始まりの事件
現在公にされている愛し子は霊王国、獣王国、竜王国の三人の愛し子。
これら三国は公にしても愛し子を守れるだけの国力があり、尚且つ霊王国、獣王国の愛し子は属する国への愛国心が強く、他国が勧誘してきたとしても他国へ移る恐れがない。
まあ、獣王国の愛し子は竜王へ恋心を抱き、隙あらば竜王国へと嫁入りする気ではあるが、竜王にその気は一切なく、彼女の生まれた種族は己の種族への自尊心が強いので他国へ移住する可能性は低い。
この三人の他に公にはされていない愛し子が二人いる。セルランダ国と、ヤダカイン国だ。
セルランダ国の愛し子はまだ十代半ばの女の子。
孤児として王都から遠く離れた町の孤児院に預けられており、彼女が発見されたのは十代になってからだった。
精霊が見える者の少ない人間の国であり、他国の情報も中々入ってこない辺境であることが災いした。
偶然、無作為に選んだ孤児院の調査にその孤児院が選ばれ、そこへ精霊の見える者が向かっていたことで明らかとなったのだ。
特に国に対して執着があるわけでもなく、他国からより好条件を提示された場合そちらを選んでしまう可能性があるからと、秘されてセルランダの城の奥で、関わる人も制限された状態で保護されている。
端から見ればかなり窮屈な生活だが、彼女は特に不便は感じていなかった。
孤児院では決して着られなかったドレス、食べることの叶わなかった豪華な食事。
そして彼女を飽きさせぬために集められた見目麗しい男性に囲まれ、ちやほやされる生活。
今日も彼女はセルランダ国の高位貴族から選抜された見目麗しい男性に囲まれながら庭でお茶会をしていた。
この城に来てから数年、恒例となっているお昼のお茶会。
そこへ招かれざる客が訪れた。
奇妙な仮面を付けた黒い装束を着た小柄の人。
顔を隠す仮面と、体型を全身覆う装束により人か亜人か、男か女かすら分からない。
もしこの場に瑠璃がいたなら「どうしてこんな所に忍者!?」と驚いていただろう。
只一人城に忍び込んできた装束の者は、ひたりと愛し子を見据える。
愛し子の周囲にいる男達はすぐに愛し子を背に庇い人を呼ぶ。
近くに控えていた警護の者がわらわらと現れ、装束へ武器を構える者と、愛し子を安全な場所へと避難させようと移動する者とに分かれる。
「愛し子様、こちらへ」
「え、ええ……」
城の中へと移動を始める愛し子。
装束の者は周囲を兵に囲まれているにもかかわらず落ち着いた様子で、変わらず愛し子に視線を向けている。
「捕らえよ!!」
兵達が一気に間を詰める。数十人という兵に囲まれた装束の者はすぐに捕らえられる。
……そう誰もが思っていたが、装束の者は常人離れした跳躍力を見せ、兵の頭上を越え兵の後ろへ着地すると、脇目も振らず愛し子へと走る。
その速さもとても人間とは思えない速さで、兵が次々向かってくる装束の者へ立ち向かっていくが、それらを次々いなし、最後は愛し子に向けて短剣を投げた。
愛し子は恐怖に固まり、逃げることもできず短剣は一直線に愛し子の胸へ刺さった。
「愛し子様!」
周囲から悲鳴が上がる。
装束の者は愛し子の心臓のある場所に短剣が刺さったのを確認すると、来た時と同じようにあっという間にその場から姿を消した。
「医師だ!医師を呼べーっ!!」
***
竜王国の王城。竜王住まう第一区の調理場に瑠璃の姿はあった。
「ふふふーんふふーん♪」
猫ではなく人の姿の瑠璃は鼻唄を歌いながら、台の上に粉を振りその上に生地を置いてめん棒で伸ばす。
その瑠璃の周囲では瑠璃の作業を面白そうに眺める精霊達。
竜王と愛し子の食事を担当する第一区の料理人達は、本当に瑠璃が食べられる物を作れるのかと心配そうに眺めていたが、あまりにもじっと見てくるので瑠璃により追い出された。
