いえ」
「留め具が!」
言われて、レメクは自分の留め具に視線を落とした。上級紋章術師を表す外套の留め具は、変わらずそこで輝いている。
「?」
そんな少年の前で、ケニードは上着に手をつっこみ、懐に入れてあった二つの包みを取り出した。二個の青い包みに、レメクは瞬きをする。
「壊してしまったやつです。直しました!」
「……分裂でもしましたか」
渡された二個を見て言う相手に、ケニードはわずかに震えている足を踏ん張って声をあげた。
「もう一個は、僕が作りました!」
少年の目がわずかに大きくなった。
「お礼を、言いたくて。あのときも、助けてもらって」
ありがとうと、言おうと思ったところで目から涙がこぼれ落ちた。おや? と頬に触れると、ぼろぼろと止まらず零れおちていく。
「あれ……?」
レメクはただ頷いた。
「ありがたく頂戴いたします。……無事で何よりです、アロック卿」
それは優しい声では無かった。
慰めでも、労りでも無かった。
肩を叩いてくれるようなことも、腕を擦ってくれるようなこともなかった。
それでも、今更ながらに押し寄せてきた恐怖と安堵には勝てず、ケニードはぼろぼろと泣きながら相手にすがりついた。
五歳年上の少年は、何も言わず、何もせず、ただ黙ってそれを受け止めた。
※ ※ ※
青天白日の空の下、なぜか野外に集まった国指定保護機関の面々は、それぞれの飲み物を片手に円座を組む。
「さて。それでは恒例の報告会といこうではないか! 諸君!!」
伯爵の声に、おう! と周りが声といっしょに握り拳を上げた。一人声を上げれなかったケニードは、よろよろと握り拳だけ持ち上げる。
ケニードにとっては一生分のハラハラドキドキから丸二日がたっていた。
あの後、彼は高熱を出して寝込んでしまったのだった。
周りからは『安心したせいだ』と判断され、暖かく見守られてしまったが、ケニードはそれだけでは無いと思っていた。多分、知恵熱とか他のいろんな熱もいっぱい混じってる。
「まずは第一。え~、保護対象にされたケニード・リンクス・アザルト・フォン・アロック卿についての報告」
「はい!?」
突然の指名に、ケニードは素っ頓狂な声を上げた。
周りが一斉に口を押さえて俯き、笑顔満面の子爵に飛び上がりかけたケニードが押さえつけられる。
伯爵は得意満面で書面を読みあげた。
「先だって保護を依頼され、第一の襲撃において身柄を確保した対象者ですが、このままでは第二、第三の襲撃があった時、心身に傷を負いかねないと判断いたしました。──うむ。その通りですな──故に、騎士団の何人かに護身術の手ほどきをしていただくよう、男爵ならびに騎士団長に話を通したところ、快く承諾をいただきましたのでご報告いたします。──おお、素早い──先述の襲撃の首謀者は、元オーフェルヴェック伯爵家嫡男フレートであり、現在、彼は身柄を拘束され、三日後の裁判にて裁かれる予定となっております。なお、事件よりも先に騒動を起こしていたクラナッハ殿とメリッサ殿に関しては、迷惑料として劇場関係者に謝罪といくばくかの金銭の支払いが命じられました。また、上記二名に関しましては、互いの感情と金銭のもつれゆえの事件であり、これ以降アロック卿に関わらない旨の誓約と、クラナッハ殿に関しては度重なる非礼に対する謝罪を文面にしたためさせましたので合わせてご報告いたします。──そういえば、かの歌姫は最近クラウドール卿に熱烈なアプローチをかけておるそうだな」
「まぁ、あの容姿と身分に惹かれない女はおるまいなぁ」
ぱくぱくと魚のように口を開け閉めしていたケニードは、暢気な伯爵と子爵の声に悲鳴をあげた。
「というか、その報告書、誰が書いたんですか!?」
「「「「「クラウドール卿」」」」」
全員の合唱がかえってきた。
ケニードはあんぐりと口を開けて固まる。
「いやぁ、あの御仁。なかなか洒落がきいておるぞ。んむ。実に柔軟な思考の持ち主だ。の? 子爵」
「いや、あれは普通に素だったと思うがね……なんと言ったか、最近では、そう、天然、と言うのではないのかな? ああいう御仁は」
