番外編 【魔女の呪いと希望の種】
神々の王たるレゼウス神殿には、王族が滞在するための豪華な部屋がいくつもある。
なぜそんな部屋が神殿内にあるのかといえば、教会内での会議や各国の代表との会談はアルティア神殿で行われるが、国の重要な会議などはレゼウス神殿で行われるためらしい。
そのため、領地を持つ王族が王都に集結した時などに泊まってもらえるよう、神殿内に宿泊用の部屋を作ったのだそうだ。
建国当時は今よりもずっと王族が多くて、中には神殿に留まってずっと仕事を手伝っていた人もいたそうだから、レゼウス神殿というのは王族専用の宿泊施設みたいな所だったのだろう。
(……いいのかなぁ……神殿がそんなんで)
羽根ペンの羽根部分をガジガジ噛みながら、あたしは力無く眉を垂らした。
あたしがいるのは、王都西区クレマリス大神殿、神王レゼウス神殿の一室。
他の部屋に比べればものすごく質素な部屋で、周りには調度品の類がほとんどない。
あるのは大きくて立派な本棚に、びっしりと収められた沢山の本。やたらと立派な机と、机の大きさに反して三つしかない立派な椅子。そして文字を書けるように加工された壁である。
その加工された壁に向かい合う形で、あたし達は椅子に座っていた。
あたしの横には、半ば本の山に埋もれている金髪の美青年。紫紺の目の下にはくっきりとクマができていて、その顔は前に見たときよりも格段に窶れていた。
なにやら生気搾り取られたミイラみたいな顔なのだが、本を読んでいる目にはちょっと怖いぐらい強い光がある。
なんというか、こう──ギラギラッ、という感じに。
その横にいるあたしはといえば、用意された羊皮紙にミミズがのたくったような汚い字を書きながら、壁の前に立っている美巨乳おねーちゃんの講義を受けていた。
正直、今のあたしはお勉強ができるような心境ではないのだが、かといって他に何かができるわけでもなく、しょんぼりと受けている。
今習っているのは、あたし達がいるレゼウス神殿についてのことだった。
神殿というのは神様のお家なのだと思っていたのだが、実際にはそうではないらしい。
教皇であるアルルじーちゃんの私室もレゼウス神殿にあることからして、レゼウス神殿とは『神殿』とは名ばかりの『ナスティア王族のお家』なのだろう。
よくエラス教を信仰してる他の国から文句が出ないもんである。
「他国からの賓客も、時と場合によってはレゼウス神殿に泊まることがあるのよ。昔の例で言えば、三百二十七年前にあった『魔族封印会議』における出席者は全員レゼウス神殿で起居していたわ」
敏腕教師ことナスティア王国第十王女アデライーデ姫は、黒縁眼鏡をクイッと指で押し上げながらあたしの疑問にスラスラと答えてくれた。
「元々クレマリス大神殿は、大聖堂と違って神事祭事が少ないの。特にこのレゼウス神殿は余程のことがないかぎりそういった用途では使われないわ。ナスティアの建国について考えてもらえれば分かりやすいと思うんだけど、ここは、ぶっちゃければ豪華な軍事基地なの。本部がレゼウス神殿、小会議をしつつ戦勝祈願して兵の気を高めるのがアルティア神殿、非戦闘民を保護したりするのがヘラティイア神殿、人々が自分の信じる神に祈ったり託宣を受けたり集会を開いたりするのが神々の間、そして兵士が詰めるのがアルバストロ神殿、って考えるといいのよ」
「……なんか色々ぶっちゃけてねーか? それ……」
山積みの本に埋もれながら、アルが疲れた声でそうぼやく。
知識の乏しいあたし達のため、連日教師役を務めてくれているアディ姫は、アルに不敵な笑みを浮かべてみせた。
「一般の人には教えちゃいけないことなんだけど、アルルンと末姫ちゃんは、むしろ逆に知っておかなきゃいけないのよ」
「…………」
「ナスティアにおける『宗教』は、魔族と戦い抜くために生まれたものよ。元々は三十余の民族が各自で信仰していた宗教を、民族の団結と同時に一つにまとめあげたのが『エラス教』。強大な敵と対抗するために集った人々の、命をかけた『意志』や『思想』の集大成でもあるの。『エラス教』となった時に名前が変わった神々もいれば、新たに生み出された神もいる。……その代表が、神々の王レゼウスでしょうね」
「『王様』なのに、後から生まれたの?」
あたしの問いに、アディ姫は頷いた。
「色んな解釈があって、その当時の人がどのような思いでその神を作りだしたのか、本当のところは分からないわ。大昔の、第三帝国が生まれたきっかけである宗教戦争の時とはまた事情が違うし……。けど、『人々が望んで作り上げた』こと、『それまでは各民族で信仰している神がバラバラだった』こと、『バラバラの神々をまとめて一つの宗教にした』こと、『三十余の民族が一つにまとまろうとした』ことを踏まえて考えれば、エラス教を作り上げた時、人々の思想をまとめる『形』の一つとして、『まとめ役』を神々の中にも作ろうとしたんじゃないか、っていう説で一応の納得ができるのよ。そのせいで、一番有力な説なのよね。民族をまとめるのにナスティアがいたように、思想をまとめるのに『レゼウス』という存在を欲したんじゃないか、って」
「ふみゅ……」
アディ姫の説明に、あたしは曖昧に相槌をうった。
意味はぼんやりと把握できるのだが……なんというか、そんなことをして当時の人達は全員納得して受け入れたんだろーかな? と思うのだ。
「……それって、反発とかなかったの?」
疑問に思ったことはちゃんと訊いてね、と言われていたので、あたしはアディ姫に問うてみた。
赤毛のオネーサマはあっさりと頷く。
「あったでしょうね」
