⑩ アルトリート・アステール
(……ひどい目にあった……)
静寂の戻った牢の中、ようやく一人になれたアルトリートが思ったことといえば、先のような独白だった。
数時間後には死を迎えるというのに、思う言葉がこれでいいのだろうかと自分でも思う。
だが偽らざる気持ちで心を語れば、およそ『残る人生あとわずか』という立場にあるまじき言葉が零れるし、まして現在、胸中を占めるのは悔恨でも絶望でも慟哭でもない。
脱力だ。
(……こんな風に……終わりの日を迎えるとはな……)
なんだか、そんな感想すら力が抜ける。
在りし日に思った『最期』は、人々の失笑をかいながら断頭台の露と消えるか、虚無を抱えたまま腐った泥のような王宮で過ごし、自分がしたように誰かに貶められて謀殺されるかのどちらかだった。
誰が想像しただろう。
企みが成功しようと失敗しようと、その後の結末にたいした違いはなかったのだ。
──すくなくとも、自分にとっては。
(……馬鹿だよな)
幸せになんてなれない。それは最初から分かっていたのに。どうして自分は行動を起こしたのだろうか?
座っていた粗末な硬いベッドに転がり、アルトリートは天井を見上げた。
頑強な石造りの天井。紋章珠を鈍く吸収するようなその天井を、今まで、いったい何人の人が見上げたのだろう。
ふと真横の壁へと視線を向ければ、不自然にへこんだ箇所がいくつもある。
……誰かが、ここから出たいと願って引っ掻いた跡なのだろうか?
決して人の手でどうにかできるはずのない石の壁を、爪で必死に掻いたのだろうか?
(……生きたい、っていう……気持ち、か……)
執念のようなその跡に、アルトリートは痛みを感じて目を閉じた。
けれどそれは自身の痛みではない。
──この壁に傷をつけた相手の慟哭が、ただ痛かった。
(……そんなにも……生きたかったのか……)
この場所に連れてこられた者がどういう末路をたどるのか。貴族でそれを知らないものはいないだろう。
だが、連れてこられる者がどういう立場の者なのか、どういう思いをもった者だったのかは意外と知られてはいなかった。
人は原因と結果だけを求め、その中のものには見向きもしない。享楽の糧に処刑を見物し、それを見せ物としてただ楽しむだけなのだ。
誰だって「死にたい」などと思って日々を生きているわけではないだろう。
生きたいと思って生き続けているのだろう。
なら、この牢に入れられた者の大半は、生きたいと必死に思いながら、迫り来る『時』に怯え、苦しみ、無理やりに処刑台に引き立てられていったのだろう。
──どれほどの苦しみだったのだろうか。
どれほどの悲しみだったのだろうか。
「…………」
アルトリートは目を瞑ったまま、ふいに深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
脳裏に何故ともなく幼なじみの姿が浮かぶ。
いつだって振り返ればそこにいた、実の家族よりも近い存在。
あまりにも自分と似ていて、あまりにも自分と違っていた弟分。
あの愚かで虚しい日々の中で、救いがあったとすればただひとつ、彼と出会い、共にあったことだろう。
──独りであったなら耐えられなかった。
二人でいたから、生きていられた。
──あの春の日までは。
※ ※ ※
「……クリスを……王宮へ?」
レンフォード家の一室で、アルトリートは呆然と呟いた。
四月二日。昼をやや過ぎた頃だった。
公爵の私室には主である公爵の他、家令と老執事が控えていた。
家令が傍にいるのは何かの報告のためだったのだろう。公爵が書類と共に一瞥を送ると、丁寧な一礼を残して部屋を出て行った。
それを見送ってから、公爵はゆったりと腕組みをする。アルトリートを見る目には、冷ややかさに加えてどこか仄暗い影がちらついていた。
「そうだ」
短く、首肯と同時に公爵はそれだけを告げる。
説明など必要としない、命令することだけに慣れた独特の声だった。
「……何故」
アルトリートは呆然としたまま、半ば無意識に呟いた。
──何故──
だが、その後の言葉が続かない。
何故、今まで存在すら無視してきた自分を自室に呼び出したのか。
何故、今まで放っておいた『王弟』にかまいをつけるのか。
何故、春の大祭の真っ只中に、そんな話を持ち出してきているのか。
「何故なのか」を考えはじめると、次から次へと新しい疑問が沸いてくる。だが、目の前の男がこちらの問いに一つ一つ答えてくれるとは思えなかった。
アルトリートは無理やり先の三つだけを頭の中に残し、こちらを冷ややかに見据える男を見返した。
目鼻立ちの整った男だった。
六十を過ぎているはずなのに、肌にはまだ四十代で通るほど張りがある。たるみのない秀麗な顔も、十分にその年代で通るだろう。
綺麗に撫でつけた髪は銀に近く、その瞳は茶褐色に近い濃い琥珀色をしていた。おそらく母方の血が強く出たのだろう。もし父方の血が強く出ていれば、アルトリートのような金髪と紫紺の瞳をしていたはずだ。彼の父親は、自分の母と同じく、王族だったのだから。
「……あんた達にとって、クリスは『汚点』じゃなかったのか?」
ともすれば沸き上がってくる憎しみを堪えて、アルトリートは重厚な机の向こうにいる男を睨みつけた。
男は口の端を歪めて笑う。
「事情が変わったのだよ。……どうやら、陛下はまだしばらく、独り身のままでいらっしゃるおつもりのようだ」
「……?」
公爵の言葉に、アルトリートは眉をひそめた。
現女王アリステラが独身であることは、上流階級の者なら誰でも知っていることだ。かつて列国から身分も血筋も申し分のない人々が求婚に訪れたが、そのことごとくを振ったという話は有名だった。
女王の身近には側近中の側近としてクラウドール侯爵がおり、彼の人こそが女王の情人であろうと言われている。それならばいつか慶事も聞けるのではと思われたが、だとすれば公爵の言葉が不可解だ。
「……陛下は確かにあの侯爵を寵愛しておいでのようだ。だが、もとはコーンフォード大法官がどこかから拾ってきて、ステファン老に預けたという、どこの馬の骨とも分からぬ身の上だ。愛人ならともかく、女王の夫としては相応しくあるまい」
「……それが、クリスと何の関係が?」
こちらの指摘にただ暗く笑って、国の筆頭貴族でもある男は目を鈍く光らせた。
「王族の血だよ」
「…………」
「現在において存在する、『他家に降りた』のではない、『直系の王の血筋』だ。妃の位も得ていない、およそ高貴な『血』を産むには相応しくない腹から産まれた子だが、それでも継いだ血と名は正統なものだ。私の父や、おまえの母のように、『降りた』者ではないのだから、王族として名乗りをあげることもできる」
「……ッ」
一瞬、本気で沸き上がった殺意に、アルトリートは必死で己を押さえ込んだ。もしここに刃物の一つでもあったなら、衝動的に相手に向けていたかもしれない。
「女帝ナスティアの血を継ぐ者は、探せば他にも沢山いるだろう。おまえのような者も、実のところ少なくはなかったのだからな。だが、王位継承権を与えられる『直系』となると恐ろしく少ない。……王家は血統の保持のために、間違った選択をしたからな」
アルトリートは歯を食いしばったまま、暗い目をしている男を睨む。疑問を投げかけないこちらに気づいて、公爵は唇の端を歪めた。
「……どこぞで聞くか、調べるかしたか?」
「……血族婚を繰り返した、という話だろう」
「そうだ」
歪んだ笑みを深め、公爵は奇妙に光る目をして言った。
「女帝ナスティアの御子は四人。いずれもアルヴァストゥアル家に留まっておられたが、その後からが問題だった。王の座についたのは長子の血筋だが、血の濃さを保つために次子の血筋から花嫁や花婿を選んだのだ。血族婚どころではない。近親婚だ。繰り返されるうち、産まれながら疾患をもつ方や、幼いうちに亡くなる方々が増えた。正嫡であればあるほどその傾向は強まったな。戯れに手をつけた女が産んだ子女ですら、何人かは影響を受けた。……猊下や、ステファン老のように」
「…………」
「アントワール様の兄、エルヴィン王は、ある意味においては長子の一族最後の王だろう。今おられる女王陛下も長子の末裔と言えるが、あくまでも次子の一族である先王陛下の娘として即位されているからな。……エルヴィン王が狂死されていなければ、同じ血のアントワール様に王冠が渡り、女王陛下も長子の一族として即位されていただろうが」
その話は母であるマルグレーテから聞かされていた。
九代目国王であったエルヴィン王が狂死した時、同じ父母から生まれたアントワールを次の王にすることはできない、と重臣達が揃って反対したという。
エルヴィン王が生前行っていた事を聞けば、そうならざるをえないとアルトリートでも思った。貴族の子女を攫って無理やり紋章の器にし、何人も死傷させたという話だけでも相当なものだろう。
