1 いきなり結婚宣言!
目が覚めると、何故か視界全てが湯煙だった。
「ぷぉっ?!」
びっくりして上げた声が変なのは、口が湯につかっていたから。
危ない危ない。鼻まで浸かってたら、そのまま窒息するとこだった!
あたしは大きく息をつき、ついでパチパチと瞬きをした。
暖かい乳白色の霧の中。ぼんやりと見えるのは、ほのかに光る複数の灯り。
それらに照らし出された周囲の壁は、岩を掘り抜いたような形をしていた。
岩窟だろうか?
生まれて初めて見るその偉容に、あたしは言葉もなく魅入ってしまった。
王都に生まれて八年。少なくとも、あたしが住む貧民街にこんな岩窟は無かった。
まして湯の湧く岩窟など、聞いたこともない。
全身を浸すお湯は、噴水の水のような透明ではなかった。
濁っているのだろうか?
やや灰色に見えるそれが、波紋と一緒に右から左へと流れていく。
目で追えば、流れていく先に水辺の縁があった。
段差があるらしく、湯はそこから下へと流れていっている。
湯が動くのは、あとからあとから新しい湯が注がれているからだ。いったい、どれほどの薪を投入しているのだろうか。
まるで温水の泉のようだ。
(暖かい……)
あたしはうっとりとその温もりに微睡んだ。
凍りついていた手足にも熱が宿り、ほわほわと頭の中にも湯煙が漂ってくる。
このまま眠ったらさぞかし気持ちいいことだろう。春の花畑にでもいるようだ。
そう思った途端、カクンと頭がのけぞった。
……あれ? なんか今、いろんな意味でやばかったような?
のけぞった頭の後ろに不思議な感触がする。硬いような暖かいような。
……てゆか、ここどこ?
「気がつかれましたか」
ふと、すぐ後ろで声がした。ものすごく近い。あたしはほぼ真後ろを振り返り、
「なんで服着たまま浸かってんの!?」
絶叫した。
場所は分からない──岩窟の中の湯の泉?──その中で、なぜか服着たまま浸かってる男が一人。おそらく二十代後半。そしてそれに抱えられてるあたし。
「……ずいぶんと元気に……。おや、一瞬だけでしたか」
絶叫後にフーッと意識が遠のいたあたしを、慌てもせずに男が抱え直す。クラクラするあたしの視界は真っ暗で、側頭部がしっかり湯に浸かっていた。危ない。危うく沈む所だった!
「先程まで死にかけてたのですから、急に動いたりしないほうがいいでしょう」
「し……死にかけ……? あ、ああ! そういえば、あたし死にかけてたんっ……」
……フーぅ……
またもや半失神。
さすがに嘆息をついて、男があたしを再度抱え直す。
「せっかく持ち直したのですから、今から死に直すのはやめてください。体が万全では無いんですよ。大声をあげるのも禁止です。……風呂場で幼児の遺体があがったりしたら、私の常識が疑われます」
風呂場。
その言葉に、あたしは驚いた。
噂には聞いたことがある。金持ちの家には、「お風呂場」と呼ばれる場所があるのだと。
そこでは大盥よりも大きな入れ物に、たっぷりの湯が入れられているらしい。その中で体を温めたり、洗ったりするのだという。
人が中に入ってしまえる入れ物だなんて、いったいどんな大きさなのか。
大きな木箱ぐらいなら想像がつくが、中にたっぷり湯を入れるとなると、どんな物なのか想像もつかなかった。
木箱なら水が漏れるだろうし、鉄は錆びるし何より高い。
だいたいにして、そんなにたっぷりの湯を使うこと自体がもったいない。
湯を湧かすには沢山の薪がいるし、入れの物にお湯を入れるための人足もいる。
しかも人が入った後の湯は捨てるのだとか。
あまりにも非常識な金の使い方に、さすがにそんな噂は嘘だろうと思っていた。
なのに、この場所はその「風呂場」なのだという。
言われてみれば、たしかに人が入れるほど広くて大きな場所に、たっぷりの湯が入れられている。
暖かくて気持ちよくて天国にいるような気分だが……いやいや、かかる費用を考えればとんでもない。血の気も下がるというものだ。
こんなものを常識とばかりに毎日利用している貴族とやらは、きっと頭の構造からして違うのだろう。
だが、しかし。そんなオカシイ貴族でも、服を着たまま入る人はいないと思う。