……あったんかい。
「でもね、結局、レゼウスは生まれ、こうして後の世にも受け継がれてる。たぶん、それが答えなんだと思うの。レゼウスにはね、他の神様みたいな、炎を司ったり雷を司ったりするような『神様らしい力』なんてないの。そういう意味では、なんの力もない、形もない、ただ名前だけの王様って言えるかもしれないわね。……でもね、それでも必要とされたの」
「名前だけの存在なのに?」
「そう。名前だけの存在なのに」
言って、アディ姫は苦笑した。
「信仰の問題なのかもしれないわね。いくら『エラス教』として沢山の神様を一つの場所に集めたとしても、人々が真に信じているのは自分たちの信仰してきた神様だけ。祈るときも、その神様だけに祈る。……それじゃあ、いくら集めたところで『一つ』にはならない。でもね、もしそこに、新しい神様がいたら? みんなの神様をまとめて、みんなの神様のためだけにある、エラス教だけの神様がいたらどうかしら? 信じて祈る神様の向こう側に、大きな神様がもう一神がいたら?」
「…………」
「その神様は他の部族の神様も全部まとめて抱きしめてしまえるぐらい大きな神様。祈りの向こう側に、広大な意識の空間が広がっているような感じよ。最初は意識していなくても、少しずつ人々の心の中にその存在が溶け込んでいったら、人々は自分の信じる神に祈るのと同時に、その向こう側にいる『レゼウス』にも祈りを捧げるようになる。過程がどうであったのかは、歴史書を見て判断するしかないから、本当のところはわからないけど……結果として、エラス教はレゼウスという神を要することで一つにまとまったわ。そして、沢山の犠牲を出しながらも、魔族は封印された」
「…………」
「結局のところ、今という現実を見て、過去を解釈しているだけだから、もしかすると当時の戦略として無理やりみんなに祈らせた結果だったのかもしれないし、洗脳めいた手段がもちいられたのかもしれない。『もしかすると』を考え出すと色んな考えが出てきちゃうから、実際に当時その地にいなかった私達が、本当のことを理解するのは難しいの。世の中には偶然や必然によって思いもよらない方向に歴史が動くこともあるし。その時のその場にいないあたし達には、その流れの中にいた人々の真理は分からない。常識を逸した流れが生まれるときもあるから、尚更に、ね。……でも、それでも、思うことはできる、考えることはできる、慮ることはできる」
「…………」
「大切なのは、想像する、ということ」
アディ姫の声に、あたしはいっそう耳をかたむけた。
「それは時に妄想や決めつけを生み出すことになるかもしれない。けれど、様々な視野から想像するのは、とても大切なことなのよ。一つの考えに囚われてはいけない。一つの思いに縛られてはいけない。それは視野を狭めるだけだから。……大きく、広く、深みのある思考をもつよう、努力しないといけないの。そうして、沢山のことを考えて、想像して、その中でいちばん可能性の高いものを『仮定』として選ぶ。さっき説明したレゼウスのことも、この『仮定』ね。真実がどうであったのかは、当時の人にしか分からない。だから、沢山の人がうんと想像して……沢山生まれた想像の中からこの『仮定』を選んだの」
そして、生まれた『仮定』を今分かる一番確かなものとして、公に発表した……
「そうやって、人々は書物にない時代の歴史書を一枚一枚、作りあげ、積みあげてきた。いずれ口伝で全く別のことが伝わってくるかもしれない。……でも、それがない限り、今はそれが精一杯」
「……じゃあ、間違った内容を学ばされる可能性もある、ってことか」
どこか据わった目でアディ姫を見つめ、アルが低い声で呟いた。
「習ったものが全てデタラメだった、っていうことも、ありえるわけか」
「そうね。そういうこともあるかもしれないわ」
その言葉に頷いて、アディ姫は腰に手をあてた。
「過ちが見つかれば、それはすぐに正しいものに上書きされる。けれど、上書きされた内容が偽物であることもある。伝承も口伝も歴史書も、実際のところ全部が全部、正しいという保証は無いの。ただ、沢山の人が知っていて、沢山の人がそれが本当のことだと思っている。それだけ」
「……じゃあ、勉強なんて無意味じゃないのか? 間違ってるかもしれねェんだろ?」
「無意味かしら?」
アディ姫はどこかキョトンとした顔で首を傾げた。
「学ぶことで、知識を得て、知識を得ることで、想像の範囲を広げる。勉強って、そういうものでしょう? 大切なのは『答え』だけじゃないわ。その『答え』に至るまでの過程に、学ぶ意味があるものじゃないかしら」
「その『答え』が間違ってたら、過程そのものが無駄な時間じゃねぇか。意味ねぇもんになるだろ?」
「そう?」
アルの反論に、アディ姫は柔らかく微笑む。
「私なら、もし間違っていた『答え』が歴史に関わることなら、何故間違った内容が『答え』として確立されたのか、それを考えるわ。そして新しく流布される『正しい答え』が本当に正しいのか、何故本当に正しいとされるのか、どうして今まで沈黙されていたのか、そういったことも考える。……その考えるときの材料に、『間違っていた答え』が必要になる。その答えが出てきた背景を考えるためにも、比べる対象としても、その知識は必要になる。だから無駄にはならないわよ?」
「そんなモンに興味ねぇ連中にとっては、『間違い』を教えられたっていうことじたいが、すげぇ無駄なモンになるじゃねぇか。学者連中はそれでいいかもしれねぇけどよ」
「なるほどねぇ。そういう考え方だと、そういう答えになるわねぇ」
