8 世界は色を取り戻す
何度思ったことだろう。
その声が聞きたいと。
名前を呼ぶ声は沢山あれども、あたしが願うのは唯一つだった。
この深く暖かな呼び声だけを、ずっとずっと待っていたのだ。
■■■
頭に浮かんだ言葉が、鼓動と同じリズムで明滅する。
心臓がドクンと大きく脈打って、体がドカンッと暖かくなって、手足の先にまで熱が行
き渡るような──そんな不思議な感覚。
「…… ……」
あたしは空気を求めるように口を開く。
息を吸おうと思った。
けれど、体は動かなかった。
なぜか小刻みに震え続けていて……それなのに、動こうと思っても体が動かないのだ。
喉の奥には重い蓋があり、空気すらも通らない。
まるで時が止まったように体が硬直して、手も、足も、心はその人を求めているのに、全く動いてくれなかった。
(…… ……)
思考まで止まる。
何も思いつかない。
誰も何も言わなくて、誰も動こうとしなくて……本当に時が止まったかのように、そこには無音の空間ができていた。
「ベル」
その空間を裂いて、もう一度名を呼ばれる。
先程よりも近く、少しだけ大きく。
けれど、あたしは振り向けなかった。
そんなあたしに焦れたのか、背後の人がしゃがみこむのを背中越しに感じた。
空気と熱が動く気配。あたしのすぐ後ろからその人は手を伸ばし、あたしの両肩をそっと掴んだ。
──嗚呼。
嗚呼、なんて、なんて、懐かしい熱。
なんて暖かくて、胸に痛い形。
『誰か』なんて問うまでもない。
この声、この熱、この形。わからないはずがないのだ。
このあたしが……!!
「ベル」
声はすぐ後ろから聞こえた。肩に込められた力で体が動く。意志のない硬直した体が背後を向く。
視界が動いた。
止まったままだった全てが流れて、
そこに、
見たいと、
思った、姿、が……
──レメク。
一瞬で、その全てがぼやけた。
だけど、ぼやけた視界には黒い影があり、両肩には熱がある。
震える体はそのままに、口がいっそう大きく開く。
「……ひィいイ……ッッック……!」
変な音が響いた。
何の音かわからなかった。
瞬きしても視界は変わらない。ただ、黒い影が驚いたように息を呑んだ。
──レメク。
頭のどこかで、文字が躍る。
──レメク!
止めようもなく全身が震え出す!
あたしは両手を伸ばした。
暖かい人の手が、そんなあたしを引き寄せる。
無意識に、戦慄く口が大きく開いた。
そうしてそこから、何か、言葉ですらない音が迸った。
※ ※ ※
ビリビリと近くの窓すら震えさせたその音に、視界内にいたメイドさん達がぎょっとして耳を塞いだ。
あたしを腕の中に引き寄せた黒い人は、ただ息を呑んでこちらを見下ろしている。
「〜〜〜〜ッ!!」
長く長く迸っていた音が、体中の空気を出しきってかすれて消えた。
頭の中が真っ白になっていて、うまくものを考えられない。
体中から絞り出した力が、音になって出たような感じだった。音は「あ」や「わ」の音に似ていたが、麻痺したあたしの頭にはよくわからなかった。
喉がひきつれたような音をたてて、失った空気を奥へと送り込む。それはまた大きな音となってあたしの口から放たれた。
「……ベル」
あたしの声に──そう、あたしの声だ──レメクはあたしを抱き寄せる。
腕の中に閉じこめられて、あたしの声は微妙にくぐもった。
レメクはため息をこぼすようにして息を吐き、あたし頭にコツンと頬を当てる。
「……ベル」
(…………!)
少しだけ切ないその声に、あたしの喉が再度引きつった。
ギュッと抱きしめられているせいで、体はほとんど動かない。それでも一生懸命もごもご動いて、わずかな隙間でトンと拳をお見舞いした。
「ッ……!」
トン。
「ッ……!」
トン。
「ベル」
トントン叩くと、レメクが優しく名前を呼んでくる。
あたしはもう一度拳を打ちつけ、声の限りに叫んだ。
「ばかぁッ!」
力一杯の声だった。
周りがぎょっと後退る。
あたしは構わずさらに叫んだ。
「ばかばかばかーッ!!」
トントンポカポカ。
小さく拳を打ちつけるあたしに、レメクが少しだけ驚く。
あたしは泣きじゃくりながら、いっぱいいっぱいの思いで拳をお見舞いした。
「レメクの馬鹿ぁッ!!」
レメクは避けない。ただ黙ってあたしの拳を胸で受けて──
何故かはんなりと微笑みを浮かべた。
「し、しんっ…しんっ」
しゃくりあげる喉のせいで、顎がガクガクいってる。
まともに喋れないのがなんだかすごく腹立たしくて、八つ当たりのようにレメクをポカポカ叩いた。
レメクは優しく微笑うばかりで、それがなんだか無性にくやしい。
「しんっ、配、したぁッ!」
声に出したとたん、いっそう涙がこぼれた。
寂しかった。
悲しかった。
もう会えないかもしれないと思った。
手を伸ばしても触れられなくて、声が聞きたくてももう聞けなくて……お母さんやプリムみたいに、もうどうやっても会うことのできな場所に行ってしまうのかと思った。
「こ、こ……」
まともに呼吸ができないあたしの頬をレメクが暖かい手で拭ってくれる。
あの時は「熱い」と思った手が、今は心地よく温かい。
あたしは自分からギュッとレメクに抱きついた。
レメクの手があたしの背を撫でる。
「こわ、か……ッ」
「……ベル」
恐かった。
ものすごく恐かった!
