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 7 断罪者

「ふむ。確かに本物……」

 あたしを眺めてそこまで呟き、院長は口を閉ざした。

 エットーレ・ブリル。

 自分の身の内に贅肉と金を溜め込むだけ溜め込んだ、つぶれた蛙のような顔をした男。

 むやみやたらに自分を飾り立てずにはいられないこの男は、いつも豪華な衣装と装身具を纏っていた。

 両手の指には、今も悪趣味な指輪群がいくつも填っている。

 掌と手首の境目がさっぱりわからない手首付近には、宝石をいっぱいつけた黄金の腕輪がギンギラギン。耳には耳たぶが伸びそうなほど大きな真珠がぶら下がり、最近とみに輝きが増している頭部には、それを隠すためか大きな宝石をつけた帽子が被せられていた。

 でっぷりとした体を覆うのは、綿布団だろうかと思うような分厚くて豪華な服。

 自分の贅肉布団の上にそんなものを羽織っているものだから、奴のシルエットは巨大なボールか東の国の調度品だとかいう『ダルマ』にしか見えなかった。坂道ではよく転がりそうだ。

 肉を二重にも三重にも重ねたようなたるんだその顔をにらみ据えて、あたしは全身の力を一点に集中させる。我が身を縛る縄を破る必要は無い。この至近距離だ。攻撃は必ず当たる!!

(下れ天罰!!)

 あたしは全身をバネに変えて突撃体勢に入った!

 しかし、

「むぐ!?」

 バッと突然視界が布で遮られ、飛びかかる間も無く袋の口が閉ざされる!!

(ぬぁあああッ!?)

 あたしはタイミングを見失って袋の中でほぞを噛んだ。ああああ飛びかかってやりたかったのにーッ!!

 い、いや、ここで感情的になって頭突きをかましたところで、ボコボコにされるのがオチだ。だから、不発に終わったのはいいことなのかもしれないけれどぁあああムキィーッ!!

 あたしは収まらない怒りその他モロモロを込めて歯ぎしりした。

 ブチブチという音がどこかから聞こえたが、痛みは無いから血管が切れたわけじゃないんだろう。

 てゆか頭の血管切れそうですよ!?

(おのれ! 誰が邪魔しやがったッ!?)

 そう怒鳴って暴れてやりたかったのだが、何せ多勢に無勢である。おまけにあたしは全身縄で縛られて袋詰め。これでは戦うに戦えない。

 悔しさを噛みしめ脳みそを沸騰させているあたしにかまわず、手早くあたしを袋詰めし直した誰かは、そのままあたしの入った袋を軽々と抱え上げた。

 感触からして、肩に担ぎ上げたのだろう。

 さっきまであたしを抱えていた部下Aよりも、一回りぐらい筋肉がついている。感触の分厚さでそれを感じ取って、あたしはキリキリと歯ぎしりをした。

 布越しに伝わる体温は暖かくていいのだが、敵だと思うと恨み百倍。

 自由になったら千倍返しにしてやるんだから! っていうかちょっと汗くさいわよ!?

(む……むむん、ムレムレ……)

 あたしは袋の中で「ぎにゃー」と悲鳴をあげた。

 あたしの鼻は元々とても良い。

 なにせ一キロ離れた民家の晩ご飯すらかぎ分ける。

 しかもここ数日、とても麗しく馨しいお方と一緒にいたので、嗅覚レベルも天井知らずに引き上げられていた。

 故郷たるスラムを臭いと思ってしまうほど、常に良い匂いに囲まれていたのだ。

 それに慣れてしまったため、この汗くさい男の体臭はとてつもなくキツかった。

(う……うう……レメク。たちけてレメク。匂い嗅がせておじ様ぁあああ)

 ああこれほどレメクの体臭が恋しくなるとは。

 あのすンばらしい薫りを是非今一嗅ぎさせていただきたい。

 それだけでこの地獄から天国へとすっ飛んでいってしまうだろうにッ!

 脳裏にレメクの姿が浮かぶ。

 最愛のお人は、なぜか思い出の中ですら遠い眼差しで逃げ腰になっていた。

 そのあまりのリアルっぷりに、あたしの涙がちょちょぎれる。

 嗚呼レメク、なぜにあなたは、つれないの。一句できた。

「しかし、旦那。これ、どこに置いておきます?」

 布越しの汗ムレ筋肉(仮名)が、誰かにそう問う。たぶん「旦那」とはエットーレのことだろう。

 ……てゆか相変わらず物扱いなわけね、あたし。

「すぐに船倉に放り込んでおきたいところだねェ……けど、万が一、弱って死なれても困るし。出発まで、港の倉庫に放り込んでおきましョうか。監視に見つからないように、慎重にね。あぁ、そうそう。水と食料は旅に耐えられる程度に与えてやって」

 キンキンと、布越しでも耳をつんざく声が聞こえる。

 あたしはいっそうギリギリと歯ぎしりをした。

 この男がもっとマトモな人だったら……もっと常識的で人情的な人だったら!

 そう思うとグラグラと脳みそが煮えたぎる。

 孤児院の院長がレメクのような人だったら、きっとあたし達の生活は違っていた。

 御飯だってちゃんと食べられただろう。着るものだってもっとマシなものを与えられただろう。餓死したり病死したりする子はいなかっただろう。

 あの寒い雨の日だって、皆が無事で切り抜けられたかもしれなかったのに!

