番外編 【 パトリス <前編> 】
大きく揺れた荷馬車の振動で、ミヒャエルは目を覚ました。
視界に入るのは、染みだらけの布と、左右に広がる青い空。
後頭部に感じる硬い感触は、ここ一月半で慣れた荷台のそれだった。丸めた布を枕にして眠っていたはずなのに、いつのまにかどこかに放り出してしまったらしい。
視界の左右に青空が広がっているのは幌を捲り上げているためであり、そこから差し込む光で荷台の中は非常に明るかった。
(あぁ……いい天気だな……)
ぼんやりとそんなことを思う。
進行方向から後部へと吹き抜ける風が、鼻頭をかすめる一瞬、ほんのかすかな匂いを彼の鼻腔に残した。途端、意識が急速に覚醒するのは、鼻をかすめていったのが食べ物の匂いだったからだろう。
「……腹減った……」
仰向けにひっくり返っていた体を起こせば、御者台に座った男の背中越しに威風堂々たる街壁が見えた。
恐ろしく高い街壁の向こうには、美しさを誇示するような沢山の尖塔。ひどく優美な白い壁に、空よりも青い屋根の色。風にゆらめく深紅に金の旗。
遠目にもそれとわかる優美な姿は、ナスティアの誇る王城だった。
「……おぅ。起きたか」
ぼんやりと景色を眺めていると、御者台の男が軽くこちらを振り返った。
四十の半ばと思しき男だった。無精髭の生えた顔は粗造りで、口は大きく、目はぎょろりとしている。左のこめかみから頬にかけて深い傷跡があり、そのせいもあってか、初対面の人間にはたいてい一歩引かれていた。
「……よく寝た……」
そんな男からの鋭い一瞥を、ミヒャエルは気の抜けた欠伸で受け止めた。
男は呆れたような顔でぼやく。
「寝過ぎだ、馬鹿が。……もう昼だぞ」
「はらへった……」
「木の実でも食ってろ」
ほら、と放られた小袋を片手で受け取って、ミヒャエルは背中をぼりぼりかきながら器用に袋の結び目を解いた。ほとんど空にちかい袋には、小指の爪ほどの木の実がお情け程度に転がっている。
「……朝飯にもならねぇなー……」
「文句言うなら食うな。栄養は高いんだ。……飯のあたらねぇ連中だって、王都にゃいるんだからな。食えるだけマシってもんだろう」
「……まぁな」
突っ込んだ掌にわずか数個の木の実を握り込み、ミヒャエルは一粒一粒を大事そうに噛みしめた。乾燥させた木の実は硬かったが、噛みしめるごとに味が広がり、飲み込んだ後もしばらくは口の中に留まってくれるようだった。
「……今回は、孤児だったな」
残り少ない食料を大切に食べているミヒャエルに、男は水筒を差し出しながら言う。荷台から御者台へ移りながら、ミヒャエルは「あぁ」と重い声で頷いた。
「おれが昔世話になってた孤児院からも、何人か連れて行くことになるんだとよ。……食料のねぇ王都にいるよりは、領地に連れて行ってやったほうがマシだしな……」
「おめぇも、昔、そうやって助けられたクチだもんなァ」
男に揶揄されて、ミヒャエルは憮然と頷いた。
ミヒャエルにとって、王都はかつての故郷だった。住んでいたのは七つになる手前までだから、もう十二年も前になる。
だが、見えはじめた街壁を眺めても、懐かしいという気持ちは沸き上がらなかった。
(……王都、か……)
ミヒャエルと御者の男は、西の辺境から幌馬車で一月半かけてここまで来た。馬車に積んであった品を売りながらの道中とはいえ、整備された大陸行路を経由してきたにしては遅すぎる。先に出発した連中が一月以上前に王都に到着していることを考えれば、かなり遅いと言ってもいいだろう。
日数がかかったのは、先発隊と違ってそれほど急ぎの旅ではなかったため、馬を急かすことなく進んで来た、というのが理由の半分。
もう半分は、途中の町で品物を巡るトラブルに巻き込まれかけたせいだった。
「……王都には……領主様がいるんだよな……」
少しずつ近づいてくる王都の外壁に、ミヒャエルは気鬱そうな声をあげた。
白茶けた城壁の手前には、雲の欠片を撒いたような満開のアミグダリアが等間隔に並んでいる。南の海側から北の大陸側まで、城壁をぐるりと囲むようにして並ぶそれのおかげで、王都は街壁の外までも華やかだ。
「そりゃあ、領地に戻っておられんのだから、王都におるんだろうよ」
「……そうなんだよなぁ……」
ミヒャエルのぼやきを乗せて、馬車は驚くほど立派な街路をひたすら真っ直ぐ進んでいく。
中央に王都を見据えた視界には、左右の海岸沿いに繁るオリーブと、その向こう側の海が美しい色を広げていた。
風は海から陸側へ。
その風を顔に受けながら、ハッキリと見えはじめた頑強な石橋と巨大な門に、ミヒャエルは深い深いため息をついた。
「……えれぇ仕事引き受けちまったもんだよなぁ……まったく……」
※ ※ ※
街壁をくぐると、そこは外とは別世界のような喧噪に満ちていた。
大通りの両端にひしめく沢山の露店。釣り下げられた毛皮に、一山いくらの古着。長旅用の頑丈な衣服。トンカンと音を響かせるのは、威勢のいい親方に率いられた鍛冶師の店。いい色合いの干し肉を軒先に釣り下げた肉屋に、香ばしい匂いをただよわせるパン屋。
門をくぐったばかりの客を捕まえようと、勢いよくかけられる売り人の声には、耳に残る独特の響きと強さがある。
春の大祭が終わり、各国からの賓客や観光客も退いたはずだというのに、街は人と熱気に溢れていた。
門兵から押しつけるように渡された通行証を片手に、ミヒャエルは呆然とその様子を眺める。
そこにはかつての故郷を懐かしむ色はなく、まるで別天地についた異邦人の如き驚きが浮かんでいた。
「……どーした。惚けた顔しおって」
呆然としているミヒャエルの手から通行証を奪い、無くさぬよう大切に懐の財布に入れながら、男は笑いを噛み殺して問いかけた。
