AIかIAか
AI。Artificial Intelligenceの略。いわゆる人工知能。
IA。Intelligence Amplifierの略。これは知能増幅などと言われている。
機械に知能を身に付させるその技術発達において、二つの根本的な思想がある。人工知能を人間がまったく介在しないオリジナルな存在とする事を目指すのか、それとも飽くまで人間が中心で、その知能を増幅させる事を目指すのか。
つまり、“AIかIAか”という訳だ。
ここではそれらを、仮に“AI主義”と“IA主義”と呼ぶことにする。
これは単なる技術的な思想に留まらず、人間社会がAIを受容する過程においてのスタイルにも大きな影響を与え、人間の仕事をAIが担うようになると、より真剣に議論されるようになっていった。
双方に極端な偏った思想が生まれ、そして、ネット上などでの議論の他、実際に事件を引き起こしもしたのだ。
あるAI主義が興したほぼ人工知能とロボットのみしか従業員のいない会社に対し、IA主義達が営業妨害を行ったり、或いはロボットの破壊が行われたり。
もちろん、そういった犯罪は批判されたのだが、それでも一定の評価を受けもした。それは、社会のAI化に人々が恐怖や不満を覚え始めているという事実を意味してもいた。
その時代的背景の中で、IA主義の政治家達は、「人間の労働者の保護」を訴え、AI導入による人間の解雇を禁止にしようとした。国際社会が真に協調してさえいれば、或いはこういった流れは本物になっていたのかもしれない。どこの国にも似たような事情があったからだ。
だが、そうはならなかった。
それにAI主義達はこう反対したのだ。
「それでは、日本の国際競争力が落ちてしまうではないか」
と。
そう。
他の国に勝つ為には、より優秀な方略を執る必要があり、その為にはできる限りAIを有効利用した方が良いのは明白だった。人間の労働者を慮って、その導入が遅れたなら下手すれば致命傷になり兼ねない。
だからAI主義を完全に否定する訳にはいかなかったのだ。その為、何かしらAIの導入に関する国際的なルールを作ろうという動きも生まれたのだが、その中で、一つ、大きな疑問が人間社会に生じた。
「そもそもAIとIAに境界線などあるのだろうか?」
それらをどのように定義すれば良いのか、人間達はまるで分からなかったのだ。定義が曖昧なままでは、どんなルールを敷いてもいずれ綻びが生まれるだろうことは、簡単に予想できた。
そして、社会がそんな議論の只中にある状態で、この日本にその疑問を体現したかのようなある“存在”が生まれたのだった。
その存在は間違いなく人間だった。観る事ができ(少なくとも僕にとっては魅力的で可愛い外見をしている)、触る事ができ(じっくり触ったことはないけれど、きっととても柔らかいに違いない)、人間の形をしていて、人間の遺伝子を持った細胞で身体が構成されていて、ちゃんとした行為を行いさえすれば、子供だって生む事ができる。だが、それと同時にその存在は人工知能であるとも言えた。
何故なら、彼女(そう。その存在は女性だ)のその脳は、半分は人工知能で出来ているからだ。
「沙世ちゃーん。ガッコ、いこー」
と、ドアのチャイムを鳴らすなり、インターフォンに彼女が出るのも待たずに、僕はそのマンションの一室に向けてそう大声を上げた。
それから直ぐに“ドタドタドタ”という慌ただしい足音が聞こえて来てドアが開く。
「うるさい! アキ君! 近所迷惑!」
すると、まだパジャマを着ていて、寝ぐせすらまったく直していない彼女の姿がそこに現れ、怒った顔でそう僕に注意して来る。
うん。今日も可愛い。
なんて僕は思う。
僕は一日のうちのこの時間のこの瞬間しか観られないこのレアな彼女のこの姿の為だけに、毎朝彼女を迎えに来ていると言っても過言ではない。
ま、嘘だけど。
「近所迷惑たって、このマンション、君の他に人は住んでいないじゃない」
僕がそう返すと、彼女は「住んでるわよ。三階の一番端と、一階の一番手前に」と言い返してくる。
「離れているじゃない」
と言うと、
「神経質なのよ、あの人達は」
と、彼女は言う。
「大体、アキ君は迎えに来るのが早すぎなのよ。まだ、わたし、朝食も食べていないのよ? 待っててもらうからね。
あ、断っておくけど、部屋には入れないわよ。ここで待たせるからね!」
そう続けて来る彼女に対し「はいはーい。分かっているよ。待ってまーす」と僕は軽く応えた。
(因みに、“アキ”というのは僕の名前で、フルネームは村上アキという)
自分の怒りをまったく気にしないその僕の反応を見てか、彼女は怒ったような感じでドアをバタンと閉める。閉まったドアの向こう側から「まったく、アキ君は!」という彼女の独り言が聞こえて来た。呆れているのがよく分かる。
……彼女、長谷川沙世は、生まれて間もない赤ん坊の頃に交通事故に遭って両親を亡くしている。
その際に本人も重傷を負っており、なんとか一命は取り留めたが、脳の半分が壊れてしまった。
それを知った脳を専門としている根津って医学者が善意で(本当に善意かどうかは分からないけど、少なくとも世間的にはそういう事になっている)、彼女の治療を行い、彼女は見事に回復をしたのだった。
もちろん、それ自体は歓迎すべきとても目出度い話だ。その先生が治療を施してくれなくては長谷川沙世という人間はこの世にはいなかったのかもしれない。
いや、例え生きていたとしても、日常生活を普通に過ごせるようになってはいなかっただろう。
彼女が大好きな僕としても、だからそれについては大いに感謝をしている。
が、それでも問題はあった。何故なら、そこで選択された治療方法は、彼女の社会的な立場及びにそれからの人生に、多大な(本当に、多大な)影響を与えてしまったからだ。
その根津という先生は、人間の脳に人工知能を組み込み大幅にその性能をアップさせるという研究に勤しんでいて、彼女に対してそれを施してしまったのだ。
つまり、彼女の脳は半分は人間だけど、半分は人工知能だという事になる。その人工知能はネットにも通じていて、外部からの情報も絶えず受信している。外部には人工知能だってもちろんある訳だから、その頭脳スペックは計り知れない。
(……ま、通信状態に大きく影響を受けそうだけど)
そうして形成された自我・意識・人格が通常の人間と同じであるはずはなく、つまりは彼女は人間と人工知能のちょうど中間のような存在であると言えるのだ。
