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対オジサマ攻略法!<闇の王と黄金の魔女>  作者: 関根麻希子
幕間 【変態は一人で充分です!】
106/107

番外編 【 パトリス <後編> 】

 ※ ※ ※


 ミヒャエルが侯爵邸に入り、幼女の手料理で昏倒していた頃、別行動をとった男は人混みの中を馬車で移動していた。

 王都港区、その大通りともあれば、馬車同士が余裕をもってすれ違えるだけの広さがある。にもかかわらず慎重に馬を進めているのは、馬のわずか数歩先に通行人がいるためだ。せめて他に開けた場所があればそちらに馬を進めるのだが、左右も人で溢れているため下手に道筋を変えることもできない。

(なんでこんなに混んでるんだ……?)

 ミヒャエルには「いつものこと」のように言ったが、男もまたこの賑わいと人の多さに驚いていた。去年訪れたときには、こんな風ではなかったのだ。

 これは何か大祭とは別に祝い事があったのではないか、と当たりをつけ、迷惑そうな通行人の視線を浴びながらゆっくりと馬車を港近くまで進ませる。

 港もまた、大通りとは別の意味で混んでいた。

 おそらく外航船が到着したのだろう。船着き場には荷揚げされた商品が所狭しと並べられ、ようやく陸地に上がれた船乗り達がふわふわした足取りで大声を張り上げている。

 今なお船から運び出されている木箱には、双頭の鷲の絵図が焼き印されていた。

(……王家の紋章……か)

 王家縁の品を取り扱っているのならば、大商会もしくは大貴族が所持する船だ。彼らは貿易用にとかなり大きな船を所有している。ならば、港の混雑も納得できた。

(規模が違うからな……)

 喧噪に満ちたその一角を見据え、男はげんなりとため息をついた。

 船の荷揚げが始まると、そこは戦場と化す。船がついているのは目的の店よりもやや東だが、すでに店近くにまで人と荷物があふれていた。

 この調子では、店の中も船乗り達であふれているかもしれない。混雑時では、店を任されている古なじみに会うのも難しくなるだろう。

 やや不安を覚えつつ港のすぐ近くにある古なじみの店に馬車を寄せると、気づいた店員らしき少年が慌てて駆け寄ってきた。

「おじさん! そんな所に馬車寄せられたら困るよ!」

 威勢の良い声のわりに、少年の体は小さかった。それなりにこざっぱりとした服を着ているが、その服は半ばおぶれている。数ヶ月前までは見なかった顔だから、おそらくここ最近雇われた少年だろう。

(……元孤児院の子供、か)

 当たりをつけて、御者台に座っていた男は目を細める。

 一見してならず者めいた容貌の男に、声をかけていた少年がやや及び腰になった。

「お、おいらだって好きでこんなこと言ってんじゃねぇんだぜ!? けど、店が困るんだ。停めるならもうちょい入り口から離すか、向こうの馬車駅に停めて来てくれよ」

 少年が指さす方向を見て、なるほどな、と男は苦笑した。

 馬車駅というのは、街中を走るための馬車や、街から街への移動に使う馬車が客を待つ場所だった。その馬車駅が港のすぐ近くにあるのは、港に降りた客がそのまま馬車に乗り込むことが多いからだろう。

 また、人の多い王都では馬車を停めておく場所がほとんど無い。

 路地裏に置けば物取りに荷台ごと持って行かれるのが目に見えているため、宿に置く以外で馬車を停めようと思ったら、馬車駅で場所代を払って置かせてもらうぐらいしか方法が無いのだ。

(あの馬車駅……前より大きくなってるな)

 そしてその馬車駅も、目の前にある店の主人が経営している。つまり、男が馬車を駅に停めれば、この店はそこからも収益をあげることができるのだ。

(いい根性だ)

 ニヤリと笑って、けれど男はその場に降りた。ギョッとなった少年に背を向け、荷台から大きな麻袋を引っ張り出す。

「坊主。おまえ、新顔だろう。店主にゲイルが来たと伝えに行け」

「えっ!?」

 重い麻袋は、地面に置くとじゃりんという独特の音をたてる。

 それを両足で軽く挟むようにして立ち、男は傷の目立つ顔を歪めて言った。

「伝えれば分かる。馬車はそっちで面倒をみてくれとも伝えてくれ」



「はっは~! やっと着いたな~!」

 少年が店の中に駆け戻ってしばらく。馬車の前で手持ちぶさたに立っていたゲイルの元に、丸まるとした体躯の男がやって来た。

 両手を広げ、顔中に歓喜をたたえたその男に、ゲイルは苦笑いで答える。

「久しぶりだな、ベンノ」

「あぁ、久しぶりだ。他の連中は一月以上前に到着したぞ」

「こっちは物を売りながらなんだ。運搬が目的の連中と一緒にするな」

 それもそうだな、と笑いながら頷いて、ベンノは太い体を揺するようにして背後を振り返った。

「馬車を駅の所につないできておくれ。この札で通じるはずだ」

 ベンノが腹に巻き付けた布の間から取り出したのは、焼き印の押された木札だった。描かれている紋章に、後ろに付き添っていた先程の少年が目を丸くする。

「こんな面構えだから分かりにくいだろうが、これでもうちのご主人様が贔屓している行商人だ。覚えやすい顔だから、次からはすぐに対応するようにな」

「は、はいっ」

 慌てて木札を預かる少年を眺めつつ、ゲイルは自分の顔をつるりと撫でた。確かに特徴のある顔だとは思うが、なにも本人を目の前にして言わなくてもいいような気がする。

「長旅で疲れただろう。宿をとるにしても、まずは上の階で食事がてら休んでいくといい。旅の話も聞きたいしな」

 体格と同じく豪快な仕草でゲイルの背を叩き、ベンノは店の二階を顎で示した。ゲイルの下げている大きな麻袋にはさして興味も無さそうな素振りだが、目はしっかりとゲイルと麻袋の両方をとらえ、なおかつ周囲の様子を窺っている。

(……なるほどな)

 その様子にピンときて、ゲイルもさも嬉しそうに顔をほころばせてみせた。仏頂面が常のような男だが、そのぐらいの演技はできる。

 ほとんど肩を抱くような形で歩き出した知己に、彼は笑顔のまま小声で囁いた。

「(いつもの場所は空いてるのか)」

 このあたりの呼吸は、さすが古なじみである。ベンノは別の話題を振りながら同じく小声で囁いた。

「(空けてある。ごったがえしてるから、その荷物、盗られないようにな)」

「(あぁ)」

 二人は久しぶりの再会を喜び合いながら二階へと向かい、港に面しない一番奥の部屋に入った。途中の階段や、各部屋の扉の前には、海猫を象ったレリーフが施されている。

 海猫亭という、この店の名にちなんだ飾りだった。

 ナスティアの海猫亭と言えば、王都の港に寄った船乗りは必ず行くという評判の店である。元々は倒産した商会の建物で、そのため店は大きく、店舗の一階部分のうち、半分は食堂、もう半分は公衆浴場になっていた。

 船乗り達の目的は主に食堂の方で、その種類の豊富さと美味さは彼等の間で特に有名であり、その評判を聞きつけて他国からわざわざやって来る客も少なくない。

 また、荷揚場の一部を改装して作られた公衆浴場は、値段が安いため庶民の憩いの場になっていた。

 海猫亭の特色はそれだけではない。

 二階は全て個室になっており、民に混じって食事をする気のない貴族や、大商会のお偉方が度々足を運んでは優雅に食事をして帰っていく。彼等が妥協する程度には内装も整っており、その分別途料金として徴収する『お部屋代』は近隣の宿泊費よりも遙かに高かった。

 ゲイル達が入った部屋は、数ある部屋の中でも下位に位置する場所にある。

 部屋はやや手狭だが、他の同ランクの部屋よりは広い。また、壁や床、天井を通常の三倍以上厚くしているため、防音に優れていた。

「領主様はここにおいでになったのか?」

 部屋に入ってすぐ、二重扉がきちんと閉まったのを確認してから、ゲイルはベンノにそう問いかけた。

 ゲイルはお人好しそうな顔を即座にひきしめて首を縦に振る。

「一度だけ。お珍しいことに、想定していた事態と現実の結果が違っておられたらしい。そのことについて、懇意にしている方々と話し合われていた」

「……あの侯爵にしては、珍しいことだな……」

 驚きと若干の呆れを含ませて言ったゲイルに、ベンノはなんともいえない顔で苦笑した

「まぁ……閣下にしてみれば、なぜ毎月の報告以上の家畜が送られてくるのか、不思議でならなかったのだろうな」

「領民が自分のために個人の財産である牛や山羊を送ってくるとは思わなかった、ってことか」

「ご自分が領民のために何かをするのは当然だと思っていても、逆は考えておられない気がするな。あの方は、そういう方だ。……それよりも、普通、そういう事態を止めるのがそっちにいる家令達の仕事じゃないのか?」

 やや非難めいたその声に、ゲイルは苦い顔になった。

「止める間もあらばこそ、ってぇやつだな。うちの領の連中は、そういうところ、やたらと素早いからな。侯爵が乳牛や山羊を欲しがってるって聞きつけるや否や、運搬作業をしてた連中の所に即座に家畜を持ち込んだらしい。運搬してる連中にしてみれば、それも指示された家畜なんだと思うしかないだろうよ」

「……で、そのままどんどん運搬したわけか」

「運送用に予定していた荷馬車が全部出尽くして、足りないからってぇんで、別口に用意していた荷馬車もどんどん使っちまったらしい。なにせ大至急っていう連絡だったろ? 家令に伝令飛ばしながらもガンガン送っちまってな。『予定分の荷馬車が出尽くして、足りない分は今別の荷馬車で出荷中だ』っていう報告がいった時には、侯爵家の農場から出る分も全部出た後だったそうだ。さすがに荷馬車に乗せなかった分の家畜は、歩行(かち)だったから途中で止めれたみたいだがな」

 だが、それでもかなりの量の出荷となった。図体の大きい牛はともかく、雌山羊は最速を目指して荷馬車を利用したため、替え馬の代金だけで年間の税収を上回ってしまったのである。

「……あれで、もし牛まで荷馬車に乗せていたらと思うとゾッとするな……」

「止めた歩行の家畜というのは、全部牛だったのか?」

「あぁ。山羊は早すぎて手が回らなかったらしい。牛だけはなんとかな……体重が体重だから、荷馬車に乗せなかっただろ? そのおかげでなんとか止めれたわけだ。……半分ぐらいは」

「……それでも半分は動いたわけか……」

 ベンノはなんとも言い難い顔でため息をついた。

 領民にとっては善意の行為だったのだろうが、高額の運送費を負担するハメになった侯爵を思うと、さすがに笑い話にもできない。

「止めるより先に他領に入っちまったやつは、全部王都に行ったはずだからな。本当なら、途中でもう半分ぐらい引き返させる予定だったんだが……」

「なんで引き返さなかったんだ?」

「連絡が届かなかったらしい。二月は確かに雨の時期だが……一カ所に対し五羽も飛ばして一羽も他領に届かなかったというのは少しおかしくはないか?」

 さすがにベンノは顔をしかめた。

「……受け取り手は?」

「エーヴェルト領で行路の途中にある大きな街の主全員。それぞれに五羽ずつだ。馬を走らせてる連中に、伝書鳩が直接たどり着く可能性は低かったからな。街の主に連絡して、街壁のところで止めてもらおうと思ったらしい。ほら、それなりに付き合いはあるし、連中からそういう連絡が来た時は、うちの領だって手を貸したりしてたしな」