ミヒャエルは一度大きく息を飲み込み、力無く吐き出しながら声を零す。
「これ……が……王都……だって……?」
「十二年も寄りつかなけりゃあ、驚いて当然だな」
笑いと揶揄を含んだ声で答え、男は馬を促して道筋を変えさせた。門を抜けて大通りを直進すれば、大広場を経て西区の大神殿へと向かってしまう。だが、男が向かうべき先は港区にあり、ミヒャエルが向かう先は北区だった。そのため、いったん馬車を北へと向かわせなくてはならない。
──が、男はふと人の悪い笑みを浮かべると、未だ呆然と周囲を見渡しているミヒャエルの肩を小突いた。
「おぅ、坊主。ついでだ。街を散策がてら、ここから領主様の所まで歩いて行け」
「へぁ!?」
突然の言葉に、ミヒャエルはえらくひょうきんな悲鳴を上げて目を瞠った。道行く人々に注目され、赤面しながら慌てて反論する。
「ちょっと待てよオヤジ! おれに歩けって……ついて来てくれねぇのかよ!?」
「い~年した男がなぁにをぬかしとるか、馬鹿が。おまえは伝令もできねェようなぼんくらか? エルピダ一の稼ぎ頭っつーのはただの自称か?」
「うぬぁ……ッ」
「あの街が作られた時から走り回り、誰よりもエルピダの街を知り尽くし、今じゃ物品の流通ルートから農作物の出来まで把握してるとかほざいとったが、この様子じゃその言葉も誇張かもなぁ?」
「だっ、誰が! おれはだなぁ……!」
「エルピダの事なら誰よりもよく知ってるってんで、マイツェン卿はおまえを使者にたてたんだろうが。……侯爵とも一応は面識があるんだろ?」
「ちぃせぇ頃に一回会ったっきりだよ!!」
「じゃあ成長した姿でも見せて来ればいいだろうが。なぁに、気さくな方ではないが、自分が慈悲をかけた領民が家令の命令で会いに来たってんなら、そうそう邪険にせんだろーて」
「ぐぬぬ……」
「それとも……領主様に会う度胸がねぇってんで、他の仕事を任されてる男に泣きつくか? あぁん?」
「……く、くそ……やってやらぁ!」
挑発だと分かっていても、ここまで言われては乗るしかない。
ややも引けそうになる腰に力を入れて、ミヒャエルは馬車から飛び降りた。
「伝言伝えたら、おれぁ絶対すぐに宿に戻るからな! 飯代はそっちもちだからな!!」
「ぉお。ご領主様によろしくなぁ」
勇気を奮い起こすように腕まくりをしはじめる相手に、御者台の男は陽気に声をかける。
ミヒャエルは「わかってらぁ!」と声を張り上げ、そのまま肩を怒らせて歩き出した。
だが、その内心がかなり怯えているのを御者台に残った男は理解していた。
(相手が相手だからな……)
荒れ果てた土地に打ち捨てられ、実りのない土地で必死に生きていたのを救ってくれた領主は、領民にとっては生き神にも等しい。元は王都の捨て子であったミヒャエルにとってもまた、生活の場を与えてくれた領主はあまりにも畏れ多い相手だ。
だが、元盗賊である男にとっては、現領主はそれ以上に恐ろしい相手だった。堅気になった今でも、拝謁を賜りたいなどとは到底思えない。
(……悪く思うなよ、坊主)
男が依頼されたのは、領地で積んだ荷を王都に運びがてら売りさばくことと、領地への帰りに孤児達を乗せることの二点だけだった。それ以上の仕事をするつもりはないし、そもそもそんな余裕は無い。
(……楽な仕事でいいんだ。儲けなんざ、そこそこでいい……)
馬車の進行方向を南に変えながら、男は左手を押さえる。
かつて受けた古傷が疼いた気がした。
けれど、抑えた手の下、本来なら親指があるべき場所には何もなかった。
※ ※ ※
王都にあって、最も人が近づき難い場所は何処かと問えば、まず最初に西区の大神殿があがり、次に王城、そして北区のクラウドール邸が三番目にあがる。
貴族の街屋敷が建ち並ぶ北区のうち、最も東にある第一区の前に立って、ミヒャエルはゴクリと喉を鳴らした。
街壁と変わらないぐらい堅固な壁に囲まれたその地区まるごと一つが、一貴族の所有地だという。壁は端の部分が街壁と半ば同化し、最初に訪れる者は必ずその入り口で「ここは何か特別な地区だろうか」と悩むという。
堅固な壁にはその大きさに相応しい門があり、その門の向こうに見えるのは数百年の月日を閲した巨大な木々。一歩踏み出して門の中に踏み入れば、まるで深い森の中にいるような不思議な感覚が身を包んだ。
(なんつー……場所だ……)
自分の身長の何倍もある木々を見上げながら、ミヒャエルは感嘆のため息を零した。
緑なす苔の絨毯を地面に敷き、悠々と葉を茂らす木々の姿は、そこが王都の一角であることを忘れさせる。見上げるほどに大きな木は、その葉の合間から木漏れ日を煌めかせ、筋状の光をいくつも大地に注いでいた。
(……ありえねぇ……)
王都から遠く離れた辺境でも、これほど立派な森はそうそうない。
彼の第二の故郷たる領地には、聖霊の森とまで呼ばれる古く立派な森があるが、そこから王都への旅の間に見た『森』は、平原の中にぽつんと繁った小山程度のものがせいぜいだった。
その木々もこの地にある木に比べれば遙かに細く、なんとも情けない気持ちを覚えたものである。
対して、ここの木々のなんと立派で雄々しいことか。
(……けど、何本か最近切り倒した跡があるな……)
延々と続く道を歩きながら、ミヒャエルは左右に広がる森を注意深く観察した。
巨木と巨木の合間に、いくつか真新しい切り株が点在している。何らかの理由で切り倒されたのだろうが、切り株の間隔と周囲の状況からして、木々に何らかの病が広がったというわけではなさそうだった。
(……間引いた、ってとこか?)