むしろ感心しながらそう言って、アディ姫は「ふむふむ」と頷いた。
「ということは、そういう考え方の場合、答えを導きだす時の『過程』には意味がなく、答えだけがあればいい、っていう形かしら? でもそうなると、大切な『想像すること』をどれだけしているのか、っていうのがすごく不安にならないかしら? 簡単な問題だけじゃなく、深刻な問題が起きたときも、考えることや想像することをすっ飛ばして誰かが出した『答え』に左右されてしまいそうな気がしない?」
「……そこまで考えるか……?」
「あら、だって、歴史を紐解けば、それが原因で戦乱や暴動が起きたケースがものすごい数あるんだもの。善悪の判断、行動の理由、それらは個人が決めるべきものなのに、集団心理で『右の人が右向けば右』みたいに、他者の言動につられて自分で判断せずに他を弾劾したり暴行を加えたりというのが多いわ。感情っていうのは煽動されやすいものだから、なおさらにね。昨日の友を、今日殺すこともある。実際に、そういうことが起きている。過去だけの話じゃなく、今もそういった事例は多くあるわ」
「だから『想像する』ってことが、大事なの?」
あたしの声に、アディ姫は視線をアルからあたしへと向け、頷いた。
そうして思いを噛みしめるような声で言う。
「……そう。物事に対してだけじゃなく、自分が接する人のことに対しても、想像することは大切なの」
その言葉は、どこか深い痛みとともに。
「……何を思っているのか、何を考えているのか……それを忘れた時、取り返しのつかない間違いを起こすんだわ……」
「…………」
沈鬱なアディ姫の声に、アルも俯き、あたしも項垂れた。
想像する、ということ。
想像を助けるための知識を得るということ。
それはきっと、本当に大切なことなのだ。
アルトリートのことも……
……そして、レメクのことも。
(……あたしも、何も考えずに尋ねちゃった……)
ふと倒れてしまったレメクを思い出して、あたしはいっそう俯きを深くした。
あたしが誰にも答えてもらえていなかった問いをぶつけた結果、レメクは昏倒してしまった。丸二日経った今も、彼は目覚めていない。
ひどい高熱が出て、ポテトさんが分身を貼りつけることで熱を下げさせているけれど、意識が戻らないのでこのまま長引くと危険だと言われた。
(……あたし、もうちょっと考えて問えばよかった……)
フェリ姫も、アルルじーちゃんも、問うた時にすごい変な反応をした。
もしかすると、あの問いはものすごい禁断の問いだったのかもしれない。あのレメクがあんな風になっちゃうほどなのだ。きっととんでもない禁忌な問いだったのだろう。
想像すればよかったのだ。問いの向こう側にある答えを。
今もそれが何なのかは分からないけれど、皆が皆オカシナ反応をすることを判断材料にして、どういう答えがあるのかを想像し、考えればよかったのだ。
問うてもいいかどうか、を。
(どうしよう……)
レメクは今も眠っている。
今更「答えなくていい」と伝えたところで、果たして意識のないレメクにそれが通じるだろうか? ……届くだろうか?
(どうしたらいいんだろう……?)
いつだって、あたしが色んなことに興味を覚えて問うと、レメクは少しだけ嬉しそうな目をしていた。
何も知らないあたしに根気よく沢山のことを教えてくれる彼は、いつだったか、とても真剣な目であたしに言ってくれた。
『知らないことがあることは、「悪」ではありません』
と。
無知を恥じるあたしにそう言って微笑みかけてくれたのだ。
『知らないことをそのまま放置せず、知っていこうとする姿勢がある限り、私はそれに答えましょう。……ですから、大切なことは、必ず私に訊いてください』
レメクはいつだって真面目で真剣で真摯な人だが、あの時の真剣ぶりはちょっと尋常じゃなかった。
それぐらい熱心に言ってくれた彼だから、あたしの問いに答えようと一生懸命になっているのかもしれない。
それが答えられない禁忌の問いだったから、きっとああなってしまったのだ。
(……レメク……)
あたしはどっぷりと落ち込んだまま、深いため息をついた。
気持ちが重くなると、体もものすごく重くなる。
おまけに後頭部から小さな生き物が頭の上によじ登っていくような奇妙な感覚まで覚えだして、人間、落ち込むとここまで変な幻覚ならぬ幻感覚を覚えるんだなと………………感覚…………よじよじ…………
……どゆこと!?
「おじょーさん」
「おとーさま!?」
頭のてっぺんから聞こえてきた声に、あたしは反射的にビョッと飛び上がった。
その瞬間、それぞれ暗い顔で俯いていたアディ姫とアルが、ギョッとした顔であたしを見る。
「ロード!?」
「──ッ!」
「にょあーッ!?」
いきなりアルの手が飛んできた!
勢いよく頭上をなぎ払おうとしたソレに、あたしは手が届くよりも早く椅子から飛び出す!
「とぅ!」
間一髪で足下を掠めていった一撃に、珍しく出遅れたアディ姫が一瞬でアルに張り付いた。
「はいストーップ!」
「ぅぉ!?」
「アルルンってば、意外と手が早くてビックリだわー。……末姫ちゃんが飛んでなきゃ、ちっちゃいロードは吹っ飛ばされてたかもねぇ~」
「……! ……!! ……ッ!!」
華麗に着地したあたしの目の前で、アディ姫にムッチリと押さえ込まれたアルルンが唯一自由になる左手を必死に動かしている。どうやら苦痛と解放のアピールをしまくっているようなのだが、アディ姫は素敵な笑顔をあたしに向けるばかりだった。
……てゆか……なんかすごい技を展開されているよーな……?
