番外編 【禁断の問いの答えは……?】
王都西区、大神殿。
そのうちの一つ、レゼウス神殿の中をあたし達は歩いていた。
一般公開されていないせいで、神殿の中は人気が無い。鐘楼へと続く上層階は特にそれが顕著で、神官の姿すらほとんど見なかった。たまに見かけるのは、重要な部屋らしき場所に立つ神殿騎士。それも片手の指で数えれる人数しかいない。
ほぼ無人の通路を歩みながら、レメクは終始、無言だった。
あたしも沈黙につきあって、黙ったまま流れていく神殿の様子を眺めていた。
『神々の王』の神殿というだけあって、レゼウス神殿は他の神殿よりもさらに豪奢でキラキラしていた。
壁も床も天井も柱も全てが装飾で彩られ、今まで『豪華だ』と思っていた王宮の廊下が、ずいぶんと地味に思えるほど。何もかもが『お宝』で、神殿がまるごと大きな宝箱のような感じだ。
……正直、この神殿を全部壊して売り払えば、王都中の人間は飢えずにいるんじゃなかろーかと心から思うのだが。
(……神様なんて……どれだけ必要なときにも、何もしてくれないのに……)
痛む目をシパシパさせながら、あたしはそんなことを考えていた。
お母さんを喪った時も、プリムを喪うことになった時も、アルが大事な親友を喪った時も、神様はなんにもしてくれなかった。奇跡なんか起こしてはくれなかった。
なのに、なんでこんなにキラキラに飾らないといけないのだろうか?
どれだけ宝物で飾り立てたって、なにもしてくれやしないのに。
「……ベル」
黒くてドロドロした気持ちでいると、あたしを抱っこしてくれているレメクがそっと声をかけてきた。
振り仰いだレメクの瞳は、どこか悲しげな色をしている。
(……おじ様……)
レメクはそれ以上何も言わず、ただわずかに目を伏せた。
あたしもしおしおと顔を伏せる。
……闇の紋章で繋がってるレメクには、あたしの気持ちは筒抜けなのだろう。
間違ったことを考えたとは思わない。思わないのだけど……悲しそうな目を見ると、胸のあたりがチクッとした。
あたしはレメクの肩に頭を擦りつけ、そのままコトンと体重を預ける。大きな手が伸びてきて、優しく髪を撫でてくれた。
嬉しかった。
けれど、せつなかった。
わずかな間にいろんなことがあって、今も頭の中がこんがらがっている。それを上手く整理できなくて、ふいに無性に叫びたくなったり、暴れたくなったりした。
けれど、こんな状態のあたしを置き去りに、時間は刻一刻と過ぎていく。寝込んでいる間に全てが終わってしまったように、時は決して待ってはくれないのだ。
(……あたしはこれから、何をすればいいのかな……)
いろんなことを見て、いろんなことを聞いて、いろんなことを知って、わずかに信じかけていたものを失った。
無力でも頑張れば頑張っただけ、未来には何か希望のようなものがあるんじゃないかと……そう思い始めていたのに、そんなものは幻想なのだと思い知らされたのだ。
力がなければ、何もできない。
全てを覆してしまえるほどの、圧倒的な力が無ければ──
(……でも、そんなの……どーやって手に入れればいいんだろ……)
あたしは途方に暮れた。
気持ちだけで「こんなの間違ってる!」と叫ぶのは簡単だったけど、その間違いをなんとかするために何をどうすればいいのかが分からない。
あたしは思わずレメクを見上げた。分からないことがあると、すぐレメクに答えを求めてしまう。
「……おじ様」
「……なんです?」
ゆっくり歩くレメクの歩調にあわせて、神殿の絵画から美女達が移ろいながら微笑みかけてくる。それは優しい笑みのはずなのに、あたしには嘲笑に見えた。
「何を勉強すれば……もっともっと、沢山のことができるようになるの……?」
レメクはあたしの問いに一瞬だけ表情を暗くし、すぐにそれを消して微笑んだ。
「ベル。……勉強は、『何を学ぶか』の前に、大切なことがあります」
「……?」
「何のために学ぶか、です」
首を傾げるあたしに、「全てにおいて当てはまるわけではありませんが」と前置きしてレメクは語った。
「どのようなものであれ、目的をもって学ぶものは、何の目的もなく他から押しつけられたものよりは、頭の中に残るものですから」
「……がんばって覚えようとしても、覚えられないものもあったのに? ……です?」
忘れかけるデスマスをくっつけると、レメクは柔らかい微苦笑を浮かべた。
「苦手なものは誰にでもあります。……学びたいと思う気持ちに、理解がおいつかないことも。焦っていっそう時間を無駄にしてしまうことだってあるでしょう。……いつだって学ぶべきことは多すぎて、時間はあまりにも少なすぎて、出来ることよりも出来ないことのほうが多いのです。『これ』と目的を決めたのなら、それは尚更でしょう」
レメクの言葉に、あたしは眉をしょんぼりと垂れさせた。
やる前から前途多難な気持ちになってきたのは何故だろう?
「ですが……ベル、時間をかけてでも、少しずつでも、身につけていくことはできます。……焦ってはいけないのです。もしあなたが何かを学びたいと思ったのなら、その何かを詳しく教えてください。目的にあわせて、じっくりと学んでいきましょう」
深い色の瞳を見上げながら、あたしはゆっくりと瞬きをした。
学びたいことを『目的をもって』学ぶ。
そのためには、まず何が学びたいかを自分で把握しないといけないのだろう。
あたしはうんうん唸って、頭の中に浮かんだことを口に出してみた。
「……誰かを助けるために……国で決められたことを壊さないといけない時、どうすればいいかは……?」
もしそんな方法があるのならば、と思って口にすると、レメクはするすると答えを返してくれた。
「三十余りある民族全ての掟と、王国が始まってからこれまでに定められた法の全てを覚え、宮廷内の権力図と領地における力関係、列国の状況を把握することが最初の一歩となります。その後、突破口を探すのです」
…………。
「…………悪い人を懲らしめてやりたい時……は?」
「刑罰に関する法を覚え、現状を把握するための情報収集能力と同時に、交渉術と煽動能力を身につけることでしょう。あと、武術」
………………。
あたしはガックリと肩を落とす。
ナゼか具体例を聞くほどに目の前が暗くなっていくよーな気がするのだが、気のせいだろうか……?
(……最初の一歩が……キビシー気がするんだけど……)
あたしは涙目でレメクを見上げた。
レメクは物静かなウツクシーお顔。
「………………神様の足についてるものは?」
「? なんの話です?」
レメクが不思議そうな顔になった。
だがあたしがソレの詳しい話をする前に、進行方向から突然伸びてきた手がひょいとあたしをレメクの腕から盗み出す。
「はいほー。ちょっとお邪魔虫しますわよ、お二人様」
あっ!
「アディ姫!!」
ビョッと体を硬直させたあたしに、相変わらず存在感のある巨乳姫は艶やかに笑う。
「んっふふー。末姫ちゃんおひさしぶりー! やぁやっぱりこのちっこい抱き心地がたまらないわ!」
失敬な!!
「もっもいまもももいまもむっ!(ちっこいのはよけいだもんっ!)」
豊かなムッチーに圧迫されながら、あたしは憤然と抗議。
救い主となるはずのダンナサマは観戦モードにでも入っているのか、さっきから全くの無反応だ。
「三日間寝込んだって聞いた時は心配したわよぅ。熱高いし、下がらないし。思わず病原菌採取しに観察セット持って走り込んじゃいそうになったのよ~」
……そんなことしそうになってたのか……このオネーサマは……
「ちょっと違うことしてたから行けなかったけど、熱があんまりにも高いから、このまま死んじゃうんじゃないかって、侯爵ってば真っ青になってたのよね~ェ。ね? コ・ウ・シャ・ク・サ・マ?」
あたしをムッチリに挟み込んだアディ姫は、嬉しそうな声でモチモチ動く。
今! まさに!! あたしが窒息しそうで真っ青になっているのですが気づけ乳姫。頼むから!
そんな極限状態のあたしをレメクが静かに指摘した。
「……アデライーデ姫……ベルがそろそろ限界です」
遅いよ!
「りゃっ。まだ百二十三秒しか経ってないんだけど」
時間計んな!!