 そんな『もしも』が浮かんでは消えて、あたしの目からはいつの間にか涙がこぼれ落ちていた。

 キリキリと胸が痛む。

 喉の奥が焼け付くような、呼吸一つが炎の吐息のような、得体の知れないザワザワとした熱が蘇る。悔しい。悔しい。自分に対する憎悪すら相手への憎しみに加算されていく。頭の中に蜘蛛の巣のような網がかかり、それは素早く脳の全てを支配して、思考の全てを絡みとっていった。

(どうやって一矢報いよう)

 あたしの思考こころがそう囁く。

 毒の水が土に染みるように、それは悪意を増しながら体中に広がっていく。嗚呼どうやって敵を討とうか。ジリジリと脳裏を焦がす灼熱の刃。それを痛いと感じるのに、なぜあたしはわらっているのだろうか。

 悔しいのに。悔しくてたまらないのに、何故か口元には亀裂のような笑みがゆるゆると浮かんでくる。

(どうやって憎しみを叩きつけよう)

 顔を裂くような笑みが浮かんでくる。

 ……これは暗い歓喜だ。

 気持ちが悪いほどのどす黒い感情が、そのはけ口を見つけて驚喜している。

 仲間への罪悪感。自分への嫌悪。それが憎しみの対象を見つけて、これほどに喜んでいる。

 気づいている。この暗い気持ちの半分は、八つ当たりにも似た責任転嫁なのだということに。

 だけど、あぁ、それがどうしたというのだろう。

 あの男が……院長が、あたし達の悪環境の元凶だったことには違い無い。その事実だけは揺るぎない。なら、その罪を暴き責め立てることに、何の躊躇がいるだろうか。憎しみを募らせることに、何の遠慮があるだろうか!

(罪には罰を)

 頭の中に、その言葉だけが泉のようにわき上がる。

(罪には罰を!)

 裁く権利はあたしには無い。けれど、そんなことに構っていられない。

 振り下ろしたい刃がある。

 叩きつけたい憎しみがある。

 止めることも出来ず溢れ出でるこの慟哭が、免罪符を請うように言葉を繰り返す。

 罪には罰を! あの男に罰を!! あの男に裁きを!!

 穏やかな昼下がりに語られた言葉の全てが、あたしの脳裏から零れ落ちていく。優しくて暖かいレメク。ごめんなさい。あたしはやっぱり、こんな子供です。

 沢山のことを語ってくれたのに。それらを一切役に立てることのできない子供です。

 きっとこの手が刃を握れば、レメクは悲しい顔をするだろう。それがわかっているのに、この愚かな思いを止めることができないんです。

 零れる涙と一緒に、沢山の思いを胸の奥底から外へと零す。大切な人へ。謝罪に変えて。

(……ごめんね……レメク)

 何一つ言いつけを守れなくて。大人しくなくて。いつだって愚かなままで。

 だけど、今、あたしの思いを統べるのは、どうしようもないほど暗鬱な憎悪だから。今、こんな状態だっていうのに、頭の中にあるのは、貴方の所に帰ることよりも、あの男にどうやって刃を突き立てようかということばかりだから。

 あたしは息を吸い込む。嗅覚はいつの間にか麻痺していた。

 カビくさい臭いも、汗くさい臭いももうしない。

 ただ、耳の奥で潮騒にも似た血潮の音が鳴っている。

 あたしは祈った。誰に祈ったのかはわからない。もしかしたら神様かもしれない。けれど、神様はこんなことを叶えてはくれないだろう。なら、祈った相手は悪魔かもしれない。

 言葉がただ脳裏を駆けめぐる。

 ──罪ニハ罰ヲ──

 あの男に、突き立てる刃をください。


 ※ ※ ※


 あたしが地面に降ろされたのは、担ぎ上げられてから小一時間ほどたってからのことだった。

 袋の中に入れられたままだから、正確な時刻はわからない。ただ、布越しでもわかる黄昏の気配が、あたしにそれらしき時刻を伝えていた。

 たぶん、外の世界は深い蒼とオレンジのグラデーション。黎明の黄金と似て非なる赤銅色の太陽が、空の雲をまろむような紅色に染める時刻。人々が帰路に尽き、夕闇のベールが静かに世界を覆う時間。

 静寂と共に忍び寄る夜の気配を袋越しに感じながら、あたしは倉庫とやらに放り込まれた。

 捕まった場所がどこで、エットーレと会った場所がどこなのか。それすら知らないあたしには、今いる場所とさっきまでいた場所との間の距離がわからない。

 ただ、今いる場所を港の倉庫だとすれば、ずいぶんと遠い場所だったんだろう。あたし達子供の足ならともかく、大人の足で片道小一時間とすれば、なかなかの距離だ。

 それとも、それほど時間をかけて大回りに路地を歩いてきたのか。

(……それにしても、近頃の大人って、だらしないのね)

 袋の中でもぞもぞ体勢を立て直しながら、あたしは嘆息をつく。

 ここに来るまでの間に、あたしを抱える男は六回、人を変えた。最後の方では誰が担ぐかの押しつけあいになり、倉庫に着いた時には見張り云々の相談も無いままに中に放り込まれ、鍵をかけられる始末である。いったい、どういうことだろうか?

(……てゆか、失礼よね! あたし全然太ってないのに!)

 あの連中は、こともあろうに運ぶ最中、あたしを「重い」と評したのである!

 しかも「だんだん重くなってくる」だの「体の力が奪われる」だの化け物のように言う始末。失敬な!! こんなか弱くてちっちゃな女の子に対して!!

 ……いや、か弱いかどうかはこの際ともかく。とりあえず、一回どころでなく死にかけてるヨワヨワな子供だというのに、なにをどうやったら「重い」だの「力を奪われる」だの言いやがるのか!

 まぁ、彼等が担いで運んでくれる間に、なぜかあたしはとっても元気になっちゃったんだけど。

 ……あれ? あたし、本当に力を奪って……?

 い、いや、あたしにそんな特殊な能力なんて無いから、きっと何かの間違いだ!

 よし、と無理やりそう結論付けて、あたしはぐねぐねと体を動かした。どうにかして縄抜けできないかという、無駄な努力である。

 ……いや、なんか、ちょっと縄が緩んできたような気もするが……?

「……もご……?」

 あたしは首をかしげる。

 ぐねぐねぐね、と動くと、動ける幅が増えていくような気がするのだ。い、いや、気だけじゃない。実際に動ける幅が広がってる!

(縄が緩んでる!?)

 あたしは思いきって全身に力を込めた。

 ふんぬっ!!

 ブチブチッと音がして、あたしの戒めがとけた!

 おおお!