「……アルが変な軟体動物みたいな格好になってる……」
体術の知識がないため技名は不明だが、がっちりと体を固定されているところを見ると、所謂極技なのだろう。昔、船乗りのおっちゃんがゴロツキ相手にキメてたヤツを見たことがあるのだが、それとよく似ていた。
「……あれ……放っておいたら、王弟くん、死んじゃうんじゃないでしょーかね……」
唖然と見上げるあたしの頭上で、相変わらずちっこい状態の猫ポテトさんがボソッと呟いた。
「え。あれ、そこまでヒドイ技なのっ!?」
「いや、猛攻姫と違って王弟くんはほとんど鍛えられてませんから……素人にアレはキツイですよ。私もよくご主人様にくらわされてるのでよくわかりますが」
……くらわされてるのか……
てゆか、なんでくらわされてるんだポテトさん……
「肉体へのダメージがほとんどない私でも色んな意味で大変ですからねぇ……フツーの肉しかもってない王弟くんに耐えられるかどーか……」
その言葉に、あたしは慌ててアディ姫に声をかけた。
「おおおおおねーさまアルがギブギブギブ!」
「んっ! 残念! すでに落ちちゃってるわ!」
だらんと伸びてしまっているアルを抱えて、素敵な笑顔でグッと親指を押っ立てるアディ姫。
あたしは全力で顎を落っことした。
「なにやってんの!? ねーさま!」
「えー? いやーまぁ、今のアルルンにロード会わせるのはちょっと駄目だなーと思うし……ね? ロードも、分かってたでしょーに、なんでここに来てるの~」
……てゆか、最初っから落とすの前提で技かけてたのか……
「まぁ、王弟くんの心情を慮れば、しばらく会わない方がいいんでしょうけどね……」
唖然としたあたしの頭上、ミニマムポテトさんはよちよちとおぼつかない足取りで歩く。というか、這う。
あたしの額の方に移動した彼は、小さなため息をついてから言葉を続けた。
「どのみち時間をおいたところで、会えば激情にかられると思いますよ。王弟くんだって、ハッキリと怒りをぶつけられる対象の一つや二つは欲しいでしょうし。私なんか、血も繋がってないし、もともと好感度もないですから、一番感情ぶつけやすい相手でしょう」
「……お父さま……」
「それが事実なんですよ、お嬢さん。そしてね、そうやって人は壊れそうな心のバランスを必死にとったりしてるんです。……もちろん、褒められた行為ではありませんよ? それでも……そういうものなのだと、理解する必要も、あるんじゃないですかね? それに、少々のことでは私は壊れませんし、消滅もしませんから、王弟くんにとっては都合がいい相手なんです。……彼は『虚無の紋章』を所持してますから、私ぐらい丈夫な相手じゃないと、怒りをぶつけられないでしょうし」
ポテトさんの声に、あたしは目を大きく見開いた。
「虚無……の、紋章……」
「ええ。王弟くんの持つ紋章は、レンさんやご主人様が持つ紋章と同じく、世に出すのが危ぶまれるほど危険な紋章です。感情の高ぶりに紋章が呼応すれば、この建物の半分ぐらいは軽く消滅させてしまえるでしょう」
「ちょ……!?」
言われた言葉に、あたしはギョッとなってポテトさんのちっちゃい体を鷲づかみにした。
「うぉふ!?」
なんか変な声をあげられたが──無視だ!
「そんな危ない紋章……! どして……てゆか、アルの今の状況って、相当アブナイんじゃないの!?」
感情の高ぶりうんぬんで言えば、今のアルなんて軽く頂点ぶっちぎれてる気がする。
「だから猛攻姫が傍にいるんですっ。そこのお姫様には私が魔法かけてますから王弟くんの虚無の紋章は全く効かないうえ接触によって紋章の力もそぎ落とせるので周囲への影響も最小に留めることができるんですっ!」
「なんと!?」
バッと振り仰いだアディ姫は、なにやら困り顔で微笑んだ後、あたしにひらひらと手を振ってみせた。
「魔力ゼロで魔術なんて欠片も使えないってのに、魔法の加護は得られるんだから不思議よね~」
「魔力ゼロというのは、ある意味究極の特殊体質なんです」
驚いているあたしに、ポテトさんが小さな体をよじりながら言った。
「普通の人は、大なり小なり魔力をもっています。魔力には属性があり、そのせいで魔術に得意不得意が出たりします。俗に『火の属性』や『水の属性』と称される魔術の固体属性は、実は魔力が属性をもつことに由来しているんです」
ほ……ほぅ……?
「治癒魔法も体内の魔力によって活性化するものがほとんどですから、魔力が無いということは、そういった力を引き出せないということに繋がります。……けれど、逆に、属性のある魔力は他属性の魔術や魔法に対しある種の抵抗力をもちます。魔術耐性、魔法耐性は身に持つ魔力属性と同属が最も高く、それ以外の属性の魔術に対してはそれぞれに強弱が違います」
ふ……ふむふむ……?
「具体的には?」
いつのまにかアルを椅子に設置したアディ姫が、アルの膝の上に腰掛けて羊皮紙に文字を書きまくっている。
「影響を与えやすいのは、火に対する水、水に対する雷、雷に対する土、土に対する風、風に対する氷、氷に対する火。これらは円を描くようにして互いに作用しあっています」
…………。
「土は風を封じ込めない?」
「封じ込みますね。この関係は『強い影響を及ぼす』という意味の方が強く、どちらがどちらを封殺するか、という意味ではないのです。ぶっちゃけて言えば、火は水によって消えますが、水もまた火によって霧散します。ただし霧散した水は水蒸気の形で残ります。しかし火の温度が強ければ水蒸気すら残りません」
……む……むきゅ……
「つまり、そもそも行使された魔術の力が強ければ、『強い影響を及ぼす』属性のものであっても絶対的な強さを持ち合わせない、ということね?」
絶望的な表情でしょんぼりしているあたしの前、アディ姫の手がものすごい勢いで文字を書く。物知りのアディ姫にとっても、ポテトさんの話は珍しいのかもしれない。
「火の属性の者に火の魔法をぶつけても、身に持った属性耐性で威力をかなり殺されてしまいます。逆に水の魔法をぶつければ、肉体と魔力の両方にダメージを与えられます。白兵戦で、体力と同時に精神力を削るのを重要視するのと似ていますね。魔術戦でも、敵の属性に対し強い影響を与える魔術を使うのが基本となります。……ただ、生物対生物の場合、肉体の属性もかなり影響してきますから、もっと戦略を練る必要がありますが」
フムフムと頷きながらペンを走らせるアディ姫を眺めながら、あたしはがっくりと肩を落とした。
お勉強モードに入ってる二人には悪いが、正直、ゾクセイがどーとか詳しく説明されても、よく分からないうえに興味がなさすぎてどーでもいい。
属性がアディ姫にかけられた魔法とどう関わってくるんだろーか、と半泣きの目を握ったままの赤ちゃん猫に向けると、ポテトさんはほんの少しだけ苦笑した。
「魔力が無いということは、魔法や魔術に対する属性を一切もたない、ということです。すなわち、ほとんどの魔法や魔術に弱い、ということですね」
思わず視線を向けると、アディ姫が苦笑して肩をすくめる。
「こればっかりは鍛えようがないから、しょうがないのよねぇ。かわりに体を必死に鍛えるはめになっちゃったけど」
……鍛えすぎじゃなかろーか……
「対魔法戦になると、魔力ゼロはきついですからねぇ。魔術使われる前に倒さないと命にかかわりますし」
「無動作・無詠唱の術は特に困るのよね。本能と瞬発力で逃げなきゃ、一撃でヤられちゃうし。相手が一動作起こす前に叩きのめすのがコツよね」
「……それができるのはごく一部の人だと思いますけどね……。はいっ、話を戻しますからお嬢さんはこっちの世界に帰ってらっしゃいっ」
(うっ……!)
