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12 求愛の方法

 息があがってくるのを感じた。

 心臓はドコドコと忙しなく動き、頭はクラクラと揺れている。

 喉を通る息はアッと言う間に熱くなって、奥の方から灼けそうなほどだ。

 ぜひゅぜひゅと息をするあたしに、レメクが訝しげな顔になる。

 あたしは慌てて顔を背けた。

 運良く音にあわせて体が離れる。しかし、すぐさま自動的にレメクの傍に舞い戻る。

 ぁああレメク! こっち見ないようにっ!

 声なき悲鳴をあげて、あたしは一生懸命レメクの視線から逃げた。

 視界の端っこにいるポテトさんは、何故かはんなりイイ笑顔。

(ぅぁああん!)

 あたしが半泣きになったのは言うまでもない。

 息があがっている理由はとても簡単だ。

 例え魔法で踊っているとはいえ、『踊っている』のはあたしの体。

 動きが激しければ息だってあがるし、体もカッカと火照ってくる。まして慣れない動きの連続だ。体力などとうに尽きていた。

 しかし、そんな状況でもあたしの体は見事に踊る。

 息があがっていようがステップは間違えず、スピードは変わらず、姿勢だってこれっぽっちもフラつかない。

 動きだけは実に優雅なものだった。

 さすが魔法といったところだろう。……考えるとちょっと恐いものがあるが。

(と、言うかですね、ダンスって、もっと優雅でスイスイーッてモンじゃないんですか!?)

 正直、全力疾走なみにキツいです。

 こんなのを全曲(一時間!)踊りきったレメクとアウグスタの体力は、いったいどれ程のものなのか。汗一つどころか息一つ乱していなかったのだから、底なしと言う他無いだろう。

 ……やっぱり金ドラゴンと黒ドラゴンだ。

(ぬぁああ! 負けるかーッ!!)

 あたしは根性で踏ん張った。

 もう最初のウフフアハハな気分など、欠片ほどもありゃしない。

 なんか踊ってる最中に気づいたこともあったのだが、それが何だったのかすら思い出せなかった。

 とにかく踊る。息継ぎ必死。だんだんレメクが心配そうな顔になってきた。

(ま、負けないもんッ!!)

 せめてこの一曲。

 この一曲だけは踊りきってみせるのだ!

(絶対……最後まで!)

 あたしは必死に気合いを入れた。

 少しぐらいみっともなくてもいい。とにかく踊りきりたかった。

 だってこれは、今だけの夢だ。

 本当のあたしはとても小さい。だから、次に一緒に踊れるのは、きっと何年も先の事になるだろう。

 それは本当に仕方がないことだけど、やっぱりちょっと……少し寂しい。

 だから今、奇跡がおきているうちに、この曲を最後までを踊りきりたいと思った。

 嘘で固めたまやかしの時間でも、全部を全部、踊りきってみせたい。

 いつか本当に踊れるようになるまで、目標として心に持ち続けていられるように。

 『いつか』を夢見て頑張れるように!

 そのためには、途中で意識失っちゃいましたなんて、駄目なのである!!

(……レメクと一緒に!!)

 最後まで!!

 差し伸べた手をレメクが取る。

 くっついて離れ、くるりと回って……

(……あれ?)

 あたしは目をぱちくりさせた。

 離れようとしたあたしの体が、すっぽりとレメクの腕の中に収まっていた。

 予定外の制止に、体が一瞬だけ変な動きをする。

 だが、それすらも閉じこめられて、あたしはパチパチと瞬きをした。

(なんで?)

 おかしい。ここは、少し離れてそれぞれがステップを踏むはずの場面だ。

 いくらあたしの脳みそがちっちゃくても、レメクの素敵ダンスを忘れるはずが無い。

 ここは間違いなく、ステップの場面だった。

(……レメク?)

 あたしはレメクを振り仰いだ。

 いつもよりずっと近い場所にあるレメクの目は、明かりが乏しいせいで色が全く違って見える。

 濃く深くなっているその色は、下手をすると黒に見えるほどだ。

(踊り、違うよ?)

 首を傾げると、レメクもかすかに首を傾げた。

 少し困っているような顔だった。

 けれど、その口元には淡い微笑が浮かんでいる。

(……レメク?)

 ふと、レメクが微笑わらった。

 体が動く。緩やかに足がすべり出し、すぐにそれは記憶の中のダンスと『同じ』になった。……いや、違う。

 動きが少し、ゆっくりだ。

「……他人と同じ事をしようと、思う必要はありません」

 穏やかな声が優しく言う。

「基本は同じでも、踊り方は人それぞれです。足運びも、早さも、いくらでも変えようがある。……あなたは、あなたにあった踊り方をすればいい」

 あたしは目を瞬かせた。

 頭の中に、華麗に踊るアウグスタの姿が浮かぶ。

 彼女の踊りは鮮やかで、力強く、けれど優雅で美しかった。

 あれだけの踊りを習得するのに、いったいどれだけの時間を費やしたのだろうか。彼女の動きは全てが洗練されていて、無駄な動きが一つも無かった。

 あの時と同じ音楽で、動きだけは(ポテトさんの魔法で)同じだったけれど、あたしは体がついていかなくて、ぜひゅぜひゅ息を荒げていた。

 アウグスタの踊りは、今のあたしにはできないのだ。

「……それは別に、あなたの恥ではありませんよ」

 レメクの手があたしの腰を引き寄せる。

 くるりと回るターンは川の流れのように滑らかで、風の流れのようだったアウグスタの時とは違っていた。

 ゆったりと穏やかに、けれどどこか力強い。

 レメクに導かれるようにして踊るダンスは、あの時に比べてずっとゆっくりだった。動きそのものは似ているのに、動き方がかなり違う。

(……息……しやすい)