ミヒャエルは道の間際にあった切り株に近づき、その表面を覗き込んだ。人の手で切ったとは思えない切断面は、触ると少しだけ指にざらつく。嗅ぐと木独特の匂いがしたが、それほど濃くは匂わなかった。
(……ここ最近、ってわけじゃねぇんだな。一月以上は前か……そういや、領主様から伝令が来たのも、二ヶ月ぐらい前だったな……)
二ヶ月という期間は、過ぎてしまえば短いもののように思えるが、その大半を旅で費やしていれば、逆になにやらずいぶんと昔のことのように感じられた。
ミヒャエルはボリボリと腹を掻きながら、やや足を速めて進む。
──二ヶ月という、その過ぎ去った年月。
(……なにか、やってるんだな……)
歩きながら思う。昔、似たようなことがあったな──と。
腹を空かせ、路頭に迷い、もはや飢えて死ぬしかないという時に差し伸べられた手の大きさ。
乗せられた荷馬車。
二月の旅を経てたどり着いた荒野。
迎え入れてくれた人々の、暖かかい瞳。
(……村長)
──あれから十二年が経った。
あの時から始まった怒濤の日々を自分は決して忘れたりしない。
だから今、ある種の予感のように、その時の記憶が自分に訴えるのだ。
(村長……。あんたは、伝えてくれって言ったけど……)
──けれど、もし、あの時のように、侯爵が何かをしようとしているのだとすれば、自分は……
(…………)
ミヒャエルは空を振り仰ぐ。
緑繁る枝に遮られた空は、緑の隙間からチラチラと、星のような光を放っていた。
※ ※ ※
(……ありえねぇーだろー……)
十数分後。
ようやく到着した屋敷の前に立って、ミヒャエルはげっそりとしたため息をついていた。
四月にもなると、ナスティアの日中はかなり暖かい。とはいえ夜は寒くなるので、旅の時には上着と外套を着用する。
だが、その上着類は今、ミヒャエルの腕の中でぐしゃぐしゃに丸められていた。門からの道中はほぼ日陰だったが、踏破してきた距離が非常識だったため、汗ばむほどに暑かったのだ。
(……あっりえねーだろこれぇええええええ……)
おまけに目の前に佇む屋敷がまた非常識だった。
周囲にある巨木の高さと競い合うような重厚な二階建て。
厚い硝子の填め込まれた数十の窓。
外からざっと見ただけでも、十や二十の部屋数ではなさそうだ。
二階の高さも、二メートルちかい自分が見上げるほどに高い。窓枠や柱の作りの美しさといったら、ちょっと古めかしいのや足下が苔むしてるのが気にならないほど素晴らしかった。
(これで……『街屋敷』!?)
そもそも王都にある貴族の屋敷というのは、ある一定以上の階級であっても、そこそこの大きさしか無いのが普通だった。
庭の大きさも屋敷の大きさも、そういう意味ではあまりにも異常すぎる。この規模ならば、「自分の領地内の屋敷だって侯爵の街屋敷より小さい」という貴族もいるだろう。少なくとも、仕事で訪れたことのあるとある貴族の屋敷は、目の前にある侯爵の屋敷より小さかった。
(……そういや……もともと、王家縁の公爵家なんだっけ……。侯爵は、養子なんだよな……)
ミヒャエルは屋敷を振り仰ぎ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
幼い頃一度だけ会っただけの侯爵のことを──その領地で雇ってもらって十二年経った今ですら、彼はほとんど知らなかった。
領地内で様々な仕事を覚え、任され、事業を進めていく彼等にとって、『侯爵』とは屋敷と領地の持ち主であり、自分達に指示を与える『書簡』の書き手だった。
領内で直接会うことは無く、無論、声を聞くこともない。
大がかりな灌漑事業や開墾事業の時には、侯爵自らが領地内を駆け回っていたと言われているが、その時、従僕であるミヒャエルたちは与えられた指示書のままに別地を駆けずり回っていた。
せめて工事の完了時に領地にいてくれれば、共に祝賀祭を迎えることができただろう。共に工事にあたった領民達も、そこで侯爵の姿を見るのを楽しみにしていた。
だが、完成を前にして侯爵は領地から姿を消した。王都からの呼び出しだと、家令は言っていた。
王の勅命であるのなら、仕方がない。だが、結果として、領民の誰もが侯爵の姿を見ることなく、主不在の状態で祝賀祭が執り行われることになったのだ。
(……あ。やべ……なんか、震えてきた……)
ふと手の振動に気づいて、ミヒャエルは顔を歪ませた。
当時のことを思い出したのが悪かった。
かつて味わった、一大事業を無事に終えた時の高揚感と、姿は見せずとも自分たちを導いてくれていた人が、最後の場にいなかった寂寥感。
あの時の気持ちをどう言い表せばいいのか、ミヒャエルには分からない。たぶん、その気持ちは領民のほとんどが感じていたことだろう。
(……侯爵、は……)
ミヒャエルは自分の手をもう片方の手で押さえる。
だが、震える手同士で押さえ込んだところで、それが止まるはずもない。
(……領地じゃなく……王都の貴族なんだ、って……)
口さがない連中は、影でそうぼやいている。彼等だって、侯爵に救われた身だったろうに。
だが、ミヒャエルにも、そう言いたくなる気持ちは分かるのだ。
毎年続けられている完成記念日の祭りも、春と秋の大祭も、祝いの書状と祭り用の費用が届けられるだけで、侯爵が姿を現したことは無かった。
その存在はあまりにも遠い。
だからだろうか。ミヒャエルは侯爵を思い浮かべる時、ひどく奇妙な感覚を味わう。
彼にとって、クラウドール侯爵とは恩人であり、主である。
だがそれ以上に──得体の知れない相手でもあったのだ。
(……といって、ここで怖じ気づいてるわけにはいかないんだよな)
ひとしきり扉の前で震えた後、ミヒャエルは自分の頬を叩いて活を入れた。
ミヒャエルを派遣した『村長』こと侯爵家家令ペーター・マイツェンからは、「侯爵は一人住まいでいらっしゃる」と言われていた。だから、どうしたって従僕の手を挟まずに対応することになる。
一応、使者が来訪することは、先に書簡で連絡してくれているはずだった。もし仕事などで留守のときは、敷地に使用人達の別棟があるから、その人達に書状を渡せとも言われている。
だが、家令はミヒャエルの額に額をくっつける勢いで必死にこうも言っていたのだ。
──頼む。侯爵に直談判してくれ! 一度でいいから、領地に戻ってくれ、と!!