「前はもうちょっと長くいけたはずだから、やっぱり体力落ちてるのねぇ……」
地面に下ろされたあたしは、大きく息を吸いながら涙目で二人を睨み、逆方向へダッシュする。
ぐれてやる!!
「うわっ!」
「むぎょ!」
しかし走ったその先には、邪魔な物体がデンと直立していた。
ぶつかって吹っ飛び欠けて慌ててソレにしがみついたあたしは、既知の感触に相手の正体に気づいた。
「アル!!」
唖然とした顔であたしを見下ろすのは、元アルトリートこと現クリンクリンじゃないクリストフ。確か王族名がアルなんとかの、面倒くさいので呼び名『アル』だった。
あたし達は揃ってビックリ顔で互いを見つめ合う。
あたしはアルを見つめたまま足にガシッとしがみつき、そのままシャカシャカと登った。
「ちょっ……うわっちょまっこらどーゆー登り方してやがんだテメェは!」
そのままシャカシャカと定位置である肩まで登りきって、あたしは肩車の位置に体を落ち着ける。
そのままガッシとアルの頭を抱えて髪に顔を埋めた。
「おいこらまた何か冷たいもんがポタポタと!」
ええ。ポタポタと。
「コラちみっちょ! ……ちみ……っちょ…… ……?」
焦ったような怒ったような声は、すぐに戸惑った声にかわった。
あたしは頭にしがみついたまま鼻をすすりあげる。
レメクがしばらく無反応だったのは、きっとアルを見たからなのだろう。レメクと違って常に匂いがしないから気づかなかったけど、たぶんアディ姫と一緒にいたのだ。
あたしはアルの頭をギュッとする。
顔を見た瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。
三日ぶりに見たアルの顔は、前とは比べものにならないほど窶れていた。顔色だってひどいし、目も目の縁も赤くなっている。
どれだけ泣いたんだろう。
どれだけ悲しんだんだろう。
あたしが悲しいって思った気持ちの何倍も、きっと悲しくて辛かったに違いない。
なのにその顔を見た途端、最後に見たアルトリートの顔が浮かんで涙がブワッときた。一番悲しんでいるのはアルなのに、自分の気持ちを抑えられなかった。
「~~~~ッ」
せめて泣き声だけはあげるもんかと口を固く結んで、あたしはアルの頭の後ろで自分自身と戦った。ふいに匂ってきたアルの匂いは、悲しいのと苦しいのとがいっぱいで、胸がギューギューと締めつけられる。
声を押し殺してしゃくりあげるあたしの頭を大きな手がくしゃりと撫でた。
レメクのよりちょっだけと小さくて、レメクのより硬くない手だ。
「…………ありがとな……ちみっちょ」
あたしはグッと息を殺して衝動を堪えた。
一瞬、大声をあげて泣きそうになった。
──だけどそれは、我慢しなきゃいけないのだ。
「あいつのために歌ってくれて……あいつのこと……思ってくれて」
ありがとうと、言われた言葉にまた涙が出た。
あたしは、アルとアルトリートの間にある沢山の思い出も、気持ちも知らない。
だけど言葉に込められた思いに、匂いで感じる気持ちに、こんなにも胸が痛くなる。
(アルにとって、アルトリートって……)
あたしにとってのお母さんのように、『世界のほとんど』と言えるような、大きな存在だったんじゃないだろうか。
(なら……)
──なら、それを喪った彼はこれからどうするんだろうか?
あの時のあたしには、プリムがいてくれた。力一杯体当たりで、あたしを引っ張り出してくれた。
アルは誰が引っ張り出してくれるのだろう? 誰が助けてくれるのだろう?
くしゃくしゃと頭を撫でてくれるアルの手にまた泣いて、あたしはしゃくりあげながら顔を上げた。
ふと、こちらを見ている二人と目があう。
(……ああ……)
ストンと、グルグルしはじめた気持ちが落ち着くのを感じた。
(……アルは、一人じゃない……)
大丈夫だ、とは思わない。それはあたしが断言できることじゃない。
けれど、傍にいて、ちゃんと見てくれている人がいる。
──独りじゃないのだ。
「……クリンクリンちゃん」
「……まて、アディ。それ、俺のことか……?」
ぐしゅぐしゅ言ってるあたしの前で、アディ姫が腕組みで胸を強調させながらニンマリと笑った。
その視線に捉えられたアルが、微妙に逃げ腰になっていく。
「だーって、アルルンって呼べないんじゃ、クリンクリンちゃんって呼ぶしかないじゃない」
「なんでそうなる!? つーかそれ、ちみっちょと同レベルの呼び名の付け方じゃねェか!?」
……どーゆー意味だ?
アルの髪の毛をギュッとすると「いてー」と抗議の声をあげられた。
抗議をあげたいのはあたしの方だ!
「だ、だいたいなぁ、アディ! 『ちゃん』付けって何だよ!? 俺の方が年上だろ!?」
「……だってねぇ……クリちゃんってば年はあたしより上のはずなんだけど……ちっとも年上って感じしないっていうか同年代っていうかむしろ年下っていうか……」
「うっせぇ! つか、そこは普通に『クリス』だろ!?」
なんかアルの耳が赤くなってる。
……てゆか、年下っぽいって言われて反論できないんだな……アルってば。
あたしとレメクはなんとも言えない表情で目を見交わした。
この二人、ウマが合うんだか合わないんだか、ビミョーに分からないんだけど、どういうことだ?
「まぁ、それは横に置いておくとして」
「置くな!」
「猊下にお目通りしたいって連絡、先に回しておいたのに、ここで喋って時間潰してちゃダメなんじゃないかな~って思うのよ、あたし」
「うっ」
あたしを頭に装着しているアルが、ビクッと大きく震えた。
アディ姫は心配そうな演技顔で小首を傾げる。
「猊下もお忙しいから、そんなに時間とれないでしょうし。さくっと行ってきたほうがいいんじゃないかしら? 末姫ちゃんもつきあってくれるだろうし」
アルがあたしを仰ぎ見た。
頭上から覗き込んだあたしと目を見交わしてから、アディ姫の方をチラと見る。
「お……」
『お』?
「……いや……そうだな」
ムッチリ姫に何かを言いかけ、けれど彼はすぐ気まずげに視線を外した。
何を言いたかったのか分からないが、視線が向いていなかったから『おっぱい』では無さそうだ。
(……なんか……レメクがすごいジト目であたしを見てりゅ……)
ジト目レメクに「なんでせぉ?」の視線を向けていると、アルがもう一度あたしを見上げた。
おっと! 肩から落っこちそうになりましたよ。
「つーか、ちみっちょ、そこにくっついてたら、教皇の所に一緒に行くことになっちまうぞ」
「むぉ?」
言われて、あたしは目をパチクリさせた。
アルルじーちゃんに会いに行くのは別にいいのだが、むしろあたしがくっついていって
いいのだろーか? ──あと、レメク。
そのレメクに視線を向けると、横っちょにいたアディ姫がニッコリと微笑んだ。
「装着したまま行くといいわよぅ。あたし達はちょっと大人の話し合いしないといけないし。……面倒な話だから、末姫ちゃん、一人話に置いてきぼりになっちゃうでしょ?」
「む!?」
『大人の話し合い』!?
その言葉に、あたしはビカッと目を光らせた。
「さてはオネーサマ! おじ様を誘惑する気ですな!?」
「しないわよぅ。というより、できないわよぅ、こんなに気持ちが枯れてる人~」
…………どーゆー意味だ?