あたし達だって、水浴びのときは真っ裸になるもんだ。
「……『服着用インお風呂』なあたりで、もうとっくに常識は疑われてると思うけど……」
視界がぐらぐら揺れる中で、あたしはそう反論した。
返答の前に、暖かい手がべしゃりとあたしの頭を撫でる。
「好きで服のまま入っているわけではありません。脱いでる暇が無かっただけです。二人そろって凍死するわけにもいかないでしょう?」
呆れ含みに言われて、(それもそうね)とあたしは頷いた。
生まれて八年。もうすぐ九歳。
ちょっと死ぬには早すぎる。
「あなたを暖めるのが先とはいえ、私もずぶ濡れで非常に寒かったものですから、さっさと一緒に入ることにした次第です。……まぁ、外套や上着類はそこらに放置してますが」
見れば抜け殻のようなものがここに至る過程に転々と置かれている。湯に入る前に景気よく脱ぎ落としていったらしい。
「この服は諦めました」
男は着ている服をつまんで嘆息をついた。
あたしは妙に揺れる視界をなんとか正常に戻そうと頭を押さえる。
そうして、水を吸って肌にへばりついている、男の服の光沢に目を細めた。
……絹っぽい。
改めて放置されてる上着を見ると、実に立派なものだった。
「……豪華な脱皮物だわね……」
一目でそれとわかる仕立ての良い服は、黒を基調とした典雅な物。一着いくらするのだろうか?
……ん?
あれ? 黒??
「……って……あんた……もしかして」
首を傾げたそいつの目の前で、あたしは大きく瞬きをした。
……そうだ。転がってるあたしの目の前にあった、あの足!
「あのとき、あたしに変なこと聞いてきた人? えぇと、あの雨の中で……」
「あぁ、生きる意志を確認した時のことですね? あの問いは私ですよ。あなたはゴミ袋のように転がってました」
……ごみ……
「ちょ、もうちょっと別な言い方ないわけ?!」
うら若き乙女をつかまえて、この男、ゴミ袋とぬかしやがった!
あたしの当然の抗議に、しかし男はあっさりと言い放つ。
「率直に申し上げて、あの有様では昨今のゴミ袋のほうがよほど綺麗です。……ところで私は先程から再三、注意していたはずですが?」
三度目のフィールドアウトをしたあたしに、冷静に男がつっこむ。
あたしはというと、ぐわんぐわん揺れる暗転した視界の中で、こっそり(その通りかも)とショックをうけていた。
最近の王都のゴミ袋のほうが、たぶんあたしの着ていた服より小綺麗だ。
そこまで考えて、あたしはハタと今更なことに気づいた。
ここ、風呂場だ。あたしは湯に浸かってる。この男も(服着たままだが)湯に浸かってる。
……で、あたしの格好は?
「……」
あたしは自分を見下ろした。
男にちゃっかり抱えられてるあたし。その姿。
すっぱだか。
「ぎゃあああああああああッ!!」
突然のあたしの絶叫に、男は思わずといった感じにあたしを離した。
途端、音をたててあたしは沈む。
ちぬーッ!!
「ごぶごばげほっ」
慌てた男の手があたしを拾い上げた。
「あぁ、失礼。驚いたもので」
「げぶふごげはっ!」
「……人間の言葉でお願いします」
むせかえって抗議もままならないあたしの背を、男の手が宥めるように撫でる。
あたしは小さな掌で、その男の横っ面をひっぱたいた。
「嫁入り前の乙女に何してんのーッ!」
その時の男の顔こそ見事だった。
それはもう、素晴らしいぐらいぽかんとあたしを見たのだ。
「……嫁入り前……ですか」
「当然でしょう?」
「当然……すぎるぐらい当然ですが」
男はもう呆然としきった顔であたしを見る。
「だから、見るなっつーのーッ!」
べちこーん! ともう片方の頬を盛大にひっぱたく。
男の両頬に小さな紅葉マークがくっきりついた。
「信じられない! どんな理由があるにせよ、未婚の乙女を素っ裸にした挙げ句一緒にお風呂入る!? 自分は服着たままで!? あり得ないわ! けどやっちゃったもんは仕方がない!!」
言って、あたしはまだ呆然としている男に指を突きつけた。
「覚悟はできてるんでしょうね!?」
「覚悟、ですか」
めらめらと怒りの炎を燃やすあたしの目を見返したまま、男は鸚鵡返しに言葉を返す。
あたしは言った。
女の最終宣言を!