それもあって、かつてアントワールが先王に嫁する時、『狂死した王の血筋』を問題視する声も多かったという。その時『長子の末裔』であることの方を重視され、最終的に反対派を抑えて王妃に迎えられたのは、当時の重臣がすでに代替わりしてしまっていたからだ。
「王が狂死された当時、ステファン老を次の王にという声も高かったという。だが、ステファン老はクラウドール家に養子入りした。高齢ではあるものの、次子の血統であり長子の血の流れもくむコンラート様を王に推してな。まぁ、おかげで血族図はいよいよややこしいことになったが、過去に遡っても例のないことではない。過去に遡れば遡るほど、改竄された記述も多いだろうからな」
そこまで言ってから、公爵はアルトリートをひたと見つめた。
「女王には実子がいない。あの方の『子』は全てどこぞから集めてきた養女ばかりだ。なかには他国の王女もいる。ほとんどの者は周辺諸国に嫁したが、正式に『王女』という地位を得てからの結婚だ。もし、女王に実子のないまま、さらに行方不明の王弟殿下が見つからないままで女王がお亡くなりになったら……どうなると思う?」
「……別の血族が……継ぐんじゃないのか。長子と次子の血統でなくても、アルヴァストゥアル家の血筋は他にもいるんだろう」
アルトリートの答えに、公爵はいっそう唇を歪めて笑った。どこか狂気を孕んだ笑みだった。
「……いると思うか?」
「…………」
「女王ナスティアの子は四人。アルヴァストゥアル家は、その四人の血筋の直系、他家に入らず家の中に留まっておる者ならば全て『アルヴァストゥアル家』としてきた。だが、表舞台に出てきたのは長子と次子の一族がほとんどだ。……何故だと思う?」
「……何故って……」
公爵の笑みに、アルトリートは愕然とした。
もし、アルヴァストゥアル家の中で本家・分家の扱いがあるとすれば、長子の一族は本家、他の一族は分家という形になるだろう。
その後、濃すぎる血の呪いのせいで次子の一族に王冠は移り、それによって次子の一族が本家という形となった。おそらく、四人の子がアルヴァストゥアル家に残ったのは、そういった『血統のスペア』を用意しておくための措置だったのだろう。同じアルヴァストゥアル家の一員であれば、他家となってしまった場合よりは、王冠の移譲も容易かろう、と。
(そのための血筋じゃ……ないのか……?)
一般には王家は王家として一つであり、中で四つに分かれているなどということは伝わっていない。だから長子から次子の血筋に王冠が移ったとしても、民は『移った』ということすらほとんど知らないのだ。
貴族ですら、知らない者は多いだろう。
知らなければ、三子や四子の血筋がどうなっているのかなど、気にするはずがない。どれだけいるのか、ということも──絶えているのか、ということも。
「まさか……いないのか……? 一人も……!?」
「さてな。……探せば一人か二人はいるだろう。三番目の血筋には、次子の血筋に嫁した者もいる。四番目の血筋についても、シュヴァルツブルクに嫁している。だが、他家に降りた者は王族では無い。アルヴァストゥアル家に残った者で、今の王の血筋以外の者がどれほどいるか、わかるか?」
「…………」
沈黙するアルトリートに、公爵は笑みを深くして言った。
「ほとんどいないのだよ。三子の一族も、四子の一族も、すでに正統な血筋と呼べる者、次代の王となれる者はいないのだ。少なくとも、現女王の跡を継げるだろう者はな」
──もし、そんな状態で女王に何かあったならば。
正式な王位継承権を持つ王弟が、見つからないままだったとしたならば。
「……他国に嫁いだ『王女』のことを持ち出し、王位をよこせと言ってくる輩が出てこないとも限らん。無論、そんな者はナスティアの王族ではないし、王位継承権など本来ありえん。だが、国を盗るための口実にはなる。……それを防ぐためには、分かるな? 誰もが納得する『王族』を用意しておかなくてはならない」
「……それで、クリスか」
そうだ、と、公爵の目が頷いた。その口元には相変わらず、どこか狂ったような気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「ナスティアの国宝の中には、ナスティアの血筋にしか使えない物がある。誰の血を引いていようとも、真実ナスティアの血筋であるのならば、それらを使って血の正統性を証明することができる。血を疑う者はそれで黙らせることができるだろう。だが、そのためには『王の直系ではない』と認知されていない者が必要なのだ。……馬番の息子の生まれから逆算して、先王陛下がこちらに留まり、娘に手をつけた時期は一致する。それを証明する者も領内に多数いる。マルグレーテがあの者の出生届を故意に握りつぶした経緯も含め、先王の遺児とする根拠はいくらでもあるのだ。正式に認めさせるのは容易くはあるまいが、難しいことでもあるまい。なにより……『王族』の不足は、王家にとって死活問題だからな。王位継承権だけではなく……紋章の器としてもな」
くつくつと笑う男に、アルトリートは「どういうことだ」と問わなかった。
ただ、ある嫌な予感を覚えてゾッとした。
「……まさか……王家の直系が少ないのは……」
「ああ……おまえは思いの外、頭が回るな。そう、アルヴァストゥアル家の残りの血筋が何故いなくなってしまったのか。……クラヴィスが残した呪われた遺産を守るための、生け贄にされたからだ」
くぐもった笑みを漏らしながら、公爵はむしろ楽しげに言った。
「始祖クラヴィスは、確かに偉人だったのだろう。天変地異すらその卓越した魔術で封じ込めた。だが、封じ込めた先は己の体だ! 紋章術というのは、紋章という烙印を己の身に刻んだ、自己犠牲の魔術なのだよ。その威力が強ければ強いほど、術者の心身を蝕む猛毒となる。使えば使うほど、己の命と魔力を削り取られる」
アルトリートは小さく吐き捨てた。
「……貴様はそれから逃げただろうが」
一般にはあまり知らされていないが、強大な力を持つ紋章は必ず何かに宿しておかなければならない決まりになっていた。
紋章の誕生がどのようなものであるのかを知れば、その理由もおのずと分かる。
強大な災いを己の力に変えた始祖クラヴィスは、なるほど、確かに天才であり偉大なる魔術師であったのだろう。
だがその血と術を引き継いだ後の一族は、彼が成した奇跡を維持するために多大な犠牲を払わされ続けていた。
例えば『光の紋章』は、周囲全ての者の意識を絶え間なく読み取り続け、宿した者の精神を破壊して死においやった。
例えば『闇の紋章』は、所持者に仮初めの不死を与えたり、逆に誰かを永らえさせるための人柱として扱われたりと、絶えず『不完全な不死』を巡った争いに人々を巻き込み、争いと悲劇を生み出し続けていた。
『罪の紋章』は、人の罪を暴きそれを所持者に追体験させることで器となった者の精神を破壊し──『虚無の紋章』は、その絶望的な『無』の力ゆえに周囲を幾度と無く消滅させ、所持者そのものも無へと導いてきた。
闇の紋章に代表されるように、紋章の全てが紋章自身のために悲劇を起こしてきたわけではない。
だが、そもそも紋章術がこの世になければ、こうした悲劇は起こらなかったのだ。
(くそ……気持ちが悪いな……)
アルトリートは胃のあたりに不快感を感じた。
クラヴィス族が紋章を手放すことなく保持し続けたのは、二つの理由からだと言われている。
一つは、その力があまりにも『力』として有効であった、ということ。
そしてもう一つは、その力があまりにも強大すぎたため、世界に解き放つことが恐ろしくてできなかった、ということだった。
世界に起きた『現象』を『力の結晶』として体内に封じた術だから、それを解放するのは簡単だ。誰もその『力』を紋章として宿さなければいい。ただそれだけで、自由になった力は元の『現象』となって世界に還る。
──周囲に絶望と破壊をまき散らしながら。
それを恐れたクラヴィス族代々の長は、力の強い家系に強大な紋章術の管理を命じた。
後にナスティア王国の一員となった後もそれは続き、巨大な紋章の犠牲になる代償として、管理する一族は貴族の位と領地を授けられたのだ。
そう──『虚無の紋章』を保持するが故に、レンフォード家が王族の娘と公爵位を与えられたように。
「虚無の紋章か……。それがどうした。やがて己も虚無に呑まれると伝わる『虚無の紋章』を一族を率いる立場の私が宿せるはずもなかろう。ちょうどいい器としておまえ達がいたのだ。……まぁ、マルグレーテが怒るから、おまえでなくあの馬番の息子に宿すことになったがな」
平然と言う男に、アルトリートはきつく拳を握りしめた。ともすれば素手で殴りかかりそうになるのを必死の思いで押しとどめる。