「だからねぇ、そっちにくっついてってる方が、末姫ちゃんも寂しい思いしなくてもいいんじゃないかなーって思ったの。それともそれとも? あたしがついて行ったほうがいいのかな? ん?」
「い、いらねぇよ!」
ナゼか慌ててアルが数歩分後ろに下がった。
宛然と微笑むアディ姫を見やった後、あたしはレメクの方を見る。
レメクは何も言わず、ただ静かに頷いた。
あたしも頷く。そして胸をドンと叩いて請け負った。
「アルはあたしに任せておくのです! ちゃんと監視するのですよ!」
「なんでおまえが俺の監視だよ!?」
「お願いね~末姫ちゃん~」
「お願いされるのかよ!?」
もちろんだとも。
あたしはしっかりと頷いてから、何故か同情気味な顔になったレメクに向き直り、アルの肩の上で背伸びした。
「おじ様! さっきの答えは帰りがけにまた尋ねるのです!」
「……『さっきの』?」
不思議そうな表情を一瞬だけ顔に浮かべ、彼はすぐに頷いた。
「神様の足の、という問いですか」
「そうなのです!」
「!?」
なぜかアディ姫がギョッとなって五歩分の距離を一気飛び。
それを不思議そうに見やってから、レメクは首を傾げつつ頷いた。
「何のことなのか、後であらためて聞かせてもらいます。……私達は『太陽の間』の方にいますが、こちらの話が終わってから迎えに行きますので、猊下の部屋で待っていてください」
「待ってるのです!」
ビョッと伸び上がって、あたしは全身でマッテルワをアピールした。
それを見て、ようやくレメクが作り物めいていない笑みを零す。少し肩の力が抜けたようなその表情に、あたしもちょっとだけホッとした。
「さー、アル。行くですよ」
定位置の肩車に戻って、あたしは今までレメクが向かっていた方向をビシッと指さした。
アルは一瞬だけレメクの方を見かけ──慌てたように視線を逸らす。
そして、やるせないため息と同時に歩き出した。
人の肩に乗っていると、体がゆっさゆっさと大きく揺れる。
あたしは小さな体の利点を生かして、アルの頭にしがみつくことで大揺れするのを防いでいた。抱っこしてくれている時と違い、この体勢は揺れ幅が大きくてイカンのだ。
かわりに視界はすこぶるイイのだが。
「……なぁ」
しばらく無言で歩いていたアルが、肩に乗ってるあたしに声をかけてきた。
「なに?」
「……その、よ……」
何度か言いよどみ、言うべきか言わざるべきか迷ってから、アルは魂が抜けたようなため息をつく。
「いや……なんでもねぇ……」
あたしはアルの髪の毛をギュッと掴む。
問いたかったのはアルトリートのことなのだと……直感で分かった。
というより、彼が今、問いたそうなことなんて……他に思いつかない。
「……アル」
「……ん?」
あたしから声をかけると、やっぱり魂が半分以上どっかに行ってそうな声で返答される。
さらにギュッを強くして、あたしは声を落とした。
「あたしね……アルルじーちゃんに尋ねたいことがあるの。……ですよ」
「……そのじーちゃんが誰なのか、ちょっと怖い想像になるんだけどよ……」
「アルルじーちゃんって言ったら、教皇サマなのですよ」
「……ソレが怖いっつーんだが……てか、おまえ、その珍妙な話し方ってどうにかならねぇのか?」
珍妙とは失敬な。
「言葉の後ろには、ちゃんとデスマスをつけないとイカンのです! だから頑張ってつけてるのよです」
「……いや、明らかにソレ以前の問題が」
どんな問題だ。
「……まぁ、どうせ、他の連中がよってたかって直させるだろうけどな……おまえ、王宮にずっと残るんなら、ちゃんと言葉遣いもきちんと直しておけよ。……こういう……肩車とかもよ、しないようにしとけよな」
「? アルはもっと大変なんじゃないの? 王族になるんだから。です」
「……そこは『です』いらねぇ」
力無く笑いながら、アルはその点について返答してくれなかった。
それっきり黙ってしまったので、あたしも口を噤む。
静かだった。
ただ足音だけが人気のない廊下に虚ろに響いていく。
心が空になりかかっている人の足音は、どこか乾ききった土の音に似ていた。
体重がどこにかかっているのか分からない音。軽い音なのに、重く感じる『何か』。
あたしは顎をアルの頭に乗せた。
アルの心は……此処に無いのだ。
少なくとも半分以上は、『此処』ではなく、『何処』ですらもない場所に飛んでいってしまっているのだろう。誰かが繋ぎ止めておかなければ、残っているもう半分もそちらに飛んで行ってしまうかもしれない。
(……家族が欠ける、っていうことは……)
たぶん、自分の心の大切なものが、大きく欠けてしまうということなのだ。
失ったそこに何かを入れて、代わりにしようとしても出来はしない。
欠けた形はきっと喪った人と同じ姿をしていて、誰もそれを代わりに埋めることはできないのだ。
日常のちょっとした会話に──景色に──匂いに──足音に──生きてこの目で見る全てのものの中に、いつだってその人は住んでいる。
全てのものに、思い出がある。
──それはひどい痛みであり、耐え難い悲しみでもあるけれど……
けれどその中に──どうしようもないほどの、「大好き」と「ありがとう」があるのだ。
──その人と共にあることができた世界と、大切なその人への思いが。
(……アル……)
アルもいつか決着をつけるのだろうか。他に教わることはできない、自分で気づいて納得して決着をつけなくてはいけない、切なくて悲しい現実に。
(……アルトリート)
あたしは心の中で、もういなくなってしまったその人に語りかける。
アルのことを最後まで気にかけていた、アルにとって大切な家族……
(……アルを守ってね……)
零れた涙を拳で拭って、あたしはしっかりと前を見据えた。
ほぼ無人だった廊下に、人の姿がチラホラと見えはじめる。
何故か唖然とした顔であたしの方を見る彼等に、小さく手を振ってみた。
と、アルが不意に立ち止まる。
「?」
あたしは進行方向に視線を向け──すぐに破顔した。
「バルバロッサ卿!」
デカイ熊男が、そこにデンと立っていた。
「おぅ。嬢ちゃん。熱下がってよかったなぁ──っと」
相変わらずどっしりと太く重い声で言ってから、バルバロッサ卿は慌てて自分の口を塞ぐ。
それから、とってつけたような恭しい態度であたし達に一礼した。
「失礼いたしました。殿下のお加減が悪いと聞き心配しておりましたが、熱も下がられたようで何よりです。猊下へのお目通りについては伺っておりますので、どうぞこちらへ」
あたしは目をパチクリさせたが、アルは何も言わずにバルバロッサ卿が開けてくれた扉の中に入った。
すれ違う一瞬、あたしはチラッとバルバロッサ卿を見る。
バルバロッサ卿はどこか沈んだ感じの微苦笑を浮かべ、あたしに向かって小さく頷いてみせた。
あたしも反射的に頷き、視線を部屋の中へと移す。
異様に広い部屋の中、上品なカウチに座って、いかにも厳格そうなおじーちゃんがこちらを見ていた。アルルじーちゃんだ。
「おじーちゃま!」
声をかけると、なぜかホロリと半笑い。
「……許可した以上、慣れんといかんのだろうが……少々、早まった真似をしたと思わんでもないな……」
「……つーか、ちみっちょ。おまえ、その位置にずっと居続ける気か?」
肩車してくれているアルに言われて、あたしは「おっと」と慌ててアルの肩から飛び降りた。
「うわっ」
何故か驚くアルを尻目に、綺麗に背後に着地する。途端、ぐらっと大きく傾いだ体をすぐ傍で控えていたバルバロッサ卿がどっしりと支えてくれた。
「殿下。あまり無茶はされませんように」
アルルじーちゃんの前だからか、バルバロッサ卿は恭しい口調のままだ。
あたしは周囲を素早くチェックし、部屋の中にアルルじーちゃんとあたし達以外いないのを確認してからアルの横に並んだ。
えーと……えーと……
「おじーちゃま。ごきげんうるわしぅ」
足をちょいと引いてチョコリと挨拶。アルルじーちゃんの顔が少しだけほころんだ。
「……なるほど」
……なにが『なるほど』なんだろーか?
