末っ子
部屋で謹慎していたある日、部屋を訪ねてきたのは唯一の弟であるオリオだった。
オリオは気弱で、権力闘争などとてもできない優しい性格をしている。
母が亡くなった時も、悲しみのあまり部屋に籠もってしまった。
葬儀の夜、二番目の兄が声をかけても出てこなかったようなので、そうとうショックだったのだろう。
「オリオ。部屋から出てきたのか?」
「はい。こんな時に部屋に籠もってなどいられませんから」
悲しげに微笑むオリオ。
「すまないな。本当なら私がしっかりしていなければならないのに、部屋から出ることもままならない」
「兄様のせいではないでしょう? 貴族の中には兄様のことを犯人と決めつけている者もいますが、僕は信じていますから。サマダン兄様がロイ兄様を、ましてや母上を殺すような指示を出したりなんてしないと」
「ありがとう、オリオ」
弟の優しさにサマダンは心が凪いでいくようだった。
「少しでも気分転換になればと、リラックス効果のあるお茶を持ってきました。お淹れしますね」
そう言うと、自分で引いてきたと思われるワゴンから、ポットとカップをテーブルに載せていく。
それを見ながら、サマダンは柔和に微笑む。
「ありがとう。お前は本当に優しいな。けれど、その優しさは、この欲にまみれた貴族社会ではやっていけないのじゃないかと心配になるよ」
「僕だって皇子です。兄様達のように、ちゃんとやれますよ」
「無理をしなくていいんだ。今は疑われているが、ちゃんと無実を証明して俺が皇帝になる。お前を皇帝にさせたりしないからな」
この優しい弟に、貴族の舵取りなどできるはずがない。
欲にまみれた貴族の前に出しても、傀儡として扱われてしまうだけだ。
そんな真似は絶対にさせない。兄として弟を守らなければ。母の分も。
そう、サマダンは使命感に燃えた。
「だから、安心してくれ!」
そう力強く声をかけたが、オリオからの反応がない。
「オリオ?」
無反応のオリオを不思議に思い名前を呼ぶと、にっこりと微笑みこちらを振り返った。
「いえ、兄様の言葉に感動してしまいました」
「そうか。それなら良かった」
「お茶が入りましたよ。どうぞ」
「ああ。ありがとう」
サマダンは差し出されたカップを持ってゆっくりと味わうように匂いを嗅ぐ。
「良い匂いだ」
「宮殿内で作ったハーブを使っているんです」
「そんなのがあったか?」
「ええ。お疲れになった母上にもよくお出ししていたんですよ」
「そうだったのか。きっと喜んでいらしただろう」
「ええ。いつもポットが空っぽになるまで、喜んで飲んでくださいましたよ。兄様も早く飲んで感想を聞かせてほしいです」
「ああ」
じっくりと香りを堪能した後、カップに口を付けようとした、まさにその時。
バンッ! と、けたたましい音をさせて部屋の扉が勢いよく開かれた。
「飲むな、サマダン!」
ビックリするあまり手を止めたサマダンは、入ってきた父の姿に目を丸くする。
「父上?」
息を切らせた父は、よほど急いでいたことが分かるほど、額に汗がにじんでいた。
「どうしたのですか?」
「その飲み物、まだ飲んでいないな?」
「え? ええ。まだ口を付けていません」
心底安心したように息を吐き出したコランダムは、つかつかと歩いてくると、サマダンからカップを奪い取った。
「父上、本当にどうしたのですか? そのお茶が何か? 父上も飲みたかったのですか?」
「馬鹿者! これには毒が入っているんだ」
「は?」
ぽかんと父の顔を見つめるサマダンは、まだ理解が追いついていない。
「しかし、これはオリオが淹れてくれたものです」
「そのオリオが毒を淹れたのだ」
「えっ?」
サマダンは信じられないという顔でコランダムからオリオへと視線を移動させる。
「オリオ?」
「何を言っているのですか、父上。僕がそんなことするはずがないじゃないですか」