 体が楽だ。

 スイスイと泳ぐように動いていく。

 なにがどう変わったのかはよくわからない。けれど、息はだいぶ楽になった。

 レメクがあたしに向かってちょっと微笑む。

 あたしもにっこりと微笑んだ。

 なぜか急速に体の力が抜けていく。

 時間がきたのだ。……そう理解した。

 背中にレメクの背中を感じた所で、ピタッと綺麗にあたしとレメクの動きが止まる。ラストは背中合わせだ。

 あたしの真後ろに、レメクの熱がある。

(……あたた……かい)

 その瞬間、あたしの視界はグラッと後ろに傾いた。

(……あれ?)

 近かった空が遠くなり、背中にあった温もりが消える。

 それは後ろに倒れていっているせいか、それとも元の大きさに戻っていっているせいなのか、あたしにはわからなかったけれど──

「ベル!」

 ただ、慌ててあたしの体を抱き留めようとするレメクの腕の感触だけが、薄れてゆくあたしの意識に強く残ったのだった。


 ※ ※ ※


 ……誰かが頭を撫でてくれているのを感じた。

 優しくて暖かくていい匂いのする手だ。

 あたしは嬉しくなって自分から頭を擦りつけた。

 優しい手はちょっと驚いたように退しりぞき、けれどすぐにさっきと同じように撫でてくれる。

 幸せだと……そう思った。

 こんなことでこんなに幸せな気分になれる自分自身も、とても幸せだと思った。

 暖かい気持ちが体の奥から溢れてきて、体中がぽかぽかしている。

 その幸福にうとうとと微睡んでいると、すぐ近くでぼやく声が聞こえてきた。

「失敗しましたねぇ……やはり器が完全に仕上がっていないと、負担が大きくなるんですか」

 妙に単調な声だった。

 はっきり言って棒読みだ。

(……これは……ポテトさん……)

「……お義父さん……」

 その声に対し、すぐ耳元で別の声が抗議した。

 低く押し殺した声は、どこか唸り声にも似ている。そして、何故か籠もったような響きをしていた。

 それは左耳を押し当てた暖かいものから響いてきており、微かな振動をあたしの左半分に与えていた。

「えーと、そんなに怒った顔しなくても? ちょっと疲れて、その上ちょっぴりお腹が空く程度の『負担』ですから。……にしても、あれだけ食べさせてまだ足りないんですから、許容量はかなりのものですよね。さすがはメリディス族というか……」

「それ以前に、この子はまだ小さな子供だということをお忘れなく!」

「それを言うなら、あなたが紋章術を扱った時のことはどうなります? あれはたしか、三つの時じゃありませんでしたか? ……いやまぁ、あなたと他の子を一緒にするのは、確かに非常に危険ですが」

「その三つの時に、私は危うく死にかけたのですが? ……器が完全に出来上がっていない状態で力を使えば、その反動は必ず本人に返るという見本です。……この子はただでさえ成長が遅れているんです。未だこんなに小さいんですから」

 優しい手が労るようにあたしの髪を撫でる。

 あたしはちょっとしょんぼりしながら、暖かい胸元に頬ずりした。

 確かに、あたしの体は小さい。孤児院の中でも小さい方だった。

 そもそも、孤児院に大きな子はあまりいなかった。

 草や花や野菜だって、栄養を与えなければ小さいままで、時にはそのまま枯れたりもする。ぐんぐん大きくなるためには、それなりの栄養が必要だということだろう。

 あたし達子供もそれと同じで、大きく立派な体になるにはご飯がいる。

 そしてそれをほとんど与えられない孤児達は、やせ細った小さな体になるしかなかったのだ。

 そして、その中でもあたしの体は特に小さかった。

 今だって、年下の……それこそ五歳になるかならないかという子と同じぐらいに小さい。

 ここまで顕著に成長が止まっているのは珍しいらしく、孤児院の連中には親が小さかったんだろうとかいろいろ言われた。

 失礼な話だ。あたしのお母さんは、レメクほどでは無かったけど、ケニードぐらいには大きかったのに。

(……そうよ。将来はレメクぐらいおっきくなって、レメクをがっちり守ってあげるんだから)

 そんなコトを考えた途端、優しい指があたしのほっぺたをぷにっと押した。

「…………?」

 しばらく間を置いてから、またぷにぷにと頬を押していく。

 ……ナニゴト?

「……なにをやってるんですか? レンさん」

「いえ……起きてるような気がしたものですから」

 どういう確かめ方だろうか?