「責任とっていただきます!」
男の目がまん丸になっていた。
※ ※ ※
世界にはいくつかの国がある。
そして、それらの国にはいくつもの民族が住んでいる。
ここ、ナスティア王国には約三十ほどの民族が住み、貧富の差はあるものの、それなりに上手くやっていた。
ちょっとした諍いや、民族間の掟の違いで民事訴訟があったりするものの、他国に比べればそれらは『争い』と呼べるレベルではないらしい。
が、しかし。
やってる当人にとっては、けっこう深刻な問題だったりする。
「……つまり、あなたの一族では、未婚の女性の裸を見た挙げ句触れた場合、結婚、ということになってしまうわけですか」
朝である。
あの最終宣告後に、あたしは今度こそきっちり気絶してしまった。
あの後どうやって引き上げられ、ベットに放り込まれたのかはわからない。
一応、服がわりに男物のシャツを着せられているところを見ると、着せ替えまでされてしまったようだ。
昨日とは比べものにならないぐらい元気に目をさました後、あたしはとりあえず、男のほっぺたに一発紅葉をお見舞いした。
もっとも、元気とはいっても、昨日よりはマシという程度の体調だ。
怠い体はやや高めの熱をもっていて、紅葉を貼りつけた男に問答無用で「ベット外への出歩き禁止令」をくらってしまった。
そんなあたしの横、どこからともなく引っ張り出してきた椅子に座り、あたしに質問しているのが昨日の男。名をレメクというらしい。
本当はもっと長ったらしい名前で名乗られたのだが、長すぎてもう忘れてしまった。
だいたい、他族の正式名称なぞ言われても、無知なあたしにはさっぱり解らない。
「ふぐぐもごむむんむむんっ」
「……返事は食べ終わってからでけっこうです」
必死にパンの固まりを咀嚼するあたしに、銀色のコップを差し出しながらレメクが言う。
ご飯をくれる人の命令には、できるだけ逆らわないようにすること。
孤児院の鉄則を守って、あたしはひたすら美味しいご飯を貪った。
もちろん、禁止令もちゃんと守っている。
受け取った銀コップには、白っぽい液体が入っていた。
……なんだろう?
見たこともない飲み物に、あたしはまず匂いを嗅ぐ。
フンフンフン……はじめて嗅ぐ不思議な匂いだ。
(あ、でも、なんかちょっと、懐かしいような匂い……)
「……飲み物ですよ」
ふんふん鼻をならしているあたしに、微妙な表情でレメクが言う。
チラとそれを見てから、あたしは意を決してコップに口をつけた。
やや温めに入れられている液体を口に含み、
「!」
あたしは一瞬、硬直した。
横で見ていたレメクが何事かと目を瞠ったぐらい見事に硬直していた。
そして、
ごっごっごっごっ!
ものすごい音をたててあたしはコップの中身を飲み干す。
最後の一滴まで逃さず飲み干そうと仰向き、じーっと静止しているあたしに、レメクがちょっと躊躇いがちに声をかけた。
「……山羊の乳なら、まだありますが……?」
レメクを振り返ったあたしの顔は、比喩でなく輝いていたと思う。
三杯ほど連続でおかわりして、あたしは大満足のため息をついた。
「……はーっ……し……幸せ……ッ!」
いまだかつて、こんな美味しい飲み物を飲んだことがあっただろうか? いや、ない!