あたしの意識が遠い場所に避難しかけた途端、ポテトさんの小さな猫しっぽがピッタンピッタンあたしの掌を叩き出す。
てゆか、あたしじゃ理解できないマホーセンの話なんて間に挟まないで欲しいのですよ。
「後々のためにもちゃんと理解していたほうがいいと思うのですが……まぁ、いいでしょう」
あっ。なんかポテトさんから窘めの一瞥が!
「今更ではありますが、以降、細かい部分は略します。結論から言いますと、魔法や魔術は人体に施す類の場合、相手の精神状態や魔術耐性でかなり効果が違ってくるんです。繊細な術を施す場合は特にその点に気を付けないといけないのですが、猛攻姫の場合、魔力がないために耐性もなく、本人も受け入れ全開オッケーでいてくれたため、非常にかかりがよかったんですね」
……まぁ、なんだ。
つまり、アディ姫の魔力ゼロが、ポテトさんの魔法には都合が良かった、っていう話なんだろう。うん。
「──で、アディ姫にかかってる魔法って、アルの紋章限定で効果が現れるものなの?」
ようやく納得して、とりあえず気になったことを尋ねると、ポテトさんは天井を見上げながら言った。
「猛攻姫にかけた魔法の効果は単純です。一つは、あらゆる魔術、魔法を吸収すること。こちらは姫君の任意によって発動します。吸収された魔法の類は私に与えられますので、私にとってはタイヘン都合がいいわけです。……しっかり吸収してくださいよ、姫君」
「なんかちょっと切実な声だったわねぇ……ロード……」
「分身が小さくなるぐらいには疲れてますからね。こちらのお嬢さんで例えれば、疲れてお腹空いてたまらない状態なわけです」
「それは切ないのです!」
おおいに理解を深くしたあたしに、ポテトさんも小さな頭を大きく頷かせる。
「たいへん切ないです。とはいえ、姫君が所望された能力は、吸収の能力ではありません。本来副産物のような形でうまれる能力『虚無の無効化』。つまり、王弟くんの虚無の紋章を完全に相殺してしまう能力です。といっても、効果が現れるのは本人の体限定なんで、紋章使われたら服とかボロボロになっちゃうんですけどね」
「肌が触れてさえいれば、外部に漏れる紋章の力も半径一メートル内に押さえ込めるんだけどねぇ……さすがにあたしの服とかは消されちゃうのよね。至近距離だから」
「……ということは、アルは自動的にすけべぇさんになってしまうのですな」
「紋章発動したらあたしがすっぽんぽんになるわよー、って言ったらものすごい勢いで自制してたけどね。……しっつれいしちゃうわよねー」
……いや……それは……アルが地味に紳士だってことじゃなかろーか……?
なんだか不思議な関係を垣間見てしまって、あたしとポテトさんは遠い眼差しを椅子に転がって(そしてアディ姫の尻に文字通り敷かれている)アルに向けた。
「……王弟くんも微妙に報われてませんね……」
現在も人間椅子にされているあたりからして、だいぶヒドイ扱いな気もする。
「……てゆか、ねーさまはアルに裸見られちゃうの、気にならないの?」
とあるレメクとの過去を思い出しつつ、あたしはアディ姫に問いかけた。
普通、男の人の前ですっぽんぽんにされたらビンタの一往復ぐらいは当たり前だと思う。
だが、アディ姫はきょとんとした顔で首を傾げた。
「べつに?」
…………。
……そうか。
べつに、なのか。
「……フクザツなカンケーなのですな……」
「……お嬢さんとレンさんみたいな、奇天烈な関係でないぶん、分かりやすいですけどね……」
……奇天烈な関係、って何だ?
「ま、まぁ、それはともかく。王弟くんの抑止力になれる人といったら、ご主人様やレンさんクラスの術者です。けれど、あの二人は今、王弟くんに会わせるのは『難』な人物です。だから、王弟くんの傍にいても、わりと普通に接してもらえて、なおかつ王弟くんを押さえ込めて、主導権を握れる人に彼を見てもらわないといけなかったんです」
「なるほど」
それは確かに、アディ姫が適役だろう。
「なんだかんだいって、アルルンって紳士だからね~。あたしが相手でも、女だからって無意識にいろんなことセーブしてるっぽいし」
「……あなたも色んなコトをセーブしたほうがいいと思いますよ、肉弾姫」
……ポテトさんに言われたらお終いな気がする……
「今! 一番言われたくない相手に言われたくない言葉を心の中で呟かれました!!」
「どーゆー意味!?」
クワッと叫んだ赤ちゃん猫に、あたしも叫ぶ。
しかし、掌の中の猫はにゅるりとあたしの手から脱出すると、すぽんと小さな体を中空に飛ばした。
「あっ!」
──そしてべちゃっと床に落っこちる。
「……そこまでして逃げなくてもいいような……」
「……ふ。力が戻ってなくて着地できなかったなんてことではないはずだと思うんですよ」
……なんでそんなに断定を避ける言い回しなんだろうか……
「ねーぇ? それよりも、ロードは何か用事があってここに来たんじゃないのかしら? 末姫ちゃんに、あたしにかけた魔法の解説をしに来たわけじゃあないでしょ?」
書き上げた羊皮紙を豊かな胸の間に仕舞い込みながら、アディ姫は改めてポテトさんを見つめた。
床に伸びた格好のままで、ポテトさんは視線だけをアディ姫に向ける。
「ま、イロイロありまして。王弟くんの今の状況をちょっと確認したかったのもあるんですが……お嬢さんと猛攻姫に、レンさんのことでちょっと頼みたいなー、と思いまして」
「「頼み?」」
あたしとアディ姫は顔を見合わせる。
ひっそりと歩み寄ったアディ姫に摘み上げられながら、ポテトさんは少しだけ困った声でこう言った。
「レンさんを見張っていてほしいのです。……『魔法』を使ったりしないように」
※ ※ ※
「魔法?」
ポテトさんの言葉に、あたしは目を丸くした。
「おじ様が使ってるのって、紋章術じゃなかった?」
「紋章術ですよ。普段はね。……ただ、あの子は、ちょっと他の人とは事情が違っていて、本来なら魔女でしか使えない『真なる魔女の魔法』が使えるんです。それが少々、問題でして」
「???」
あたしは首を傾げ──ふと気づいてアディ姫を見上げた。
アディ姫はなにやらお偉い神官様のようなすまし顔で立っている。あたし的には驚きの新事実なのに、新モノに目がないアディ姫が無反応とはどういうことだろう?
