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 6 罪と罰

「ちょ、ちょっとあんた! 大丈夫!?」

 深い闇に落ちる寸前に、横合いから伸びた腕に助け起こされた。

 暗い視界はそのままに、意識だけがかろうじて蘇る。じっとりとかいた汗が冷たく、体がひどく重かった。

「……ナナ……リー」

 無意識に、目に映ったその人の名を呼ぶ。

 黒い闇から暗灰色へと変わった視界の中で、綺麗な赤毛が揺れていた。

 いや、揺れているのはあたしの視界だ。

「なんて顔色に……!? って、ちょっと、あんた! なんでこんなに冷たいわけ!?」

 ナナリーの声に、あたしは鈍いまばたきをした。

 汗が冷たいと感じているのに、あたしの体そのものも冷たいらしい。それとも、冷たい汗が出ているから体も冷たいのだろうか。

 混濁する意識に呑まれそうになりながら、あたしは浅い呼吸を繰り返した。奇妙に明滅する視界の中から、ナナリーが心配そうにあたしを覗き込んでいる。

「ナナリー、こそ、ひどい、顔色、に……」

 なってる、と言おうとしたが、それ以降が言葉にならない。

 ぐらり、と大きく傾いた視界は、一瞬とたたずに闇に沈む。だが、直後にゴンッ! と衝撃がはしって、あたしは後頭部を抱えて転がった。

「い、っ……〜ッ!!」

「だ、大丈夫?」

 視界は暗転中だが、意識は痛みのおかげでハッキリした。なんか変な汗かいてて体中冷たいが、とりあえず思考もハッキリしました。

 イタイ。

(……た、たちけて。レメク)

 脳裏にレメクの呆れきった顔が浮かんだ。嗚呼ああ、レメク。なぜ思い出の中ですらそんなにつれないお顔なの?

 なんだか涙もちょちょぎれた。

「えぇと、本当に大丈夫かい? あんた。さっきからいきなり、どうしたっていうのよ?」

 ナナリーの声に、あたしはただ涙する。ごめん。今、痛すぎてちょっと声にならない。

 横向きに転がってるあたしの肩には、ほのかに暖かい熱があった。おそらく彼女の掌だろう。それがとても暖かく、あたしは妙に体にこたえる呼吸を繰り返してから、ゆっくりと頷いた。

「…… …… ……」

 ごめん。もう、大丈夫。

 そう言おうとしたのだが、きちんとした声にはならなかったようだ。

 ナナリーが心配そうにあたしの腕をさする。熱がじわじわと染みいるようで、それがとても心地よかった。それと同時に背中を擦る手がある。これは……ミリア?

「ごめ……」

 ようやく呟けたあたしに、ナナリーの声が重なる。

「謝んなくていいから。とにかく、気分よくなるまでちょっと寝てな。……カッフェ、あんた、腕はいけるね?」

「あ、あぁ……」

 どこか遠く聞こえる声が、周囲でかわされる。まるで扉一枚隔てた場所のように、その声はあたしからひどく遠かった。

「オレよりも……そいつ、いったいどうしたんだ? な、なぁ、なんかオレ、変なこと言ったか?」

「違うと思うけど……」

 心もと無さそうなナナリーの声に、「違うだろ」とニアの声が重なる。

「たぶん、ショックが大きかったんじゃないか? おまえの言葉が正しいなら、ベル……だっけ? そいつ、雨の日に行方不明になったっきりだったんだろ? だったら、今の孤児院がどういう状況だったのかなんて、知らなかったんじゃないか? いい奴に拾われて助かって、久しぶりに会ったら、仲間はいっぱい死んでて……なんて話聞いたら、普通、ショックだろ?」

 あぁ、とも、うぅ、ともつかない呻きのような声が三方からあがった。あたしも呻く。

 ショックだった。

 確かにショックだった。

 だって、あんまりだ。あんまりにもひどすぎる。誰か何か悪いことをしたのだろうか? プリムが何かひどいことをした? どうして死なないといけないの?