「まぁ、罪人の逃亡防止とかでも、互いに連絡をしあうからな」

 頷き、話を促したベンノに、ゲイルは少しばかり声をひそめて続ける。

「今回の俺の積み荷に、家令が育てた部下っつーのが一人いてな。俺が街で行商してる間、そいつがあちこち訪問して状況を確認してたんだが……なんというか……まだ『通過した後だった』と言われたほうが納得できるんだが、揃いも揃って『届いておりません』ときたらしい」

「……ちょっと待て。全員がか?」

「そうだ」

「おい、それって……いや、それより、いったい何羽の鳩が消えた計算になるわけだ?」

「六ヶ所、五羽ずつ。計三十羽だ」

「…………」

「育てた伝書鳩がこれだけ消えたんだ。後で報告を受ける家令もショックだろうよ」

「……なんとまぁ……」

 呆れたような嘆息をつくベンノに、ゲイルも苦笑いを噛み殺しながら言った。

「連中も阿呆よな。一人ぐらいならまだしも、六つの街の主全員となれば、あからさまに嘘だと分かるだろうに」

「いや……むしろわざととしか思えない口の合わし方じゃないか? こちらを煽っているとしか思えんやり口だが」

 眉をひそめるベンノに、ゲイルはなにやら人の悪そうな顔で笑った。

「だとすれば、連中も当てが外れただろうよ。領主様は多少の嫌がらせぐらいでどうこうなる人じゃあるまい。しかも直接対応した奴が、これまた変わった奴だしな。俺が運んだ家令の部下だが、名をミヒャエルといってな。昔、王都で侯爵に拾われた孤児の一人なんだが……図体のデカイ、木訥そうな外見のわりに、まぁ、妙なところでしたたかな男でな。詰めは甘いは思いこみは激しいはで、ああいった連中の対応には向かんのじゃないかと思っとったが……恐ろしく勘の鋭いところがある。今回もそつなくこなして戻って来やがった。ありゃあ、このままうまく育っていけば、なかなか面白い男になるぞ」

 面白そうに笑っている古なじみに、ベンノは嘆息をついてから苦笑した。

「こちらから問題が起こらないようで、まぁ、それは何よりなんだがな……」

「俺としては、どうもここ最近、エーヴェルトの連中がきな臭くてならん気がする。うちの領を嫌煙しているというか……対抗意識を出しているというか……」

 どう表現すべきか言葉を探して言うゲイルのぼやきに、何か心当たりでもあるのか、ベンノは何とも形容のし難い表情で呻いた。

「『ザルムスの行商人』であるおまえさんから見て、そう思うわけか」

「あぁ。売ってる最中に難癖つけられたこともあったな。話からすると装飾品らしいんだが、うちの領で取り扱っている商品に良く似てるヤツらしい。これがなぁ、どうやら『いわくつき』だったらしくてな、持ち主が次々に不幸になったらしいんだ」

「……なんでそんな話で難癖つけられるんだ?」

「知らん。おまえのところの品じゃないのか、とか言われたが、物も見せられてないのに判断できるわけがねェだろ? ぐだぐだ言う前にその品持ってきやがれっつったら引っ込んだから、連中も今は持ってないみてぇだな。だいたい、骨で作った民芸品なんぞ、うちの領でなくても扱ってるだろう。そんなんで絡まれてもまともに相手してやれるかよ」

 呆れとも軽侮ともつかない口調で語ってから、ゲイルはガシガシと頭を掻いた。

「だがなぁ、どうやっても王都に行くにはあの領地を通過するだろ? これからも続くとなると、うっとうしくてかなわん。しかもだ、からんでくる理由がよく分からん。あれだぞ、うちの領を相手にするということは、あの『悪党もケツまくって逃げる』っつー侯爵を相手にするってことだぞ。腹黒い連中なら、むしろそこそこのところで上手くつきあっておこうって思う相手じゃないか? 触らぬなんとやらに呪いなしとか、なんかそんな感じの格言があったろう。東の国あたりの言葉で」

「うぅむ……」

 ベンノは顎を撫でて考え込む。

 実のところゲイルの疑問に対し、『これは』と思う心当たりはあるのだが、いかんせん確証がとれていないため口に出すのは憚られた。

「閣下が領地を統治された直後は、まだ穏便につきあっとったんだがなぁ……」

「南のグスタフやエリアスが、大陸行路の恩恵に預からなかったのを悔しがって、っていうんなら分かるんだがなぁ……っと」

 苦々しく口にしたゲイルは、何に気づいたのか、慌てて自分の顔をつるりと撫でると首を横に振った。

「いや、俺はただの運搬役だ。こんな話は、上の連中が考えればいいことだ」

「おいおい……そこまで悩んでおいて、いきなりだな。行商を続けるんなら、先々のためにも連中の動向に気を付けておいたほうがいいんじゃないか」

「馬鹿いえ……エーヴェルトで売れなきゃ他の領で売ればいいだけのことだ。俺ぁ、それ以上の仕事をする気はねぇ。……いらんことに気ぃ回して、余計なモン背負い込むのはご免だぜ」

 嫌そうに言って首を竦める古なじみに、ベンノも次の言葉を飲み込んだ。

「……まぁ、そうだな。あぁ、そうだ。先に決算を済ませとかなきゃな」

「おお。そうだった」

 わざとらしく話題を変えると、ゲイルも即座に乗ってくる。

 決算、というのは、ゲイルが運んできた麻袋のことだった。

 行商の売り上げ全てを突っ込んである袋は、強度を持たすために三重になっている。小さな子供なら一人ぐらい入りそうな大きさの麻袋なのだが、今はそれが貨幣でパンパンになっていた。

 中を覗いたベンノは、なにやら笑いを噛み殺すような顔になって言う。

「こいつぁ重かったろうに。……なんだ、両替商が見つからなかったのか?」

 彼がそう揶揄したのは、中に入っている貨幣のほとんどが銅貨だったからである。

 商売上、釣り銭が足りなくなるのを防ぐために、必ず一定の少額貨幣を手元に置いておくことはある。

 だが、小さな貨幣はかさばるうえ、量が増えるとその分重い。一定以上溜まるとその都度持ち運びしやすい貨幣に両替するのだが、その両替商がいない場所での売り上げが重なると、こうして大量の貨幣を持ち歩くハメになるのだった。

「エーヴェルト領ではほとんど物が売れなかったからな。積み荷が生物(なまもの)でなくて良かったと思ったぜ。かわりにシェーグレンではあっという間に売れた。……だが、全員が申し合わせたように細かいので払ってきてな。両替商は見つかったんだが、高額貨幣の類がほとんど出尽くしててな。替えることもままならんかった」

「あー……。アレか。祭りと徴税のせいか?」

「まぁ、そういうことなんだろうが……」

 他国からの賓客も招かれる春の大祭は、ナスティアでは特に有名な祭りだった。

 同時に御前会議が開かれるその祭りのために、諸侯は従僕を引き連れて半月以上前から王都へと向かう。

 人の流れは金の流れだ。

 王都のあるシュトックフェルム領は、祭りを挟んだ約一ヶ月間、人口が二倍以上に膨れあがるという。その人々が落とす金を目当てに、行商人や旅芸人達も王都へと向かう。また、臨時で開かれる大市や見せ物小屋などを見物しに、多くの観光客もまた王都へと向かうのだった。

 旅をする人々は、持つ荷物を軽くするために銅貨よりも銀貨をメインに持って行く。逆に、彼等を待ち受ける王都の人々は銀貨よりも銅貨を手元に用意しておく。

 だが、その時、人々が動いた後の街はどうなるのか。

 これが四月以外の月ならばさほど影響は無い。前々からそれぞれの貨幣を貯蓄しておけばいいのだから。

 だが、四月は徴税の時期だった。

 ナスティアの税の取り立ては一風変わっていて、十二月の最終日に四月から十二月までの分を徴収し、残りの一月から三月の分を四月に徴収する。

 年の終わりに十二ヶ月分を徴収しないのは、一度に十二ヶ月分を徴収しようとすると、かなりの数の人々が払いきれずに夜逃げなどをしなくてはいけなくなるからだった。

 また、一月から三月の終わりにかけては様々な所で働き手を募集する場所が増え、それによって臨時収入が増える。十二月の終わりに九ヶ月分の税を払い、ほとんど素寒貧(すかんぴん)になった者も、残りに三ヶ月で稼ぎ、乗り切ることができるのだ。

 女王の即位後に取り入れられたこの方針のおかげで、払えない税のために人買いに売られる女子供の数は減った。おそらく、四月の大祭にあわせて御前会議を持ってきたのも、金の流通と仕事の増加を促すためだろう。

 もちろん、そういった施策の全てが上手くいっているというわけではない。

 一月から三月にかけての臨時収入は、金額の把握が難しい。そのため、税の徴収金額は実際の儲けを誤魔化したものを納められるケースが多かった。また、人の流れと同時に貨幣が一気に王都周辺に流れるため、他の街で一時的な貨幣不足が起こることもあった。

「十二月に納められる税は、貨幣よりも収穫物での貢納がほとんどだが、四月は逆に貨幣による支払いが多いからな。領民がそうであるように、領主も王に税を納めなきゃならんとなると、領主はそれを持って王都へ出仕する形になる。王都周辺は恐ろしい量の貨幣が毎年集まると聞くが……」

 どうだった? と目で問われて、ベンノは笑いを噛み殺しながら頷いた。

 細かいことは上が考えるだろう、と嘯いておきながら、やはりこうした細かいことを逐一考えてしまっている相手が少々可笑しく思えたのだが、あえてそこは突っ込まなかった。

「おそらく、王宮の金庫は貨幣がぎっしり詰まっているだろうよ。わしらにしてもそうだ。祭りの雰囲気にあてられたのか、どこの店の売り上げも上々だったからな。が、まぁ、かわりに少額貨幣が不足しとったから、おまえさんがこうして小銭を持ち込んでくれたのは有り難い。……だが……しかし、今回はまたずいぶんと極端だな? 普通、支払いにそこまで偏りが出ることは無いんだが……」

 そこだ、と指摘して、ゲイルは苦々しい顔で大きな麻袋を見下ろした。

「王都に人が集中するのには、みんな慣れっこのはずなんだ。もう二十年ちかく同じことを繰り返してるんだからな。確かに徴税で大きな額を領主に支払うし、手元に残しておく貨幣は、日常的に使う銅貨の方がいい。店の釣り銭の不足で損をしては敵わんからな。……だがなぁ……なんだって今回だけこうなったんだ? 聞けば、貴族連中もいつも以上に集まったらしいじゃないか。大商会の連中もこぞって王都に動いたらしいが……」

 やはり細かいことを考えている相手に、ベンノはニヤニヤしそうになる顔を引き締め、せいぜい真面目そうな顔を取り繕って頷いた。

「まぁ、人が動く量が増えれば、金の動く量も増えるからな。金持ち連中がこぞって動けば、そりゃあ、いつもより影響は大きかろうよ。……とはいえ、毎年のことのはずなんだが、今回だけ特別に何かあっただろうかな……」