「ねーさまは、不思議じゃないのです?」
「ん? ……あぁ……というか、あたしの場合、だいたいのことは先に聞いてるから」
──なんですと!?
「お義父さまひどいのです! おじ様のことなのにあたしは後回しなのですか!?」
「猛攻姫は先にレンさんから聞いてるんです! 私が話すより前に知ってましたよ!」
「ひどいおじ様! あたしには教えてくれなかったのにっ!!」
「お嬢さんはそもそも魔術とか魔法とかと縁が遠い生活をしてたじゃないですか。きっと、関わりのないことだから話すきっかけが無かったんですよ。あまり言いふらしていいような話でもないですし。仕方ないことですよ?」
「おじ様のことだったら何でも知りたいのがあたしなのです! 昨日見た夢の内容だって知りたいのがあたしなのですよ!」
目をキラリと輝かせたあたしに、ポテトさんとアディ姫がそれぞれ呟く。
「……どっぷり妄想暴走系乙女ですねぇ……」
「……まぁ、今侯爵が見てる夢は、末姫ちゃんに『殿方の股間にあるモノってなーに?』って尋ねられてる夢だと思うけど……」
あたしのキラリは三秒で撃沈した。
そう……あの質問は……熱出して寝込むほどイカン質問だったのです……
(でも、何でイカンのか、誰も教えてくれないし……)
「ま、まぁ、その話はともかく!」
何故か突然慌てた声をあげ、アディ姫に摘まれているポテトさんがぷらんぷらん揺れた。
「レンさんの一番身近にいるお嬢さんと、いざというときレンさんの間合いに入って詠唱を阻止できる猛攻姫には、レンさんが魔法を使わないよう警戒しておいてほしいんです!」
ぷらんぷらん。
「魔女の魔法なんてものは、おおよそ人の世の理から外れたものです。まして魔女の呪いがあります。決して使うなとは伝えてあるのですが、あの子はいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも自分を大事にしない子ですから」
ぷらんぷらん。
「何度か死にかけてるのに何かあると突発的に使おうとするんです。人の手にあるまじきものだということは、身に染みてよく分かっているはずなのに……」
なにか多分に苦労がしのばれる愚痴を零してから、ポテトさんはどっぷりと深いため息をついた。
「のべつ幕無しに使おうとするわけじゃない分、禁忌だっていうことはちゃんと理解しているのですが……身近な人の生死に関わってくるとどうにもこう、自制が緩いというか耐性が無いというか……」
……なんか……
……とことん苦労したんだな……ポテト『おとーさん』は……
「『魔術』と『魔女の魔法』の見分け方は簡単なんです。とある呪文を唱えだしたら、それは『魔女の魔法』を使おうとしている、もしくは重ねがけしようとしていることに他なりません。だから、その呪文を耳にしたら即座にあの子を止めてほしいんです。体当たりでもかぶりつきでも顔面飛びつきでもかまいませんから」
……なんか、一部あたし限定で言ってこなかったか? 今。
「……とある呪文って、アレよね? 魔女が呪い回避のために口にするお決まりの文句」
「そうです」
何かを考える顔で呟いたアディ姫に、ポテトさんは小さな頭を頷かせる。
「『真なる魔女』の血をもつ者が、己以外の者のために魔法を使おうとする時には必ず唱えられる呪文。それが、この呪文です」
そこまで言ってから、ポテトさんは一度口を閉ざし、深く息を吸い込んで後、ゆっくりと唱えた。
この思いは我が思い
(……あれ?)
この願いは我が願い
(これって……)
綿々と紡がれし魔女の血の系譜にかけて
我は我が願いのままに其を叶えん
「──ケニードの……怪我を治した時の!」
咄嗟に声をあげたあたしに、ポテトさんは頷く。
「そうです。……万全の状態ならばともかく、未だボロボロの状態だったレンさんでは、あの時の宝飾技師さんの怪我は治せませんでした。だから、紋章の力だけでは復元が不可能な傷を治すため、『魔法』を紋章術に組み込んだのです」
「…………」
「『魔法』だけで奇跡を起こそうとしなかった分、体への負担は少なかったでしょう。それでも……使われた『魔法』は、確実にレンさんの体を蝕みました」
「……だからあの時、おじ様を止めたの?」
あたしの声に、ポテトさんは「ちょっと遅かったですけどね」と苦笑した。
「あの子も、いずれ止められるだろうことは分かっていたはずです。あの子が『魔法』を使えば、私には必ず分かります。あの子が『魔法』を使えるのは……私の血が、あの子の中にあるからですから」
※ ※ ※
あたしはキョトンと首を傾げた。
なにか今、オカシナことを聞いた気がするのだが……気のせいだろうか?