 あたしは袋の中で体勢を立て直し、自由になった両手を伸ばす。頭の上のほうにある袋の閉じ口に手をつっこみ、それを引っ張った。

 うんしょ、うんしょ。

 ブチッという音がして、入り口が大きく開いた。

 おおおおお!!

 もしかしてあたし、逆境の時に馬鹿力が出る特殊体質だったり!?

 そんなあり得ない妄想をしつつ、あたしはガバチョと袋の外に顔を突き出した。

「むぽっ」

 ……あ。猿ぐつわしたままだった。

 もぞもぞと動いて猿ぐつわを外す。……はぁ……やっとまともに息が……

「……」

 大きく深呼吸しかけて、慌てて息を止めた。

 ……カビくさい。

 これはちょっと、口元を布で覆っていたほうがよさそうだ。

 あたしは外した猿ぐつわを綺麗に伸ばし、掃除の時のように口元の覆いに変える。やれやれ、これでちょっとマシになった。

 ほっとして自分の体を見下ろす。千切れた縄を幾重にも体にまきつけたまま、麻袋の中に座っているあたし。……なるほど、こういう状態だったわけだ。大量の縄を見ながら途方に暮れる。まるで蓑虫の脱皮のようだと思った。

 あぁでも、あのブチブチいってたのは、縄が切れてた音だったのですね。

 きっとこの縄は痛んでいたんだろう。だから子供のあたしの力でも千切れたんだ。きっとそうだ。うん。

 ちゃっちゃとそう結論づけて、あたしは千切れた縄の束(大量)を体からどかす。袋の外に出ると、夜の気配が忍び寄ってきた。

(……さて、と)

 おかしな感じに凝り固まっている体をほぐしながら、あたしは小さな脳みそをフル回転させる。戒めは解かれた。ここからがあたしの舞台だ。

 あたしは復讐の手順を考える。

 あたしの手には、今は何の武器もない。ざっと倉庫内を見るが、大きな木箱がいくつも並んでいる以外、これといって武器になりそうなものは無かった。

 あえて挙げるとすれば、さっきあたしを戒めていた縄ぐらいだろうか。

 だが、あのどの部分が首かわからない場所に、縄を投擲しても失敗しそうな気がする。

(……なにか……あたしでも使えるようなものを……)

 倉庫の中をちょろちょろとうろつく。あの破れフライパンのような、打撲武器は無いものか。

 あたしは誘拐される前に持っていた穴開きフライパンを思い出した。

 どういう魔法がかかっていたのか、今考えると凄まじい威力を発揮した武器だった。なにせ路面を粉砕するような武器である。いったい、どんな呪いのかかっていたシロモノだったのだろう?

(……まさか、あれがあたしの力、なんてわけないし……)

 前も似たようなことを思った気がするが、あたしは本来それほど強くないのだ。

 体のわりにはそこそこ力もあるし、喧嘩だって強いが、それらは普通に子供レベルだ。でなければ、孤児院や路地裏での派手な喧嘩でとっくの昔に流血沙汰になっている。なにせいつも全力で戦っているのだから。

 だから、路面を粉砕したのは、あたしの力ではない……と思う。たぶん。

 ……いや、昔、レメクの家の壁に亀裂入れちゃったりもしてるんだけど……

 え……えぇい! わかんないことは後回しだ!!

 あたしは大きく頭を振って余計な思考を振り落とした。一緒に大切な人の記憶にも蓋をした。意識の全てを一つのことに向ける。あのダルマ院長に怒りの鉄拳をたたき込む、ということに。

 あたしはギュッと握り拳を作った。

 武器が無いのなら仕方がない。この拳で恨みを叩きつけるだけだ。

 そう決めれば、次は『どうやってあの院長の所まで行くか』が課題になる。

 この倉庫の中には、あたし以外に人はいない。本来あたしを見張っていなくてはいけないはずの人員も、なにやら気味悪そうにブツブツ言いながらどこかに行ってしまっている。逃げるには願ったり叶ったりの状況だが、逃げてはあの院長に鉄拳をたたき込めない。

 ……いや、待てよ?

 あたしは考える。瞑った瞼の裏側で、ちらちらと言葉が待っている。

 エットーレは、「明晩」「船で」ここを発つと言った。

 あの孤児院にはもう用が無い、と。

 エットーレが院長の座を捨てるというのは、孤児院にとっては朗報だが、彼が何故院長の座を捨てようとしているのかが謎だ。

 孤児院の院長というのは、いわば『慈善事業の象徴』的なポジションでもある。街で金をばらまかずとも、孤児院の院長である、というだけで、慈悲深い人格者のように周囲は見てくれる。

 それに、孤児院には貴族達が多額の寄付をしてくれる。黙っていてもお金が無償で提供されるのだ。こんなウマイ商売は無いだろう。エットーレは、それを利用して私腹を肥やしてきたはずだ。そんなウマウマな椅子を捨てるのは何故か。

 あたしは閃いた。脳裏に、必死に蓋をした思い出の中の人の姿が浮かんだ。

 レメク。

 そう、レメクがいた。レメクが動いていた。だから院長は逃げ出すのだ。

 孤児院で不当に貯めた金と、あたしという戦利品を持って逃げるのだ。

 そのことに思い至った瞬間、あたしの中にパチパチと全てのピースのはまったパズルが出来上がった。

 行く場所が決まる。孤児院だ。院長は、孤児院にいる。

 そこで今頃、せっせと荷造りをしているはずだ。明日の晩に発つために。溜め込んだお金を集めているはずだ!