そして、沙世ちゃん対して無限の愛を注ぎ切る自信のある僕にとっては、そんなのは些細な点なのだけど、どうやら世間ではそうでもないらしく、一応彼女に保護者はいるけれども、色々あって、今現在彼女は一人暮らしをしているのだった。
若い女の子が一人暮らし。
これで心配しないはずがない。
だから僕は毎日、彼女を学校まで送り迎えしているという訳だ。
「――お待たせ」
ドアを開けた沙世ちゃんは、そこで大人しく待っていた僕を見やると、できる限り変化を抑えたような少し変な表情で、一言だけそう言った。
意外に速かった。
多分、口ではあんな事を言っていたけど、僕を外で待たせているから急いで準備をしたのだろう。この変な表情は、きっとそれを誤魔化す為の照れ隠しのようなものなのだと思う。
「ううん。僕は沙世ちゃんだったら、24時間だって待てるよ」
僕が上機嫌でそう言うと、沙世ちゃんは「なんで、嬉しそうなのよ……」と呟いた。やっぱり照れているように見える。
「とにかく、ガッコ行こうよ、ガッコ」
気楽そうな僕の言葉と態度に軽くため息を漏らすと、彼女は「はいはい」と言って歩き始めた。僕もそれに合わせて足を前に進める。歩きながら彼女は口を開いた。
「アキ君。別に毎日迎えに来てくれなくても良いのよ?」
「ううん。駄目だよ。ただでさえ、こんな寂れた人気のない場所に住んでいて心配なんだから。送り迎えくらいさせてよ。
本当なら、僕は隣に引っ越したいくらいなんだからさ」
「その方が危険じゃない」
僕らが住んでいるのは“かつて地方都市だった”場所。社会の高齢化の進行によって、今じゃすっかり廃れてしまっている。彼女はその中でも特に人のいない区画に住んでいて、治安も悪ければ衛生状態も悪い。例えば、裏手の方にはゴミ捨て場があるのだけど、ここは元々は不法投棄されたゴミの溜まり場だったものが片付けるコストが出ないものだから、いつの間にか正式に認められてしまっていたというとんでもないエピソードがある。はっきり言って若い女の子…… 特に沙世ちゃんみたいな可愛い女の子が住むような場所じゃない。
理由は分からないけど、彼女は自ら選んでその場所に住んでいるようなので、恐らくは何かしらの理由があるのだろうとは思うのだけど、今のところ、僕には見当もつかない。
進めば進むほど、少しずつ登校の道は賑やかになっていく。もっとも、それでも高が知れていて、建物の数が多いのに比べて不釣り合いに開店している店は少ない。沙世ちゃんの家が外れにある所為で長い道を歩かねばならないのだけど、僕にはそれが嬉しい。彼女と二人きり。
学校に着き、教室に入るなりこんな声が聞こえて来た。
「おー 今日もナイトに護られてのご登校ですか、お嬢様」
見ると、やる気のなさそうな顔で立石望という女生徒が僕らを見ていた。彼女は沙世ちゃんの親友で、言うなれば僕のライバルに当たる存在だ。
「ナイト? 誰、それ? ストーカーになら、付き纏われて来たけど」
そう言いながら沙世ちゃんは、立石さんの隣の席に着席する。
「失敬な、沙世ちゃん。付き纏っていただけじゃなくて、ちゃんと護りながら来たよ、僕は」
と、それに僕は返す。すると立石さんが「ストーカーを否定はしないんだ」とそうツッコミを入れた。
続けて沙世ちゃんは、「隙あらば襲う気のくせに」なんて言う。信用ないなぁ…… とその言葉に僕は軽くショックを受けた。
人口の少ない過疎地域の高校だけあって、同じ学年には2クラスしかない。ただ、そのお陰と言うか何と言うか、僕らの結束力は中々大したものなのじゃないかと思う。仲違いやいじめが発生する事もなく、僕らは上手くやれている。
そして、その中心には良くも悪くも“半分だけ人工知能の人間”である沙世ちゃんがいるのだった。
彼女という特殊な事情を抱える人間が、僕らという人間関係を結び付け、立場の差を乗り越えて同じメンバーとしての行動を可能にしているのだろうと思う。
ただし。
その点が沙世ちゃんにとって良いのか悪いのかは分からない。もしかしたら、彼女はそれを嫌がっているのかもしれない。
僕としては今のこのクラスの状態を気に入っているのだけど、それだけがちょっと気がかりだった。
「――ああ、憂鬱だわ」
なんて不意に沙世ちゃんが言った。
「どうしたの?」と、それに僕。
因みに僕は彼女の隣の席だ。立石さんとは沙世ちゃんを挟んで逆の位置。
「どうしたの?も何も、今日テストの結果が返ってくるじゃないのよ。わたし、数学の自信がないのよね。はっきり言って苦手」
「うん。沙世ちゃん。それは人工知能が言っちゃいけない台詞のベスト3以内には入ると思うよ?」
「苦手なもんは苦手なんだから仕方ないじゃない」
それを聞いて「社会は得意なのにねぇ、あんた」と横から立石さんが口を出して来た。それに沙世ちゃんは淡々と返す。
「社会はね、モチベーションが上がるのよ。知っておかなくちゃいけないっていう。でも数学は、どうせコンピューターを利用すれば呆気なく回答が分かるのだもの。やる気が出ないのよね」
「そーゆーもんなの?」
どこまで本気で彼女がそれを言っているのかは分からないけど、もしかしたら、脳の半分が人工知能である彼女にしか分からない感覚があるのかもしれない。
「ズルしちゃえばいいじゃない」
そこで立石さんがそう言った。
そうなのだ。沙世ちゃんなら、ズルをして頭の中の人工知能を使いさえすれば、ほぼ間違いなく数学でだって100点が取れるはずなのだ。なのに、何故かそれをしない。
「何言っているのよ? そんな事したら、ズルしたのが丸分かりじゃない」
その発言の意図を直ぐに察したのか、沙世ちゃんはそう返す。
「だから、バレないように適度にわざと間違えるのよ」
と、それに立石さん。
「無理よ。わたしは。不器用だから。そーいうのは」
沙世ちゃんは確かに不器用だ。それを人工知能の所為と考えるのは或いは穿ち過ぎかもしれないけど、少なくともその特殊な立場が原因の一つにはなっているのかもしれない。自覚の有り無しに関わらず、彼女の中のコンプレックスが影響を与えている可能性はかなり高いと思うから。
「ま、数学は倫理の授業にとっても重要なんだからさ、それでもあなたは特別確り勉強しなさいな」
立石さんがそう言うと、沙世ちゃんは物凄く厭そうな顔を浮かべた。彼女は倫理の授業が嫌いなんだ。とても。
……もしかしたら、「数学が倫理の授業にとっても重要」という立石さんの話を聞いて違和感を覚えた人もいるかもしれない。
“数学と倫理はまったく違うのじゃないか?”