「起きてるというより、夢うつつですね。……ふむ。回復力の高さは子供といえど侮れませんか。やはりメリディスの血……いえ」

 そこで区切って、低い美声の主はくすくすと笑う。

「それ以前に、『伴侶』の匂いですね」

「…………」

「おや。なぜ睨むのです? メリディスが嗅覚に優れ、『匂い』であらゆるものを判別するのはあなたもご存じでしょう?」

 ……どういう種族特徴だ?

 あたしはちょっと眉を顰めた。

 まるで犬か何かのようだ。

「先天的に巫女の力をもち、第六感に優れ、超人的な五感を有する……。確か、伴侶と定めた相手の匂いで、身体能力が飛躍的に引き上げられるんですよね? さすがにこればかりは嘘だろうと思ってましたが、どうやら本当のようですね」

 ほほぅ。

 あたしはぽややんとした頭の中で感心した。

 うちの一族は、そんなオカシナ特徴まで持っていたのですか。初耳です。

 まるで変態のようではないですか!

 と思ったらいきなり鼻を摘まれた。

「ぷなっ!?」

「……なにやってるんですか? レンさん」

「いえ……なにか、一言言わなくてはいけないような気分になりまして」

 てゆかどーして鼻を摘むのです!?

 あたしはぱかっと口を開けた。

 鼻を摘まれては息ができません!

 妙に重たく感じる両手を動かして、まごまごと無体を強いる手に攻撃を仕掛ける。

 しかし! 鼻を摘む指は離れてくれない!!

 心持ち眉を垂れさせて目を開くと、ちょっと驚いたような顔のレメクがすぐそこにいた。

「あぁ、失礼。起きてしまいましたか」

「……あれで目が覚めないと思ってたんですか? レンさん……」

 その左隣にいるポテトさんが、非常に懐疑的な眼差しをレメクへと向ける。

 レメクは無視だ。

「気分はいかがです? 体に不調はありませんか?」

「……その前に、鼻を摘むのをやめませんか?」

 生真面目に問いかけてくるレメクの向こう側で、ポテトさんが大真面目にツッコミをいれる。

 一拍置いて指を離したレメクに対し、あたしは抗議の『ぽかぽか攻撃』を行った。

 ……何故か二人に半笑いされましたが。

(むぅ……っ!)

「あぁ、はいはい。……肩を叩くなら、もう少し背中側にしていただけるとありがたいですね」

 あたしのぽかぽか攻撃に、レメクが半笑いで注文を入れる。

 攻撃されてるというのに、なんという暢気なセリフだろうか!

 あたしは目をキッとつり上げた。

 もっと抗議する意味で今度は胸を叩こう!

「……はいはい」

 なぜ半笑いを深めるのです!?

「……逆効果ですよ、お嬢さん。レンさんを喜ばせてどうするんですか」

 改めてツッコミをいれるポテトさんに、あたしはガーンッとショックで固まった。

 叩かれて喜ぶだなんて、そんな! レメクにそんな趣味があったなんて!?

「違いますよ誤解ですよ趣味ではありませんよ。……お義父さんも、誤解を招くような言い方はしないでください」

「……誤解を招く原因は誰にあると……?」

 さすがのポテトさんもジト目だ。

 あたし達がいるのは大広間の壁際、そこに設置されたカウチの一つだった。

 無論、休憩所のように帳が降りていないため、二人(と、あたし)の姿は周りから丸見えになっている。

 そんな場所にこの目立つ男二人が並んで座っているものだから、周囲には奇妙に遠い人垣ができていた。

 ちなみにあたしはレメクに抱っこされた状態である。太腿グッジョブ。

(というか、やっぱりここに帰ってきちゃったのねっ)

 おそらく、あたしが気絶している間に帰ってきたのだろう。

 できれば外で時間つぶしをしたかったのだが、そうもいかなかったようだ。

 お腹のグルキュー具合からして、そう長いこと寝ていたわけでは無い模様。ならば、まだまだ夜会は続くということなのである!

 ……げっそりだ。

 そしてお腹が空きました。

「まぁ、いいですけど……。ところで、お嬢さん」

 ん?

