エピローグ
何度かざわめきを耳にして、その度に意識が浮いたり沈んだりするのを感じた。
何度微睡んでもすぐ近くには優しい温もりがあり、素晴らしい匂いがあたしを包み込んでいた。
それに安堵して意識を手放し……幾度目かの浮上の後、あたしはビクッと飛び起きた。
周りは黒い静寂に包まれている。
あの灰色世界とは違い、青をものすごく濃くしたような黒だった。
夜だと、意識の片隅で冷静な自分が理解を示す。
けれど、あたしはそれどころじゃなかった。
今が昼だろうが夜だろうがどうでもいい。
問題なのは、ぱたぱたと隣をまさぐるあたしの手が、そこに温もりを見いだせずにいることだ。
部屋の中にも匂いが残っていない。
あたしは真っ青になって周りを見渡した。
(レメク……レメク!?)
すぐ傍にいたはずだった。
戻って来てくれたはずだった。
それとも、あれは全部夢だったんだろうか?
(……レメク!)
あたしは真っ青のままよろよろとベッドを這い降りる。
動揺しすぎてベチャッと床に落ちてしまったが、痛みは感じなかった。
「……おじ……しゃま……」
痛みは無いのに、涙が出た。
よたよたと歩き出したあたしの視界の端で、闇が切り裂かれるようにして光りを零す。
そちらを見ると、燭台を片手に、なにやら大層美味しそうな匂いのするものをもう片方に持ったレメクが、器用に扉を開けて部屋に入って来るところだった。
(……レメク……)
あたしは呆然とその様子を見る。
燭台を近くの家具の上に乗せたレメクは、泣きながら棒立ちになってるあたしに駆け寄った。
「ベル! 何事ですか!?」
あたしはその姿をぼんやりと見つめ、近くに来たレメクの体に飛びついた。
「!? べ、ベル!?」
レメクが驚いたように半歩下がる。
左手に持ったままのプレートが落ちそうになり、慌ててレメクはそれを持ち直した。
プレートからはいい匂いが漂ってきたが、今のあたしにはレメクの方が大事だ。
「…………!!」
ぎゅぅう、と抱きつくあたしに、レメクが息を呑む。
そうして、荷物をどこかに置いたのか、しばしの間をおいて両手であたしの頭を包み込んだ。
「ベル」
ギュッと爪をたてると、暖かい声が振ってきた。
「どうしたんです?」
あたしは首を横に振る。
なんでもない、と言おうと思った。
実際、何かあったわけでは無いのだ。
けれど何も言えなかった。
何もなかったけれど、目覚めた時にレメクがいなかったショックは、ちょっとやそっとでは薄れそうにない。
「ベル」
名を呼ばれて、あたしはぐしゃぐしゃの顔を上げる。
レメクはそんなあたしを見て、優しく笑った。
(……レメク)
あたしはギュッと服を掴む手に力を込めた。
──いつ頃からだったろうか。彼がそんな風に、優しく笑ってくれるようになったのは。
他の誰に向ける眼差しとも違う、この暖かい目で見つめてくれるようになったのは。
(……レメク)
強くなろうと思ったのに、傍にレメクがいないだけですぐに不安になる自分が、なんだかすごく恥ずかしかった。
あたしは泣いた恥ずかしさを誤魔化すために、目をゴシゴシと擦った。
それを慌てて止めてから、彼は淡い微苦笑を浮かべる。
そうして、未だ目覚めた時のショックを引きずるあたしに、優しい目でこう言った。
悪夢を終わらせる唯一の呪文を。
「悪い夢でも、見たのですか?」