「王家、つまり、女王ナスティアが所持していた紋章ともなれば、とてつもなく強大なものだ。暁の賢者が所持していた『罪』と『罰』の紋章に至っては、宿しているだけで狂気に蝕まれる禁断の紋章だ。あれだけ強い紋章では、『物』に宿しておくなど不可能。奇跡的に宿せたとしても、数日と保たず器は破壊され、力は解放されるだろう。解放された力は国を滅ぼしかねないものだ。だから、アルヴァストゥアル家は己の身内にその紋章を宿させ続けた。王となる長子の血筋よりも、むしろそれ以外の者の方に犠牲は多かったと聞く。……当然だな。王を死なせるわけにはいかないのだから」
だが、その結果として長子と次子の血筋以外はほとんど絶えてしまった。
現在残っている人々も、それほど長くは生きられないだろう。
「もし下々の者に、アルヴァストゥアル家の血を引く誰かの遺児がいたとしても……連中のことだ、我が子可愛さに隠すかもしれんな。差し出されれば、神官どもは喜んで紋章をその者に移すだろう。人体に宿った紋章は、その者が死ぬまで何十年とそこに留まっている。だが、物に宿せば数年、もしくは数ヶ月、早いものなら数日で器内の魔力を消費し尽くし、それを破壊するからな」
アルトリートは愕然と立ちつくした。
王家の血の保持だなどと、とんでもない。事実は想像よりもおぞましく、非道だ。
(なら……王宮に向かわされれば……クリスは……)
「私はな、行方不明だという王弟殿下のことも、怪しいと思っている」
青ざめたアルトリートを見やって、公爵はニヤニヤと笑う。
「先王の第二妃がお隠れになる前に、神殿に移ったとされる王弟殿下だ。元々公式の場に出ることはほとんどなかったが、あの髪は目立つからな……確かに一時期、神殿の中にいらっしゃったのは見ている。お会いすることは叶わなかったが、あの紫銀の髪は間違いなく殿下だろう。……だが、第二妃がお隠れになった時から、殿下の姿も見えなくなった。体調を崩され、気候の穏やかな所で過ごされているということだが、誰もその場所を知らん。……人によっては、すでに誰かの手によって弑されているのではと言われているが、浅はかなことだ。同じ王族であるのなら、使い道はあるだろうに」
アルトリートは慄然とした。
つまり、公爵は「紋章の器にされたのだろう」と言っているのだ。
それも、公式の場に出てこれないほどの状態で、と。
ならば、同じ立場のクリストフがどうなるのか。推して知るべしだ。
「とはいえ、第二妃の実子である王弟殿下と、我が家にいるあの者とはあまりにも立場が違う。王弟殿下は、かつて女王の最大の障害となった存在だ。だが、おまえと同じ姿をしたあの者は、女王にとってはとるに足らない存在だろう。排除せずとも、放置しておけるはずだ」
まるでこちらの危惧を見透かしたように、公爵は言葉を紡ぐ。
「おそらく、残っている王女の誰かと娶せ、手元に置こうとする。その際にいくつかの紋章は渡されるだろうが、政敵になるかも知れん相手に強い紋章は渡さないだろう。かくして王宮に新しい王弟殿下が誕生し、後継者不足に悩んでいた重臣共も安心するということだ」
アルトリートは公爵の言葉に、ただ黙って歯を噛みしめた。
そう上手くいくだろうか。そう思う裏側で、黒いなにかがじわじわと自身を染めていく。
危惧が取り除かれると、クリストフが王宮へ行くという言葉が嫌に胸に染みた。
いつも共にいた、半身のような弟分。同じ場所に唯一立っていた、たった一人の親友。
「……おまえとあの者は、ずいぶんと親しかったようだな」
こちらの内心を察しでもしたのか、公爵は深い笑みのままで言う。
「居場所のないあの者のために、ずいぶんと手を尽くしてやったそうではないか。異母弟などよりもよほど大切に扱っていたようだな」
ギリ、と噛みしめた歯が鳴った。
あれだけ存在を無視していたくせに、それでも監視だけはしていたらしい。
「おかげで、あの者も文字を読み、馬に乗ることができる。一から教え込む労力を思えば、お手柄だ。──だが、もう必要ない」
「……王宮へ送るからか」
「そうだな」
笑みをさらに深めて、公爵は意味深に老執事に目配せした。
今までひっそりと佇んでいた老執事は、公爵の目配せに深々と一礼して席を外す。
「だが、育ちが育ちだ。おまけに、馬番の血が混じった者だ。王家の末席に加えることについて反対する者も多かろう。おまえの母、我が妻であるマルグレーテなどその典型とも言える」
「…………」
「なんなら、おまえが変わるか?」
その言葉に、アルトリートは反射的に顔を上げてしまった。
真っ直ぐに見た公爵の目は、やはりどこか異様な色を宿している。
「同じ王家の血筋。さらに、双子と言っても通じるほど酷似した姿。偶然にしてはあまりにもできすぎている。まるで入れ替われと言わんばかりの采配だ。神々も憎いことをしてくれるではないか」
「……どう……いう……?」
思わず呆然と問うと、公爵は口の端を歪める。
返答はせず、言葉を紡いだ。
「虚無の紋章は、他の紋章の力を無に帰す。全ての真実を見抜くと言われる真実の紋章も、虚無の紋章の前にあっては力を発揮できん。真実の紋章にとっては、唯一の天敵とも言うべき紋章だ。陛下は真実の紋章を持っておいでだが、虚無の紋章を宿したあの者の真実を見抜くことはできん。同じく、その紋章の加護を与えられたおまえの真実も見抜くことはできん」
「……まさか」
「事実だ。あの女王に嘘をつくことなど、本来なら誰にもできん。例外となるのが、おまえ達だ。おまえ達の共通の嘘は、あの女王には見抜けん」
アルトリートは息を呑んだ。
公爵は、自分とクリストフの入れ替えを示唆しているのだ。普通の者ならば、考えることもしないだろう大罪を。
「マルグレーテも、おまえが王宮に入るのであれば文句は言わないだろう」
薄ら寒くなるような笑みを浮かべて、公爵はゆっくりと席を立ち、アルトリートの傍らで囁いた。
「王宮に行けば、あの者はもう二度とこちらには帰って来ないだろう。王族として覚えねばならぬことも多くある。おまえのことを思い出す暇もあるまい」
「…………」
「洗礼も受けていないおまえには、領地を任せることもできん。私とて不憫に思ってはいるのだよ、アルトリート。いっそマルグレーテがおまえを手放す気になれば、神殿なりなんなりに世話をしてやることもできただろう。だが、王族の血にこだわるおまえの母がいる限り、おまえはここから出ることができん。事業を継ぐことも、爵位を得ることもできず、ただここで朽ちていくしかない」
「…………」
「だが、あの者は違う。いずれ王族として正式に名乗りを上げ、陛下の養女となった王女を娶るか、有力貴族の姫をもらうか、どこかの国の王女をもらうかして、王統を継ぐことのできる一族を作るだろう。アルヴァストゥアル家の血を後世に繋ぐための、大切な王族として丁重に扱われ、血族図と歴史に名を残すだろう。……おまえとは違って、な」
ぎり、と歯が軋む音を聞いた。
公爵は笑む。
歪んだ笑みは、どこか狂った愉悦を思わせた。
「春の大祭の間であれば、列国の目がある。そこで行われたことは、女王と言えど『無かったこと』になどできん。奴等の目を利用して、新しい王弟としての地位を獲得してしまえばいい。口の上手いおまえなら、上手くやれるだろう」
「…………」
「おまえは独りだ、アルトリート。おまえの手が得ることのできるものなど、この世には何もない。ここでただ朽ちていくだけの存在でしかない。おまえが手を引いてやっていたあの者は栄光を掴むというのに、ずいぶんとひどい話ではないか?」
こちらの目を覗き込んで、男は低く笑った。
「あの者はおまえから離れ、おまえは独りここで朽ちるのだ。それが嫌だと思うのなら、行動を起こすしかあるまい。……なに、王宮へ行くのであれば、私の手の者が手はずを整えよう。すでにあの者の存在は、噂として流しておいてある。マルグレーテが王宮に行こうとしているから、それに乗せてもらうといい」
歪んだ笑みを浮かべる顔の中、その瞳が異様な色を宿している。
「『虚無の紋章』の力を高めるためにも、あの者も一緒に連れていくべきだろう。だが……あの者はやがて邪魔になる。そうだろう?」
アルトリートはただその瞳の色を見る。
相手の目にある、狂気じみた感情の色を。
「己の邪魔となるものは取り除かなくてはならない。そうだろう?」
──憎悪の色だと思った。
※ ※ ※
──ふと優しい匂いを感じた。
アルトリートは薄く目を開ける。
ぼんやりとけぶる視界で、石の壁に映った人影がゆらゆらと揺れていた。
右耳の下には硬い質素なベッドの感触があり、わずかに湿気を含んだ布の匂いがしている。だがそれとは別に、まるで上から覆い被さるように穏やかないい匂いがした。
不思議だと思った。牢の中に、香水や香炉などあるはずがないのに。
「…… ……?」
アルトリートは呆としたままで視線を動かし、ふと、体にかけられている黒い布に気づいた。備え付けの古びた毛布ではない。極上の天鵞絨だ。
(……?)