 しょんぼりと俯いた所で声をかけられ、あたしはきょとんとポテトさんを見上げた。

 ポテトさんは口元をほころばせるようにして柔らかく微笑む。

「良い夢は見れましたか?」

 バタバタと遠くで何かが倒れる音がした。

 レメクがギョッとなってそちらを見るが、あたしとポテトさんは無視である。

「うんっ! 最高だったわ!」

「それはよかった」

 ポテトさんは、それはそれは素晴らしい笑顔を浮かべた。

 ……土砂崩れみたいなすごい音がした。

 さすがに無視できず、あたし達は揃ってそちらへと視線を向ける。

 そして、見なかったことにした。

「お二人とも、なかなかに素敵なダンスでしたよ」

「でも、最後までアウグスタみたいには踊れなかったの……」

「それはそれでいいんですよ。多少のアレンジは許されますから。それに、後の踊りのほうが、雰囲気がでていてよかったです」

「本当!?」

「ええ。バッチリです。私が保証いたします」

「えへへへ。そうだったらいいんだけどなぁ……」

「……何を暢気なことを言っていますか。ベル。あなたはその結果、意識を失うほど消耗してしまったんですよ」

 平然と会話をするあたし達に対し、レメクだけがちょっぴり額に汗をかいている。たぶん、良心の差なのだろう。

 チラと問題の場所を見れば、大きな熊男さん達が一生懸命倒れた人々を搬出していた。

 ものすごい呆れた目でこっちを見ているのは、来客の貴族達と会談していたアウグスタだ。

 人が減っちゃった大広間の中央で、まさに女王として輝いている。

 綺麗な瞳がキラリと告げます。

『オマエタチ。アトデチョット、話ガアル』

 あたしは目をそっと伏せました。

『オミヤゲハ、イリマセン』

 アウグスタの目がギラッと輝いた。

「いいですか、二人とも」

 目で会話するあたし達に気づかなかったのか、レメクが嘆息混じりに声を落とす。

 あたしはそそくさと視線をレメクに戻した。

「今後二度と、あんなことはしてはいけません」

「「…………」」

 あたしはポテトさんをチラッと見た。

 ポテトさんもあたしをチラッと見る。

 以心伝心。心はガッツリ。

 しかし、レメクがそれを許さない。

「また同じようなことをしましたら……私は、お二人とは三日間、口をききません」

「「!!!」」

 あまりのショックに固まった。

 そんなあたし達に、レメクはただ深くため息をつく。

「場所が場所ですので、あえて詳しくは申しません。……ですが、ベル。私は昔、言いましたね? 急がなくてもいいと。かならず、あなたは大人になるのだから、と」

「……う、うん」

「なら、誓ってください。もう二度と、無理やりあんな姿にはならないと。ちゃんと時を経て、成長するのを待つと」

「…………うん」

 少々どころかものすごく未練があったが、あたしは渋々頷いた。

 隣にいるポテトさんが、なんとも言えない微苦笑を浮かべる。

「普通、『私に』念を押しませんか? あんな魔法、私以外に使える者がいるとは思えませんが」

「あなたは、相手の意向を無視しませんから」

 あっさりと言って、レメクは自らの名付け親をじっと見つめる。

「相手がそれを願わなければ、あなたは叶えようとはしない。……つまり、そういうことです」

「……なるほど」

 ポテトさんは小さく笑う。それはどこかくすぐったそうな笑みだった。

「そうですね。あなた方に対する『私』という者は、そういう者でしたね」

「???」

 そうでない場合のポテトさんというのも、何処かにいるんだろうか?

 首を傾げたあたしの前で、ポテトさんがあたしを見つめて言う。

「しかし、残念です。成長したお嬢さんは、とてもとても美しかったのに」

 なんですと!?

 あたしはその瞬間、顔を輝かせてレメクに向き直った。

 って、あああ!? なんで視線を逸らすのです!?

「おじ様!?」

「い、いえ! ベル、あれは正しくない姿ですからっ」

「でも、おじ様!」

「きちんと一つずつ年を重ねて、本当に大きくなったら、ちゃんと言いますから!」

 何年後の話ですか!?

 あたしはぎゅむーっと唇を引き結んだ。

 レメクは必死にそっぽ向いてる。

 そしてポテトさんはニヤニヤだ。

「まぁ、それが無難でしょうね。言葉にすることによって、深まる感情というのもありますから」

「……お義父さん……ッ」

「いえ、あなたのことはよく知っていますから。深まろうがすでに手遅れだろうが、じーっと何もせずに、ずーっと見守っていくんだろうなってことはわかってます」

「?」

 首を傾げるあたしを膝に座らせたまま、レメクが非常に居心地悪そうな顔になる。

 手遅れって何だろう?

「あなたの性格からすれば、それも当然ですか。お嬢さんはあんなにいい匂いをさせていたのに、残念なことですね」

 いい匂い?

 あたしはポテトさんを見上げ、次いでレメクをじっと見つめた。

「いい匂いって?」

 何故か視線を逸らすレメク。その顔を敢えて覗き込むと、ものすごい目でポテトさんを睨みだした。

 ……なんだろう。前屈み事件の時にソックリだ。

「残念も何も、あんな偽りの姿での」

 ぐぅーるるるー。

「……種族特徴など」

 きゅっきゅるるー。

「「…………」」

 くっくるぴー。

 レメクとポテトさんがあたしを見た。

 あたしは自分のお腹を押さえてしょんぼりと俯く。

 ……我慢ならんのだなぁ……あたしの腹は。

「……ベル」

 ……あい。

「……何が食べたいですか?」

 あたしの目が涙に煌めいた。


 ※ ※ ※


 くぅーぐぉおおるるうぉおおお。

 なかなかに勇ましい雄叫びを上げるあたしの腹は、押さえても押さえても黙ってくれない。

 ぎゅーっと両手を押しつけると、かえって勢いよく叫ばれた。

 ぐぉおおおお!

