第32話 至福の時と突然の衝撃
前回と同じく、予備のテーブルと椅子を並べ座ると、ティロが手を出してくる。何かと思い、首を傾げると、ぷいっとそっぽを向く。
「……話をするんなら、飲み物と食い物が有っても良いんじゃないか?」
要は前の話をした時のワインと乾物が気に入ったから出して欲しいと。横顔にほのかな朱が混じっているのを蝋燭の灯りで見ていると、何だか微笑ましいものを感じてくる。籐のバッグに手を差し込み、ボトルと皿を用意する。今回はジャーキーと塩漬け野菜だけというのも寂しいので、生ハムやミックスナッツも用意している。
「おぉぉぉ……」
燈火の中、並ぶ皿に目を見張るティロをよそに、ワインを開封し、グラスに注ぐ。そっと差し出すと、はっと我に返ったようにティロが表情を調えるが、紅潮した頬は既に食べた後の快楽を想像してか、興奮を示している。
「では、これからに」
「まだ、決まった訳じゃねえけどな」
グラスを掲げ、口を湿らせる。息を吸う度に、薫りが全身に行き渡るような心持ちにさせる。ティロも陶然とした表情で口に含んだ雫を飲み込み、フォークで生ハムを指し示す。
「時期の物を用意するとか、気が利いてるな」
そう言いながらむつりと生ハムにフォークを刺して口に含んだ瞬間、目を白黒させる。それはそうだ。私も初めて口に含んだ時は大層驚いた。イベリコ豚の生ハムなんて言われ始めたのは日本ではいつ頃だっただろうか。ワインと出会ったのと同時期にもう一つの至宝にも出会った。イベリコ豚の祖とも言える、ランピーニョ種のみを用い、四年近くを熟成に費やし、気の遠くなるほどの繊細な工程を経て作り出した、薄紅の花弁。デ・ベジョータを冠し、パタ・ネグラと称される生ハム。
「なんだこれ、口に入れただけで溶ける……。うわ、勿体無い……。でも、美味い……いや、甘い?」
私も気温に晒されただけでしっとりと濡れ始めている花弁を一片掬い、口に含む。口中に触れた瞬間、弾けるように固体は液体へと変わる。チーズを思わせるような濃い熟成した肉の旨味と肉汁、そこから舌を蕩かせるような甘みと香ばしさを帯びた脂。いや、動物の脂とは思えない。これはもう、油と表現しても良いだろう。香ばしさは椎の木の香りに起因していると確信させる馥郁たる木の実独特の薫り。子供の頃、雑木林でどんぐりを拾って遊んでいた頃の郷愁が心の中で疼く。そこにそっと、ワインを流すと、得も言われぬ時が、口の中で過ぎる。薄紅と紅玉がそれぞれの個性を調和し、口の中で渾然一体となってどこまでも広がる。
「ほぅ……」
しっとりと濡れた瞳で、艶やかな息を吐くティロ。
「生ハムなんざ、熟成に時間がかかる。仕込み始めを見ていたら食いたくなるのは道理だが、これは別物だな」
「私のお気に入りですよ」
そう告げるが早いか、ティロが物凄い速さで口に運び始める。あぁ、勿体無いなと思いながらもこれが生きる事かと苦笑が浮かぶ。綺麗になった皿をバッグに戻し、再度美しい花をテーブルに置く。
「人が悪いな……」
「がっつくからです」
暫しの至福の時間を過ごし、ボトルが空いた頃にティロが口を開く。
「で、仕事の話だ……」
先程までとは違い、若干の酩酊で紅潮した頬にも関わらず、その瞳は真摯で、鋭い。
「こちらを見て下さい」
宰相から預かった地図。付けられた地点に怪訝な表情を浮かべる。
「また、だだっ広い場所だな……。確かこの辺りは足場が悪かったが……。下手したら万の人間が……」
そこまで口遊んだところで、ティロがこちらの目を見据える。
「まさか……?」
「はい。相手は五千の兵力です」
物怖じせず、にこりと微笑み、言い切った。




