番外編 【過去と未来】
王都北区の東端に、その屋敷はあった。
整備された路地と屋敷の境には、歴史を感じさせる大きな焼き煉瓦の壁が聳えている。人の背丈よりも高いその壁の向こうでは、軽く三百年は経ているであろう巨木が風に濃い緑を揺らしていた。
正門には頑丈な鉄格子の扉。その中央には名のある彫金師が作り上げたであろう家紋が優雅に翼を広げている。
王家とも関わりが深いその家の紋章は、鷲。
王都で著名な大貴族、クラウドール家の街屋敷である。
先代から当代に代替わりした時、称号が『公』から『侯』に変わったものの、その財力と政治における影響力は先代に勝るとも劣らない。『英明にして大陸で最も美しい王』と呼ばれる現女王の懐刀としても知られ、同位である『侯爵』はおろか、公爵家の血筋ですらその人の前にあっては一歩退くと言われていた。
貴族社会における優劣は、およそ五つの要素によって決まる。
『血筋』『領地』『財産』『王の寵愛』、そして『職』である。
血筋と領地に関しては他の貴族に及ばないが、他三つにおいてクラウドール侯爵を上回る貴族は少ない。
一部とはいえ港に個人所有の桟橋を持ち、大商会とほぼ同等の貿易権すら有するとあっては、商業および交易に関しても多大な影響力を持つと言えるだろう。
貴族が商会と深い関わりを持つのはそれほど珍しいことではなく、羊毛と彫金で世界的に有名な『エウリディケ商会』や、香辛料で財を成した『アマーリエ商会』などがある。前者は北国の王家直属の商会であり、後者は南大陸の大貴族が有する商会だ。
ナスティア王国においても貴族と関わりのある商会は少なくない。だが、規模が大きいものとなれば十にも満たなかった。その十にも満たない大商会と、商会ですらない個人の貿易が貿易量・純利益ともに匹敵するのだから、商会にとってクラウドール侯爵が嫌な商売敵なのは間違いなかった。
それでも相手への妨害等が無いのは、現クラウドール侯爵の持つ権力が巨大すぎることと、貿易に関し、侯爵側から便宜を図ってもらえることが度々あるからである。
商会にとっては、
「まぁ、貴族にしては話しのわかる御仁である」
というのが一般的な見解であり、もっと突っ込んで言えば、
「反発したところで、勝てるような相手じゃあ無ぇ。おまけに美味い儲け話をくれる相手だ。敵に回すより味方でいるほうがずっと旨味があらぁ」
というところだった。
街の人々の侯爵に対する印象は様々で、
「恐ろしいほど冷淡な方だが、筋は通してくれる」
「身分にかかわらず、きちんと話しをしてくれる」
という意見から、
「面白みのない相手だが、信用できる」
「店で遊んでくれない人だが、巡回してくれると治安が良くなっていい」
という商売を通して見た意見。
または、
「お偉い人だかしらないが、いつも澄ました顔で何を考えているのか分からない」
「無表情すぎて怖い」
という意見まで様々だった。
一方的に忌避する意見も少なくないが、その場合は以前街で暴れていて裁判所送りになった者が多く、全ての意見を合わせてかみ砕くと『貴族のわりに偉ぶらないが、考えの読めない恐ろしい人』という形に落ち着く。
信用はできるが親しみは持てない、というのが一般的な侯爵の印象なのだ。
──もっとも、その印象はとある事情で粉砕されることになったが。
※ ※ ※
「侯爵が……倒れなすったですと!?」
王都港区の一角、大きな肉の塊を裁いていた男は、店に走り込んできた顔見知りに目をまん丸にして叫んだ。
「しーっ! 大声で言うなって! 親父さん。まだ噂の段階なんだからよッ!!」
店主より五・六歳ほど若いその男は、慌てたように身振り手振りで店主を落ち着かせ、口の前に人差し指を立てて「静かに!」を示した。
神殿の門兵をしているその男は、勤務時間が終わるや否やここに飛んで着たらしい。急ぎすぎて段違いになっている上着のボタンが、見ている側に居心地悪かった。
「いやもう、突然奥の方の神殿からバルバロッサ卿の声が聞こえて、すわ何事かと思ったら、しばらくしてアロック卿──ほら、宝飾店もやってる、いかにも貴婦人にウケそうな優男の──あの人の馬車がえらい勢いで飛び出して来てな、突然すぎて通行証の確認に手間取ってた時に、チラッと見えたわけだ! 倒れてる侯爵と、涙ながらに侯爵を呼んでいる小さなメリディス族の女の子が!」
(ベルと侯爵が!!)
店主は咄嗟に叫びかけ、慌てて口を押さえてそれを堪えた。
「そ、そ……それで、なんで、また、侯爵が!?」
「そんなの知るわけねぇだろ!? 確認終わったら、それこそ矢のようにすっ飛んで行っちまったんだからよ! 教会から真っ直ぐ東に行って……中央で右に曲がらなかったから、おそらく屋敷の方に直接行ったんだろうな」
もし王宮に行くのであれば、必ず中央で右に曲がる。それが一番の近道だからだ。
「乗ってたのは、アロック卿と侯爵と、そのメリディスの子だけだ。てゆか、俺ぁ前のときもチラッと見たけど、本当に生きたメリディス族の子が動いてるんだな! ありゃあ、ちょっと感動ものだったぜ」
長く王都にいても、件の『メリディス族』に会うことはほとんど無い。
その美貌と稀有な髪の色で一族名が分かるメリディスは、不心得者が多いせいで辺境の森から出てこれない状態なのだ。ここ最近、五歳にも満たないような小さな幼女があちこちで目撃されているが、その幼女が現れるまでは『生まれてから一度もメリディス族を見たことがない』という者がほとんどだった。
動く生きたメリディス族、などというおかしな言い方も、書物の中や噂話でしか存在を知らなかった者であれば仕方がない。珍しい、という次元を超えて、長らく絵の中にしか存在しない『幻の一族』だったのである。
「フェリシエーヌ王女殿下と一緒においでになった時は、直視したらその瞬間に消えちまうんじゃねぇかと、ヒヤヒヤしたもんだよ!」
「……隊長……悪戯妖精じゃないんですから、ベ……お嬢さんは、消えたりせんと思いますがねぇ」
「店主! いかん。そこは『ベル王女殿下』とお呼びしなくてはならん。唐突な話ではあるが、その子は女王陛下が養女に迎えられた方だ!」
はぁ、と珍妙な顔で頷いて、店主は恐る恐る百人隊長である顔見知りの男に問うた。
「……本当に……王女殿下になっちまっ……ご、ごほんっ……なられたん、ですか、ねぇ?」
「なっちまったんだ!」
せっかく頑張って言い直したのに、隊長はあっさりとそう言って頷いた。
「まぁ、陛下の『突然養女宣言』は前からあったからなぁ、それほど大きな話にはならなかったんだが……なんてったって相手が『メリディス族』だろ? 先王の第二妃以来じゃねぇか! おまけに、クラウドール侯爵の婚約者!」
「「「「「「『婚約者』!?」」」」」」
その瞬間に上がった周囲一体からの見事な大合唱に、話に夢中になっていた二人は飛び上がった。
いつのまにか店の周囲に人垣ができている。
「うわーっ! ちょっと待った広めるな! 広めるなよまだ!!」
「広めるなったって無理だあきらかに無理だ絶対に無理だあの侯爵に婚約者だぞ!?」
「しかも、メリディス族の子!?」
「あのクラウドール侯爵が!」
にわかに騒がしくなった人垣の向こうにも、騒ぎを聞きつけた街の人々が半ば駆け足でこちらに向かってきている。大事になったと隊長は青い顔だが、そもそも『王女』と『婚約』の話は確定された事実のため、すぐに胸を張って足の震えを止めた。
「隊長! その話は本当なのかい!?」
「本当だ! すでに街の掲示板にも張り紙がされたはずだ!」
「字が読めんからそんなもんは知らん!」
きっぱり言われて、しまったそうだった、と隊長は苦い顔になった。張り紙をした直後は告知のための人員が配置されるが、その時口上を聞かなかった者は張り紙で情報を知るしかない。しかし文字が読めなければ、張り紙はただの紙切れだ。
その肩を興奮した街の女性にむんずと掴まれる。
「ねぇ! メリディスの子って、一月前ぐらいから侯爵の周りをちょろちょろしてた子のことでしょ!?」
「ああ! あのちっこい子!」
という声は、人垣の向こうから。
「買い物中に走り回らないよう、胴体に縄かけられてたあのちっこい子だな!?」
「時々走り出して縄ピーンッてなって空中浮いてた子だよな!?」
「……そんな覚えられ方なのか……あの子……」
肩をガクガク揺らされながら、隊長は唖然とした顔でぼやいた。
メリディス族といえば神秘的な一族のはずなのに。何故だ。どうしてそうなった。
「馬鹿! それなら巡回中の侯爵の後頭部に問答無用で飛びついた件のほうがよっぽどインパクトあるだろうが!」
「なに言ってるの! 御菓子くれた侯爵の手ごとバックリ食べた時のほうがビックリしたわよ!」
「アホか! それなら巡回してる侯爵の後ろを延々ちょこちょこくっついて回って最後には追いかけっこになってた時のほうがよっぽど面白みがあったわい!」
「ああ! 最後の最後に足に飛びつかれて侯爵が顔から倒れたやつか!」
「ひでぇ!!」
続々と出てくる神秘の一族ぶち壊しのガッカリ感より、被害にあった侯爵の哀れ様のほうに意識がいってしまう。驚くやら笑いを堪えるやら、感情の落とし所を迷って隊長は奇妙な歪み顔で腹を押さえた。痛い痛い。
「最近、あの二人の動向を見るのが楽しみでねぇ……」
「最初は恐ろしくて戦いたけど、慣れてくると可笑しくて可笑しくて……」
「侯爵がこれまた大真面目に相手してるもんだから、余計に可笑しいんだよな、アレ」
「見事な振り回されっぷりだったなぁ……時々ぐったりしてたら、縄で繋がってるもんだから相手に引っ張られて椅子から落ちかけたり」
「あのちっこい子がこれまたビックリするぐらい力強いらしくてねー。侯爵と全力で綱引きしてたのよね」
「綱、ブッ千切れたよなぁ」
「その瞬間、あの子が逃げて侯爵が追い回してたよな」
「名前呼んだら飛んで戻ってくるだろーになぁ」
人々は屈託なく笑い転げている。隊長も想像したその光景に腹筋が痛くなるほど笑いを堪えてから、涙目で馴染みの店主を見上げた。
「お、王都じゃ、いつのまに、そんな寸劇が行われるようになったんだ?」
店主は笑いを噛み殺しながら、出来る限りしかめ面を作って答えた。
「一月半ぐらい前ですかねぇ。孤児院の騒動の後ぐらいですよ。ほら、前にも言ったでしょう? うちにも侯爵と一緒に来たことがあるって」