感動にうちふるえているあたしに、レメクがなんとも言えない表情になる。
「……喜んでいただけて何よりですが、昨日の今日で体調が芳しくないのですから、もう少し落ち着いて食事をするべきでしょう」
言ってから「もっとも……」と微妙な表情で嘆息をつく。
「これだけ食欲があれば、回復も早そうですが……」
彼の目線の先には、空になった小さな鍋が二つ、転がっていた。
数十分前にはパンくずがいっぱい入った粥と、野菜と肉を細切れにしたスープが入っていた鍋だ。
ちなみに美味しくいただきました。
「さて、先程の掟ですが……私が記憶しているところでは、シャーリーヴィの森にいると言われる『メリディス族』のみがこれに該当していたはずですが……?」
視線で問われて、あたしは頷いた。
レメクはどこか疲れた嘆息をつく。
「……うっかりしていましたね。メリディス族はほとんど幻の一族でしたから……」
「あたしがメリディス族じゃないなら、何の問題も無かったような口ぶりね?」
「えぇ。死にかけていた子供を助けただけのことですから。あとは体調の回復を待って孤児院に帰して終わりです。少なくとも、こんな大事にはなってませんよ」
レメクが言う『大事』とは、うちの一族の『掟』のことだ。
一族の掟は、時に国の法律すらも凌駕する。
「……髪の汚れがとれたとき、もしかしてとは思ったのですが」
ちなみにメリディスというのは、うちの母親の血族の名称である。
この国の場合、辺境の森の中ぐらいにしかいないらしい。けっこうな世捨て族である。
特徴は紫がかった銀の髪。
「そりゃ、うちの一族は辺境あたりにしかいない(らしい)もの。って言っても、あたしも母さんぐらいしか同族の人知らないし、生まれたのもこの近所だから、一族がいるっていう森の場所も知らないんだけどね。昔は妖精か精霊みたいな扱いだったんだって! ……本当?」
最後は問いの形になったあたしに、レメクは淡々と頷く。
「森で迷うといつのまにか傍にいるという、摩訶不思議な怪談話はよく聞きましたね」
「……あたしの一族は幽霊か……」
「森の案内人とも森の民とも言われてましたが、その稀有な髪と微妙な噂のせいで乱獲にあったとか。今は天然記念……いえ、保護指定一族になっているらしいですが、私も管轄外ですので詳しくは存じません」
「……あたしの一族は絶滅危惧種か……」
なんだか微妙にガックリだ。
……というか、微妙な噂って何だ?
「まぁ、それもずいぶん昔の話ですし、今では染め粉のせいで実に様々な色の髪が溢れていますから、あなたのこの髪もさほど珍しくは……」
言いかけて、レメクはなぜか沈黙した。
「……いえ。少々気をつけないといけないかもしれませんね」
どうやら珍しい色なのは確かなようだ。前言撤回するほどに。
「あれだけ汚れていれば、元の色などさっぱりわかりませんでしたが……洗ってしまったのは、失敗だったのかもしれません。どれぐらい時間をかければ、あのドブネズミが汚泥に飛び込んだ後のような色に戻るんです?」
「……あんた、もしかして喧嘩売ってる?」
あんまりと言えばあんまりな表現に、あたしは胡乱な目でレメクを見上げた。
レメクは心外そうな顔であたしを見返す。
「極めて正確に表現したつもりですが……?」
極めて天然に失礼な男だった。しかもこれを大まじめに言うのだから倍腹が立つ。
さぁどう言い返してやろうかと睨むと、レメクはすっと目を細めた。
元々が怜悧な顔立ちのため、そうすると妙に酷薄に見える。
ちょっと怯んでいると、トントンと指で自分のこめかみを軽く叩いて、レメクがあたしに問うた。
「どうやら、ある程度質問に答えれる程度には体調もいいようですね?」
問うというより、確認だ。
まぁ、これぐらいの熱や体のダルさなら、孤児院生活ならいつものことだし……
「うん。まぁ……平気」
「では、いくつか質問させていただきます。衣類の形状から、私はあなたを都内の孤児院に住む者と判断しましたが、間違っていますか?」
「……合ってるけど……」
「衣類の洗濯はおろか、清潔さを心がける余裕もない生活であったと推測されますが、これについては?」
「もちろん、合ってる」
「栄養状態も良いとは言えませんね?」
「うん」
「教会の神官から学問の手ほどきを受けたことは?」
「……なにそれ?」
あたしの問いに、レメクは軽く息をつく。
気になっていたことを簡単に確認していただけであることは、彼の口調や目の色からなんとなくわかった。
だが、確認できてもちっとも嬉しくなさそうだ。
「神官なんて一度も来たことないけど、それがどうかしたの?」
レメクはさらに嘆息をつく。
一瞬だけ迷うような目をしたが、結局は答えてくれた。
「……陛下はここ数年、貧困層の救済に力を入れられています。孤児院ももちろん対象内です。神官の訪問はその一環で、字を教えるのがその目的です。……王の方策が端々まで行き渡るよう、手はずを整え実行するのが臣下の役目。辺境であるのなら、真に遺憾ではありますが、行き渡らない事例もそれなりにあるでしょう。……ですがここは王都。陛下のお膝元にあって、庇護下であるはずの孤児院の子供があの様子とは、どういうことでしょうね?」
じっとこちらを見つめてくる目には、何の感情も浮かんでいない。問いの形ではあるものの、あたしの答えを期待しているわけでも無いだろう。自分の思考に沈んでいるのは明白だった。
「普通に考えれば、王様の部下が従ってないってことでしょ?」
あたしの声に、レメクが瞬きをした。まるであたしがいることに初めて気づいたような顔だ。
ちょっとムッとした。
「あたしがいた孤児院の生活だって、何も向上してやしなかったし。王様が言うだけ言って何もしてないか、命令された部下が何もしてないか、命令された部下の下の人が何もしてないかのどれかじゃないの?」
レメクはなぜかまじまじとあたしを見た。
……なんだろう?