「おじ様とお義父さまは、血が繋がってるの?」
……確か、繋がってないって聞いたと思うのだが……
「血族的なことなのでしたら、否、ですよ」
「………?」
意味が分からず首を傾げると、ポテトさんは少し影の入った声で言った。
「昔、あの子は命にかかわるような大怪我を負いました。……血の大半を失う重症と言えば、その怪我の重さを理解していただけますでしょうか?」
「……ぁ」
……それは、もしかして……
「人から人に血を移す医術は、未だきちんと確立されていません。成功例のある術式を試そうにも、器具を取り寄せている間に命が尽きるだろう状態でした」
……アルルじーちゃんが言っていた……
「今から思えば、ずいぶんと……軽率でした。……後に何が起こるのか考える間もなく、ほとんど反射的に、私は自分の血をあの子を与えていました。……原初の魔女に呪われた、真なる魔女の血を、です」
「…………」
「結果、あの子は命をとりとめました。そして、私の血が入ったがために、私の『魔女』としての力の一部を得て、『魔法』が使えるようになってしまったのです。……魔女の呪いのついた『魔法』を……ね」
(……お義父さま……)
暗い気配を背負って言うポテトさんをあたしは真っ直ぐに見上げていた。
悲しいとか苦しいとか、そう言った言葉では表現しきれない感情がそこにあった。
「……お義父さまは、おじ様が死んじゃうのが、イヤだったんでしょ?」
「……そうですね」
「助けたいって思って、確実に助けられることをしたんだよね?」
「……ええ」
「だったら、『悪いことしたな』みたいなこと、思わないでほしいのです」
アディ姫に摘み上げられた格好のまま、ミニ猫ポテトさんが目を丸くした。口が微妙に半開きになって、ただでさえ力の抜けていた体がいっそうダランとなる。
「今助けられる命を助けたことが、悪いことだとは思いたくないのです。それは、もちろん、エットーレみたいなヤツが相手だったら、見捨テテオイテクレレバーッとかうっかり思っちゃうかもしれないけど! でも……死にそうな人がいて、自分なら助けられるんだって時に、見捨てるのは……間違ってると思うのです。だって、命って、一つしかないのです。失ったらそれっきりなんだから、助けようって思うのが普通なのです」
「…………」
「それは、悪いことじゃないのです。……そりゃ、いつだって、どんなときだって、そうだってわけじゃないかもしれないけど……」
時には、生きることが苦しいことであったりもするけど──
「癒したい、助けたい、救いたいって気持ちは、悪いことじゃないはずなのです」
まして、そこに確かな相手への愛情があったのなら、尚更だろう。
「……お義父さまが思いつめてたら、おじ様だって悲しいと思うのですよ……?」
ポテトさんはダラリとした姿のままこちらを見ていたが、ややあってからヒゲをニュッと向けてきた。
「……そう、思います?」
「うん。だって、あたしもおじ様に対して時々思うもの。助けてもらって嬉しかったのに、危険だから自分と関わっちゃいけないんだ、とか、自分の事情に巻き込んでしまって申し訳ありません、とか、そういうの言われると、少し悲しいの。一番最初に巻き込んだのは、死にかけてたあたしなのに、どうしてそんなに色々と謝られちゃうんだろうって……悲しくなるの」
「…………」
「助けてもらった後のことは、ちゃんと自分で責任もつよう、がんばるの。助けてくれた人に『助けてもらった』事実を押しつけたりしないの。だから……思いつめたりなんか、しないでほしいのよ……?」
未だ幼く未熟なあたしの言葉では、きっと、長い時を生きてきたポテトさん達ほどの重みをもてないだろう。
人はその言葉の内に、今までの体験や思いを織り込んでいく。
九年しか生きていないあたしでは、ポテトさんやレメクのような視界も経験も持ち合わせていない。だから分からないことも、知らなくことも沢山ある。
そんなあたしが、色んなことを知っているポテトに意見するのは、少しおこがましいんじゃないかなと思ったりもする。
けれど……少しでも、気持ちが軽くなってくれればいいと思うのだ。
助けようと手を差し伸べてくれたことを罪だと思いこまないで欲しいのだ。
手を伸ばしてくれたことが、ただ嬉しかった。
生きることができたのが、ただひたすらに嬉しかった。
その気持ちをどうか分かってほしい。責任なんて感じないでほしい。
(生きる責任は、いつか、自分自身でちゃんと背負うから……)
あたしは思いをこめてポテトさんのつぶらな瞳を見つめる。
(だから、ありがとうって気持ちだけ、受け取ってほしいのよ……?)
ジッとこちらを見つめていた青い瞳が、ふと、微睡むように和らいだ。
「……体験者の言葉は重いですね……」
思わず目をパチクリさせたあたしに、猫ポテトさんは小さな体を震わせる。途端、頭の上に影が振ってきて、あたしは慌てて後ろに飛び退いた。
「ひゃっ!?」
同じく驚いて後ろに飛び退いたアディ姫が、目をまん丸にして自分の手と目の前に立つヒトを見比べる。
そう──人型に戻ったポテトさんを。
「……どうやら、時がきたようです」
「ほぇ?」
唐突にそう呟いたポテトさんに、あたしは目をパチパチさせる。
今まで摘んでいた猫が突然人型になったのが衝撃だったのか、アディ姫は自分の手とポテトさんを見比べたままだ。
「お嬢さん。……お礼を申し上げますよ」
凄絶な美貌を柔らかく微笑ませて、ポテトさんは何故かあたしにそう言った。
あたしはもう一度目をパチクリさせた後で「あい?」と答える。
……錯覚かもしれないが、少しだけポテトさんの印象が明るくなっているような気がする。
けれどそれは、あたしが言った言葉の影響だとか、そういうのではないだろう。
同じ『助けられた立場』であっても、レメクとあたしでは、そもそもの立ち位置が違うし、場面も状況もきっとすごく違っていたはずだ。
レメクを見ていればわかる。
あたしみたいに単純に、生きてるってことを喜んだり感謝したりはできない人だった。
あの人が生きてきた時間は、きっとあたしでは想像もつかないような時間なのだろう。ポテトさんが思いつめちゃうぐらい、生きることが苦しかった、っていうのも、もしかしたらあるのかもしれない。
──それでも、これだけは断言できる。
例えその時間が苦しくても、レメクはそれをポテトさんのせいだとは言わないだろう。助けられたせいだとは言わないだろう。
もしかしたら心の隅っこでちょろっと思っちゃうこともあるカモだけど! それでも、全部の責任をポテトさんに押しつけたりはしないだろう。
理由なんて簡単だ。
レメクはポテトさんが好きなのだ。
ベラおじーちゃんやアウグスタと同じように、『大事なヒト』だって気持ちでいるのだ。
それが答えでなくてなんだろう。
だから、きっと今ポテトさんがちょっと明るい目をしているのも、そういう記憶を思い出したからに違いない。
「おじ様は、お義父さまが大好きなのですよ」
にこっと笑って『答え』の後押しをしてあげると、何故かポテトさんが軽く目を瞠った。そしてすぐに苦笑する。
──何故?
