亜美
「ただいま」
「お帰り、亜美」
仕事が終わり、夕食の材料を買って帰ると、恋人の圭太が私の帰りを待ち、お帰りと言ってくれる。これだけで私は幸せな気持ちに満たされ、1日の疲れも癒された。
「ごめんね。遅くなって。すぐ夕食作るから」
「ううん。いつも仕事お疲れ様」
そう言うと圭太は台所に向かう私を後ろから優しく抱きしめる。
「ありがと。圭太がそう言ってくれるだけで私いくらでもがんばれるよ。こうしていられるのが本当に幸せ」
そう返し、私は圭太の手を握る。
「飯くらいは俺が作ろうか?」
「いいの。私料理するの好きだし、それに圭太料理なんかできないでしょ?」
「レシピ見ればそれくらいはできるよ」
「いいのいいの。私が作ってあげたいんだから。ほら、邪魔だからあっち行ってて」
圭太の優しさだけで十分幸せだ。それに圭太に料理を作る時間は私にとってもすごく大事な時間。ご飯ができるまでの間、圭太がただ待っていてくれるだけなのがいい。好きな人に尽くすと言う事はそれだけで幸せだ。
「わかったよ。手伝える事があったらなんでも言ってね」
「うん。ありがと」
私がそう言って微笑むと、圭太は自分のパソコンの前に座り、ゲームを始める。オンラインゲームと言うものらしい。
圭太とは大学のサークルで知り合ってから付き合い、卒業してから同棲を始めた。
就職活動にあっさり成功し、就職した私に対して、圭太はことごとく失敗し、今は無職で私の家に引きこもってしまった。最初は応援したが、応援することがかえって焦らせるような気がした事と、圭太とこうやって過ごしているだけで幸せだという事もあり、最近では特に何も言わず、このままの生活でもいいと思っていた。
落ち着いた収入で落ち着いた生活、そして子供を作って家族を築いていく暮らしにも憧れるが、私には圭太さえいればそれでよかったのだ。
「うわ。美味しい。やっぱり亜美の料理が一番美味しいよ」
料理ができ、2人で小さい食卓でご飯を食べると、いつも圭太はそう言ってくれる。
「ほんと?うれしい」
ほらこんなに幸せだ。
「最近こうしていると不安になる事がある」
2人で狭いベッドで一緒に寝ていると、圭太は突然つぶやく。
将来の事だろうか?圭太もやっぱりちゃんと私たちの事考えてくれているんだ。
「どうしたの?圭太は焦らなくていいから、このままでもいいんだよ」
「いや、亜美とこうしているとすごい幸せだけど、人は80年ちょっとしか生きられないから。こんな風に毎日が過ぎて、後50年とか60年もしたらどっちかが死んでしまうんだって思うとすごく悲しくなる」
突然の甘い告白にドキっとする。後50年とか60年しか生きられなくても、圭太が生涯私と一緒にいたいと思ってくれてる。それだけで私はこれ以上にないほど満たされた。
「そうね。私もできる事なら、圭太とこうして永遠に一緒に生きていたい」
そう言って私は圭太の手を握りながら眠りにつく。
「はぁ?それって生涯ヒモ宣言じゃん。圭太ってクズだクズだとは思ってたけど、本当にクズだね」
仕事の昼休み、大学時代からの友人で、同じ会社に就職しためぐみは言う。
「そんな事ないよ。圭太はああ見えてしっかりしてるし、優しいんだよ。今はたまたまうまく行かないだけで」
「あんた、もしかしてそんな言葉でときめいちゃったりしたの?」
「・・・」
図星をつくめぐみに言い返せない。
「はぁ・・・。あんた本当に昔からチョロいわね。あのね。口ではどうにでも言えるの。本当に亜美の事大事に思っていて、将来の事考えてるなら普通必死になって働こうとするもん。せめてバイトくらいするでしょ。ニートって何よニートって」
「そうだけど・・・」
「あんた顔もスタイルもいいんだから、いくらでもいい男つかまるのに、なんであんなクズに足引っ張られてるのよ。もったいない」