「女王が笑いながら言っておったのは、ソレか。……あの馬鹿助がメロメロだとか言っておったな。……実際に馬鹿助がどういう趣味になったのかは知らんが、子もおらんうちに親心が育ってしまった感はあるな……」
ぶくっ、という変な音が聞こえて、見るとバルバロッサ卿が口を手で押さえて笑いを噛み殺そうとしていた。
それを無視して、アルルじーちゃんは自分の前の椅子を指し示す。
「まぁ、立ち話もなんだ。……座るがいい。見上げながら喋るというのも、堪える」
言われて、あたしとアルは慌ててアルルじーちゃんの前に座った。
椅子に座る前、アルが一瞬、どういう風にして座ればいいのか、という顔をしていたのが妙に印象的だった。
「さて……話がある、ということだったな」
居心地悪そうにフカフカ椅子に沈んでいたアルは、アルルじーちゃんの声にハッと顔を上げる。
その顔が一瞬で引き締まった。
「ああ。……言っておきたいことがあって、来た」
偉大な教皇サマに向けるには、あまりにもひどい言葉遣いだった。とはいえ、アルルじーちゃんの傍らに立ったバルバロッサ卿はといえば、目を瞑ってそ知らぬ風を装っている。
アルルじーちゃんも、言葉遣いを咎めるわけでもなく、眼差しだけで先を促した。
アルは相手の瞳をひたと見つめ、ハッキリと言葉を口にする。
「俺は王族にはならない。……王弟だなんて、まっぴらごめんだ」
「……ふむ」
目をまん丸にしたあたしは、アルルじーちゃんの声にハッとなってそちらを向いた。
どういうわけか、アルルじーちゃんは静かな表情のままだった。全く驚いていない様子に、あたしは傍らに立っているバルバロッサ卿の方を見る。
バルバロッサ卿も一切表情を変えず、彫像のようにそこに佇んでいた。
「王位継承権の放棄、ということか」
「……そうだ」
アルルじーちゃんの声に、アルはキッパリと頷く。
意志の固そうなその顔に、アルルじーちゃんはため息をついた。
「……他国では、実例もあるな。それを見れば、王位継承権は己の意志で破棄できるものだと──とらえるのが普通であろう。だが……ことナスティアにおいて、それは当てはまらん。王家の血をひく王族は、認められた後は、死ぬまで王族だ。それをやめることはできん」
「な……!」
その言葉に、アルは目を剥いた。
「なんでだよ……いらねぇっつってんだろ!?」
「ならば、なぜ最初に受けた、という話をせねばならん。……それはおまえにとって苦痛であろうが」
「受けたのは俺じゃねぇ!」
思わず立ち上がったアルに、おじーちゃまは静かな表情のまま首を横に振った。
「いいや。おまえだ」
「俺は……!」
「儂は、クリストフという名の男に王族の名を与え、王家の一員と認めた。女王もこれを認め、そのことはすでに大祭の間に公然のものとして広まっておる。……他国の目があったからな。今更無かったことにはできん。国の内外に正式な文書を発信していないというだけのことだ。この事実は消せん」
「…………」
「それが出来るのであれば、今の結果は最初から無かった。……儂から言わせてもらえば、何故この時期を選んだのか、と……そういうことになる。……王族というのはな、他の者が考えるよりもおぞましく、そして不幸なものだ。王家の血をひく者は、大なり小なりそのことを知っておる。知らぬのは、王家の直系として育ちながら、責務を放棄した前王とその妹ぐらいなものだろう。栄光と富だけしか目にせず、国を維持することの労苦を全て他の者に肩代わりさせた……他の愚かな貴族も同じだな。国の財産を個人の財産と勘違いし、それを使うことができるのが王だと誤解しておる」
言って、アルルじーちゃんは深いため息をついた。
「王族とは、国に繋がれた奴隷だ。どれほど忌避しようとも、血からは逃れられん。女王にしたところで、本当なら王座など捨ててしまいたいというのが本音だろう。だが、それは許されておらん」
「……誰が許さないって言うんだよ」
「ナスティアだ」
その言葉に、あたしとアルは揃って目を丸くした。
「「ナスティア?」」
「そうだ」
頷き、アルルじーちゃんは椅子に背を預けてもう一度ため息をついた。
「この国を作ったナスティアは、王族に掟を課した。血族の掟、というものだ。曰く、我が血を引く者、王族としての責務として、この国の維持と繁栄に尽くせ……という感じのな」
「そんなのは……」
「国を作った者なら誰でも言うような、どこの国にでもある創始者の言葉……そう言って終わらせられるのは、他国の者だけだ。この掟は遵守せねばならん。これは義務だけで言っておるのではない」
厳しい声で言われて、アルは開きかけた口を閉ざした。
睨むようにして見つめるアルに、威厳を正した教皇サマは厳かに言う。
「この国にもし王族がおらぬようになれば、紋章の器となる者もおらず、儀式すら執り行えぬようになるだろう。そうなれば、地底から招かれぬ客が這い寄って来る。ナスティアが暁の賢者等と共に封じた魔物達がな」
「……どこのお伽話だよ……そりゃ」
「史実だ。……かつてこの国を維持しようとし、強い力を求めて直系の子等が間違った婚姻を繰り返したのも、なんとしても力を維持し、封印し続けねばならんと思ったからだ。結果としてかえって王族の出生率低下を招いたがな……。ただでさえ魔力の強い子供は、同じく魔力の強い母体からでしかほとんど産まれん。……おまえの父親が、下劣な行為を繰り返しておったのに、それを強く咎められんかった背景も、そこにある」
「……あわよくば、子供が生まれるように……ってか?」
「そうだ」
吐き捨てるように言ったアルに、おじーちゃんは疲れたため息をつく。
「儂に子を成す能力があれば、儂も夜毎寝所に女性を呼ばねばならんかったろう。女性と違って、男は一年に何人でも子を成せるからな」
「…………」
「王族が少なくなった時、王族の男子にはその義務が課せられたことがある。先代以前の代の話だがな。だが、儂にはそれを課せられなんだ。……近親婚を繰り返した一族の呪いのようなものでな。生まれつき子を成すことはできんと定められておったようだ」
さすがに絶句してじーちゃんを見るアルに、苦笑めいたものを浮かべてアルルじーちゃんは嘆息をついた。
「外見的には他の者と同じだ。だが、闇の紋章でそう判断されたのだ。間違いはなかろう。……儂が子供の頃、王宮を出て他国に留学したのも、ベラがかつて王位を蹴ったのも、それが理由だ。……あの者もまた、儂と同じ定めを負っておったからな」
「……ベラおじーちゃんが?」
レメクの義父でもあるその人のことは、レメクが語ってくれた内容でしか想像できない。
どこか豪快でおおらかでちょっと茶目っ気のある、そんなおじーちゃんを想像していた。
「あやつも、儂も、人には言わなんだが何年も悩んだ。……だが、今はその話ではないな。……それに、今の王は、王族だからといって無理やり子作りをしろと言わん。無論、おまえが望むのなら、いくらでも女をあてがおう。王族を増やしてくれるのは、有り難いことだからな」
言われて、アルはわずかに赤面しながら叫んだ。
「誰が……!」
「と、反発するだろうということは、おまえを知る者達から聞いておる。まぁ、最低でも一人は娶ってもらわねばならんだろうが……それもまた、後の話であろう。……だが、現状、王族をやめることはできんと明言しておく。……おまえの意志は関係ない。それができるのであれば、王族の誰もが同じ事をしておる」
「…………」
アルは口を引き結び、怒りをこめた目でアルルじーちゃんを睨みつけた。
アルルじーちゃんはその目を真正面から受け、一言一言力を込めるようにして言った。
「だがな、儂もおまえに、王宮に残って王族としての責務を果たせ、とは言わん」
「…………?」
「おまえも、王族をやめるというからには、他に何かしようというものがあったのではな
いか? ──例えば、神官とか」
「……!」
ギョッとなったところを見ると、どうやらアルルじーちゃんの指摘は正しかったらしい。
目に見えて狼狽えるアルに、おじーちゃんは苦笑した。
「クリストフ、という男を王族でなくすことはできん。だが、おまえが別人になりすまし、別の生活を送ることは許容しよう。……これは、女王からの嘆願でもあるからな」
「……女王……」
口の中で呟いて、アルは少しだけ顔を歪めた。
あたしは黙ってその様子を眺める。
アルの表情は、なんだか泣きそうな子供の顔に見えた。
「王宮のおぞましさも、玉座の苦痛も、あの女王は誰より知っておる。……おまえ達には、それを押しつけたくないのだ。故に、本来なら許されぬ自由がおまえには与えられている。……だが、野放しにはできん。監視役をつけ、その者と共に行動してもらうことになるだろう」
「……それって、自由って言うのかよ?」
「ほとんど王宮から出ることを許されず、玉座と執務室に半ば縛られて生きることに比べれば、余程自由だと思うがな」
「…………」
アルは長い間押し黙り、ややあってから「……わかった」と小さく頷いた。
その答えを受けてから、アルルじーちゃんは口を開く。
「本来なら、身分は王族として大神官以上の扱いを受けるのだが……」
「いらねぇ」
「……だろうな。だが、そうなれば、それなりに過酷な日々となるかもしれぬぞ。儂が言うのもなんだが、今の神殿はほとんどが腐っておるからな。何の後ろ盾もない状態で新参者が突然神官として入れば、必ず波風がたつであろう」
「上等だ」
「……その無知な勇ましさはともかく、下手に厄介事に巻き込まれて死なれても困るのでな、ここにいるルドゥインにおまえの後見をしてもらう。同じ神官職だ。力になれるだろう。……後見が儂では、正体を疑ってくれと言っているようなものだからな」
「…………」
アルは何かを言いかけたが、結局何も言わずに口を閉ざした。
その様子に、アルルじーちゃんはわずかに眼差しを細める。
「言いたいことは山とあろう。恨みも憎しみも、口に出して楽になれるのなら言うがよい。責は全て儂等の代にある。女王やレンドリアは、己の責だと言っておったがな……全ての過ちの元は、あやつらの代ではない。それ以前の代である、儂が負うべきものだ」
「…………」
「憎しみを晴らす手段が欲しいのなら、がむしゃらに上を目指すのがよかろう。いつか儂から教皇の位を奪い、その権力を有するがよい。その権力をもってすれば、出来ることも多くなろう。……老いた儂には使えなんだ力も、若いおまえならば使えるだろう」
アルはしばらくおじーちゃんをジッと見つめていたが、ややあって、何かを憚るような声で問うた。
「……第二妃が生んだ王子が行方不明だっていうのは……俺と同じように、王族として生きることを拒んだからか?」
「いいや……」
アルルじーちゃんは静かに首を横に振る。
その顔には疲れた色が滲んでいた。
「アレは……命の危険なあったからだ。当時、王宮は荒れておった。実際、あの者は幾度も生死の境を彷徨った。何度も誘拐されたし、殺されかけた。樽に詰められ、荒れた海に放り込まれたこともあれば、血の半分以上を失う重症を負ったこともある。……忌々しいことだが、あのド阿呆の悪魔がおらねば、アレの命などとうの昔に尽きておったろう」
……ド阿呆の悪魔ってのは、もしかしてポテトおとーさまのことだろーか?