何故牢の中にこんなものがあるのか。理由がわからず、アルトリートは困惑した。
おまけに、匂いはどうやらこの布からしているらしい。
香水にしては匂いが柔らかいが、香を焚きしめた布など、よほどの洒落者でなければ持っていない。焚きしめるのに使う南国の香は、香辛料に次いで高価なのだ。
アルトリートは眉を顰め、体にかけられているそれを目の前に引き寄せた。布には、独特の形をした金糸の飾りがついている。
どうやらマントらしい、と悟った瞬間、アルトリートは跳ね起きた。
「起きられましたか」
「!?」
まるで見計らったかのように声がかけられ、慌てて振り返ると、薄闇の中でいくつもの火が踊っていた。
「……な」
その火に照らされて、背の高い男が一人、立っていた。
身長のわりに細身だが、均整のとれた体躯をしている。艶のある黒髪に、完璧に整った美貌。深い知性を感じさせる瞳の色は、夜明けとも黄昏ともつかない赤紫だ。
「…………クラウ……ドール卿……」
唖然としたまま呟くと、相手は小さく頷いた。何故か手に鶏肉を乗せた皿を持っている。
「……なんだ……それ……?」
「鶏の香草焼きです」
見ればわかる。
「義父の結界で阻まれていたため、こんな時間となってしまいました。食事をするのに適当な時間ではありませんが、召し上がっていただければ幸いです」
「……食事……」
言われて、アルトリート呆然と目の前の光景を見渡した。
冷たい光を放つ紋章珠はどこに行ったのか、火の灯されたいくつもの蜜蝋が、暖かい光を放っていた。
簡素なテーブルには白い布。
その上には、文字通り所狭しと並べられた沢山の料理。
公爵家でも滅多に見れない豪華な料理だった。料理の見事さも驚きだが、軽く五人前はありそうなその量は一体どうしたことだろうか。
「葡萄酒はエーヴェルト領のものを用意させていただきました。また、あなたが好んで召されていたものも揃えてありますので、お声がけください」
掌で指し示されたワゴンの下には、見知った銘柄がずらりと並んでいた。葡萄酒以外は、ご丁寧に氷を入れた真鍮の箱に入っている。貯蔵された氷は恐ろしく高価だというのに、大きな塊が大量に入れられていた。
(最後の晩餐ったって……これは、いきすぎだろう……)
テーブルの前にあった椅子を軽く引かれ、促されるままにふらふらとそちらに座りながら、アルトリートはやはり呆然としたままで料理を眺め、男を見上げて問うた。
「……あんたが……給仕なのか……?」
「はい」
侯爵はあっさりと頷く。
アルトリートはテーブルの上をもう一度眺めてさらに問うた。
「…………ナイフとフォークが揃ってるんだが」
「召し上がるのに必要でしょう?」
逆に問われて、がっくりと項垂れた。
普通は虜囚にナイフ等を渡さない。それは容易に武器となるからだ。
こちらが抵抗しても取り押さえられる自信があるのか。それとも、抵抗する気が無いのを察しているのか。男の無表情からは思考が読めず、アルトリートは早々と疑問を放棄した。
「まぁ……いいけどな。最後の食事だ……いろいろ味わって食べるさ」
手にとったナイフは、美しい光沢の銀だった。
磨かれた刃は鏡のようで、少しだけ窶れた男を映している。状況のわりに落ち着いた目だなと他人事のように思って、アルトリートは目の前にあった厚切り肉にナイフを通した。
肉は恐ろしいほど柔らかく、美味かった。
なんの肉なのかは知らないが、羊と違って臭みがない。口の中に広がる旨味は、今まで経験したことがない強烈な刺激だった。
(…………!!)