 ……もはや腹が鳴るという表現ではおいつかない。紛う事なき、雄叫びだ。

「……どーしてこう、あたしのお腹は、大事な場面とかお話とかで鳴きだすのかしら……」

「……いやぁ、ふつーにお腹空いてるからじゃないですかねぇ……」

 ぎゅぅー、とちっちゃい手で押さえられている腹を見つめながら、ポテトさんが不憫そうにため息をつく。

 そしてヨシヨシと頭を撫でてくれた。

 ちなみにレメクはここにいない。

 あたしのご飯を確保するために、会場中のテーブルを巡りに行ったのだ。レメクが席を外してもあたしの所に誰も来ないのは、こうして横にポテトさんがついていてくれるからである。

「そういえば、お義父さまって、カードなんとか大法官だったのね?」

「違います。コーンフォード大法官です」

 間違いました。……てゆかややこしいヨ。

「カードリック大法官はフォルマ侯爵ですね」

 ……どっかで聞いた名前のような?

「フォルマ侯爵はベラ……レンさんの養父の友人です。まだお会いしていませんか?」

 おー。思い出した!

「一番最初に声かけてきた侯爵様ね!」

「ははぁ、やっぱり一番に行きましたか。流石ですね。夜会の受付が始まるや否や、一番に乗り込んで今か今かとレンさんの到着を待ってましたしねぇ」

「……そ、そこまで……?」

「おやおや。未来の奥方は旦那様を過小評価しておいでですかね? レンさんはああ見えて、大変人気者なのですよ。……本人はまるで気づいてませんが」

 エエ。それはもう、よーく存じました。

「もっとも、目の色変えて寄ってくる人間が、全員真心をもっているわけではありませんがね」

 ふと薄ら寒い笑みを浮かべるポテトさんに、あたしは目をぱちくりさせながら首を傾げた。

「でもフォルマ侯爵は、おじ様のこと好きそうだったわよ?」

「ええ。あの人はレンさんが大好きな人です」

「ケニードやバルバロッサ卿やヴェルナー閣下も好きそうだったわよ?」

「ええ。あの人達は更に大好きな人達です」

「アウグスタやお義父さまも大好きよね?」

「ええ。丸かじりしたくなるぐらい大好きですよ」

 ……レメクは食用であるらしい。

「まぁ、あなたはメリディス族ですから……おそらく、本能的に『誰が』『何』なのかを嗅ぎ分けることができるでしょう。隠された悪意すら嗅ぎつけるのなら、今ここで説明しなくてもいずれ理解するようになります」

「いずれじゃなくて、今でもいいと思うけど」

「おや。あなたは他人を理解する時、自分以外の者の意見を念頭におくのですか?」

 う。

「人とは不思議なものでしてね。誰かにとっては忌み嫌われる者でも、別の誰かにとっては慕わしい人だったりします。相手によって、まるで態度が違ったりするからですね」

「それって、いいことなの……?」

「さて。それが良いことなのか悪いことなのかはともかく、それら全てをあわせて『人』という一つの生き物を形作っていますからね。善悪という分類では決して計れません。心の問題でもありますから、『誰かが悪い』という問題でも無いはずです」

 むむむ。

「例えば、一つ例を挙げてみましょう。ものすごく横柄で横暴で守銭奴な官吏がいたとします。もちろん、周りからは悪い評判を受けます。けれど、家族にとっては優しく頼りがいのある人でもあります。……さて、その男は『悪い人間』でしょうか?」

「えぇと……横柄で横暴なのは、よくないと思うけど」

「そうですね。その場合、悪いのはその人の態度ということになります。態度はその人の本質や性根、または幼少時の周囲からの影響などに深く関わってきます。さてさて。では、その人は根本的に『悪い』人なのでしょうか?」

 うーん。うーん。

「態度は悪いけど……人が悪いわけじゃない、ってこと?」

「そうかもしれませんね。とはいえ、人が悪いというのはまた解釈が難しいところなのですよ。人の世は白と黒の色分けのごとくハッキリとしているようでいて、実は非常に境界線が曖昧です。立場が変わるだけで、白と黒が逆転することもあります」

 むむぅ?

「つまり、『一概に決めつけることはできない』ということです。それはどこの誰に対しても同じです。相手の本質を勝手に決めつけることは、ただ自分の思いたいように相手の型を作り上げることですから」

 じっと見つめてくるポテトさんに、あたしはじっくりと言葉を噛みしめてから言った。

「……つまり、本当の姿ではなく、自分の思い通りの姿を頭の中に作って、それをその人の本質だって勝手に決定しちゃうってことね? そしてそれは、本当は、しちゃいけないことなのね?」

 隣に座っているその人は、ただにっこりと微笑んだ。

 あたしは思わず苦笑する。

「……なんだか、お義父さまはおじ様にそっくりだわ」

「おやおや。それはあまりよろしくありませんね?」

「え。そうなの? 駄目なの?」

「いや、普通に考えて、その場合私がレンさんに似てるのではなく、レンさんが私に似ていることになってしまうでしょう? いちおう、名付け親で育て親の一人なわけですし。ご主人様にも怒られたんですが、どうも私の不甲斐ない部分がレンさんに受け継がれちゃってるようですしねぇ……」

「……不甲斐ないんだ……?」

 この名付け親とあの完璧人をどうやったら『不甲斐ない人』扱いできるんだろうか?