 あたしは息を吸い込む。ぎゅっと握った拳が痛いほどだった。

(……プリム。メアリー。メム。マルク……)

 顔が浮かぶ。涙が零れる。

 あたしは拳を開いた。

 カビくさい倉庫の中から、一歩を踏み出す。


 さぁ、復讐に出かけよう。



 ※ ※ ※


 港区は、王都の南区の最南端の一角であり、聖ラグナール孤児院のある南区三番地は、港から近い。

海のある港を背にし、王宮を真正面にして立った時、右手側から一番地二番地と番地が七番まで続く。三番地は中央よりやや右手側にあり、そこは古く倒壊しかけな建物の並ぶ貧民窟だった。

 あたしは走る。

 足音は軽く、夜の闇に溶けるようにして消えていく。

 空にかかるのは半円の月。まるでギロチンのようなそれに、あたしの口元がうっすらと笑む。

 それはなんて、今のあたしの心に相応しい形なのか。

 半身を欠いた月は、星の輝きに導かれて中空を目指す。

 あたしは冷たく密やかな暗がりを泳ぎながら、かつて住んでいた孤児院を目指していた。

 徒手空拳で大人に立ち向かう愚かさはわかっている。だから、油断無く路面を見るあたしの目は、常に何か武器になりそうなものを探していた。だが、そうそううまい具合にそんなものが転がっているはずがない。

 あたしは失望を目に宿しながら、それでも足を緩めずに駆けた。

 倉庫から脱出して、どれぐらい経っただろうか。

 行く手に懐かしい建物が見えた時には、あたしの心が大きく弾んだ。

 だが、

(……え?)

 あたしの目は、そこにありえない光景を見つけてしまった。

孤児院に続く貧民窟の路地。そこに、大きな篝火がいくつも掲げられている。

 篝火は真っ直ぐに孤児院へと続いていた。松明と言うにはあまりにも大きなその炎に照らし出されて、古びた建物が浮かび上がっている。紛う事なきあたしのいた孤児院だ。古い壁には、煌々と照らし出す炎にあわせて、幾人もの兵士の影が揺らめいている。

(……どういう……こと?)

 聖ラグナール孤児院が、兵隊に包囲されていた。

 完全武装した兵士は、遠目で見てもざっと数十人。ひしめくような甲冑の群れが、聖人の名を冠されたとは思えないほど古びた建物の中に入り、いくつもの箱を外へと運び出していた。

(……孤児院の皆は……?)

 あたしは呆然とその様を眺める。

(カッフェ……あの院長は?)

 軽く混乱して、足が棒立ちになる。

 何かを考えないといけないのに、あまりにも予想外な光景に思考が完全に停止していた。

 孤児院まではまだ距離がある。孤児院の中は大層な騒ぎのようだが、ここまで遠いと彼等の声もただのざわめきにしか聞こえなかった。だが、武装した兵が動いているのだ。並大抵のことではない。

 あたしは一歩孤児院側へと踏みだし、ハタと顔を上げた。

 一斉捜査。

 頭の中に、そんな言葉が浮かぶ。

 暖かな日差しの中で聞いた声。それを思い出したその瞬間、一気に混乱の糸が解けた。

 一斉検挙。一斉粛正。そう言ったケニードの声。レメクの指揮の下、女王様や教皇様達まで乗り出して行っている孤児院の不正捜査。

(レメク!)

 あたしは焦った。何のことはない、レメクに先を越されたのだ。

(え、で、でも! 昼間は、こんな早く動くような感じじゃなかったのに!!)

 違う意味でいっそう混乱して、あたしは踏み出した分の距離を足踏みで引き返した。喜んでいいはずなのに、喜べない。けど怒りが沸くわけでもない、この微妙な気持ちは何だろう?

(ど、どうしよう!?)

 こんな展開は予定していなかった。思わずおろおろと足踏みをしていると、突然後ろから腕をつかまれた。

「ひゃあ!?」

 とっさに悲鳴が上がる。だが、

「オレだよ!!」

 反射的に怒濤の三連撃を繰り出す前、あたし以上に悲鳴っぽい声があがる。

 あたしは寸前で拳を止めた。

 カッフェ!?

「あ……っぶねぇ……!!」

 鼻先で止まったあたしの拳に、カッフェが顔をひきつらせる。

 あたしは驚きのままに声をあげた。

「無事だったんだ!?」

「「「それはこっちのセリフだーッ!!」」」

 途端に合唱された。一部は「だ」の部分が「よ」だったが。

 見ればカッフェの後ろには、ナナリー以下他孤児院の三人がいる。

「よかった! あいつらに何かされてたらどうしようかと……!」

「だからそれはこっちのセリフだっつーのッ! おまえ、あいつらに捕まっただろうが!」

「あ、あぁ、うん。そうね」

 あたしはあっさり頷く。確かに捕まりました。見事に蓑虫チックなぐるぐる巻きに、麻袋まで追加された完全誘拐バージョンで。

「そうね、って……あんた……よく無事で……てゆか、体は!? あんた、あの後いきなり倒れて……!」

 呆れたような声をあげた後、ハタと気づいて顔色を変えたナナリーに、あたしはちょっと微笑った。

「なんか、運ばれてる最中で元気になっちゃった」

 ナナリー以下四人、唖然。

 いやでも、それ以外に言いようがないんだもん。しょうがないじゃないか。

 まさか闇の紋章がどうこうとか言えないし。レメクとの関係も言えないし。実のところ、ここまで元気に復活した理由は謎のままだし。

「ま、まぁ、元気になったんならいいけど……」

 かなり胡散臭そうな顔で言うナナリー。気持ちはわかるが、ここはスルーしていただこう。あたしにも説明できないんだから、どうしようもない。

「でも、どうやってあいつらの所から逃げ出して来たんだい? あ、あの兵隊達が助けてくれた……んじゃないよね。だったら、あそこで保護されてるはずだし」

 あの兵隊達、で孤児院の方を見るナナリーに、あたしは慌てて手を伸ばした。わしっと細い腕を掴む。

「そうだわ、あの孤児院の様子よ! あれなに?! いつの間に孤児院があんなことに?!」

「え?! い、いや、アタシ達が来たときもすでにあんな状況だったし……てゆか、なんか、大きい熊みたいな神官が、捕縛しろぃ! とか怒鳴って、あんな感じに」

 大きい熊みたいな以下略。

 あたしは遠い目になる。誰のことか即座にわかった。豪腕の大神官様だ。

「アタシ達も、あんたがあそこに捕らえられてるもんだと思って……こっそりここまで来てたんだけど……」

 あんな状態になっちゃってて、どうにも動けなかった、と。

 で、眺めてたら、あたしがトッテケテーとやって来た、と。

「……なんか、そう考えると……あたし、すごい間抜けね……」

 まるで飛んで火に入る何とやら。別に炎に引き寄せられたわけじゃないけど。

「それにしても、どうやって? どこから?」

 今度は逆にナナリーの手があたしの腕を握る。あたしは「話せば長くなるけど」と前置きして言った。

「港の倉庫に放り込まれててね。縄千切って逃げてきたのよ」

「……説明、六秒で終わったぞ」

 どこが長いんだとニアがぼやく。うっちゃい!

