一年越し
春休みだというのに、先日卒業したばかりの高校に呼び出されたわたしは、その呼び出した張本人を探して校舎内を移動していた。
数日後に控えた入学式の準備とさらには新入生歓迎会の打ち合わせのため、生徒会役員をはじめとする実行委員会の生徒数人が、強制的に学校に来ている。あとはクラブ活動に勤しんでいるほんの一握りの一般生徒と教職員だけという状態だ。当然の事ながら校舎内には人気がほとんどなく、足に合わない来客用のスリッパを履いたわたしの足音が、ぺたぺたと廊下に響いている。
三年間着慣れた制服は既にクリーニングから返って来ていたけれど、まさか今さら着て来るわけにもいかず、わたしは今日初めて私服で学校に来た。そのせいだろうか。つい先日までわたしの物だったはずの風景が、どこかよそよそしく見えてしまうのは。
生徒会書記なんてものをしていたわたしは、一年前の今頃、実行委員達と一緒に慌ただしい日々を過ごしていた。当時はどうしてこんな面倒な事を引き受けてしまったのだろうかと我が身の不運を嘆いたものだが、今となってはそれもいい思い出となっているらしく、口元に笑みが浮かぶのを自覚していた。
職員室を覗いて見たけれど肝心の人の姿はそこにはなく、それなら職員用の更衣室を挟んですぐ隣の社会科準備室にいるのかと思いきや、そちらも見事にもぬけの殻だった。
人を呼び出しておいて姿を消すなんてとんでもない教師だと、普通ならば憤慨するところだと思う。けれどそれはあくまでも普通ならば、の話だ。あいにく目当ての教師は、普段から平気でそんな事ができる様な自称不真面目教師であり、常識にあてはめるには少なからず無理がある。この三年間で嫌というほど積み重ねた経験は、不本意ながらいまさらこんな事くらいでは腹も立たない程度には、わたしの神経を鍛えてくれていた。
職員室にも社会科準備室にもいないとなると、心当たりはあと一つ。溜息を一つ零し、ぺたんぺたんと足音を響かせながら、わたしはその場所に向かって歩き出した。
『関係者以外立ち入り禁止』と貼り紙がされた、校舎の屋上につながる扉の前に立ち、さてどうしたものかと思案する。ここで言う「関係者」とは、教職員と生徒会役員に限定される。秋には生徒会を引退し、既にこの学校の生徒でもなくなってしまったわたしには、この扉を開くための鍵を手にする事は許されてはいないのだ。
だめでもともと、というつもりでドアノブに手をかけると、呆気ないほど簡単に外に出る事ができてしまった。つまりはわたしよりも先にここの鍵を開けて外に出た人がいるという事を、示しているわけなのだけれど。
「遅かったねえ」
のんびりとした声が耳に届いた。たったそれだけの事で、僅かながらにも上がってしまう心拍数が憎い。忘れようとしても忘れる事ができないその声は、予想通り、わたしを呼び出した先生の物だった。
「職員室にも社会科準備室にもいないセンセーが悪いんです」
「僕の行動パターンは、あんたが一番よく知っているでしょ」
そう。ものすごく不本意だけれど、当時生徒会顧問だったこの社会科教師の姿を求めてわたしがこの場所に来たのは、一度や二度の事ではない。多忙な生徒会役員達の中、比較的手すきだったわたしにお鉢が回って来たのは幸運だったのかそれとも不運だったのか。先生に恋するわたしにとっては前者だけれど、世間一般の一生徒としては後者だったのだろうと思う。きっとたぶん。
「ちょうど一年だねえ」
あまりきれいとは言えないコンクリートの床に身を投げ出している先生は、空を眺めたままこちらを見もしない。
「なにが、ですか」
ちょうど一年前にこの場所であった事を、忘れられるはずもない。けれどその事に触れられるのが嫌で、わたしはわざと素気ない口調ではぐらかそうとした。
「なーに、とぼけようとしているんだろうねえ、この子は」
この子、と子ども扱いされた事に不快感を覚えたわたしは、眉を顰めて先生を見下ろした。もちろんこんな事にこだわる事自体が子供だという証拠なのだけれど、こうしてわたしの心に爪を立てるのがすべて無意識での事なのだから、いろいろな意味で厄介な人なのだ。
「僕が寝ているのをいい事に、唇を奪おうとしたでしょうが。どさくさまぎれに好きだっていう告白もしていただきましたよ」
正確には、ひとり言のような告白をしてしまい、さらには狸寝入りしていた先生にキスを寸止めされてしまったのだ。けれどわたしは、本当は本気で先生の事が好きだった。寝ていると思ったからこそあんな暴挙に出る事ができたのであって、そうでなければ、いくら好きな人とはいえ教師相手に、絶対にあんな言動を取る事はなかった。こう見えても、その程度の常識は持ち合わせているのだ。