「あン時は話半分に聞いてたんだが……いや、それよりも、その……侯爵がえらく笑いのネタになってるというか」
あの侯爵が、という含みの入った言葉に、店主はいっそうしかめ面を意識して作る。
「ええ。まぁ、うちは店があるんで街中の珍プレイ、いや、エー……騒動、は、直接見る機会が少ないんですがねぇ」
「かわりに客が話題を持ってくるんだよなー、おやっさん」
「そうそう」
その話題を持ってくる客の一人につっこまれて、店主は噛み殺し損なった笑いを含みながら言った。
「客が持ってくる話題が、日毎に増えましてねぇ。なんなら、日付順に語ってさしあげましょうか? 私の方は肉を捌きながらになりますが、まぁ、そちらはうちの料理を摘みながら聞かれるといいでしょう。お酒のほうはこの時間ですから、ま、ほどほどで」
興味を惹かれた隊長は、ニヤニヤ笑いながら頷いた。
「それで値段は、ま、そこそこってとこなんだろう? 店主」
店主はニコニコと人好きする笑顔で答える。
「料理の値段は正価ですよ、隊長。講演料は、酒一杯ってとこですかね」
※ ※ ※
「──という話を街でしておりましたので、ご報告がてらお土産でございます」
そう言って手渡された肉の塊に、受け取ったケニードは奇妙な顔で苦笑した。
王都、クラウドール邸、玄関ホール。
倒れて動けない屋敷の主に代わり、来客と思しき来訪者を迎えたものの、それが自分の従僕だったものだからケニードとしては苦笑するしかない。クラウドール邸に行くという連絡を入れていないのだから、おそらくここに来たのも街の噂を集めた結果というところだろう。
「……爺や……なんで密偵みたいなことをしているのかな?」
「若君が王宮にお行きになって以降、なかなか家に帰ってこられませんから胃が痛くなるほど心配していたわけではありません。ええ、断じて」
大きくはないが強い声で言う老執事に、大祭の翌日から数日間、一度も家に帰っていないケニードは顔を引きつらせた。
「い、いや、ほら、大祭中はさ、一応、王宮に部屋とか用意してもらえるし」
「せめて一言、ご連絡なりいただけましたら、大変ありがたく思ったものですが」
「あー……その、いろいろあったから、ね?」
「その『いろいろ』について、出来ましたら詳しく詳しく教えていただきたいのですが、若君にはそのお時間もございませんでしょうか?」
しどろもどろな主に、しかしリットは追及の手を緩めない。
怪我をしたという噂まであったのに一言も無かったのだ。屋敷の皆がどれほど心配したか。暢気な主にはしっかりと覚えていてもらわなくてはならない。
静かに怒っている老執事に、引け目のあるケニードはひょろ長い体を精一杯小さくして言葉を探した。
「えー、いやー……ほら……その、うー、看病とかいろいろあるし……」
「……では、侯爵がお倒れになったというのは、真でございましたか」
ふいに顔を曇らせ、アロック家執事のリットは深い嘆息をついた。主の恩人でもある侯爵のことであれば、一時、追求の手を止めるのも致し方ない。
「市井に出回る噂は尾ひれがつくのが常でございますから、此度の噂も体調不良になられたのを大げさに触れ回られているのかとも疑いましたが……若君が『看病』と言わねばならないほど、侯爵はお加減が悪うございますか」
「う……うん。主に、精神面なところで」
原因に心当たりがあるらしいケニードは、遠い眼差しでそう答える。
精神面、と呟いた後、老執事はしたり顔で何度も頷いた。
「それは確かに心労もございましょう。晴れて女王陛下のお墨付きをいただいたとはいえ、相手は稚い幼子。おまけに何やら王宮を揺るがす陰謀もあったとのこと。出仕しておられる方々とは違い、私共は伝え聞く言葉で状況を判断するしか術がございませんでしたが、多くの方々が傷つき、なかには亡くなった方もおられたとか。王家縁の方が関わっておいでとあっては、侯爵ほどの方でなくては対応にあたれなかったことでしょう。とある公爵のお屋敷が、侯爵の手によって半壊に追い込まれたというお話も聞いております。よほどのことがあったのでございましょうな」
「……う、うん」
なにやら「ん?」となる言葉が前の方にあったような気がするが、スルスルと流れるように言葉を紡がれてケニードは首を傾げつつ頷いた。
「沢山、いろんなことがあったんだ」
「騒動には、若君も関わられておいでだったとか」
「関わって、というか……」
「怪我はその騒動の最中に負われた、という噂も耳に挟みましたが」
言葉と同時に左手を見つめられて、ケニードは全身にヒヤリとしたものを感じた。
バレている。どこまで詳しい話しが噂となって広がったのかは知らないが、バレている。
「……その、だいぶ治してもらったんだよ? これでも。日常生活には支障ないぐらいにしてもらったし」
「技師としてはいかがですかな」
追求され、ケニードは言葉につまった。
幼い頃からずっと自分を見守ってくれていた『爺や』には、こちらのことはほとんどお見通しなのだろう。ジッと見つめてくる瞳は痛いほど強く、ケニードは用意しておいた誤魔化しを放棄した。
「……技師としては、長い訓練が必要だろうね。細かい動作が出来ない。……時々強ばるんだ」
「…………」
「……誰のせいでもないんだ。僕が『こうしなくちゃ』って思ったことをした結果が、これだった、っていうだけだから」
「…………」
「宝飾で新しい依頼は断らないといけないね。けど、あまり大げさに触れ回らないで欲しいんだ。機能回復訓練は長くかかりそうだ、っていうのは言っておいてほしいけど」
「…………かしこまりました」
長い沈黙を挟んでから、リットは深々と一礼する。
沢山の言葉を飲み込んだであろうその人に、ケニードは困ったような顔で微笑った。
「……爺やには、いつも迷惑かけるね」
「迷惑ではございません。……ですが、一言だけ言わせていただければ、もう少し早めに情報をお渡しくださいますように、と。そうお願いしたいところでございます」
「……うん。ちょっと抜かってた。ダメだね、僕は」
くしゃりと笑う主に同じ笑みを返して、リットは「仕方ございません」と嘯く。
「それも若君の若君らしいところでございますからな」
「……それ、褒めてないよね?」
「さて。どうでございましょうか」
大変人の良い笑みを浮かべてみせる教育係に、ケニードは口を尖らせつつも笑う。
この爺やがいる限り、アロック家は大丈夫だと思った。実の父よりも身近な老執事は、ケニードにとっては祖父にも等しい。
「とりあえず、店の方は先程仰っていたような形で進めていくとして……屋敷内の説明はいかがいたしましょうか」
改めてそう言われて、ケニードは一瞬ギクリと身を強ばらせた。
「……う、うん。店と同じように……その、怪我してるっていうぐらいは伝えておいたほうがいいよね?」
「若君がよいと思われる言葉でお伝えするのがよろしいかと」
誰に、と言わずに口にするあたり、この爺やもなかなか性格が良い。
「うん。まぁ、でも、外出先で怪我をするのは、珍しい事じゃないし」
「若いメイドの中には、休憩時間中に街中を奔走して情報をかき集めてきた猛者もおりましたが」
「どうして外出禁止にしてくれなかったんだよ!」
途端に顔色を変えた主に、リットはしれっとした顔で言う。
「勤務時間外をどのように過ごそうと、それは個人の自由である、というのが我が家の方針であったはずですが」
「けど! 彼女はまだ小さいんだし! 教育時間だってあるんだから、どんな風にでも理由はつけれるはずだろ!?」
「その場合、手下の子供達が彼女のかわりに奔走して噂を集めてくることでしょう。なかなか見事な指揮系統ぶりに、私は密かに感心いたしました」
「ナナリーは西区のボスの一人だったんだよ!? 当たり前じゃないか! 細かい話は伝わってないだろうけど、大怪我したっていう噂だけは広まりが早かったから……あー! 帰ったら絶対怒られる……!!」
大真面目に頭を抱える主に、リットはしみじみとした口調で呟く。
「……よくナナリー嬢だとお分かりになりましたな」
一瞬の空白を置いて、ビクッとケニードの体が硬直した。
リットはさらにしみじみと呟く。
「嬢やの並々ならぬ熱意に負けて行動時間の拡張を許可しましたが、実に見事な連携で街中の噂を集めてきまして。身分ある方を庇って大怪我をされた、とのこと。左側の腕を痛められた、とのこと。現場を見た者は命も危ないのではないかと話していた、とのこと。けれど舞踏会に出席された若君は大きな怪我を負ったような感じではなかった、とのこと。怪我を負ったとき、侯爵が若君を手当していたらしい、ということ。その後立て続けに起きた騒動も、細かな事情は分かりませんが、若君が怪我を負った事件と繋がりがあるのではないか、とのこと。……王宮に出入りしている下働きや騎士達が零したであろう情報は、誇張のあるものから推測まで様々ではございましたが、重なった情報を吟味すればおのずと形は見えて参ります。……子供とはいえ、なかなか侮れないものでございますな」
「…………」
ふいに真剣な目になってこちらを伺っている相手に、老執事は好々爺の顔で笑って言った。
「誰が、何を企んで、何を行ったか、というのは、残念ながら市井には伝わってきておりません。憶測の域を出ない噂であれば、レンフォード公爵が何かをしたらしい、といものぐらいですかな。公爵の街屋敷が『断罪官』殿の手で半壊しておりますので、そういった噂が流れたのでございます。何人もの悪人が処刑された、という話も伝わっておりますが、それもまた関連があるのかどうか、というのは伝わってきておりません。時期が時期ですので関連あるのではないか、とする者も多くいますが、確かめる術がございませんからな」
「…………」
「同時に、先王の第二王子である方が、王宮においでになった、ということも伝え聞きました。長くレンフォード家で隠されていた、ということですので、公爵への処分はそのためではないか、という噂もございます。……どちらにせよ、全て噂の域を出ないことでございますが」
ケニードは無言のまま、ただリットを見続ける。
そうして、少しだけ肩の力を抜くように息を吐いた。
「……『噂』なんだね? 全部」
「はい」
「……なら、噂のまま、おいておいたほうがいい。人の口を通せば、必ず事実はねじ曲がる。……そして、本当には何が起こったのか、は、知らない方がいいんだ」
「…………」