って。
ところが、これが実はそうでもないのだ。倫理を“社会全体にとってプラスの行動規範”と読み替えるのなら、コストと損害、メリットなどを計算する必要があり、そうなると当然それは数学と結びついてくる。
しかも現代社会においては、人工知能が社会の多くの要素を動かしている。だからその倫理によって導き出された行動を、人工知能にインプットしておかなくてはならない。つまり人工知能の登場によって、倫理は曖昧なままでは済まされない位置付けとなり、かつ数学と非常に深い関係にある必須の分野になってしまったという訳だ。
「――では、この事例についてどう思うか…… 長谷川、言ってみてくれ」
倫理の授業。
担当の先生が沙世ちゃんを指した。倫理の授業でよく沙世ちゃんは指されるのだ。その瞬間、教室に静かな緊張感が走るのが分かった。沙世ちゃんはこう答える。
「はい。道路を歩いているのは若い男性一人だけですが、仮に対向車に車をぶつけてしまった場合、それによる追突事故で何人の人間が犠牲になるか分かりません。
スリップで運転不能に陥っている状況下でハンドルを切るべきなのは、たった一人の犠牲で済むと分かっている道路側です」
その返答に先生は難しそうな表情を浮かべる。
「それは今現在の自動運転車に組み込みまれている人工知能の制御の話だろう? そうじゃなくて、君の意見を聞いているんだ」
淡々とした感じで(僕にはやや機嫌が悪そうに思えた)、彼女はこう返す。
「ですから、わたしもそれと同意見なんです」
先生はちょっとだけ迷ったようだったけど、それに対し「分かった」とだけ応えた。
この先生は人工知能に好意的なAI主義派だから、この程度の質問で済んだけど、もし仮に人工知能に敵意を向けるIA主義派だったなら、もっとえげつない質問をされていただろうし、きっともっとしつこく質問をしてきたに違いない。
沙世ちゃんにとっては、不幸中の幸いだろう。
もっとも、学校側もそれを分かった上でのこの人事なのだろうけど。
やや反感を漂わせたその沙世ちゃんの様子をクラスメート達は必死に記録していた。音の出ないデジタルカメラで彼女を撮影したり(本当を言えば僕だって個人利用目的で撮影したいのだけど)、授業のメモを書いている振りをしてノートパソコンに彼女の様子を記録したり。
こんな状況、もしも僕が彼女の立場だとしても、きっと嫌気が差していただろう。彼女が倫理の授業を嫌いになるのはよく分かる。
実はこのクラスの約半分は“AI主義派”で、残り半分は“IA主義派”なんだ。しかもそれぞれ各派閥で色々な考えを持ってもいるから、沙世ちゃんに対する評価も人によって大きく異なっている。
沙世ちゃんの親友だと先に書いた立石望は“AI主義派”で、もちろん、人工知能に好意的な見方をしている…… グループに少なくとも所属してはいる。ただ、彼女自身がどう思っているのかはいまいち掴み切れない。彼女の沙世ちゃんに対する対応はとてもフランクで普通だから。
沙世ちゃんは実質的には常に監視され続けているとも言えるこの状況下で“半分は人工知能”であるとはとても思えない普通の女の子のような立ち振る舞いをしている。脳から直接ネットにアクセスできる彼女だけど、怪しい痕跡は一切なく、強いて上げるのなら技術的な調べものが多いくらいだった。僕が唯一見つけた彼女の人工知能らしい行動は、3Dプリンタで何かを作っているのを趣味にしている点くらいで、しかもその作った物もいつの間にか消えている。ゴミ箱に捨ててあるのを見かけ事もあるから、きっとパズルのような遊びなのだろうと思う。飽きたら捨てているんだ。大して重要じゃないのは明らかだ。
もっとも、それらが演技である可能性はもちろんある。
ただし、それでも僕は、彼女が普通の女の子と同じ様な感情を持ち合わせていて、喜びもすれば傷つきもするという点だけは確信している。
そのか細い心が、この不自然な教室内の人間関係の異様な均衡の中で常に揺れているのを見ると堪らなくなる。優しく抱きしめてあげたい。
……ま、通報されちゃいそうだから、止めておいているけど。
「お前な、いくらなんでも彼女に対してあからさま過ぎないか?」
昼休み。
そう三城という同じクラスの男生徒が僕に話しかけて来た。こいつは“AI主義派”で、その中でも比較的僕とよく喋る方だ。もちろん、三城の言う“彼女”というのは、沙世ちゃんのことだろう。僕は余計なお世話だと言わんばかりにこう返す。
「良いんだよ、彼女には。あれくらい分かり易いくらいの方が」
ところが、それに三城は「違うだろ」と言うのだった。それから、まるで叱るような口調で、
「男女間っていうのは駆け引きが重要なんだよ。あんなに押してばかりでどうするんだ? 一度一歩引いてみてだな、彼女の様子を見るんだよ」
なんて熱弁を振るって来る。
こいつはかなりの女好きで有名で、始終、こんな事ばかり考えているんだ。僕はそれに対して「嫌だね」と応える。
「それって、女の子を不安にさせて気を引くっていうよくある手だろう? 僕はただの一瞬も彼女を不安になんかさせたくないんだ」
「甘いな。そんなんじゃ、いつまで経っても彼女は落ちないぞ!」
僕は首を横に振る。
「百歩譲って、それで本当に彼女が落ちるのならそれも少しは考えよう! 本当にほんの少しならな!」
「考えるのかよ」
「が、彼女に限っては違う。まずはとことん僕に安心をしてもらう必要があるんだよ! というか、安心させてあげたい!」
三城はその僕の言葉と剣幕に随分と押されていたようだったけど、そんなタイミングで横からこんな声がその会話に割って入って来たのだった。
「――わたしも、ちょっと無警戒に近付き過ぎだって思うわよ?」
それはやはり同じクラスの眉月という女生徒だった。彼女はIA主義派に属していて、そのグループは沙世ちゃんを“人工知能によって知能を増幅させた人間”と判断すべきか、それとも“人工知能が人間に擬態している存在”と見做すべきなのかを迷っているらしかった。迷っていると言っても、どうも“危険な存在”と捉えたがってはいるようで、その為の材料を日々探しているような印象を僕は受けている。
僕の知る限りでは、沙世ちゃんに対して最も過激な思想を持っているグループだ。
「あなたとしては、あの娘を“良い方向”に引っ張りたいって思っているのでしょうけどね」
そう彼女が言い終えると僕と三城は口を揃えて「何が?」とそう訊いた。
「何が?って、だから長谷川沙世が人類に対して悪影響を与えないように持って行こうとしているのでしょう?」
僕はそれに「いやいや」と返す。
「男二人が話していて、“女の子を落とす”って言ったら、それはもし具体的に説明したら18禁になってしまうような色々な事をしたい話に決まっているじゃない」
その僕の発言に、眉月さんは心底驚いたといった様子を見せる。
「マジで言っているの?」
「むしろ、それ以外に何があるのか?って感じなんだけど……」
それを聞いて彼女はしばらく止まる。そしてもう一度確かめるようにゆっくりと口を開いた。
「つまり、村上君は、あの長谷川沙世を恋人にしたいってこと? 本気でそう思っているの?」
「だから、常日頃からそう言っているじゃない」
何を今更って感じ。考えてみれば、常日頃から言うようなことでもないけどさ。
それを聞くと彼女は今度は腕組みをしてみせた。何かを考えている。そして三城を見るとこう尋ねた。
「あなたから見てどう? 村上君に脈はあると思う? 客観的に」
軽く肩を竦めて三城はこう返す。
「ま、彼女はあんな境遇だし、あんなに積極的に情熱的にアプローチをされたら悪く思わない女の子はいないだろうし、村上がもう少し考えて接すれば充分に可能性はあるのじゃないかと思うが」
それを受けると、「ふーん」と彼女は言い、更にこう続けた。
「それならそれで、わたし達としても却ってやり易いかもしれないわね」
僕はその言葉に嫌な予感を覚えた。それでこう尋ねてみた。
「何か悪巧みでも思い付いたの?」
すると、心外だといった様子で彼女はこう返す。
「人を何かの悪の組織みたいに言わないでよ」
……先に“長谷川沙世を中心に僕らは上手くやれている”みたいなことを書いたけど、それは飽くまで表面上の話。
それぞれの所属しているグループまでいけば、どんな思惑が蠢いているのかはまったく分からない。
ちょうど、この眉月さんみたいな感じで。
もっとも、僕や三城のように、それほど各グループに毒されていない人間もたくさんいるのだけど。
だから個人的な表面上の付き合いがあったとしても、裏ではどんな事を皆が考えているのかはまったく分からないんだ。もしかしたら沙世ちゃんに対して敵意を向けている人達もいるのかもしれない。
恐らくは、沙世ちゃんがこんな廃れた地方に住んでいるのもだからだろう。人口が少ない方が、どんな考えを持ったどんな人間が近くにいるのか調べ易い。“木を隠すなら森の中”なら、その逆に“木を見つけ易くするなら、砂漠に住めば良い”というわけだ。
ただしそれは同時にデメリットも抱えている。それは、いざという時、助けを求められる人間が少ないということでもあるから。
僕が沙世ちゃんを護る為に毎日送り迎えをしているのが何故かのかも分かってもらえるのじゃないかと思う。
「――だから、アキ君。別に毎日送ってもらわなくても良いのよ?」
けど、沙世ちゃんは僕のそんな心配をまったく分かっていない。彼女の下校を校門の前で待っていた僕を見るなり、彼女は呆れたような表情でそう言って来た。
「朝にも言ったけど、それじゃ駄目だって。あんな人気のない道を通るのだもの。絶対に一人じゃ危ない」
僕がそう返すと、いつもよりも少しだけ真面目な口調で彼女は言う。
「だって、アキ君の時間を取らせたら悪いじゃない」
「とんでもない」と、僕はそれに大袈裟に反応してみせた。
「断っておくけど、沙世ちゃんと一緒に歩くのが、僕の一日の中で最も楽しい時間なんだからね?」
僕は当然だと言わんばかりにそう言い終える。すると、その瞬間、沙世ちゃんは珍しく微笑んだのだった。
嬉しそうに。
それを見て僕は思う。
激烈にカワイイー!