 どん底で生まれて、どん底で生きて……ねぇ、それでも生きていれば、いつかいいことがあるかもしれないじゃないか。あたしがレメクに会えたように、彼女だってどこかで誰かと出会って、沢山沢山幸せになったかもしれないじゃないか! なのに、なのにどうして!?

 どうして死なないといけないの!?

 どうしてあたしの仲間が!? 友達が!?

 あたしが、あたしが……


 アタシガ


 バチリと、音をたてて脳みその裏側で闇が弾けた。


 アタシダケガ


 音の裏側で、何かに呑まれた。


 サキニ タスカッテ


 体が沈む。

 視界が消える。

 言葉が浮かぶ。

 あたしだけが先に助かって。

 他の仲間は、まだずっと苦しんでいたのに。


 ■■デシマッタコモイルノニ


 優しいレメクに甘えて。自分の気持ちだけ大事にして。お嫁さんにしてほしいだなんて勝手な希望を胸に抱いて。


 ■ンデシマッタコモイルノニ。


 暖かな場所で微睡んで。その傍らで、大事だった人達が苦しんでいたのに戦っていたのに周りのありとあらゆる悪意と苦境と厳しい現実から……!!


 死ンデ シマッタ コモ イル ノニ


「ぁ」

 声が零れた。

 そう、零れたのを感じた。

 蓋が外れた。いつかどこかで、暗い目のままで、そっと落とした重苦しく辛い蓋が。何もできないのだからと、自分に言い聞かせた時にした蓋が!

「ぁああああああああッ!!」

 喉を通ったのが悲鳴だったのか絶叫だったのか絶望だったのか慟哭だったのか。そんなことはあたしにはわからない。ただ、意味も持たない固まりのようなものが体の奥底で弾けて溢れて零れだした。■■■。■■■。頭の中で誰かの名前が明滅する。だけどその形を思い出せない。溢れ出したものはどす黒く全てを覆い尽くし覆い隠し、あっという間にあたしの全てを飲み込んでいく。

 何度夢に見ただろう。

 何度朝に忘れただろう。

 暗い目を。暗い部屋を。暗い顔を。暗い世界を。全て全て意識の奥底に沈めて。

 忘れていたわけじゃない、なんてただの言い訳だ。最低だ。あぁ最低以外の何物でもない。何かできなかったのか、何もできなかったのか。自分が助かったあの日のうちに。その次の日でも、その次の日の次の日にでも! ねぇ、たった一日で全てが変わったかもしれないのに、どうしてあたしはあの家にいたの? どうしてあたしは動かなかったの?

 わかってる。わかっている。■■■がいたからだ。あの人がいてくれたからだ。自分は助かったからだ。体が動かないことを理由にして。家の中にいるように言われたことを理由にして。自分が危ないことを理由にして。■■■の元にずっと留まり続けたからだ。そんな資格なんて無いのに。できることはもっといろいろあったかもしれないのに。全部人に任せて自分は安全園にいたままで。