「かなり不甲斐ないらしいですよ。私は面白尽くでやってるんですが、レンさんは……なんだか天然で気づいてないような感じがしますねぇ……」

 ……なんだろう?

 そんな天然で不甲斐ない部分を持ってたんだろうか? レメクは。

「おじ様、鈍くて朴念仁でそっけなくてタジタジな所以外で何か不甲斐ない場所あったっけ?」

「……その時点で全て挙げきっちゃってるというか……凄いですねぇ、奥さんは」

 奥さん!?

「どこに奥さんが!? しかも誰の!?」

「……嗚呼……いい勝負ですか、あなた達……」

 なぜかポテトさんが遠い目に。

 いったいどういう意味ですか?

「まぁ、そのあたりはおいおい時間が解決してくれることでしょう。……お嬢さんも立派にイイ匂いをさせてましたから、いずれレンさんも逃げられなくなるでしょうし」

 匂い?

「……ポテトさん」

 あたしは相手が逃げないよう、服の裾をしっかと握って声をかけた。

「さっきも、あたしの匂いがどうとかって言ってたよね?」

「ええ。言いましたよ?」

「その立派ないい匂いって、何?」

 ポテトさんは不思議そうに首を傾げた後、あたしの鼻をツンと指でつついて言った。

「何って……メリディスの最も有名な種族特徴ですよ。体臭です」

 ……いや。それはだいたい理解してたのですが。

「あれ? 存じませんでしたか? メリディス族が芳香とも言うべき匂いを纏うのは、言うなれば孔雀が美しい羽根を持つのと同じなんですよ?」

「孔雀の羽根?」

 あたしは首を傾げた。

 孔雀というのは、アレだ。昔、見せ物小屋で見たことがある。

 ものすごく綺麗な羽根をもつ、ものすっごく獰猛な鳥だ。

 なんか蛇とか食べてた印象が強い。

 その孔雀の羽と、メリディス族の匂いが同じって……何でだ?

「ええ。メリディス族は嗅覚に優れています。と言うより、五感がかなり優れています。これはナスティア王国の全種族中でトップです。もともとメリディス族もクラヴィス族同様、卓越した技量をもつ狩猟民族ですからね。おそらく、そういった環境で長い時間かけて、磨かれていった能力なのでしょう」

 ふむふむ。

「そして、そんな鋭い嗅覚をもったメリディス族は、同種を嗅ぎ分けるために独特の匂いを持つに至りました。……それが今日、メリディス族を保護指定にするきっかけともなった、体臭につながります」

 ほぅほぅ。

 あたしは深く相槌をうちながら耳をすませる。

 なんだかレメクにお勉強させられている時を思い出しました。

 説明の仕方がレメクとそっくりなんだなぁ……ポテトさん。

「この体臭は、幼少時にはあまりしません。なんとなく匂ってるかも、程度です。匂いが強くなりはじめるのは思春期頃。そして、最も強くそれがでるのが、伴侶となる相手を定めた時だとされています」

 伴侶。

 あたしはビカッと目を光らせた。

 つまり、おじ様と会った時とかですね!?

「残念。ちょっと惜しいですね」

 心読まれた!?

「もっと詳しく言うなれば、体が一定以上の成長を遂げ……つまり、成体と呼ぶに相応しい体になった時、伴侶と定めた相手と出会ったら匂いが強くなるんですよ。……まぁ、なんというか……フェロモンですね」

「フェロモンって……」

「異性の気を引くための匂いと考えれば、だいたいおわかりになるかと。メリディス族の場合、これ以上相応しい言葉は無いでしょう」

 呆気にとられて口をぱっかり開いたあたしに、ポテトさんは悠然と微笑んだ。

「鳥が美しい羽根でダンスを踊るように、人が宝石や花を片手に意中の相手に言葉を伝えるように……メリディス族は匂いで相手に求愛するのですよ。愛する唯一人を自分の虜にするために」



「に……匂い……」

 あたしはがっくりと両手をカウチの上につき、涙混じりに項垂れた。

 もともと微妙な体質の一族だと思っていたが、ここまで極めつけに変わっているとは。

 というか、その匂いでレメクに負けてるあたしって、いったい何なんだろうか?

 魅力ゼロってことですか?

「あれ? なんでそんなに落ち込んでるんです? 意外と効果的だと思いますよ? 余波くらって他の種族があなたがたにメロメロになっちゃうぐらい、いい匂いするわけですから。狙われた相手はたまらないと思いますよ?」

 フォローが追い打ちになってます。

「……でも、あたし……あんまりいい匂いしないし」

 ぐすぐす。

「まだ小さいからですよ」

「おじ様のほうがずっといい匂いするし」

 えぐえぐ。

「……おや。いい匂いなんですか」

「うん。もう、ものすっごくいい匂い。あたしメロメロ。しかも最近益々匂いが上がってるの。昇天しちゃいそうなぐらい!」

「……ほぅほぅ」

 あれ。何故でしょう?

 ポテトさんが、なにやらイイコト聞いたゼ的な笑顔になりました。

「ええ。それはいいことです。とてもいいことですよ、お嬢さん」

 負けてるのに?