と。
はっきり言って感動ものだ!
彼女は自分が微笑んでいる事とそれを見られた事を自覚したのか、「それ、なんだかストーカーっぽい」とそう言って少し速く足を前に進めた。
もちろん、頬が少し赤くなっているのを僕は見逃さなかった。
明らかに照れ隠しだ。
やっぱり、可愛い。
“もし、こんなシーンをIA主義派の連中が見たなら、きっと沙世ちゃんが‘人間に擬態した人工知能’だなんて思わなくなるだろうに“
と、そう思ったのだけど、それから僕はこう思い直した。
“いや、違うか。連中は‘自分の思い込み’の方に事実を捻じ曲げて受け止める。多分、無理矢理に解釈して、「それは違う」と言い続けるのだろう”
その日、僕は沙世ちゃんを家に送り届けてから直ぐに携帯用端末でインターネットにアクセスをし、過激なIA主義派達がどんな会話をしているのか確かめてみた。
するとやはり、
『もし仮に長谷川沙世が、人間であるというよりも人工知能に近いのなら、それなりの対処をしなくてはならない』
といったような書き込みがあった。どれだけ僕が愛情たっぷりに沙世ちゃんに接して、普通の女の子らしい反応を引き出しても、この傾向は一向に変わらない。
「困ったもんだな」
それを見て僕はそう呟いた。
――次の休日。
僕は沙世ちゃんの家の裏手にある大きなゴミ捨て場にいた。怪しい人間が近くにいないか自主的にパトロールしているのだ。潜伏するのなら、ここは適しているはずだから。
流石にうざがられるかもしれないから、彼女の家までは訪ねないけど。
いや、もしかしたら、帰り際に少しくらいは寄るかもしれないけど。
(……どうか、ますますストーカーっぽいとかは思わないで欲しい)
なんとなくマンションの方を見てみると、彼女の部屋のベランダが見えた。もしかしたら姿が見えるかもしれないと思って目を凝らしてみたけど姿は確認できない。珍しく出かけているのかもしれない。
少し期待していた僕はやや残念に思いながらも奥へと進んだ。そしてその時に足元を進む妙な気配に気が付いたんだ。
“ヤドカリ?”
その一瞬で連想したのはそれだった。四角い箱のような姿のそれには何本か肢が生えていて、ちょこちょこと進む感じがちょうど箱を被って歩ているヤドカリのように思えたから。
だけど、その箱は僕が目を向けると直ぐに動かなくなった。不思議に思って手で掴んで見てみると、金属製ではあるものの中が空洞になっているのか非常に軽かった。肢らしきものは見当たらない。何処かに収納されてしまったのか、それとも元々なかったのか。
“気の所為かな?”
そう思いかけたところで不意に思い出した。
“これ、沙世ちゃんが作っていたやつに似ていないか?”
3Dプリンタを使って彼女が作っているパズルか何かだと僕が思っていた物。
“でも、これが沙世ちゃんの作っていた物だとして、一体、何の為にゴミ捨て場にあるんだ?”
そこで僕はまた思い出した。彼女が自分の作っていた物を捨てていた事を。なら、ゴミ捨て場にあるのは当り前だ。
バカバカしくなった僕は箱を地面にそっと戻す。丁寧に置いたのは、沙世ちゃんが作った物かもしれないと思うと投げ捨てる気にはなれなかったからだ。それから視線を前に向けてみた。もし、さっきこの箱が動いていたのが僕の錯覚でなければ、その目的地だろう辺り。
そこで気が付いた。
“あれ? 鉄柱がある”
大きなビルの骨組みにでも使われるだろう太くて丈夫そうな鉄柱。元が不法投棄の違法なゴミ捨て場で、公認された今でも許可を取っていない業者が捨てに来るらしいから色々な物が捨ててあるとは知っていたけど、まさかこんなものまであるとは思わなかった。一体、何処のどんな業者が捨てたのやら。
近くに寄ってみると、他にも数本、似たような鉄柱が転がっていた。ちょっと目をやると、先端の方には大きな鉄版もあった。
何かの足場のようにも見える。
ゴミに覆われている所為でどうなっているのかは分からなかったけど、或いはその鉄版は鉄柱と繋がっているのかもしれない。詳しくは知らないけど、セットで使う何かの建築資材なんだろうか?
鉄版の近くまで行った僕は、その地面に先の“ヤドカリの箱”と似たような箱が転がっているのを見つけた。
“なんだ?”
屈んでみると、まだ他にも同じような箱がいつくも辺りに転がっているのが見えた。僕にはそれが睡眠中の何かの虫のように思えた。こいつらは活動時間になったら動き出し、餌を求めてさ迷うのかもしれない。
これが偶然じゃないとすれば、そしてこれらが沙世ちゃんが作ったロボットか何かだとすれば、ここで一体何をやっているのだろう?
そう考えて僕は再びバカバカしくなった。これが何かは分からないけど、多分、どっかの業者がまとめて捨てたのだろう。そう考えた方が理に適っている。だから、この近くにたくさん転がっているだけだ。
そこで僕はまたマンションの方に目を向けてみた。やっぱり沙世ちゃんがいるような気配はない。住民の数と維持費のバランスを考えれば撤去した方が良さそうなマンション。まるでゴーストタウン。こんな寂しく悲しい場所にあの可憐な沙世ちゃんが住んでいると思うと、なんだか居たたまれない気分になった。直ぐにでも迎えに行ってあげたい。ここは彼女がいるべき場所じゃない。
……まぁ、もっとも、今は沙世ちゃんはいないみたいだけど。
沙世ちゃんがいないのなら、パトロールもあまり意味がないしそもそも誰かかが潜んでいそうな気配も痕跡もない。
そう考えると、それから僕はそのゴミ捨て場を出て街へ向かった。ショッピングモールでも散策すれば、或いは偶然、彼女に出逢えるかもしれない。
ゴミ捨て場を出てしばらく歩いた辺りだった。突然、僕のスマートフォンのベルが鳴った。見ると眉月さんからだった。沙世ちゃんを警戒しているIA主義派の一人の彼女。
僕は“嫌だな”と思いつつもボタンを押下した。
「何か用?」
少なくとも沙世ちゃんの事を考えながら歩いている今は話したくない相手だ。
『あら? 不機嫌ね』
「気の所為だよ」と僕は嘘をつく。それに構わず彼女は言った。
『折角、あなたが知りたがりそうな情報を教えてあげようと思ったのに』
「僕が知りたがる情報?」
なんだか嫌な予感がした。情報を与えるってのは、誰かの行動をコントロールする常套手段だから。
『そう。長谷川沙世に関する情報』
僕はそれを聞いて益々嫌な予感を覚える。
しかし、それでも「どんな?」とつい訊いてしまった。
『彼女、今、車に乗せられているわよ。運転席に座っているのは、大人の男性。もっとも自動運転だろうけどね。年齢まではちょっと分からないな。ただ、サラリーマンには思えない』
「どうして、彼女は車になんか乗っているんだ?」
沙世ちゃんは、僕の知る限り今まで一度だってこの地域を離れた事はない。そもそも家の外にすらあまり出ないんだ。
『さぁ? でも、彼女ならいくらでもさらわれる理由はあると思わない?』
僕はそれを聞くと反射的にこう尋ねていた。
「沙世ちゃんは何処にいるんだ?」
『学校前に大きな国道があるわよね? そこを真っすぐショッピングモール方面に向かったみたい』
頭の中で素早く計算する。
それなら、今から急げば間に合うかもしれない。
僕はそれから直ぐにスマートフォンを耳から離して猛ダッシュをした。罠かもしれないとはもちろん思っていた。でも、それでも沙世ちゃんが心配で堪らなくて、走らない訳にはいかなかったんだ。
いざとなったら身を挺してでもその車を停めて、彼女を助けるくらいしてみせる。それくらいの覚悟でいた。
(……どうか、無事で)
“……もしかしたら、もう通り過ぎてしまったのかも”
そんな不安を抱きながら僕はその道を走っていた。向かって来る車に意識を集中させながらも、同時に足を懸命に前へと進める。人口の少ないこの地域だけど、この道路は比較的車がよく通るんだ。油断はできない。
大して長くなかったはずなのに、それは僕にはとても長い時間に感じられた。
“……沙世ちゃん。どこだ?”