 顔を思い出す。誰かの顔を。

 けれど思い出したそれすらも、暗い闇の中に沈んでいく。

 誰かの声が聞こえた気がした。だが、あたしの脳には届かなかった。

 手が触れていたものが滑り落ちる。何かが頭から落ちる。けれどそれが何であったのか、何をどんな理由で被っていたのか、それすらももう思い出せなかった。

 頭の中で声がする。

 誰かの声が。とても大切で、とても愛おしい声が。

 けれどその声の主を思い出す前に、今度こそ、あたしの意識は暗転した。


 ※ ※ ※


 淡く霧がかった景色の中で、青みがかった暗い建物が見えた。

 古びた壁に、汚れた床。

 薄くなってしまった服の布地に継ぎ当てをしながら、あたし達は黙々と針を動かす。

 糸は切れた布をほぐしたもの。だからまたすぐに切れてしまうのだけど、あたし達には糸を買うお金もない。

「ねぇ、■■。院の外って、どうなってるのかな?」

 そうあたしに問いかけたのは、一歳年下のマルクだった。

 ほっそりとした子で、女の子より女の子みたいな顔をしている。色も白く、たぶん、女の子だったらとっくの昔に■■■■に攫われてしまっただろう。

 あたしは疲れた目でマルクを見て、さぁ、とそっけなく答えた。

「■■は外から来たんだよね? ボクは院の生まれだから、外ってどんなのかわからなくて」

 マルクの声に、あたしは小さく呟く。

「……別に、いいこともたいして無いわ」

 あたしが孤児院に来たのは、母が死んだせいだった。

 若く美しかった母。その美しさに目がくらんで、手を差し伸べてきた人は沢山いた。けれど母は誰の手も取らなかった。

 一族の掟が決めた夫は一人だけ。

 その人が好きだったのかと問えば、悲しそうな顔をするだけだったのに。守る意味なんてあるのかどうかも不明だというのに、掟を頑なに遵守した。母はあまりにも潔かった。あまりにも純粋だった。

 だから死んでしまったのだ。

 あたしを抱えたまま、路地で冷たくなって……

 あの時から、あたしの心は枯れたままだ。

「外にいい記憶なんて……無いもの」

 生まれた時からそうだった。

 生まれた場所が院の外だったか内だったかなんて、あんまり関係ない。どこにだって不幸は転がっている。

 けれど、あたしの不幸は『母の子』だったからではない。

 それは決してありえない。

 理由なんて簡単だ。

 あたしは母を愛している。だからあたしの不幸はそこでは無い。

 強いて言うなれば、父の子だったからだろう。

 あの父の。

 あのパルム族の男の子供だったからだろう。

 あの男が母に手をつけなければ、母はあんな所で死にはしなかった。きっと一族の森とやらで、好きな人と一緒に長く長く生きたことだろう。あんな風にやせ細って死んでしまうことなく。傷つき、悲しみの果てに死んでしまうことなく。暖かく優しい場所で、穏やかな最後を迎える日まで、のんびりと生きたはずなのだ。

 なのに。なのに……!

「外はそんなに……嫌な所?」

 暗くどす黒い思いの縁にいたあたしを、か細い声が呼び戻す。

 マルクは悲しそうな顔であたしを見ていた。

 院で生まれ、院で育った彼は、未だ外のことを知らない。体が弱いから、院から出ることもできない。

 だから憧れているのだ。

 外にはきっと、ここよりいい場所があると。そう希望を抱いているのだ。

 あたしはため息をついた。目を閉じて、そうして次に開けた時には、できるかぎりとびっきりの笑顔を作ってみせた。

「冗談よ。そこそこイイ所もあるわ。……元気になったら、案内してあげるわね」

 マルクはあたしを見て、ひどく純粋な笑顔になった。

 あたしはそれから目を背ける。

 その笑顔は、あたしにはあまりにも眩しすぎた。



 外の世界にあるものに、どうして希望なんて抱けようか。

 外にいる人々に、どうして憧れなんて抱けようか。

 そこにいるのはただ血と肉と骨で出来たイキモノでしかなく、あたし達と同じであるはずなのに、あたし達を見下す者でしか無いというのに。

 あぁ、でも、そうじゃない。■■■。あの人のような人もいる。けれど、その時のあたしの周りにはそんな人は一人もいなくて。だからマルクの笑顔から顔を背けることしかできなかった。嘘がばれるのがとても恐くて。



 ……プリムと出会ったのは、院に入った直後だった。

「あんたが■■?」

 母を亡くして生きた死人のような顔で入ったあたしを見るなり、すっ飛んできてガンくれやがったのが彼女だ。

「辛気くさいのよあんた」

 唐突な張り手。

 とっさに叩き返し、あたし達はまるでそれが合図であったかのようにとっくみあいの喧嘩をした。彼女の目は強い意志でキラキラしていて、見ていてそれが腹立たしくて懐かしくて悲しくて嬉しくて。あたし達は互いに泣き出してもジッタンバッタンと戦った。

