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 8 生と死のほとり

 圧倒的な力の波動が駆け抜けた。

 瞑った目には何も映らず、塞いだ耳には何も聞こえない。

 けれどあたしの脳裏に、凄まじい勢いで様々な光景が弾けた。

 泣きながら助けを請う子供。物のように運ばれていく病気の子供。積み上げられた子供達の死体。檻に入れられ、鎖に繋がれた子供。そして、我が子を取り戻そうとする母親。

 まるで誰かの走馬燈を覗き見るようだった。

 あたしの視点よりも高い位置からの視界。それが誰のものなのか、考える必要も無かった。

 エットーレ・ブリル。

 この記憶の全てが、彼の罪だ。

(これ……が……)

 記憶の濁流に吹き飛ばされそうなあたしの意識が、ギリギリの境界線で呟く。

(……罪と罰の……紋章……)

 稀有なる『闇の紋章』を介して、あたしの中に情報が入り込んでくる。それは頭の中に浮かぶ映像のようでもあり、刻まれる記号のようであった。

(……レメク……)

 他者の記憶が凄まじい速度であたしの小さな脳みそに送り込まれる。あたしは悲鳴を上げた。受け止められない。子供達の悲鳴が、子を奪われた親の慟哭が、あたしの心を引き裂いていく!

(レメク!!)

 助けを求めたとき、心がはじき出す名前は一つだけだった。

 その名前にすがりつき、あたしは『あたし』を押し流してしまいそうな記憶の激流に耐える。

『ベル!』

 即座に救いの闇が降りてきた。

 唐突に悲惨な映像がかき消える。深い静寂を伴った暖かな闇。真綿でやんわりとくるむように、暖かなそれが優しくあたしを包み込んでくれた。

 穏やかに癒される感覚に、あたしはうっすらと目を開く。

「ベル!」

 声が飛び込んできた。レメクの声だ。

「ベル!!」

 あたしはレメクを見た。レメクは切羽詰まった顔であたしを覗き込んでいる。どうしたんだろう? そんなに必死な顔をするなんて。

「ベル! 息をしなさい!!」

 レメクの声は悲鳴のようだった。

 痛みを堪えるようなその眼差しに、嗚呼、とあたしの唇からため息が零れる。

 泣きそうな目だと思った。

(レメク)

 大丈夫よと、そう言いたかった。だって、レメクが傍にいる。蹴られたり殴られたりしたけれど、もう痛みも全然感じない。だから大丈夫。

「ベル!!」

 ただ、少し寒い。レメクがこんなに傍にいるのに。

 レメクから優しくて暖かい命を感じるのに。それを惜しみなく流し与えてくれているのを感じているのに、どうして体がだんだん寒くなるんだろう? 

(レメク)

 指先の感覚が無い。足も、腕もわからない。体全部が自分のものじゃないみたい。どうしたんだろう?

 ねぇ、レメク。あたしちょっと、おかしいみたい。

 ごめんなさい。ちゃんと言いつけを守らなかったからだよね?

 ねぇ、いっぱい叱ってね。いっぱいいっぱい怒ってね。あたしもちゃんと聞くから。姿勢正して声を聞くから。

 あぁでも、どうしてそんなに泣きそうな顔をするの?

 大丈夫よ。だってほら、こんなにあなたを近くに感じてる。

 こんなにも暖かいあなたを感じてる。

 だから。

「ベル!!」

 だからほら、ねぇ、泣かないで……?

 何故だかぼやけた視界の向こう、淡く霞むその人に笑いかけて、あたしの意識は暗転した。


 ※ ※ ※


 闇が漂っていた。

 天も地もなく、右も左もなく。

 どこが上でどこが下なのか、そもそもそれは何を基準としているのか、そんなことすらわからない深い深い闇の中。

 あたしはそこに立っていた。

 そこがどこなのか、あたしにはわからない。

 ただ闇だけが周囲に満ちていた。

 あたしは視界を広げる。どこまでも続く果てのない闇。方角も何も無いのに、離れた場所に空恐ろしいほどの深みを見た気がした。

(……あれは……)

 闇であることには違いない。けれど、何かが違う。言うなれば濃度か。ここよりも少し離れた場所にあるそこは、あまりにも深い色をしている。

 まるで、全てがそこで消えてしまうような闇の色を。

(あれは……)