沈黙した老執事に、ケニードは穏やかに笑って言った。
「僕の怪我は、事故だよ。王宮で騒ぎはあったけど、一部を除いて決着はついている。……リット。一つだけ僕が言えるのは、王宮の闇には近寄らないほうがいい、ということだ」
「……闇でございますか」
「うん。人の心の中にある闇だよ」
その言葉に何を察したのか、リットは深く頷いて頭を垂れた。
「では、若君のお怪我は事故ということで、皆には話しておきます」
「うん。心配かけてごめんね、って言っておいて」
「……それだけでよろしゅうございますか?」
キラリと光る目で見つめられて、ケニードは妙に焦る気持ちを自覚しながらしどろもどろに呟いた。
「いや、その……で、できるだけ早く戻るから、って。あとはその……ちゃんと僕から言うようにするから」
「かしこまりました」
得たり、とばかりに深く頷く執事に、ケニードは恨めしげな眼差しを送った。
リットはすまし顔で言う。
「若君はまだしばらくご帰宅ができないということですので、後で着替えをお持ち致します。──ところで、先程から気になっていたのですが、若君、その頭の上の小さな生き物はいかがいたしましたか」
なにやら前半に嫌な予感を覚える言葉を聞いていたケニードは、その指摘に自分の頭の上にそっと手を当て、柔らかく暖かい小さな手触りに笑って言った。
「うん。……お守りみたいなものかな?」
※ ※ ※
「……『お守り』と言われたのは、生まれて初めてかもしれません……」
眩い光の中、打ち上げられた鮪のように転がっていた男の言葉に、腹の上に腰掛けていた女王は大きく瞬きした。
「なんだ、唐突に。……どこかに向かわせた分身がお守り扱いされたのか?」
「はぁ……宝飾技師さんに」
「ははぁ……あやつなら言いそうだな」
破顔して頷いた相手に、下敷きにされているポテトは薄目を開ける。
丁寧に爪の手入れをしている美しい女性を見上げて、遠い眼差しで問うた。
「……ところでご主人様」
「なんだ?」
「なんで私の上に乗っかってるんです?」
「おまえ、人の体重など感じないだろう?」
答えになってない返答を返して、女王は手入れの終わった片手を光に翳した。綺麗に磨かれた指先は美しかったが、女神の如き美貌の女性は、心楽しまぬように暗い顔をしていた。
「これが他の連中なら、私はそもそもここにはおらん。レメクはともかく、他の連中はおまえ達みたいに阿呆ではないからな。具合が悪い時はちゃんと大人しくしている」
「…………」
「具合が悪くても知らん顔で動くのはおまえとレメクぐらいなもんだ。特におまえはすぐにふらふらと出歩くからな。……珍しく弱っているんだから、少しはここで養生しておけ」
「……弱ってる相手の腹の上に座るんですか、ご主人様」
「おまえ、人の体重など感じないだろう?」
先と全く同じ声で同じ言葉を紡がれ、ポテトはぐったりとため息をついた。……体重は感じないが、柔らかさは十分に感じるというのを少しは意識してほしい。
「それよりも、ポテト。レメクの様子はどうだ?」
「レンさんですか……」
その柔らかさをできる限り意識の外に追いやり、周囲に満ちている光の魔力を吸収しながら、ポテトはなんとも言えない表情で答えた。
「今は私の分身がくっついてますから、単に眠ってるだけみたいになってます。……ただ、時々うなされてますね……。お嬢さんの気配を感じると特に」
「……ベルが傷つきそうだな……」
「さすがに自分の問いが原因だって分かってますからねぇ。どうしてだろう、っていう疑問と、どうしよう、っていう焦燥でしょんぼりしてますよ。今はまだアロック卿がフォローしてくれてますから、なんとかどん底まで落ちこんでない感じですが」
「あやつには本当に迷惑をかけるな……」
「……本人、大変男前なイイ笑顔で、お嬢さんごとレンさんを運んで行きましたけどね……」
倒れたレメクを胸に張りついたベルごと抱えて持っていったケニードを思い出し、美しき女王は「ふーむ」と考える顔になった。
「あやつも、いつのまにか強者になっていたな……」
「……宝飾技師さんが、ですか」
「ああ」
頷いて、相手は爪の手入れを再開した。
「昔、レメクがあやつを助けたことがあっただろう。おまえが失踪する二・三年前ぐらいに。あの騒動の後、騎士団にこれでもかと鍛えられたらしいのだが……」
中盤の耳に痛い言葉はあえて流して、ポテトは苦笑含みに後半に答えた。
「今もずっと鍛錬を続けてきたのでしょうね。もともと素質は悪くありませんし、頑張れば頑張っただけ力になったことでしょう」
「ほぅ……おまえが『素質あり』と認めるのなら、かなりのものだな?」
揶揄を含んで言う主に、今度はハッキリと苦笑した。
「レンさんや勇猛な赤毛姫、頑強な大神官殿や、妖艶な王妃殿に比べればかなり落ちますけどね」
「……比べる対象が悪いだろうが。連中は化け物クラスだぞ」
呆れ顔で言われて、ポテトは少しばかり遠い眼差しになる。
腹の上に乗っかられているので口に出せないが、女王もしっかりと同じクラスだ。
(……でも口に出すと怒るんですよねぇ……)
「……何かいらんことを思ったな?」
(……口に出さなくても怒るんですけどねぇ……)
むぎゅっと指で薄い腹の皮を摘まれるが、痛いというよりくすぐったい。
「しかし、あれもルドゥイン同様、年々頼もしくなるな。いずれ政治の中枢に関わってもらいたいものだが」
ただの独白というには、少しばかり声に力が入っていた。
降り注ぐ陽光を浴びて、黄金色の髪がきらきらと輝いている。
ポテトはその様子にわずかに目を細めた後、あえて返答はせず別の話題を口にした。
「レンさんの方はもうしばらく養生が必要のようです。ショックで高熱を出してますから、落ち着くまで少しかかるでしょう」
言われて、女王は素直に心配を顔に出した。
「大丈夫なのか、奴は……男が長く高熱を出すと、深刻な事態になるんだが……」
「私の分身を一匹、額に貼りつけてますから大丈夫ですよ。……レンさんもあそこまで真剣に悩まなくてもいいと思うんですが……良くも悪くもお嬢さんに対して真剣ですからねぇ……」
「男親が女児の親として直面する難問の一つだしな……」
「……親じゃないのに親心が育ってるとか言われてましたしね……」
二人でしみじみと嘆息し、力の抜けた笑みを浮かべた。
「……しかし、まさか倒れるとはなぁ……」
「実に見事に倒れましたよねぇ……バッタリと」
空気が抜けるような笑みは、次第に小刻みな震えを伴うクツクツ笑いになった。
ポテトは笑いながらこっそり苦悶する。
アウグスタの尻が乗っている下腹部が、絶妙にくすぐったい。
「さすがに教皇も仰天していたな。慌てるとか、絶句するとか、そういう反応を期待しての悪戯だったのだろうが──まさかの『昏倒』だからな!」
「あぁ……! シエルのあの愕然とした顔が忘れられません! ……と言いましても、あの時、全員同じ顔になってましたけど」
「ならいでか!」
変な強調を力一杯叫んで、アウグスタは笑いながらこめかみに青筋を立てるという、一風変わった抗議の仕方を披露した。
「いきなり後頭部からゴンッ! だぞ!? なんだあの人形みたいな倒れ方は! あいつはそこらに飾られてる甲冑の置物か!? 倒れるにしてももうちょっとこう、風情とかいろいろあるだろう!? 倒れ方の!」
言われたポテトは胡乱な目。
「……倒れるのに風情とかいるんですか……?」
「おまえとて劇中で女優が倒れる時に『バターンッゴンッ』だったら、もうちょっとこう……色っぽくたおやかに倒れろよ! とか思うだろう!?」
「……劇と一緒にされても困ると言う以前に男の昏倒にそんなものを求められても激しく困ります」
とりあえず男の代表もどきとして抗議し返した後、ポテトは寝転がった姿のままで器用に肩をすくめた。
「まぁ、レンさんにとってお嬢さんの『教育』は人生最大の難題ですからね。バターンッゴンッでも仕方ありません。……ちなみにご主人様。あの瞬間のレンさんの思考、読み取れちゃいましたか?」
「……私はあれほど人間の限界を超えた思考速度の混乱を感じたことは未だかつて無い」
非常に沈鬱な表情で笑いを堪えながら言う主に、ですよねぇ、と同じく読み取ってしまった人外魔境はしみじみとイイ笑顔。
「いやぁ、私の長いジンセイにおいても、あれほど愉快な超混乱は初めてですよ」
「惜しむらくは細かい言葉とかがあまりに早すぎて読み取れなかったことだ! あぁアレはベルがちゃんと大人になった後なら、一生からかえるネタになるものを……!!」
「……レンさんには大変な難問でしょうに……」
「自分事でなければ面白いネタだ。どうせあやつはベルのことでしか悩まんのだから、心の底から悩めばいい」
あっさりと言う女王に苦笑して、ポテトは倒れてしまった名付け子のために一つ提案をしてみた。
「いっそご主人様が大人の女としてお嬢さんに教えてあげればいいんじゃありませんか? そうしたら、レンさんは難問から解放されますよ」
「……おまえな……一度、そのテの話をするためにベルの真正面に立ってあのつぶらな瞳を見つめてみろ。ものすごーくいたたまれない気持ちになるから」
「何故ですか?」
「知らん。何故か、だ」
どうやら経験済みらしい。
言われて自分ならばどうだろうかと想像し、ポテトは微妙な顔になる。
何故だろう。主とは別の意味で教えるのをやめそうな気がする。
(……九つになるまで誰にもちゃんと教えてもらっていないというのが、ある意味驚愕ですがね)
貴族の子女ならごく当たり前に幼少時に教えられる知識であり、街ではたいてい母親や年配の女性達から教えられる常識なのだが、どういうわけかベルには伝わっていなかった。
倫理や道徳が浸透しにくい下街で生まれ暮らしながら、どうしてあんなにジュンシンムクなのだろうかと不思議に思う。
……いささかならず一般的な『純真無垢』とはかけ離れたジュンシンムクだが。
「……まぁ、あの謎思考と謎知識に関しては、孤児院時代に孤児達の面倒をみてくれてたという『宿のおねーさん』方のせいですけどねぇ。面白半分に中途半端な知識与えて楽しんでたみたいですから、変な思いこみといらない知識だけが備わって、肝心なところがゴッソリ抜けてます」
「……レメクが知ったら激怒のあまり下街に乗り込みそうな話だな……」
「もっふもふの羊がギランギランの雌狼の群に突進するようなもんですよ、ソレ」