 後で聞いた話、あの時、彼女も母を亡くした直後だったのだという。

 彼女の母は下街の娼婦で、院に彼女を預けて仕事をしていた。

 孤児院にはそういう子は沢山いた。育てられない子供。孤児院の子の大半は、そうやって親元から放された子供達だ。

 親は自分の手元で餓死させるよりはと院に子供を託す。その院が、どういうものなのか、できるだけ見ないようにしながら。

 そんな母親の一人が、プリムの母だった。

 亡くなった時の詳しい事情は知らない。ただ、死んだとだけ聞いた。どういう風にかも知らない。ただ、目を背けなくては話せないような、そんな内容であるらしかった。

 あたし達は派手に喧嘩して、その日から親友になった。

 拳で何を語り合ったのかはあたし達自身にもわからない。ただ、あたしはその日から、彼女の姉妹になった。あたしは孤児院の仲間になり、彼女達の家族になった。

 ああそうだ……あれが、もう一つのあたしのはじまりの日だった。

 母から生まれ、母と生きる日々を基盤として過ごし、それを失った後のあたしが見つけた、もう一つの基盤。

 あたしの家。あたしの故郷。あたしの仲間。あたしの家族。

 大切だったはずだ。あたしの帰る場所はそこにしかなく、あたしの生きる場所もそこにしかなく。

 けれど、唯一のものだから大切だったわけじゃない。

 そうではなく、逆なのだ。

 そこには確かに、大切なものが沢山あった。

 あたしの生きた時間がそこにあった。彼女等と、彼等と共に。

 ■■■。

 あたし、どこで間違えたのかな?

 わからない。分岐点がどこにあったのか。

 たぶん最初はあの雨の日で。けれど、それから後はわからない。

 あたしなりに一生懸命生きた。けれどそれは、間違いも含んでいたんだよね?

 あたし、どうしようもないぐらい馬鹿な子だったんだよね?

 死にかけて、助けられて。その幸運に酔いしれて。夢で思い出しては朝に忘れて。夢のような日々で生きることに必死になっていた。

 あたしの基盤はあの時に、孤児院から■■■に移ったのだ。

 暖かく優しいもので満ちたあの場所に。

 全てのものから目を逸らして。


 ゴメンナサイだなんて、愚かすぎて言えない。

 ユルシテクダサイだなんて、浅はかすぎて言えない。


 助けて助けてたすけてタスケテ。

 目から何かが零れる。意味もなく価値もないあたしの目から何かが。

 許しなんて請えない。謝ることもできない。祈るしかできないけれど、それはいったい誰に祈っているのだろうか?

 ……神様なんていないのに。

 そんなもの、本当には信じていないのに。

 あたしの目から零れたものが、足下にたまって底へとあたしを引きずり込む。

 祈る相手なんかわからない。だけど祈っている。助けて助けて誰か誰か誰か誰か……

 ■■■。タスケテ。

 あたしの命。あたしの全て。

 名前一つにあたしの全部が詰まってる。

 あたしに命をくれて、あたしに時間をくれて、あたしに幸せをくれて、あたしの全てになった人。

 だけどねぇ、それは正しかったこと?

 あたしは助かってよかったのかな?

 こんな自分さえよければそれでいいおぞましい子供が、助かっても本当によかったのかな?

 問うことで誰かに肯定してほしくて。頷いてほしくて。免罪符を願うような、そんな浅ましい子供だというのに。あぁ、でも■■■。あたしも生きたかった。あたしも死にたくなかった。そう思うことは罪じゃないよね? それだけは悪くないよね? だってあたしも生きたい。あたしも幸せになりたい。

 あなたと、一緒に生きたい。

 そう思ったことは罪じゃないよね?

 例えあたしが、どんなに罪深い子供だとしても。

 生きたいと願うこと自体は、間違いじゃないよね?

 あたしは手を伸ばした。どこか遠い場所にあ在るその人に。

 ふいに世界が淡くなる。混濁の黒から、覚醒の白へ。

 涙で溶かしたようなそこに、誰かの輪郭が浮かぶ。

 すっきりとした鼻梁。深い叡智を称えた怜悧な眼差し。闇を切り取ったかのような綺麗な黒髪。薄い唇。その、端正な顔立ち。

 どこか冷たい印象のあるその人が、けれどとても温かく優しいことをあたしは知っている。

 あたしは手を伸ばした。そんな価値はあたしには無いのに。

 けれどその手はとってもらえなかった。

 ■■■はどこか寂しそうな目をしていた。辛そうな目をしていた。悲しそうな目をしていた。

 どうしてそんな目をしているのだろう?