(おとーさまってば、レメクのことだけじゃなくて、王子サマも守ってたりしたんだろーか?)
首を傾げたが、アウグスタが望めばやってくれそうな気はするから、きっとそういうことだったんだろう。契約とかそーゆーので。
……って、ん?
(……あれ? でも、願い事は三回までで……おじ様が前に倒れちゃった時、アウグスタは『二回目』がどうとか言ってなかったっけ?)
あたしは首を傾げた。
だが、名推理を働かせる前に、アルの声に思考を中断してしまう。
「そんなことが……あったのか……?」
「一般には知られておらぬがな。……先王は己の子に一切の関心を持たなかった。名を与えただけでも驚きだ。……女王には、名すら与えなんだ父親だからな」
「…………」
「だが、それが周囲の反感を買った。第一王妃にとっては、屈辱以外のなにものでも無かったろうが、むしろ取り巻きの反応の方が問題でな。権力図の入れ替えを狙って王宮が二つに割れる事態にまで発展した。その結果、原因を取り除けばいいと、アレの命を狙う者も増えてな……このままでは危ういということで、重症を負ったのを機に療養をかねて別地に移したのだ。……もっとも、重症を負わせたのは、第二王妃だがな」
「!?」
アルトリートは息を呑み、なぜかあたしを見下ろした。
あたしもビックリして息を呑んでいたのだが、何故あたしが見下ろされるのかが分からずにアルに向かって首を傾げてみせる。
……アルが慌ててあたしから視線を外しやがりました。
「王宮に、安全な場所はほとんど無かった。あの当時は、王位継承の問題もあってな……危険だったから身を隠すように指示したのは女王だ。……あの娘は、あやつを心から愛しておった。息子のようなものだ。アレと命のやり取りをせねばならんぐらいなら、全ての泥も毒も自分が浴びると言って、密かに王宮から出し、信頼する者に預けて『行方不明』としたのだ。……そのせいで、一部には色々と誤解を与えたがな」
ふむふむ。
「ということは、メリディスの王子様は、いまも元気なのですな?」
唐突に口を挟んだあたしに、アルルじーちゃんは真剣な目であたしを見つめてから、
「……王子……まぁ……そうだな」
などと妙に言いにくそうな感じに答えを返してくれた。
……なんか、オトーサマの反応にちょっと似てる気がするのは何故だろーか。
「ゴホン……まぁ、そんな感じで、おまえとは事情が違うが、おまえと同じように別地にて過ごしておる。……アレも王族の血からは逃れられんかった男だ。何があっても生きなければならんかった。……生きる意味も理由も持たなくてもな」
アルは一瞬だけ痛みを堪えるような顔になったが、すぐに俯いて表情を隠した。
けれど、斜め下にいるあたしには彼の表情はよく見える。
──迷子になって泣きそうな顔だと思った。
あたしは黙ってしまったアルを見上げ、一生懸命頭の中で言うべき言葉を整頓した。
預かっていた言葉があるのだ。
それはきっと、今、言うべき言葉だろう。
「アル。あのね……あたし、アルに伝言を預かってるの」
「……?」
わずかに目を瞠って、アルはあたしを見つめた。
その姿に、あたしはかつて見たその人の姿を重ねてしまう。
あたしに伝言を託した、今はいない人の姿を。
「『あのコインの片割れは、ボクの墓に入れてくれ』って」
「!」
その言葉で、誰からの伝言なのか分かったのだろう。
大きく息を吸ったアルの顔は、驚愕と悲哀に染まっていた。
「『あれはボクだけのものだから』って」
「…… …… ……」
アルの唇が戦慄く。
けれど、言葉は紡がれなかった。
だから、かわりにあたしは言葉を続けた。
「それからね、『女王達は無茶をして公爵をぶちのめしたのだろうから、ちゃんとそういうところも見ておけ』って。……アル。あの人は言ってたよ。『自分のことで女王達を恨むな』って。……アルのこと心配してた。アルは単純だから、感情に引きずられてどう転んじゃうか分からないから、心配なんだって」
アルの顔がくしゃくしゃに歪む。
その瞳から何の前触れもなくぼろぼろと零れた涙に、あたしは自分が泣きそうになるのを必死に堪えて言った。
「あたしにも、言ってくれたの。『おまえはおまえの人生を歩め』って。……でもね、たぶん、アルに向けても言ってたんだと思うのよ」
アルトリートはきっと、アルが誰かを憎むことを望んでいないだろう。
接することができたのはわずかな間だけだったけど、その間に伝わってきたのは、ただただ、暖かくて優しいものばかりだった。
あたしには、何故彼があんなに穏やかな表情をしていたのかが分からない。自分は処刑されてしまうのに、本当に優しく笑っていた……その理由が分からない。
それでも、最後の時までずっとアルのことを思っていただろうから、そのアルが自分のことで誰かを恨んで生きるのは、喜ばないんじゃないだろうかと思った。
……そう思わずにいられないほどに、彼は、満ち足りた笑顔をしていたのだ。
「……あの者の墓は、レンフォードの敷地に建ててもらうことになった」
堪えきれずに涙を零したあたしの耳に、アルルじーちゃんの声がそっと響く。
「レンドリアが次の公爵に頼み、引き受けてもらっておる。件のコインも、中に収められた。だが……もう、棺は蓋を打ちつけておる。……悪いが、神職にある者として、棺を開けることは許せぬ」
「……俺には……最後の挨拶もさせてくれねぇってことかよ……」
「棺の前までは案内できよう。……だが、開けることは許されぬ。閉ざした棺を開けることは、死者に対する冒涜だと言うのが一般的な理由だが……王族の自害用の毒は、死後数日間、遺体から毒素が出る。もともと、自害せねばならぬほどに追い込まれた時、敵を一人でも多く道連れにするために作られた毒だったからな。……解毒薬は無く、遺体から出る毒の濃度も濃い。……それに、レンフォードは遠方だからな。遺体を損なうことなく、眠りにつく地に運んでやりたいと思うのなら、早くレンフォード家の土地に連れて行ってやらねばならん。……出発はもうすぐだ」
聞くや否や飛び出しかけたアルは、いつのまにかドアの前に立っていたバルバロッサ卿に目を剥いた。
「どけよ!」
「ご案内つかまつります」
「……ッ」
恭しく一礼し、すぐさまドアを開け、こちらに対しても一礼して出て行くバルバロッサ卿に、アルは唇を噛みしめながら後に続いた。
残されたあたしとアルルじーちゃんは、半開きになったドアを見つめてからそっとため息を落とす。
「……心の拠り所を失ったのだ……時間がかかろうな……」
ぽつりと呟かれた声に、あたしはアルルじーちゃんを見た。
おじーちゃんはどこか遠くを見るような目で、アルがいた場所を眺めている。
「恨みでも、憎しみでも、生きる糧となってくれるのならばよかろう。……だが、憎悪で生きる者はそれを無くした時、生きながら死人となる。……残るのは空虚な残骸だけだ」
アルルじーちゃんの声には、それを体験した者だけが持つ深さと重みがあった。
あたしはアルルじーちゃんを見つめる。
アルルじーちゃんにも、あたしの知らない沢山の人生があるのだ。
「……そういえば、娘よ。おまえは、あの者の付き添いとして来たのか?」
……あいっかわらず、名前では呼んでくれないんだな……おじーちゃま。