 首を傾げるベンノに、ゲイルは半分苦笑の混じった嘆息をついた。

「まぁ、いいさ。クソ重かったが、たいしたことじゃない。……それにしても、あの混雑を見て思ったのは、侯爵が牛やら山羊やらを取り寄せたのが今じゃなくてよかった、ってことだな」

 人々が動く時期には、大きな街に入るときにとられる金額が割り増しになる。

 二月は大祭関係の仕事を求めて王都に行く者が増える時期だが、三月に入ってからの混雑ぶりに比べれば圧倒的に少ない。春に比べれば天候が芳しくないこともあり、旅人の数も少ないのだ。

「まぁ、それだけは救いだな。……っと。明細が半分以上貨幣の中に沈んでるじゃないか」

 ベンノは麻袋の中に入っていた羊皮紙を取り出すと、ザッと目を通してから元に戻し、大袋の口を硬く締めた。

「なんにしても、閣下にとっては今度のことも大した騒ぎでは無かったらしい。なにやら水面下で色々あったみたいだが、取引に出てた船も無事に着いたし、わしらの売り上げも毎日出てるし、孤児院のために尽くしてくれたのを称えて陛下から報奨金も出たしで、今のところ金に苦心してる感じではないな。大出費だったのは確かだろうが、あの方が民草のために大出費するのは今にはじまったことじゃない」

「……まぁな」

 苦笑しつつも頷き、ふとゲイルは顔を上げた。

「船といえば、さっき船着き場で荷を下ろした船。あれはどこの船だ? 積み荷に王家の焼き印が押されてたんだが」

 貨幣の詰まった大袋を軽々と担ぎながら、ベンノは「あぁ」と何かを思い出す顔で答える。

「そりゃあ、宰相閣下の所有されている船だろう。ほら、この間大祭が終わっただろう? その時の客人に、他国に嫁いでいらっしゃった王女殿下がおられてな。今も確か滞在されているはずなんだが……その方が国から取り寄せた陛下への献上品らしい」

「それが、なんで宰相の船に乗って来るんだ?」

「そっちの国に、宰相の船が商用で出向いてたからだろうな。ついでに乗せていってくれってことにでもなったんじゃないか? 閣下の船は足が速いので有名だからな。おかげで、他国の者が大勢店に来てなぁ……繁盛するのはいいんだが、中には手癖の悪いのもいるから、大金持って動くとヒヤヒヤする」

 言われてゲイルは思わず苦笑した。会った時のベンノの様子からなんとなく察してはいたが、店の店主代理としてベンノも色々苦労しているようである。

(まぁ、この店で暴れるような剛の者は、そうそういないと思うがな)

 苦笑を深めたゲイルの前、えっほえっほ、と袋を担いで移動していたベンノは、部屋の端にある長椅子を横に動かした。椅子で隠れていた床には、人一人がくぐれるかどうかといった大きさの扉がついている。

 両開きのそれを開くと、ちょうど下の部屋で作業していた部下と目があった。

「おぉ、いたな。新しい売り上げだ。数えて管理しておいてくれ。小銭が多いから、ついでに両替もするといい」

「小銭ですか! それは助かります」

 笑って頷く相手に「よし」と頷き返し、ベンノは大袋を荒縄で編んだ網のようなものに入れ、ゆっくりと下に下ろした。下の金庫室にいた部下が床に下ろされた袋を網から外すと、するするとそれを引き上げる。

「中に詳細を書いた紙が入ってるからな。照らし合わせておいてくれ。後で閣下に報告に行かなきゃならん」

「はい!」

 やや緊張した返事が返ってきて、ベンノは笑いながら扉を閉めた。その合間に椅子に座ってたゲイルも、苦笑めいたものを口に浮かべている。

「おまえの所の連中も、ずいぶん育ってきたな」

「はは! まぁ、もう何年も働いているヤツは、そうだな」

「さっきのガキは新顔だろう? 俺が運ぶのと同じ所のヤツか?」

「あぁ。おまえさんより先に王都に到着してた連中は、年長組を領地に運んだはずだから、今残ってるのはあいつと同じ年少組だな」

「……途中で何組かとすれ違ったな。なんだ、あれ、年長組か」

 道中を思い出しながら言ったゲイルに、ベンノはテーブルを挟んだ向かい側に座りながら「あぁ」と頷く。

「王都の孤児院のほとんどを潰したからな。そのせいで居場所の無い連中が増えたんだ。徴収した悪人どもの屋敷も使ったりしてたんだが、ああいうところは無駄に広いうえに、維持に金がかかるようにできてるだろう? 孤児院の代わりにするには適さないってんで、前の孤児院跡地に新しいのを建築することにしたらしい。……が、箱を作っても根本的な解決にはならないからな」

「……働き口か」

 頷いて、ベンノはふと遠い眼差しになった。

「王都は人が多い。浮浪者や孤児の数もな。働き口も多いが、人の多さはその比じゃない。稼ぐのなら北の炭鉱に行くのが手っ取り早いが、あれは子供が行くようなところじゃないからな」

「そこへいくと、うちの領地は現在開墾の真っ最中だからな」

「そうだ。人手がいる。おまけに領民が少ない。人が増えるのを拒む要素が無い。孤児院を潰して再建するのと同時に、働く気のある奴は全員領地に送ることにしたらしい」

「なるほどな。どうりでガンガン送ってるわけだ」

 頷きながら、ならミヒャエルの育った孤児院はもう無いだろうな、とゲイルは心の中で独りごちた。ミヒャエルが育った孤児院の名前は知らないが、ろくな生活をしていなかったということは聞いている。そんな孤児院が、今回の『断罪』の対象にならなかったとは考えにくい。

「新しい建物を作るのに少しばかり手間取ったみたいだからな。元気な奴は早く領地に動かしたほうがいいってことになったらしい。ちょうど空の荷馬車が山と来てたしな」

 苦笑含みの揶揄に、ゲイルも苦笑した。

「領主様が請求されただろう金額が知りたいぜ。片道だけじゃなく、往復で高額輸送費とは恐れ入る」

「閣下はまったく躊躇わなかったらしいがね」

 肩をすくめながらそう言って、ベンノはふとその瞳を曇らせた。

「わしも、今回のことがあってな、真正面からきっちり孤児院を見ることにしたんだが……ひどいもんだったな。建物なんか、ボロ屋も同然だ。そのせいかな、孤児院を潰すのにはそんなに時間がかからなかったんだが……」

「……何だ。なにか問題でもあったのか?」

「……庭からな、大量の骨が出てきたんだ」

 力無い声で呟いた相手に、ゲイルは顔は目を瞠って顔を上げ──すぐにテーブルに視線を落とした。

 それが『誰』の骨なのか。──問わずとも答えは明白だった。

「どの孤児院も、そんな状況だったらしい。……今、新しく建ってる孤児院の敷地には、その子等の慰霊碑が建ってるよ。……可哀想にな」

「…………」

「わしらは、あの現状をずっと無視してたんだなぁ……。餓死した子が路地裏に転がってることもあったのに……飢えた目で走る子供らも見てたのに……ちゃんと向き合おうとしたことなんか一度も無かった……」

「…………」

「今更すまんかったと……謝ってどうにかなる問題でもないが……。いたたまれん。やりきれんよ。なんでわしらは、もうちょっと早く、行動を起こさなかったんだろうな」

 まるで無いもののように目を背け、そんな現実がそこにあることに気づかぬよう、違う場所を見て生きていた。

 ──そこに確かに助けを求める子供達がいたのに。

「明るみになった孤児院の内容があんまりにも酷いんで、再建する段になって名だたる貴族が出資を申し込んで来たらしい。閣下が大々的に『断罪』を行った後だったから、半分ぐらいは自分の身の潔白を証明したくて擦り寄ってきた連中なんだろうがな」

「……ありえることだな」

「ああ。それでも、金は金だ。ありがたーく受け取ったらしい」

 苦笑と失笑を混ぜたような笑みを口に浮かべてから、ベンノは言葉を続けた。

「新しいのを建てるのには、貧民街の連中を主に雇ったらしい。おかげで連中もちょっと潤ったようだ。別のところに保護された子供らも、ずいぶん元気になったと聞く。だけどなぁ……全員ってのは……無理な話だったなぁ」

「…………」

「せめて助かった連中だけでも、これからは幸せに暮らしてほしいよな。まだまだ人生これからって連中ばっかりだ。……これからも色々あるだろうが、生きてりゃあ、いいことだっていっぱいあるだろうよ」

 頷いて、ゲイルは重いため息をついた。

 この世に生まれてくる時、どこで生まれ育つかを選べる人間はいない。そして幸福も悲劇も、生まれと同時に発生する。どう生き抜き、どう育つかは、生まれ落ちた者が獲得しなければならない最初の試練なのだ。

「ザルムスに行ったとしても、生活が安泰だってわけじゃあない。あそこだってまだ発展の途中だ。だが……希望ぐらいは、あるだろうさ」

 ここよりな、と乾いた笑みを浮かべる相手に、ゲイルは(そうだろうとも)と頷いた。

 ザルムスはこれからどんどん発展していくだろう。

 ようやく整理された大陸行路。

 その路の途中に作られた、新たな街の基礎となるべく配置された小さな集落たち。

 北の大山脈の下、雪解け時の洪水に悩む他領の領主と話し合い、ザルムス内へと引き込まれた巨大な水路。

 区画整理された農耕地は、家畜の飼育を利用してぐるぐるとローテーションを組んで耕し続けられるよう計画されている。

 改良された苗や種。

 水源の確保のために掘られた深い井戸。

 全てがこれからの発展のために用意された、たった一人の領主が、領主就任後のわずか数ヶ月の間に作り上げた様々な『奇跡』だ。

(……ザルムスは豊かになるだろう)

 確証があるわけではない。

 だが、あの侯爵が領主であり続ける限り、そしてこの国が平和であり続ける限り、それは確かに約束された未来なのだ。

「領地ってのは、結局のところ、領主次第だからなぁ」

 同じことを考えていたのだろう。前領主の時代と比べてそう呟くベンノに、ゲイルはただため息をつくようにして深く息を吐いた。

 ゲイルは、正直なところ現領主である侯爵が大の苦手だった。

 いかにも清廉潔白めいた姿も苦手だし、もちろん持ってる権力も恐ろしく苦手だ。

 嫌いと言うには少々気持ちの落ち着き先が微妙なのだが、好きか嫌いかで言えば、どちらかといえば嫌いなほうだと、自分ではそう分析している。

 けれど業績を挙げると、どうしても賛美しているような口調になる。特に前領主と比べると絶賛しか出来なくなる。そんな現実もなんだか嫌だったが、そこはもうどうにもならないと諦めた。生活が豊かになるのなら、どうでもいいことだとも思う。個人的な好悪など、それを上回るものではない。

「……今回連れて行く連中、小さいのばかりなんだろう? 体調のほうは大丈夫なのか?」

「あぁ……まぁ、病弱な子供もいるらしいが、たいていの子はもう元気なはずだ。おまえさんらが来たってことは、数日のうちに出発できるよう準備を整えるだろうよ。閣下のところには報告に行ったんだろう?」