冷静に突っ込まれて、アウグスタは変な顔でポテトを見下ろした。
「……なんだその、もっふもふの羊、というのは」
「え。だって秋波送られても朴念仁すぎて本体に全く伝わってなさそうな感じが、いかにもそれっぽいでしょう?」
ますます変な顔になったのは、おそらく笑いを堪えたためだろう。いっそ普通に笑ってくれればいいものを、と、また小刻みに震える相手の振動に苦悶しながらポテトは色々なものを我慢した。
とりあえず、笑いを堪えるのをやめるか腹の上からどくかしてほしいが、言ったところで絶対無理だ。むしろいっそうブルブル震えられるに決まっている。
「けれど、ご主人様が『いたたまれない』と思うのでしたら、レンさんはもっといたたまれない気持ちではありませんかね?」
「昔の奴なら表情一つ変えずにサラッと言っただろうがな。……しかし、もう何度思ったかわからんが……よくぞここまで変わってくれたものだな。あの二人、出会ってからたった二ヶ月かそこらだぞ? 影響があるにも程があるだろう」
「仕方ありませんよ。お嬢さんがちょっと尋常じゃありませんから。なんといっても『メリディス族』であの性格ですからね。レンさんには衝撃が強すぎですって。たぶん最初の一撃で一番硬いココロが木っ端微塵にされたんじゃないですかね」
ポテトの言葉に、女王は「まったくな」と苦笑した。
レメクの中にあったそのココロを何と言い表していいのか、女王もポテトも分からない。
凝り固まった思いこみと言えばいいのか、凝った過去の亡霊と言えばいいのか、それとも、凍りついた記憶の産物とでも言うべきなのか。
──だが、考えてももう意味はない。すでにソレは無いのだから。
「ん~……まぁ、確かに衝撃だろうな。今は私達のほうが日々衝撃を受けている気がするが」
「……ベラにも見せてあげたかったですねぇ……」
何気ない口調でそう零したポテトに、女王は自分が下敷きにしている男を改めて見下ろした。
優しい笑みだと、その顔を見た者はそう判断するだろう。
けれど女王は悲しげに眉を下げた。そうして、相手の頭に手を伸ばす。
「…………。なんで頭撫でるんです?」
ワシワシと髪をかき乱す勢いで撫でると、しばらくしてから胡乱な声をあげられた。
女王はフンと鼻を鳴らす。
「……大馬鹿助が」
綺麗すぎてぐしゃぐしゃにならない髪をひとしきりこねくりまわしてやってから、女王は視線を自分の正面へと向け直した。
自然、横顔を見上げる形になったポテトは、その眉が微妙に下がっているのに眉を顰める。
「ご主人様?」
女王はしばらく無言でいたあと、ぽつりと呟くような声で言った。
「おまえは、もう少し、泣きたいときに泣けるようになったほうがいいぞ」
「…………」
「まだ『自分の感情』とやらが把握できずにいるのかもしれないがな。悲しいとか、寂しいとか、嬉しいとか、そういうのはちょっと分かってきたんじゃないのか? 例えおまえの特性が『鏡』であっても、その中核にあるのはおまえ自身の心だ。……少しは認めてやれ。おまえの中にちゃんとある、おまえ自身の感情を」
ポテトは答えない。
ただ、手を伸ばして、頭の上に乗せられたままの手に触れた。
その細い手に少しだけ目を細め、柔らかく握ってみる。
自分よりも小さなその手は、ひどく温かく感じられた。
「レメクも変わったが、もうヒトリの本家『レメク』もずいぶんと変わったと思うぞ。今のおまえは、私が最初に見たあの時のおまえとは別の生き物のようだ。……なぁ、ポテト。おまえが昔言っていた願いの一つは、まだ叶っていないのか?」
言われた言葉に、ポテトはふと過ぎ去りし日々を思い出して目を細めた。
主である彼女だけが知る、他の誰も知らない『自分』の話。
預けられた小さな生まれたての命を抱きしめた時に、ふいに口にしてしまった昔からもつ『願い』の一つ。
「あの頑固ジジイも言っていたぞ。最近のおまえは特に、昔のおまえとは別モノのようだ、と。……なぁ、ポテト」
頭の上にある手は、体勢が体勢なので少しばかり握りにくい。
けれど、その手を離したくなかった。
唯一絶対の主は、こちらを見つめたまま慈母のような優しい笑みで言う。
とある日に、自分が愛する名づけ子に告げたのと同じ声で。
「……私には、おまえはちゃんと、『人間らしく』なってきたと思うのだがな?」
※ ※ ※
「……まさか倒れるとはな……」
豪奢な部屋の中、嵐のような一連の騒動が収まって後で、教皇はそう独り言ちた。
レゼウス神殿における教皇の私室の一つ、『月光の間』へと続く前室には、今は教皇その人と腹心の部下だけが残っていた。
先程まで居た人々は、とうの昔にそれぞれが行くべき場所に引きあげている。
倒れた人物と入れ替わるように入室した大男は、苦笑混じりの嘆息をついた。
「『別れ』を終えられた王弟殿下をお連れしたら、ちょうどレメクが運び出される所でしたな」
その時の情景でも思い浮かべているのか、呟く彼はなにやら遠い目だ。
最後の離別に立ち会っていたルドゥインは、レメクが倒れた瞬間を見ていない。おかげで部屋から運び出される某人を見た瞬間に、腹の底から驚愕の声をあげてしまった。後で聞いた話、声は隣の神殿まで響いたという。
「……おまえの馬鹿でかい声にもたいがい慣れたと思っていたが、あれは別格にでかかったな……」
教皇の指摘に、ルドゥインは赤面して頭を下げた。
「申し訳ありませんっ。しかし、私としてはあのレメクが突然意識不明で運び出されるなど……その……非常に驚いたものですから」
「儂の心臓も非常に驚いた。あやうくこの老人を殺す気か貴様らはと怒鳴りそうになったほどだ」
ふー、とため息をついて、教皇はなにやらしみじみとした口調になる。
「……末の王弟も驚いておったな……」
「思わず駆け寄っておりましたな。……ある意味、良い傾向かと」
「ふむ……」
教皇は小さく呟き、暗い目でため息をついた。
親友を喪ったことで、王弟の心に蟠りが出来ていることを周囲の人々は察していた。
どのような理由があれ、彼等はアルトリートを『殺す』判断をし、実行したのだ。その事実は消せるものではない。
王弟にとっては、アルトリートに罪を犯すよう唆した者同様、彼等もまた『仇』と呼ぶべき相手だ。
「……掟や法で心を殺せるはずがない。分かれ、と言われて分かれるようなことでもない。人を『裁く』のは人であってはならぬ故、神の名を負って裁判官は人を裁く。だが、人を『処刑』するのは為政者だ」
「人である王が神の領域に足を踏み入れる瞬間、ですか」
「そうだ。だが、王がそれを指示した時、教会は異を唱えるか否かを選択することができる。王が神の領域に足を踏み入れることを許可するか否か、だ。……そして教会は王を支持した。家族を奪われた者にとっては、どちらも憎むべき敵であろう」
「……反逆者になる可能性はありますか?」
「なくもない」
呟くように答えて、教皇は瞳を閉じた。
「なればこそ、そうなって欲しくはないと願い、何人もが様々な手を打っておる。……あの悪魔ですら、禁忌の魔法を使った。だが、どの道を行くのかは、かの者自身が決めることだ」
「アデライーデ姫がついている以上、下手なことにはならんと思いたいですが……」
「……儂は逆に、あの姫がついておるということで、王弟は大丈夫なのかと別の意味で心配だ」
皺を深くする教皇に、ルドゥインは件の二人を思い出して苦笑する。
「あー……ですがまぁ、王弟殿下もまんざらでもなさそうというか……むしろあれぐらい引っ張り回してくれる相手でないと、あの王弟殿下には向かないんじゃありませんかね」
「……なんでそういう所が似ておるんだ、あの馬鹿助どもは……」
誰と誰を指しているのかを察して、ルドゥインは乾いた笑いを零した。
(──確かに、あの二人、振り回されっぷりが似てるんだよなぁ……)
双方、とんでもない相手と巡り会ってしまった、というべきか。もしくは──
「善きにつけ悪しきにつけ、男を変えるのは女であると言いますから、あれぐらいの方々で丁度良いのかもしれませんな」
「まぁ、そこは否定せんが」
あっさりと頷いてから、教皇はふと苦笑を零した。
「しかし……なんだな。そう考えると、此度のことが気がかりになるな。言うべきか言わざるべきかであそこまで悩むとは……レンドリアはよほどあの娘にそういった知識を与えるのが怖いとみえる」
「……あー……まぁ……確かに、怖いといえばかなり怖いですな……」
思わず視線を虚空へと彷徨わせ、ルドゥインは(さてどう答えるべきか)と悩んだ。
街の娼婦達に世話になることも多かったという孤児院時代、ベルという名の少女は彼女達の会話でいらんことばかり学んだらしい。
曰く、心底相手が好きな者は、相手の下着をほしがるもの、とか。
曰く、相手に自分の存在を示す時は、時々噛みついてやるのが正しい方法、とか。
ある意味において『間違っていないかもしれない』台詞なのだが、それはあくまでも娼婦である彼女等が見てきた『客』や情人の行動、または彼等への娼婦達の対応であって、一般的なものではない。
──ないのだが、彼女達『夜の徒花』を母とも姉とも慕っているベルは、教えてもらったことを『正しいこと』だと誤解して日夜実践しているらしい。
そこで本当の正しい知識を教えてやれば、その時点で彼女を軌道修正できたのだろうが──
「本当のところを教えればいいのでしょうが……どーもあの、言動はあからさまに怪しいくせに、どこをどう見ても無邪気な小動物、失礼、子供にしか見えないつぶらな瞳に見上げられると、教えていいものかどーか……こう……キツイというか、いたたまれないというか、教える自分が邪悪なんじゃないかと思ってしまうというか……」
だからルドゥインからは教えられなかった。
ケニードや他の人々も教えられなかった。
相手があまりにも小さな体をしているから、年齢的にはそろそろ学ぶ時期のはずなのに、こんな子供にこんなことを教えていいのかという気持ちになってしまうのだ。
「レメクなら大丈夫じゃないかとか思った時もありましたが……明らかに大丈夫じゃありませんでしたな」
「……というか、あやつが一番、深刻だったと思うのだがな」
なにせいきなり昏倒である。
どこまで思い詰めたらああなるのか、むしろその精神状況を説明してほしいとアルカンシエルは思う。
(……変なところばかり大真面目な男だから、今頃うなされているのではなかろうか?)