悲しげに眉を下げるオリオは、父から疑われたことに傷付いているようにしか見えない。
「では、これを飲んでみろ」
そう言って、コランダムはサマダンが飲もうとしていたカップを差し出す。
その時、初めてオリオの表情が歪んだ。
「それは兄様のために持ってきたものですから、僕が飲むわけにはいきません」
「構わん。茶などまた淹れればいい話だ。それとも、無理矢理口に流し込んで欲しいか?」
すると、コランダムは後ろに視線を移し、顎を動かす。
すると、コランダムの後に付いてきて入ってきた兵士が、オリオの左右に立って腕を掴んだ。
「父上! なんの真似です!?」
「お前がこれを飲んだならお前の言葉を信じよう」
そして、コランダムはオリオに近付き、オリオの口にカップを傾けた。
「やめろぉぉぉ!」
激しい抵抗に、腕は振り払われ、カップが床の絨毯に染みこんでいく。
はあはあと息を切らせて床に座り込むオリオに、信じられないといったサマダンの視線が突き刺さる。
「オリオ? まさか、嘘だよな?」
嘘だと言ってくれというサマダンの願いは、さらなる衝撃でかき消される。
「サマダンだけではない。アデュラリアとロイに毒を盛ったのもお前だな?」
「父上、そんなまさか!」
「いや、オリオはよくアデュラリアに茶を持ってきていた。毒を盛る機会などいくらでもあっただろうからな。そして、ロイにも確認したところ、同じくお前に茶を淹れてもらったと聞いたぞ。そうだな、ロイ?」
声を投げかけたコランダムの視線の先にいたのは、元気に一人で歩いているロイの姿だ。
これには、病で倒れたと聞いていたサマダンは驚いたものの、元気な姿に安堵の方が勝った。
しかし、オリオは違った。
「な、何故。何故立っていられるんだ? もうとっくに体の自由がきかなくなる頃合なのに!」
その言葉は、自分が犯人だと自白しているようなものだった。
「俺を殺せずに残念だったな、オリオ。治療薬が存在したおかげで、見た通り俺はピンピンしているぞ」
ロイは不敵に笑ってみせたが、逆にオリオの顔色は優れない。
「治療薬? そんなものありはしない。ちゃんと確認したんだから」
「それがあったのだ。ヤダカインの女王陛下が治療法を知っていらした。おかげでこうして治ったわけだ。まあ、死の淵を彷徨ったがな」
「そうだな。よく耐えた。私なら逃げ出している」
ちょっとやさぐれた顔をするロイと、可哀想なものを見るような眼差しを向けるコランダム。
「なんで……。どうして分かったんだ……」
コランダムとロイは厳しい眼差しでオリオを見下ろす。
「愛し子様が精霊に頼み調査をしてくださったのだ。それにより、光毒虫の最初の感染者を見つけ、それを調べていた医師にまでたどり着いた。お前はその医師に色々なことを教えてもらっていたそうじゃないか。治療法のない病気や毒について。そこの医師が証言したぞ。光毒虫にことさら興味を示していたとな。そこから亡くなった患者の血液を盗んだお前は、それをアデュラリアとロイの飲む茶に混入させた。そうだろう!?」
オリオは悔しげな顔を歪める。
ただ一人付いていけないサマダンは、混乱する頭の中を整理するので精一杯だった。
「それはつまり、オリオが母上を殺したってことですか?」
「その通りだ、サマダン」
「そんな、なんの冗談です? オリオはそんなことができる子ではありません。心優しく、私達が守ってあげなければならない、そんな子で……」
「お前らのそういうところがうざったいんだよ!」
突然オリオが声を荒げた。
「捕らえろ!」
慌ててコランダムが命じると、すぐさま兵士がオリオを羽交い締めにする。