「……うちの積み荷が行ったな」

「じゃあ、明日か明後日には出発になるんじゃないか? どうしても動かせないような子は乗せんだろうし。それに、大陸行路を走るんなら道中も安全だ。道もしっかりしてるから、悪酔いで体力落とす子も少ないだろうよ」

「昔と違ってな」

 苦い笑いを含ませてゲイルはそう言った。

 かつてナスティアにおける大陸行路のうち、最も『汚い』と称されていたのが、ザルムス領を通過する行路だったのだ。

 大陸を横断するその(みち)は、ほとんどの領で舗装整備がされている。だが、ザルムスだけは野ざらしの土道のまま、しかも通行料として他領の倍を要求するという大変な『悪路』だった。

 また、昔はろくに自警団も無かった領地だったため、どこからともなく盗賊団が入り込み、行路を利用しようとする行商人を狙った。こうなってくると、行商人達の方でもその路は忌避と嫌悪の対象にする。

 結果、ザルムスを経由しない道を開拓されるに至り、下手をすればそのまま大陸行路が塗り替えられかねない事態にまで発展した。

 おそらく前領主がもう何年かザルムスを治めていれば、南のエリアス領とグスタフ領を経由する路が新たな大陸行路になっていただろう。逆に言えば、南の二領は前領主が領地を移ったことで損をした、数少ない例だった。

 今のザルムスはといえば、現領主の方針で西から東まで完璧に舗装されている。分厚く頑丈な石畳は、焼き煉瓦のように均一に四角く作られた石で、おそらく紋章を使って作られたものだろうと言われていた。

 領主が紋章術師ないし紋様術師の場合、こういった通常ではありえない品を与えられることがある。

 だが、ザルムスのように、領地を豊かにする大工事の全てが領主の紋章によるものというのは他に例が無かった。

「いい道が出来れば、行商人もそっちを使う。行商人だって人の子だ。行路の途中に村があれば、立ち寄って暖かい食事と屋根のある場所で休みたいと思うもんだ。貧しい村にゃあ、行商人が落としてくれる貨幣は何より有り難い。余分の作物や狩りの獲物があれば、売買が成立することもある。……閣下はよく分かっていらっしゃる」

 自身もかつて行商人をしたことのあるベンノは、しみじみとそう語った。本当はもっと語りたいことがあったのだが、ちょうど一区切り目で扉を叩かれたため、仕方なく言葉を飲み込んだのだ。

 二重扉を開けると、ゲイルと最初に応対したあの少年が、出来上がったばかりの料理と麦芽酒の詰まった袋を持ってそこに立っていた。

「おぅ! こいつぁ気がきいてる。ここの代理店主は口だけで水も料理も出してくれなかったからな」

 ただよってくる良い匂いに、演技でなく顔をほころばせ、ゲイルはいそいそと料理を取りに席を立った。そうするといかにも凶悪な顔立ちが妙に愛嬌のある顔になるから不思議だ。喋り続けて喉が渇いていたせいもあって、ゲイルの少年に対する好感は最大級のものになっていた。

 目をぱちくりさせながら料理を手渡した少年は、その時、ゲイルの左手に親指が無いのを見て息を呑んだ。

「あぁ、これか」

 少年の反応に苦笑いし、ゲイルは自身の左手を相手に見せた。いくつもの傷跡が残るその手には、やはり本来あるべき場所に指が──それも親指だけが無い。

 自分が傷を負ったかのように、ふいに痛そうに目を細める少年に、ゲイルは少しだけ笑った。

「昔、馬鹿なことをやった、そのツケだ。仲間同士の争いで傷を負ってな……」

 だが、その傷を負うに至った事件について、ゲイルは口を開こうとはしなかった。それはすでに過去のことであり、また、他人に吹聴するようなものでもなかったのである。

 なにか物足りなさそうにこちらを見る好奇心旺盛な子供に口の端で笑ってみせてから、ゲイルはベンノに向かって顎をしゃくってみせた。

 ベンノは苦笑して子供の頭を撫でる。

「おまえの先輩のような人だ」

 語られぬ過去のかわりにそう教えてやると、子供はすぐに訳知り顔になって好奇心を引っ込めた。先輩ということは、彼と同じ孤児であった、ということだ。そして、孤児であったという過去は、彼等に奇妙な連帯感や仲間意識を与える。人に言えない過去の一つや二つ、あって当然なのが彼等だった。

「リト。店の棚に葡萄酒が置いてあったろう。例のエーヴェルト領のやつ。あれを持ってきてくれ」

「白? 赤?」

「白。ゴーリヤのがいいな。ついでに、一緒に置いてあるわしの瓶も一緒にな」

「わかった」

 頷き、すぐさま踵を返す少年を見送って、ベンノは二重扉をしっかりと閉めた。

 ゲイルは早速麦芽酒に口をつけながら、笑い含みに言う。

「ゴーリヤの白とは、気前がいいな」

 ゴーリヤというのは、エーヴェルト領にある葡萄酒が美味いことで有名な荘園だった。

 もともとエーヴェルト領は葡萄の名産地であり、そこで作られる葡萄酒は西中央随一との評判だった。実際、王宮で各国の賓客にふるまわれる葡萄酒のほとんどがゴーリヤ産で、特に『白』はその上品な味と馥郁とした香りに定評がある。だがその分値段が高く、ゴーリヤの白と言えば王侯貴族の飲み物、と揶揄されるほどだった。

 ゲイルはそれを示して声をかけたのだが、ベンノはなんとも言えない微苦笑を浮かべてこう言った。

「そうでもない。……まぁ、飲んでみればわかることだがな」

「……?」

 ゲイルは首を傾げる。

 だが、ベンノが差し向かいで座ると、麦芽酒の杯を渡して共に乾杯した。

 喉と鼻腔を刺激する独特の香りと喉ごしに、ついつい唸り声めいたものをあげてしまう。芳醇な大地の味わいは、程よい冷えも手伝って格別に美味かった。

「あれだな。王都広しと言えど、ここまで美味い麦芽酒を扱ってる店はここしかねェだろうな」

「そりゃあ、褒めすぎってもんだろう」

 手放しの賛辞に顔をほころばせながら、作りたての料理に手を伸ばすゲイルの杯に次を注ぎ込む。少年が持ってきたのは、ゲイルが来るまでベンノが作っていたチキンのオリーブ詰めだった。この料理は海猫亭の定番メニューだが、今日の詰め物には小麦を混ぜてある。腹持ちする上に非常に美味しいということで、最近では麦入りを希望する者が多いのだ。

「この鶏は閣下のお屋敷で飼育されてるものだ。放し飼いになってた鶏は、野生化して恐ろしいほど高く飛ぶらしいな」

「おいおい……侯爵の屋敷にゃ鶏が飛んでるってぇのか?」

「北にある森みたいな庭の方では飛んでるらしい。ほら、昔、領内の開墾を進める途中、領地に荷馬車で家畜が運ばれて来たっておまえ言ってただろう」

「あぁ……侯爵が領主になって最初の年の話だな」

「あのとき運んできた家畜だって、もとは閣下のお屋敷で飼育されていた家畜だそうだ。あの方の屋敷といえば、北区の一区まるごと全部だ。閣下が住んでいらっしゃるお屋敷より北には、湖や……なんといったかな、あの、泥みたいな水地で育つ麦みたいなやつ……そういう変わった作物を育てる農地や、巨木が茂る森みたいな庭がある。それどころか、屋敷に行く手前の庭もほとんど森のような有様だ。樹齢数百年っていう巨木でな、新しい孤児院建設にもずいぶんと役立ってくれたらしい」

 ふむ、と気のない返事をうちながら、ふとゲイルは顔を上げた。足音が聞こえたのだ。

「お。ゴーリヤの白が来たぞ」

 先程に増していそいそと取りに行く相手に笑って、ベンノは自分も鶏肉を一欠片つまんだ。口に広がる旨味に(上出来だ)と自画自賛していると、上機嫌のゲイルが二つの瓶を抱えてテーブルに戻ってくる。

 ベンノは片方を瓶を受け取り、開けた。

「うほぉ。いい匂いだな」

 ゲイルは片方の瓶に鼻を近づけ、相好を崩している。彼が持っている瓶は、エーヴェルトが発行を証明するラベルが貼れたものだ。

「こっちのも嗅いでみるといい」

 そう言って、開けたばかりのラベルのない白い瓶を渡すと、ゲイルは素直に鼻を近づけた。そうして相好を崩す。

「なんだ、同じものを別の瓶に入れたのか? それとも、あれか。年代が違うのか?」

 ベンノは答えず、飲んでみろと目で告げた。

 むろん、ゲイルは逆らわずに杯を空ける。ちゃんと飲み比べのために、間で自分の腰にくくりつけていた水筒から水を飲んで舌を新しくしていた。

 それを見て、ベンノなどは(しまったな。一緒に水も持ってこさせるべきだった)などと思ったが、彼にしてみればまさかゲイルがそこまで細かく味を比べようとするとは思わなかったのである。

 ゲイルは二つの瓶を飲み比べ、微妙な顔でこちらに「?」の視線を向けてきた。

 ベンノは身を乗り出して問うた。

「……味の違いが分かるか?」

「……いや……多少は……風味が違う気もするんだが……」

 ゲイルの返答はなんとも歯切れが悪い。

 この酒好きの古なじみは、酒の味に関しては恐ろしいほど口うるさい。その彼が微妙な顔で言葉を濁す程度には、どちらも似ている──というより、どちらも『同じぐらい美味い』ということになるのだろう。

「美味いだろ」

「あぁ。……だが、やっぱり、ちっと風味が違う……な。……が、どっちも美味い。なんだ、新しい特産地か?」

「ザルムスのだ」

 ゲイルは一瞬、ベンノが何を言ったのか分からなかったらしい。

 珍しくキョトンとしている相手に、ベンノはもう一度「ザルムスだ」と告げた。

「おまえさんが知らないのも無理はない。試験的に作られたものだからな。葡萄畑も小さなものだ。だが、作られた酒は、その味だ」

「……これが……ザルムスで?」

「そうだ。……おそらくだが、本当にただの推測だが……エーヴェルトがうちの領に嫌がらせをしはじめたという原因も、そいつだと思う」

 ゲイルは信じられないものを見るようにして白い瓶を眺め、ややあって顔をひきつらせた。

「……市場が変わる」

 そう、理解したのだ。

 ナスティアで葡萄酒と言えばエーヴェルト領、と言われるほど、エーヴェルトは葡萄酒の聖地だった。おそらく、長年かけて築きあげてきたその地位は揺るがないだろう。

 だが、それに迫る葡萄酒の名産地が誕生する。

 それも、これから発展するだろうザルムスだ。そしてその領主の持つ特権と、時に王すら凌ぐ権力。

 これがどれほど相手にとって脅威なのか、気づいてゲイルは身震いした。

 だが、その身震いは恐怖や怯えとは種類が違うものだった。

「はは……おい……どうなる。どうなるコレ。ザルムスが葡萄酒の名産地になるってか!?」

「そこまでいくかどうかは、まだ分からんよ。言ったろうが、試験的なものだと。閣下はザルムスに適した作物の模索をずっと続けていらっしゃる。品種の改良もかなり試されているらしい。そうして出来上がったものの一つが、この酒の原料である葡萄だったというだけだ。増やすのも時間がかかるだろう。もしかするとこれから寄生虫や病原菌などで死滅してしまうかもしれん。なにせ、まだはじまったばかりだからな。……だが、上手くいけば、エーヴェルトにとって恐ろしい商売敵になるのは間違いないだろうな。閣下は、商業権、交易権、貿易権を全て持っていらっしゃる」