 どうしてそんな顔をするのだろう?

 泣きそうなような、叫びだしたいような、辛くて悲しくて切ない顔を。

 ■■■。

 あたしは泣きたくなって、その人の名を呼んだ。

 けれど声が言葉にならない。名前が紡げない。

 泣いたあたしの視界で、ふと、何かが動いた。

 ■■■の後ろに、もう一人別のヒトの姿が見える。

 少しだけ、■■■に似ている。けれど違う。異質だとわかる。一目でそうとわかるほど、これほど遠いのに、これほど存在がぼやけて見えるのに、恐ろしいほど鮮やかにわかる凄絶な美貌。

 もう一人の男が手を上げた。指をこちらに向けた。違う。あたしの後ろを指さしている。

 あたしは振り返る。

 遠くに、■■■がいた。

 いつの間に後ろ側にまわったのだろう?

 いや、違う。最初からそこにいたのだ。あたしが見ていたのは違うもの。違う人? いや、違う……違う違う違う。

 アタシガ 見タノハ 死 ダ

 それから遠ざけてくれた人だから。だから死の前に■■■を見た。

 死の前に立ちはだかる、その人を見た。

 本当の彼は後ろにいたのに。死に向かうあたしに手を伸ばしていたのに。

 対岸からこちらへと手を伸ばしてくれていたのに!

 あたしは後ろの彼に手を伸ばした。

 ■■■が動く。大きく手が伸ばされる。

 唇が動いた。

 ■■と呼ばれた。

 いつかどこかで、そう、夢の中で呼ばれた時と同じように。


 ベル、と。


 ※ ※ ※


 ぽかっと、何か穴に落ちるような感じで、あたしは目を覚ました。

 薄暗い視界。目の前にある布。

 布?

 あたしはぼんやりする意識の中で、自分の居場所を把握しようと記憶を探る。

 なんかいろんな夢を見たような気がする。どこからどこまでが夢で、どのあたりがそうでないのか、なんだかいろいろぐちゃぐちゃでよくわからない。

(というか、ここはどこ?)

 でもって、あたしは今、どういう格好なわけ?

 どうもあたしが思うに、あたしは何か大きな布みたいなのに包まれて、誰かに荷物のように抱えられているらしい。

 抱えている相手は誰だろうか?

 布越しに触れている向こうの体温がなかなかに心地よい。だが、あの無上の喜びに直結するイイ匂いはしない。

 ということは、相手は■■■ではない。

 あたしは息を吸う。どこかカビくさい匂いがした。

 頭が少しだけハッキリする。最初に名前を思い出した。■■ク。あたしの命。■メク。あたしの全て。

 レメク。

 闇の中で見失った、あたしの大切な名前。

 あたしは頭を緩く振った。少しだけ思い出す。暗い闇の中と、そこから浮上するような淡い光の中。その中で見た二人の姿。

 一人はレメクだ。

 だがもう一人は誰だろう? 見たこともない相手だった。あんな凄まじい男前は知らない。レメクも大変素晴らしいハンサムだが、もう一人はちょっと桁が違う。ああいうのを『絶世』とか何とか言うんだろう。完璧に男の人なのに、総毛立つほどの超美形だった。壮絶すぎてちょっと趣味じゃない。

(……てゆか、なんで記憶にないヒトの顔まで見ちゃったんだろ?)

 よくわからない。

 死の前に立ちふさがってくれたレメクと、その人。なんでそんな風に見えたのかは謎だけれど。

 けど、なんとなくわかる。

 なんとなく、確信してる。

 レメク。また助けてくれた? また、引き戻してくれた?

 あたし、あのまま死にそうだったんだよね。レメクが耳にタコができるぐらい繰り返してくれた、あたしの限界点ってやつがさっき来てたんだよね?