人は簡単にいなくなってしまうのだ。元気に見える人でも、本当に、目を閉じて開いた次の瞬間には、あっけなくいなくなってしまうのだ。
だから────!
「も、もぅ……あ、えな……かった、ら」
もし、レメクが、
「いな、く、なっ、っちゃった、ら!」
どこかへと、いってしまったら。
「あた、し、どうや、って……生き、て」
これから先をどうやって、生きていけばいいのだろうか?
どうして……生きようなんて、思えるのだろうか?
この人を喪って生きる世界に、意味なんてありはしないのに!
「い……き、て……」
「……ベル」
泣きながら声をあげるあたしに、レメクはけぶるように眼差しを細める。
その、綺麗な綺麗な──夜明け色の瞳。
「すみませんでした……」
その声に、あたしは一層大きく泣きじゃくった。
レメクが謝る必要は無い。レメクが倒れた原因だってあたしにあるのだ。レメクはむしろ怒るべきなのだ。
それでも彼は、泣いてるあたしのために両手を広げて、理不尽な言葉を受け止めてくれる。抱きしめて、暖かいものの中で、あたしを癒してくれるのだ。。
なんていう人だろう。
そして、あたしはなんて愚かで我が儘な人間なんだろうか。
こんな時だと言うのに、ここにいてくれるレメクに、「おかえりなさい」も「ありがとう」も言えないなんて!
「お、おじ、しゃっま。あ、」
呼吸が変になっていて、しゃっくりに声が何度も潰される。
レメクはあたしの髪を丁寧に撫でながら、ほろりと笑みを零して言った。
「……倒れている時、ずっと、あなたの声が聞こえていました」
あたしは唇を引き結ぶ。
見たいと願い続けた人の顔。
綺麗な黒髪と、綺麗な赤紫の瞳。
「いつだって、あなたの声が聞こえない時は無かった……」
あまり日にやけていない肌。
着ている服は懐かしい黒い服。
金糸銀糸の縫い取りがあるのは、きっとここが王宮だからだろう。
「こんなに小さいのに、あなたは……あんなに大きな声で、呼び続けてくれたんですね……」
レメク越しに見える王宮の天井。
色彩豊かな美しい模様と、品良く配置された典雅な装飾。
向かって左側の壁には窓。そこから見えるのは、どこまでも澄みきった空の青。
色のある世界の、そのなんと美しいことか。
「ベル……」
優しい声があたしを呼ぶ。
二つの音で作られた、あたしの名前を。
抱きしめ合った体から、交わした言葉から、暖かいものの全てが互いに流れ込む。
あたしはギュッと唇を引き結ぶ。
会いたかった。
ただ、会いたかった。
強く、ただひたすら純粋に──傍にいたかったのだ。
この人の傍に────
「あなたに……会いたかった」
「ふ……ぅえ」
安堵とも歓喜ともつかないものに思考を奪われて、あたしの口からまた大きな音の塊が飛び出す。
レメクはあたしの髪をもう一度撫でると、しっかりとあたしを抱きしめてくれたのだった。
※ ※ ※
昔、プリムが言っていた。
気持ちのままに泣くのは、すごく体力がいるのよ──と。
あれは確か、お母さんを亡くして寂しくて悲しくてたまらなくて、泣いていた時のことだった。
悲しい、という気持ちでいっぱいになって、その気持ちのままに泣いていると、体中の力を使い果たしてしまって、やがて力尽きてしまうのだそうだ。
確かに泣いた後はすごく疲れて、まともに動くこともできなかった。
頭もどこかぼんやりとして、半分夢を見ているようだ。
そう──あの時とは気持ちこそ違うものの、今がそうであるように。
あたしはヒクヒクしゃくりあげるのを一生懸命堪えて、レメクの腕の中で丸くなっていた。
レメクは病み上がりだというのに、あたしを抱きかかえたまま降ろそうとしない。
いつまでも丁寧に頭を撫でてくれて、その気持ちよさにあたしはついウトウトしてしまった。
「ッ……ッ……ッ」
何故か定期的におとずれるしゃっくりを堪えるあたしに、レメクがあやすように時折背中を撫でてくれる。
優しくて穏やかな時間は、レメクの家にいる時のようだった。
だからあたしは忘れていた。ここが王宮だということも、周りに誰がいるのかということも。
バキッ、と。
不意に聞こえた音に意識を引き戻されるまで、あたしは本気でレメク以外の全てを忘れ去っていたのだ。
「……?」
ずぴ、と鼻をすすって顔を上げると、折れた羽扇子を握りしめたまま、ものすごい目でこちらを睨んでいる茸が一匹。
いや、一人。
(……忘れてた!)