スマートフォンで沙世ちゃんに電話をかけようかとも悩んだけれど、その間で沙世ちゃんの乗った車を見過ごしてしまうかもしれないと思ったらそれもできなかった。
“せめて、眉月さんからどんな車だったか聞いておくべきだったな”
やがて流石に息が苦しくなって、僕は足を止めた。呼吸を整えながら、それでもやってくる車は見逃さない。
すると、その時だった。
緊張した面持ちの沙世ちゃんが助手席に乗っている車が僕の目に入ったのだ。
“見つけた!”
後ろの車との車間距離は充分離れている。激突事故は引き起こし難いだろう。道路に出て、車を無理矢理停めてもリスクは少ないはずだ。自動運転ならほぼ確実に止まるし。
そう判断すると、僕はもうひと踏ん張りとばかりに車道へと足を進めようとした。
が、そこで異変が起こったのだ。いきなり沙世ちゃんの乗っていた車が加速したのだ。まさかと思った。まるで僕に反応して加速したように思えたから。僕は潜在意識の奥底で膨らむような底知れない恐怖を感じた。
そしてその潜在意識の予言は的中した。僕の傍にまで来ると、車はスリップしたような不自然な動きを見せ、それから僕の方に車体を急に向けたのだ。
え?
まるで巨大な怪獣に襲われているかのように錯覚し、僕は身体が竦んで動けなかった。その一瞬はスローモーションのように感じられ、そんな中で、僕は助手席に座る沙世ちゃんのその姿を目で捉えていた。
沙世ちゃんは泣き出しそうな表情で僕を見ていた。僕を心配そうに見つめるその顔は、罪悪感と哀しみに満ち満ちていた。
“助けなくちゃ!”
そして、その表情を見た瞬間、僕の中にそんな言葉が、そして身体は動くようになっていた。車を躱せば、沙世ちゃんを助けられると直感的に悟っていたからだろう。
僕が右に身体を躱すと車はその逆の方向に曲がろうとした。間違いない。車を操作しているのが誰かは分からないけど、僕を轢かないようにと必死になっている。
“なんとか、躱せそうだ!”
スローモーションのように流れる僕の視界の中で、怪獣のように大きく見えた車が普通の大きさに戻っていた。
あと少し。
車のボンネットの端を、ギリギリ僕の身体が通り抜けた。
“よし! なんとか切り抜けた!”
と、僕は喜ぶ。だけど、それで気が抜けてしまったのがいけなかった。その次の瞬間、サイドミラーの存在を僕は思い出したのだ。視線を移すと既に避けようもない位置にそれはあった。
“しまった!”
服がサイドミラーに引っ掛かる。そのまま僕は強い力に引っ張られ、グルンと激しく回転をした。
そして僕は壁かコンクリートの地面かのどちらかに激突をし、そのまま視界が真っ暗になったのだった。
――真っ暗の中。
僕は沙世ちゃんの泣き声を聞いているような気がしていた。
僕は思う。
“お願いだから、そんなに泣かないで”
沙世ちゃんが泣いているのを僕は見た事はないけれど、でもずっと見続けていたような気もする。
だから僕は、そんな彼女を守りたいと思うようになったんだ。
……初めて会って接触しようと試みた時、沙世ちゃんは僕をあからさまに嫌がっていた。立場が立場だ。仕方ないと思いつつも、僕には少しばかり納得がいかなかった。
僕は随分と彼女に気を遣っていたし、それに僕よりも彼女に雑に接している立石望に対しては、彼女は気を許しているように思えたから。
「何故だろう?」と尋ねる僕に、立石さんは「そんな事も分からないの?」と馬鹿にした感じでそう言って来た。
そう。
その時の僕には“そんな事”も分からなかったんだ。
そして迂闊な僕はある日、
「僕らは君について少しも分からなくてさ。だから、もっと知りたいんだ。どうか、教えてくれないかな?」
と、沙世ちゃんに尋ねたんだ。その途端彼女は怒り出してしまった。
「そんなの、わたしが一番分からないわよ!」
と。
――泣かせてしまった。
僕はそう思った。
涙は一滴も流していなかったし、哀しそうな表情を見せてもいなかったけど、僕は彼女を深く傷つけてしまったのだと自覚をした。
そしてその瞬間、立石さんの言う“そんな事”の意味が僕には分かった気がしたんだ。
そうなんだ。分かるはずがないんだ。彼女に自身のことが。半分だけ人工知能の人間なんて、この世の中に今まで一人もいなかったのだから。自分自身を本当に分かっている人間なんて、本当を言えば誰一人いないのだろうけど、それでも普通の人は分かっている気にくらいはなれるだろう。いや、少なくとも、皆と同じなんだという幻想を抱けはする。だけど、彼女はそれに縋る事すらもできない。
――それって、どんなに辛いのだろう?
立石さんはちゃんとそれを分かっていたんだ。だから彼女はそれを忘れられるような接し方を沙世ちゃんに心がけていたんだ。
そしてそれを悟った瞬間、僕には彼女が堪らなく愛おしくなった。その暗い場所から、この女の子を連れ出したい。
そう思うようになったんだ。
意識が戻ると、そこは病室だった。白いベッドと布団が無機質に僕を包んでいる。同じ室内に誰かの気配がした。一瞬、沙世ちゃんだったらと期待したけど、違った。
「――あら? 気が付いたのね」
そこにいたのは立石さんだったのだ。どうして彼女がいるのだろう?