「……いいことなんだ?」

「ええ。とても素晴らしくイイコトです。完璧です。私はあなたを心から尊敬いたします」

 何故!?

「まだこんなに小さいのに、そこまでとは……。いえ、たしかに最近いい匂いするなぁとは思ってましたが。お二人が揃っているときにやたらとイイ匂いしてたのは、やっぱりそういうことだったんですね。ちなみに大きくなったあなたの匂いは、決して負けていませんでしたよ」

「本当に!?」

「ええ」

「おじ様骨抜きにできそう!?」

「もうなってますよ」

「それは嘘だわ!」

 あたしは固い握り拳をつくって、むん! と気合いを入れた。

 ポテトさんのお世辞はともかく、希望は出ました!

 いつか大きくなったら、全身から匂いをムンムンさせてレメクに求婚するのです!!

 できればレメクの方が求婚してくれるような立派なレディになりたいですが、それはちょっと難しいと思う!

 それ以前に受け身は心配だ。

 なにせ相手はあのレメク!

 うかうかしてると、ボインでバインでムフフンな美女に獲られちゃうかもしれないのです!

「お義父さま! あたし、がんばるわ!」

「ええ。その意気ですよ。そんな意気がなくても大丈夫ですが」

「匂いの出し方も教えてね!」

「……私はメリディス族じゃないから無理ですよ?」

「あと胸をおっきくする方法も教えてね!」

「それは管轄外です。レンさんに頼んでください。私もまだ死にたくありません」

 何故!?

 ガンッとショックを受けて固まったあたしの後ろから、ぬっと暖かい影が覆い被さる。

「……何の話をしていますか、あなた達は」

 あァん! おじ様ン!!

 あたしはバッと振り返り、すぐそこにあったレメクの首ったまにしがみついた。

 おほほぅ、やっぱりいい匂いがするーぅ。ふんふんふん。

「また大量に持ってきましたねー、レンさん」

「これで足りればいいのですが……。それに、私も少しばかり空腹でして」

「おや、珍しい。……って、ああ、あなたはまだ食事をとっていなかったんですよね」

「ええ。食べる間もありませんでしたよ。……あぁ、ベル。もう少し強く抱きついていただけますか?」

 喜んで!!

 全力で抱きついたあたしを張り付かせたまま、レメクがひょいと上体を起こす。

 そして空いたスペースにすとんと腰掛けた。

 座ったままその様子を見ていたポテトさんが、面白そうに笑っていた。

「あなたが横着をするのは珍しいですね」

「両手が塞がっていましたからね。……それにしても、あなたがいるとわずらわしい応対をせずにすむのがいいですね。あぁ……よろしければ、皿を一つ持っていただけますか? ベルに食べさせてあげたいので」

「私をテーブル扱いするのは、あなたぐらいですよ、レンさん」

 なぜかくすくす笑いながら、ポテトさんがレメクから大皿を受け取る。

 その上に盛り上げられた食料は、ポテトさんの作った盛り合わせと同じぐらいモリモリだった。

「さぁ、ベル。王宮の料理長自慢の料理を堪能してください。まずは鶏肉の香草焼きからいきましょうか」

 一口サイズに切られたお肉を、お皿に添えていたフォークで刺してあたしの口元に。

 ぱくっと頬張ると、素晴らしく芳醇な味がした。

(美味ちひっ!)

 思わず顔もとろけます。

 次々に口にご飯を食べさせてくれるレメクとそれを頬張るあたしに、皿持ちをしてくれているポテトさんがややあってから呟く。

「……微妙にお邪魔な気がいたしますね……」

 口をもぐもぐさせながら、あたしは小さく首を傾げた。

 思わずレメクと二人揃って、フォークと食料を見比べる。

 レメクが肉の一切れを刺して、ポテトさんに差し出した。

 はい。あーん。

「食べますか?」

 ポテトさんは唖然とした顔になった。

 まさか自分に差し出されるとは思ってもみなかったのだろう。

 まじまじとレメクを見つめ、意見を請うようにあたしまで見つめる。

「食べないの?」

 どうしろと? という眼差しにそう答えると、ポテトさんはなんとも言えない微苦笑を浮かべた。

「あなた方は……全く……」

 どういう意味だろうか?

 あたし達は首を傾げる。

 そんなあたし達の前で上品に肉を口に入れたポテトさんは、丁寧に咀嚼し終わった後でニヤリと笑う。

「なかなか美味ですね。……それにしても、餌付けとはレンさんもなかなかやります」

「え……? いえ、別にそういう意図は……」

 不思議そうに首を傾げてから、何に気づいたのか、レメクがハッと顔色を変えた。

 バッと会場の方を振り向く。

 そこに、金色の魔女が立っていた。

「こぅおら、男共」

 あたしは眼中外。

「男同士でハイ・アーンはないだろうが、ァアン!?」

「い、いえ、別にそんなつもりは」

「つもりもクソもそうだったろーが!! だからお前は天然だと言われるんだ馬鹿者! こら、ソコ! おまえもだポテト!! 私がやってやった時はのらくらとかわすくせに、なにレメクの時だけぱくついておる!?」

「え、いや、別にそんなつもりも?」

「なぜ疑問系!?」

 ギンギンに目を光らせて言うアウグスタに、非常に楽しそうに応対するポテトさん。

 あたしは止まったレメクの手からフォークを外すと、誰も食べさせてくれない皿のお肉を仕方なく自分でつつきました。

 ぷすっぽーんっ!