ありえる話だった。
むしろ今はあの小さな王女を遠ざけておいたほうがいいだろう。元凶が近くにいては、たぶん延々思い詰めて悩むばかりだ。
「ふむ。……誰か適当な教育係をつけてはどうだ? いくらなんでも、男のレンドリアにその方面の教育を全て任せるというのは酷だろう」
「教育係、ですか」
ルドゥインは眉を軽く上げた。
当初は反応を楽しみにしていた教皇ではあったが、苦手とか狼狽を通り越した相手の状態に、さすがにこれはいけないと思ったのだろう。
だが、ルドゥインはすぐに沈痛な顔で首を横に振る。
「……おそらくではございますが、十中八九、教育係も王女殿下の瞳の前に封殺されると思われます。かつて女王陛下も、似たような話の時に王女殿下に何も言えずに逃げておりました」
「……なんと。あの女王ですらもか」
「恐ろしい話、あの手合いの話を王女殿下にできる人と言えば……アデライーデ王女殿下ぐらいなものかと」
「………………ううっ!」
何を思ったのか、アルカンシエルが壮絶な顔で呻いた。
それに問いを挟まず(むしろ思い当たることが多すぎて問う必要が無い)、ルドゥインはできるだけ冷静な声で言葉を続けた。
「おそらく完全図解つきの本を用意し、解説を細かく細かくお教えくださることでしょう。王女殿下は一日で完璧な知識を得てしまうかもしれません」
「……くぅっ!」
アルカンシエルはさらに呻く。
完璧な知識を得ることが即ち解決ではないと、偉大なる教皇には分かっているのだ。
だからこそ、ルドゥインは淡々と指摘した。
「けれどおそらく、通常の右斜め上三段落ちぐらいに歪みます」
「確かに!」
「そしてレメクの被害は現状の七十三倍ぐらいになります」
「まさしく!」
アデライーデにその手合いの『教育』を任せる、ということは、つまりそういうことだ。
彼女の豊富な知識に価値を見いだし、名ばかりとはいえ『王女』の称号を得ている彼女との繋ぎをとろうと、自分の娘達を紹介し『どうぞうちの娘を導いてやってください』と頼んだ貴族達は、わずか一日で激変した娘に驚愕と絶望の涙を流したという。
どういう風に変わったかは恐ろしすぎて口にできないが、あれ以降、娘を利用して彼女と繋ぎをとろうとする貴族は激減した。
ちなみにその時の貴族の娘達は、全員が上流階級の正妻の座を勝ち取ったという。
「……あの娘は、確かに……確かに優秀なのだが……!!」
「なんというか……恐ろしいほどに『ネイファム族』らしい方ですなぁ」
今は一人しかいない一族の名を出すと、教皇はうーうー唸った。
「歩く神代の図書館とまで言われた、あの尋常ではない物覚えの良さと知識量は認めるが……! 独自の理念と自由すぎる精神まで備えんでもよかったと思わぬか!?」
「とはいえ、それが『ネイファム族』の特徴ですからなぁ。……物を覚えるのは神がかって凄まじいのに新しい何かを閃くのは苦手、という一族にしては、アデライーデ姫はずいぶんと研究熱心な発明家ででいらっしゃると思いますが」
「……その発明が誰一人として幸せにしない類のものだというのはどういうわけだ?」
「……『苦手』だからじゃありませんかね」
「苦手ですむ次元なのかアレが!」
作る物のほとんどが凶悪な武器となるのはある種の才能かもしれないが、一つの薬を作るために百近い毒を作成してしまうのはかなり危険だとアルカンシエルは思った。そして天井のすす払いを作ろうとして暗殺武器を作ってしまうのは絶対に『才能』で済ませれるレベルではない。
「……あやつが本気で研究にうちこんだら、我が国は内側から崩壊するのではなかろうか……」
「使うつもりのない武器が大量生産されますな。時々レメクが出来上がった武器を譲ってもらいに行ってましたが」
「どうしてあの馬鹿助は暗器なんぞに造詣を深くしてしまうのだ!? そこは剣とか槍とかを極めるのが普通だろうが!」
「そう思われるのでしたら、どうしてレメクに護身術だと言ってありとあらゆる暗殺術を仕込んだんですか。未だにあれを護身術だと真顔で言っておるんですが」
「暗殺を防ぐのに一番効果的だったからだ! だいたい、ちゃんと剣も習わせておったはずだぞ! 師事した者も筋が良すぎるぐらいに良いと褒めておったのに……!!」
「老公とロードの教えでもあるようですな。曰く、男たるもの全ての武器の精通するべし、とかなんとか」
「あンの大馬鹿助共め……!!」
本気の憎悪を込めたその罵声に、ルドゥインは苦笑した。教皇の言葉は感情がハッキリしているわりに、濁ったものが感じられないので心地よい。
「仕方がありませんな。今更、剣を持たせようとしても、レメクはきっと断るでしょう。『陛下がいらっしゃる限り、一目でそれと分かる武器を所有しない』という姿をずっと貫いておりますから」
「……そのわりに服の内側に武器がゴッソリあるのはどういうことだ」
「私が聞いたところによると、『他者から見た時の判断』を優先している、という話でしたな。『武器の携帯を許される職にありながら、王がいる限り一切の武器を携帯しない』というのは、王その人と王の治世に対する絶対の信頼でもあります。……剣をぶら下げた者しかいない王宮なんぞ、恐ろしくてかなわんでしょう」
「……王がいる限りここの治安は良いものである、と示したいわけか」
「そういう点では、猊下方がレメクに暗殺術を仕込んだのは素晴らしい判断であったと思われます。……まぁ、素手で熊を吹っ飛ばせる相手に、そもそも武器が必要なのかどうかは疑問ですが」
「……おまえに言われては、レンドリアも不満であろうな」
熊を素手で吹っ飛ばした伝説の持ち主その一は、軽く肩をすくめて言った。
「私は武闘神官の端くれですので。それぐらいはできませんと、いざという時に猊下の盾にはなりますまい」
「……普通の武闘神官は、そもそも素手で熊に戦いなど挑まぬ」
むしろ何故この男とレンドリアはわざわざ素手で熊を吹っ飛ばしたのか。未だにそこが激しく疑問なのだが、問うて返ってくる答えはきっと恐ろしく馬鹿馬鹿しいものだろう。
(……こやつらに常識を期待してはいかんからな……)
それは若い頃の教皇自身がさんざん周囲から思われてきた言葉でもある。
「ちなみにアデライーデ姫も修行中に熊を相手に格闘していらっしゃったとか」
「……あやつには、一度、貴婦人としての心構えを一から覚え直させたほうがよいと思うのだが」
「猊下。たぶん、レメクならこう言うと思われます。『なまじの貴婦人よりも遙かに貴婦人としての作法に詳しい方に何をどう一からお教えするのですか』とか」
「……おまえは時々無駄にあの馬鹿助に似ているな」
「長い付き合いですからな」
僅かに苦笑を浮かべた大男に、アルカンシエルは顔をしかめ──ややあって苦笑した。
「おまえ達の存在は、レンドリアにとっても大きな助けであろう。……女王にもそういう相手を国内に多く残しておいてほしかったものだが」
「陛下のお味方は多くいらっしゃると思いますが」
「味方、か……」
呟いて、アルカンシエルは顔を曇らせた。
「どこまでが味方なのか、今ひとつ分からぬがな。女王は己の腹心をほとんど外国へと向かわせた。周辺の国からこの国を守るための手段だったが……そのせいで、国の内側に真の味方と言うべき者をあまり残しておらんのだ」
「…………」
「逆に、レンドリアにはおぬしがいた。距離を置いていたと思しきアロック卿も今は傍におる。力量ある腹心が傍にいることに関しては、女王よりもレンドリアの方が勝っておろう」
例え二人とはいえ、その二人は王国でも抜きんでた力量をもつ。
また、『腹心ではないが協力者となる者』も多くいる。その数は、女王が持つそれとおそらく同数だろう。
「……レメクこそ、女王の腹心でありましょう」
「今はな。……だが、必ず何らかのきっかけで対立せねばならん時が来るだろう。あれも、女王も、互いに互いを大切に思っておる。だが、それだけではどうしようもない事態というのはあるのだ。あやつらはお互いに持っている力が強すぎる。女王の場合、本来なら奥にいる女官共の中に腹心を作っておくべきなのだが……」
「……陛下の場合は、同盟者となった腹心は他国に嫁がせておりますからなぁ……。それに、他の貴族達が寄越す密偵まがいの連中を引き受けておかなければなりませんし……」
「そういったものを閉め出しておくのも手なのだが……あれも剛毅な娘だからな」
嘆息をついて、教皇は指を組んだ。
「下手に閉め出せば、別の所で暗躍するかもしれん。ならば手元で監視するほうがいい、ときたものだ。……此度の騒動の中、密かに暗躍しておった女官もおったらしいが」
「『新しい王女』の情報が漏れるのが早かったですからな。影で悪し様にこき下ろし、噂を広めようとしていた女官もいたとか」
「ああ。……レンドリアに懸想しておったという女官であろう?」
苦笑とも失笑ともつかない笑みを零して、偉大な教皇はフンと鼻で息を吐いた。
「つまらん真似をする者もいたものだ。嫉妬で己の地位を失うほどの愚かな行為に出るとはな」
「男女を問わず、そういう者は少なくありません。自分には無いもの、自分では得られなかったものを目の前にして、相手を認めるのではなく『認めてもらっていない自分』を可哀想がり、こんなことは間違っていると自分勝手な論理を作りだし、相手を貶めることで己が正しく世界が間違っていると周囲一体に広めようとするのでしょう。そのような行為をした所で、己の愚かさを浮き彫りにさせるだけだというのに……」
「……なにやら痛烈だな」
「己の未熟を認めるのでなく、他者に嫉妬するというあたりが、昔の愚かな自分を見ているようで気持ちが悪いのですよ。言うなれば、同族嫌悪というやつです」
「……おまえの事情と、他の連中のソレはかなり違うと思うのだがな……」
武闘派で知られるバルバロッサ侯爵家に生まれた時、その病弱さから教会に預けられたという身の上のルドゥインは、自分を教会に押し込めた家族への慟哭を胸に、運命に復讐するように己を鍛え続けた。家族の願いや悲痛な決断に思い至ることは、当時幼かったルドゥインには出来なかったのだ。
(……無理もあるまい……)
教皇は内心で独り言つ。
その当時、彼はたったの六つだったのだ。
「現状を憎み、己を嘆いても、おまえは家族を貶めたり家族のことを悪言雑言したりはせんかった。無論、何も確かめないままに相手の状況や心情を決めつけてかかることもせんかったはずだ。……何故、と嘆くことはあってもな。……おまえを教えておった神官達からはそう聞いておる」
「そんなことを考える暇がなかっただけかもしれませんが」
「人間性の問題であろう」
キッパリと言いきって、教皇は話題を少しだけ変更した。
「……件の女官共は、差し向けていた貴族の元に返されたらしいな」
「当然の処罰でしょうな」
ルドゥインの声はあからさまなほどに冷たい。
「……おぬし、仮面会議も嫌いであろう」
「ええ。心底。監視に行かされるたび、ぶっ壊したくて仕方がありませんなァ。頼みますから別の者を向かわせていただきたい」
凄みのある笑顔を浮かべる巨熊に、教皇は苦笑した。
「おまえのような者でなければ、アレの監視はできぬ。他者の言葉に簡単に流されるような者では、あの場所の毒に染められてしまうからな」
「その仮面会議で、此度の騒動の件、だいぶ話題にのぼっておりましたが……」
「なにか目新しい情報でも入ったか?」
言葉を濁したルドゥインに、教皇はスッと目を細める。
ルドゥインは周囲の気配を探ってから口を開いた。