「おじーちゃまにコインのことを尋ねたかったのですよ」
「……ふむ」
「でも、解決したのです。あとはおじ様に聞きたいことがあるから、おじ様が迎えに来てくれるのを待つのですよ」
言ってから、あたしは「あっ」と声を上げた。
「おじーちゃまが教えてくれてもいいのですよ」
「? 何か分からんことがあるのか?」
「あい! 神様の足についてるものが何なのか、誰も教えてくれないのです」
「……足?」
アルルじーちゃんは怪訝そうな顔になった。
神様に一番近い人なのに、ピンとこなかったらしい。
「神様の足には見慣れないものがついてたのです。それでアレが何なのか神官さんやお義姉様に聞いてみたのです」
「……それで、答えてもらえなんだ、ということか」
「そうなのです! みんなすぐに目を背けてしまうのです。何でも知ってるおじ様に聞くしか方法が無いのですよ」
「あの馬鹿助は、べつに何でも知っているわけではないが……しかし、問われて答えぬというのもけしからんな」
「けしからんのです」
「ふむ……」
白い髭を撫でながら、おじーちゃまは黙考した。
「だが、神々の足についているもの、と言われても、何を指しているのか分からんな。翼のついたサンダルを履いておる神もおれば、束縛の革紐を足に括りつけた女神もおったはずだが……」
「なんにも身につけてない神様なのですよ」
「……なに?」
「太陽の神様の像なのです」
その瞬間──
アルルじーちゃんの顔が激変した。
威厳も何も吹っ飛ばし、驚愕と狼狽と後悔を足して三で割らなかったよーな奇妙な顔。ある意味今までで一番反応が劇的なのだが、やはりその理由は不明である。
……というか、問う度に周りの人が変顔になるのはどうゆうことだ?
あたしはしばらくその珍妙な顔を見上げていたが、いつまでたっても動かないので座っていた椅子から飛び降りた。硬直したままのおじーちゃまの傍まで行って、指先で膝をツンツンツン。
「……そ、の」
お。動いた。
「像、をっ……見て、か!?」
……なんだろう。その、後悔ここに極まれり、みたいな顔は。
しかし、その表情の謎はともかく、とりあえずアルルじーちゃんは答えを知っているらしい。
あたしはワクワクしながらおじーちゃんの答えを待った。
とりあえず待った。
ひたすら待った。
……だいぶ待ったと思うのですよ?
「「…………」」
ジッと見上げ続ける姿のまま、あたしはもう一度膝を指でツンツンつつく。アルルじーちゃんは、固まったままの姿でギクシャクと口を開いた。
「……娘よ」
「もい」
「……それは、だな……」
「あい」
「………………レンドリアに…………問え」
──けしからん!
「問うて答えないのはどーとか言ってなかったですかおじーちゃま!」
「問われても答えれん問いも中にはあるのだこの馬鹿娘!」
「ひどいのです! あたしのワクワクを返してほしいのです!」
「ワクワクするな! だいたい、なぜまた唐突にそんな問いを思うに至った!?」
「フェリお義姉様が素晴らしい像だからって見せてくれたのです!」
「~~~~ッ」
なんかおじーちゃんの口から教皇にあるまじき呪詛っぽい言葉が漏れた気がするが、たぶん気のせいだろう。
「おのれいくら素晴らしい神像といえど、わざわざ小娘もとい幼子もとい成長停止半赤子幼児に見せるべきものでは無いと何故分からなんだ……!!」
……気のせいじゃないかもしれない。
というか、ひっそりと人の心を抉る単語が含まれていた気がするのだが教皇サマあとでちょっとオボエテロ。
「く……どこから……むしろ何故儂が……!!」
何気にヒドイおじーちゃまは、苦悶の表情で頭を抱え、俯いた姿でブツブツ呪文みたいに呟き出す。なにやらオシベとメシベがどーとか言っているのだが、何の呪文を唱えているんだろーか。
「──いいか、娘」
あ。復活した。
「その問いは………………なんだ……その……あまり口にしてよい類の問いでは無いのだ」
「分からないものは尋ねないと分からないままなのですよ」
「相手を選べ!! そんなものはだな、おまえの義母になった女王か、いっそ年頃になってからレンドリアに全部教えてもらえ!」
──神様の足のモノは年齢制限があるらしい。
あたしは諦めの入った目でおじーちゃまを見つめながら、しみじみと嘆息をついた。
「……じゃあ、今おじ様に尋ねても、答えてはもらえないのです?」
「んっ? いや、なんだ、それはまた違うかもしれんというか、問うならばここであやつに問うておくがいい。うむ。そうするがいい」
……なんか、いきなり教皇サマがソワソワしはじめた。
「そういえば、あやつが迎えに来るとか言っておったな。いつ頃来る予定だ? いっそこちらから呼びにやってもよいが、何の用事で行っておるのか、娘よ、おまえは知らんのか?」
突然目をキラキラさせたアルルじーちゃんに、あたしは頭の中に「?」を飛ばしながら答えた。
「アディねーさまとオトナノハナシをしに行ったのですよ。太陽の間とかゆートコだったと思うのです」
「……太陽の間……結界がある場所に、か……」
ふいに真面目な顔に戻って、アルルじーちゃんは呟いた。
「……確かに、あそこなら密談をするにはうってつけだが……今の時間帯なら、あの天井知らずの大馬鹿助悪魔が転がっているのではないか……?」
「?」
あたしは首を傾げた。説明が無いから意味がサッパリ分からない。
「おじーちゃま。太陽の間、って何なのです?」
「ふむ……」
一瞬考える顔になってから、アルルじーちゃんは髭を一撫でして答えた。
「レゼウス神殿にある、儀式場の一つだ。起動させれば光の魔力を強制的に『太陽の目』と呼ばれる核に集め続ける。今は使っておらぬが……大戦のおりには、魔術の発動と同時に敵を一瞬で消滅させたそうだ。『光の紋章』の奥義でもある『神々の鉄槌』と同様の魔術だな」
……『神々の鉄槌』っていうと……
「聖書に載ってた、すごい大昔に、おっきな街を一瞬で消したっていう光のこと?」
「……そうだ」
少しだけ意外そうな顔で、アルルじーちゃんはあたしを見た。
「聖書をずいぶんと学んでおるな……ならば話が早い。あれに載っておる『奇跡』や『悪魔』の何割かは紋章のことだ。この国が出来るよりも昔、実際に起きたことが元だと伝えられている」
……あれって作り話じゃなくて、本当にあった事だったのか……
あたしは驚くやら呆れるやら、なんとも言えない気持ちで口を半開きにした。正直、お伽話と同じ感覚で習っていたのである。
(……にしても、魔術にも奥義とかってあるんだな……)
どこかにアディ姫が持っていた格闘奥義大全集の紋章版とかあったりしないだろーか?
「太陽の間は、『神々の鉄槌』の疑似魔術を発動させることができるほど、強い『光』の力を集める。純粋に魔力を集めるのならば『月光の間』のほうがよいが、あれは月が出ていることが前提だからな……」
「ふむふむ」
あたしは精一杯真面目な顔をして頷いた。
どうやら神殿は、あたしが知らないビックリ箱のようなものであるらしい。
……こそっと探検させてくれないかな……
「どちらの部屋も、魔力を激しく消耗した時などに重宝するな。強い魔力が満ちた場所にいれば、自然と回復は早くなる。効果は落ちるが、王宮にある『聖女の木陰』も同じだ」
……どっかで聞いた名前が出てきたぞ?