「貿易……! そうか……国内で終わらんのか、侯爵は!」

「そうだ。しかも、エーヴェルトと違って間に商会を挟まない。なにせ、一個人で持つ権利だからな。数多くの特権を個人で所有する閣下でしか実現しないが、国内外全ての場所との取引が可能で、その利益は直接侯爵の手に渡るということだ。エーヴェルトは交易権は持っていても貿易権は持っていない。だから他国に輸出しようと別の商会が買い付けに来ている。人や商会を間に挟めばその分値段が跳ね上がる。価格の競争では圧倒的にザルムスのほうが有利だ」

「こいつぁいい!」

 ゲイルは大きく破顔した。

 ザルムスには、今のところこれといった特産物はない。

 なにせ侯爵が領主になるまで、本当に荒れ地ばかりが広がる領だったのだ。

 当時のささやかな収穫物は麦だったが、ザルムスの麦は質が悪かった。土地があわないというよりも、水の確保ができず、麦が上手く育たなかったのだ。もちろん、土地がひどく痩せていたのも原因の一つだろう。

 灌漑工事が終わって以降、麦の収穫高は爆発的に増えている。ただし、名だたる穀倉地帯を前にして「うちもよく穫れる」と言えるような内容ではない。昔があまりにもひどかっただけなのだ。

 では他の作物はどうか、と考えても、やはりこれといって特別美味しいものというのは無かった。唯一他領と一線を画するのが『牛』という生き物だろうか。着実に数を増やしつつあるその生き物は、ある意味ではザルムスだけの特産となりつつある。

 だが、牛は鶏のようにポコポコと毎日のように産まれるわけではない。

 また、豚のように一度に沢山産まれるわけでもなかった。

 そのため、昔からいる山羊や羊と比べて、その個体数は恐ろしく少ない。牛という新しい家畜が市場に出回るまでには、まだしばらくの年数がかかるだろうと言われていた。その間は、じわじわと畑の収穫高を上げながら人と開墾地を増やしていくしかなかったのだ。

 だが、ここにきて一つの可能性が出てきた。

 麦芽酒ほど庶民に親しまれてはいないが、葡萄酒もまた大切な飲み物である。ことに冬の旅には必需品だった。あると無いとでは寒さのこたえかたが違うのだ。

 葡萄酒は美味いものであれば美味いものであるほどいい。安ければなおいい。

 ザルムスの葡萄酒は、その両方を兼ね備えるものになるかもしれない。なら、どれほどの勢いで売れるだろうか。

 そう考えると、自分の利益でもないのに思わず顔が緩んでしまった。思わず夢想するゲイルを眺めつつ、ベンノはパンパンと手を叩いて相手を現実に引き戻す。

「この話はな、ゲイル。収穫前の果実の出来を夢見るようなものだ。閣下なら可能にするかもしれん、という期待はわしにもある。だが、隣の領と険悪になる事業に閣下が乗り出されるだろうかという不安もある。ザルムスの家令はどう考えているのだろうなぁ……」

 ゲイルは何度か顔を撫でてから、「ふぅむ」と思案するような声をあげた。そのじつ、半分ぐらいはまだ夢の中にいるような目をしている。

「家令……家令か。そういや、なんでこの時期に育てた部下を侯爵の元に送ったんだろうな」

「ふむ……」

 半分夢うつつで呟いたであろうその一言に、ベンノは黙考した。

 もしかすると、家令は侯爵を領地に連れ戻そうと画策しているのかもしれない。

 本来、領地持ちの貴族が在るべき場所は、王都ではなく己の領地なのだ。一年のほとんどを外で過ごす領主が他にいないわけでもないが、一年に一回どころか数年に一回ぐらいしか──しかも大がかりな工事の時ぐらいしか──帰っていない領主など、おそらく王国中を探してもクラウドール侯爵ぐらいなものだろう。

(……やれやれ。それにしても、こいつはまた、そういう騒動にばかり縁のある男だな……)

 ゲイルの手から瓶をひっそりと奪い、自分の杯につぎながらベンノは苦笑を零した。

 ゲイルは常日頃から、こういった転換期の騒動には近づきたくないと口にしている。だがどういうわけか、この男はそういう騒動に引き寄せられるかのように関わってしまうのだ。昔も、そして、今も。

(それもまた、巡り合わせというもんだろうよ)

 ベンノは未だ未来への可能性を夢見る男に向かって、いずれ世界に広まるかもしれぬ酒杯を掲げてみせた。


 ※ ※ ※


 靴が沈み込みそうな絨毯を踏みしめて、ミヒャエルはよろよろと廊下を歩いていた。

「ぅー……」

 うっすらと汗をかき、辛そうな顔で緩慢に進む姿は、どんな病を抱えているのかと思わせるに充分だったが、実のところ彼の症状は『食べ過ぎ』だった。

「……くっ……貴族様……侮りが足し……!!」

 領主クラウドール侯爵家で料理を振る舞ってくれたのは、料理長でも調理師でもなくアロック男爵家の嫡男だという青年だった。下位とはいえれっきとした貴族の嫡子である青年が、何故他家の厨房で料理を作っているのか、何故手慣れているのか、ついでに何故あれほどまでに微細な侯爵領の(というより侯爵の)情報を尋ねてくるのか、ミヒャエルには疑問でならなかったが、

(く……苦しい……幸せだが苦しい……アレか!? 貴族の道楽っていうのは、こんなに美味い飯作れるぐらいになるのか!?)

 些細な疑問も多大な不審も、振る舞われた料理の数々を前にしてあっさりと融解してしまった。本人を前にして言動を見聞きすればいくらでも新たに沸き上がってくる疑問ではあるが、侯爵も黙認しているような(実際はしていないが)相手なのでまぁいいかと結論づけることにした。

(にしても、領主様。なにか、人が変わられたような感じだな……)

 やたらとニコニコしている青年が傍にいるのを見たせいか、ミヒャエルは久方ぶりに会う領主の印象が、昔と違いすぎて分からなくなっていた。

 むろん、人柄を察せられるほどの深いつきあいがあったわけではない。それどころかほとんど数時間顔を見合わせた程度の間柄だ。きっと相手は自分など覚えてもいないだろう。

 だが、あの時の鮮やかなほど美しかった侯爵の姿は、今も思い出すだけで胸を押されるような不思議な強さで記憶に残っていた。幼く狭い視野しかもっていなかったミヒャエルにとっては、初めて見た『この世で最も美しいもの』が侯爵だったのだ。

(……いや、おれも大概、世の中知らなかったんだけどな……)

 思い出した過去の記憶に、ミヒャエルはどんよりとした顔になった。

 今となってはとてもじゃないが口に出せない出会いの印象である。せめて相手が絶世の美女なら、懐かしくも麗しい記憶としてとっておけるのに、同性が相手では周囲から果てしない同情の視線を向けられるばかりだ。

 だがあの当時、今の王都とは比べものにならないほど荒み汚れた街の中で、汚いものばかりを見続けてきたミヒャエルにとっては、侯爵は正しく『最も美しい』ものだったのだ。そればかりはどうやっても否定できない。

(……けど、今見たら、きっとあの時みたいな気持ちにはならないんだろうな)

 ふとなにか寂寥感のようなものを覚えて、ミヒャエルは(なんでだろう?)と首を傾げた。

 大きくなるにつれ、沢山の場所で沢山のものを見る機会が増えた。侯爵家の執事であれば、上流階級との付き合いも学ばなければならない。宰相に徹底的な指導を施されたという家令にしごかれ、ミヒャエルも昔であれば門前にも近寄れなかった貴族の屋敷に幾度も足を踏み入れた。それどころか、勉学のために他国に旅したこともある。

 そうして視野と知識が広がったせいか、それともこれが大人になったということなのか、昔見た景色と同じものを見ても、当時と同じ気持ちを覚えられないことが増えた。

 昔は白いパン一つ手に入れただけで心が浮き立つほど嬉しかったのに、今はそんな喜びを感じることなど皆無だ。唯一似たような気持ちになったのは灌漑工事の時だが、最後の最後に寂寥感に苛まれたのでそちらのほうが印象に残ってしまっている。

(……侯爵を初めて見た時、ってのは……)

 どん底の状態の時だったと、懐かしむような気持ちで思い出す。

 まともに歩くどころかしゃべることすら難しいような状態で、這うように歩いていた時だった。ひどくひもじかったことを覚えている。

 差し出された手は美しかった。

 着ているものも美しかった。実際は黒一色の簡素な服だったのだが、その時の自分には清潔で上等な服というだけで、ひどく美しく見えたのだ。

 顔については、語彙の乏しい自分では言葉が見つからないほど美しかったと思う。だが、あまりにも昔すぎて細かく思い出すことは不可能だった。美しかったという印象と、少しばかり靄のかかった顔は覚えているのに、複写術で写された写真のようにハッキリとは思い浮かべられない。

 けれど、会った時の気持ちは今も鮮やかに覚えていた。

 あれを言葉にするのはとても難しい。胸がいっぱいになるような──けれどその後に会った少女に対する甘酸っぱい恋やそういった心の動きとは全く別のものだった。

 例えて言うならば、そう──あれは、後に仕事で訪れたバルディアの大聖堂を初めて仰ぎ見た時の感覚に似ているのかもしれない。

 汚れなく美しく──けれどそれ故に、人の身からは遠く、温もりは無い。

(あぁ、そうか……信仰みたいなもんなんだ)

 領地にいる一部の民は、今も侯爵邸に祈りを捧げる。

 果てしない感謝を込めたそれは、確かに信仰のそれとよく似ていた。

 そして自分もまた、彼等と同じ気持ちを持っているのだ。たとえ相手があまりにも不透明で、姿すら朧気な『よくわからない』相手であっても。

(……なんか、同じ人間を相手にしてる、って気が……しなかったんだよな……今まで)

 けれど今、その印象が少し変わってきている。

 やたらとリアクションの大きい幼女を見たせいかもしれないし、異様にお人好しそうな青年を見たせいかもしれない。

 なにかこう、人としての侯爵がここにいるような気がするのだ。

(……そっか。おれ、結局のところ、昔見た『侯爵』っていう幻影だけ、ずっと胸にしまってたんだな)

 わずかな間だけの邂逅と、人の手で行われたとは思えない奇跡のような偉業。救われたという現実。それだけしか接点が無かったから、本当に信仰のように相手を仰ぎ見るだけで、真正面から見ようとしたことなど一度も無かったのだ。

 むろん、それは侯爵が領民にほとんど姿を見せていないからでもある。知らないということは、誤解や空想や妄想を他者に与えるのだ。

「……あ」

 その瞬間、ふとある答えが浮かんで、ミヒャエルは思わず足を止めた。

(だから──家令は……)