「二、三、気になる情報が入ってきました。一つは遠方であるレンフォード公爵家に連絡をとったのは誰であろうか、という話なのですが……」
「例の女王付きだった女官であろう?」
「公爵夫人に連絡をとったのは、その女官であろうと思われます。ですが、分からないのは『公爵が』どの時期に情報を手に入れ、此度のことを画策したか、なのです」
「…………」
「公爵夫人が王都へ行くことになった。……その便乗にしては、いささか腑に落ちない点がありまして。出席者の中には公爵をよく知っている人物も幾人かおりましたので、そういった『方々』の……現状、我々が最も警戒している方々の会議で話されていたのは、誰か他に誘導者がいたのではないか、といった内容です」
「……あやつの裏にさらに誰かがいた、という話か」
「あくまでも方々の憶測ではありますが。……というのも、昔から公爵には『相談役』がいたという話なのです。公爵自身もそれを仄めかせていたらしいですな。不自然なほどの成功を収めたときに、どんな手妻で成したのかを問うとこう答えるのだそうです。『良き相談役がいてな』と」
「…………」
「ですが、それがどこの誰であるか、といったことは伝わっておりません。どこの家にもそういった相談役はおりますからな。探りを入れつつもそれほど不審には思わなかったことでしょう」
ふいに底冷えする光を目に宿した大男に、教皇は鷹揚に頷く。
上流階級になればなるほど、優秀な相談役の存在は不可欠となる。家の規模が大きくなるごとにその必要性は高まり、王にとっての宰相のような存在が各貴族の家に生まれるのだ。
そういった需要を見越し、専門的に『仕事』として請け負う者も昨今では増えていた。
だが──レンフォード公爵の言う『相談役』が、通常の相談役と同じとは思えなかった。
「王弟殿下を亡き者としようとした中庭の件でも不審な点があります。王弟殿下は『公爵夫人』から手紙を受け取り、中庭に呼び出されました。その手蹟は確かに公爵夫人の手蹟とよく似ていたそうです」
「……公爵夫人は、手紙を出してはおらぬのだな?」
「本人や身の回りの世話をしていた侍女に聞きましたが、そのようなものを出した覚えは無い、とのことです。そもそも、公爵夫人は急ぎの馬車旅がたたって、到着後は街屋敷で休んでおられたようですな。疲れているのに、なぜにそんな真似をしなくてはならないのか、そもそも直接会う気などない相手を呼び出す意味が分からない、と言われました」
「……ある意味、あの娘らしい言い様だな」
兄王の子とはいえ、馬番の血を引く現王弟を忌々しく思っていたマルグレーテだ。その言葉に偽りは無いだろう。
「わざわざ手蹟を似せた、ということは、あの娘に罪を被せようとした、ということか?」
「王弟殿下達と直接王宮に出向いておられたのは公爵夫人ですから、呼び出しを行うのに適当な人物であった、ということかもしれません。『アルトリート』のことで呼び出されれば、王弟殿下は赴いたことでしょう」
「アルトリート自身がその場に赴いたのは、不穏な動きを感じたからか」
「邪魔者は排除しなくてはいけない。そう言われても、実感としては無かったのかもしれませんな。どこで何を聞きつけて来たのか、危険があると察し思わず駆けつけてしまったようです」
そして、公爵の言葉の意味を思い知った。
もう、後戻りできないことを悟った。
あとはただ、絶望へと向かって歩むことしかできなかったのだ。
「……動き出した時を止めることはできぬ。排除を促した公爵の言葉に、もはや頷くしかなかったということか」
「全てが公爵の思惑だったとしても、何やらお膳立てがされすぎている気がいたします。情報戦に関して、確かに公爵は抜きんでた才能をお持ちですが、上手く動きすぎている感があるのです。違和感と言いますか……」
「…………」
「相談役がいたのであれば、此度の騒動、少しばかり様相が変わってくるのではありませんか。公爵家の闇を利用して、何かを成そうとした者がいるのではないかと……そう思うのです」
だが、公爵以外が裏にいたとして、この騒動で何を得ることができたのか、そもそも何を目的にしたものなのか、それが分からなかった。
公爵には動機があった。入れ替えに関しては、公爵夫人にも動機はあっただろう。
アルトリートにもあった。
だが、この三者以外でこの騒動に深く関わり、騒動によって利益を得た者となると首を傾げざるを得ない。
「嫌な言い方ですが……一番得をしたのは、王弟殿下ということになるでしょう。過去を消し去り、王族に迎えられたのですから」
だが、その可能性はあまりにも低い。もし、今まで見てきた彼の姿が全て演技だとすれば、それはそら恐ろしいほどの役者ということになるだろう。
「クレマンス伯爵はレンフォード公爵位を得ましたが、家に大きな傷をつけてまで公爵位を望むとは思えません。彼自身、己が未だ未熟であることを知っています。その状態で、いきなり公爵になることがどれほど辛いことか……分からないはずがありません」
次に得をした者は誰か。そう考えて次々に名を挙げていっても、なにかひどくかみ合わないものがでてくる。
「レンフォード家の権勢を削ぎたい者の暗躍であれば、話は早いのですが……」
「前公爵がそれを許すとは思えぬな」
「左様。性根や性格の点はともかく、才覚に関しては他の貴族と比べ者にならぬ御仁です。経験も豊富ですし、そう簡単に他者に出し抜かれるとは思えません」
「……それで『相談役』か」
教皇は髭に手をやり、ゆっくりと撫でながらルドゥインを見上げた。
「……その話は、どこまで回っておる?」
「……まだ、会議の中ぐらいでしか」
「ならば、捨ておくがよい」
驚いて目を瞠るルドゥインに、教皇は眼差しだけで「聞くな」を伝えた。
「……その『相談役』については、今はまだ語れぬ。無闇に語れば、何を招くか分からぬ故な。……で、他に気になる情報というのは、何だ?」
ルドゥインはしばし教皇を見つめていたが、一息ついてから口を開いた。
「実は、レンフォード公爵領の貧民街で……」
報告の途中から顔をしかめた教皇は、聞き終えると同時、心の底からの嫌悪を込めてこう呟いた。
「……痴れ者が」
※ ※ ※
神殿にはいくつもの無人空間が存在する。
もともと巨大な建物だ。中に入るのは難しいが、一度中に入ってしまえば一部の区域を除き比較的自由に動ける。神殿騎士や神官達の目は重要な部屋や価値ある美術品に向けられているため、それらが配置されていない外側への関心は薄い。
そんな外側の窓枠に腰掛けて、クリストフは眼下の景色を眺めるともなく眺めた。
すぐ近くに見えるのは、巨大な神々の像が並ぶ広場だ。その向こうには大きな神殿があり、街はそれらを隔てた向こう側に広がっている。
淡いオレンジ色の屋根瓦。やや白茶がかった家々の壁。高い場所から見下ろす街の様子は、今まで見てきた景色とはまるで違っていた。
どこか遠く、朧気な印象の街。
ひどく現実味のない、岸の向こう側を眺めるような奇妙な感覚。
(…………)
何かが頭の中で言葉を紡いだ気がした。
クリストフはあえてそれに気づかないふりで街を眺める。
陽光に照らされた街は遠目には美しく、人々の喧噪は遠く、空を渡る鳥の軌跡だけが止まった景色の中を流れていた。
クリストフは此処ではない別の所を見る眼差しで眺める。瞳に宿る虚無は深く、その顔には表情が無かった。
恨むな。
言われた言葉が脳裏をかすめる。
恨むな。恨むな。恨むな。恨むな。
けれど、それが最も不条理な結末を押しつけられた相手の最後の言葉とはいえ、無条件で頷くことなどできるはずがない。
最後の言葉は全て人伝で、語り合うことなどできなかった。直接交わした会話は、噛み合わずすれ違ったままのもので、だからこそこれほどに胸の奥にしこりができている。
何を考えていたのか。
何を思っていたのか。
それを知ることはもうできない。
(……アルトリート……)
「はいほー」
「ぎゃ──────ッ!!」
突然パーンッと勢いよく背中を叩かれ、クリストフは反動で窓の外に吹っ飛んだ。
咄嗟に絶叫をあげ手を伸ばすと、華奢な手にワシッと掴まれる。
「あっちゃー、ビックリした。いきなり吹っ飛ばないでよ、そのまま落ちて死んじゃうじゃない」
「吹っ飛ばしたのはお前だオマエ──────ッ!」
窓から身を乗り出した犯人にしがみついた格好で、クリストフは総毛立つ。中空に浮いた足が風を感じる。それがひどく恐ろしかった。
「俺を殺す気か!? おまえ本当は俺を殺す気なんだろ!?」
「やぁねぇ。殺す気ならもっと手際よくやるわよぅ。パキョッと」
「怖い音口にすんな! 骨か!? 骨折るのか!?」
「首やっちゃえば一瞬よ。心臓を一撃で刺すのと同じぐらい一瞬」
「だから怖いこと言うなーッ!!」
わっさわっさと必死に足を動かして足場を得ようとするのだが、建物の構造上、窓の下の壁はやや遠い。ぷらんぷらん揺れる体に、アデライーデが困り顔になった。
「ねーェ、アルルン。あんまり揺れられると引き上げれないんだけど? ちょっと大人しくしてくれないかな」
途端にピタッと動きを止めたクリストフにニッコリ笑って、アデライーデは一息で自分より背の高い相手を窓枠まで引き上げる。そのまま内側に引っ張られて、クリストフは半ばアデライーデにすがりつく形で廊下に戻った。
「し……死ぬかと思った……!! 絶対死んだと思った!!」
「やーねぇ。あたしがいる限り、勝手に死なせやしないわよ」
「おまえが殺しそうなんだ俺を!」
「あらー」
可愛らしく小首を傾げて、アデライーデは不思議そうな顔を作ってみせた。瞳の輝きで偽顔なのがバレバレだが、その姿は本性を知っているクリストフでも見惚れるほどに美しい。
「それよりも、お腹空かない? もうお昼回っちゃってるし。アルルンってばしばらくご飯食べてないでしょ。ちゃんと食べてお勉強に備えなくちゃね」
「別に腹なんか減って……」
言うや否や若い胃袋が不満の声を張り上げたのは、ほとんど「ご飯」という言葉への条件反射だろう。長く尾を引く音にしばし耳を傾けてから、アデライーデはウンウンと頷いてアルトリートの手を引っ張った。
「さ。勉強部屋に行きましょーか。ご飯もちゃんとそこに用意してもらってるからねー」
「…………ッ」
「あと、お腹空いてないっていうぐらいなら、お勉強にも丁度いいかも~。教材を一ページ音読しないと一口食べれないからね~」
「どんな拷問だよ!? 飯なら飯で普通に食わせろ!」
「なに言ってんの。神官になるんでしょう? 早い子なら五つか六つの時分から少しずつ仕事や勉強を習うっていうのに、アルルンってば二十歳超えちゃってからの挑戦じゃない? のんびりご飯食べる時間なんて無いわよぅ? 睡眠時間もガンガン削っちゃうから、覚悟しといてね?」
「…………ッ!!」
クリストフは一瞬顔を引きつらせ──すぐに表情を引き締めた。
その様子を密かに盗み見て、アデライーデは相手に見えぬよう、少しだけ悲しげに笑う。
そうして、敢えて明るい声で言った。
「道のりは険しいのよ。でも、やるって決めたんでしょう? だったら、一分一秒も惜しいわ! 今日からあなたはあたしの生徒! ビシバシ鍛えるからね!」
覚悟するのよぅ? と悪戯っぽく後ろを振り返ると、驚くほど真剣な目がそこにあった。
アデライーデは一瞬、息を呑む。
「……アディ」
「……な、なに?」
「俺は、神官になれると思うか?」