パチンと夢が覚めたような気持ちで、あたしはギュッとレメクにしがみついた。
ザーッと音をたてて血の気が下がる。
例え性格が悪かろうが、相手は美女。しかもそこそこ巨乳。
さらにレメクの昔の恋人。おまけに王太子妃と位も高い。
隣に旦那さんがいようがいまいが、あの形相ではおかまいなしだろう。
(……ま……ま、負けないッ!!)
絶対渡さない構えでレメクの服を握りしめ、あたしは目をビガッと光らせた。
ビリビリと空気が震えるような錯覚。
何故かレメクが不思議そうに『あたしを』見た。
「……ベル?」
後頭部に視線を感じる。
黙ってひたすら王太子妃と睨みあっていると、再度「ベル?」と名を呼ばれた。
(ちょっと黙っててください、おじ様)
あたしは意識を目に集中してビカビカ対抗する。
(あたしは今! 勝負中なのです!)
「……?」
レメクはこの上なく不思議そうだ。
全身から「?」の気配が伝わってくる。
……目の前に過去の女がいるというのに、何故理解できないのだこの人は!
あたしはビカッとさらに目を光らせ、レメクの腕の中から半ば身を乗り出すようにして威嚇した。
(下がれッ下がれェーッ!!)
王太子妃の隣の美青年(というか、バルディアの王太子)も、呆気にとられた顔であたしと王太子妃とを見比べていた。レメクに視線を向けたりもしているが、なんだかそれは恋敵を見るというより「どうしましょう? コレ」と相談するような視線だった。
(あああ殿方とはどうしてこうお暢気なんでありましょうか!)
あたしと王太子妃はさらに目力を上げて睨みあった!
(ムキィイーッ!)
無言で始まった女の戦に、レメクは首を傾げてから王太子の方に向き直る。
その動きに、美青年はすばやく姿勢を正した。
「お久しぶりです、殿下。このような姿で御前に参りましたこと、お詫び申し上げます」
第一声はレメクからだった。深みのある美声に、爽やかな笑顔で王太子は答える。
「いや、クラウドール卿。そのような些細なこと、気にされることはない。意識不明の重体と聞き、案じていましたが……」
そこで言葉を切って、未だ睨みあっているあたし達をチラと見てからフワッと微笑む。
「……少し、元気になったようで……何よりです」
その心のこもった暖かい声に、レメクも少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます。情けない話ではございますが、今こうして立っているのがやっとという有様です。後ほどご挨拶に伺わせていただくとして、今は退席をお許しいただけますでしょうか?」
「ええ、構いません。あまり無理をされぬように」
そう言って品良く微笑む美青年に、あたし達の後ろの方から押し殺した「(きゃ〜)」という音のない歓声が上がる。
レメクはそれに反応せず、丁寧に他国の王太子に礼をした。
そうして、心持ち妃殿下のほうに向き直る。
(キタ!)
あたしはギューッとレメクに爪をたてた。
レメクが妃殿下に礼をする!
「妃殿下もお変わりないようで、なによりです。それではまた後ほど」
そして優雅に踵を返……す、ぇえー?
あたしは思わずポカンと口を開けてしまった。
視界の端っこでは、妃殿下が「ガーンッ」という顔で固まっている。
互いに予想外だったレメクの言動に、睨み合いも中止になってしまった。
メイドさん達も唖然としていて、唯一けろっとしていたのは爽やか笑顔の王太子だけだ。
(て、てゆか、おじ様……むむむ昔の女に、それだけですか……!?)
「?」
固まっているあたしを覗き込んで、レメクが不思議そうに首を傾げる。その何もわかっていない顔に、あたしはパクンと口を閉ざした。
(ま……まさか。まさかまさかまさか……!)
昔の女なんて、眼中外?