 領地に帰って来てくれと切望していた家令。

 何かをしてくれと頼むためではなく、ただ、帰って来てほしいと、それだけを願っていた人。

 彼の願いは単純だった。

 ただ領民に、侯爵を見せたいのだ。

 空想の中にいる『侯爵』という名の記号ではなく──一人の人間として。

 彼の治める土地を己の『故郷』と定めているからこそ、同じくあの地を故郷とする人々に──

(…………)

 ミヒャエルは俯き──ややあってしっかりと顔を上げて歩き出した。

 侯爵に対する怯えは、もう無くなっていた。


  ※ ※ ※


 執事という職には、ノックなしに主の部屋に入る権限が与えられている。

 それでも律儀に行われた三回のノックに、レメクは顔を上げた。

 クラウドール邸、寝室、天蓋ベッドの中である。

 厚みのある豪奢な帳で四方を囲まれたベッドは、余裕で大人三人ぐらい並んで眠れるほどに大きい。へたをすれば小さな家の小部屋以上だろう。一人で眠るにはいささか大きすぎるそれは、とある事情で破壊されたベッドの代わりにと、女王より半ば無理やり押しつけられたものだった。

 深い緑のベッドは、幼少の頃に自分が使っていたベッドと同じ形、同じ大きさをしていた。おそらく、義父であるステファン老の遺品だろうとレメクは当たりをつけていた。王宮にあったこれらの品は、数百年前に当時の王族用にと作られた品だ。同じ物は二つとなく、それらは全て王宮の奥深く──俗に『後宮』と呼ばれる場所に納められている。

 壊されたというベッドは、屋敷に昔からある年代物だった。レメクはあまり物に執着しないが、さすがに少年の頃から使っていたベッドにはそれなりの愛着がある。かつて老公に譲られた、ある意味『遺品』とも言える品だっただけに、それは尚更だった。

 破壊者もそれを敏感に察したのだろう。壊してしまった後は見ているこちらが可哀想に思うほど青ざめ、意気消沈してしまっていた。

 女王が後宮にあったこのベッドを贈ってきたのも、その様子を見かねてのことだ。天蓋付きというある意味これ以上分かりやすいものはない『物語に出てきそうな豪華なベッド』に、落ち込んでいた少女の心があっという間に浮上し、目をキラキラと輝かせたのをレメクは覚えている。女性というものはこういう物が好きなのだと初めて知った瞬間でもあった。

 ──レメクにとっては、視界を妨げる帳付きのベッドは、あまり好ましいものでは無かったのだが。

 一瞬思い出した一月ほど前の過去を頭から追い出し、レメクはそっと周囲の気配を探った。

 帳が降りたままのベッドでは、部屋の様子は全く見えない。それでも気配などで相手の位置は分かるため、レメクも敢えて帳を上げようとはしなかった。

 実際のところ、今までは帳を上げようとすると何故かケニードが恐ろしい勢いで止めに来るため、上げたくても上げれないという状態だったのだが。

「入りなさい」

 律儀に部屋の向こうで許可を待つ相手に、レメクは声をかけた。

 失礼いたします、という声と同時に、その相手は完璧な仕草で部屋に入ってくる。

 ケニードとは違う音、違う気配の相手は、ザルムスの屋敷で働いている執事のものだった。

 家令が一から手ほどきをして育てたという青年は、気配から察するにケニードより背が高く、ルドゥインほどではないが肉の厚みもあり、それなりに鍛えられた体躯をしているらしかった。

 体重のかけ方、足運び、それらから察するに、武術の手ほどきはうけていない。そこまで読み取って、レメクは相手が近くまで来るのを容認した。

 執事は存在が邪魔にならない程度の距離を置いて立ち止まり、帳が降りたままのベッドに向かって丁寧に一礼した。

「御前を騒がせてしまい、申し訳ありませんでした。また、多大なるご配慮をいただきましたこと、心より御礼申し上げます」

 部屋を出るまでの騒がしさが嘘のような落ち着いた声である。

 少しばかり意外に思いながら、レメクは相手に見えないことは承知で首を横に振った。

「誰にでも体調の悪いときというのはあります。気にすることはありません。……本人に悪気は無かったとはいえ、ベルが迷惑をおかけしたことに対しては、私も申し訳なく思っています」

 そのベルはといえば、騒ぎ疲れて今は傍らで丸くなっていた。それこそ猫のように丸まって眠る少女は、小さな手でレメクの服の端を握っている。

「……ベルの作る食事は、それほどおかしな味ではないのですが……なぜか、私やごく一部の者以外が食べると意識が混濁するようなのです」

「…………」

 なにやら微妙な困惑が伝わってきた。

 昏倒させられた身からすれば、何故そんなの珍妙な品が出来上がるのか不思議でならないのだろう。

 実のところレメクも不思議で仕方がない。だが、『昏倒』の原因となるものがなにも無いため、今はベルの七不思議として深く考えないようにしていた。よって、それ以上彼女の手料理について解説することができない。

 かわりにこう付け足した。

「慣れればそれなりに美味しいものです」

 とはいえ、今のところそれを食べて「美味しい」と言えるのはレメクとケニードだけであり、『味について言及しないが倒れることはない』のはポテトだけだった。

 ちなみにアリステラはポテトに必死に止められたため食べることじたい出来ていない。

 そんなもの悲しい手料理の実態を体験してしまった執事は、いたたまれなくなるような沈黙を間に挟んでから、「左様でございますか」と答えた。

 答え自体はそっけない言葉なのだが、声には激しい動揺が含まれている。

「お嬢様は私の空腹を見かねてご自身の食事を分け与えてくださいました。お嬢様のその優しさには感謝しております」

 あえて味や未知の衝撃については言及せず、執事はかしこまるように一礼してみせる。

 また少し意外に思ってレメクは首を傾げ── ややあって、自嘲にも似た苦笑を零した。

 そうして、寝着であっても忍ばせてある鋼糸を操り、重い帳を一方向だけ開ける。

 薄暗がりに入り込んだ光に、寝ているベルが眩しそうに顔をしかめ、こちらの体に顔を押しつけるようにして逃げた。そんな彼女の頭を軽く撫でてやってから、レメクは開けた帳の向こうにいる青年を見上げる。

 背の高い青年だった。長身を誇る自分やケニードよりもさらに高い。さすがにルドゥインほど人外じみた大きさではないが、その立派な体躯には思わず感心してしまった。よくもここまで育ったものである。

 思わずしみじみと見やったレメクに、相手もなにやら驚いたような顔でまじまじとこちらを見ていた。

「領主様……」

 驚きと感嘆と懐かしさを混ぜ合わせれば、たぶんこんな顔になるのだろう。

 他人の感情にだけは詳しくなってしまったレメクは、執事の顔を見てそう判断した。だが、どうしてそんな顔をされてしまうのかはよく分からない。

 ならば問うてみよう、と口を開き──


「……なんのつもりです?」


 次の瞬間には、全く別の言葉を口にしていた。

 そのレメクの前、彼の執事である青年は、どういうわけかその場にひれ伏してしまっていた。東の国で言うところの『ドゲザ』という姿勢だ。床にはいつくばるようなその姿勢は、人としての矜持を捨てた姿のように見え、レメクは即座に表情を険しくした。

「立ちなさい」

「……いいえ、領主様」

「立て、と私は言いました。そのような、人としての誇りを捨てさせるような姿勢を、私は許容できません」

「いいえ!」

 レメクのあげた厳しい声に、それを弾く勢いで青年は声を張り上げた。

 顔は上げない。こちらを見ない。だが、その全身から、痛いほどにこちらを意識している気配が感じられた。

「私達──いえ、私は、大恩ある領主様のご意向を無視し、従僕の身にあるまじきお願いをしに参りました! 領主様……どうか」


「どうか、領地にご帰還くださいませ!」


 必死の声で言われた言葉に、レメクは思わず目を瞠る。大声に起こされたのか、掌の下でベルがもぞもぞと起きあがった。

「……領地に何かありましたか」

 二月の騒動では予想外の出費に見舞われた。(エーヴェルト)の領主には、それ以前からも少しばかり不穏な言動をとられている。さすがに表だって対立してくることはないものの、なんらかの動きはあって当然だろう。執事の必死さにそう思ったのだが、相手からかえってきた答えは『否』だった。

「……では、領民に何か……?」

 ザルムスは未だ発展途上の領地だ。開墾を進めてはいるが、人手となるのは貧しさのために食料もろくにあたらなかった者が多い。必死に働くあまり、体を壊す者が続出したのだろうかと不安に思ったが、それへの答えも『否』だった。

「領主様のお慈悲により、領地の主立った場所に水路が引かれ、領民は飢えと乾きから解放されました。備蓄用の食糧も増え、今ならば新たな領民が百人単位で増えようとまかなえるはずだと家令も申しておりました。作物の出来も上々。豊作であった去年にも増して実りある年となることでしょう。そういう意味では、領地、領民ともに、いささかの問題もございません」

「……では、何故」

 何故それほどまでに必死になっているのか。理解できず、レメクは眉を顰めた。

 何の問題もないのであれば、領主など必要では無いだろうと思ったのだ。

 それこそが根本的な間違いなのだが、彼にそれを教えられる人は今までいなかった。指摘する者すらいなかったのだ。今日という日まで。

「ですが、領民のほとんどは、領主様を存じ上げません!」

「…………」

「領主様。私達は、沢山のものを領主様からいただきました。心から感謝しております。ですが、姿無き相手への感謝は、いずれ形を失います。いただいたものをお返ししたくても、相手がおられないままでは、返せないままにそれが朧気になってしまうのです。恩は覚えております。ですが、月日というものは、人の心を不確かなものにしてしまうのです!」

「…………」

「領地には新しい命も生まれました。その子達は領主様のことを何一つ知りません。物語に出てくる登場人物のように、両親の話にだけ出てくる相手なのです。豊かになりつつある領地に来て、そのまま領民となる者もいます。そういった者にとっては、領主様は姿の無い名前だけの相手となっております」

 それでかまわないだろう。レメクはそう思った。

 だが、口を挟むことはできなかった。

「領主様。私は恐ろしゅうございます。私は子供の頃、領主様に助けていただきました。私と同じような者は領地に多くいます。ですが、長い年月は私達を否応なく変えていきます。日々の生活に必死になるあまり、記憶は朧気になり、感謝は風化した景色のように色褪せ、いずれは忘れてはならない恩を忘れてしまいそうになります!」

 レメクは口を挟めない。それでいいと、思っているのに口に出来ない。

「領主様はずっと私達に沢山のものを与え続けてくれています。ですが、姿の見えない相手からの施しは、いつしか私達の間で神様からの贈り物のような、そんな感謝の形が曖昧なものになってしまっている。私はそれが恐ろしい……! いただいたものを、当たり前のもののように思ってしまいそうで、それが恐ろしくてなりません!」

 執事は必死だった。

 必死にこう言っているのだ。

 忘れたくない、と。

 受けた恩、与えられたもの、差し伸べられた手──そういったものを色褪せさせたくないと。

 領主(自分)を忘れたくないと、そう言っているのだ。

「相手からの恩を当たり前と思ってしまったら、うちの領はお終いです! いただけなくなった時、今までいただいた恩を忘れ、不満だけを口にしはじめることでしょう! 姿が見えないということは、そこに相手がいないも同然なのです。いない相手への感謝はどうしても薄れがちになる。忘れ得ぬ形として、領主様のお姿を見せていただきたいのです! 決して揺るがず、薄れぬものの形として!!」