「な、長くしようと思えば長くなるのよ! えぇと、まずあの二人組に抱えられてる所から目覚めて……って、そういえば、あたしが気絶しちゃってる間、あんた達どうしたの?」

 ハタと思い出し、記憶外の状況説明を希望したあたしに、四人が顔を見合わせる。どこかバツが悪そうな顔だ。

 え。……なんで?

「……あの時、おまえがいきなり気絶して……その……」

 そう言って、カッフェがあたしの腕を呼び止めた時とは別の手をあたしに差し出す。

 そこに握られていたのは、ちょっと皺になったあたしの帽子だった。

「あぁ、カッフェが持っててくれたんだ。ありがと」

「いや……って、そうじゃなくて! これが落ちて、その……おまえの髪が、だな」

 なんか言いにくそう。

 あたしは首を傾げて自分の髪に触れ、あぁ、と何が言いたいのかを悟った。

「あたしがメリディス族だって気づいた、と」

 なんというか、物心つく前から汚れまみれの髪で、ぶっちゃけ自分自身、自分がメリディス族だってこと忘れちゃうんですが。

 あたしの言葉に、四人が妙な顔をする。口を開いたのはナナリーだった。

「あんたの髪に驚いて……でも、それよりあんたの体調のほうが気がかりで、アタシ達、あんたをどこかのお医者さんに診せたほうがいいんじゃないかって話し合ったんだ。あんたは貴族に保護されてるみたいだし、それに、メリディス族って、確か国が保護してくれるんだろ? だったら、その……お城に連れて行っても、大丈夫なんじゃないかと思ったんだ」

 なぜいきなりお城に話が飛ぶのかが謎だ。だが、とりあえずあたしは相づちを打って話の続きを促した。

 それでそれで?

「だけど、あんたを連れて行こうとした時に、あいつらが来て……」

 あいつら、というのは、あの部下A&B(仮名)のことだろう。

「アタシら、あいつらに追われてて……カッフェも怪我したままだし……それで逃げちゃって……」

 ナナリーの視線があたしから外れて地面に落ちる。そのどこか辛そうな顔に、あたしは首を傾げた。どうしたんだろうか?

「あいつらが追って来なかったのは、お前がいたからだろうな。カッフェや僕たちを捕まえるより、お前をつきだしたほうが金になる」

「ニア!」

 言葉を濁したナナリーの替わりに、ニアがハッキリとそう言った。ナナリーが非難の声を上げる。だが、あたしはあっさりと頷いた。

「そんな感じのこと言ってたわ。あたし、高く売れるらしいわね。こんなガリガリなのに」

 ニアがちょっと怯んだように目線を逸らせた。マテマテ。

「ちょっと、そんな顔しないでよ! ただの事実なんだから。別にあんた達のせいじゃないじゃない! あたしがこんな髪してる事に、あんた達がなんで責任感じてるっぽい顔になるわけ!?」

「で、でも、わたし達、あなた置いて逃げて……」

 か細い声で言ったのはミリアだ。あたしは目を剥いた。

「逃げて当然でしょ!? 追われてたんだから! そのまま留まって、全員捕まったらそれこそ最悪じゃない! 逃げていいのよ。当たり前じゃない!」

 あたしの声に、四人はビックリしたような顔になった。女子二人の目には涙まである。

「それより教えて。あいつら、あたしをエットーレに差し出したわ。あの二人は、エットーレの雇った下男か何かってこと? で、結局の所、なんであいつらに追われてたわけ? ここまできたんだから、あたしにも説明してくれるでしょうね?」

 あたしの声に、四人はちょっと気まずそうな顔を見合わせた。

 結果的にあたしを置き去りにして助かった、という罪悪感があるのか、カッフェが辛そうな顔で口を開く。

 ……だから、頼むから気にしないでよ……

 困り顔で嘆息をつくあたし。カッフェは、やっぱり辛そうな顔のままで言った。

「……オレ、あいつの部屋の掃除をさせられた時に、隠し部屋を見つけたんだ」

 なんと!

 あたしは目を見開く。

「あの、隠し金庫が三つあるっていう隠し部屋を!?」

「なんで知ってるんだよ!?」

 あたしの言葉にぎょっとなるカッフェ。あー……うん。そうだよね。普通、驚くよね。

「えーと、その、あたしの手柄じゃなくてね、おじ様が調べ上げてたの。……って、もしかして、カッフェ……あんた、黒い金庫開けちゃったわけ?」

「違う。開けてない! 最初から開いてたんだ。けど、黒いやつじゃなかったぞ。オレが見たのは真ん中の鉄の金庫で、そこにこれが入ってたんだ」

 そう言ってすり切れた服の中から取りだしたのは、薄い小冊子だった。

「……なに? それ」

「……知らねぇ。オレ、文字読めないし。けど、なんか数字が並んでた」

 あたしが手を伸ばすと、カッフェは冊子をあたしに渡してくれた。ぱらぱらとめくると、なるほど、数字が並んでいる。……てゆーか、なんですかこの数字!?