「……お嬢さんは、きっと、そうやってあの子を変えていったのでしょうね」
「???」
またニューレメクのお話ですか?
首を傾げたあたしにもう一度苦笑して、ポテトさんは優雅な一礼をした。
……ほんの少し、いつもより長めの一礼を。
「……さて、刻限がきてしまいましたね。……猛攻姫。王弟くんを安全な所に移動させたら、シエルの所に合流してくださいますか? ……準備が揃いましたから」
「え? あぁ……うん」
「では、また後でお会いしましょう」
何かに気を取られていたらしいアディ姫にも綺麗な一礼をして、ポテトさんは一瞬で姿を消した。何の音も気配もない退出に、慣れているとはいえあたしは嘆息をつく。
「……お義父さま、分身さんも神出鬼没なのですな」
「……それを平然と受け止められる末姫ちゃんが、ちょっとスゴイと思っちゃうんだけどね」
あたしよりもイロイロ剛胆そうなアディ姫に言われると、なんだか複雑な気分である。
「だって、お義父さまは魔法使いで神様で悪魔さんなんだもの」
「……それを普通に受け止めて平然としていられるのが、すごいんだけどね~……」
苦笑と微笑を合わせたような笑みを浮かべて、アディ姫はあたしの前にかがみ込み、小さなあたしをひょいと抱き上げた。
「授業が中途半端になっちゃったけど、今日はここまでにしておきましょうか」
「アルルじーちゃんのところに行くのですか?」
「アルル……ぇー……うん。アルルンのことでアルルじ……じゃなく、教皇様や担当神官と話をつめておかなくちゃいけないから」
「…………」
アルルじーちゃんとの会話を思い出して、あたしは俯いた。
「……アルはやっぱり、神官になるの……?」
「ええ。……本人がそう望んだから」
「…………」
「楽な生き方なんて、たぶん、望んでないでしょうね。愚王であった前王やマルグレーテ様ならともかく、王族として迎え入れられてもナスティアの場合は色々大変だけど……アルルンって、ちょっと真面目すぎるから、今、王族として迎え入れられて王宮に入れられたとしても、いい風にはならないと思うのよ。……なにより、今の王宮には……あんまり居たくないでしょうしね」
「…………」
「……アルルンもね、分かってると思うの。全部の恨みをぶつける相手は、陛下でも、ロードでも無いんだってことは。……でもね、目に見えるものを憎むしかない時っていうのも、あるのよ……」
敵を撃つには華奢に見える美しい手が、あたしの頭をゆっくりと撫でてくれる。
その手はひどく優しくて……同時に、少しだけ切なかった。
「もちろん、それは『善いこと』ではないわ。褒められた行為じゃない。……でも、人の気持ちは、スイッチ一つで切り替えられるような仕掛じゃないから、そんなに簡単に『分かった』とか頷けない」
あたしは小さく頷いた。
アディ姫の言葉の全てを理解できたわけじゃない。けれど、少しだけ分かる。
傷ついた時に傷を癒す時間が必要なように、千々に乱れかきたてられた憎悪を落ち着かせるためには、落ち着ける場所と時間が必要なんだってことは。
「……蟠りが全て無くなるなんて日は、もしかしたら来ないかもしれないけれど……未来には希望を持ちたいじゃない? あたしは、アルルンも陛下も、好きだから」
「…………」
「生きていれば、生きているからこそ、何かが変わることもある。過去は決して戻らないし、失ったものは取り戻せないけど……新しいものを別の形で作り上げていくことは出来るって……信じたいわ」
語るアディ姫の視線は、自分の足下ではなく前を向いている。目の前にあるのは殺風景な壁で、そこになにか特別なものがあるわけではない。
けれどその姿勢で、知れるものがあった。
「……ねーさま。あたしもね、信じたいの」
過去を忘れることはできない。
ずっと心の奥深くにそれはある。
「いつか見たように、アルとおじ様と、アディねーさまと……出来たらアウグスタとお義父さまと、アルルじーちゃんと……」
けれど、それに囚われることなく、前を向いていければいいと思う。
「ケニードやバルバロッサ卿や、ヴェルナー閣下や、いろんな人と一緒に、笑って、ご飯食べられるような、そんな未来が来たらいいなって」
願えば何でも叶うような、そんな世界では無いけれど、希望をもって願いを持ち続けることだけは、これからもやめたくはないと思う。
「出来たら、アルトリートの形見とかも……一緒にそこに加えてほしいな、って……」
「……うん」
コツンとあたしの額に頭を当てて、アディ姫は珊瑚色の唇を柔らかく笑ました。
「……末姫ちゃん……いつか……いつか、叶うわ。……きっと……叶うわ……」
「……ねーさま……?」
「……いつか……叶えようね……」
あたしは顔を上げ──すぐに伏せる。
アディ姫の唇は、震えていた。
何が彼女の琴線に触れたのかは分からない。あたしの知らない何かを彼女は知っているのかもしれない。
あたしはアディ姫の頬に頬ずりをして、その一見して華奢な体にギュッと抱きついた。
この国には、沢山の問題がある。
王宮の中ですら、深い闇が横たわっている。
けれどそれをなんとかしようと動いてる人達がいる。傷つきながらも立とうとしている人がいる。支援しようとしている人がいる。
なら、きっと、最悪の事態は変えられるだろう。
変えようと願い動く人がいる限り、あの怖い未来は回避できるだろう。
頬ずりを返してくれたアディ姫に頭を擦りつけながら、ふとあたしは顔を上げた。
あたしとアディ姫と、気絶してるアルルン以外にこの部屋に人はいない。
けれど今、感じた。
あたしの背を──確かに暖かいものが、ゆっくりと押してくれたのを。