「『太陽の間』は『月光の間』と同じく、建国時に作られたものだ。元々は別の地に本来の儀式場があり、そこを模して作られた。核となる秘宝と、術を発動させるための鍵や符号を揃えれば、完璧では無いが『ほとんど同じもの』を作ることができるからな。……ナスティアは、いずれ後の世にコレを使う日が来るだろうからと、作らせたらしい。……儂は、それは今の世の事だろうと……確信しておる」
「…………」
アルルじーちゃんの声を「フムフム」とマジメ顔で聞き続けていたあたしは、三秒経ってから「?」と首を傾げた。
「今の世?」
「……まぁな」
何故かおじーちゃまがこめかみを指でグリグリ揉んでいる。
「永遠に続くものなど何もない。全てのものはいつか必ず死に至る。……人であれ、国であれ、世界であれ、それは変わらないのだろう。……だが、愛する者がいる限り、一日でも長くその日が来ぬ事を祈るのが、人という生き物だ。賢者とナスティアはそれを祈り、願いを後の世の我らに託して逝ったのだと、儂は解釈しておる。……紋章の悲劇にずいぶんと苦しめられはしたが、それは後の世の者が間違っただけのことだ。ナスティアもまた、クラヴィスの血統として紋章に苦しめられてきた。それでもその力をもってしか人々を守れぬのだと悟り、できる限り術師の負担を少なくするための儀式場を多く作ったのだろう。……己の命すらその対価に捧げてな」
「…………」
あたしは口を挟まず、ジッとアルルじーちゃんを見つめた。
アルルじーちゃんは深い思慮を瞳に浮かべ、感嘆にも似たため息を零す。
「王族の命は国のためにあり、己のためにあるものではない。……生も死も、全て国のためにあらなくてはならない。……それを定めたナスティアは、自らその言葉通りの死を選んだ。強大な力を与えてくれる神器と己の命を引き替えにしたのだ。暁の賢者はそれよりも前に、国のために力を尽くして逝った。始祖が『其れ』を身を以て成したのであれば、子孫は『其れ』に倣わなくてはならない。血の掟は絶対だ。……だが、掟で心を縛ることはできぬ」
「…………」
「事情は分かる。現状は理解できる。効率を考え、状況を把握し、最も被害を少ない方法を選べば行き着く答えは一つしかない。……だが、それを心が納得できるかどうかはまた別の問題なのだ。……此度のようにな」
あたしは唇を引き結んだ。
そのあたしへと視線を向けて、アルルじーちゃんは静かな眼差しで言う。
「ラザストで滅びの予言が読まれたとき、儂はナスティアが後の世に託したものは、そのためにあるのではないかと思った。あの予言は、我が国に封じられた魔物の復活を指しているのだろう、と……では闇から生まれてくる魔女とは誰のことであろうか。闇とは今の世のことではないだろうか。幾千と積み重ねられた人の心の闇を裂き、闇の王を従えて立つ者とはどんな者なのであろうかと。……そして、『闇の王』が現れた」
「!」
あたしの息を呑む音が、自分でもビックリするぐらい大きく部屋に響いた。
脳裏にそのヒトの姿が浮かぶ。舞踏会の日に、あたしにその予言を語ってくれたこの
世のものとは思えないほど美しいヒト──
「アレは心ある者を儂に先導させて都から出し、腐敗の都を灰にしていずこかへと姿を消した。アレが真に悪魔なのか神なのかは儂には分からなんだ。あの当時のアレは、人である儂では計り知れぬ相手であったのだ。……儂はこの国に戻り、教会の頂点に立った。国の闇はますます濃くなり、もはや国そのものの行く末が危ぶまれた時に、あの娘が生まれた」
……アウグスタのことだ。
「深い闇の中から産声を上げたような娘だった。狂死した王の妹を母にもち、頭が腐敗した王を父にもつ。だが、それでもあの娘が予言の魔女だとは思わなかった。哀れな娘だとは思ったがな……」
アルルじーちゃんは嘆息をつき、暗い声で呟いた。
「……そうしたら、レティシアが現れた。他が何と言おうと、国を傾け、荒廃の度合いを濃くしたのは、紛れもなくあの女だ。あの女は王の子を身籠もり、そして……再び、儂は闇の王と会うこととなった。あの娘が勝手に持ち出した秘宝を使って呼び出したのだと……」
「…………」
「愚かなことだ……アレが、例え秘宝であろうとも、人の子の魔術道具で封じられるようなものでは無いことなど、あの娘とて分かっておろうに……! どのような詐術を用いたかは知らぬが、アレはあの娘と契約を交わした……!! あの瞬間に、あの娘は予言の魔女となったのだ!」
あたしはただ黙ってアルルじーちゃんを見る。
……もう一人予言の魔女候補がいることは……たぶん、口にしないほうがいいだろう。
「ならば必ず、魔物の群が現れる時が来るだろう。……そんな未曾有の危機が迫っておるというのに……まったく……王族の縁者が己の欲得だけで動くとは……!! 果てはアレと同族の魔女だと……!? 厄介にも程がある……ッ!!」
憤懣やるかたない、といった顔のアルルじーちゃんに、あたしは目をパチクリさせた。
アルルじーちゃんの話は、ポテトさんと同じく謎がイッパイだ。
「……おじーちゃま。同族の魔女って?」
「…………。いや……うむ」
何故かアルルじーちゃんは明後日の方向を向き、ゴホンオホンと限りなく嘘くさい咳払い。
「……まぁ、なんだ。世界情勢は刻一刻と深刻化しておるというのに、阿呆なことをやらかす連中が多くてな。得体の知れぬ輩も裏で動いておる、ということだ」
微妙にごまかされてるけど……なるほど……それが『同族の魔女』とかいう人らしい。
(誰の同族なのかな……)
アウグスタと一緒なら王家の一族だろうけど、アルルじーちゃんの言い方ではなんか違うようだ。とはいえ、御貴族サマの一族名なんてほとんど覚えていないので、どの一族とか言われてもよく分からないのだが。
(それとも、そーゆー『魔女の一族』とかいうのがどっかにいるんだろーか?)
なんだかおじ様に訊かないといけないことがますます増えてるな……
あたしが「うーん」と唸った時、控えめに部屋の扉がノックされた。
揃って顔を向けると、扉を守っている神殿騎士さんが顔を出し、あたし達に向かって綺麗な一礼をした。
「陛下、ならびにアロック卿がお越しです」
うぉ? アウグスタとケニードですと?