「沙世ちゃんは?」
起き上がりつつそう尋ねる僕に、彼女は呆れたような表情を浮かべる。
「死にかけたのに、第一声がそれ? 流石と言うか何と言うか」
それを聞きながら、僕は意識を失う前の状況を思い出していた。その間で彼女は誰かに向けてメールを打ち始める。不審に思ってそれを眺める僕に彼女はこう説明した。
「沙世にメールを送るのよ。あなたが無事に意識を回復したってね。わたしがここにいるのは、あの子の為みたいなもんだから」
それを聞き終えるよりも早く僕は彼女にこう尋ねていた。
「アレは何だったの?」
どうして沙世ちゃんが乗っていた車が僕に向って突っ込んで来たのか。このままじゃさっぱり意味が分からない。
「あなたは罠に嵌められたのよ」
「それは分かっている。沙世ちゃんは?」
「あの子も同じ。罠に嵌められた。もっとも、あの子は多分、罠だと分かった上で敢えて乗ったのでしょうけどね」
それを聞いて、僕はほぼ反射的にこう返す。
「僕も罠だと分かった上でどうにもならなかっただけだから、これはもうお揃いみたいなもんだね!」
「意外に余裕あるわね。それだけ軽口が言えれば大丈夫そう」
その後で僕は真面目な口調に変えるとこう言った。
「――で、沙世ちゃんはどんな罠に嵌められたの?」
犯人は大体分かっている。IA主義・過激派の連中だろう。だけど、目的も手段も分からない。僕の命を狙っても連中にはリスクだけあって何のメリットもないはずだ。
立石さんは淡々と答えた。
「“人工知能の検査をしたい”。
そう言われたそうよ、沙世は。何か不具合があってからでは遅いと。それであの車に乗ってしまった」
「そんなの……」と、僕が言いかけるのを制して彼女は続ける。
「明らかに怪しいわよね。沙世はちゃんと定期的に国の検査を受けているし。でも、連中はこうも言ったのだそうなのよ。
“この車の人工知能にアクセスして構わない”
それなら、もし何かを仕掛けて来てもいくらでもやりようはある。だって、車の人工知能にアクセスしてさえいれば車を乗っ取る事だってあの子には可能なんだから。それに悪巧みの痕跡を見つけて、警察に渡す事だってね。
ま、はっきり言った訳じゃないから憶測だけど、きっとあの子はそう考えたのだと思うわよ。もし成功すれば、自分に危害を加えようとする連中をやっつけられるじゃない。
でも、その罠がまさかこんなものだったなんて流石に予想外だったのでしょうけど」
そう説明し終えると、立石さんは鋭い視線を僕に向ける。少しくらいは僕を疑っているのかもしれない。共犯者じゃないかと。
「――で、あなたの方は?」
そして、そう言った。
「電話がかかって来たんだ。沙世ちゃんが車に乗せられているのを見たって。もしかしたら、さらわれたのかもしれないと」
「なるほど。それであなたは、まんまと誘き出されたって訳か」
「まぁ、そうなるかな」
そう僕が言い終えると、少し変な間ができた。立石さんの説明に僕には気になる点があって、恐らく彼女は僕が気になっていることに気が付いている。それは、きっとその所為で生まれた間だ。
沙世ちゃんがここにいない事にも、それは関係していた。息を吐き出すように僕は言う。
「――という事は、あの時、車を僕の方に向けたのは沙世ちゃんだったって事?」
車の人工知能にアクセスしていて、コントロール可能な状態だったという事は、どう考えてもそうなってしまう。
「まぁ、そうなるわね」
と、それに彼女。
僕の反応に注目している。
僕は大きく頷いた。
“なるほどね”と。
これで、大体のカラクリと連中の目的が僕には予想できた。
「つまり、沙世ちゃんは試されたってわけかい。彼女が“人工知能によって知能を増幅させた人間”なのか、それとも“人間に擬態した人工知能”なのか」
リスクとメリットのバランスがおかしい。普通、そんな計画は立てないし、立てても実行はしない。だから、きっと沙世ちゃんは予想できなかったんだ。半分人工知能である彼女にとってみれば度し難い行動だろう。
「そうなんでしょうね」と、立石さんは応える。
どんな方法かは分からないけど、車の人工知能に予めトラップを仕込んでおく。僕の目の前まで来たらそのトラップを発動させて、恐らくは“目の前の障害物を躱せ”といったような指示を優先度最大で人工知能に出す。
結果として車の人工知能をコントロールできる沙世ちゃんは、選択を迫られてしまったんだ。
今の人工知能に標準的に組み込まれている行動通り、
“歩道にいる人間、つまり僕に向って車を突っ込ませる”
か、それとも僕を危険な目に遭わせることを嫌って、
“対向車線へ車を向ける”
のか。
そして沙世ちゃんは僕に車を向けてしまったんだ。そしてIA主義派の連中は恐らくこう考えたのだろう。
“親しい人間を危険な目に遭わせた長谷川沙世は、人間に擬態した人工知能だ”
と。
それから僕は目を瞑った。思い出していたんだ。
僕に向って突っ込んでくる車の中で、とてもとても哀しそうな表情をしていた沙世ちゃんを。
目を開く。
もう決意は固まった。こう言う。
「沙世ちゃんを助けに行く」
そして、勢いよく立ち上がった。
その言葉に立石さんは目を丸くする。
「何を言っているの?」
ベッドの脇の椅子の上に、僕がいつも背負っているバッグがあるのを見つけると中身を確認する。その作業をしながら僕は答えた。
「沙世ちゃんは悪巧みの痕跡を見つけようとしていたのだろう? 連中がそれだけの事をやっているのなら絶対に見つけている」
「それがどうしたの……?」
「当然、連中は、それを警察に渡されるのを防ぐ為の行動を執るって話だよ」
「連中が沙世を狙うって話?」
「そう。もう連中にとって沙世ちゃんは“人間に擬態した人工知能”でしかない。遠慮はしないはずだ」
それを聞くと立石さんは腕組みをしてこう言う。
「でも、それくらい沙世も予想しているのじゃないの? ――なら、心配は……」
僕はそれに首を横に振った。
「普段の沙世ちゃんなら確かに大丈夫かもしれない。だけど、今は駄目だ」
「どうして?」
「そんなの当り前だろう?」
僕は言った。
「僕を車で轢いちゃったからだよ!」
そして、リュックの中身を確認し終え、問題ないと判断すると、それから急いで病室を飛び出したのだった。
頭が痛んだけど、そんな事を気にしている場合じゃないっ!!
病院を飛び出した僕は、懸命に走っていた。僕を轢いてしまった事で、落ち込んでる彼女は今極めて無防備になっているはずだ。心配で堪らない。
僕は沙世ちゃんのあの表情を思い出し、怒りを漲らせていた。沙世ちゃんに対してあんな残酷な決断を迫った連中を僕は絶対に許さない。
――それが彼女をどれだけ苦しめているのか分かっているのか?
いや、仮に分かっていたとしても連中には関係ないのだろうけど……。
必死に走る僕の視界に沙世ちゃんのマンションが迫って来た。近くの道に車が停車されているのを見かける。廃車以外で、この辺りで道に車が停められているのは滅多に見ない。
“……連中のか?”
僕は足を加速させた。
沙世ちゃんが危ない。
マンションのエントランスに入り僕は考える。少なくとも部屋の中にいる限り、沙世ちゃんは安全のはずだ。無理に鍵をこじ開けようものなら直ぐに警察に通報が入るから。
なら、まずは部屋の中にいるだろう沙世ちゃんと合流して、一緒に安全な場所にまで行くのが最も得策なはずだ。
が、そう思って沙世ちゃんの部屋がある二階にまで進んで僕は驚いてしまう。沙世ちゃんが廊下にいて、しかもIA主義派の連中に挟まれていたからだ。
きっと、部屋の外に出たところを狙われたのだろう。
僕の目には怯えたような顔の彼女と、彼女を追い詰めようとしている連中の背中が見えていた。彼女の反対側にいる方のIA主義派達の姿はよく見えなかった。つまりはまだ距離に余裕があるって事だ。
僕は不思議に思う。
外に出れば危ないってくらい彼女にだって分かっているはずだ。一体、どうして外に出たのだろう?