てゆか、本気でどうでも良いと?
「? 何の話です?」
あたしの心を勝手に読み取っているのに、レメクはひたすら不思議そうな顔。
「ま……待ちなさい!」
そんなレメクにあちらも納得できなかったのか、妃殿下がひきつった声でレメクを呼び止めた。
心持ちゆっくりと歩いていたレメクは、それで普通に振り返る。
「何か?」
その、本気で普通の『無表情』。
あたしやアウグスタ達といる時と違うその顔は、数日前の舞踏会でも時折見たものだった。
思い返せば、あたしやアウグスタ、それに馴染んでからのケニードやバルバロッサ卿達と会っている時以外は、こんな顔が多かった。
(……そういえば、バルバロッサ卿も言ってたっけ……無表情が普通だ、って)
閣下達のような例外はあれど、基本、彼は無表情だったのです。
ということは、今、レメクはその「普通の顔」。
親しい人と会っている顔では無いのだ。
(……なんで?)
昔の恋人でも、別れたら他人ってコト?
首を傾げるあたしに、何故かレメクもあたしに視線を向けて首を傾げる。
(……何故あなたも首を傾げるのですか、おじ様)
果てしなく疑問だ。
とはいえ、他国の王太子妃に呼び止められてそちらを無視するわけにもいかない。
レメクはすぐに王太子妃に視線を戻した。
あの無表情で。
「何かご用でしょうか?」
「ご用……って」
王太子妃は絶句だ。
そんな反応を返されるとは思ってもみなかったらしい。あたしは二人を見比べて眉を顰める。王太子妃から臭ってきた異臭はいつのまにか霧散しているが、レメクから微妙に冷たい匂いが漂ってくるのは何故だろうか?
「ご用が無いようでしたら、これで失礼させていただきます。……それと、妃殿下。一つだけ忠告を」
「な、……なんです!?」
何故かギクリと王太子妃が後退る。
レメクは感情のこもらない目でそんな王太子妃を見つめ、淡々とこう告げた。
「他者の物を盗んだ以上、例え他国の王太子妃のペットといえど、盗人には違いありません。まして、ベルは我が国の王女。双方に和解の意志なくば我々は貴国に対しこのことを抗議しなくてはなりません」
「……なッ……!」
王太子妃がぎょっと目を剥いたのが見えた。
さすがに隣の王太子殿下も困り顔になる。
「クラウドール卿。できれば、国同士の諍いにまで発展させたくは無いのだが」
「ええ。こちらとしてもそれを願います。……けれど、他国の王族の方に我が国の王女を侮辱されて、黙っていられるわけがありません。あなたの国が、我が国を侮辱したのに等しいのですよ」
「ああ……そのことについては、私が如何様にも詫びよう」
真っ直ぐにレメクを見つめてそう言う王太子に、レメクは緩く首を横に振った。
「……咎のない方に謝罪を強いるわけには参りません。けれど、国を背負うということは、まさにそういうことなのでしょう」
嘆息をついて、レメクはあたしを見た。
「殿下。バルディア国の謝罪をお受けになりますか?」
あたしはきょとんとした。
デンカって誰だ?
「…………」
パチパチと目を瞬かせると、レメクが目で合図する。
(……ああ、あたしか)
数秒おいて、ようやく納得した。
しかし、レメクから「殿下」。しかも丁寧な言葉……は、いつも似たようなものか。
ちょっとドキドキのような、しょんぼりのような……
肩をしょぼんと落としたあたしに、何故かレメクが大いに焦る。あたしはしょんぼりのまま王太子殿下を振り返り、困ったように微笑むその人の顔を見て、心を決めた。
「はい」
王太子殿下がふわっと微笑んだ。
「ありがとうございます、殿下。もしよろしければ、後でお見舞いの品を届けさせてください。クラウドール卿の分と、あなたの分と」
あたしはコックリと頷いた。
できるだけ王太子妃の方は見ないようにして、レメクを振り仰ぐ。
(これでいい?)
目で訴えると、レメクは軽く微笑んだ。
「殿下がよろしいのでしたら、私から言うことは何もございません。──それでは、失礼いたします」
きちんと王太子達のほうに一礼して、レメクは颯爽と身を翻す。
視線の先で真っ白になった王太子妃と、軽く手を振る王太子の爽やかな笑顔がひどく印象的だった。
※ ※ ※
王太子妃達の前から去った後は、奇妙な行進となっていた。
レメクはヒクヒク言うあたしを抱えたままだし、彼の後ろには三十を超えるメイドさん達が一列になってしずしずとついて来ている。あたし達は無言のままだし、もちろん後ろのメイドさん達も無言だ。
ただ、なんだかキラキラとした熱を後ろから感じる。
それこそ、足を止めればワッと群がられそうな気配に、レメクの足も微妙に速かった。
(……レメク)
泣きすぎたせいでチクチク痛い目元を拭って、あたしはレメクの服をチョイチョイと引っ張る。
レメクが「なんです?」という目であたしを見た。
(……あたしも歩く)
レメクに抱っこされるのはすごく嬉しい。いつまでだってこうして張り付いていたい。
けれど、彼は病み上がりなのだ。こうやって、あたしを抱き上げていることだって大変な労苦だろう。
そう思ったのだが、レメクはちょっと困ったように眉を寄せた。
(……おじ様?)