「……一、十、百、千、万……ちょ、ちょっとこれ……金貨の枚数じゃないよね?」

 文字が読めないので項目はさっぱりだが、その横に並ぶ桁が凄まじい。最低でも万の桁の数字ばかりだ。多いものでは数百万にものぼる。

「銅貨だとしてもすごい金額だぞ。……で、これ何だろーって思って眺めてたら、エットーレが奇声上げながらやって来て……」

 あー……

 あたしはこめかみを揉んだ。だいたいの所はわかった。

 つまり、カッフェはエットーレの部屋の掃除中、偶然隠し部屋を発見してしまった、と。で、好奇心でそこに入ったら開いてる金庫があって、その中にこの冊子があった、と。エットーレは部屋に戻った時に、隠し部屋が暴かれてるのを見て、大あわてで部屋に入り……

 そこで、冊子を手にしたカッフェを見つけた、と。

 で、追いかけっこ。カッフェは足早いから、あのエットーレに捕まえられるハズがない。

 おまけにカッフェはご丁寧に冊子を持って来ちゃってる。たぶんこれ、不正の証拠の一つなんだろう。もしそうじゃなくても、後ろ暗い関連の帳簿だろう。だから取り戻すためにゴロツキを雇い、今日に至る、と。

「……ナナリー達とは、追われてる最中に会ったんだ」

 カッフェはナナリーを見る。視線を受けて、ナナリーが会話を引き継いだ。

「アタシ達の孤児院の事情は、ちょっと話したよね。……黒い神官の噂もあって、皆ピリピリしてたんだ。で、院の中にいるのは辛いし、仕事しないといけないしで街に出てたら、息も絶え絶えに逃げてるカッフェを見つけてね」

「い、息も絶え絶えじゃなかったぞ!」

「嘘をつきな! 死にそうな顔色でゼェゼェいってたじゃないか! ……まぁ、それはともかく。で、さ。放っておけないだろ? あたし達は院は違えど仲間だ。で、匿ったら……」

「うちの院の連中も、裏で繋がってたみたいでな。うちの院長以下大人連中が騒いでるのを聞きつけて、僕とミリアが罠張ってカッフェとナナリーを逃がし、後で合流。で、そこにお前が突撃してきた、ってところだ」

 ふむふむ。てことは、ごく最近なわけね。カッフェが帳簿見つけたのも、逃亡劇が始まったのも。

「オレが見つけたのは三日前。丸一日逃げまくって、二日目にナナリーに助けられて、今日ニア達の助力で危機を脱出。その後昼まで追いかけっこ、追いつかれた時に、お前のトンデモ特攻が来た、と」

 失礼なセリフを交えながらさらに詳細を説明されて、あたしは冊子をカッフェに戻しながら唇を尖らせた。

「だいたいの事情はわかったけど、その突撃とかトンデモ特攻とかっていう表現は何よ。あたし、必死だったのに」

「……普通、必死でも、石畳は粉砕できないと思うぞ……」

 ぼそっとニアがぼやく。一斉に頷く他三人に、あたしはちょっと遠い目になった。

 確かに、あの力は謎なのだが。

「き、きっと火事場の馬鹿力ってやつよ! そ、それより……ねぇ、孤児院があんな状況ってことは、エットーレも兵士に捕まっちゃったってこと?」

「さぁ……?」

 あたしの問いに、カッフェとナナリーが顔を見合わせて首を傾げる。

「ここじゃ、詳しいことはわからないし……」

「だいたい、なんでいきなりあんな騒動になってるかサッパリだし」

「えーと……ぇーと」

 心底不思議そうな顔の彼等に、あたしはちょっと迷った。

 言うべきだろうか。

 い、いや、隠す意味ないんだから、言ったっていいはずよね?

 だが、あたしが打ち明けるより早く、ニアがあたしをじっと見ながら言った。

「……お前を保護してるっていうの、国の偉い奴か何かか?」

「おぅぇあ」

 勢いをくじかれて変な声がでた。

 あたしは慌てて口をもごもごさせてから、しっかりと頷く。

「詳しいことはわからないけど。でも、偉い人みたい」

「……じゃあ、お前が原因なんだな。アレは」

 ニアが顎をしゃくって、孤児院を示す。

 うん。そうだろう。あたしはレメクの顔を思い出す。

 レメクが動いたのだ。何故か突撃時の陣頭指揮はバルバロッサ卿になってたみたい(ナナリー談)だけど。

「一斉捜査のはずだから、たぶん、今頃ニア達の孤児院も同じ騒ぎになってると思うけどね」

 あたしは肩をすくめながらそう言う。ニアが驚いた顔であたしを見た。

「お前……いったい…… ッ!?」

 その顔が、直後に驚愕に歪む。

「後ろ!」

 だが、その警告は一秒分遅かった。

「きゃあ!?」

 突然伸びてきた大きな手があたしの首をひっつかんだのだ!

い、痛……苦し……!!

「……そうなんだ、おまえが原因なの……」

 何故か低くどす黒いものを滲ませた声が、あたしのすぐ近くでする。

 あたしは見た。そこにいる男を。

「エットーレ!」

 カッフェが叫び、冊子を背中に隠しながら、ボロボロのズボンをまさぐる。

「ベル!」

 ナナリーがあたしを見て悲鳴を上げた。カッフェがズボンから小さな小刀を取り出す。

 そういえば、カッフェはよく彫り物とかを作って小銭を稼いでいた。けど、あれをいったい、今この時に、何に使う気でいるんだろうか……

 あたしは首を圧迫する太い指から逃れようと、豚の腸詰めのようなエットーレの指を掴む。

「ベル……? あぁ、やっぱり!? お前、あの小汚いガキ! ああ、ハハハハ気づかなかった! あのクソ生意気なガキがこんなお宝だったとはねェ!」

 笑い声と同時に圧迫が増す。あたしは手に力を込めた。

 ふんぬッ!

「ぎゃあッ!!」

 悲鳴が上がった。あたしの体は一瞬だけ宙に浮き、そのまま地面に落下する。

「かはっ……! は、はぁッ……!」

 どっと流れ込んできた空気をあたしは必死で吸った。アウグスタの巨乳圧迫に匹敵する呼吸困難だったため、脳みそにも体にも酸素が足りない。

「ベル!!」

 ミリアが悲鳴を上げた。衝撃が来た。倒れてるあたしを襲った衝撃はエットーレの足。蹴られたのだと理解するより早く、ガチリと意識が赤黒いものに変化する。

 罪ニハ罰ヲ。

 忘れていた言葉が蘇る。ああ、ああそうだ! 今目の前にいるこの男は、あたしが望んだ唯一人の相手!!