そこで気が付いた。
――もしかして、僕のお見舞いに行こうとしたのか?
立石さんがメールで沙世ちゃんに僕の意識が戻った事を伝えていた。それで僕の回復を知った彼女は、散々迷ってようやくついさっき廊下に出たのじゃないだろうか?
そこをIA主義派の連中に狙われてしまったんだ。
“くー 可愛い!”と、僕は思う。が、もちろん、可愛さに悶えている場合じゃない。僕は走りながらリュックの中に手を突っ込む。
「沙世ちゃん!」
そう叫ぶと、沙世ちゃんは僕に気が付き、背中を向けていたIA主義派達は一斉に振り返った。
“今だ!”
僕はその連中の顔に向けてリュックの中に常備していた護身具を思い切り投げつけた。
“ギリギリ合法! 濃縮トンガラシ入り・ミスト・ボム!”
投げつけたそのトウガラシ爆弾は、小さな爆発で霧状になって勢いよく広がった。トンガラシ成分がたっぷり入ったそれが目鼻口に思いっ切り入った連中はあまりの激痛で悶絶し始めた。
僕は素早くガスマスクを装着すると、その中を駆け抜ける。
沙世ちゃんの驚いている顔が迫って来て、ある地点を過ぎると、それが一歩進む度に喜びの表情へと変わっていった。
「アキ君! もう病院を出て大丈夫なの?」
「うん! 君の方は大丈夫じゃなさそうだけどね!」
そう言うのと同時に、僕は今度は逆側から沙世ちゃんに迫っていた連中に向けてトンガラシ爆弾を投げつけた。同じ様に苦しみ始める。
それから沙世ちゃんに僕が付けていたガスマスクを渡す。
「これを付けて! 急いで!」
「え? アキ君はどうするの?」
「大丈夫! 目と口を閉じれば! 沙世ちゃんに強制的に間接キスさせられるチャンスなんて滅多にないから、逃したくないんだ!」
「こんな時にふざけないでよ!」
沙世ちゃんはそう言ったけど、僕は大いに真面目だった。
「とにかく逃げるよ! 走ろう!」
僕はそれからマスクを付け終えた彼女の手を取ると駆け始めた。IA主義派の連中は相変わらずトンガラシの痛みに苦しんでいて悶絶している。お陰で問題なく楽々突破できた。
「どうして、あんな物を持っていたの?」
と、それを見て沙世ちゃん。
「普段から言っていただろう? 僕は君を護る為に送り迎えしていたって。当然、これくらいのものは用意しているさ」
そのまま僕らはマンションの外に向って走っていった。ここまでは何とか無事に来れた。でも問題はこれからだ。ここからしばらく人気のない道が続く。どうやって徒歩で連中の追及から逃れよう?
ところが、そこで人気の多いショッピングモールを目指そうとする僕の手を沙世ちゃんは引っ張るのだった。
そしてこう言う。
「そっちじゃないわ、アキ君。こっち」
そして、何故か彼女は何もないあの例の大きなゴミ捨て場を指差す。
「へ? いやでも沙世ちゃん。あの奥って行き止まりなんじゃ……」
そう僕が反対しようとすると、沙世ちゃんは面倒くさそうな顔で「いいから!」と強く言う。
多少戸惑ったけど、迷っている時間はないと判断すると、僕は「分かった」と頷き、そのまま沙世ちゃんに従って、ゴミ捨て場を目指した。
もしかしたら、沙世ちゃんの目的地はゴミ捨て場ではないのじゃないかとも少し疑ったのだけど、彼女は何の躊躇もなくゴミ捨て場に入っていく。
一体どこへ?
と、不可解に思う僕とは裏腹に、沙世ちゃんは確信に満ちた歩みで奥を目指した。後ろを振り返ってみると、IA主義派の連中が僕らを追って来ているのが見えた。このまま進めば僕らは追い込まれてしまうだろう。
沙世ちゃんが進むルートには覚えがあった。
鉄柱と鉄版、そしてあの謎の小さな箱がいくつも転がっていった場所。
あそこへ続いているはずだ。
やがて、案の定、鉄柱が見え始めた。沙世ちゃんはその先にある鉄版を目指しているように思える。
振り返ると、IA主義派達が直ぐ近くまで迫っていた。もしもこれで何も沙世ちゃんに策がなければ僕らは捕まってしまうだろう。
「アキ君! こっち!」
そう呼ばれて前を見ると、沙世ちゃんは鉄版の上に乗って僕を手招きしていた。
そこで気が付く。
例の箱が沙世ちゃんが乗っている鉄版の下で蠢いていたのだ。やっぱりまるでヤドカリのような感じで。
「その下のは何?」
走りながら僕はそう尋ねる。
「ロボットよ。わたしが作ったの」
彼女がそう答えたタイミングで、僕は鉄版の上に飛び乗った。
「ロボット? どうして、それがゴミ捨て場になんかあるの?」
「それは……」とそう応えながら、沙世ちゃんは僕の後方を見据えた。
「もう逃げても無駄だぞ!」
そこで、そんな声が。
IA主義派達だ。
沙世ちゃんは続きを説明する。
「いざという時の為に、これを造る為よ」
その瞬間、鉄版の下に蠢いていた箱ヤドカリ達が一斉に動き始めた。ゴミに覆われて隠れている五、六本の鉄柱に向ったように思える。もしもそれがでかい虫ならば、ちょうど関節があるのじゃないかって辺りだ。
「どこかに掴まっていて、アキ君。動くから、落ちちゃうわよ」
小声で沙世ちゃんは僕にそう言う。
“ゴウン”と音がした。
その音で、追って来ているIA主義派達が、怪訝そうな表情を浮かべる。
「これ以上近づくと、危ないわよ!」
沙世ちゃんは連中に向けて大声でそう言った。
ほぼ全員が、その言葉と怪しい気配に怖気づいたのか足のスピードを緩める。嫌な予感を覚えた僕は、近くにあった破れかけた柵を強く掴んだ。
その次の瞬間だった。
まるで乱暴なテーマパークのアトラクションのように、僕らが乗っていた鉄版が急に上昇し始めたのだ。
“空を飛んでいる?”
と、ちょっと錯覚しかけたけど違った。鉄版を囲っていた鉄柱が僕らの乗った鉄版を上に持ち上げていたのだ。
例えるのなら、足の長い虫。それはそんな姿をしていて、僕らはちょうどその背中に乗っているような感じだ。
「沙世ちゃん。これは?」
驚いたままでいる僕に向けて彼女は淡々と説明する。
「これもロボット。と言っても、こうやって持ち上げるのと少し歩くくらいしかできないけどね。
もっともそれで充分。これでもう連中は手出しできないでしょう?」
それから彼女は地面を見下ろした。そこにはIA主義派達がその異常事態に慄いている姿がある。
「警察は既に呼んであるわよー!