「あれが、死、です」

 たゆたうように導かれるようにそちらに向かいかけたあたしをその声が寸前で引き留めた。

 あたしは声を振り仰ぐ。

 すぐ横に、一人の男が立っていた。

 闇の中にあって、闇よりも尚暗きヒト。闇よりも尚深きヒト。ありとあらゆる全てが闇に沈んだ中で、ただ独り、確かたる『己』を持って『在る』ヒト。

 あたしは呆然とそのヒトを見る。全身に冷水を浴びせられたような、壮絶な恐怖を覚えた。

「……また来てしまったのですね、貴女は」

 呟くように囁くように、闇の化身のようなそのヒトが言う。

 凄絶なほど整った貌には、何の表情も浮かんでいない。まるで感情が欠如してしまっているかのようだ。

 神代のヒトの彫像が喋れば、こんな感じになるのだろうか。そこにたしかに居るはずなのに、居ないような不思議なヒト。

 あたしは全身が震え出すのを感じた。

 あの『死』と呼ばれた場所と同じ気配が彼からはした。空恐ろしいほどの『虚無』が。

「私が恐ろしいですか? 小さな導きの星の子。誰よりも死に近く、誰よりも死から遠い小さなレディ」

 感情のない顔のままで、男はそうあたしに問いかけた。

 あたしは素直に頷く。偽りは意味をもたない。そう直感した。

 この男には、嘘など通じない。

「恐ろしいと、そう思うことは正しいでしょう。そしてそう思うのなら……貴女はまだ、貴女の在るべき場所で、成すべきことがあるということです」

 そっと息を落とすように、男はそう言ってあたしの行く手に視線を投じた。

 深い深い、死の闇に。

「あちら側に落ちれば、もはや蘇生は叶いません。……私がいる時でよかった。あの子が命を賭してでも引き戻そうとするのなら、私は貴女を帰さなくてはいけませんから」

 あたしは怯えながら首を傾げた。彼の言葉の意味がさっぱりわからない。

「……あそこに行けば、人は死ぬの?」

 男はこてっと首を傾げる。それはどこか人形の動きに似ていた。

「……さて。その問いは、とても微妙です。ええとも言えますし、いいえとも言えますから。人の子の持つ『死』の定義は、私のそれとは違いますので」

「……違うの?」

 男は視線を深い闇へと向ける。その先にある、死という名の虚無に。

「あれこそが時の最果て。ありとあらゆる存在の中で、唯一『永遠』なるもの。忘却の淵とも、忘却の川とも呼ばれるもの。国家や思想によって言い表し方は千差万別なれど、その本質は唯一つ。……存在の消滅。死という名の無です」

 では、人は死ねば、あそこへと至るのか。

 死んでしまった人は。プリムは、母は、あそこに居るのか。

 あたしの意識がそちらに向くよりも早く、男があたしの前に立った。

 あたしはそれを仰ぎ見る。

(あの時のように)

 何故か、そんな感想を覚えた。……あの時のように?

 あたしは目を瞠る。死の前に立ちはだかった、そのヒトをまじまじと見上げた。

(このヒトは……)

「還りなさい」

 静かな声が、死への道を塞ぐ。

「貴女を待つ人の元へ。貴女にはまだ、成すべきことがある」

 そう言って、あの時と同じようにあたしの背後を指し示す。

 あたしは男を見た。

 ただ静かにあたしを見る男を。

「……あの時も、あたしを助けてくれた……?」

 光と闇の狭間で。

 問うあたしに、けれど男は何の返答も返さない。

 あたしはただ男を見上げる。

 あの時、今いる場所とよく似た所を夢で見た。それが本当に夢だったのか否かは、あたしにはわからない。

 ただ、覚醒だと思った光の中に、絶対的な『死』があった。

 その死の前で、あたしは立ちふさがる二人の姿を見たのだ。

 一人はレメク。そして、もう一人は……

 今、この目の前にいる、闇の全てを支配するヒトだ。

 男はただ口角を上げる。それはまるで顔に浮かんだ亀裂のようであり、とても笑みと呼べるようなものでは無かった。

 けれど、何故だろう?

 あたしは男を見る。

 微笑いかけてくれているのだと、何故かそうわかった。

 決して目には見えない暖かな『何か』。

 理由などわからないけれど、それはあたしのよく知る人に似ていた。

(……レメク)

 顔立ちがそっくりだというわけではない。けれど、どこか似ている。彼と、このヒトは。

「……あまり、あの子を虐めないでやってください」

 あたしを見つめたままで、男がそう言葉を紡ぐ。

 どこか優しい、暖かいものを込めて。

「……あの子は、寂しがりだから」

 あの子と、小さな子を呼ぶような呼称なのに、なぜかあたしはその声にレメクの姿を思い出していた。

 レメク。あぁ、もしかして、もしかしてこのヒトは……!?