食欲などなかったのに、一口食べると止まらなくなった。何もかもが素晴らしく美味い。喉を湿らせ、飲み下すための葡萄酒も一級品だった。
貴族としての立ち振る舞いは幼い頃から叩き込まれている。侯爵の手前、せめてもの意地で見苦しくがっつくことはしなかったが、それでも食べる速度が早くなるのはどうしようもない。
忙しく手と口を動かしながら、アルトリートはひっそりと給仕をしている男を盗み見た。
美しい男だった。
男に対して「美しい」という感想を覚えるのはおかしいと思うのだが、そうとしか言い表せない。母が好む華やかな美とは別種の美しさだが、ひどく人目を惹く容貌だった。
怜悧な顔立ちは甘いところがまるでなく、見ていると、研ぎ澄まされた刃を見るような一種不思議な戦慄を覚える。触れてはならないものを見るような畏怖と、なにか貴重なものに出会ったような高揚感。相対した時に感じたそれらの印象は、今も薄れてはいない。
艶のある黒髪は夜の闇を切り取ったように深く、切れ長の瞳は赤みがかった紫で、その瞳孔は深い紫色をしている。
珍しい色の取り合わせだった。特にその瞳は特筆に値する。
アルトリートが知る限り、その瞳を持つ者は一人だけだった。
王宮の中枢にいるか、王族に縁のある者でなければ知らないだろう。それは遙か昔、王国の生まれた時代に在りし人だ。
(……だからこそ、この人はクラウドール家に入ることができた)
ステファン老の強い要望があり、得体は知れないが強大な力を有する大法官の後見があり、女王と教皇の承諾もあった。だが主要な貴族達が奇妙な養子縁組を受け入れた背景には、その稀有な瞳の色があったことも確かだ。
(……そんな人が、わざわざ給仕に立つ……か)
アルトリートは少しだけ皮肉な笑みを浮かべた。
最期の晩餐には、料理長が腕を振るうことがあるという。だが、その料理を女王の腹心とも言うべき侯爵が給仕するなど、前代未聞のことだろう。
(……なにかあるな)
彼等のような人種は、無駄なことをしない。
何か珍しい行動があるときは、そうしなければならない理由がどこかにあるのだ。
ひとしきり食べ物を胃におさめ、それでもあまり減ってないように見える料理を呆れ顔で眺めてから、アルトリートはナイフとフォークを置いた。
絶妙なタイミングで出された食後酒を受け取り、飲み干してわずかに笑う。
「……で、あんたは、なんのために給仕役なんて買って出たんだ?」
王宮で会ったときには、演技もあってへりくだった物言いをした。だが、もう必要ないだろう。
「女王の腹心であるあんたがわざわざ来るんだ。何かあるんだろう?」
この質問を先に来ていた悪魔にぶつけなかったのは、背景が違いすぎるからだった。
長年女王の最も忠実な部下として傍近くに仕え、数多の実績ある侯爵と、肩書きだけは立派だが長い間行方知れずだった大法官では、同じ女王に仕える者であっても、その行動の裏にあるものが違って見える。
正直、あの悪魔の場合、興味本位でちょろちょろしているようにしか見えなかったのである。
「……あなたに直に会って、話さなければならないことがありましたので」
「……命令を受けたのではなく……?」
差し出された酒を断って、アルトリートは訝しげに問うた。
男は怜悧な美貌にわずかな逡巡を浮かべ、小さく首を横に振る。
「陛下はご存じないことです。……義父には、おそらく気づかれているとは思いますが」
義父? とアルトリートは首を傾げ、ややあって該当者に気づいて顔をしかめた。
そういえば、この侯爵はあの悪魔の名付け子だったのだ。
「……あの奇妙な悪魔は、まさかあんたの差し金か……?」
「私ではありません。義父に命令できるのは陛下だけですし、力を借りることができるのは契約を交わした者だけです」
アルトリートはハッとなって男を見上げた。
そういえば、最初に『結界で阻まれていて』と口にしていた。
まさか、知られているのだろうか。──あの悪魔が持ちかけてきた話の内容を。
だが、目の前の男はそれ以上そのことには触れず、別の話題を口にする。
「公爵の処置が決まりました」
「!」
一瞬目を剥き、次いでアルトリートは皮肉な笑みを浮かべた。
「どうぜ、死刑にはならないだろう?」
「ええ。今は」
「……『今は』?」
アルトリートは眉を顰める。
男は視線を残った料理の山へと移した。
「公爵は現在、王都の街屋敷に蟄居を命じられています。爵位も領地もご子息であるクレマンス伯爵に譲っていただきました」
驚いて目を瞠ったアルトリートは、相手の冷ややかな眼差しに息を呑んだ。自分に向けられたわけではないその目は、静かな怒りを湛えている。
「……よく、他の貴族どもが騒がなかったな。首謀者がヤツだっていうことは、公開できやしないんだろう?」
アルトリートの声に、相手は険しい表情で頷いた。
「少なくとも、今は公開できません。筆頭貴族であるレンフォード公爵が実質的な暗殺の指示者であった以上、事は公爵一人の問題ではすみません。公爵家そのものが罰せられるのであれば、その影響は王国全土に及ぶでしょう。現状において、それは避けなくてはならないのです」
「……他国の耳目もあるし、か?」
わずかに痛みを堪えるような目で、男は小さく頷く。
「陛下が王となった時、当時王宮に巣くっていた『先王の寵臣』の大半を処罰しました。あれから二十年以上が経っていますが、当時処罰された人達が代替わりするほどの年数ではありません。……あの時も諸外国に不穏な動きがありました。今は国力こそ二十年前とは比べものにならないほど上がっていますが、内部の不穏さは変わらないままです。先王の時代には表に出ていたものが、地下に潜ってしまったような感じに」
内と外。両方に不穏な気配がある現在の状況下で、筆頭公爵家を潰してしまえばどうなるのか。
少なくとも、何の波乱もないということは有り得ないだろう。最近では、昔からある民族間の争いも少しずつ表面化しつつある。下手を打てばどこかで内乱があるかもしれず、そうなれば必ず外からも関与しようという動きがでるだろう。
綱渡りなのだ。
必死にバランスをとり、慎重に足を運ばなければ、すぐに足を踏み外してしまいかねないほどに。
「──けれど、公爵を生かしておくつもりはありません」
「!?」
「必ず滅ぼすと、陛下は仰いました。内部の混乱を抑えるため、しばしの猶予を与えているにすぎません」
「…………」
ジッと見つめていると、男はこちらに視線を戻した。
何かを言いかけ、すぐに言葉を噛み殺す。
アルトリートは苦笑した。
「……あんたも、大神官と同じで『すまなく思っている』って?」
男は頷かなかった。表情を改め、懐から何かを取り出す。
差し出されたそれは、黒い小さな宝石だった。表面にチラチラと模様が浮かんでいる。
「……紋章石?」
「『断罪の種』です」
ならば、それは『罪』と『罰』の複合紋章術を封じ込めたものだ。数ある紋章珠、紋章石の中で、最も稀有といえるだろう。
「紋章と同様、相手の罪に応じて罰を与えます。使い手がもつ魔力と、対象者の魔術防御によって効果は相殺され、紋章ほど強い力を発揮するわけでもありません。軽微な罪であればかすり傷程度でしょう」
「……これを……どうしろって……?」
差し出されたそれを右の掌に落とされる。
石を見つめる自分に、男は静かな声で言った。
「他者に対してであれば、一時的な呪いにしかなりません。ですが、唯一、その種であれば、私を容易に殺すことができるでしょう」
アルトリートは目を見開いた。
「レメクという名は、義父が私につけてくださった守護のための名です。『終焉』という名の永遠を司るあのヒトは、同時に唯一の不死性をもっています。その名を与えることで、生まれる前から死を願われていた私の命を救ってくれたのです」
「……生まれる前から……だって?」
「誰も私が生まれてくることを望んではいませんでした。産みの母ですら、懐妊が分かると密かに堕胎のための毒を飲んでいました。それを知った父が服毒を止めたのは、母の身を案じたためで、私のためではありませんでした。生まれてきてから殺せばいいと、そう言ったのだそうです」
生まれてくることを母に望まれず、生まれてから殺せばいいと父に言われた子供。
アルトリートは愕然とした。自分ですら、そこまであからさまな排除を受けたことはなかった。
生まれが不幸な人間は少なくない。口減らしにそういったことが日常的に行われる場所もある。
だがまさか、目の前のこの男が──?
「ただ一人、陛下だけが、私の誕生を望み、生きることを願い、存在することを喜んでくれました」
それがどれほどの喜びなのか、アルトリートには分かった。分からないわけがなかった。
それは、アルトリートがかつて一人の女性に対して感じたものだ。
彼女の死後、その息子に感じたものだ。
「そして、義父を召還したのです」
奇妙な共感を覚えていたアルトリートは、思わず息を呑む。
召還。悪魔。
その言葉に脳裏に『それ』が閃いたのだ。
「『悪魔の書』か!」
ナスティアの国宝。ナスティアの血族だけが使える御物の一つ、強大な力を有する『悪魔』と呼ばれる異形を呼び出すための品。
本そのものが触媒となり、一度だけ召還を可能とすると言われているが、他の国宝と同様に、長い年月の中でそれを確かめた者はいなかった。必要なかったからだ。
かつての大戦のように魔族が相手というわけでもないのに、神宝とも秘宝とも言うべきものを使ってみる必要はないと判断されていたからだ。
「当時王女殿下であられたあの方に、御物を使用する資格はありませんでした。罰を覚悟であの方はそれを行ったのです。実際に呼び出されたのは違う者だったらしいのですが……その時の行動がきっかけで義父は陛下の存在に気づき、書物を喰らって代わりに陛下の元に降り立ったのだそうです」
(……確かに、アレが書物なんかに束縛されるとは思えない……)
書物を喰らう、の意味がよくわからないが、察するに、おそらく本来呼び出されるべき相手を殺して成り代わったということなのだろう。
実際に召還されるはずだったものが、本当に『悪魔』と呼ばれる生物なのかどうかは分からないが(書物で呼び出すのは『魔族を裏切った者』という説もある)、それを確認することはもはや不可能だ。
そして──
「女王とアレが契約を結んだのが……あんたを産まれさせるため、か」
男は頷いた。
アルトリートはゆるく息を吐く。
そうまでして命を望まれるのなら、それは特別な血筋だ。下々の命であったのなら、当時の王女でも王族の命としていくらでも救うことができただろう。
それができないのは、相手が王女の立場であっても頭ごなしに命じるのが難しい相手だ。
「義父が名を贈ったと知って、対抗したのか、実の父も同じように贈ってきました」
例えば、侯爵家。公爵家。独自の権力を持つ神殿の上層部。
もしくは──
「名を『レンドリア』と申します」
(ああ)
そうか、と思った。
なにが『そうか』なのか、その瞬間には頭に染みこんでいなかった。
ただ頭の中に残る。
レンドリア。
その名前。
顔立ち。
背景。
環境。
その意味。
「──── ッ!」
その瞬間走った衝撃は、あろうことか爆発的な笑いの発作だった。
レンドリア。
その名前!