フェリ姫と話していた時のように心で問いかけると、レメクの目がちょっと逃げる。
心持ち抱きかかえている腕の力が強くなったような気がしたが、その理由は不明だ。
(???)
きょとんとしているあたしを抱えたまま、レメクは無言で歩き続ける。
もう一度降りる意志を伝えようとしたところで、ふと、左手側の扉に『手』が見えた。
豪奢な扉から伸びているということは、どうやら部屋から手だけを出して、ひょいと挨拶しているらしい。
レメクがそれを見て思わず立ち止まった。あたしもだが、レメクも相当驚いたようだ。
しげしげと手を見つめ、逡巡した後で再び歩き始める。しずしずと並んで後をついて来ているメイドさん達を従えたまま、レメクは手が招く方へと向かった。
(……誰の手だろう?)
あたしは首を傾げる。
白くて綺麗な手だが、妙に無機質な感じなのが気になった。
ついでに言えば、なんだか手の位置がちょっとオカシイ気がするのだ。手はだいぶ下のあたりから出ていて、もし中にいる人が手を出していたとすれば、床に寝転がった体勢といことになる。いくら綺麗な王宮の床とはいえ、立派な宮廷人達が床に転がって手を廊下に出すだろうか?
しかも、扉の近くまで来ると、手はひょいと中に引っ込んでしまった。
(……なんか、変)
疑問に思うあたしにかまわず、レメクは軽く開いていた扉を押して中に入る。
途端、あたしの視界一杯に青一色に統一された美しい部屋が現れた。
(……うわぁ!)
あたしは思わず目を瞠る。
美しい色の優美な部屋だった。
落ち着いた深い蒼を基調に、瀟洒で品の良い装飾を随所に凝らしている。大仰な飾りはほとんど無く、むしろ豪華さと言うならこの部屋よりも廊下のほうが遙かに豪華だろう。
けれど、この部屋には気高さと落ち着きがある。あたしは思わず感服して部屋を見回した。
……というか、なんかこの間取り、ちょっとどこかで見たような気がするのです。
部屋の大きさや、意匠なども妙に見覚えがある気がする。……いや、色は初めて見る色ですが。
なんとなく相違点を捜そうと床の絨毯に視線を落とすと、そこにさっきの手が落ちていた。
(…………)
って、ぇええええ!?
「……あーぁ……結局、来ちゃいましたか」
さすがにぎょっとなってソレを見ていると、唐突に横合いから声が聞こえてきた。
驚いてそちらを見るあたしと、何故か平然とした顔で声の主を振り返るレメクの前で、壁にもたれかかって腕組みしていたポテトさんが苦笑した。
床に転がっていた手がチコチコと指で動いて、その黒い人の影にひょいと潜り込む。
どうやら、白い手はポテトさんのペット(?)のようだ。
「私は、しばらく安静にするように、と……そう言ったはずですよ? レンさん」
揶揄を含んだその声に、レメクは深々と頭を下げた。
「申し訳ありません」
「……いえ。まぁ、最初から無理だろうと諦めてはいましたが」
苦笑混じりに嘆息をつくポテトさんは、何故かあたしをチラッと見る。
「動かずにはいられなかった、ということでしょうね」
その口元にある笑みは、どこか満足そうなものだった。
ちょっと居心地悪げにレメクは身じろぎ、ポテトさんは笑みをますます深くした。
「それに、あなたが動いてくれなければ、事態はもっと複雑になっていましたからね。それを思えば、むしろ礼を言うべきかもしれません」
「……まさか、陛下が?」
「ええ。そのまさかで」
レメクの声に、ポテトさんはため息混じりに頷く。
「未だにあの方にとって、あの人物は『娘』なのですよ。すでに『手から離れて』いるというのに……」
「……危険ですね。『あちら側に行った』相手を危惧するようでは」
「さっきも間に入りに行こうと動くもんだから、こっちは慌てましたよ。ご自分が国王だということを、もっと自覚していただきたいものです」
「……あなたがそんなことを言うとは、いささか衝撃ですね」
「失礼ですね、レンさん。国の間柄については、たぶんあなたよりも私のほうが詳しいですよ」
「それは存じてます」
「常にはそれを気にしないというだけで、常識だってあるんです」
「……できればそれは常に気にしてください」
えへんと胸を張ったその人に、レメクが疲れた顔で声を零す。ポテトさんはそれはそれは素晴らしい笑みを浮かべた。
「そういうわけで、今、御主人様は私の空間に閉じこめてありますから、後で機嫌取りをお願いしますね」
「……何故、私ですか」
「え。だって私が顔を合わせたら、絶対一発や二発じゃすみませんから」
片手で握り拳を作って言うポテトさんに、あたしもレメクも絶句した。
……この超絶美形を殴るのか。アウグスタ……
(……やりそうだ……)
他の誰にもできないだろうが、あのアウグスタなら問答無用でやりそうな気がする。