食事の用意の時間まで時間があるので迷惑はかけないだろう。
伸ばした生地を型取り、オーブンに入れて焼く。
ここからは火の精霊達の出番だ。
一流の料理人顔負けの火加減で、瑠璃が作ったクッキーを焼き上げていく。
暫くすると甘い香りが漂ってきた。
『ルリ、できたよー』
『うん、完璧!僕ら天才!』
自分達の仕事のできばえに、イエーイと火の精霊達が互いの手を合わせる。
そこへ、できあがるのを待っていたかのようなタイミングでユアンがひょっこりと現れた。
瑠璃との和解で無事第一区への立ち入りを解禁されたユアン。
今ではぎすぎすしていたのが嘘のように良好な友人関係を築いている。
「うまそうな匂いだな」
「でしょでしょう!こんな大きなオーブンは使ったことなかったけど、皆のおかげで上手に焼けたわ」
『えっへん!』
精霊とは相性の悪いユアンには見えていなかったが、誉められた火の精霊達は自慢気に腰に手を当て胸を張る。
「お前にお菓子なんて作れたんだな」
作れそうに見えないというようなユアンの言い方に瑠璃はむっとする。
「ユアンまでそんなこと言って。ジェイド様も私がお菓子作りたいから調理場貸して欲しいって言ったら、危ないから料理は料理人に任せた方がいいって言うのよ。
まるでできない前提の話し方で失礼にも程があるったら!」
「だって、なあ?」
「チェルシーさんの所で暮らしてた時は毎日食事作ってたんだから」
「ちゃんと食えるものだったんだろうな?」
「なら試してみなさいよ!」
瑠璃は焼きたてのクッキーを手に取ると、ユアンの口へ押し付けた。
突然のことで思わず口を開け食べてしまったユアンは、目を見開き噛むのも忘れ飲み込んだ。
そして口を押さえ顔を真っ赤にさせる。
「お、おまっ、お前何してるんだ!!」
「何って味見じゃない。どう、美味しいでしょ?」
「そういうことじゃない!」
ユアンが何をそんなに慌てているのか分からず首を傾げていると、そこへ地の底から響くような怒りの籠もった低い声が割り込む。
「何をしている」
ぎぎぎっとまるで油を差し忘れたかのような動きでユアンが後ろを振り返ると、ユアンが恐れていた人物、ジェイドの姿があった。
その目は射殺さんばかりにユアンを見据えている。
「あっ、ジェイド様。どうです、見て下さい。ちゃんと作れるでしょう?」
その場に漂う空気に気付かず、今焼き上がったクッキーを嬉々としながらジェイドへと見せる。
しかしジェイドの視線はクッキーではなくユアンに向かったまま。
「ユアン、もう一度第一区への立ち入りを禁止されたいか?
いや、いっそ城から追い出されたいのか?」
決して怒鳴っているわけではないのに何故か恐怖で冷や汗が流れてくるその声色。
「いいいいえ、申し訳ありませんっ!!」
ユアンは青ざめながら、ジェイドに頭を下げると脱兎の如く調理場から逃げ出した。
「あ、あれ………ジェイド様なんか怒ってます………?」
ようやくジェイドから冷たい気配を感じ取った瑠璃が恐る恐る問い掛ける。
すると、ジェイドはその矛先を瑠璃へと変えた。
「ルリ」
「はい……」
じりじりと間を詰めようとするジェイドに対し、瑠璃も何やら身の危険を感じじりじりと後退る。
城の調理場だけあり大人数の調理も行う調理場は広くはあるがしょせんは調理場。
逃げ道はすぐに塞がれ壁ドン状態。
美形が怒ると、その迫力は半端なく頬が引きつる。
「ルリ、今ユアンに何をしていた?」
「何って味見してもらっただけですけど……」
何故ジェイドが怖ーい顔をしているのか分からない瑠璃。
「だけ、だと……?