 綺麗に弧を描いて肉が飛ぶ。

「…………」

 あたしはしばらく、そのままじっと消えた肉のあった場所を見つめた。

 すぐ傍の沈黙がとても恐い。

 そろそろとレメクを見上げてみる。

 レメクがもぐもぐしてました。

「…………」

 ああああ、怒ってる。目がちょっと怒ってる。

 だから食べさせてやると言っただろーがという眼差し。

 しかも肉がそこそこ頑丈だったらしく、なかなか咀嚼が終わりません。

「ご……ごめんなちゃい……」

 上目遣いにしょんぼり謝罪。

 レメクが目で「めっ」とやってから、ようやく咀嚼を終わらせた。

 ごっくんこ。

「ベル」

「……あい」

「手を出しなさい」

 あたしはフォークを差し出した。

 レメクはあたしの手からフォークを抜き取る。

「…………」

「…………?」

 そして、そのままあたしの小さな手を大きな手できゅっと握った。

「???」

 首を傾げて見上げるあたしに、レメクはただ静かな眼差しを向ける。

 と、隣にいたポテトさんが何故かいきなり立ち上がった。

 持っていた大皿を自分のいた場所に置くと、アウグスタと一緒にあたし達の前に並ぶ。

 移動させられたアウグスタが、一瞬変な顔をしたのが印象的だった。

「ベル」

 呼ばれて、あたしは視線をレメクへと戻した。

 レメクの片方の手には、いつのまにか小さな布のようなものが握られている。

 それをあたしのちっこい手に上に落として、包み込むようにしてもう一度握った。

「?」

(なんだろう?)

 あたしはさらに首を傾げる。

 手の中にあるのは、革の袋のようだった。

 大きさは小さなあたしの掌ぐらい。

 中に布でも入っているのか、袋はパンパンに膨れており、中心あたりがちょっと硬い。

 なにか小さな硬いものを布で巻いて、それを革袋に入れたもののようだ。

 首にかけれるようにしているらしく、長い革紐がちょろりと伸びている。

「……九年後です」

 九年後?

「もし、九年後……その時も、今と変わらず、変わらないままに共にあったなら、この袋の中にあるものを取り出してください」

 袋の中にあるもの?

「今はまだ、時期ではありません。けれど、事がこうなった以上、これをあなたに差し上げるのが筋だと思います。全ての判断は、九年後のあなたにこそゆだねるべきでしょう」

「???」

 あたしはきゅっと唇を引き締めて首を傾げた。

 一生懸命問いかけの眼差しをおくるが、レメクはそれには答えない。

 ただ、いつか見た、真っ直ぐな目であたしを見つめていた。

「いらないと思ったなら、捨ててくださって結構です」

 捨ててもいいと言われても、物が何かわからないと判断のしようがない。

 だいたい、レメクは他人ひとにゴミを渡すような人じゃないから、捨てろと言われても頷けはしないのだが……

 あたしはレメクの掌につつまれたままの自分の手を見下ろした。

 その手の中にあるものをきゅむきゅむと握る。中

 身が何なのかよくわからないが、とても大切そうな感じがした。

 じっと見つめてくるレメクを見つめ返す。

 なぜか、息が喉にからんだ。

「これ……何?」

「母の形見です」

 あたしの頭が真っ白になった。

 レメクの……お母さん!?

 というと、ヴェルナー閣下が一目惚れしちゃったという、ものすっごい美人のお母さんのことですね!?

 そういや名前も知りません!

 ずいぶん前にお亡くなりになってるような印象ですが!!

 そのお母さんの形見!?

「私が私の持ち物として持っているのは、これだけです。私は、女性がもらって喜ぶものが何なのか知りません。ですから、自分が持っている唯一つのものをあなたに贈ります」

「え。で、ででもももも」

 いかん。どもった。

「そんな大事なもの、ど、どうしてくれるの? あたし、いつも貰ってばっかりで、何一つ、お返しもできてないのに」

 というか、これ以降もお返しできなさそうな気がします。……貰う量ばかり多すぎて。

 するとレメクは笑みを零した。

 なにかふと力が抜けたような、なんとも言えない柔らかい笑みだった。

「沢山、貰いましたよ。あなたから」

 ……何か渡したことあったっけ……?

「本当に沢山、貰っています。……それにこれは、今日の日のための贈り物には、あまり相応しくないかもしれません。……それでも、私が持っているのはこれだけでしたから」

 えぇええと?

「今日の日って? えと、あ! 春の大祭だから? 初めての夜会だから?」

 レメクは首を横に振った。

 優しい目が穏やかに微笑む。


「あなたの誕生日です」


「…………」

「言うタイミングがわからなくて、少し、遅くなりましたが」

 息すら止まったあたしに、レメクはただ微笑む。

 暖かいものの全てを込めて


「誕生日、おめでとう」


 体の中で、心臓が、一際大きく脈打った。






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