忙しい身なのは百も承知。領主が王の信任厚いというのは、領民としても誇り高い。
だが、それでも帰ってきてほしいのだ。
一年に一度という頻度でもかまわないから、というのは、家令にしてみれば魂を振り絞るほど切実な願いなのだろう。
侯爵がザルムスの領主になったのは、ミヒャエルが彼の手で救われたその年のことだ。だが、それからの十二年間のうち、侯爵が己の領地に滞在した日はわずか数ヶ月分にしかならない。それも工事で各地を飛び回る日ばかりで、領地内にある邸宅に泊まった回数など、わずか数日しかないという有様だ。
──自分はお役ご免になってもいい。だが、領民のために、ぜひとも侯爵には帰って来ていただきたいのだ。
必死な面持ちでそう訴えたペーターの書状には、領地の現状連絡と同時、その願いがこれでもかというほど強くしたためられている。それを渡した時の侯爵の反応を思うと、ミヒャエルの足がまた細かく震えはじめたが、家令の必死の面持ちを思い出して勢いよく顔を上げた。
ミヒャエルは深呼吸し、もう一度勢いよく自分の頬を叩いてから腕を上げる。
(いくぞ!)
扉を叩いて、決死の覚悟で相手の出方を待つ。
体に力をこめ、ともすれば逃げ出しそうになる足を地面に押し付けていたミヒャエルは、そのとき、ふとあることに気づいた。
この巨大な屋敷の中、たった一人しかいない住人(侯爵)に、果たしてノックの音が聞こえるのか、という疑問にだ。
(……あきらかに、聞こえないんじゃないか……?)
思わず重厚な扉に耳を押し付けると、冷たい扉の向こうから、かすかではあるが小さな音が聞こえてきた。
ととととと、という妙に軽い音だ。
(……なんだ?)
なにか小動物が走っている音に似ている。
領地で共同飼育している牧羊犬と比べると、微妙に歩幅が小さい。猫か何かだろうか? と思ったが、そもそも目の前の分厚い扉越しに猫の足音など聞こえるはずがなかった。
(……いや、けど……猫といえば……)
そういえば、昔、蔵の鼠番にと家令から猫を与えられたことがあった。
話によると、侯爵が王都で鼠退治用に躾た猫であるらしい。それが百匹近かったのは未だに誰もが解き明かせない謎なのだが、その逸話を考えれば猫の一匹や千匹、屋敷で飼っていても不思議ではない気がする。
(……そうだ……一匹の足音じゃあ聞こえなくても、もしそれが千匹なら……というか、その場合、おれ、千匹の猫にたかられるのか!?)
数秒考えた後そのことに思い至り、ミヒャエルはギョッとなって扉から飛び退いた。
猫は嫌いではない。だが千匹はかんべんしてほしい。
しかし、音はどんどん近づいている。まったくリズムの変わらないトトトトトトが近くまでやってきて、後じさりはじめたミヒャエルの前で扉がガゴンッと大きく震えた。
(……ぶつかっ……た?)
思わず息を殺して様子を窺っていると、ギィィと重く鈍い音。
ゆっくりと開き出す扉に、ミヒャエルは息を呑んだ。
(扉を、開ける、猫!?)
信じられない。どうやって躾たのだろうか。
ちょうど人が一人入れるかどうか、という中途半端なところで止まった扉の前、しばらく硬直していたミヒャエルは、出迎えの人が──当然だが──誰も出て来ないのを確認して、ゴクリと喉を鳴らせた。
(……い、行くぜ……)
もしかすると、そこにいるのは猫千匹なのかもしれない。
だが、それでも、扉が開いたからには訪れなければならなかった。
誰もいなければ使用人小屋のほうに行けたものを、と思いながら足を踏み出し、ミヒャエルはひとまず用意していた口上を述べた。
猫に通じるかどうかは不明だが。
「ザルムス侯爵領より、侯爵家家令ペーター・マイツェン卿よりの書状を携えて参りました。侯爵家執事、ミヒャエル・マイツェンにございます! クラウドール侯爵閣下にお目通り願いたく! 拝謁の許可をいただければ幸いに存じます!!」
自分を鼓舞するように大声で告げると、ぎぃぃ、と声に押されるようにしてまた少し扉が動いた。
ミヒャエルは胸を張り、足を踏ん張ってその場で返答を待つ。
ニャアでも何でもいい。何か答えがあれば、それで引くか進むかが決まるのだ。
(しかし……猫が相手だったら、おれの今の言葉って意味ねーよな!?)
それはかなり恥ずかしい。しかし、領主のに入ろうという状況で、無言でいるわけにもいかない。苦肉の策だ。
ミヒャエルは強ばった顔でジッと返答を待った。
しかし、いくら待っても答えが返ってこない。
(……いない……か)
やはり猫だったか、と安堵とも脱力ともつかないため息をついて、ミヒャエルは扉の下を見た。猫だったのならそこにいるだろうと思ったのだ。
「「…………」」
人がいた。
「「…………」」
異様に小さな人だった。
「「…………」」
なぜか口を半開きにしてこちらを見上げていた。
ミヒャエルは一瞬で吹っ飛んだ思考を必死にかき集め、目の前──というか下──でこちらをポケッと見上げている相手の特徴を必死に目に焼きつけた。
紫銀の髪。金の瞳。整った鼻梁。年齢、おそらく……三歳?
「め……」
「……め?」
思わず零れた呟きに、幼女はポケッとした顔のまま首を傾げる。その愛くるしさといったら、領地で泥だらけになっているガキどもと同じ生き物だとは思えないほどだった。
そう、その髪、幼いながらもその美貌。それはまさしく、領地で語り継がれる伝説どおりの……
「めり……でぃすぞく── ッ!?」
ミヒャエルの声に、幼女はビクッと一メートルほど飛び上がった。
「びょっ!?」
しかし、尋常ならざるジャンプは、扉に激突するという悲劇を生んだ。
驚きに固まった顔のままぶつかり、涙目になり、そのまま頭を抱えて蹲った相手に、ミヒャエルは吹っ飛んだ思考を再度かき集める。
「わっ、だ、大丈夫、か!?」
「……い……いちゃ……」
幼女は頭を抱えたままプルプル震えている。
それはそうだろう、とミヒャエルは思った。なにせすごい音がしていた。
ぶつけた後頭部を抱えて震えている相手の前にしゃがみこみ、ミヒャエルはおろおろと手を伸ばしたり引っ込めたりを繰り返す。
目の前にメリディス族。目の前にメリディス族。二度繰り返しても実感がわかないのは、それがあまりにもありえない現実だからだ。
同じ領地に住む一族だというのに、誰もが見たことのない幻の一族。それがどうしてまたこんなところに、こんなに無造作に蹲っているのだろうか。
(まさか……!)
そのとき、ミヒャエルの脳裏に閃くものがあった。
(侯爵の……隠し子!?)
頭を金槌で叩かれたようなショックとはこのことだろう。あまりの衝撃にミヒャエルは愕然とした。領地では結婚はおろか恋の噂さえ伝え聞かなかったのに、こんなに大きな(?)子供がいるとは!