「な、なんで、保護官じゃないあの人が、報告書を!?」
「そりゃあ、簡単だ。おまえさんを保護したのは誰だったかな?」
「「「「「クラウドール卿」」」」」
さらに合唱されて、ケニードは肩を落とした。
子爵がその肩をバシバシと叩く。
「やぁ、うちの人間が保護対象にされるとは前代未聞だ。ある意味記録だよ、これは」
「んふふ。さすがは次期保護官長だね。私の目に狂いはない!」
「だ……なんで次期保護官長なんですか! 子爵! 子爵でしょ!?」
「私は隠居したいなぁ……嫌だよ、上役になったら大好きなモンプリートちゃん達を保護しに行けないじゃないか」
モンプリートというのは、大人の握り拳ぐらいの大きさの疑似翼竜だった。その愛らしい姿で多くの人々を魅了する珍獣なのだが、それゆえに保護対象となるほどに数を減らしている。
「そこへいくと、ほら、君は大好きなのがメリディス族じゃないか。国の秘宝、麗しの一族! 国の中枢にくいこんだほうが保護しやすいヨ? 会いやすいヨ?」
「そ、それは嬉しいですけど、そういう大切な役割は、もっとずっと目上の人のほうが……!」
「あ~、俺ドラゴンラビットの保護したいからパス~」
「あたしもモンテンパリパリの保護したいから以下同文~」
「パスって言ったほうが早くないか? 俺も以下略」
一人が声をあげれば我も我もと続くパスコール。
唖然としたケニードの背を叩いて、子爵と伯爵が左右からひょろ長い体を挟み込んだ。
「うん。うちの部署はね。上に立ちたい人って全然いないのだこれが。困ってたんだよ~、皆、好きな対象にどっぷり浸かってたい人間ばっかりでさ~」
「我々も含めてネ!」
「もう、ケニード君が来てくれた時には嬉しくて嬉しくて。今は仮雇用で、見習いだけど、十三になったら正式雇用になるから。あとは時機をみて長になってくれればそれでいいから~」
「とりあえず、一方に偏らず、全体的に保護してるよーに動けば自動的に長に座がまわってくるからね。がんばって!」
ケニードは誓った。
絶対、長だけは回避しよう、と。
そんな少年の頭をくしゃくしゃに撫でて、伯爵はじんわりと笑みを浮かべた。
「まぁ、とりあえず、これからは私達もいっぱい手をかすから、君はもう少し我々を頼ることを覚えるようにね」
目を瞠ったケニードの頭を、逆方向から子爵もくしゃくしゃにする。
「男爵は王宮に来る気なさそうだけど、ここにはほら、私達がいるからね。もう少し、大人を頼ることを覚えなさい。お金は貸せないけど、知恵は貸せるからね」
周りを見れば、にこにこと微笑んでいる人々の笑顔にあう。
ケニードは口を引き結んだ。そうしないと、なにか変な顔をしそうだった。
ふと、夜の中で聞いた声を思い出す。
──嬉しい時には人は笑うのだと──
視界が歪んだ。俯いた時に、何か透明なものが零れおちた。
その髪がぐしゃぐしゃとかき混ぜられる。その手を暖かいと感じながら、寒々とした少年の表情を思い出した。
(……あの人は)
笑ったことがあるだろうか。
あんな術を、あんな風に無造作にふるうほど、命のやりとりを経験している彼は。
「あの、伯爵……」
「なんぞい?」
「クラウドール卿は……あの」
様々な疑問を胸に顔を上げると、一瞬だけ、驚くほど真剣な目をした伯爵がそこにいた。
(え)
だがその表情は、いつもの飄々とした顔に隠れてしまう。
「ふふん。クラウドール卿といえばな、この前から珍しい留め具をつけておいでなのだ」
「お! あの銀の留め具だな。あれ、うちの奥方も欲しがっておる」
「ぬふふ。我が愛しのご婦人もな、あの留め具のような髪飾りが欲しいと言うのだよ。実に優美でな。こう、なんとも美しくて。どこの作かと私はかの御仁に尋ねたのだよ」
ぬっと近寄ってきた顔に、ケニードはおもわず後退る。しかし、肩をつかまれていてはあまり効果がない。
「あの留め具、ケニード君が作ったそうだな?」
キラリと、伯爵の目が輝いた。
「裏はとっておる。そして注文したいというご婦人が数多くいる」
子爵の目も輝いた。