しかし、殴られるポテトさんというのもあまり想像できない。
レメクは何故か非常に微妙な顔をしてから、いかにも嫌そうにため息をついた。
「……あなたの場合、殴られても無傷ですが……陛下も何故、わかっていてやるのでしょうね」
「勘弁していただきたいですよ。あの方に怪我されるぐらいなら、いっそ自分が怪我したほうがマシです」
妙に切実なポテトさんの声に、レメクはなんとも言えない微苦笑になった。
「それを本人に言えば、たぶん危険は回避できると思いますが?」
「本当ですか? 嘘じゃありませんね? 嘘だったらちょっとヒドイですよ?」
「……それだけ真剣なら、どうしてもっと早く……いえ、なんでもないです」
ポテトさんの必死さが微妙に謎だ。
あたしは二人を交互に見比べ、このままだと延々と話を続けそうな相手に声をあげた。
「お義父さま。それより、おじ様が休めるところ、無い?」
ポテトさんはあたしを見て、ちょっと目を見開いた。
その顔が柔らかくほころぶ。
「それならば、ここで休ませてあげればいいと思いますよ。ここはあなたの部屋ですし」
あたしとレメクの両方が息を呑んだ。
息を呑んだあたしに、レメクがさらに目を丸くする。
「あなたが驚くんですか?」
「え。だって、あたし、ここがあたしの部屋って……」
「ずっとこの部屋を使ってたはずですよ?」
アワアワするあたしを見て、ポテトさんも目を丸くする。
「いや、でも、あたし、何見ても灰色にしか見えなくて、こんな色の部屋だったんだな、って、今知ったとこだし」
どうりで間取りとかイロイロ見覚えがあるはずだ。
ぽかんと周囲を見渡すあたしに、何故か全員が絶句していた。
「……声はおろか、色まで失ってたんですか、あなたは……」
ポテトさんはまじまじとあたしを見ている。
あたしはしょんぼりと身を縮こまらせた。なんというか、自分の弱さを露呈させちゃった感じです。
「……お嬢さん」
「……はい」
「もう、大丈夫ですね?」
ポテトさんの声に、あたしは顔を上げる。
レメクを見上げ、ポテトさんを見上げて、あたしはしっかりと頷いた。
「うん。もう、大丈夫」
その答えに、レメクは眼差しを細め、ポテトさんは極上の笑みを浮かべた。
「それは良かった」
その顔に、ふと、いつか見たケニードの笑顔を思い出した。
かつての孤児院事件の折、あたしに同じ質問をした人。
あの時はレメクのことだったけど、今回はあたしのことだ。
すると、ポテトさんはクスクスと楽しげな笑みを零した。
「しかし、あなた方は本当に似たもの同士ですね。頼みますから、交互に倒れるのだけはもう止してくださいよ? 周りの心臓がもちませんから」
彼の心臓は含まれないらしい。なんとなく納得して、あたしとレメクは深く頷いた。
「さて。では、レンさんはお嬢さんのお部屋で休ませてもらうことにして、お嬢さんは陛下や他の皆さんに元気になった姿を見せに行きましょうか。まだ本調子ではありませんが、心配している人達には、挨拶しておいたほうがいいですから」
「あい」
あたしはコックリと頷いた。
しかし、あたしは差し出されたポテトさんの腕に移れなかった。
レメクが離さなかったのだ。
「……おじ様?」
あたし達の視線に、レメクはハッとなってあたし達を見る。ちょっとぼうっとしていたようだ。
「…………」
ふと、視界の片隅でポテトさんが口元を笑ませた。
差し出された両手が引っ込められる。
「……いえ、やっぱりよしておきましょう。お二人とも本調子ではありませんし。なにより、一番心配していた人がまだ不安定ですから」
「???」
誰のことだろうか、それは。
首を傾げたあたしに、ポテトさんは淡く笑う。
「二人とも、奥の部屋でお休みなさい。お嬢さんが飛び出して行ってから、この部屋はほぼ無人ですから、誰にも見咎められることはありませんよ。残っていた番人の方も、御主人様が来た時に一緒に私の空間に放り込んじゃいましたし」
「……なにをやってるんですか、あなたは」
「いちいち説明するのも面倒でしたから」
ひょいと肩をすくめて、ポテトさんは部屋の奥を指さす。
「ゆっくり眠ってらっしゃい。後は私がなんとかしておきますから」
レメクはポテトさんを見つめ、ゆっくりと頭を下げた。
「任せます」
「はい。任されました」
全面的に信用されて、どこかくすぐったそうにポテトさんが笑う。そうして壁から体を起こすと、軽く手を振った。
そのまま普通に部屋の外に出て行くのを見送って、あたしはふと今まで気づかなかったことに気づいた。
あのメイドさん達がどこにもいないのだ。
あたしはきょろきょろと周囲を見渡す。
あたし達の後ろについて来てくれていたメイドさん達は、いったいどこに行ったのだろう?