真っ直ぐに見つめられて、アデライーデは瞬き一回分の沈黙を落とす。そうして、底冷えするほどの覇気をたたえて笑った。
「なるわ」
なれる、ではなく『なる』と。
敢えて口にした理由を──彼はきっと理解するだろう。
「あなたは選んだ。あなたの生きる道を。なら、必ずあなたは神官になるわ」
アルトリートは唇を引き結ぶ。
その眼差しを一瞬たりとも逸らさずに受け止めて、アデライーデは笑った。
かつて自分が通った道を今通ろうとしている、自分が守るべき人に。
「死者への祈りも、生者としての贖罪も、魂とこの血肉に刻まれる。……法を統べなさい、クリストフ・オリガ・サイフォス。あなたは今日、死に、今日、生まれ変わる。本来の立場であれば決して得られない偽りの自由の中で、あなたがなりたいと思ったものになりなさい」
「…………」
「あたしがかつて、家族を失い、この地で生まれ直したように」
「…………!?」
告げられた言葉に大きく目を瞠り、クリストフは反射的に何かを叫ぼうと口を開いた。
だが、言葉は出ない。
愕然とした顔の中で、声を失ったその口の動きが、ひどくアデライーデの印象に残った。
「ナザゼルねーさまのとは、事情が違うけどね」
ニコリと笑って、アデライーデは語った。
「あたしはね、末姫ちゃんと同じで、最初は貴族でもなんでもないの。ネイファム族っていってね、物覚えのすごくいい、学者肌な一族の出なのよ。王立図書館の生き字引とか、そんな感じの人が多くてね。外見的な特徴とかは持ってないから、髪や目の色や、顔立ちなんかで一族を判断することもできないのよ」
ナスティアに存在する三十余りの一族のうち、現在、確認できる個体数が少ないのは、メリディス族ではなくネイファム族だった。
自由な気質の一族だったため、どこかに定住することもなく、各地に散っていった血族達は、どこに混じったのか今では探すこともできないほど。わずかに王都近くの一地区に数家族程度の一族がいたが、それも今はもういない。
前王の時代の飢饉で数を減らし、その数年後に起きた事件でアデライーデを除いて全て死に絶えてしまったのだ。
「……かあさん達はねぇ、新しい王様になってるから、少しずつ生活もよくなるはずだよ、って、今までの歴史を暗唱しながらあたしに語ってくれたのよね。もう、畑には何も植わってなかったけど、ほら、あたし達って物覚えいいから? 食べられるものがどこにどういう風にあるのか全部知ってたから、貧しくてもなんとか生き延びられたのよね」
けれど、世の中が良くなるよりも早く、彼等は倒れてしまった。
飢えで衰えた体は、内側に入れられた悪魔に勝てなかったのだ。
「ある日ね、村の皆がお腹壊しちゃったの。いったい何喰ったのよって感じよねぇ? そのうち熱も出て変な痣みたいなのも体に浮いてきて、どんどん体が衰弱していったわ。似たような流行病の文献を思い出して、出来る限りの治療をした。でも、既存の薬草や医学ではどうしようもなかったわ。だから、あたしは王都に来たの。新しい知識を得るために。でもねぇ、あたしってば頭はいいんだけど、当時はまだちっちゃかったし、ボロボロだったから、まぁ図書館にも入れてやもらえなくってね。それでも頑張ってたら、どういうわけか陛下が来たの」
「…………」
「驚くよりも前に、チャンスだと思ったわね。王の権力っていったら、そこらの木っ端役人とは比べものにならないのよ。これを利用しない手は無いって思ったのよね」
「……おまえ……その発想は子供の頃からかよ……」
「そうよ? いけない?」
むしろ胸を張って言われて、クリストフは微妙な顔で口を噤んだ。
何故だろう。衝撃的な話をされているはずなのに、相手がこの女だというだけで、同情や驚愕よりも先に戦きが体に走ってしまう。
「あたしが陛下の役に立つ兵隊になるから、勉強させて欲しいって頼んだのよね。そうしたら、陛下はあたしを養女にしてくれたの。言ったあたしもビックリしたわよ。うわこうくるかこの人、って思ったわね」
「……おまえ……相手……王様……」
「なによぅ。不遜さじゃ負けてないくせにー」
拗ねたように唇を尖らせてから、アデライーデは繋いでない方の手で軽く頭を掻いた。
「でもねぇ、結果的には、間に合わなかったのよね。……当時、陛下はあたしにいろんな便宜を図ってくれたわ。生き残ってた人達も王都に運んでくれて、手当してくれた。国で一番のお医者様に師事させてくれたし、沢山の本を見せてくれた。珍しい薬草もいっぱい使わせてくれた。──けれど、駄目だったの」
何を試しても駄目で、一人、また一人と知り合いが息を引き取る中、アデライーデはレメク・クラウドールと会った。出会う時期が大きく遅れたのは、当時、彼が王宮にいなかったからだ。
前クラウドール公爵の死をきっかけに、長い間自分の屋敷に引きこもっていた彼は、女王の頼みを受けてアデライーデの元を訪れた。そうして、病人に接して後、厳しい表情で彼女達の一族に広がった『病』の名を告げたのだ。
おそらく、知ってはならなかっただろう、残酷な現実の名を。
「……うちの一族がかかって『病』ってねぇ……バシレウス・プトマなのよねぇ」
「……ばしれうす?」
「『死毒の王』」
言って、アデライーデは笑った。
けれど、我ながら上手く笑えたとは思えなかった。きっと、ひどく歪んだ奇怪な笑みになったことだろう。
なぜなら──
「『死毒の王』はナスティアに昔から存在する、ある毒によって死んだ生き物から作られる『毒から生まれた毒』。遅効性で、病に似た症状が出るから流行病と間違われやすいんだけどね」
「おい……それって……!」
血相を変えた相手に、アデライーデは出来る限り明るく笑ってみせた。
昔話の一つを披露する程度の話のようなフリで。
「そうよ。うちの一族は、毒を盛られたの。そして、みんな死んだわ。バシレウス・プトマはね、効果はゆっくりなんだけど、致死率が百パーセントなの。最初は、ただお腹壊したのかなっていう程度だったのにね」
絶対に助からない毒。
末期症状の家族。
医術も、薬草学も、詰め込んだありとあらゆる知識も、もう何も意味を成さなかった。
窶れ死に行く家族を前に、絶望に世界を塞がれ、泣き叫ぶことすらできなかった。
「うちの一族って、好奇心が強いのよ。そのうえ、物覚えがすこぶるいいでしょ? どうもそれでねぇ、知っちゃいけないこととかもいっぱい知っちゃってたらしくてねぇ。すごく邪魔だったらしいのよね~」
国が歪んでいた時代、それでも生きようと必死だった人々。新王の即位で、ようやく未来に希望を見出した彼らに、その毒は盛られた。
遅効性の毒はゆっくりと人々を死に向かわせ、一つの村を死滅させたのだ。
──アデライーデ一人を残して。
「だからね、ナザゼルねーさまは、あたしに優しいの。同じじゃないけど、同じような境遇だから。おかーさまがあたしの研究とかを大目に見てくれるのも、あたしの昔を知っているから」
「…………」
「バシレウス・プトマの症状は、あたしの知識の中には無かった。あれは王族に近い貴族の間で使われていた暗殺用の毒だから、あたしが知れるような範囲の文献や口伝には無かったのよね」
もし女王が直接『病人』と接していたら、その身に宿す『真実の紋章』で毒を感知できたかもしれない。
だが、当時、女王にはその時間がなく、流行病の可能性の高い病人に彼女を近づけさすまいとする動きもあった。女王と直接会ったのは、毒の影響を受けなかったアデライーデ一人で、そこから原因を読み取ることは女王にもできなかったのだ。
「……あたしは悔しかったわ。知っていれば、可能性の一つとして検討できたかもしれない。そうしたら、打てた手があったのかもしれない。少なくとも、クラウドール侯爵は原因を言い当ててすぐに手当してくれたわ。特別な紋章を持つあの人じゃなきゃできない手当だけど……でも、もし、あたしがあの毒のこと知っていて、陛下にそれを言っていたら……もっと早くに、同じ処置をお願いできたかもしれない。そうしたら、一人でも救えたかもしれない。……でも、間に合わなかった。致死率百パーセントは誇張じゃないわ。……服毒すれば最後、誰一人、助けられないんだから」
「……アディ……」
呼びかけ、けれど続けるべき言葉が見つからずに戸惑っている相手を見て、アデライーデはニッコリと笑った。今度は上手く笑えたと思った。
「一人残されちゃってねぇ、まぁ、ちょっといろいろあってから、この世のありとあらゆることを知ってやろうって思ったのよね。ほら、あたしってば物覚え凄くいいから? 謎とか、知らないこととかあるのは許せないのよ。だってまた同じ事を繰り返すかもしれないじゃない?」
「…………」
「なんでも習ったわ。実践したり実験したりした。王立図書の全ての本を読み尽くしても、侯爵が手に入れてくれる珍しい本を読破しても、まだ足りない。まだ沢山『何故』『どうして』が世の中にあるの。だから今もずっと探して求めて取り込んでるところ。いつかあたしが死ぬまで、あたしが知ることのできる全てを知り尽くしてやるわ」
でもね、とそこで首を傾げて、アデライーデは浮かべていた笑みを悪戯っぽいものに変えた。
「困ったことに、どんなに本を読んでも、知識を増やしても、学べないものも沢山あって、それらはどうやってもあたしに『回答』をくれないの。沢山の情報を並べて、このパターンはこれ、あのパターンはこう、っていうのは把握してるんだけどね」
「……? 何かの、実験とかか?」
「人の心」
トン、と指で相手の胸をつくと、クリストフは目を丸くした。
呆気にとられたらしいその顔に、ふいに本心からの笑みが零れる。
「あは! 意外だった? でも、人の心って、本には載ってないのよ。それでも、いろんな人の行動パターンで『パターン』だけは把握できるの。……でもね、それじゃあ、駄目なの。今回だって、全く駄目だった……」
「…………」
「人の心を把握しようだなんて、思うほうがおかしいのかもしれないけどね。でも、それを把握しないと外交や、内政の交渉に役に立てない。けど、そういう場で有効な『他人の心の動き』を把握したところで、もっと奥にある大事なものは理解できない。……上辺だけの、薄っぺらい知識なのよ。あたしが持ってるのって。どこまでいっても、本に書かれた文字だけの範囲なの。だから、大事な所ではあんまり役に立たないんだけどね、あたしって」
「どこがだよ!?」
突然叫ばれて、アデライーデは驚いてクリストフを見上げた。
目の前にいる青年は、怒ったような顔でこちらを睨んでいる。
「ちゃんと役立ってただろ!? 馬が暴走してた時、鎮めてくれたの誰だよ!?」
「や。ほら、それ、知識関係ない……」
「キツイチビ姫がいなくなった時、居場所突き止めたのは!?」
「いやほら、でもあれ、役に立っては……」
「行くのが遅れたら、チビ姫、剣であいつに何してたか分かんねぇだろ!? 止めたの誰だよ!」
「ぇぅ」
「あの色っぽいネーさん引っ張り込んだのだって、おまえだろ!? 色々やってただろうがおまえは! ソレが一つも役に立たなかったって言うのかよ!?」
「い、言うか言わないかっていう話じゃなくてね!? というか、別にそんな、ただの結果を言ってるだけでしょ!? なんであなたが怒るのよ!? 怒りどころがどこにあったのよ!?」
「だったら泣きそうなツラで言ってんじゃねェよ!」
「泣……ッ!!」
言われた言葉に、アデライーデは愕然とした。
(泣きそう? 泣きそうな顔って!? あたしが!?)