「は……はは……あはははははは! アハハハハハハハハ!!」
突然笑い出したアルトリートに、相手が驚いて手を伸ばす。
「ハハハハハ! なんてことだ!! それでか!」
アルトリートはひたすら笑い続けていた。
笑いすぎて椅子から落ちるところを、伸ばされた手に抱き留められた。それでも心の底から笑い続けていた。
笑わずにはいられなかったのだ。
けれどそれが本当に『笑い』だったのかどうか、自分自身にも分からない。
「あんたが『レンドリア』か!」
その名前の意味するところがなんなのか。知りうるほどに彼は『王族』に近かった。
奇しくもその身に流れる血のままに──例え他の誰に認められていなくても──彼は確かに『王族』だったのだ。
「だからか……! 『暁の賢者』……!!」
名前が伴う意味を。理由を。その姿を。
王族にのみ伝えられる真実に照らし合わせれば、全てを理解せざるをえない。
(だから、クリスは『無理だ』と言ったのか……!)
知ってしまえば、なんてことはない。
自分たちの企みは、真実、最初から『無理』だったのだ。
始まる前から『負け』は決まっていたのだ。
少ない王族の直系という『現在の状況』も、実際に存在する『知られざる王弟』も、『彼』という存在がある限りたいした意味は無い。
もっとも、今にしてみれば──成功しようと失敗しようと、どうでもいいことではあったが。
「はは……」
アルトリートは笑う。力無い空虚な笑みだったが、その顔は穏やかだった。
少しだけ、安堵しているようでもあった。
「…………」
レンドリアはその表情に対し疑問を投げかけない。
ただ、どこか悲しげに目を細めた。
「……あいつがあの時言った言葉の意味を……やっと知れたんだな……」
穏やかとさえ言える笑顔のままで、アルトリートは空虚に笑った。
「ははは……なぁ、あんた……」
抱きかかえられた格好のまま、相手へとアルトリートは瞳を向ける。
そうして、言った。
「ありがとう」
レンドリアは返事を返さない。ただ大きく目を瞠った。
「正直、何しに来たんだ、としか思ってなかったけどな。さっきの情報には感謝する。やっと分かった……あいつが、行動する前に諦めた理由が……」
稀有な色の瞳。
その暁の空の色。
「そうか……あんたが存在するのなら……全部、最初から……前提からして、間違ってたんだな……」
絶対に無理だと分かってしまったから、手を引かざるを得なかった。たぶん、クリストフのことだ、自分を止めようと思っただろう。すでにどうしようもないところまできていてもなお、あんな馬鹿な手段にでるほどだ。思い詰めてもいただろう。
自分が、別の意味で思い詰めていたように。
「……あいつは……最初から最後まで、ボクを裏切ったりしなかったんだ……」
自分は裏切ったのに。それを知っても尚、真っ直ぐに自分を思ってくれていたのだ。
自分が向けるのと同じように──大切な家族として。
アルトリートは右の掌を開ける。受け取った黒い石をいつの間にか握り込んでいた。
掌の上で転がるそれにそっと息を吹きかけた。
石は一瞬だけ抵抗するように揺れ、そうして跡形もなく消え去った。
「……何故」
どこか呆然とした声を聞いて上向くと、こちらを支えてくれていた相手が心底驚いた顔をしていた。
笑いがこみあげてきたが、それは先程とは違うものだった。
「あんた、自殺願望あるだろう」
「…………」
「ボクにもあった。でも、自分で死ぬのはできないんだ。そういう風に教え込まれていた。……恐かったのもあるけどな」
けれど、死を間近にした今、それは恐ろしいものではなくなった。
何故を問う必要はない。
他人がその答えを聞けば、おそらく目を剥くだろう。ありえないと叫ぶだろう。だけど、この境地に立ったのなら、分かるはずだ。
──生きてきたことに、満足したのだから。
「虚無の加護を使えば、この塔から抜けることだってできる。よっぽど強い魔術結界が張られていれば別だけどな。……だけど、もういいんだ」
全てを無に帰す虚無の紋章の加護。
クリストフが持つ紋章ほど凶悪な力ではないが、その紋様を宿す自分にも、小さな範囲であれば対象物を無に帰す力を使える。
使わないのは、使う気がないからだ。
その必要もないと、心から思っているからだ。
「ボクは刑を受ける。それがボクの務めだ。ボクがそう決めたことを誰にも覆させたりはしない。……けど、そうだな……心残りは少しだけあるな」
「……それは、なんです?」
真摯な声に少しだけ笑って、アルトリートは言った。
「クリスが馬鹿なことをやってたら、助けてやってほしい」
「…………」
「あいつは、馬鹿だから。いつだって馬鹿なことしかしないから、放っておくと危ないんだ。……ボクは、あいつを守らなくちゃいけなかったんだ。あの人の墓でそう誓ったのに……今まで忘れてた」
一瞬、暗い気持ちが沸き上がる。
脳裏に浮かんだのは、狂ったようなどす黒い憎悪を目に宿した男だった。それと同時に、見窄らしくも美しかった女性の姿が浮かぶ。
(──エネメア)
胸に痛みが走った。
(……ボクは、あなたの子を殺そうとしたんだ……)
あれだけ強く誓ったのに。目の前の暗闇に気をとられて、今の今まで忘れていたのだ。
──大切な記憶だったのに。
「あいつの母親の名は、エネメアという。……あいつと一緒で、ちょっと馬鹿な女だった」
屋敷の中でも下層に位置する馬番の娘。
クリストフの母。
優しいエネメア。
あの屋敷にいた時に、一番最初に優しくしてくれたのは彼女だった。下民のくせにと反発し、蔑む自分をいつだって暖かく迎え入れてくれた。
最初は軽く見られているのかと思った。洗礼を受けることもできず、確かな身分もない自分を──他の使用人と同じのように見下しているのかと。
次に哀れまれているのかと思った。
幼い自分が想像できる限りを尽くして(とはいえ、幼すぎてほとんど思いつかなかったが)相手を推し量り、やがてその全てを放棄した。エネメアには何の含みなかったのだ。
呆れた。
ある意味『頭が弱い』と言わざるを得ないほど、脳天気な娘だったのだ。
晴れていれば太陽の恵みに喜び、雨が降れば食物が育つと喜び、風が吹けば洗濯物が乾きやすいと喜び、雷が鳴れば綺麗だと喜ぶ。
土埃に汚れた顔も手も、いつだってドロドロで近寄られるたびに逃げ回っていた。
そのくせなんとはなしに様子を見に行ってしまったのは、他に行く所がどこにもなかったからだと、当時はそう思っていた。それは事実でもあった。
小さな体で屋敷から馬小屋へ。毎日のように通っていた。
──彼女が笑って手を振るのを見るのが楽しみだった。
──覚えたての知識をひけらかすと、無邪気に喜んで『すごいね』と言ってくれた。
幼い自分には、それがとても嬉しかった。
──たぶん、初恋だったのだ。
「馬鹿で脳天気で、いつだって笑ってるような女だった。ガサツに見えそうなほどあけっぴろげで、強くて、優しい人だった」
食べられる木の実とそうでないもの。
毒のある草と薬草の見分け方。
兎の捌き方まで見せられて、さすがにあの時ばかりはギョッとなった。今思えば、幼い子供に何を見せているのかと呆れてしまう。
あまりにも小さすぎて、記憶のほとんどは朧気だ。ちゃんとした言葉として、彼女との会話を覚えているわけでもない。
だが、あまりにも懐かしく、美しい思い出だった。
「エネメアを殺したのは、公爵だ」
それを奪ったのが、公爵だった。
エネメアは美しかった。母のような洗練された美しさではない。貴族の娘と比べれば、あか抜けない存在だっただろう。
けれど美しかった。いつも土埃でドロドロだったから目立たなかっただけだ。笑い顔など、宝石のようだった。
王が来たとき、屋敷中の連中が頭の先から足の指先までピカピカに磨かれた。王の目に映るものが汚くてはいけないという理由だった。だからエネメアは王の目に留まってしまったのだ。身綺麗にした彼女は、とても美しかったのだから。