お返しにマジマジと見返すと、口元に微苦笑めいたものを浮かべて質問してくる。
「あの衣服の支給があったのはいつです?」
「えーと、半年ちょい前……かな」
「何枚支給されました?」
「一枚だけど?」
「……食事の配給は?」
「そんなの、ほとんど無いわ。一日一杯のスープか、パンの欠片が手に入ったら大もうけよ。みんな小銭仕事探して右往左往してるんだから」
なるほど、とレメクは顎を撫でる。
その口元には、やはり微苦笑めいたものがあった。
「それを誰かに訴えたりはしなかったのですか?」
「誰に言うの?」
あたしの問いに、レメクは一瞬押し黙り、ハッキリと驚きを顔に出した。
そんな切り返しがくるとは思ってもみなかった顔だ。
「……そう……ですね。誰に言えばいいのか、誰もあなた方に説明しないのなら、あなた方がそれを知る機会は無い……」
軽く額に手をあてて、かすかにそれとわかる声でそう呟く。
頭の中では思考とかいろんなものが高速で回転しているのだろうが、傍にいるあたしにはさっぱりわからなかった。
「それって大問題?」
「……えぇ。この関連の事業にかなりの額の費用があてられていますから。それが正常に動いていないとなると……」
「誰かがネコババしてるんだよね、普通に考えると。うちの院長もよく太っていいもの着てるから、ネコババしてる一人かな」
あたしでもわかる簡単な図式を口にすると、何故かレメクは驚いた顔であたしを見ていた。
な……何事?
「……あたし、変なこと言った……?」
「……いいえ」
レメクは首を横に振る。その口元に、またゆるゆるとあの微苦笑が浮かんだ。
「……ふむ。面白いですね」
「……なにが?」
あたしの問いに、レメクは口元を軽く歪める。
それは苦みの勝った冷笑に見えた。
「他の官吏達にこの手の話をしても、まず大抵否定の言葉が先に出るんですよ」
「??? どういう意味?」
あたしは素直に首を傾げる。
レメクは笑みを消し、嘆息をついて椅子に深く背をもたれかけさせた。
「例えば、ここに不正を行っている者がいたとします。それはもう、白い紙に黒い墨を落としたぐらいハッキリとわかる不正です。私はその不正について『こうこうこういう不正があるのでは無いか』と官吏に言います。すると……」
「否定されるの?」
「ええ。まず最初にもらうのがこの言葉です。『まさか』『そんな馬鹿な』『何かの間違いでは?』……調査の一番最初で疑うこと自体を疑ったり否定したりするのが、私としては不思議でならないのですが」
「不思議っつーより馬鹿って言わない……? それ」
あたしの声に、レメクは「くっ」と喉を鳴らしてちょっと前屈みになった。
口元に拳がいってるので、もしかして笑ったんだろうか?