「クラウドール卿は歩く宣伝板みたいな御仁だ~、聞かれたら聞かれたことにだけ答えるから、情報の巡りが早い早い」
「ちなみに工房はどこかね? なに、意匠だけ紙に書いてくれれば、作ろうという工房もあるだろう。ちっと一つ二つ、作ってくれんかね。できればああいう優雅なやつがいいな。アメジストに翼。なかなか美しいじゃないか」
ぬぬっと近づけられた顔に、ケニードはひきつりながら声をあげた。
「あの……身につけて……ましたか?」
「うむ。よく似合っておった」
「ちと似合いすぎなぐらいだな」
「そ、そう……ですか」
ケニードは口を綻ばせる。今度は、引き結ぶことはできなかった。
くしゃくしゃになった顔で彼は笑う。確かに、嬉しいと人は笑うのだ。恐いことや、不思議なことや、気になることがいっぱいあっても。
こんなふうに簡単に、顔は素直に気持ちを表すのだ。
「使って……くれたんですか……」
それが、後に王都随一となる『宝飾技師』が誕生した瞬間だった。
※ ※ ※
「じゃあ、ケニードはおじ様に出会わなかったら、宝飾技師にならなかったのね?」
大きな目をさらに大きくした少女に、ケニードはにっこりと微笑んだ。
王都北区、クラウドール邸。
南側の大きなテラスで、二人は午後の紅茶を楽しんでいた。
かつて遠く感じたあの少年とは、今はこんなに足繁く通えるような仲になっている。その最大の理由である目の前の少女は、美しい金色の瞳を煌めかせて身をのりだした。
「じゃあ、今もおじ様持ってるの? その、ケニードの最初の作品!」
「ん~、どうかなぁ……あれ以降、時々こっそりいろんなもの贈ってたから、あれつけてるの見たことないし……」
遠い目になった青年に、幼い少女はティーカップに噛みつきながら上目遣いになる。
「……そういや、ケニード、おじ様のもの、こっそり盗んじゃ新しいのと取り替えてたんだって……?」
「う」
ちょっぴり非難を込めたその目に、ケニードはそっと視線を外した。
あの後、子供だったケニードと少年だったレメクが仲良くなったかといえば、そうでもない。
相変わらずレメクはそっけなく、ケニードはいつだって空回りだった。なんだかがんばればがんばるほど裏目に出ていたようだと、最近になってようやく思い知ったほどだ。
彼があの時の少年と仲良くなれたのは、目の前にいる、この小さな少女が現れてからだ。
「いや、だってね、彼、自分のことに頓着しないじゃないか。見栄えいいから、できれば最高の状態でいつもいてほしいと思うけど、なんというか……うーん、放っておくと、すごいボロのペンでも使ってそうで……」
「……それはわかるわ。服とかはちゃんとするけど、ある一定のもの以外は、すごい頓着しないよね……」
二人は知っている。レメクという男が、意外とあちこちで手を抜いていることを。
「外見で騙されるよね。すごい完璧そうに見えるから」
「そうそう。なんでも知ってそうに見えるんだよね。常識とか非常識とか」
「そんでもって、すごい細かそうに見えるのよね。まぁ、ある一定までは細かいんだけど」
「そうそう。でも見た目は『全てに』細かそうに見えるんだよね。ある一定区域から外れたらそうでもないんだけど、そこんところは普通の人には見えないから」
例えば、使用してない部屋とか、身だしなみ以外の小物とか。
「もう、見つける度に取り替えて取り替えて……でも、ほら、大事なものだったらいけないから、こっそり手紙とかはさんで、直しておくから必要なものでしたら取り返しに来てくださいって……でも一度も来てくれなくてさ……」
しょんぼり。
「あんまり大事じゃなかったんじゃない?」
「いや、でもさ、普通、古いものって大事にしてるって思うじゃないか。もしステファン老の形見だったりしたら、やっぱり嫌だろ? 持って行かれちゃうの。だから、原型をとどめて、壊れた部分だけ補修して……いつでも返せるように宝物倉の中に奉ってあるんだ」
「……奉ってるんだ……」
「うん。日付いれて、奉ってある」
「……日付つき……」