「王の手がついた彼女を他の連中は遠巻きにした。知っているだろ? あの当時の王は、ほとんど狂っているようなものだった。だから、美しいと分かっても、彼女に近寄ろうとする男はいなかった」
だからこそ、彼女が産んだ子は王の子以外にありえなかったのだ。誰もが注目していた娘だったから、誰もが抜け駆けをしなかったことを全員が知っていた。
彼女は王の子を産んだあとも、彼女のままだった。
苦しみも全て自身の中で力に代えて、背を伸ばして力強く立っていた。王の子だと言いふらすこともなく、それを盾に何かを要求することもなく、いつもの通りに生きていた。
産まれてきた赤子は自分にどこか似ていて、兄弟のようだと言われた。
胸が痛かったけれど、少しだけ、嬉しかった。
けれど自分が馬小屋に行くのを知った母に屋敷に閉じこめられ、何年か会えないままとなった。
そしてそのまま──あの祭りの日に、彼女を喪ったのだ。
「公爵が殺したという証拠は無い。彼女は自殺だった。自分で、自分の胸を突いて死んだんだ。……だけど、馬番の娘が、短剣なんて持ってると思うか? 刃こぼれのした包丁じゃない、古びたナイフでもない、装飾のついた短剣だぞ?」
「……まさか……公爵は……」
そのことに思い至ったのだろう。息を呑んだ相手に、アルトリートは頷いた。
「エネメアを襲ったんだ。あいつならやりかねない。祭りの日に、馬をとりに小屋に行ったという公爵を使用人も見ている。領民の様子を見に行くんだと言っていたのに、それほど時間が経ってないのに帰ってきて、別の所にある馬車で知り合いの貴族の所に行った」
そして、エネメアは遺体で発見された。
誰もが何かを察し、けれど口に出しはしなかった。
エネメアの遺体はすぐさま埋められて、幼かったクリストフは母の死だけを告げられた。そこにどんな事情があったのかを知らされることはなかった。
「……証拠は何も無いんだ。エネメアの命を奪った短剣だって、人の記憶に少しだけ残っていただけだ。口裏を合わせてしまえば、べつの物にすり替えられるだろう。……あいつには言えなかった。おまえの母親は、乱暴されかかって自殺したんだって……そんなこと……言えやしなかった」
エネメアが死んだと聞いた時、祭りで浮き立つ人々の隙をついて小屋へ走った。
エネメアのいない空間は、あまりにも虚しく、悲しかった。
質素な墓の前で独り残されたクリストフと会った時、アルトリートは誓ったのだ。これからは自分がクリストフの手を引くのだと。
エネメアが自分にいろんなことを教えてくれたように、自分が知った沢山のことを教えていくのだと。
「……ボクが守らなきゃいけなかったんだ」
彼女が持っていた割れていてお金としては使えない古いコインを二人で分けて、いつでも胸から下げていた。確かにあった日々の証しであり、心の拠り所だった。
母に見つかって汚いと取り上げられそうな時は、魔女の魔法がかかった曰く付きの護符なのだと、嘘を並べてごまかしたりした。
とても沢山の思い出は、同時に、大切な宝物だったのだ。
「けど……あいつがボクを守ろうとするとは、思わなかったな。いつだってボクが守ってたんだ。……あいつ、トロくさいからな」
恐がりのクリストフ。鈍くさいクリストフ。けれどエネメアに似て、底抜けにお人好しな奴だった。
「あれを見た時、もういい、って思った。もう、充分だ。欲しかったものは、ずっとボクの手にあった。ボクがボク以外のものになったとしても、あれはボクだけのものだ」
「…………」
「もう何もいらない。公爵を道連れにしてやりたくないわけじゃないけど……しまったな、さきのやつ、公爵に使えばよかったな」
思わずぼやくと、意外と大きな手にくしゃりと頭を撫でられた。
ビックリした。この人でも、そんなことするのか。
「……なぁ、ボクが死んだら、墓は作ってもらえるのか?」
問うたのは、ほとんど無意識だった。
「作ります」
「骸がなくても?」
問いに、相手は驚くことなく、しっかりと頷いた。
「必ず」
「……そうか」
もしかすると、この男には全てが分かっているのかもしれない。
あの悪魔が自分にどういう契約を持ち込んできたのか。
「できるなら……エネメアの墓も、もっといいものにしてほしいな。庭の隅に小さな石が乗っているだけなんだ……」
聞き入れられないだろうと思いながら言うと、相手はあっさりと頷いた。
「承りました」
ちょっと驚いた。
「……ボクの墓の名は、アルトリート、だけでいいさ。レンフォードの名なんて、どうでもいい」
「刻んでおきます。アルトリート・アステート、と」
どこからとってきた名前だ、と呆れた途端、思いもよらなかったことを言われた。
「猊下からいただいて参りました。……あなたの名前です」
教皇からの、名前。
「それは……」
「王族の名前は全て猊下が管理しています。……あなたの名も、そこに」
在るのだと、目で言われてくしゃりと笑った。
よくもまぁ、そんな無茶なことができたなと思った。
だが、この男と、教皇と、女王が揃えば出来ただろう。
「はは……エネメアに、土産話ができたな……」
死んだ後どうなるのか、本当のところは分からない。
魔法を受け入れれば自分は別の者になると言われた。ならば、その死は、普通の死とどう違うのだろうか。
普通の死を迎えれば、先に逝ったエネメアに会えるだろうか。契約を承諾すれば、会えなくなるのだろうか。
(だけど……たぶん……どちらにしても、同じなんだ)
死に意味を見いだそうとするのは、生きている者だけだ。
自分がそうだと思えば、それが本当であろうがなかろうが、魂は永遠であったり、幻想であったりするのだろう。
なら、死したその後には、彼女に会いに行けるのだと思えばいい。
心はこの世界に残って、クリスを守れるのだと思えばいい。
願えばいいのだ。心の底から。
その手段もまた、自分は与えられている。
「……ボクは、クリスを守るよ」
幼い日に、あの人の墓に誓ったのと同じ言葉で呟く。
「ボクがボクでなくなっても、ボクは必ずあいつを守るよ」
ありがとう、と。もう届けることはできない相手に向かって、声に出さずに言葉を送る。
出会ってくれたことに。
共に在ってくれたことに。
沢山の思い出をくれたことに。
長くもなく、短くもない人生を『生かして』くれたことに。
ありがとう、と。
「あんたがもしなにかしかの罪を感じているのなら、何かあった時には力になってくれよな。……あんた、贖罪とか、自分で考えるの下手そうだから」
言うと、なんだか情けない顔で苦笑された。
「そのためにも、あんたはそっち側にいないといけないんだ」
アルトリートは笑った。
久しぶりに、心から笑えたと思った。
「だから、さよならだ」
※ ※ ※
人がいなくなった牢屋は静かだった。
ベッドに腰掛けて、アルトリートは自分の右手を見る。
掌に、ふと、あの小さな石の感触を思い出した。
(……使わなくて……よかったな)
掌を握って、嘆息をつく。
あの人は、たぶん、こちらが裁くつもりでいるのなら、そのまま裁かれる気でいたのだろう。
自分に執着をしない人間は、他に必要とされているということ自体も理解しない。ある意味恐ろしいほど自分勝手であり、同時に、そのことに罪を覚えれないほどに、他者から必要とされている自分を知らずにいるのだ。
(……あの小さな王女は、どうするんだろうな)
指摘してやればよかっただろうか。あの人の婚約者となった王女の存在を。
どういう反応をしたのか、今となっては分からない。もしかすると小揺るぎもしなかったかもしれない。逆に、その存在に思い至って慌てたかもしれない。
その答えはもう知ることは出来ないが、想像すると少し楽しかった。