圭太の事を悪く言われるとさすがにいい気がしない。
「大して恋愛してきたことのないめぐみにはわからないかもしれないけど」
「はぁ?」
めぐみは露骨に怒った表情をする。
「彼がどうとかじゃないの。私が好きだから圭太と一緒にいるの。彼がどう思うとかじゃないのよ。メリットデメリットで考えるなら、私は圭太と一緒にいられるだけでメリットなのよ。だから今の生活は私のしたい生活だし、それだけでいいのよ」
「そんなの都合のいい女じゃない」
「わかってるよ。でもそう言う風に思えて、実際にそうしているのも結構幸せなものなのよ」
「ふーーん。まあ亜美が後悔しないならそれでいいけど」
釈然としない顔でめぐみは言う。
「めぐみもそう思える人見つかるといいね」
「その言い方、なんかいらつくわね」
「ごめんなさい。悪い意味で言ったわけじゃなくて・・・」
「わかってるわよ。だからそれ1個ちょうだい」
そう言って私のおかずのからあげをめぐみは食べてしまう。
「あ、美味しい」
めぐみは満足そうににっこり笑う。
「もう。楽しみにとっといたのに」
「むかつく事言ったからこれでおあいこ。じゃああたし午後休だからそれじゃね」
そう言うとうれしそうな顔をしてめぐみは食堂を出て行った。
取引先との予定がキャンセルになり、仕事がいつもより早く終わり、夕方前に家に着く。本来今日は夜中まで帰ることができなかったはずなので、圭太は驚くだろう。せっかくだし今日は圭太と外食でも行こう。
「ただいま」
いつもおかえりと返事が来るのだが、今日は静かだ。寝ているのだろうか。ふと下を見ると、見たことのない女の靴がある。私こんなの持ってたっけ?なぜだかすごく不安な気持ちがかきたてられる。
リビングには圭太はおらず、パソコンの電源も切ったままだ。やはり寝室で寝ているのだろう。そう思い、寝室のドアに近づくと、圭太と女の声が聞こえた。
「あの台詞、亜美めっちゃ喜んでたんだけど。うける」
聞き覚えのある声だ。
「マジであんなくっさい台詞で喜ぶもんなんだな。さすがに言うのもきつかったわ」
「うける。つかまずマジであんたが言った事にうけたけど。つかその流れで亜美に、『大して恋愛してきた事もないのに。』とか言って煽られたんだけど。自分の男ずっと前から寝取られてる相手にそんな事普通言っちゃう?」
そう言って女はゲラゲラと笑う。
「まああいつはずっとあんな感じの恋愛しかしてこなかったみたいだしな。自分が尽くしてるんだから、相手も同じように自分を愛してくれるはずだって、謎の確信に捉われてるんだろうな」
「あの子も馬鹿よね。でも男があんたみたいなクズでさえなけりゃ、いい女なのかもね。あたしはあんな風にはできないけど」
「最初から従順なのもいいけど、お前みたいな女が屈服するのもたまんないんだよなぁ」
「あん、ちょっと。まだすんの?」
「当たり前だろ。今日はあいつ夜中まで帰って来ねえし」
たまらず私はドアを開ける。
「何・・・してるの・・・?」
裸で抱き合う圭太とめぐみを見て私の全身から血の気が引いていく。
何が起きたかわからず、圭太とめぐみは呆然とこちらを見る。
「な、なんでいるの・・・」
たまらずめぐみが言う。
「こっちの台詞でしょう。なんでめぐみがここにいるの?圭太と何してるの?」
しばらくの沈黙が続く。
「何って、ご覧のとおりだけど?つかどこから聞いてたか知らないけど、大学時代からあたし達こう言う関係だから」
開き直ったのか、めぐみは笑いながらぺらぺらと話しだす。
「あんたも昼は結構言ってくれたよね。男喜ばして、男に尽くすくらいしか能がない女の癖に。むかつくんだよね。あんたみたいな女。ずっと嫌いだった。男に媚売って、馬鹿なくせに好きな男にはきっちり色仕掛けして落として、そう言うところだけ自分の強み知ってるの。マジで虫唾が走る」