「あ……!」

 あたしは声を上げる。

 だが、それよりも早く、世界が大きく歪んだ。

 背後から強い力で引っ張られるように、体が大きく後ろへと引き寄せられる。

 何か大きな入り口に吸い込まれるように、うねるような力に引き寄せられる!

「還りなさい。貴女の在るべき時と空のもとに」

 夜の静寂にも似た静謐な声が、更にあたしの体を一層そこへと押し出そうとする。

 あたしは思わず手を伸ばした。

 急速に遠ざかる、死と同じ気配のするそのヒトに。

「待って……名前……! 待って!! ねぇ、あなたは……」

 あなたは、もしかして、

 もしかしてレメクの、

「お父さん!?」

 男が驚いたように顔を上げたのが見えた。もう遠い。あんなにも遠い。だから、例えあの顔が何らかの表情を浮かべていたとしても、決して見えなかっただろう。

 けれどあたしは何故か、見えた気がした。

 虚無を宿すその男の美貌が、どこか困ったように微笑わらって傾ぐのを。

「ええ」

 けれどそれは、どこか楽しそうに、どこか嬉しそうに、密やかな声でこう続く。

「血は繋がっていませんが……」

 あたしの脳裏に、レメクの育て親の名前が浮かんだ。違う。直感がそれを否定する。違う。ステファン老じゃない。でも実の親でもない。では、彼は一体誰なのか。

「いつかまた、お会いしましょう。もう一人の小さな黄金の魔女」

 声が遠ざかる。

 闇が遠ざかる。

 生と死のほとりに立つそのヒトの姿も。

「……あの子と、私の主に、どうぞよろしく」

 って言われても、あたしあなたの名前もあなたのご主人様も知らないし!!

 あたしは届かないだろう声のかわりに全力でそう念じた。

 世界が急速に色を変えていく。懐かしく暖かなそこに飛び込む寸前、闇の残り香のような声がそっとあたしに囁いた。


 ポテト、と。


※ ※ ※


「……じゃがいも?」

 ぽつりと呟いた自分の声で我に返った。

 暖かく愛おしい匂いのまっただ中。幸せの極地にすっぽりとはまりこんだ状態で、あたしは目を覚ました。

 目が覚めたはずなのに、違う意味で夢を見ているようだった。

 目の前には、初めて見るレメクの寝顔がある。どこか苦悶の表情を浮かべているその顔は、しっかりと目を閉じて微動だにしない。

(……レメク……)

 丁寧な作りの顔は、眠っていると一層その端正さが目立つ。伏せられた睫は長く、あたしはしげしげとそれを眺めてしまった。

(……レメクって、本当、綺麗な顔してるのね……)

 改めてそう思う。けれど静かな寝顔はどこか頼りなげで、泣き疲れて眠った子供のような感じがした。

(レメク……)

 あたしはその頭を撫でてあげようと手を伸ばす。

 だが、

「むきゅ!?」

 後ろからギュムッと押しつけられた巨大な柔肉に押しやられ、手をどうこうする前に目の前のレメクとの間にサンドイッチされてしまった。

「ベル! 気づいたか!!」

 この巨大なムッチリンには覚えがある。

 そう思った瞬間にかけられた声に、あたしは胡乱な目になった。

 身動きがとれないので目線だけ上げると、果たして、喜色満面の美貌がすぐそこに!

「……アウグスタ……」

 輝く美貌の黄金の女王陛下は、喜びと安堵を全身から放出しつつあたしをぎゅっと抱きしめる。

 レメクごと。

「こンの馬鹿娘が!! 貴様には生存本能がついておらんのか! 愚か者めッ!! 何度死にかければ気がすむのだコンチキショーッ!!」

 ジョオウサマ。お言葉が乱れてますヨ。

 ぎゅむむむーと豊かすぎる胸に圧迫されながら、あたしは複雑な気持ちを味わっていた。

 正直、アウグスタは柔らかくて暖かくて気持ちいい。そしてレメクの体に力一杯押しつけられるのも問題ない。むしろバッチコイ。

 だがしかし、『レメクサンド』をされるということは、結果的に、アウグスタがレメクをハグしているような状況であり……

 い、いかん! 早く離さなくては!!