こんなに大きな目印があったら簡単に見つけてくれるだろうし。捕まりたくなかったら、さっさと逃げることね!」
彼女がそう叫ぶと、IA主義派達はお互いの顔を見合わせた。その忠告通り、逃げるのかと思ったけど連中は悪あがきをし始めた。僕らを支えている鉄柱を倒そうと、押し始めたのだ。
「うわ! 諦めが悪いなぁ」
などとそれを見て彼女は言う。
余裕の態度だ。見ると、多少押されてもこの足の長いロボットは、まったく平気なようで他の足で器用にバランスを取っている。これなら心配する必要はなさそうだ。
「怪我するわよー!」
と、沙世ちゃんはそんな彼らに忠告をする。その言葉通り、少し鉄柱の肢が動くと、小動物が払い除けられるように呆気なく彼らは振り飛ばされてしまった。
ここも、もしかしたら、長い時間をかければ攻略されてしまうかもしれないけど、少なくとも警察が来るまでの間くらいは大丈夫そうだった。
そう考えると、僕はようやく安心をした。
敢えて不安な点を言うのなら、少しばかりこの鉄版の上が揺れるということくらいだ。油断すると落ちてしまいそうだ。僕はそこで沙世ちゃんを見てみた。
無防備に、僕に向って背中を見せている。近くには柵もない。油断している。
僕はそんな彼女に向ってゆっくりと近づいていった。しかし、後少しでその背中に手が届きそうな辺りで、彼女はいきなりこう言ったのだった。
「――わたしを、突き落とすつもりでいるの? アキ君」
振り返る。挑発的な、でも哀しそうな表情で彼女は僕を見ていた。
「あなたもIA主義派の一人なんでしょう? 力ではあなたに敵わないもの。諦めるしかないわね」
それを聞くと、僕は「はぁぁ」と軽くため息を漏らし、こう返した。
「……やっぱり知っていたんだ?」
多分、彼女が僕に対してなかなか警戒心を解いてくれない理由の一つはそれなんだろうと思う。
そして僕は再び彼女に向って近づいていった。
どうやら彼女には僕に抵抗する気はないようだった。僕が自分に近づくのをただ見ている。脳が半分人工知能である彼女は、処理速度を上げれば人間である僕の動きをスローモーションのように捉える事が可能だ。
恐らくは今、彼女はその能力を使っている。そしてきっと夢を見ているのだろうと思う。自分が愛される夢を。
深く深く愛される夢を。
僕は彼女の肩に手をかけた。怯えたような表情を浮かべる彼女。だけど、やっぱり何の抵抗もしない。
“それならば……”と、僕は思う。
手に力を込め、それからゆっくりと…… ゆっくりと、
――彼女を抱きしめた。
やっぱり、想像していた通り、彼女の身体はとても柔らかかった。柔らかくて、切ないほどに繊細。
「――え?」
と、それに彼女は驚きの声を上げる。それは仕合せな夢が予想外に現実化したみたいな驚きの声だった。その後で僕は告げる。
「沙世ちゃん。勘違いしていたみたいだけど、僕はただ君が落ちたら危ないと思って近づいただけだよ。ここ、けっこー、強く揺れているから。僕が君を突き落とすはずなんてないじゃんか」
その言葉を浴びると、急速に彼女の身体が弛緩していくのが分かった。
もー 可愛い!
と、それで僕は思って、少しだけ抱きしめる手に力を込めて口を開く。
「でも、少しおかしいよね。君が僕をまったく信用していなくて、突き落とす気だと思っていたなら、どうして君はここまで僕を連れて来たのだろう? それに、君の人間を遥かに超越した処理速度があれば、抵抗だっていくらでもできたはずだ。なのに君は、ただ大人しく僕に突き落とされようとした。
どうして?」
そこまでを語ると、僕は手を緩めて彼女の顔を覗き込むようにして見た。戸惑っているような表情の彼女に向けて言う。
「当ててみせようか?
君は僕に突き落とされることで、僕を轢いちゃった罪滅ぼしをしようとしたのじゃないの?
断っておくけど、だとするのなら、そんな必要はまったくないよ? 僕はあれくらいこれっぽっちも気になんかしていないんだから」
そう言った僕を、彼女は潤んだ瞳で見つめ返して来た。
「……だって、あなたは“人間の振りをした人工知能”であるわたしを憎むIA主義派の一人で……」
そしてそんな事を言う。
僕は優しくそれに返す。
「僕がいつ沙世ちゃんを人工知能だと思っているなんて言った?
と言うか、そもそもね。僕は君が人工知能でも人間でもどうでも良いんだ。だって僕は、どうであろうと“沙世ちゃん”が大好きなんだから」
すると沙世ちゃんは、
「それがわたしには信じられないの。どうしてアキ君がそんなにこんなわたしを好きになってくれるのかが……」
なんて伏し目がちに応え来る。
「だから、嘘だと思って……」
“ああ、あざとい!”
と、そんな様子の彼女を見て僕は思う。わざとやっていないってところが特にあざとい。そういうのはあざといとは言わないけど、とにかくあざとい!
つまりは、可愛いー!
激烈に!
僕は再び彼女を抱きしめるとこう言った。
「そうだね。僕がもうちょっと表現を抑えてこの溢れんばかりの愛情を伝えられていればそんな誤解を生まなくて済んだかもしれない。ごめんね。僕はそういうのが不器用だからさ。
だけど、君にももっと自信を持ってほしいな。君は間違いなく愛される価値のあるとっても魅力的な女の子なんだから……」
それから髪を撫でながら、僕はこう続けた。
「でも、ちょっと安心したな」
「なにが?」と、沙世ちゃんはそう尋ねて来る。
「例え人工知能の脳を持っていても、他人の心は読めないんだって分かって。これから君と結婚して夫婦生活をするに当たって、尻に敷かれるのは別に良いのだけど、むしろ望むところなのだけど(特に肉体的な意味で)、やっぱり差があり過ぎるのはちょっとだけ心配だったから」
「何よ、結婚って……」
「するでしょう?」
それから僕は再び抱きしめる手を緩めて、彼女の顔を覗き込んだ。彼女は少しも嫌がっていない。いけそうだと思った僕は、彼女の唇と僕の唇を重ねようとした。
……が、そこで彼女は「待って」と、手でそれを遮ってしまったのだった。
僕はそれに抗議をする。
「えー! 沙世ちゃん! 今のはキスしても良い流れだったはずだよ、絶対に!」
するとそれに彼女はこう答える。
「違う! 下を見て」
言われた通り見てみると、IA主義派の連中がまだ下にいて、僕らの行為を間抜けそうに眺めていた。
「あいつら、警察に捕まるかもしれないのにまだいやがる……」
それを見て、“人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ”と、僕は心の中で呟いて歯ぎしりをした。
あと少しだったのに……
そんな僕を、沙世ちゃんは呆れたように少しだけ笑った。
「ねぇ、アキ君。本当に、こんなわたしで良いの?」
そしてそう尋ねて来た。
「うん。もちろん。常日頃からそう言っているじゃない」
と、それに僕。
常日頃から言う事でもないけれどさ。
そしてそれから「それなら……」とそう言って、沙世ちゃんは自分から僕に抱きついて来たのだった。
もちろん、初めての事だ。
彼女の柔らかい肌が、より僕に密着をする。僕はそんな中で至福の時を味わっていた。生きていて良かったな、と。
彼女の人間の脳から溢れ出る脳内麻薬は、どうやら彼女の人工知能の方にも多幸感を与えているらしく、とても恍惚とした表情をその時彼女は浮かべていた。
きっと僕も同じ様な表情をしている。
“AIかIAか”なんて僕には分からないけど、世の中“愛”があればどうであるにせよ上手くいくんじゃないか…… なーんて言うのは、やっぱりちょっとばかり楽観的に過ぎる意見だろうか?
――でも、それでも、少なくとも今この瞬間だけは、それは真実なんじゃないかと僕はそう思っていた。
参考文献:
「AIの法律と論点 福岡真之介 商事法務」