自ら命を手放すことは、愚かなことなのだ。
生きられるうちは、どこまで生きればいいのだ。死ぬ理由が無いのなら、生きていればいいだけの話だ。
死を受け入れた側からすればそう思う。同時に、死を望みながら、今もそれを与えられないままでいる相手を少しだけ不憫に思う。
いつか、生きていたことを喜べるほどに、大切な誰かと会えればいい。
生きてきてよかったと、そう思えるようになればいい。
もしかすると、あの小さな王女がそうなるかもしれない。違う人がなるかもしれない。
だがそれは、自分が与り知らない物語だ。
(……ボクも……次の物語を決めなくてはな)
そのとき、ふと、何かに呼ばれたような気がした。
顔を上げる。自分以外には誰もいない牢の、その向こうを見る。
小さな王女が、そこに立っていた。
「……なんだ、今度はおまえか」
思わず苦笑がこぼれたのは、つい先程この相手のことを考えていたからだ。
どうやってここに来たのか、とかは尋ねなかった。
王女の体はほとんど透けていた。幻のような姿の向こう側に、石畳と壁が見える。
「……次から次に……」
噂に聞く『メリディスの幽霊』というのは、きっとこれのことだろう。一族の特徴として語られる中に、精神を飛ばす術というのがあったはずだ。森で迷った時にいつの間にか傍らにあって、外への道を指し示してくれる。その様を指して『聖霊』と昔の人は呼んだらしい。
アルトリートはぼんやりと立っている王女の幽霊 (?)をしみじみと見やった。
まるでなにかを促すようにタイミングよく現れた少女。
迷いの森で立ち止まった時、先を促しに来る妖精のようだと、ふと思った。
「……決めろと……そう言いたいのか?」
きっと相手にはわからないだろうことを口にしてみた。
少女は目をパチクリさせている。大きな目が印象的だった。
そうして口を開きかけ、慌てて喉を抑える。
「 」
口は動いているのに、声は聞こえなかった。相手もそれを自覚しているのだろう、焦ったように一生懸命声を出そうとしている相手に、アルトリートはほろりと苦笑った。
「……何も言わなくても、いいさ」
少女は素直に口を閉ざす。小さな手で鉄格子を掴んで、ギョッとなった。
彼女のすぐ近くの鉄格子が、一部分、握りつぶしたように歪んでいるのだ。
──彼女自身が、かつて歪めた鉄格子なのだが。
「『ボク』は今日死ぬ。……それは、もう受け入れた」
ギョッとなっている様子が可笑しくて、つい苦笑が深まった。
すぐさま鉄格子を叩き始めるのに、さらに苦笑が深くなる。
なんて真っ直ぐで、一生懸命なのだろうか。
「……わかっているさ。ボクも決めたよ……」
焦った顔でなおも鉄格子を叩いている相手に、アルトリートは立ち上がった。
そのまま傍まで歩いて行くと、手を止めて真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
目の高さを合わせようとすると、ずいぶんと低く屈まなくてはいけなかった。
「なぁ、王女。クリスに伝えてくれないか」
言うと、驚くほど強い目になった。
「……あのコインの片割れは、『ボク』の墓に……」
作ると言ってくれた人を思い出して少しだけ笑む。
「たぶん、あの人がああ言うからには、どこかに作られるんだろうと思うが……そこに入れてくれと」
例え、そこに自分の骸は入っていなくても。
「あれは『ボク』だけのものだからな」
少女は不思議そうに瞬きをした後、コックリと頷いた。
アルトリートは少しだけ微笑う。
「それから……」
それから──声に出そうとして、少しだけ息がつまった。
自分を利用した公爵を決して生かしておかないと言ってくれた人。それを命じた女王。たぶんこれからもきっと無理をして、必死の綱渡りをしながら国を導いていくのだろう。
だから──
「女王達はたぶん、かなりムチャクチャやって公爵をぶちのめしたんだろうから」
普通ならありえない、公爵の蟄居と身分の剥奪。実子に継がれたからそうとらない者も多いだろうが、それは実質的な剥奪なのだ。
「だからってわけじゃないが……まぁ、そういうのをちゃんと見ておいて、ボクのことで女王達を恨むな、と」
これから先、手をとりあって生きていかなくてはならないのだから、尚更に。
「あいつは根が単純だから、感情に引きずられてどう転ぶかわからないからな」
少女はどういうわけか、かなり力強く頷いてくれた。
ぼろぼろと、大きな目から大粒の涙を零しながら。
「……なぁ、泣くなよ」
不思議なものだった。こんな風に、真っ直ぐに自分を見てくれる人間は、クリス以外にはいないと思っていたのに。
ここには、沢山の人がいた。もっと早く知り合っていれば、もしかすると何かが違っていたのかもしれない。
けれどそんな『もしも』に意味は無い。
それに、自分はもう、満たされている。
「別に全部が終わりじゃない」
指し示された別の道。
終わりの先にあるもう一つの始まり。
「『ボク』が終わっても、ボクは続いていく。……用意されたシナリオに動かされるのは業腹だが……代わりのものはもらったからな」
大切なものも。贈られた名前も。
自分だけのものとしてこの胸に在る。
だから泣くなと、思いを込めて手を伸ばした。
半透明の頭は何の感触も無かったが、少しだけ、暖かい気がした。
「ボクは、本当は、おまえ達のことは嫌いだったんだけどな。何の苦労もしてないのに王女になんてなったおまえ達が」
自分と比べて、なんて不公平なんだろうかと、そう思っていたのに。
「けど、おまえ達はおまえ達で、いろいろあるんだな。相手を知らずにいるっていうのがどれだけ怖いことなのか、よく分かったよ」
あの人の過去も、目の前の少女の過去も、本人や大神官から告げられるまでは想像もしなかったものだ。
人には、その人だけしか知らない過去があるのだ。
知らないままに、確認もせずに、ただ自分の見た範囲だけで決めつけることがどれだけ愚かなことなのか、よく分かった。
「……ボクのために泣いてくれたおまえを、ボクは忘れない」
後から後から零れる涙をそのままに、少女はただジッとこちらを見つめている。
唇を引き結び。
しっかと小さな両手で自分のスカートを握りしめて。
「クリスのため、っていうのもあるんだろうけどな……少なくとも、おまえは、ボクの命を惜しんでくれた」
少女の目から、一際大きな涙が零れた。
その涙を拭ってやることはしなかった。
それはきっと、自分の役割ではない。
「だけど、もう十分だ」
もう一度、頭の部分を撫でるように手を動かしてから、アルトリートは立ち上がった。
それだけで、一歩分の距離ができる。
真っ直ぐな目でこちらを見る小さな少女を自分は忘れないだろうと思った。
幼かったクリスの姿をふと思い出す。
(……嗚呼……似てるんだな、おまえ達は)
真っ直ぐな瞳。まっすぐな心。
何よりも大切に思った、人々の在り方。
アルトリートは暖かい気持ちを噛みしめて笑った。
出来る限りの祈りを込めて。
「おまえはおまえの人生を歩め」
※ ※ ※
処刑の日の空は高かった。
風は穏やかで、雲はゆったりと流れに身を任せている。
新しい服に着替えさせられ、手に枷を嵌められた姿で、けれどアルトリートは晴れ晴れとした気持ちで歩いていた。
いい洗濯日和だと、彼女なら笑うだろう。
いい乗馬日和だぞと、彼なら笑うだろう。
アルトリートは空を見上げる。
本当に、いい天気だった。
処刑を室内でなく、庭の一角でしてくれたのは、ある意味ありがたい。
空の下で死ねるのだ。
全ての証言をし終えて、毒杯を手にする。
言葉に出さずに、心の中で呪文を唱える。
飲み干した毒は、何の味もしなかった。
ただ、眠りに落ちるように意識が急速に遠ざかる。
最後に見た空は、どこまでも澄みきって青く、高く、美しい。
エネメアの瞳の色だと思った。