 それは祈りの対象として神像を手元に残すようなものだと、レメクは相手の言葉から理解した。

 日々の実りに感謝し、その恩恵に祈りを捧げる。その対象となるのは、自分たちに実りを与えてくれた相手だ。

 土地にあっては大地の神に。

 彼等にとっては、生きる地を与えた自分に。

 自分は神になったつもりもなく、感謝されたくてしているわけでもなかった。ある意味利害の一致であったとも言えるし、そういう意味では彼の主張はレメクの主義からは大きく外れる。

 だが、無視できない意見もあった。受ける恩を当たり前と思った時に、領が終焉を迎えるという意見だ。

 それは他の事業でも度々レメクが感じることでもあった。

 国から民への施しは、常習化し、民が『あって当然』と思うようになった時、廃止した時の反動を生む。

 大きな施しであればあるほど、それは永久に行えるものではなくなる。だが、人は与えられた恩恵をいつまでも在り続けてほしいと願うものだ。その願いに応えて続ければ、いずれ遠からず破滅がやってくる。出来なくなった時に、『なぜしないのだ』という弾劾がくるのだ。

 執事が示唆しているのはそれだ。十二年という歳月、与えるだけ与えながら自身の領民に対しレメクは『己』を見せなかった。厳しい言い方をすれば、領民を顧みることが無かったのだ。

 明らかに彼の落ち度だった。

(……それを伝えに来たのですか)

 ずっと地に伏したままでいる青年をレメクは見つめた。

 ベルがそんなレメクの手を小さな手できゅっと握る。

 青年を見つめたまま、傍らの小さな頭を撫でて──レメクはようやく、小さな吐息を漏らした。

「……顔を上げなさい、ミヒャエル」

 青年の背が大きく揺れた。

 思わずといった感じにこちらを見上げた青年は、驚きに目を瞠っている。何故驚かれるのだろうと思いながら、レメクはほんのわずか、それと分かる微苦笑を零した。

「ペーターからの書状にも、帰郷を願う文がしたためられていました。……私はあなた達に、ずいぶんと心配されていたのですね」

 ペーターからの文には、ミヒャエルほど赤裸々な言葉は含まれていなかった。だが、領民が他ならぬザルムスの領民であり、レメクの領民であることを忘れないためにも帰ってきてほしいという言葉は、ミヒャエルの切願(ことば)と同じだった。

 だからこそ、レメクは敢えて告げた。

「……正直に言いましょう。私にとって、領地とは、陛下のためにある土地でした」

 ミヒャエルがさらに目を瞠る。

 その目を見返したまま、レメクは続けた。

「増え続ける人口に反して、王都には職も食料も無い。無償で全てを施すには、国庫も乏しい。当時は悪辣な神官も数多くいましたから、施しそのものも半ば滞っていたと言えるでしょう。私には、人々を救おうとする陛下のために、新たな土地と食料、そしてなによりも豊富な資金を用意する必要がありました」

 だから、養父の死とともに授かった実りある土地を王に捧げた。

 自分が持っているよりも、王が持っていたほうが国のためになり、なおかつ煩わしいことから解放されるとあって、その行為に全く躊躇を覚えなかった。逆に周囲の者の方が狼狽し、後にどこかの領を一つ持ってくれと言われるに至った。

 その時思い浮かんだのは、かつて語り聞かされた母の故郷だった。母に対してはもはや何も思うまい。けれど語られた故郷の情景は、何故かいつまでも心に残っていた。

 望郷と言うようなものでは無い。けれど、憧憬のようなものがどこかにあったのかもしれない。

 今までろくに手を入れられたことのない、ほぼ未開と言ってもいい領地であることは、むしろレメクには望ましかった。

 未整地の大陸行路。荒れた大地の北には、雪解け水で洪水を起こす土地。手を入れれば、シェーグレンほどではないにせよ、かなり実りの良い土地になるだろうと思われた。

 前領主のせいで人口が減っているのも丁度よかった。

 増えすぎた王都の民をそちらに移せば、王都で問題になっている貧民も減らすことができる。彼等を労働力に開墾すれば、田畑の実りはいずれ王都にも届くようになるだろう。そう計算した。

 言葉を選ばずに言えば、それは『王都から貧民を間引いた』ということだった。民のためだとは、とても言えない。

「あなたがたのための施しだったと、私の口から言うのはおかしいでしょう。私は、いずれ富むだろうあの領地が、陛下のためになると思い、そのためにずっと力を尽くしてきました。あなたがたが私に恩を覚える必要は初めから無いのです。──それでも、あなたは私の帰郷が必要だと言いますか? 私自身は、例え遠くない未来に、あなた方から罵倒されようとどうとも思わない人間だとしても」

「必要です」

 わずかな間も挟まず、ミヒャエルは答えた。全く迷わないその言葉に、さすがのレメクも驚きを隠せない。

 ミヒャエル自身、とっさに返した言葉だったのだろう。一瞬目を見開いたが、その目には返答を訝しむ色は浮かんでいなかった。

「領主様が……どういうおつもりであったにせよ、おれ達は領主様に救われました」

「…………」

「忘れたくないっていうのは、ただのおれ達の我が儘です。姿を見たいっていうのだって、おれ達の我が儘でしょう。そこに、領主様の意向は全く関係してません」

 言葉遣いが違ってしまっていたが、こちらが素に近い言葉だということは最初の騒動で分かっていた。

 だからこれは、執事としての言葉ではなく、一人の人間としての『彼の』言葉なのだ。

「おれは、領主様に会ったことがあります。けど、姿をきちんと思い出せなくなってました。助けてもらってすげぇ感謝してたのに、あんまりにも存在が遠いんで、得体が知れないって気持ちのほうが大きくなっちまってました」

「…………」

「おれは、それが嫌です。だって、ずっと感謝してたんです。ずっと伝えたかった……! あのとき、おれ達がどれだけ嬉しかったか、どれだけ……あなたという人に感謝したか……!」

 相手の目から零れた涙に、レメクは無表情のまま動揺した。ミヒャエルは自分の涙にも気づいていないのだろう。頓着せずにただ言葉を口にする。

「あれが当然のものだなんて、思うような人間になりたくない……!」

 それは、言ってしまえば本当にただの我が儘で、たぶん、口に出して言うのはとても恥ずかしい類のものだろう。

 それでもそれを押して口にするほどに、彼は本気でそう思っているのだ。

 恥も何も捨てて。それこそ、先の姿勢のように──人としての尊厳を捨てでも、尚──

「……もし、本気でそう思っていらっしゃるのなら」

 真っ直ぐに見上げてくる相手を見つめて、レメクは声に力を込めた。

「【立ちなさい】。我が家の執事がそのような姿では、私の沽券に関わります」

 実際のところ沽券などどうでもいいのだが、敢えてそう言うと【言葉】で立ち上がらされた青年が慌てて顔を引き締めた。

 生真面目なのは生来のものなのだ。そう思うと、自然と笑みが零れた。

 レメクは、これまでずっと領地に居る人々を敢えて個々として認識しなかった。だが、自分が関わった人々を忘れたこともなかった。

 目の前の青年は、目立つ風貌ではないが、どこか愛嬌のある顔をしている。目ばかりが大きかった記憶の中にある少年の顔とはあまり似ていない。だがそれでも、気配とその瞳の色で分かった。

 十二年前に、確かに自分が手を差し伸べた少年だった。あのときは、ひどく痩せていて、背も驚くほど低かったけれど──

「ミヒャエル・ラグナール」

 かつて彼がいた孤児院の名は、そのままそこにいた孤児達の姓になる。あえてそれで呼ぶと、前と横でハッと息を呑まれた。

 レメクは横にいる少女の頭を撫で、ミヒャエルに向かって言った。もしかしなくても、自分が覚えているとは思っていなかったらしい相手に。

「大きくなりましたね」


 ※ ※ ※


「結局のところ、決めるのは侯爵様なんだよなぁ」

 いい感じに葡萄酒に酔いながら、ゲイルは口の端に笑みをくっつけてそう言う。

 積み上げられた皿は十を超え、転がった酒瓶は二十を超えるだろう。久方ぶりの旧友と存分に飲み比べしながら、さてこの代金はどう処理しようかなとベンノは密かに頭を悩ませていた。

「おれぁよ、しょーじきぃや、侯爵は嫌いじゃねぇ。いや、苦手だ。苦手だが、まぁ、嫌いじゃねぇかもしれん。たぶん」

 酔っぱらい特有の訳の分からない言葉を紡ぎながら、ゲイルはどこか楽しそうに顔を綻ばせている。

「領地にいる連中だってょぉ、頭ン中じゃ分かってンだ。だけどなぁ、どーしたって目ン見えるモンしか信じらンねっつー奴ぁっているだろ」

「ぁあな」

 だいぶ呂律が回ってないなと思いながら返事をすれば、自分の呂律も充分回ってなかった。

「そういう連中ぁな、ま、とやかく言うだろーよ。いンだよそんなの放っておいても! けどな、っぅー、そーゆー連中が増えりゃあ、雰囲気が悪くならぁ。悪い場所ってぇのは、そうやって出来ちまうもんだ。最初が肝心だ。な?」

「領地でも、問題、あんのか」

「ない! いあ、ある!」

 どっちだろうかと、ベンノはフワフワする頭の中で疑問に思った。

「あるが、たいした、ことじゃ、ねェ! 大事なのは、今、自分が、どうやって、生きていくか、っつーこった。侯爵に、なンでもかンでも頼るってぇのは、違う! 違うか!?」

 ベンノは「あー」でも「うー」でもない奇妙な返事をしながら頭をふらつかせる。気づかず、ゲイルは酒杯を傾けながら言った。

「家令たちぁゃってンのは、まぁ、アレだ。ぅー、アレだろ、アレ! 形残して、そういうので、連中を縛ろうってヤツだ。目に見えるモン残して、それ、連中の中に、留めさそーっていぅ魂胆だ。悪かぁない! が、甘い! 変えるべきなのは、意識であって、形とかじゃねぇ……」

 教育ってぇやつだ、とぼやくように口ずさんで、ゲイルは目をしょぼつかせた。いい感じに頭の中がフワフワとしていて、実際のところ、自分が何を言っているのかあまり深く考えていない。

 ただ、いつのまにかテーブルに突っ伏してしまった相手に向かって言葉を紡ぐ。独り言のように、語りかけるように。

「けど、いンだ。別におれぁ、運び屋だ。そういう、仕事だけ、してりゃあ、いぃんだ。何がどうなったって、今と同じように、運び屋してるだろうよ。あン人の下で。それでいいんだ……盗賊だったおれを、指なくしちまったのに、まっとうな職につかせてくれたのぁ、あン人なんだ。それだけでいンだ」

 ぐらりと、ゲイルの頭が揺れる。

 同じようにテーブルにつっぷした相手は、まだ口の中でごにょごにょと何かを言っているらしかった。

 ベンノはぬるま湯につかっているような気持ちのまま、ふわふわと笑う。酔いは心地良く、体は暖かく、なんとも言えないいい気分だった。

 ゲイルはたぶん、口でどうこう言いつつも、侯爵のことを敬愛しているのだろう。本人に言えば総毛だって反論しそうだが、結局のところ、相手を第一に認めているという事実は変わらない。

 侯爵が何かを選べば、それについていくだろう。

 口ではぶつくさ言いながら、せっせと仕事をこなすだろう。

 自分は運び屋の仕事しかしないと言いながら、家令の依頼を率先して引き受けているのだって、結局はそういうことだ。もし領地で何か問題が起こったとしたら、同じように真っ先に動こうとするだろう。

(……閣下、知ってますか……?)