した覚えはない。断じて無い!
「して、ないわよ!?」
「だったら何だよアノ面!」
「し、してない、し、知らないわよそんなの!」
「知らねェとか言ってないで自覚しろ! 頭イイくせに実は馬鹿だろ!?」
「失礼ね! アルルンに馬鹿って言われたくないわよ!?」
「アルルン言うな! 拒否するって言っただろ馬鹿! あんな名前いらねぇ!」
「ざーんねーんでした! クリストフの名も使えないのよ! 別人になんなきゃだから! だから猊下や大神官が作った新しい名前の戸籍でいくしかないの!!」
「ぐ……ッ!」
ビシッと繋いでない方の手で指をつきつけられ、クリストフは苦々しく顔を歪めた。
「て、てめぇ……ちょっとヨワった顔したかと思ったら、根っこはコレか……!」
「ぅ……そーよ!? あれよ、お涙頂戴話しとけば相手を弱らせるっていう戦法よ!」
「……明らかに今考えた理由だろソレ。てゆか口に出して言うな。本当は本気で馬鹿だろおまえ……」
「アルルンに言われたくないって言ってるでしょ!?」
「アルルン言うなって言ってるだろ俺も!」
カッ! と噛みついてきた相手に、カッ! と噛みつきかえして、クリストフは繋いでない方の手で相手と同じように相手の顔に向かって指を突きつけた。
「だいたい、勝手に人の名前作るなよ! てゆかいつ作ったんだよ!? 俺が要望伝えたのはさっきだろ!?」
「アルルンの行動なんて予想されまくってるのよ! 王族名蹴るのも王族入り蹴るのも全部予想の範囲内! 絶対嫌がるんだから逃げないうちに王都内に封じ込めるためにあんたが言い出しそうなことを予測して手ぇ打ったのよ! 『あの人』のことを思うなら神官! 『なにもなかったことにする』なら馬番! 『自分のことだけ考える』なら遠い場所に行く! その中でたぶん神官だろうからって、新しい戸籍先に用意して準備して手はず整えてあなたがいつ言い出しても大丈夫なようにしてたのよ! ……三日前に」
「直後かよ!?」
「だってアルルン素直すぎて予想しやすいんだもの~」
むしろ可哀想な子を見る顔で言われて、クリストフはガクガク顎を震わせた後、嫌な予感に恐る恐る尋ねた。
「……ちょっと待て。その流れでいくと、俺が名乗ることになる名前って……」
「クリスト『ス』」
「ほとんど変わらねェ!」
「アルトマイヤー」
「わざわざアル入れんな!!」
「いいじゃないの~。面倒な親戚がいなくてそこそこの階級で目立たず騒がれずにいられる姓を探すのって大変なのよ? いきなり二十歳過ぎたでっかい息子を迎えても大丈夫な家っていうのもなかなか無いんだから」
「って実在の人間の家かよ!?」
「当たり前でしょ~? いきなり何もない所に戸籍作っちゃったら、調べられた時に即バレじゃない。つじつまあわせるのって難しいのよ? だから徹底的に調べて調べてしないとバレないぐらいの所にアルルンを突っ込んだわけ」
「……突っ込むな……」
「だから、君は『クリストス・テオドリヒ・アンゼルム・ハイゼ・アルトマイヤー』よ」
「長ーッ!? 長ぇぞ名前!!」
「がんばって覚えてねー」
「嫌がらせだ! 絶対嫌がらせだ!!」
すごい形相で叫ぶクリストフに、アデライーデはまるで村娘のようにニカッと笑って言った。
「よろしくね! アルルン!!」
※ ※ ※
ベッド横のテーブルに水差しとタオル、洗顔用の銀の器を置いて、ケニードは「ふぅ」と一息ついた。
すぐ傍らの大きな寝台には、額に小さな赤ちゃん猫を貼りつけた青年が昏々と眠っている。つい一月ほど前に以前の寝台と入れ替えたという天蓋付きのそれに視線を向け、ケニードは明かりが眠りを邪魔しないよう、引き上げていた寝台の布を垂らす。
カーテンも一応引いておこうかと部屋を見渡した時に、ふいに小さな声が聞こえた。
「……新しい王弟君は、神官になることにしたようですよ」
ケニードは反射的に寝台の方を見る。
今は人の姿をしていないヒトの声に、けれどケニードは軽く笑って頷いた。
「……たぶん、そうなるんじゃないかな、って思ってました」
「予想通りということですねぇ」
「配属先は、大神殿の方ですか?」
「さて? 大聖堂の方が大神官殿がいる分安全ですから、まずはそちらに回る可能性が高いですけどねぇ。けど、そんなに長い間はいないと思いますよ」
「内部の抗争ですか?」
「えぇ。派閥って面倒ですよねぇ。大神官殿は有名な血筋ですから、わりと周りの方が腰引けちゃうんですけど、あの子はねぇ……身分隠す分、色々危険だと思いますよ? おまけにその大神官殿が後見人でしょう? 『繋ぎ』に丁度いいとして寄ってくるでしょうねぇ」
「……あんまり、そういう連中を上手く捌けれそうにないんですけど……彼」
「無理でしょうね。変な所で反感覚えられて、どっか遠くの朽ちかけな教会に派遣されちゃうでしょうね」
「…………」
「そのほうがいいんですよ」
思わず沈黙したケニードに、寝台の中にいるそのヒトはあっさりと言う。
「今、この王都にいても、彼は役に立ちません。彼が必要になってくるのは、もっと別の場所、後の時代です。むしろしばらくは辺境にいてくれたほうが、この国にとってはいいでしょう」
「……それは『予知』ですか?」
ケニードの声に、声は小さく笑う。
「そうですね……いずれ来るだろう、ごく身近な未来の予測ではあります。けれど、その先になると揺らぎが大きくてよく見えません」
「…………」
「……心配ですか?」
ケニードの沈黙に、声はそう問いかけてきた。
ケニードは少しだけ困り顔で笑う。
「……あの子は、これからどうなるのかな、って思って。悪い方に転べば、陛下やクラウドール卿にとってとんでもなく辛い敵になるでしょうし……でも、あの子自身がどういう風になるかは、彼自身の心の問題だし……」
「誘導する手段はありますけどね」
言われて、ケニードは少し前にレメクから預かった書簡を懐から取り出した。
それは舞踏会の休憩所でレメクが女王から預かった書簡だった。内容の事実を確認するため、情報を集めやすいケニードに託されたのだが、結果を報告するのはケニードにとっても気が重いものだった。
「……これを知れば、王弟殿下はまた傷つくでしょうね……」
「私は人間ほどおぞましい生き物はないとつくづく思いましたよ。よくもこれほどまでに愚かな行為におよべたものです」
「……ひどいですよね……」
書簡の封を撫でて、ケニードは重いため息をついた。
書簡に書かれていたのは、レンフォード家が所有する公爵領の一角で起きた事件についてだった。
「孤児院を含む貧民街の全焼、ですか。……なにもかも燃やして、彼等が関わった人達を消してしまったわけですねぇ……入れ替わりが成功した時に、彼等の入れ替わりがわかる人を残しておかないために」
「……公爵家の下働きの中に、何人かの行方不明者や事故による死者が出ているのも、同じ理由からでしょうね」
「用意周到ですよ、あの公爵は。馬小屋まで燃やしてますからね。……ただし、急ぎすぎてかえって今墓穴掘ってますけど」
ケニードは頷いた。
レメクが女王から預かり、ケニードへと託したその書簡の真実をもってすれば、公爵は自分の領民の命を奪った極悪人ということになる。すでにケニードは、貧民街を焼いた犯人とその指示者の名前をつきとめていた。
「公爵はいろいろ動いていたようですからね。探せばあちこちからネタは見つかると思いますよ。それをもって、憎しみの対象を公爵に集中させることは可能でしょう。……けれど、恨みや憎しみは後に傷跡しか残しません」
「…………」
「あなた方が誘導を躊躇う理由は、それでしょう? それに……今、あの子にこれ以上辛い現実をつきつけるのは、どうかなと思いますしね」
小さな呟きに、ケニードは声の方を向き、今も大切な人の額に張り付いているだろう小さな猫を頭に思い浮かべて微笑った。
「気遣ってくれてます?」
「まぁ、あの子はレンさんにとってもご主人様にとっても大事ですし。あなた方もなにやら大切にしてますしね」
素直ではない相手の言葉に笑って、ケニードは書簡を懐に仕舞った。
「……きっと、後で知っても彼は傷つくでしょう。せっかく癒えたはずの傷が、また開いてしまうかもしれません」
「…………」
「どうするのが一番いいのか……僕にもわかりません。どの方法が正しいのかも……けど、家族みたいな人を喪って、その上、親しかった人や、今まで生活していた場所を奪われて、なにもかもを無くしてしまっただなんて……それを今教えていいのかどうか……判断がつかないんです」
「…………」
「それを決めるのは僕達じゃないし、勝手に情報を隠すのはどうかと思うんです。けど………せめて、せめてもう少し……彼が彼として、新しく生きていく道を自分で決めて進めるまでは、これ以上、辛い思いをしないでほしいと思うんです」
せめてもう少し、辛い現実をもう一度受け止めれるようになるまでは。
「……これが正しいことだとは、思えませんけど……」
ケニードの言葉に、相手はしばらくの間沈黙してから、ややあって微笑みを溶かしたような言葉を零す。
「誰かの思いを、向けられた人がどうとらえるかは、その人次第でしょう。善いことか悪いことかどうかを判断するのも、また、人それぞれです。状況を鑑みて意見することはできても、決めつけることはできません。……あなた方は、あなた方が相手を思う気持ちで、どう動くべきかを決めた。後はただ、彼がそれを知った時に判断してもらえばいい。……何故もっと早く知らせてくれなかったのかと、恨まれる覚悟もすでに出来ているのでしょう?」
ケニードは頷いた。
それは、これを知る人々が全て覚悟していることだった。
「……身勝手ですよね、僕達は」
「……それを決めれるのも、『彼』だけですよ」
声はどこまでも穏やかで、優しい。
ケニードはふと不思議に思う。
そういえば、自分はこの相手とそれほど親しい間柄ではない。なのに、思い返せばいつだって、このヒトは自分に優しかったような気がする。
「ロードは、どうして僕に親切にしてくれたんです?」
ふと気になって尋ねると、突然変わった話題に驚くことなく、相手は笑いを堪えるような声でこう返した。
「それはね、逆なんですよ。あなたが『親切な人』だったから、私もそうみえるというだけです」
なぜなら、と声は言葉を続ける。
少しだけ悪戯を思いついたような、どこか子供のような声で。
「私は、人の『鏡』ですから」