 蹴り飛ばされ、無様に転がったあたしにニアとミリアが駆け寄る。

 あたしを庇い、あたしの前に立ちはだかるナナリーとカッフェ。カッフェの手には、小刀が握られている。

 小刀。刃が。

 あたしの目が大きく見開かれた。

 刃が、そこに!

 だけど……!!

「ダメ! カッフェ!!」

 あたしは叫んだ。カッフェが驚いたように振り返る。あたしは痛む体を無理やり立たせようとして転んだ。足がもつれる!

「それを、しちゃ、ダメ!」

 突き立てたい。振り下ろしたい。切り裂きたい。叩きつけたい。憎悪はあたしの身の内にあり、むしろあたしこそがその刃を振るいたい。けれど!

 けれどレメクは言った。それはしてはいけないのだと!!

「カッフェ!」

 あたしはよろめきなが立ち上がり、目に飛び込んできた光景に、一瞬の躊躇もなくカッフェに飛びかかった!

「!?」

 カッフェがぎょっとしたのがわかった。

 だが、直後にあたしの背を襲った衝撃に、あたしは声を失う。

 エットーレが振るった太い拳は、カッフェではなく彼を突き飛ばしたあたしに振り下ろされたのだ。腹と背。立て続けにくらった攻撃に、あたしの死にかけの体が声のない絶叫をあげる。けれど、ここで暢気に気絶するわけにはいかない!

 あたしは一瞬飛びかけた意識を根性で引き戻し、必死に体勢を立て直した。

 よろめきながら地面に片膝をつき、体を支えようと路面に手をついたときに、それがあたしの手に当たる。

 カッフェの持っていた、あの小刀が。

 頭の中が血の色に染まる。考える間もなく、あたしは素早くそれを握った。

 寸前まで頭にあったあらゆる考えが吹き飛んだ。カッフェを止めようとした理由すら消し飛んだ。あたしは痛みも何もかもを忘れて一匹の獣になる。狂ったような目であたしを見つめ、奇妙な形に歪んでいる自分の手を抱えながらあたしにむかって突進してくる太った豚。その獲物を見据えて、あたしは駆けた。獲物の太い軸足が地面を蹴り、離れる寸前に力一杯の足払い。全体重をかけたその一撃に、バランスを崩された獲物が横転する。

 あたしはその体に飛びかかった!

「ぁああああああッ!」

 あがった声は悲鳴だったのか慟哭だったのか咆哮だったのか。迸る思いのままに横転した獣にまたがり、あたしは必殺の刃を振り上げた!


 ■■ばいい!!


 頭の中に言葉が弾ける。おぞましい呪いを込めた言葉が。幾千万の怨嗟を込めた呪いが!

 けれど……あぁ

 なのに!!

「…………」

「…………」

 下敷きになり、刃にさらされた獲物の目と、

 上乗りになり、刃を振り上げた獣の目が合う。

 ややも正気に戻った哀れで愚かな獲物の目には、紛う事なき恐怖があった。その色にあたしは躊躇しない。そんなものは死んでしまった仲間達に対する謝罪にもならない。失ってしまった人は帰らず、彼女等は永遠に喪われたままだ。だから、今目の前にいる獲物に同情なんかしない。■ねばいい。この男のせいで喪われた命のためにも、この男こそ、今死ねばいい! この刃を振り下ろすのを躊躇う理由なんて、何も無い!

 なのに……!!

 どうして!?

「…………ベル」

 ナナリーが、小さな声であたしを呼んだ。

 あたしは、動けなかった。

 誰も、動けなかった。

 刃を振り上げたまま、あたしはただ泣いていた。涙が零れて止まらなかった。理由はわからない。ただ、涙がこぼれた。泣きたいと思ったわけじゃないのに。そんな理由なんてないのに!

(なんで……なんで振り下ろせないの!?)

 簡単だ。力一杯下に下ろせばいい。それだけで一撃をあたえられる。気の済むまで与えればいい。気が済むまでやればいい!

(……レメク)

 なのに何故、それができないのか。

(レメク)

 頭の中に、あの人の顔が浮かぶのか。

 静かな眼差し。その中にある、暖かな色。優しい人。大好きな人。大切な人。

 どうして、どうしてこんな時に顔が浮かぶの。どうしてこの手を振り下ろせないの。どうしてレメク。どうして……どうして!?

 ぼろり、と、涙と一緒に何かが零れ落ちた。

 あたしの体がぐらりと揺れる。間髪入れず、下敷きにした獲物が暴れた。もともと体格が違いすぎるため、あたしの体は簡単に吹き飛ばされる。

「ベル!」

 悲鳴があがった。誰の声なのかはわからない。カッフェ達全員の声だったのかもしれない。だが、それを知覚するより早く、九死一生を得た元獲物が獰猛な笑みでこちらに向かう。脂肪をたっぷりと溜め込んだ足が勢いよく近づき、あたしを蹴りに来る。

 だが、その足は唐突に動きを止めた。

 あたしを蹴りつける、まさにその寸前で。

 あたしは顔を上げる。いや、上げたつもりだった。だが、体が動かない。

 けれど、ふいに夜風に混じった薫りが、あたしに時を止めた魔法の主を教えてくれた。

「……そこまでです。エットーレ・ブリル」

 底冷えするほど冷ややかな低い声が、青ざめたエットーレに恐怖という名の刃を振り下ろした。



「そんな……そんな……」

 まるで譫言うわごとのように、エットーレの分厚い唇から声が零れる。それは呻きのようでもあり、悲鳴のようでもあった。

 あたしはただ細く息をつく。体の中にあったものが抜けていく。どす黒く、こごった血のように赤黒い何かが。

 かわりに、暖かい腕が倒れたあたしの体を優しく抱き上げてくれた。その腕の中に、柔らかく抱きしめてくれた。

(……レメク)

 おじ様、と。呼んだつもりだったが、声にはならなかった。ただ、あたしはその胸に頬ずりをする。すん、と鼻を動かすと、あの例えようのないいい匂いがした。

(レメク……)