何がツボに入ったのか不明だけど。
「先入観のない意見というのは、なかなか新鮮で良いものですね」
声が少し楽しそうだった。これは本音なんだろう。あたしは首を傾げた。
「他人の意見っていうのは、たいてい新鮮でおもしろいもんだと思うけど」
「……ふむ」
あ、口元がちょっと笑った。
「そういう意見もありますか」
「あんた……じゃない、えーと……」
あたしが言葉を探すと、レメクは呆れを含んだ目を向ける。
「もう一度名乗りましょうか?」
「いや、いい。長い名前はきちんと覚えられないから。んーと……んーと」
「レメクだけでいいと思いますが」
「よくないわよ。同い年ならともかく、年上の、しかも旦那様になる人を軽々しく呼び捨てにはできないわ」
旦那様、の所でレメクがなんともいえない顔になる。
「その問題がまだ解決してませんでしたね……」
「解決もなにも、決定事項だもの」
「解決してませんし、決定もしてません。あれは非常事態であり、一族の掟の適用外である可能性があります」
「ないです」
「あるんです!」
ちょっと必死だ。
「私の方も仕事があるので今すぐには無理ですが、機会を作ってシャーリーヴィの森へ行きましょう。あなたの一族の長に話しをつければ、会議にかけてもらえるかもしれません。掟に関しては、一族会議の決定があれば反故も可能なはずですから」
「乙女の裸を見ておいて、その逃げ根性はどうかと思うわよ旦那様」
「乙女と言う年では無いでしょう、まだ。そして旦那様はやめてください。あなたは私の使用人ではありません」
「旦那に様つけて旦那様」
「却下です」
……ちっ……
舌打ちしたあたしに、レメクは頭痛でも覚えたのかこめかみを揉む。
「一族の掟はどんなものであれ、一族内では国の法律を超える強制力があります。ですが、それに縛られる必要もないはずです。まして昨日のことを知るのは私とあなただけです。双方が無かったことにすれば問題は解決できます」
「却下です」
「なぜ却下ですか」
「私がそれを良しとしないからでず……っつー……舌噛んだぁー」
やはり慣れない口調を真似るのは危険だ。
口を半開きにしたまま涙目になってるあたしに、レメクは呆れ顔でため息をついた。
「まだ小さいのに、どうしてそんなに掟に従おうとするんです? だいたい、それをあなたに教えたのは誰です」
「母さん」
これにはちょっとレメクも沈黙した。
他に一族の者がいなくても、血と魂で繋がっている家族から掟を教えられた者は、たいていそれを遵守する。それはどの一族でも同じはずだ。
果たして、レメクは盛大なため息をついたのだった。
「やはり、一族会議ですね」
「往生際悪いわよ、主人様」
「変な呼称を作らないでください」
「じゃあ、ご主人様」
「なお悪いです。あなたは使用人ではありませんし、私は主でも主人でもありません」
先手打たれた。
旦那もダメ、主人もダメ。残るのはー……
「えーと、お兄様」
「兄と呼ばれるような年ではありませんし、貴方との年齢差を考えても非常におかしな呼び方と思いますが」
そこまで言ってから、レメクはちょっとあたしを見た。
「いくつです?」
「八つ」
「……私の四分の一しか生きてないんですか」
なにか一気に歳を感じたような声だ。
……というか、三十超えてる!?
「三十二!?」
「えぇ……。おや、計算はできるんですね」
「ちっちゃい頃に母さんから教わったわ。……てゆか、意外と上だったんだ。あたし二十後半ぐらいかと思ったのに」
「年の差がよくわかっていいですね。私はあなたぐらいの子供がいてもおかしくないわけです」
「いるの?」
「……いませんが」
「奥さんは?」
「おりませんよ」
その答えにあたしはにっこりと笑った。
「じゃー問題ないじゃない」
「…………」
レメクはいっそう盛大なため息をついた。問題点が違うと言いたそうな顔だが、あたしとしては、この件に関してはそれぐらいしか問題と呼べる問題など無い。
「んーと、おじ様」
お兄様より上で、年齢差を考慮してそう言ってみた。なかなかしっくりくるような気がする。レメクもこれには反論のしようがないのか、ダメ出しはしてこなかった。
ただ、何か諦めたような深いため息をついた。
「それで結構です……」
「じゃあ、話が決まった所で、結婚の日取りなんだけどね」
「そっちはまだ未解決です! だいたい、八つで結婚も無いでしょう。十年早いですよ」
「じゃあ、十年後ね」
言葉をとって言い返したあたしに、レメクは額に手をあてて嘆息をつく。
あたしは魂の予定帳にしっかりとスケジュールを書き込んだ。なかなか楽しい未来予定がたてそうだ。
「でも十年後って、考えると遅すぎるのよね……パルム族の結婚なんて十三からだし、クラヴィス族は十六からでしょ?」
レメクはもう答えすら返さない。頭が痛いのかこめかみを揉んでいるが、考えを放棄しているわけではなさそうだ。あの目を見る限り、必死で打開策を考えている。
あたしはレメクの大きな手を小さな手で握った。
両手で。
レメクが胡乱な目であたしを見返す。
まだ何か言う気か? と言いたげな視線に、あたしはにっこりと笑って言った。
「不束者ですが、末永くよろしくお願いいたします」
レメクはただ、ひたすら深いため息をついたのだった。
そして、あたしの対「おじ様」攻略が始まった。