「……たぶん、放り込まれたんでしょうね。あのヒトの空間とかに」
……無事なんだろうか、あの人達……
「陛下が一緒なら大丈夫ですよ。それに、普通の人を長時間取り込むことはないはずです。今頃、どこか適当な場所に放り出していると思いますよ」
「そうなの?」
「ええ」
しっかりと頷かれて、あたしはホッと肩を下ろした。
ポテトさんの言う『自分の空間』というのが、あの死一歩手前の空間だったらどうしようかと思ったが、どうやら杞憂だったようだ。
「それにしても……あなたがこの部屋を……」
あたしを抱えたままで、レメクは部屋を見渡す。
一緒になって部屋を見渡して、あたしはしみじみと嘆息をついた。
「こんなに綺麗な部屋だったんだ……」
「……そういえば、灰色に見えると言っていましたが」
う。
あたしはソローッと目線を左に逃がした。
レメクはそんなあたしを黙って見つめ、何も言わずにギュッと抱きしめてくれる。
(……おろ?)
意外な反応に、あたしは目をぱちくりさせた。いろいろ言われると思ったのだが、レメクにそんな気は無いらしい。
(お小言無し?)
レメクはただ微笑む。そうして、部屋を見渡して苦笑した。
その瞳にどこか懐かしげな色を認めて、あたしは首を傾げる。
「おじ様?」
レメクはあたしを見てちょっと微笑った。
「ベル。休ませていただいても構いませんか?」
もちろんですとも。
あたしは即座に頷く。
そうして、レメクをベッドに促すべくその腕から飛び降り……れなかった。
(おじ様。離してくれないと、案内できないのです)
ジーッと見つめると、それにようやく思い至ったらしいレメクが、やや慌てたようにあたしを離した。
あたしは地面に着地する。華麗に、と言えないのは、そのままヨタヨタふらついたからだ。
……むぅ。あたしもまだ、本調子じゃないようです。
さすがに根性入れてた時は、がんばれたけど。
「休養が必要なのは、あなたもですね」
レメクがあたしの頭をそっと撫でる。それに大喜びで頭を擦りつけながら、あたしはヨタヨタと寝室に入った。
「「…………」」
そして絶句する。
部屋の中は、微妙にイロイロ荒れていた。
「……泥棒でも入ったんですか……?」
レメクの声に、あたしは視線を逸らした。
……言えません。犯人が、泥棒リスザルを追いかけたこのあたしだとは。
しかし、闇の紋章はそんなあたしの乙女心すら勝手にレメクに横流ししやがります。
微妙な表情で部屋を見渡していたレメクは、最後に何やら言いたげな顔であたしを見つめた。
む……無視です。
無視なのです!
「……とりあえず、休みましょうか」
汗いっぱいの顔でそっぽ向いているあたしに、レメクが可笑しそうに口元を緩ませた。
あたしは大喜びでレメクに飛びつき、すぐさま整えられていないベッドの中に飛び込んだ。
(さぁおじ様! 来るのですおじ様!)