 それはあたしの勝手な想像で、もしかしてまた妄想の類なのかもしれないけれど。けど、あたしは直感してる。妄信なのかもしれないけれど。

 レメクが助けてくれたのだと。

 あの時、あたしを引き留めてくれたみたいに。またあたしを引き戻してくれたのだと。

(レメク……)

 あたしはただため息を零す。

 その瞬間、ばうんっとあたしの体がバウンドした。イタイ。

 てゆか、いったい、どういう状況ですか!?

「モウーッ!?」

 あたしは叫んだ。変な言葉になった。

 あたしもぎょっとなったが、あたしを抱えていたらしい相手はもっとギョッとなった。ビクッとなったその動きで、あたしがまたバウンドしてしまったほどに。

「目、目ぇ覚ましたぞ!」

 ものすごく怯えた声。

 ……あれ。てゆかこの声、どこか聞き覚えがあるようナ?

「びくびくすんな! ちゃんとふんじばったんだろが!?」

 叫びかえす誰か。ちょっと悲鳴チックなその声にも、なんとなく覚えがあるような無いような?

「武器も無い。そいつはただのガキだ!」

 武器、の言葉で、あたしはついさっきまで持ってたはずの破れフライパンを思い出した。

 って。

 あああああ!

 こいつら、さっきカッフェを追いかけまわしてたあの二人!?

「モモゴウ!? モモモゴモゴゴゴゴーッ!!」

 あんた達!? カッフェ達はどこにやったのよーッ!!

 渾身の叫びは、しかし猿ぐつわで言葉にならない。

 あたしは暴れた。それはもう暴れまくった。

 どうやら縄か何かで全身くまなくぐるぐる巻きにされているようだが(なんでそんなに念入りに?)、さらにその上に麻袋か何かに入れられているようだが、全く動けないほどじゃない。

 そう、ビッタンビッタン跳ねるぐらいはできるわーッ!!

「モモンゴゴゴーウッ!!」

 ビタビタビタターンッ!!

 盛大に動くと、怯えたように体の下にあった温もりがどっかに飛んでいった。

 ちょっとした浮遊感。即座に落下。

 ビタンッ!

 痛い!!

「ム……ムグゥ……」

 グテ、と伸びたあたしから離れた場所で、ぼそぼそと声がする。

「う……動かなくなった……か?」

「た、たぶん」

 じっとりと汗をかいてそうな気配が伝わってくる。なみなみならぬ緊張感。シン、と静まりかえって約三秒。男の一人が深呼吸をしてから、もう一人に言った。

「よし。じゃあ、お前、持て」

「ぇええええッ!?」

 壮絶に嫌そうな悲鳴を上げる男その一。仮に部下Aと名付けよう。

「じょ、冗談じゃねぇよ! あんな恐ろしいガキ、抱えられるかよ!!」

 恐ろしいガキ、というのは、どうやらあたしのことらしい。

 部下Aの悲鳴に、もう一人の男(仮名「部下B」)が舌打ちする。

「オレだって冗談じゃねぇ! あんなおっとろしいガキ……てゆか、なんであんなに元気なんだ!? さっきまで半分死人みたいだったじゃねぇか!」

「おれが知るわけねぇだろ! くそ……せっかくいい獲物だと思ったのに……!!」

「な、なぁ、こいつがメリディス族だなんて、やっぱ嘘じゃねぇのか? 本当に髪ムラサキだったか? 影でそう見えただけかも知れねぇぞ?」

「あの袋開けて確かめる気か? あれをもう一度開いて? もしその瞬間に、あいつが飛び出てきたらどうするつもりだ!? 地面粉砕するようなガキだぞ!? てゆか、あの馬鹿力がメリディス族の証か何かじゃねぇのか!?」