 このすンばらしいボリュームに慣れてしまったら、きっとレメクはアウグスタにメロメロになってしまう!!

「にゃ……にゃなぁああッ!」

 あたしは大慌てで暴れた。早く、早くここから脱出しなくては!

 レメクがアウグスタの体を覚える前にッ!!

「こら小娘! おまえ、死にかけたくせに何やっている!」

 だって!

「大人しくしていろ! レメクまで死にかけたんだぞ!!」

 力ずくで押し戻され、レメクの胸にベタッと貼りつけられながら、あたしはアウグスタの声に愕然として目を見開いた。

 な……なんて!?

「お、おじ、おじしゃまが……!?」

 舌がもつれた。

「全く……! おまえときたら、本当に……!!」

 そんなあたしを何故かレメクごとギュムッと抱きしめて、アウグスタがあたしの右頬に頬ずりした。なんとなく、母猫にハグされる子猫の気分。

「状況をよく見てみろ。おまえとレメクを助けるために、こんな状態なんだぞ」

 そう言って体を退かせたアウグスタに、あたしはそろそろと上体を起こす。

 そして見た。

 違う意味で完成されたレメクサンドを。

「な、なにこれッ!?」

 よくよく見れば、ここは大きな布で周囲を覆ったテントのような場所。

 下に敷かれているのは豪華な毛皮。そこで横になるあたしと大人四名。

 ちなみに図はこう。左からアウグスタ、あたし、レメク、ケニード、バルバロッサ卿。

 そして全員ぴったりくっついている。

 なんというか、例えるならば、積み上げた亀の一軍をそのまま綺麗に横に倒した感じ。ハム(ケニード)とレタス(レメク)とタマゴ(あたし)をパン(バルバロッサ卿とアウグスタ)で挟んだサンドイッチ。見れば苦悶のレメクの向こう側で、至福の表情をしたケニードがいる。

 レメク、哀れ。

 そして全員、綺麗に爆睡……でなく、気絶していた。

 盛大に「?」を飛ばしたあたしに、アウグスタが嘆息をつく。

 問答無用であたしの体をレメクに押しつけ直し、覆い被さるように再度サンドイッチを実行しながら小声で言った。

「手早く状況を説明するぞ。……ここは王宮でもレメクの家でも無い。おまえのいた孤児院の一角だ。……余裕が無かったからな、ここに結界を張り、テントを設置しておまえ達を保護したんだ」

 おまえ達、で、なぜかアウグスタはあたしとレメクをセットで見た。

 ……あれ? レメクもなの?

「おまえのお友達は無事だ。ちょっと眠ってもらったがな。……大変だったんだぞ、あの後」

 押し殺したような嘆息をついて、アウグスタはぐしゃりと自分の前髪を掻き上げる。そうして、油断無く外の気配を探ってから言葉を紡いだ。

「……あの紋章は、万全ではない」

 ぼそりと呟く声は、ほんのわずか、緊張をはらんでいる。

「人の体は光と闇の両方から成っている。闇は全てを内包し、混じり合わせ、結合させるもの。故に肉体の死、死という名の生命の解体は、闇の手にて救うことができる。……だが、これは禁忌だ」

 小さな声が、辺りを警戒しながら囁く。

「その存在の禁忌さだけではない。これは、使用者にとっても諸刃なのだ。繰り返しになるがな、ベル。おまえの体は、闇の手で死から免れている。だが、それは永遠では無い。決められた期限までに、決められた値まで体が回復しなければ、お前は必ず死に至る。死とはそれほど回避が難しく、また絶対的なものだからだ。……おまえはただ、僥倖によって回避の機会を与えられただけにすぎない」

 だから、あたしはしっかりと体を休めなくてはいけなかった。

 自分を守らなくてはならなかった。

 他の誰でもなく、あたしこそが、最も死に近い場所にいる子供だから。

「……人を『完全なる死』から蘇らせることはできない。それは、どんな者であれ不可能だ。神ですらも、それは叶えられない。だから、死の直前まででしか、誰もその者を救えない」