頭だけ出してパンパンとシーツを叩くと、レメクが苦笑しながら入ってくる。
(さぁ、おじ様。一緒にぐっすりなのです)
目をキラキラさせているあたしの頭を撫でて、レメクはどこか懐かしそうな顔をした。
「そういえば、あなたが横にいるのは三日ぶり……いえ、四日ぶりですか」
そういえば、そうでした。
うんうん頷くあたしに、レメクはわずかに微笑む。
あたしが意識を失っていた時間が三日として、その前日に倒れた分も加算すれば合計四日間、あたし達は離ればなれだったことになる。なんてことだ。
あたしはもぞもぞ動いてレメクに飛びかかると、その腕の中に無理やり収まってゴロゴロした。
うむ。やはりこの腕の中は落ち着くのです。
あまりの心地よさと安堵感に、即座に眠りに落ちそうになる。
自覚してはいなかったが、どうやら王太子妃との対決や捕り物劇は、今のあたしにはすごくしんどかったようだ。
(ぅぅ、でも、すぐに寝ちゃったらいけないのです)
今すぐに落ちそうな意識を無理やり引き起こして、穏やかな目でこちらを見ているレメクを見る。
やっと会えたレメク。
すぐ傍にいる、たった一人の人。
「おじしゃま」
……眠気のせいで変な呼び方になりました。
「……? なんです?」
一瞬だけ間をおいて、レメクが首を傾げる。
あたしはギュッとレメクの服を握って、眠気と戦いながら声をあげた。
……次に会った時には、言おうと思ったことがあるのだ。
「あのね、おじ様。おじ様はね、自分の傍にいちゃいけない、って……危ないから、関わらずに離れていた方がいいって、前に言ってたけどね……でも、それって、不公平だと思うの」
「……不公平?」
レメクの声もちょっと眠気混じりだ。
レメク自身が疲れていることを思い出して、あたしはできるだけ手早く言おうと小さな頭を振り絞った。
「うん。だってね……おじ様はあたしの傍にいるせいで、いろんな辛いことやしんどいことを受けなきゃいけなかったでしょ?」
孤児院のことも。王宮でのことも。
誰もが忌避し、回避しようとする面倒事をレメクは黙って受け入れてくれた。
傍にいて、まるで当たり前のように助けてくれたのだ。
そのたびに倒れ、命を失いかけながらも。
「おじ様。あたし、ちゃんと自分が子供だってこと理解してる。理解してるから、すごく辛いの。……おじ様。あたし、まだちっちゃいから、おじ様のためになるようなこと、ほとんど何もできてないにょ……むむにゅ……沢山のもにょをもらったのに、沢山のことをしてもらってるのに、何一つお礼ができてないの」
一瞬落ちそうになった意識を無理やり引き戻して、あたしは必死で言葉を紡いだ。
大人だから当然だと、レメクは笑って言うけれど、子供だから当然と、あたしはそれを受け入れられない。
だって、あたし達はお互いに──例えどれほど年に隔たりがあろうとも──それぞれ一人の人間なのだ。
助け合い、支え合うことのできる、人間同士なのだ。
ならば、あたしだけが助けてもらって、それで終わりだなんてありえない。
「あたしが小さいから、まだ子供だから……だから、おじ様だって、あたしのこと頼りになんかできないと思うけど」
けれど、レメク。
少しでいいの。
「ほんの少しずつでもいい……がんばって大きくなるから、強くなるから……だから、おじ様。あたしにも、おじ様のもってるいろんなものを分けてほしいの。辛いこととか、悲しいこととか、そういうの……全部」
きっとまだまだ頼りなくて、こんなこと言われても困るだけだろうけど。
「何もせずに、ただ甘えさせてもらえるだけなんて、もう駄目だと思うの。おじ様にばかり甘えて、だからおじ様は倒れちゃったんだから。もう二度とそんなことにならないように、あたしの方でもちゃんと、おじ様を助けられるようにならないといけないの」
昨日より今日。
今日より明日。
そうやって少しずつでもいいから、必ず強く逞しくなってみせるから!
「おじ様もあたしに甘えられるような、そんな立派なレディになってみせるから」
その荷物を少しだけ、あたしにも分けてほしい。
ほんの少しずつでいい……同じ道をずっとずっと、隣で歩いて行くために。
途中で置いてきぼりになる時が来るとしても、別れてしあう時が来るかもしれないけれど……それでも、そこまででもいいから……一緒にいさせてほしいから。
「約束……してね」
さすがに限界がきたらしく、しだいに視界が掠れていく。
そんな中で、レメクが淡く微笑むのが見えた。
あたしは服を掴む力を強くする。
本当は、もっといろいろ話したかった。
レメクが目の前で倒れて、どらだけ寂しかったとか、王太子妃のことや、今まで見てきたいろんなことを。
けれど、優しいレメクの目を見ていたらだんだん眠気が勝ってきて、言葉を考えることも難しくなる。
あたしは不思議と頬を伝う冷たいものを感じながら、レメクを離さないように手に力を込めた。
かすむ視界の中で、レメクが眼差しを細める。
夢に引き込まれるようにして遠ざかる意識の果てで、穏やかな声がそっと囁いた。
「約束します」
そうして、いつか聞いた誰かと同じように、暖かい声でこう言ったのだ。
「……大きく……なりましたね……ベル」