「ンなコト知るかオレが! メリディス族なんぞ、ドラゴン並にレアな生き物だぞ。ムラサキっぽい銀髪ってのと、高く売れるぐらいしか知らねぇよ!」

 ……なんかヒドイコト言われてる。

「じゃ、じゃあ、もしかすると、ドラゴン並に強いのかも知れネェんじゃ……」

「アホかぁああ!! そんだけ強けりゃ人買いどもに狩られたりしねぇだろが!!」

「け、けど! こいつ、おかしいぐらい強ぇじゃねぇか! 地面粉砕したり!」

「た、確かにそれは……ッ!!」

 なんかあたしをそっちのけで、熱い会話が繰り広げられている。

 だが、彼等の悲鳴っぽい押し付け合いのやりとりで、だいたいの事情がわかった。

 どうやら、彼等はあたしがメリディス族だと気づいたらしい。で、意識を失って半分死人みたいなあたしを縛って袋に放り込んで運送中だった、と。

 どこでメリディス族だとバレたか。問題はそこだが、あたしはその疑問に対するアンサーを得ていた。

 帽子が無い。

 どこかで落としたか……いや、落とした感覚を覚えている。あの時だ。

 感情を制御できなくて、真っ暗闇の意識の呑まれる直前。あたしの頭からすべり落ちた何かの感覚。たぶんアレ。あれが帽子だ。

 帽子が外れれば、髪丸出しだもんね。そりゃ、バレるってもんよ。

 ……てゆか、そうすると、一緒にいたカッフェ達はどこへ?

 あたしはモゾモゾと体勢を立て直し、男達がいる方向に検討をつけて動いた。

 とう!

 ビタンビタビタビタビタッ!!

「「ひぃいいいいッ!?」」

全身を使って必死で近づこうとするあたしに対し、なぜか絶叫っぽい悲鳴を上げて男二人が飛び退いて逃げる。

 ちょっと待てぇーッ!

「モゴゴンゴゴ! モモゴモモモモモモモモーッ!!」

 逃げるんじゃないわよ! カッフェ達はどうしたのよーッ!!

 ビタンビタビタ……ビタ(ちょっと疲れた)……ビタビタビタビタッ!!

 バタバタと荒れたドタ足と、跳ねるあたしの追いかけっこ。

 もちろん、この状況では、あたしの体力が尽きる方が早い。

 あたしは考えた。どうやれば、彼等を罠に……いや、あたしに近づけさせれるか、を。そして、どうやれば情報を引き出せるかを。

 ピンと冴え渡る頭脳が答えをはじき出した。

 動かなければいいんじゃん。

 そうすれば、安全(?)と思って奴らは近寄ってくる。しかもあたしは体力を使わずにすむ。ふふふん。これはなかなか素晴らしい名推理ではありませんか?!

 なんとなく褒めてほしくてキラリと目を光らせる。しかし、もちろんこんな所にレメクがいるはずもなく。よって、ご褒美のナデナデも無い。

 ……しょんぼり。

 意気消沈したあたしに、じり、とにじり寄る獲物の気配。

「……動かなくなった……か?」

 じわ、ともう一歩分にじり寄る気配。

「……だ、大丈夫……か?」

 じりじり。じりじりじりじり。

 ……ええい! とっとと来んかぁーッ!!

「……な、なんか、すっげぇ嫌な予感するんだが」

「触った瞬間跳ね飛んできたりしてな!」

 HAHAHAHAと不思議な高笑い。そして遠ざかる気配。ちょ、ちょっと待て! 逃げるんじゃない! てゆか逃げるなら縄解けぇーッ!!

 あたしは慌てた。ここで跳ねて追いかけるべきか!? い、いやしかし、そんなことをしていつの間にか復活したあたしの謎体力がまた減ったら!? そしたらまたデッドエンド真っ逆さま!? 闇の向こうでレメクと超美形のお二人とご対面!?

 それもイイカモしれないけれど、できればあたしは生レメクの匂いを嗅ぎたい。

 そうだ。夢の中では匂いが嗅げない。ダメだ。却下だ! あたしはあの匂いがいい!

 あたしは飛びかかるのを我慢した。いつか宿のおねーちゃんが船乗りのおにーちゃんに言っていた言葉を頭の中で繰り返す。

 待てば海路の日和あり。棚からぼた餅。急がば回れ。えぇと……あと、なんだっけ? それっぽい言葉。えぇと、猫に小判は違うしっていうか何でこんな時に猫なんて単語が出てくるわけあたし!