 優雅な手が、あたしの髪を撫でる。暖かいその手が小さく震えていた。

「おまえは、二度、死にかけた。……いや、レメクの言によれば、これで三度目か? 助かったのは奇跡だ。だが……そのどれもが……ただの奇跡では無い。わかっているな?」

 あたしの命は、偶然や何かで救われたわけではない。

 その奇跡には理由がある。

 あたしはレメクを見た。血の気の失せた、その顔を。

「……レメクが、おまえを助けた」

 二人を繋ぐ、闇の紋章の力を借りて。

「おまえのために、おまえの失った命を分を、おまえが必要とする膨大な生命の力を、レメクがおまえに渡した」

 一度ならず二度も。

 それどころか、三度みたび失われた命の水を、枯れかけたあたしという器に注ぎ込んだ。

「自分の命を投げ出してな」

「!?」

 囁かれた言葉の重みに、あたしは悲鳴を上げた。

 声が音にならなかったのは、それがあまりにもショックだったからだ。目を瞠って息を止めたあたしをアウグスタは泣きそうな顔で抱きしめる。

「……ベル。きちんと知らされていないお前を……おまえだけを責めるのは酷だろう。だが、だがな、ベル。お前、なぜもっと自分を大切にしようとしなかった? なぜ、自分の命が、すでに自分だけのものではないことに気づかなかった? おまえがレメクを大切に思うように、レメクにとっても……私や、ケニードや、ルドにとっても、おまえはとても大切な存在なのだということに……なぜ、気づいてくれなかった? なぜそれをもっとしっかりと考えなかった!?」

 アウグスタの震えが伝わってくる。熱く、狂おしく、愛おしい熱が。

「おまえの呼吸が止まっていた。心臓も止まっていた。息を送り込み、心臓を動かせても、おまえは戻ってこなかった。時間が無かった……他に方法も無かった。肉体が完全に死んでしまってからでは、蘇らせることはできない。だから、レメクは……おまえに自分の命を渡したんだ」

 あたしは愕然とその言葉を聞いた。

 目がレメクの姿をとらえる。喉が乾涸らびていくのを感じた。重い空気に塞がれるように、呼吸は喉の奥で止まっている。ぴくりとも動かないレメクの姿に、心の臓が冷えていくのを感じた。

 レメク。レメク……レメク!!

「死んではいない。ベル。レメクは無事だ。……寸前で引き戻した。……生命力を失った体は、余所から同等の力を与えることで死から逃れられる。完全な死を迎える前の荒手段だがな。……あの紋章で死から免れた者は、言うなれば穴の空いた壺のようなものだ。壺の中には、生命力という名の水をたっぷり含んだ海綿が入っていると思え。そして、普通の者は壺がしっかりしているから、中の生命力が流れ出ていくことがない」

 だが、あたしは違う。

 ギリギリの縁でかろうじて生きているあたし。一度限界まで来たあたしの体は、生命力を溜めておく壺が『穴だらけの割れ目だらけ』の状態だった。

 そこからは、絶えず身の内の『溜め込むべき命』がこぼれ落ち続けている。そのままでは、よほど安静にしていない限り早晩命が尽きて死に至るだろう。

 だが、それでもレメクやケニードなど、健常で元気な者が傍にいれば話は別だった。

 乾いた海綿が、水を沢山含んだ海綿から水を吸い取るように、あたしは何も知らないままに彼等から命をちょっぴりずつ分け与えてもらっていた。レメクがずっと添い寝をしてくれていたのも同じ理由だ。

 ずっと一緒にいたのは、そのためだったのだ。

 だが、逆に、もし自分と同等、もしくはそれ以上に生命力の乏しい人の傍にいたら?

 乾いた海綿同士がそれぞれの水を奪い合うように、あたしの生命力はそちらへと流れていってしまう。他の者の場合、生命力を保持し続けるための器がしっかりしているから、例えあたしの命を奪っていっても、それ以上に自分自身の命を奪われることはない。

 だが、あたしの器は壊れている。壊れた器だから、ただひたすらに、必死に溜めていた生命力を分け与え続けるのだ。死に至るその時まで。

(……だから、あの時、倒れたんだ……)

 カッフェ達と逃げていた時、あたしの具合が急激に悪くなったのは、それが理由だったのだ。確かに精神的なショックもあっただろう。あたしはいわば、肉体と精神のダブルショックで倒れてしまったのだ。

 紋章の遠隔操作か何かか……レメクと、あの不思議の世界のポテトさんに追い返され、なおかつ元気いっぱいのゴロツキ部下A&B(そういえば、未だに名前知らない)からこっそり生命力を貰って、かろうじて舞い戻って来たが、もしあのまま何事もない状態で仲間と一緒にいれば、誰も何もわからないままにあたしは死んでしまっていたのだろう。