(しかもメリディス族!!)
ならば母親がどこかにいるはず。
そう、おそらく──屋敷に!
(どんな美女が!!)
ミヒャエルの目が輝いた。
とんでもない命令が一転、とんでもない幸運に早変わりした。伝説のメリディス族の、生きた美女とご対面できるチャンスが今ここに!
「お……お、お嬢さ、まっ」
興奮と緊張で息があがるのを必死に抑えて、ミヒャエルは未だにぷるぷるしている相手に声をかける。
涙目でこちらを見上げる幼女は、嗚呼! まさに十数年後に拝みたくなるほどの愛らしさ!!
「わたくしめの、せいで、お、驚かせてしまい、も、申し訳ございま、せんっ。せ、僭越ながら、わたくしめがお怪我を拝見させていただきますのでっ、侯爵閣下の、お、お、奥方様に! お取り次ぎを願えませんでしょうか!?」
「……おくがたさまっ!?」
「はいっすみませんっ!」
何故かギョッとした声で叫ばれて、ミヒャエルは反射的に謝った。
思わずビクッとなっているミヒャエルの前で、幼女は俄然目を輝かせ、痛みすら吹き飛ばす勢いでムンと胸を張る。
胸と腹の境界がサッパリな胸をドンを叩いて、彼女は素晴らしい笑顔でこう言った。
「奥方様ならここなのです!」
(……胸の中!?)
ミヒャエルの顔が即座に青くなった。
(まさか……もう、お亡くなりに……!?)
だとすれば、自分は幼い子供に、「心の傷」を開けさせるようなことを……!
(い、いや、まて! ここに、ってことは……死んだってことを理解してないってことじゃ……!)
考えれば、三歳 (おそらく)ぐらいの幼女だ。死がどういったものなのか理解できてなくても仕方がない。きっと侯爵あたりから「いつもおまえの傍で見守っているんだよ」的なことを言われているのかもしれない! あぁ、きっとそうだ!!
「お嬢様……ッ」
ミヒャエルの胸が熱くなった。ついでに目頭もツンと熱くなった。
まさかこんなところで侯爵家のお家事情を知ってしまうとは思わなかったが、これは街のみんなにいい土産話が出来た。きっと美しいメリディス族の奥方は、侯爵に愛されながらも長くは共に生きられず、命と引き替えにこの幼女を生みだしたのだろう。嗚呼さすがは大貴族様。なんて物語のような恋なのだろうか。劇作家のルドヴィカが知ればさぞ美しい恋物語として題材にすることだろう。きっと王都中が涙を流すに違いない。
(これが……侯爵の……恋話!!)
ミヒャエルは感激した。
この(領地の)誰も知らない侯爵の秘話を、孤児あがりの自分が最初に知ることができるとは……! このことは、街に帰ったらすぐに脚色つきで大々的に広めておかなくてはならない。やや劇調の美談として!
(そしていずれはルドヴィカ殿に劇にしてもらおう!)
有名な断罪官の恋話ならば話題も充分。きっとルドヴィカも食いつくはずだ!
「そうですね……お嬢様……! そこに、奥方様がいらっしゃるのですね……!」
感涙にむせびながら頷くミヒャエルに、
「そうなのです! ここにいるのです!」
目をキラキラさせながら大きく頷く幼女。
激しく食い違った言葉の意味を合わせることなく、二人はしっかりと頷き合った。心が通じ合っているように見えるのは錯覚だ。
「では、あたしが屋敷を案内してあげるのです!」
「あ、ありがとうございます!」
幼い身で立派に振る舞おうとする幼女にさらに感激して、ミヒャエルはいっそう熱い涙を零した。
──彼は知らない。
彼等のやりとりを別の者が衝動を必死に堪えながら見物していたことを。
半開きになった扉の片隅で、口を押さえ、全身をブルブル震わせる赤ちゃん猫が、痙攣しながら転がっていた。
※ ※ ※
「これが……閣下の……お家ですかー……」
恐ろしく立派な廊下を歩き、案内された先でミヒャエルは呆然と周囲を見渡した。
美しい装飾の入った調理台。
並べられた大きな水瓶。
大人が二人並んで作業できそうな水洗い場。
壮麗な模様が炎のように煌めく分厚い鉄板の上には、一度に十人分は作れそうな鍋類がズラリと並び、そのうちの一つは今も美味しそうな匂いを漂わせている。
部屋の隅にあるのは煉瓦造りの石釜。隣にある巨大な金属の箱は、確か昨年の冬に隣国の鍛冶師が発明したという、最新型の鉄製オーブンのはずだ。
壁から床に至るまでそのほとんどが大理石で作られた部屋をぐるりと見渡して、ミヒャエルは背中に変な汗を伝わせた。
(……すっげぇ綺麗なんだが……どう見ても……台所、じゃないかなー……?)
普通、客や使者が来たら玄関に待たすか客間に通すかするのではないだろうか? それともこれが、王都の上流貴族の作法なのだろうか?
(おまけに、お嬢様が……鍋をひっかきまわしているんだが……)
彼女の胴体より大きい鍋の中身を、幼女は先程から一生懸命レードルでぐるぐる回している。空腹の身には堪える素晴らしい匂いが漂ってきて、ミヒャエルは鳴きだしそうな胃袋を必死で宥めながら立っていた。
(くっ……気張れ! おれの胃袋!! いくらなんでも、侯爵邸で腹鳴らすって格好悪い!!)
とはいえ、鼻腔をくすぐるのはここしばらく嗅いでいない濃密なコーンの匂いだ。甘く濃い香りに、知らず知らずのうちに口の中が唾液でいっぱいになる。無意識に鼻に全神経を集中させていたミヒャエルは、近くで聞こえたゴトリという音にビクッとなった。
ハッとなって見れば、深皿に盛られたスープがテーブルに置かれている。
「おじ様は今、眠ってるのです」
「…………。えっ」
咄嗟に皿に集中してしまった意識を引き剥がして、ミヒャエルは椅子の上に立っている幼女を見た。いつのまに鍋の前からテーブル前に移動していたのか。匂いに集中していたミヒャエルには分からなかった。
「お家のコト手伝ってくれてる人を呼んでくるので、これ食べて待っててほしいのです」
「えっ本当にっ!? ……あ、いや、ですが、おれぇ」
反射的に顔を輝かせ、次いでミヒャエルは慌てて自分を戒めた。
深皿いっぱいのスープは非常に魅力的だったが、使命を果たす前に、さて、ご馳走になっていいのかどうか。こういう時の対応の仕方は、さすがに誰も教えてくれなかった。
(く……食いたい……けどッ!!)