 こんがらがってきたあたしに反して、事態はとてもシンプルに進行するらしい。

 逃げ出しかけた男二人が、なぜかドタドタと戻ってきた。

 その足音が、ちょっと怯えている。

 ……ハテ?

「こ、これがそうでさぁ! 旦那!!」

 ドタドタバタ。

 あたしの三歩手前で足音が止まる。

 ……何故離れているのだろうか。

 あたしは胡乱な目になったが、もちろんそれで状況が変わるわけじゃない。

 だが、状況はたいてい向こう側から勝手に変化してくるものだった。


「その中にメリディス族が?」


 どこか耳にキンキンくるような、ひどい甲高い声がした。

 あたしは目を見開く。

 部下A&Bが連れてきたらしい男。その、声。

 それはあたしのよく知っている声だった。

「へ、へぇ……。あのガキを追っていて偶然出くわしまして。どっかの貴族の所有かもしれませんが、まぁ、他国に売っちまえばバレないかと」

 とんでもないことを言う部下Aの言葉に、キンキン声の男は考え込む気配。

 あたしは用心深く呼吸をしながら、相手の気配を探った。

 さっきの男二人。後から来たキンキン声の男一人。だが、その後ろというか周りというか、わらわらと人の数が増えていく。五人六人……これは……十人以上いる。

「それで、カッフェを取り逃がしたのを赦せ、と?」

 キンキン声が問う。どこか忙しない口調。きつい声、というよりも、声自体が高音すぎてキツイ声。

 あたしはその声を本当によく知っていた。

「まぁ、あのガキは取り逃がした所で、後でどうともできるわな。それよりもメリディス族……確かに、本物なら、売り飛ばせばかなりの金になるねぇ。そいつと、貯めた金を持って逃亡するか……そうすれば、あの男も追って来れない……」

 ぶつぶつと呟く声。

 あたしは自分の奥底で熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 それは、かつてレメクに対してあふれ出したものとは対局のもの。

 どす黒く、どろどろと凝ったおぞましいもの。

 一転の曇りもない純粋な感情。憎悪と言う名の思い。

「そうだね。カッフェのことは諦めましょう。えぇ……あなた達、よくやりました。その荷物を持って、明晩、船でここを起ちましょう。あの孤児院にも、もう用は無いしねぇ」

 荷物と呼ばれた。そのことに対してはもう何も思わない。

 ただ、荒れ狂う感情があたしの全身を活性化させていた。

 それは危険な兆候かもしれない。だが、それでもかまわない。

 憎むべき相手がそこにいる。あたし達の不幸を作っていた張本人の一人がそこにいる。

 あたしは仄暗く燃える身の内の業火に全身を浸した。憎い。憎い。あぁ、レメク。かつてあなたは言った。憎しみを止めることはできないと。本当だ。止められない。大切な仲間への思い。それが全て裏返る。悔しい。憎い。殺してやりたい。あぁ、相手の死を願うことはこれほど容易い。この手が刃を探すことも、まるで当然の如くに!!

 今ここに刃物があれば、過たずそこにいるだろう男を刺してやるのに!

 あたしは口を覆う布を食いしばった。

 荷物扱いされること。売られそうなこと。そんなことはどうでもいい。安穏と助かった自分に対する、罰ならばそれでいい。

 だが、罪に対して罰があるのならば、あの男にも相応のものが無くてはならないはずだ。そうだ、罪は罰を。

 罪には罰を。

 あの男にも与えなければ。

 あたしは息を整える。計算する。ちっぽけな頭で考える。あの男に一矢報いるための方法を。

 近づいてきた足音があたしの前で止まる。

 乱暴に引き立てられ、頭の上のあたりで紐のようなものがほどかれる音がした。

 鼓動が早い。体が熱い。血がめぐっている。怒りと憎しみを糧にして。

 布しか見えなかった視界に、光が投げかけられた。

 しばらくぶりの外の光。

 そうしてあたしは、そこに見たくなかった顔を……そして、睨み殺してやりたいと思った顔を見た。

 聖ラグナール孤児院。偉大なる人の名を掲げられた、最悪の孤児院。

 その院長が、目の前にいた。



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