 霞がかった頭の中、時折店に訪れる相手を思い出しながら、なんとはなしに幸せな気分でベンノは語りかける。

(あなたは多分、考えもしてないんでしょうけど……)

 どこまでも遠くを見ているその人には、近くで跪く人々の姿は見えていないのだろうけれど。

(……みんな、あなたのこと、好きなんですよ……)


 ※ ※ ※


 鼾の二重奏が奏でられる室内で、こそこそと動く影があった。

 半ば飛ぶようにテーブルの上に跳躍した小さな影は、ふんふんと二人の匂いを嗅いで苦笑する。

「……飲み過ぎもいいところですね」

「おかげで、なかなか面白い話も聞けたようじゃがな」

 テーブルの上に四つ足で立っていた影は、自分の後ろから聞こえた声に薄く笑いながら振り返る。

「おや、妖艶な王妃殿。こんな所まで出張で?」

「白々しいことを言うのはやめるがよかろうよ、魔法使い殿。妾ごときに気づかぬ貴殿でもあるまいて」

「さて、さて」

 笑み混じりにとぼけて、子猫サイズの影はテーブルの上に残った料理をフンフンと嗅ぐ。

「面白い薬草が混ざってますねェ。あんまりそういうのは使わないでくださいよ。うちのレンさんの部下なんですから」

「男どもはとかく本音を隠す傾向にあるからな。少しぐらいはかまうまい。後々まで人体に影響が出る量は使っておらんよ」

 残った料理の一かけを摘んで、異国の衣装を纏った美女はペロリとそれを平らげた。そんな動作の一つ一つがなんとも妖しく美しい。

「調理場と言うのは、大人数を一度に相手する時には丁度良い場所となる。断罪官殿にはもう少し警護を強化してもらいたいものじゃな」

「……一般食堂の警護をしなきゃならない状態ってのは、どうかと思いますけどね……」

「各国の要人も訪れる店じゃろう? 妾ごときに遅れをとるようでは、先々が思いやられるが」

「……あなたレベルの相手なんて、数えるほどしかいないんですけどね……」

 フフン、とどこか義母に似た笑みを浮かべて、異国の王妃──ナザゼルは美しい肢体を誇示するように腕組みをした。

「いずれにせよ、孤児達の最終便も問題なく動きそうでなによりじゃ。我が義母上(ははうえ)も安心されよう。断罪官殿の領地がきな臭くなっていることにすいては、まぁ、今のところ杞憂であろうな。それに、どうせ領地には行くのであろう? 使者達もわざわざご苦労なことだ。頼み込まずとも、あの末の姫がいる限りは嫌でも動かざるをえんというのにな」

「領地にいる彼等にそんな事情は分かりませんよ。レンさんが出不精なのがいけないんですけどねぇ。というか、レンさんを王宮に留めないとどうにもならない、今のこの国に問題があるんですが」

「人手不足はどこでも重大な問題じゃからな」

姫君達(あなたたち)が他国に行ってしまったのもご主人様的にはキツかったんですけどね。まぁ、内側がボロボロの時に攻め入られたらひとたまりもないので、他国との和平を優先せざるをえなかったのは、まぁ、どうしようもないことなんですけど」

「……そうは言うがな、魔法使い殿よ。そもそも、貴殿が我が義母上の隣にあってくれれば、諸問題はほぼ全て解決したと思うのだがな」

「私がですか? 人の世にそこまで関わる気はありませんよ。今だって関わりすぎなんですから。大昔の原初の魔女みたいに、他の魔女に討伐されるような状況にはなりたくありません」

「……妾に分からぬような異次元的な話をされても困るのじゃが」

「……同じ世界の話なのですが?」

「何千年も昔なら、もはや異世界のようなものじゃ」

 あっさりと言われて、子猫──ポテトは深い嘆息をついた。

(その場合、私は半異世界なんですかね……)

「なんぞ言ったかの?」

「……いぃえぇ……べつにー……」

 なんとなく机を前足でちょいちょいと引っ掻いてから、ポテトは気を取り直すように息を吐いた。

「まぁ、得たかった情報も得ましたので、私はそろそろ退出しますよ。……そういえば、王妃さんは何故ここに?」

 今更のような問いに、ナザゼルは軽く肩をすくめてみせた。

「妾は下見じゃ。ちと、人と約束しておってな。断罪官殿に会いたいそうなのじゃが、会う場所が問題じゃろう? いろいろ込みいっておる故、末姫のおらぬ場で会いたいが、あの娘は鼻が利く。屋敷では会えぬし、王宮は論外じゃ。ならばここで二人を会わすのが一番良いと思ってな」

「おや。……ほぅほぅ」

 こちらを見るポテトの目が、なにやら面白そうに細まった。

 誰と会わすのかを問うてこないところを見ると、だいたいのことは把握されているらしい。

(……相変わらず、油断ならぬ御仁じゃな)

 正直に言えば得体が知れないというか気味が悪いというかプライバシーの侵害というか男の類かコレはという疑問でいっぱいな相手だが、

「……王妃さん……こっちが読み取ってるってわかっててやってるでしょう……」

 愛する義母(はは)が手元に置いてあるヒモだからまぁ疑問はとにかく横っちょに置いておこうかと思えるほどにはどうでもいい相手でもあるので、まぁいいかと結論づける。

「……いいんですもう……どうせそんな風にしか思って貰えないんですよ私」

 なにか小さく丸まって拗ねている相手の背中を眺めて、ナザゼルはニンマリと笑んだ。

「妾は選ばぬ故、の。どんな場合でも我が義母上を優先するのじゃ。それがあやつとの約定でもある故」

「…………」

「神代の御身じゃ。妾が断罪官殿にひきあわせようとしておる者のことなど、お見通しであろう? 彼の者がどのような利益を運び、どのような不利益を運ぶかは、妾ではさほど見通せぬ。少々、断罪官殿には不運になろうが、我が義母上の利益になる故に引き合わせるが、『お父上』たる貴殿がどのように出るかまでは、妾の関与するところではない」

「…………」

「偉大なる方よ、おぞましくも美しき方よ。願わくば、この地にラザストのような『審判』が下されぬことを妾は願う。妾は、……妾を助けてくれたこの国と女王を心から愛しておる故にな」

 小さな後ろ姿にそうとだけ告げて、ナザゼルは空気に溶けるようにして姿を消した。

 よほどの熟練者で無ければ姿はおろか気配すら捉え得ぬ穏行だった。あれができる者など、大陸全土でも十はいない。

 ポテトは小さくため息をつき、ゴーゴーと暢気に鼾をたてている男二人を見渡してから垂れていたヒゲをそよがせた。

「……ベラ、あなたがいたら、今、どんな言葉を口にするでしょうね……」

 笑ってこちらの背を叩きにくるだろうか、腹を抱えてただ爆笑するだろうか。

 いずれにしても、笑われることだけは確かだろう。あの男は、最初から最後まで、徹頭徹尾こちらを唯の人として扱ってきていた。あれほどの剛の者はもう二度と現れないだろう。

 それでも、

「……だいーぶ、正体がバレてきてる気がしますよ……」

 いや、それなのに、正面に立つことを厭わぬ者が増えた。

 声をかけ、話し、目を背けることなく、こちらを認識して対峙する者達だ。在りし日には無かったことだった。

 どうしようかと思う。

 どうしようか。どうしてくれようか。どうすればいいだろうか。

 水面に溢れる無数の泡沫のように、思いが虚無の奥底からわき出て弾ける。どうしようか、これほどまでに愛してしまって。

「……ねぇ、ベラ。私には、もう、故郷なんて無かったんですよ」

 失われた国。失われた家。失われた時代。失われた日々。

 人であった頃はあまりにも遠く、最後に見た父母の姿もまた、あまりにも遠い。

 生まれ育った地は、もはや別の国の別の名前の土地と化していた。家すらも無いそこは、自分にとってはもう故郷と呼べない。

 人は何をもってして、故郷と呼ぶべき地を定めるのだろうか。

 生まれ育った場所か、長い年月を過ごした所か、誰かから受け継いだ土地なのか。

 その定義は様々あって、どれが正しいのかよく分からない。いや、正しいという形など本当には無いのだろう。

 王都に生まれた者が、別の地で生きはじめ、今その地を故郷として心に刻んでいるように、人によってそれは多様に変化する。

 ならば── 

(私にとっては……)

 ポテトは淡く目を細める。

 おそらく愛する子も、いつか自分と同じ結論に達するだろう。そう予感しながら、その時に思いを馳せ、ただ悲しく微笑む。

(……愛している人のいる場所こそが)

 その人達が居てくれるからこそ、居続けたいと思うその気持ちのままに、己の還るべき故郷(パトリス)となるのだ。

(ねぇ、ご主人様)

 心の中で、けれど決して主には届かぬよう配慮しながら言葉を放つ。

 人にあるまじき絶大な力を宿してしまった愛しい二人は、確かに、自分にとって故郷と呼ぶに相応しい存在になっていた。

(……ねぇ、ベラ)

 だから、もういいだろう。そう思った。

(……あなたは、きっと、駄目だと怒るのでしょうけど)

 けれど、最初に約束を破ったのは相手なのだ。ならば、自分が約束を果たせなくなっても、彼に文句を言う権利は無い。

(努力はしますけれど、どうしてもという時は、私も『選び』ますからね?)

 愛し子が幸せになるところを見届けることなく去ってしまった友は、ただ「すまない」と自分に謝った。謝るぐらいなら人の世の理を捨ててでも残ればいいものをと思いながら、自分もその謝罪を受け入れた。

 予感があったのかもしれない。

 いつか、自分も同じようにして去っていくのだと。

「……ねぇ、見知らぬ人達」

 ポテトは鼾をかいて眠る二人を見る。

 ほとんど接点なんてものは無いのに、それでも、自分にとって大切な愛し子に好意をもってくれた人達。

「……私もね、あの子のことが、とても好きなのですよ」

 あの子が選んだ道であるのなら、それを手助けするのを厭わない程度には。

「……ありがとう」

 その言葉を残して、ポテトは己の影の中に身を投じた。



 その後、起きた二人は自分たちの状態に首を傾げることになる。

 浴びるほどに酒を飲んだのに、二日酔いになるどころかそれまでの疲れが吹き飛んでしまっていたのだ。

 このことはやがて口づてに人々へと伝わり、ザルムスの酒を飲むと体の不調が治るという伝説を生むことになる。

 後にエリクシールの名で呼ばれることになるその葡萄酒に、実際に病を治してもらったという多数の証言が出ることになるのだが、産地の領主はこれを決して認めることは無かったという。

 








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