思わず鳴った喉の音が、異様に大きく響いく。次いで伴奏を開始するのが腹の虫だ。
(……く……っ!)
「お腹が空くのはせつないのです」
狼狽えるミヒャエルを見上げて、メリディス族の幼女はひどく真面目な顔で言う。
「せつないのは、駄目なのです。だから、ミャーさんはご飯を食べるのです」
(誰!? ミャーさん!!)
幼女の真面目な顔よりも、告げられた名前が衝撃だった。
自分以外に誰かいたのか誰だそいつはご飯与えられやがって! と一瞬で見ず知らずの相手に怒りが炸裂しかけたが即座に気づく。
(おれの名か!?)
どうやら短縮されたようだ。
「……お……お嬢様……」
「遠慮はいらないのです。あたしのご飯のお裾分けなのです!」
「い、いえ、その……」
「食べてる間におじ様が起きれそうかどうかも尋ねてくるのですよ!」
「あの……」
ぽぃん、と妙に弾んだ音をたてながら、幼女が椅子から床へ飛び降りる。そのままぽぃんぽぃんと飛んで行くのを呆然と見送って、ミヒャエルはゴクリともう一度喉を鳴らした。
(……メリディス族って……弾むのか……)
神秘の一族はさすがに特徴が他とは違う。
弾む物体などゴムで作った玉ぐらいでしか知らないミヒャエルは、半ば魂の抜けたような感嘆のため息をついた。かつての故郷ではあるが、さすがは王都。どんな新発見があるかわからない。
ミヒャエルは幼女が消えた方をしばらく見つめ、チラッとテーブルの上のスープに視線を送る。
(……食って……いいって言ったよな)
チラッチラッ。
(食うぞ……食うからな!?)
逡巡を打ち払うように勢いよくテーブルに向かい、ミヒャエルは体をかがめてスープの匂いを嗅ぐ。日常では味わえないレベルの香しさに、だらしなく頬が緩むのを止められない。この匂い。相当美味しいに違いない。
(おれ……来てよかったかも……!)
生きたメリディス族にも会えたし、美味しそうなスープまで振る舞われた。領地を出た時には、あの恐ろしく無表情な領主にまた会うのかと少々怖じ気づいていたのだがそこはもう考えないことにした。ビバ! ご飯!!
ミヒャエルは皿を両手で持ち上げ──スプーンはどこにも置かれていなかった──噛みつく勢いで縁に口をつける。グッ、と傾けると、それはそれは香ばしいこの世のものとも思えない味わいが──
「…………─── 」
昏倒した。
※ ※ ※
目が覚めると、やたらとお人好しそうな金髪美形がこちらを覗き込んでいた。
「……ッ!?」
「あ。気づいた」
気づきましたよー、とどこかに向かって声を放ちながら、青年はミヒャエルの額に手をあてる。あまりの素早さに反応仕損ねたミヒャエルは、畑仕事などしたことがないだろう繊細な手の意外な硬さに目を見開いた。
「うん。熱とかは無いね。アレルギーも出てないみたいだし……そんなに心配することなさそうだよ? ベル」
後半の言葉は、彼の左横に向かって。
長椅子に寝転がされていたミヒャエルの足元あたりで、うん、と小さな声がかえった。
慌ててそちらを見ると、青年の隣に小さな幼女がいる。床の上に直接座っているのだろう。体が小さすぎてミヒャエルの視界では幼女の頭しか見えなかった。
「あ……と、あの……」
状況が分からず声を上げると、青年の方がほわっとした笑みを向けてきた。
「えっと、ミャーさんだったかな? 君がその、ご飯中に……あー……ちょっと気を失っちゃったみたいで。ほら、疲れもあったろうし。空腹に刺激が強……いや、衝撃的……その、まぁ、なんというか」
(……なんだろうか。その、必死に言葉を言い繕おうとしている気配は)
「未知との遭遇があったというか……まぁ、そんな感じで倒れちゃったんだよ」
(……スープを飲んだだけだった気がするんだが)
「一応、服は替えさせてもらったけど、あれだね、体格いいよねぇ、君。僕やクラウドール卿の服じゃ入らなさそうだったからバルバロッサ卿の昔の服もらってきたんだ」
「……はぁ」
服と言われて改めて見れば、簡素な麻の服が立派な絹服に替わっていた。
(なんと!?)
大柄なミヒャエルよりも更に大きい服は、貴族のようにパリッと糊がきいている。下のズボンは黒に近い茶褐色。生地の厚さと仕立ての丁寧さは、領地にいる家令の服よりも数段上だった。
(なんだコレ!? ちょ……おれ、こんなの貸してもらったら身動きできねぇんだが!?)
細かい値段は分からないが、たぶんすごい金額だろう。汚したらそれこそ一大事だ。弁償などできるはずがない。
「お……お……おれの服は……!?」
「洗濯して干してあるよ。でもねぇ……乾くには時間がかかるから、そのまま貰って帰ることになるんじゃないかなぁ」
「貰う!?」
「うん。バルバロッサ卿の昔のやつだから、今のあの人には小さすぎるし。これ以降、使わないそうだし」
あっさりと言われた言葉に、ミヒャエルはパクパクと口を開閉させた。
(さ……さ、さすが貴族様!!)
金貨で支払いを請求されそうな服が無料! しかも無償で洗濯までしてくれている!!
旅の商人によれば貴族には金払いのいい上等な人と、貧乏人よりもケチくさくてがめつい人がいるらしいが──間違いない、目の前の青年は『上等の人』だ!
(……と、バルバロッサ……卿……?)
ふと今更ながらその名前に気づいて、ミヒャエルは首を傾げた。
「あの……バルバロッサ卿って……」
「大神官だよ。知ってる?」
「え。いや……その、将軍にそんな人がいたなって思って……」
「ああ! そのバルバロッサ侯爵のご子息だよ」
「ごしそくさま!?」
つまり、この服は、侯爵家の服!!