「お前達はいつもそうだ。勝手に俺を下に見て優越感に浸っているんだ! 貴族だってそうだ。ロイ兄様とサマダン兄様にしか目を向けない。僕だって皇子なのに。皇帝になる権利は僕にもあるんだ! それなのに誰も見向きもしない。誰もが僕には皇帝なんて無理だと思っている。母上ですらだ!」
「……それが動機か?」
酷く冷たい眼差しでロイはオリオを見据える。
「そうだよ、何が悪い? 帝国の歴史を見ても、皇帝になるために身内を暗殺することなんて珍しくもないだろう。俺が皇帝になるためには邪魔なんだ。母上も、ロイ兄様も、サマダン兄様も!」
ロイはオリオに近付くと、思いっきり拳で殴りつけた。
反動で後ろに倒れるオリオの口からは、どこか切ったのか、血が流れた。
「まさかお前がそんなことを思っていたとはな。皇帝になりたかったのだったらもっと正々堂々と戦うべきだった。サマダンはそうしたぞ。それを勝手な被害妄想で母上を殺すなど……。そんなお前が皇帝に相応しいわけがないだろう!」
「綺麗ごとだ、そんなの……。兄様達が恵まれているからそんなことが言えるんだ」
「条件は同じはずだ。確かに先に生まれた方が有利なのかもしれないが、それを押しのけても登れる力がなければ皇帝なんて務まるものか。お前はやり方を間違えたんだよ」
ロイはどこか悔しそうに、拳を握った。
「貴族牢へ連れていけ」
「はっ!」
コランダムの言葉で、兵士はオリオを連れていく。
暴れるかと思ったが、予想に反してオリオは大人しく兵士に連れられていった。
兵士も退出すると、サマダンとロイとコランダムだけになる。
「兄様……」
「サマダン。本当に一滴も口にしていないんだな?」
「はい。私は大丈夫です。それより兄上は大丈夫なのですか?」
「ああ。犯人を油断させるために病人であるように装って、よく寝てぐーたら生活だったせいか、むしろ病気になる前より元気だ」
それを聞いた瞬間、足の力が抜け、がくりと床に膝をついてしまった。
慌てた顔をするロイとコランダム。
「おいおい、大丈夫か?」
「はい。気が抜けてしまったようです。……だって、てっきり兄様も母上のようになってしまうと……思ってっ」
嗚咽が漏れそうになるのを必死でこらえるが、あまり意味をなしていない。
「心配させて悪かったな」
わしゃわしゃと頭を撫でられて、まるで子供に戻ったような気分になった。
「……まさかオリオが母上を殺すなんて」
サマダンには未だに冗談だと兄や父が言ってくれるのではないかと願ったが、それを聞くことはできなかった。
「末っ子で、優しいから、気が弱いからと、勝手にそう思い込んでしまっていたんだな。それがオリオにとっては下に見られていると感じるようになったのかもしれない。それについては反省すべきだ。俺達の傲慢がオリオの性格を歪めてしまったのかも」
「はい……」
可愛い弟と思っていただけに、そんな弟に命を狙われていたと知った思いは複雑だった。
「父上、オリオはどうなりますか?」
サマダンはすがるような目で父を見上げる。
そう聞いたその顔は、苦しそうに歪んでいた。
「オリオが犯してしまったのは、皇帝暗殺だ。たとえお前達が許し、二人の皇子の殺人未遂を隠すことはできたとしても、アデュラリアのことはなかったことにできる問題ではない。皇子だとしても、皇帝暗殺にどんな罰が与えられるかは、お前達には言わずとも分かっているだろう?」
サマダンとロイは静かに目を閉じた。
悔しさと、無念と、悲しさ。たくさんの感情を押し殺すように。
「マリアノ兄様が帰ってくるまで、裁判を待つことぐらいはできますよね?」
「ああ、そうだな。すぐにマリアノを呼び戻そう」
きっと、悲しむことだろう。
それが分かっているだけに、サマダンは兄の帰還を喜ぶなんてできなかった。
いったいどこで間違ったしまったのだろうか。
もしがあるなら過去に戻りたい。戻ってやり直したい。
それが不可能なことを理解しつつも、サマダンは願わずにはいられなかった。