「おまけにおまえは、あのド腐れと戦って負傷したしな」

 ド腐れ、と言うのは、エットーレのことだろう。

 あの時の衝動と行動を思い出し、あたしはしゅんと俯いた。こんな体だというのに、あんな無茶な大立ち回りをするなんて、どう考えても自殺行為だ。冷静になった今ならよくわかる。

 どうしてあたしは、こう、裏目に出るような行動しかできないのだろうか。

「……子供というのは、無鉄砲で危なっかしいもんではあるがな……」

 しゅんとしたあたしの頭を撫でて、アウグスタがやんわりとあたしを抱きしめた。極上の真綿に包まれるような、なんとも言えない柔らかい感触がする。

「私も、大人しい子供では無かった。だからな、お前のひたすら一直線な所に、時々共感もする。だが……なぁ、ベル。大人わたしたちはいつだって、子供おまえの行動がとても恐いのだよ。こんなに小さくて、こんなに弱いのに、あんまりにも真っ直ぐに危ない方向へ突き進んで行ってしまうから」

 暖かい優しさが、染みいるようにあたしを包み込む。

「ベル。おまえは子供だ。小さくて稚くて、ちょっとしたことで壊れてしまう弱き者だ。時に思いもよらぬほどの強さを見せたとしても……それでも、おまえは、とても小さい、愛すべき子供なんだ」

 だから、と。アウグスタはあたしに囁いた。

 どこかレメクにも似た、優しくて暖かな眼差しで。

「だからもっと、大人を頼れ。自分だけで解決できるだなんて、おまえだって思ってやしないだろう? だから、私達を頼れ。私達も私達の事情があって、なかなか動けないこともあるだろう。すぐに動けなくて、イライラすることもあるだろう。けれど……頼むから、何も言わずに居なくなるな。私達の知らない所で、危険なことはするな。おまえ……レメクがどれだけ危ない状況だったか、全然知らないだろう?」

 アウグスタの半笑いの声に、あたしは驚きながら頷いた。

 あたしを助けるために、レメクが命を投げ出して……それで危険な状況だったというのはさっき説明されたが、それ以外にも、いったいどんな危機が彼の身の上に襲いかかっていたのか……!!

「人として、それはきっと良い兆候なんだろう。狼狽え、慌て、心配し……誰かのために必死になるのは、きっと悪いことではない。けれどな、ベル。それも限度がある。……本当に愛しているのなら、愛している相手を、死ぬほど心配させたりするな」

 まぁもっとも、と口を歪め、アウグスタは一転してあのオオカミの微笑を口元に閃かせた。

「時には、あえてそれをしたくなるのが、女心というものだがな」

 その言葉に、あたしは大慌てで首を横に振る。

 ダメだ。それはダメだ。わざとしちゃいけない。い、いや、わざとでなくてもしちゃいけないんだけど、今のあたしが言ってもなんか説得力ないような……!?

「ふふふ……」

 アウグスタは微笑って、あたしをもう一度ぎゅっと抱きしめた。

「おまえが戻ってきてよかった……本当によかった……。はは、しかし、参ったぞ。あのまま、全員そろって黄泉の国へと旅立つかと思ったほどだったからな……」

 しなやかな手があたしの頭をぐりぐりと撫でる。やや乱暴なその手つきには、強い安堵の色があった。

 あたしに自分の生命力のほぼ全てを渡したレメク。そのレメクに、三人がかりで生命力を補給したアウグスタ達。欠けた器を満たすために、それだけの人が必要だったのだ。

「おまえにはまだ、語っていないことが沢山ある。……今はまだ、語れないことも沢山ある。だから詳しくは言えないが、レメクはちょっと特殊でな。こやつに匹敵する人間というのは、おそらく、この国には私以外にはおるまい。人以外の者ならばともかく、な。……それほどの男が命を投げ出すほどでなければ、おまえは救えなかった。そして、おまえを救ったレメクを助けるためには、私を含めて元気だけは人千倍のこやつらをもってしても、昏倒するぐらいの力を要したわけだ。その凄まじさが、ちょっとわかろうというものだろう?」

 苦笑を溶かした微笑で言われて、あたしは小さく頷く。そのあたしの頭をクリクリと指の腹で撫でて、アウグスタは淡く微笑った。

「これで、おまえもレメクも半死人だ。しばらくは大人しく家で引きこもるか、元気のありあまってる連中の間をうろうろしているといい。そうすれば自動的に、連中の余分な元気を横取りできるからな」

