エピローグ
白い翼をもつ鳥達が、自由を楽しむように城の上を舞っていた。
響いていた歌声は消え、かわりに定刻よりも遅くなった鐘がカロンカロンと音を響かせている。
西の空から渡ってきた鳥は、最後の鐘の音と同時に白い建物の屋根に留まった。
小さな建物だった。
中も外も真っ白に塗られ、壁は異様に厚く、窓らしきものは天井間際の小さな換気用小窓のみ。
そこから差し込んだ光が内壁に反射して、うっすらとした光を下へと放っていた。
建物の中には台座が六つ。
そのうちの一つに木の棺が安置されている。
厚みのある蓋には手彫りで装飾が施されており、よほどの職人が丁寧に彫ったのだろう、ひどく複雑かつ精緻な模様をしていた。
そこは城内にある死体安置所だった。
身分ある人が亡くなった時、遺族の元に返されるまで安置される場所であり、そのために熱が内部に入らないよう壁も厚く造られ、窓も極力排されている。
部屋の中は外と比べてひんやりと冷たく、冷気の元になっている巨大な氷柱が、壁の内側を取り囲むようにして配置されていた。
本来、ここに遺体が安置されている時は常時三名の見張りがつく。だが、何故かこのとき、見張りの姿はどこにも無かった。
羽根を休めていた鳥は小刻みに周囲を見渡し、ふと何かに驚いたように勢いよく羽ばたいた。
力強い羽ばたきの音に混じるように、建物からくぐもった重い音が響く。
誰もいない安置所で、それはゆっくりと床に落ちた。
頑強な造りの蓋は、床に落ちた瞬間たわむように震え、大きな音をたてて仰向けに転がった。その晒された裏側にも、不思議な配列の円と文字が描かれている。
蓋を失った棺が軋み、中から伸ばされた白い手が、棺の縁を掴んだ。
指の長い男の手だった。
棺の中から出てきたということは死体であろう。だが、動きこそ緩慢だが、その肌の色は生者のそれと何ら変わらなかった。
棺に入っていた男はゆっくりとした動きで身を起こし、項垂れるように俯く。動きにあわせて、癖のない黒髪がわずかに揺れた。
ひどく生気の無い顔の男だった。
造作は整っているのに、空虚な印象を人に与える。薄く開かれた黒い瞳は焦点があっておらず、目の前の光景を映しているかどうかも怪しかった。
男は身じろぐようにして、一度、体を起こそうとしてみる。左手が掴む縁の部分が軋んだが、上手く体を起こすことはできなかった。
そのとき、コトンと、小さな音がした。
体を支えていた男の右手に何かが触れる。
体の上に置かれていたものが、身を起こす際、横に転がり落ちたらしい。男はぼんやりとそちらを見る。
一瞬だけ、男の瞳の焦点があった。
古びた小さなコインだった。
どういうわけか半分しかない。
わざわざ穴を開けて紐を通してあるところをみると、首飾りなのだろう。
男は長い間それを見つめていたが、やがてゆっくりと動き出した。
まるで『体の動かし方』を練習するように、今度は慎重に、重く軋む体をゆっくりと動かして棺から出る。
カラと背後で鳴るコインの音にも、もう反応しなかった。
男はゆっくりと歩き出す。
健常な大人が三人がかりでようやく開けれるという厚い扉を軽々と開け、まるで白い闇のような光の中に躊躇なく踏み出す。
──後にはただ、開け放たれた棺と、小さなコインだけが残された。
※ ※ ※
中の住人を失ってからしばらく。
棺の裏側から、黒い染みが世界に広がった。
円と文字の配列で成っていた模様は消え、かわりに人型の闇がゆっくりと身を起こす。
『それ』は項垂れるように棺の中を見つめ、どこか悲しげにため息をついた。
誰の手も借りないまま、開かれたままの建物の扉が閉まる。
人型の闇はゆっくりと手らしきものを棺に伸ばした。割れたコインの片割れを拾う寸前、ソレは白く美しい手に変わる。
拾い上げるのと同時、床に落ちていた蓋がふわりと浮き上がり、『それ』の後ろで浮遊した。
『それ』はコインを丁寧に棺の中央に納める。
敬うように右手を胸に当てた。
──あなたのものですよ、□□□□□□。
静寂の中に、その声は染みいるように響いた。
宙に浮いていた蓋が棺の上にゆっくりと被さり、黒い人型という異物以外、数刻前と変わらない光景が出来あがった。
例え欠けているものがいくつかあったとしても、それに気づける者は稀だろう。
少しだけ落下の衝撃で痛んだ蓋を撫で、『それ』は額らしい部分を棺にコツンと当てた。
情とした声が囁く。
──さぁ、始めましょう。
いないはずの誰かに、涙を零すような声で。
ほんの少しの祈りを込めて。
──嘘と虚構に彩られた、煉獄の喜劇を。