少女ががっくりと肩を落とした。しかし、次の瞬間には、その小さな肩がひょこっと元気よく持ち上がった。
「でも! このあたしが来たからには、もうコレクションは駄目よ!?」
「え~、ちょっとぐらい分けてよ」
「ちょ……ちょっとぐらいならいいけど、あたしも欲しいもの! ぱんちゅとか」
「……それはさすがに、盗ろうとは思わないよ、僕……」
年齢的に幼いはずなのに、なぜそのような凄まじい品を欲しがるのか。ケニードは五歳にしか見えない小さな体をしみじみ見やって、遠い場所へと視線を馳せた。
「……そういえば、前、洗濯物してたとき……」
「……うっ……」
「干されてたね……布団に包まれて、縄でひっくくられた状態で」
少女自身が。
「……あ、あれはっ……おじ様がいじわるでっ」
「その状態で、フンフン気張って体揺らして、反動で干されてる洗濯物に手を伸ばそうとしてたよね……」
ブンブンと勢いよくブランコのように揺れる少女が、洗濯物に必死に手を伸ばしてジタバタしている光景に、偶然見てしまったケニードは絶句して立ちつくしてしまったものだった。
ちなみに問題の男性は、てきぱきとベッドシーツなどを干していた。
後で気づいて、反動のあまりグルグル回っていた少女に驚いていたが。
「いやぁ……退屈しないよねぇ……ベル」
「むぅう!」
少女は小さい手でぺちぺちとケニードの手を叩きにくる。短すぎて届かない手に、ケニードは思わず笑ってしまった。
「なにをやっていますか、あなたがたは」
そんな風に遊んでいると、屋敷の方から青年が一人、ワゴンを押しながらやってきた。素晴らしい美青年に成長した相手に、ケニードもベルもうっとりと相好を崩す。
「腰がいいわよね、ね、ケニード」
「首も捨てがたいよ、ね、ベル」
「……何の話をしているのですか」
何か身の危険でも感じたのか、近寄ってきていた足が後退る。ベルがビョンッとカエルのように椅子から飛び出して、小さな手足で果敢に相手に飛びかかった。
「ベル! そういうはしたない真似はやめなさい!」
「はしたなくないもん! スキンシップだもん!」
「そんなあやしい目をしたスキンシップはありません! ほら、お菓子をあげますから、席に戻りなさい」
「あい」
ワゴンの上にのっていたクッキーを一つ、受け取って囓りながらベルが走ってくる。
たどり着く前に食べ終わって、あっという間に舞い戻った。
「ベル!」
「く、くっきー、欲しいの」
必殺。上目遣い。
くりっとした目で一生懸命見られて、男は口を引き結んだ後、嘆息をついてクッキーを二枚渡した。ぽりぽり囓っている少女をそのままに、足早にテーブルまでやってくる。
「も……もっふ!」
慌てて追いかける少女が、なんともいえず可愛らしかった。
ケニードは二人の様子に笑ってから、青年を見上げて目を細める。
「クラウドール卿。本日はけっこうな品をありがとうございました。皆で美味しく頂かせてもらいました」
「お口にあったのなら、何よりです」
さらりと言う男の声は、昔と同じく静かなものだった。
だが、あの時見たような空虚な色は、今はどこにも感じられない。
「そういえば、先程から何の話をしていたのですか? 懐かしい名前が出ていたようですが」
首を傾げながら、男はワゴンの上の果物や菓子を次々にテーブルに並べる。そのカフスには、美しい意匠の宝石がボタンとしてついていた。
鮮やかに美しいその紫の宝石に、ケニードは微笑む。
あれから十五年が経った。
その間に知ったこと、わかったこと……数えればきりがない。
もちろん、知らないことも多い。
その中で、小さな少女と出会った日の後に、わざわざ打ち明けられたこともあった。おそらく、人生で一番驚き、そして魂を震わせたのはあの日だろう。
最初にあった日から十五年。
あまりにも隔たりのあった相手に、認められたのがその日だったのだから。
「……懐かしい話ですよ」
様々な思いをこめて、ケニードは口にした。
いろんな意味で子供だった彼に、これから生きていくための道を示してくれた唯一人を見つめて。
「今の僕が生まれた、その時の話です」