 その綺麗な微笑に、あたしは一瞬、息を詰まらせる。

 黎明の光が淡く空の青さと解け合うような、鮮やかなのに柔らかい微笑み。それは、あまりにも清らかで、奇跡のように美しかった。

 あたしはもぞもぞと方向転換し、柔らかいその胸に頬ずりする。予想通り、アウグスタの胸は素晴らしく柔らかく、とても暖かかった。

「ごめんなさい……」

 アウグスタは「フン」と不満そうに小さく鼻を鳴らす。

 だが、その顔はどこか満足そうだった。

「おまえの『ごめんなさい』は信用できん。同じコトを繰り返しそうだからな。……だから、謝罪よりも感謝しろ。……そして忘れるな。おまえに何かあれば、こういうことになるんだと。……少なくともおまえの未来の旦那は、何の躊躇もなく自分の命を放り出すんだということを」

 覚えておけ、と。

 厳しくも優しい声があたしの耳朶を噛む。

 あたしは柔らかなその人の胸に顔を埋めた。アウグスタの胸は、懐かしいお母さんの匂いがする。

 あたしは言った。思いの丈を込めて。

「ありがとう……!」

 声と一緒に、涙が零れた。

 何度も何度も手を伸ばし、優しく抱き留めてくれる人。暖かく抱きしめてくれる人。

 レメク。アウグスタ。ケニード。バルバロッサ卿。

 あたしみたいなちっぽけな子供を、こんなにも大切にしてくれる人がいる。あぁ、確かに、あたしはもう独りじゃない。あたしの命も、気持ちも、あたし一人のものじゃない。

(ありがとう)

 あたしにとって、何よりも大切なレメクを助けてくれた三人。

 きっとレメクを喪っていたら、あたしは助かったその命を、その場で絶っていただろう。

 その場で後を追っただろう。

 だから、

(ありがとう!)

 彼等は、レメクを救うことで、もう一度あたしの命も救ってくれたのだ。

(……ありがとう!!)

 レメク。あたしの全て。あたしの生きる意味。あたしの生きる理由。

 あんなに沢山のものを与えてくれたのに。言いつけ一つ守れないあたしなんかのために、自分の命すらも与えてくれた人。

(レメク)

 その理由を、その意味を、その気持ちを、言葉にして聞かせてと言えば、あなたはどんな顔をするだろうか?

 怒るだろうか? 呆れるだろうか? それとも困った顔をするだろうか?

 ねぇ、レメク。あたし、本当に子供だけど、自分の感情すらちゃんとセーブできない子供だけど。いつかきっと、ちゃんとした大人になるわ。

 あなたの隣に立つのに相応しいような、あなたが命を賭けてくれるほどの……そんな価値があるほどの女性になってみせるわ。

 だって、そうでなければ、どうやって報いればいいの?

 あなたはいつも沢山のものをくれるけど、あたしはまだ一度だって、あなたに貰ったものと同じものを返せていない。

(レメク……いつか、教えてね……)

 あたしにもできること。

 あなたの望むこと。

 できればそれが、あたしにできることならいいのだけど……

 暖かくて柔らかいアウグスタと、とってもいい匂いのする大好きなレメクに挟まれて、あたしは幸せな気持ちで微睡む。ゆるゆると全身を支配しはじめた睡魔が、抗いようのない力で意識を浚おうとしていた。

 頭の片隅に、何か、ざわめくような『気になること』が沢山あるのに、今はそれを考えられない。瞼がとても重い。

「……なぁ、ベル」

 暖かな手があたしの髪を撫でる。その感触がとても気持ちよかった。あたしは返事をしようと口を開く。けれど、なんだかぼんやりとしすぎて、ちゃんとした返事はできなかった。

 意識が柔らかな温もりに沈む前に、どこか真摯な声がこう囁く。

「覚えておいてくれ。この先、どんな未来、どんな場面、どんな場所で誰に何を言われたとしても。今ここにある、この光景を。……おまえ達を心から愛している者のことを」

 けれどあたしは、その言葉に返事を返せなかった。

 まどろみが全ての思考を奪い去る。

 そうして、何もかもが起きたその後で、あたしはその言葉の本当の意味を理解するのだ。


 ──その遙か未来で。




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