「私はそんなつもりでしてきたわけじゃ・・・」
私を無視してめぐみは話し続ける。
「それにあんた昼言ってたじゃん。圭太がどう思おうが、何しようがいいんでしょ?あんたが好きで尽くしてるのが幸せなんだから。それでいいじゃん。何か問題あるの?」
無茶苦茶だ。めぐみも自分で無茶苦茶言っている事に気づいていて言ってるんだろう。だが言い返せない。それをめぐみもわかっている。
「何・・・言ってるの?それとこれは話が違うでしょ。だからってなんで友達に好きな男取られないといけないの?なんであなたにそんな事言われなきゃいけないの?」
「大丈夫大丈夫。あたし達は身体だけの関係だから。取ったりしないよ。たまにこうしてるだけ。いいじゃん。減るもんじゃないし」
無茶苦茶だ。無茶苦茶なのに言い返せない。ただ怒りだけが膨れ上がる。
「殺してやる」
私は一度寝室を出ると、台所の包丁を取って、本気でめぐみを殺してやろうと寝室に向かった。
「待ってくれ」
半裸のままあわてて圭太が寝室から出てくる。
「あいつとは本当にこれだけなんだ。本当にごめん。これからはもう2度と会わないから。許してくれ。俺が本当に愛しているのは亜美だけなんだ。信じて欲しい」
間抜けにも私が喜んでいた、昨日の圭太とのやり取り。あれも全部めぐみに言わされていたのだろう。さっきの会話からどんな馬鹿でもわかる。これまでの圭太との幸せな時間。幸せな言葉。どれだけの言葉をめぐみと2人で笑っていたのだろう。
「許せるわけないでしょ。あの子だけは絶対殺してやる」
「だめだ。そんな事したら。もう一緒にいられないじゃないか」
「この期に及んで何を・・・」
「本当なんだ。俺はずっと亜美と一緒にいたいんだ。お前だけなんだよ」
全部嘘かもしれない。この場を凌ぐための、これからもこうやってうまく言いくるめて、私に甘い言葉を言って、他の女とそれを笑うのかもしれない。
でも、私には圭太のその言葉を振りほどく事ができなかった。
「そんな・・・そんな事言わないでよ・・・」
私はその場に泣き崩れ、がしゃーんと包丁が落ちる。
「ごめんな。亜美」
そう言って圭太は私を優しく抱く。
何で慰められてしまうのだろう。こんな時に、圭太に。なんなんだろう。
「1人にして・・・」
「え?」
「1人にしてって言ってるの。2人とも出て行って」
私は生まれて初めての大きな怒声をあげる。
「・・・わかった。ごめんな」
そんな私に驚き、圭太とめぐみは家を出る。
1人になって、私はベッドに横になる。
いつも私と圭太が愛し合っていた場所。先程まで圭太とめぐみが求め合っていた場所。今日だけではないだろう。今までも何度も同じ事をしていたのだ。私はそれを知らずに、ここを最高の場所だと思って毎日圭太と幸せに眠っていた。
なんだったのだろう。私と圭太との関係は。めぐみの言うとおり、私は私が圭太を好きで、圭太に尽くしていればそれで幸せだったはずだ。それだけでよかったはずなのに、私は結局圭太にも同じようにしてくれる事を望んでいたのだ。私だけを愛して、私だけに尽くしてくれる圭太を必要としていたのだ。
私がいけなかったのだろうか。何が悪かったのか、どうしてこんなことになってしまったのか。わからない。
もう昨日までの幸せな日々は帰ってこないのだ。私は今までのように圭太を愛することができなくなってしまっただろう。
今頃出て行った2人はどうしているのだろう。2人でホテルにでも行って私を笑っているのだろうか。
私は圭太の何が好きだったのだろう。昨日までの自分の事さえ、もうわからない。
このまま、死んでしまえたら・・・。
そんな風に思いながら私は眠りについた。