あたしはピョンッと飛び上がり、扉に向かってちょこまか走った。
「アウグスタ! ケニード!」
恭しく一礼する騎士と入れ替わるようにして入って来たのは、輝くほどに美しい黄金の女王と、何故か黒いちっこいものを頭に乗っけたケニードだった。
「ベル! 熱、下がったんだね!」
ケニードはあたしを見るなり顔を輝かせ、すぐさま場所と偉い人の存在に思い至ったらしく、やや慌てて一礼した。
「失礼しました。猊下におかれましてはご機嫌麗しく、私のようなものをこの場にお招きくださり、ありがとうございます」
丁寧な礼をされたアルルじーちゃんは、なにやら珍妙な表情をしている。その視線は、あたしと同じくケニードの頭の上に注がれていた。
……てゆか……なんだあのちっこいのは……
「? ……あの? 猊下? ……王女殿下?」
頭上を注目されていることに困惑したケニードが、問うような視線をあたし達に向け、困り顔で頭上を見上げ、不思議そうもう一度こちらを見た。
どうやら問題のブツが小さすぎるせいで、ケニードはソレに気づいていないらしい。
あたしはケニードの傍まで行くと、彼の頭上を見上げて問うた。
「……おとーさま……どうしてちっちゃくなってるの?」
「え!?」
ケニードがびっくりした顔でもう一度頭上を見る。
もちろん、それで見えるわけがない。
一緒に来ていたアウグスタが、なんとも言えない奇妙な顔で、そんなケニードの頭の上からちっこいポテトさんを摘み上げた。
そう──生後一週間かそれぐらいの、大人の握り拳ぐらいしかない、ちっちゃな黒い赤ちゃん猫を。
「……コレに今まで気づいてなかったというのが、ある意味おまえらしいな。アロック卿」
「……え……。なんで猫の赤ん坊が僕の頭に?」
「……ケニード……ほんっとーに気づいてなかったの……?」
呆れたあたしの声に、ケニードは摘み上げられているミニ猫ポテトさんをおろおろと見つめる。
「い、いや、重さとかも全然無かったし……というか……『おとーさん』って……まさかロードですか!?」
アウグスタは摘んでいるポテトさんをプラプラ揺らしながら、深い深いため息をついた。
「あやつが魔術で作った分身だ。重さに関しては形と無関係だから、死角になっていたおまえが気づかなくても不思議ではない。……しかし、ずいぶん可愛らしくなったもんだな。いつもの猫型も可愛らしいが……」
ポテトさんはダラリとした姿のまま、アウグスタにプラプラ揺らされている。ちっちゃい手足も胴体も可愛らしいのだが、その力無い姿はどうしたことだろうか。
「……アリステラよ。ソレは、アロック卿の頭に戻しておくがいい」
その時、ぷらんぷらんされている赤ちゃん猫を見つめたまま、厳しい表情でアルルじーちゃんが口を挟んだ。
全員の視線を受け、おじーちゃんは深い声で告げる。
「そやつは意味なくアロック卿の頭の上に乗っていたわけではない。乗せておけ。邪魔になった時に、叩き落とせばよいだけのことだ」
「……相変わらず、なんでそんなに私に遠慮ないんですかシエル……」
「自分の胸に聞け。貴様に遠慮するぐらいならネズミにチーズを与えてやるわ」
疲れた顔でぽそぽそと呟く赤ちゃん猫に、アルルじーちゃんはザマーミロと言わんばかりのツメタイ顔。
アウグスタがちょっぴり目を丸くしていた。
「さて……アリステラよ。末の弟はおまえの予想通り、神職に就くことになったぞ」
ほとんど無意識に赤ちゃん猫をケニードの頭に乗せていたアウグスタは、おじーちゃんの声に軽く目を瞠り、力のない苦笑を零した。
「……なるほど」
「しばらく王宮から遠ざけておくほうが、本人にとっても、そしておまえ達にとっても、良いだろう。……教育係兼護衛としてアデライーデをつける。しばらく王女不在となるが、構わんな?」
「アディが『良し』としたのなら、私がどうこう言うべきではないな。もともと公式の場にはあまり出ぬ娘だ。そちらで預かっていただきたい」
「……あまり預かりたくない娘なのだがな……」
なにやら本音っぽい言葉を零して、アルルじーちゃんは嘆息をついた。
「そこの大馬鹿助がつける護衛も、一緒に放り込む。三人が三人とも常人とは違う輩であろうが、互いを補い合えば良い結果を生むやもしれん。……もっとも、教会を安全な場所と言えぬのが、痛いところだが……」
「安全な場所など、どこにも存在するまい」
やや暗い顔になったアルルじーちゃんに、アウグスタはあっさりと言いきった。どこか苦笑が勝ったような笑みでおじーちゃんに笑いかける。
「新しい場所で、新しい知識を得るのに死にものぐるいになっているほうが良いこともある。その間に時は流れていくものだからな……。少しぐらい逆境の方が、苦痛を紛らわせやすい……」
その言葉に、あたしは黙ってアウグスタを見上げた。
……彼女の言葉は、たぶん、実体験からくるものなのだ。
声の端々に痛みと悲しみがあって、突き放したような言葉のはずなのに、どこか泣いているようなせつない気持ちが伝わってくる。
……何かを忘れるためにがむしゃらに前を向いて突き進んでいた時が、彼女にもあったのだろう。
「……後見にはルドゥインが立つ。細かい事はまたおってつめるとしよう。……そして、レンドリアはまだ来ぬのか?」
「……おじーちゃま。なんでそんなにおじ様を心待ちにしてるのですか」
あたしのジト目に、アルルじーちゃんは嘘くさい咳払い。
アウグスタとケニードがキョトンとしていた。
「レメクなら、すぐ近くまで来ているが……?」
「ほぉ! ならばすぐだな」
光の紋章でレメクの心でも察知したのか、アウグスタが扉をクイッと親指で指し示す。
アルルじーちゃんがそれはそれは嬉しそうな顔であたしを見た。
「ほら、娘。準備をしてすぐに問うのだ」
「……おじーちゃま……なにか不穏なのですよ……」
「なに、儂とて好奇心というものはある。ちゃんと尋ねるのだぞ? いいな?」
……いいな、って念を押されても……
なにやら気味の悪い感じがするものの、答えを聞けるのならそれでもいいかと嘆息をついた。いろんな人にはぐらかされているので、ここらでビシッとした答えが聞きたいものである。
「……おまえ達は、いったい何をあやつに尋ねるつもりなんだ?」
「尋ねるのは儂ではない。この娘だ」
首を傾げているアウグスタにビシッと断りを入れて、アルルじーちゃんはそそくさと扉側がよく見える椅子の方に移動した。
そこへ響くノックの音。
「猊下。クラウドール卿と……」
「よし! 入れ!!」
皆まで言わさず、アルルじーちゃんが嬉々として招き入れる。さすがに唖然としているアウグスタ達の前で扉は開き、いつもながらに麗しいおじ様が少しだけ不思議そうな顔をしながら入ってきた。
「失礼いたします、猊下」
おじーちゃまが威厳をただしながら鷹揚に頷いた。
「よく来た、レンドリア。待ちかねたぞ。──娘が」
……あたしかい!
思わずちっこい手でぺちっとやりたくなったが、そこは我慢! イイ女はおじーちゃんを大事にしないといけないのだ!!
「おじ様!」
あたしはアルルじーちゃんにつきあって、そりゃっ! と勢いよくレメクに飛びかかった。
行動を予測でもしていたのか、レメクは全く慌てず、あたしを綺麗に抱き留める。
「お待たせしてしまいましたか……?」
「ううん! それほどでもないの! ……です!」
「? そうですか……」
レメクはなにやら釈然としない表情だ。
あたしとアルルじーちゃんを見比べ、意見を求めるようにアウグスタ達の方を見る。もちろん、事情を知らないアウグスタ達が理解できるはずがない。
「……ベルがなにやらおまえに問いたいことがあるそうなのだが……」
「あぁ……」
言われて、別れ際にあたしが言った言葉を思い出したのだろう。レメクが心持ち首を傾げながらあたしに視線を戻した。
「足がどうとかいう、問いでしたね」
「そうなのです!」
あたしは笑顔で頷きながら、レメクが逃げたりしないよう、豪華な服を力一杯鷲づかみにした。
やや困惑顔になったレメクの向こう、開けっ放しの扉には、いつやって来たのか、アディ姫と人間版のポテトさんがいる。どういう理由でか、端っこでこそっとこちらを覗き見ていた。
「おじ様。誰も答えてくれないから、もう、おじ様が答えてくれなきゃどーにもならないのです」
「……はぁ」
珍しい返答をしながら、レメクが困惑を深めていく。
あたしはその目をしっかと見つめて問うた。
「裸の神様の足についてる、見慣れないものが何なのか、教えてほしいのです!」
シン、と部屋が静まりかえった。
何故か恐れ戦くように震えながらこちらを見ている他一同の視線の中、あたし達は互いを熱く見つめ合う。
レメクは今までの人と違って、表情を一切変えなかった。
驚愕も狼狽も無く、全く変わらないままの顔で、ジッとあたしを見ている。
あたしは目を煌めかせた。
これは答えを期待してもいいということだ!
(さすがおじ様!)
あたしはキラキラと目を輝かせる。
(答えは!?)
レメクは時が止まったかのように静かだ。
「……? おじ様?」
あたしは首を傾げ、レメクの前でパタパタと手を振ってみた。
反応が無い。
というか……なにやら体が傾いでいっているような……気が……
「おじ様……? おじ様……おじ様ッ!?」
何の予兆も無く、レメクはあたしを抱えた姿のまま、後ろ向きにバタンと倒れた。
後頭部からいったレメクに、流石のあたしも仰天して飛び上がる。
「お、お……おじさまーっ!?」
レメクはその後、三日、寝込んだ。