「おおおおおおおれ自分のふふふくで帰りますからははは早く早くコレ脱がねーと!」
「わーっ! 脱がなくていい脱がなくていい! というか女の子がすぐそこにいるからね!?」
「ぉー」
「ベルも興味津々で見ようとしちゃ駄目だってば!」
なぜか背伸びしてこちらを見る幼女に、ミヒャエルは慌てて脱ぐ手を止めた。
「ほら、ベルっ。身を乗り出してまで見ようとしないで、クラウドール卿のところ行っておいでっ」
「えっ。でもっ、脱ぐ人がいたら、とりあえずしっかりと鑑賞してあげるのがマナーなんだって宿のおねーちゃんは言ってたわよ?」
「そういう商売の場所じゃないからっ!」
(……商売て……)
ミヒャエルはそそくさと服を直しながら、(この幼女は一体どういう育てられ方をしているんだろうか)とクラウドール家の教育方針に不安を覚えた。
いや、だが、今はそれよりも──
「……あの……クラウドール卿が……近くに?」
青年の言葉から察して、ミヒャエルは周囲を見渡した。
だが、美しい室内には他に人の姿など見あたらない。
唯一、豪奢な天蓋付きのベッドが視界を妨げているが、まさか訪問者を家主が寝ている
寝室に運び入れるなんてことは無いだろうとミヒャエルは思った。
しかし、青年はそんなミヒャエルに何でもないことのようにさらりと言う。
「クラウドール卿なら、そこのベッドにいるよ」
──想定外の事態だった。
「……おれは……こ、侯爵の寝てる寝室で……さ、さ、騒いでしまった……んですか……っ」
肩を落とし、この世の終わりのような顔で言うミヒャエルに、幼女と青年は顔を見合わせてから「まぁまぁ」と二人揃って手を挙げた。
「君の状態がどうなってるのか僕らじゃ分からなかったから、クラウドール卿に診てもらったんだよ」
「おじ様はこんなことで怒ったりしない大らかな人なのですよ」
「大らか……まぁ……うん。でも、ベル。できるだけ大声は出さないようにしようね。あと、こっそり衣装部屋に入ってお宝発掘とかしちゃ駄目だよ?」
「……おじ様はぱんちゅに関しては細かい人なのですよ……」
「それは誰だって怒る事なんだってば。……どーしてそんなのを狙うかなぁ……」
「宿のおねーちゃんが言ってたもの。『好きすぎる相手の下着はどうしても欲しくなるのがあの人達の常だからねェ』って!」
「……ちなみに欲しがってるのは、おねーちゃん? それとも、お客さん?」
「お客さん~」
可愛らしい顔で言う幼女の言葉に、傍らで聞いているミヒャエルは変な汗が背中に浮くのを感じた。
(……なんだろう……さっきから飛び交ってる、宿のおねーちゃん、っていう単語は……)
深く考えてはいけない気がする。
だが、頭の中に単語がこびりつく。宿のおねーちゃん。男の本能が、ソレは自分の大好きなものだと反応している!
(いや、でも! だからなんで侯爵のご令嬢が……!)
思わず頭を抱え込みそうになったとき、深みのある声がベッドの方から放たれた。
「……体調はいいようですね」
(!)
ミヒャエルはギョッとした顔でベッドを見る。帳が下ろされているため、相手の姿を見ることは出来ないが──
「……領主様……!?」
「このような場所から失礼します」
その声に、ミヒャエルは反射的にピンと背を伸ばした。ほとんど硬直したような形で静止したミヒャエルに、幼女が目を丸くして指でツンツンと突いてくる。
だが、ミヒャエルはそれどころではない。
「ペーターからの書状は読ませていただきました。二月にはずいぶんと無理させてしまったようですね」
「えっあっ、はいっ。い、いや、ですがその」
咄嗟に声を上げ、けれどどう答えていいかわからずミヒャエルは焦った。
二月と言えば、領地から大量の山羊や牛を王都へと送った月だ。
大至急、という侯爵の強い要望に応え、領民がこぞって雌山羊と乳牛を走らせた。夜間は頑丈な荷馬車で運ぶなど、とにかく速度を重視して事に当たった結果、恐ろしい額の輸送費が発生してしまったのは記憶に新しい。
ミヒャエルはその頃、ちょうど試算を終えたばかりのペーターから相談を受けていた。
侯爵にどう報告するかで悩む家令は、わずか数日で五歳は老け込んだような顔をしていた。
「二、三、疑問点をお答えいただきたいのですが、現在、領内に子牛や子ヤギしかいない、というのは、私が管理している農場について、なのでしょうか?」
「へっ!?」
まさかここでいきなり問答が始まるとは思っていなかったため、ミヒャエルは思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
ジッと見つめている青年と幼女の視線を受け、彼は領を出る前のことを必死に思い出しながらしどろもどろに答える。
「えぇ……と、その、領主様の農場の牛や山羊もそうなのですが、おれら、いえ、わたし達の行動で、その、領主様が雌山羊と雌牛を急いで欲しがってるっていうのが、街の連中、いや、みんなにバレまして。その……所持してる者のほとんどが、一頭から数頭ずつ、出してくれたんで……」
「……それで、あんなに大量になったんですか……」
ベッドにいる主が、なにやら考え深そうな声で呟く。
近くの大小二人も、なにか遠い目で虚空を見上げて「ぁー……」と言いたげな顔をした。
どうやら、領地からの牛と山羊は、最終的に侯爵の想像以上の量が届いたらしい。
「管理下にある農場内の雌牛、雌山羊に限定して通達しておけばよかったですね……」
「あっあのぅ……やっぱ、マズかったんですかね……?」
「…………」
「……マズイというか……想定外の大出費だったんじゃないかなぁ……」
沈黙した侯爵にかわって、なにかを指折り数えていた青年が呟く。
「牛一頭にかかる税と、山羊一頭にかかる税……馬車の通行税、人の通行税。最短距離は大陸行路をつっきる方向だから……ザルムスからは、エーヴェルト領を横断と、シェーグレン領で南下……山脈越えはどうやっても洞窟に限定されるから……」
「……すごいお金いっぱいかかる?」
横から口を挟んだ幼女の問いに、青年は頷く。
「すごいかかるよ。とくに山脈越えは、洞窟使用の場合通常の五倍から十倍の金額がかかるから。急ぎの場合はさらに倍増しになるし。なにより大陸行路を突っ切ると大きな街をいくつも越える形になるんだ。するとそのたびに税がかかる。舗装された道を利用するならその使用料も払わないといけないしね」