 なんでだろう。なぜか、涙が零れた。

「こ、これは……その、わ、わたしは……」

 暖かいものに包まれたあたしとは裏腹に、レメクと対峙したエットーレは、驚くほど狼狽していた。

 わずかに首を動かしてそちらを見ると、顔面蒼白になったエットーレがブルブルと震えている。歯の根も合わないほどの震えは、いったいどういう理由でだろうか。震えながら後ずさりしかけ、けれどレメクが一歩足を踏み出すだけで、その足がガクッと力を失う。

 その目にあるのは、あたしの振り上げた刃を見たとき以上の恐怖。絶望をも宿す絶対的なそれは、どことなく畏怖に似ている。

「聖ラグナール孤児院院長、エットーレ・ブリル。第十二代国王アリステラ陛下と、第十七代教皇アルカンシェル猊下の命により、貴方を院長の座から解任、ブリル家のもつありとあらゆる権限を剥奪します」

 震えるエットーレの歯の音だけが響く路地に、レメクの声が流れた。その声は、あたしが今まで聞いたことがないほど冷厳としていて、エットーレの恐怖をより一層引き上げる。

「貴方の犯した罪は、他の院長等とともに大聖堂にて読みあげられるでしょう。それまで、しばしの時を惜しみながら生きるがいい」

 ゾッとするような冷ややかな声は、紛れもなく死刑宣告だった。あたしのみならず、恐怖に固まっていたエットーレやカッフェ達も驚いた。

「お、お待ちください! わ、わたくしは、そこまでの罪は犯しておりませんッ!!」

 死刑を宣告されたエットーレは蝋人形のように白くなった顔で叫ぶ。その様は、まさに死にものぐるいと呼ぶに相応しかった。

「な、なにかの間違いです! なぜ私のような者が、死を賜らなくてはならないのですか!?」

 レメクはただ氷のような目でエットーレを見下ろす。薄い唇が、冷ややかに告げた。

「一つ。陛下より賜った金品を着服したこと。一つ。猊下より賜った命を無視したこと。一つ。与えられた任務を全うしなかったこと。一つ。保護すべき子等を虐待したこと。一つ。罪なき子等を死に追いやったこと。一つ。己の欲得のために禁じられた人身売買に手を染めたこと。一つ……」

 延々と続く罪状に、エットーレの顔はもはや土色になっていた。言い逃れできないと悟ったのだろう。

 あたしはエットーレの犯した罪がどんなものだったのか、ほとんど知らない。レメクが挙げたものの半分も理解できなかったぐらいだが、レメクがそれらを綿密に調べ上げていることぐらいはわかった。

 かつてケニードが言っていた。レメクの前にあっては、誰も言い逃れすることはできないと。まるで魔法のように調べ上げ、証拠を揃えて来るのだと。

「証拠など、掃いて捨てるほどあります。例えば……そこの子供が持っている冊子一つをとっても、貴方を裁くのに足りる証拠ですが?」

 それでも、何か? と暗に問う声に、エットーレがブルブルと首を振る。

「そ、それこそきっと誰かの陰謀で……あの子供に、嘘の証拠を私の孤児院に置かせたんです!」

「では、私が今さっき見た光景も嘘でしたか」

 必死に打開策を考えるエットーレに、レメクが詰めの一手を放つ。

「あなたがしてきたことの証拠は一つに留まらない。証言もまた同じくです。私が何も知らないと思っていますか? 何も調べずに来たとでも? そこの子供の冊子一つ欠けた所で、あなたの死罪は揺るぎない。陛下も猊下も閣下も、満場一致で貴方の罪を確定しました。そして」

 そして、と。陰鬱な響きを滲ませて、レメクは言った。

「私が、裁きを命じられたのです」

 その言葉はいったいどういう意味を持っていたのか。エットーレが絶望的な悲鳴を上げて泣き崩れた。

「なにとぞ、なにとぞお慈悲を! 後生でございます断罪官様!」

 断罪官。初めて聞く言葉に、あたしはぼんやりとしはじめた頭で「?」を飛ばす。

「断罪官様、クラウドール様、どうか、どうかお慈悲を……!」

「貴方は、一度でも他人に慈悲をかけましたか」

 冷ややかな声が、全ての希望を遮断する。

「貴方が、ただの一度でも、誰かを助けましたか。守りましたか。養いましたか。貴方はただ、搾取しただけだった。貶め、蔑ろにし、蔑み、見下すだけだった。貴方の手によって奪われた命は百では足りない」

「そ、そんな……! 私は、私は誰も殺したりは……!」

「お腹を空かせた子供を、病にかかった子供を、怪我をした子供を、満足に動くことのできない子供達を、あなたはどうしましたか。鞭を振るい、その足で蹴り、その拳で殴り、路地裏に放置したのは、いったい、誰です。その後、その子供達はどうなりましたか。庇護されるべき場所で、庇護すべき者に、虐げられ助けられることのないままに、その子供達はどうなりましたか……!?」

 激しい痛みのようなものが、あたしの全身を浸した。

 これは怒りだ。恐ろしいほど純粋な、炎のような憤怒。

「この私の腕の中にいる、この子供に貴方は何をしましたか!」

 大気を振るわす怒気に、エットーレは顔をひきつらせた。喘ぐように大きく口を開き、ぎょろぎょろと落ち着き無く目を動かす。

「そ、その子供は、わ、わたしの」

「貴方のではありません」

 にべもなくレメクがはねのける。

「私のです」

 ハッキリとそう言って、レメクは言葉を紡いだ。

【子供達、目を瞑り、耳を塞ぎなさい。あなた方は見る必要ありません】

 その声になぜかあたしの体は勝手に目を瞑り、耳を塞いだ。

 けれど、あたしはレメクと繋がっている。闇の紋章で。今なお、ギリギリのあたしを救っている神秘の力で。

 だからこそ聞こえた。レメクの声が。

【王命により、我が身に宿りし罪と罰の紋章よ】

 力在る、言葉が。


【かの者を断罪せよ】




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