プロローグ
朝六時。
空は澄みきった紺青と金のグラデーション。淡く伸びた藍色のベールは、地表に近づくごとに色を変えていく。淡い藍から紫へ、美しい紫から赤紫へと。
透明度の高い宝石のような空は、どこまでも高く、どこまでも広く。光の塊を中心に、今この瞬間だけの輝きを周囲に敷いていた。
貴賤を問わずして与えられる至高の光景。それの名を夜明けという。
そんな輝かしい光を横目に見てから、あたしは正面に待ち受ける敵と向かい合った。
あたしの名前はベル。
あと数日で九つになる、メリディス族の女の子である。
レアポップモンスター並みに出現が稀なあたしの一族は、変な特徴を備えているせいで、悪漢共に狙われやすい。
そんなあたしのために、我が命の恩人にして未来の旦那様、レメク・(略)・クラウドール卿は様々な防御法を教えてくれた。レメクの友人であるバルバロッサ卿からは、『痴漢・悪漢・撃退法!』も教わった。
だが、二人から教わった攻略法では、決して倒せない敵がいる。
それが今、あたしの目の前に立ちふさがっている強敵だった。
あたしの右手には切り裂くナイフ。
あたしの左手には突き刺すフォーク。
二つの武器を手に、あたしは深呼吸をする。
落ち着け。落ち着くのだあたし。焦ってはいけない。例え三十を超える攻撃がことごとく無に帰していようとも、ここで焦っては事をし損じる!
あたしは目をカッぴらいた。
他の誰でもなく、あたし自身に対して戦闘開始を宣言する。
いざ! 尋常に、勝負!!
あたしは目を煌めかせ、最強の敵『肉』に向かって攻撃を開始した!
ぽーんっ!
あたしの閃く一撃を受けて、それは勢いよく正面に吹っ飛んでいく。
綺麗な弧を描いて飛んでいった肉(の一切れ)は、過たずそこにいるレメク向かって飛びかかり、
「…………」
無言で上げた彼の掌に、軽々と防がれた。
(あぁ……あたちのお肉……)
あたしは口を半開きにしたまま、もの悲しい思いを込めてレメクを見つめる。
レメクは無表情を貫いて、そっと掌の上の肉をあたしの皿に放流した。
ぽんっと弾む美味しそうな肉。
生きている。
「……焼く前から死んでます」
心読まれた!
ぎくっと体を強ばらせたあたしに、レメクは深く嘆息をついた。
「ベル」
……はい。
「先程から何度も言ってますが、そんなに一生懸命『私に』食べさせようとしなくてもいいですから」
……はい。
「そしてそんなに勢いよく立ち向かわなくても、ステーキは逃げませんから」
……はい。
しょんぼりと俯くあたしに、レメクは手本のために自分用のナイフとフォークを握る。
優雅な手が操るフォークは、あたしの動きとは全然違う洗練された仕草で肉をプスッと指した。
「いいですか? まず、こちらのフォークで肉を軽く押さえ……軽くですよ? 飛びかかるようにして突き刺してはいけませんよ? そうしておいて、こちらのナイフで肉をゆっくりと切るんです」
レメクのナイフとフォークは、流れるような動きでステーキを切り分ける。
あたしの目はその肉に釘付けになっていた。
レメクがチラッとあたしを見る。
口からよだれが落ちそうなあたしを。
「……ベル」
……あい。
「今、切り分けた分を」
……切り分けた分を!?
「口に入れる一欠片分に、もう一度切り分けてください」
レメクの言葉に、しゅーん、とあたしは肩を落とした。
もうこのまま口にポイしてもいいんじゃないかと思うサイズだが、これでもまだ食べてはいけないらしい。
あたしは悲しみを込めた目でレメクを見上げてから、皿の上の『切り分けられた分』へと向かう。
大きさはレメクの人差し指一本分ぐらい。これをあたしのちっこい親指サイズに切るのです。
(まずは、左手のフォークで突き刺すんだったよね……)
あたしはそろそろと左手を動かした。
勢いよくやってはいけない。やってはいけないのだ。例えどんなに焦っていようとも!
あたしは葛藤のあまりプルプル振るえるフォークを実にゆっくりと肉に近づけていった。
なぜかその間にレメクが席を立つ。そろそろとテーブルから離れ……壁際へ。
どういう意味!?
あたしはムッと口を引き結び、そうして肉をフォークで突き刺した!
すぽーんっ!
先程よりも勢いよく、お肉(の一欠片)が高く飛び立つ!
それは過たず、またしてもレメクの方へと飛んでいき、
「……」
あ、の形で固まったその口へとジャストインした。
飛び込んできた肉に、目を丸くしたレメクがぱくんと口を閉じる。
(……ぁー……)
思わず半開きになったあたしの口から、声なき声とよだれが落ちた。
「「…………」」
レメクとあたしの眼差しが交錯する。レメクは何やら物言いたげだ。しかし、口に物が入っているので喋れない。
さすがに出すわけにもいかず、レメクは掌で口元を覆ってから、なにやらもぐもぐしはじめた。
あたしはジッとそれを見つめる。
例え掌で隠されようとも、口が動いてるぐらいはわかるのです。もぐもぐもぐ……あぁ……なんて丁寧に咀嚼しやがるのか。
(……あたちのお肉……)
ジーッと見つめていると、レメクがもぐもぐしながらテーブルに戻ってきた。
もぐもぐもぐ……もぐ……こくん。
とても上品にお召し上がりになったレメクは、口の前から掌を退け、なんとも言い難い表情であたしを見る。
泣きそうな目のまま、口を半開きにしているあたしを。
「……ベル」
……あい。
「……そんなに私に、肉を与えなくても構いませんから」
……あい。
しゅん、と見上げながら肩を落としたあたしに、レメクはもう一度自分のナイフとフォークを握る。
そのまま何も言わず、音すらたてずに肉を切り分けた。
一欠片をフォークに刺して、あたしの方へ。
ぱくっ!
いささかの逡巡もなく飛びつくあたし。口の中いっぱいに、ジューシーなお肉の味が!
(……おいちいッ!!)
思わず涙が出そうだ。
もぐもぐと懸命に咀嚼するあたしをじっと見てから、レメクはさらに肉を切る。
必死に味わってから嚥下したあたしの前に、差し出される肉の欠片。
あたしはまたしてもそれにかぶりついた。
もっぎゅもっぎゅもっぎゅ……
無言で肉を切るレメクと、それを食べるあたし。
白々と明ける春の空は、いつのまにか淡い湖の色。さわやかな朝の光に照らし出さたテーブルには、あちこちに食べかすがくっついている。
テーブルマナーを学びだしてから約一ヶ月。
春の大祭は、あと七日にまで迫っていた。