「……それで、おうちの金庫がすっからかんになるぐらいお金使っちゃったの?」
「シェーグレン領とシュトックフェルム領での税は、全部王都にいるクラウドール卿のところに持ってくるようになってるからね。エーヴェルト領は侯爵領に持って行くんじゃなかったかな。侯爵領の税収は少ないから、僕としてはそっちのほうが心配だよ……エーヴェルト領の領主は、豪放そうな外見に反して守銭奴だし。ここぞとばかりに高額ふっかけたんじゃないかなぁ……」
「……なんでそんなに詳しいんスか……?」
どう見ても従僕では無さそうなのに、スラスラと侯爵家の内情を語る青年に、ミヒャエルは内心ビクビクしながらも胡散臭げに問いかけた。
侯爵には敵が多いときく。それも貴族の敵が。その状態で、見知らぬ貴族が侯爵家のことを熟知していると知れば、とてもではないが心穏やかにはいられない。
だが、ミヒャエルの問いに、青年はそれはそれは晴れやかな笑顔でこう言った。
「そりゃあ、僕はクラウドール卿のことなら王都で二番目の知識量を誇るからね!」
本気で誇らしそうな彼に、幼女が目をクワッと見開いた。
「あたしだって負けないんだから! いつかは勝つんだから!」
それはつまり今負けてるってことじゃなかろーかと内心で突っ込みながら、ミヒャエルは問いかけの眼差しをベッドへと送った。
だが、分厚い帳はミヒャエルのコタエテリョウシュサマコノヒトナニ? 視線を綺麗に遮断してしまっている。
そんな彼を放置して、青年と幼女はガシッと手を握り合った。
「大丈夫だよ、ベル。僕らは1.5人で一人だ」
0.5人は何処へ。
「二人の知識を合わせれば、一番だって取れるかもしれない!」
「なるほど!」
「……いや、それってなんの解決にもなって無……いえ、なんでもないです……」
ぐるりと視線を向けてきた二人のイッちゃってる視線に、ミヒャエルはもう一度領主のいる方向へと視線を投じた。
「……その二人のことは、あまり気にしないでいいです……」
気配でタスケテリョウシュサマを感じ取ったのか、今度はベッドの方からやや疲れ気味の声が放たれた。
「それよりも、アロック卿の言うとおり、エーヴェルト領の通過にかかった費用が気になりますね。ペーターも試算してくれていますが、あの領の御仁は一筋縄ではいきませんから、おそらく倍近い金額を請求されることでしょう」
「あ、あのっ」
何かを思案する声に、ミヒャエルはギクシャクと声をあげた。
幼女と青年がやはり彼をジッと見つめているのがやたらと気になるが、とりあえずそれは無視することにした。
「おうちのお金が、その、すっからかんになったと、今お嬢様が言われましたが……!」
「あぁ……。二領からの請求に、邸宅に置いてあった金貨を全て使い果たしましてしまったというだけのことです」
「!」
「気にされることはありません。城に納める税の分も消えてしまったので、貿易の売り上げが出ていなければ身代も少々危うかったという程度のことですから」
「大事じゃないですかーッ!!」
たまらず絶叫したミヒャエルに、横にいた幼女と青年が真顔でウンウンと頷いた。
しかし、暢気なのか危機感がないのか、ベッドの領主はさほど気にした様子のない声で「いえ」と否定する。
「想定外の額になったのは確かですが、商会に預けてある金貨もありますし、南国との取引に出ていた船が到着する時期でしたから、それほど大事ではありません。ここぞとばかりに寄ってきたり、領地や権利の売却を薦めてくる人もいましたが……ああいった動きを直に観察できたのはある意味有意義なことでしたね。たまには弱った所を見せたほうが良いのかもしれません」
「……おじ様……そんなのあたしには全然言ってくれなかったわね?」
「それは……」
何故か胡乱な目になった幼女に、今まで平坦だった侯爵の声がやや乱れた。
「あなたが気にするようなことではありませんし、そもそもあの当時、そんな話をする余裕など無かったでしょう?」
「孤児院のことがきっかけなんだもん。あたしはちゃんと知らなきゃいけない立場だと思うわ!」
「だから、孤児院の件がきっかけとはいえ、あなたがそれを負う必要などないんです。なんでも背負おうとするのはやめなさい」
「だったらおじ様はどうして何でも背負っちゃうの!? おじ様だけが無理して、そんなの駄目じゃない! そりゃ、あたしはこんなだから、出来ないことのほうが多いだろうけど……でも……ちょっとぐらい、分けてくれても……」
「ベル……」
最後はしょんぼりと声を落とした相手に、ベッドの方から身じろいだ音がした。そのまま這い出て来そうな音と気配に、青年がやおら慌てて幼女を小脇に抱え、ベッドに駆け寄る。
「出ちゃ駄目ですよクラウドール卿! ちゃんと中にいないと!」
「ですが」
「はいっ! ベルっ!」
「らじゃっ!」
帳の隙間からポイッと幼女を放り込み、青年はいい汗かいたみたいな晴れ晴れとした顔で額の汗をぬぐった。
「あー危なかった。主に僕の心が」
「……あのぅ……」
青年の謎言動に不審を覚えつつも、とりあえずミヒャエルは唯一ベッドの外にいる彼に声をかける。
「ベッドがえらい勢いで暴れてるんですが……」
「あぁ、いつものことだから」
「えー……その、領主様は臥せっておいでだったんですよね……?」
「うん。ちょっと数日間高熱出してたんだ。今はもう熱も下がってるから大丈夫だよ。大事をとって休んでるだけだから」
「……はぁ……」
そのわりには、今、大変元気よくベッドがドッタンバッタン動いているのだが、あれは『大事をとって休んでいる』の部類に入るのだろうか?
「それより、ミャー君。お腹空いてない?」
ややも冷たい汗をかきはじめたミヒャエルに、青年が非常に魅力的な言葉を放った。
咄嗟に勢いよく仰ぎ見た彼に、青年は鮮やかなほど素晴らしい笑顔で誘いをかける。
「あぁなったら二人とも落ち着くのに時間がかかるから、その間に食事しようか。クラウドール卿の領地から行商しながら旅して来たんだよね? ずいぶん時間をかけてたけど、色々大変だったんじゃないかな? 普通の食事を用意してあげるからさ、そこのところ詳しく教えてほしいんだ。クラウドール卿の領地の特産物とかクラウドール卿の農場の様子とかクラウドール卿の屋敷の様子とかクラウドール卿の領内の道の舗装状況とか」
彼の言動がやはり微妙に気になったミヒャエルだった。