第29話 ゆるりとした夜の語らい
ずっとアルトが見てくれていたレティがミルクを飲んで眠りに就いた。当の本人はプレイヤーの使い方を教えると、ひゅーっと言わんばかりの勢いで、もう一台の方に戻っていった。
「きちんと話をして欲しかったのですが……」
私が言うと、レーディルがやや苦笑に近く唇を歪める。
「あの年頃の子供に興味の無い事をさせようとしても無駄でしょう」
残ったレーディルがソファーで寛いでいる正面に座り、ワインのコルクをゆっくりと引き抜く。ヒュプに近い微かな音と共に抜けたコルクをいつもの癖で香り、グラスに注ぐ。アルクールのグラスに注がれた赤い湖面は照明に反射し、複雑な輝きを帯びている。
「美しい……。この家もそうですが、何もかもが精緻で繊細で優美だ」
「ありがとうございます。一夜の夢を楽しむために作った物なので、そのように言ってもらえると嬉しく思います」
そっとグラスを差し出し、軽くグラスを傾ける。
「王の真実に」
「はは、皮肉な挨拶ですな。では、逃散の未来に」
そう告げ合って、グラスを傾ける。出した赤はティロに出した物と同じ。銘柄はベガ・シシリアの1999年のウニコ。スペインに出張に出た際に、その馥郁たる香りと、飲んだ後の余韻、そして、吐き出した息にまで香る豊かな時の積層に惚れ込んだ。
「深い……。濃いかと思えば、するりと喉に入り込む。そして、豊かに香る……。宝石のような酒ですな」
「私の好きな銘柄です。こちらの酒はまだ味わってはいないですが」
場所柄スペインワインは相性が良いだろうと思っていたが、お気に召してもらえたようだ。
「これに比べると、渋みばかりが立ってしまうでしょうな。しかし、それが酒という物と思っていました」
ははと快活に笑うレーディルに笑顔で返す。自分の地の酒が一番自分に合う。そういう物だろう。
「この国は……長いのですか?」
「いえ。元々はかなり東の生まれです。父が商売をやっていた際に、この地に来ました。ただ、父はそのまま流行り病で亡くなったので、軍に入りました」
グラスを軽く回し、香りを楽しみながら軽い口調でレーディルが語る。
「それは……失礼な事を」
「いえ。昔の話です。母も早くに亡くしましたし、兄姉も私が生まれる前には亡くなっていました。この世界、生き延びる事は中々に難しい。そんな中でここまで生き延びられてきたのです。感謝に堪えません」
口元にほのかに浮かんだ微笑みは本心だろう。
「アルトとは?」
「先王の取り立てで将となりましたが、隣国とは国力が開くばかりでした。水利が悪いというのもありますが、現王になってからは極端に貧しくなりました。それまでは癒し手は尊崇の対象でしたが、それも形骸となった。あれの母親に託されたのです。その時に、将の座は捨てました」
「地位がある故に守れる事もあるのでは?」
そう問うと、ゆっくりと頭を振る。
「軍は骨抜きにされていった。諸外国との外交は弱腰に押されるばかりだった。何故と思いましたが、あのような裏があったとは……」
「と言う事は昔から計画されていたのですね……」
そう言いながら杯を干し、ボトルから赫灼と流れる血潮を杯に封じる。同じく干したレーディルの杯にも注ぐ。
「子供の頃から猜疑心の強い子でした……。しかし、民を民と思わぬ人間に成り下がっていたとは……」
その微笑みが陰り、後悔の色が浮かぶ。
「裏の顔を悔いる必要はないでしょう。出来る事、出来ない事があります。今は後ろを振り返らず、前を向く時期です」
「アキさん……。どうか……アルトを。アルトを頼みます」
がばと顔を上げたレーディルの瞳に浮かぶ真摯な輝き。
「その思いはまたの機会に語り合いましょう。今は、お二人の命を預かると。それだけを約束させて下さい」
そう告げて、ぱちりとウィンクを返し、グラスを掲げる。レーディルは虚を突かれた顔を浮かべ、再度口元を歪ませる。
「そうですな。今はあなたしか頼る方はいませんな。老い先短い私の命までとは」
「お気になさらず。輝く未来に」
「はは。逃げるなどと言わず、輝くですか。では、その未来に」
そう告げ合い、二人で杯を干す。ボトルの紅玉がその光を絶えるまで、二人の語らいはゆるりと続いた。