竜族にとって手ずから食事を与えるのは番いへの愛情表現だと教えたはずだが?」
「あっ………」
「忘れていたようだな」
「あははは」
特に何も考えず口元に持っていってしまっていた。
どうりでユアンが慌てるわけだ。
番への愛情表現を突然されたのだから顔も赤らめる。
ようやく合点がいった瑠璃。
「よほど私を嫉妬させたいらしい」
ジェイドの手が妖しげに瑠璃の頬を滑り、ぞわりと肌が粟立つ。
「いいえ、とんでもない!以後気を付けますです、はい!」
こちらの世界では分からないだろうが、手を額の高さに上げ敬礼のポーズを取る。
「次やったらユアンの首が飛ぶからな」
その冗談とも取れない脅しに瑠璃は首を痛めてしまいそうな程首をぶんぶん縦に振りながら、心の中でユアンに手を合わせた。
瑠璃の反応で怒りも収まった様子のジェイド。
瑠璃の作ったクッキーへと視線が向き、ド迫力なジェイドの眼差しから解放された瑠璃はほっと息を吐いた。
ジェイドは焼き立てのクッキーを一つ取り、瑠璃の口元へ持っていく。
それをぱくりと食べた瑠璃の様子を見た後で、ジェイドはもう一つ取り自分の口に入れた。
「予想外にうまいな」
「………ジェイド様、今私で毒味しましたね?」
今度は瑠璃がジェイドを睨め付ける。
「念のためだ」
「だから、何度も作れるって言ったじゃないですか!」
腹を立てながら瑠璃は焼き立てのクッキーを袋に詰めていく。
「そもそも母親が家事全般壊滅なんです。
父親が家にいる時は作ってくれるんですけど、外交官で家どころか違う国に行っていることが多くて。
そうなると不味いご飯を食べないために自分が作るしかなかったんですよ」
料理本を見ながら作っているはずなのに得体の知れない味へと変化させてしまうその技量はまさにミステリー。
掃除をすれば必ず何かを破壊し、洗濯をすれば変色する。
必然と瑠璃が覚えるようになっていった。
幸いなのは母親もモデルという職業で家にいないことも多かったので、幼い頃は祖父が頻繁に訪れていたので被害が最小限に抑えられたことだろう。
瑠璃が大きくなり祖父の手を借りる必要はないだろうとなった頃には、瑠璃が家事全般できるようになっていた。
「おかげで独り暮らしし始めた時も困らなかったんですけどね」
「瑠璃がしっかりしているのはそういう所も関係しているのかもな。
それにしても父上は外交官なのか。ではぜひ城で働いてもらいたいな。いつ来られるんだ?」
「向こうでやり残したことがあるみたいですからね。いつになるやら。
でもいつ来てもいいよう準備はしておかないと………よし、できた」
大きな袋と小さな袋の二つにクッキーを詰め終わった瑠璃はジェイドを振り返る。
「じゃあ、ちょっと出掛けてきますね」
するとジェイドが不満そうな顔をする。
「なんだ、それは私のために作ったのではなかったのか」
「作れると思っていなかったくせに……」
「瑠璃の作った物ならどんな劇物でも食べられる自信がある」
「何自慢ですかそれ。失礼ですよ。
これはリンとコタロウとリディアの分です。
ジェイド様には今度作りますから許して下さい。
これからリディアの所でお茶会するんです。
でもリンとコタロウは空間の中には行けないから別にお菓子を置いておかないと拗ねちゃいますから」
本当はコタロウもこの場に来たがったのだが、全身毛むくじゃらの動物を調理場に入れることは衛生面で問題だろうと立ち入らせなかった。
いくら霊王国の神聖な聖獣の身体と言えど、毛の入ったクッキーは嫌だ。
リンは拗ねたコタロウの付き添いで一緒に庭で待機している。
「リディアというのは時の精霊のことだな」
「はい」
ジェイドは少し考え込んだ末、切り出した。
「私も一緒に空間の中に行けないか?」
「えっ、ジェイド様もですか!?
ええっと……少しの間位なら大丈夫だと思いますけど。チェルシーさんも一度入ったことがありますし」
「なら決まりだ」