「あ、あれは、エイプリルフール、の」
あの時苦し紛れに口から出た言い訳を、一年経った今もまた繰り返す。
「教師っていう立場上、そういう事にしてあげたけどねえ。あの後あんたが泣いたりするから、冗談ですまなくなっちゃったんですよ」
「冗談ですまなくなって、わたしをいじめたんですか」
「違うでしょ。いじめられていたのはむしろ僕の方でしょうが」
のそりと先生が起き上がり、すぐ隣の床をぽんぽんとたたく。どうやらそこに座るように促されているらしい。わずかに逡巡し、先生から少し離れた場所に腰を下ろしたわたしは、吹き抜ける風にうっかりスカートの裾をめくられたりしないがが気になった。
春の陽差しに晒されているコンクリートは、直接腰を下ろしても大丈夫なくらいに温かい。
「あれだけ態度で示していたのに、一向に気付いてくれない誰かさんのお陰で、毎日やきもきさせられ通しでしたよ」
「あんな分かりにくい事をされて、気付けって言う方が無理なんです。普通に考えてあり得ないでしょう。なにしろ基本が教師と生徒なんですから」
「これでも教師の端くれだから、僕からはっきり言うわけにはいかなかったって、答え合わせの後で何度も説明したでしょ」
確かにその通りだ。けれどそれは、ヒントだと言っては意味深な言動を取る先生に、わたしがさんざん悩んで悩んで悩みまくってからの結果論だ。先生の些細な言葉にわたしがどれだけ傷ついていたのかなんて、きっとこの人は知りもしない。それこそ身の細る思いで悩んだ挙句、学校でぶっ倒れるなんて醜態まで晒してしまったのは、他ならぬ先生が原因なのだから。
思い出したら、だんだん腹が立って来た。
「だったら、思わせぶりな言動なんかやめてくれればよかったじゃないですか。先生の無責任な言葉で、わたしがどれだけ振り回されていたと思っているんですか」
自然と語調がきつくなる。
「仕方ないでしょ。ああでもしないと、あんたを他の男に取られそうだったんだから」
確かに若干一名だけ、心当たりがない事もない。けれどわたしがずっと好きだったのは先生であって、彼の事を好きになる確率なんて、著しく低かったのだ。皆無とは言えないかもしれないけれど。
「まあ、今さらこんな事で言い争うためにあんたを呼んだわけじゃありませんよ、今日はね」
そんな言葉で、勝手に打ち止めにされてしまった。もともと話題を振って来たのは、先生の方だというのに。
「それならどうしてわざわざこんな所に呼び出して、一年も前の話をするんですか」
「懐かしいなと思ったんだけど、って、おーい、どこに行くつもりですかー」
わたしにとっては愉快でも何でもない話を聞かされるために、のこのここんな場所まで来たわけではないはずだったのに。
やっていられないとばかりに、わたしは腰を上げ校舎へのドアに向かう。先生が立ち上がる気配を感じ、自然と足取りが速くなった。ドアノブを掴んだところで追いつかれてしまったのは、身長差ゆえかコンパスの差なのか。とにかくあっさりとドアノブから引き剥がされ、腕と一緒に体ごと捕まえられてしまった。
どくん、と、心臓が高鳴る。そういえば以前にも同じ事があったな、と思った。
「まだ肝心な話が、終わっていないでしょうが」
溜息ともつかない物が耳をくすぐる感触に、ぞくりと肌が粟立つ。
「からかうのなら、他の人にしてください」
胸の裡がじくりと疼く。もう嫌になるくらい何度も経験したこの痛みは、決して慣れるものではない。泣くつもりなんてないのに、わたしの心に反してじわりと滲んだ涙が、目尻から零れ落ちた。
「って、だから、なんで泣くかな、あんたは」
体に回された先生の腕に、力が込められる。
「センセーのせい、でしょうっ」
掴まれていない方の手で、先生の体を押し退けようと必死にもがく。けれどただでさえ大人と子供、さらには男と女の力の差は歴然としていて、とてもではないが敵うはずがない。
悔しくて辛くて悲しくて。なのに止めようとしても涙が、意志に反して後から後から涌き出て来てしまう。
「あー。悪かった。ごめん。だから、泣くな。泣かないでクダサイ」
少し困ったような先生の声が耳に響いた。泣かせたのは先生なのに、何を勝手な事を。先生との僅かな隙間から睨み上げるとそこには、人の事をからかってばかりいる人を食ったような表情はなりを潜め、眉間を寄せて切なげな表情を浮かべた先生の顔があった。
先生の口から零れ落ちた、囁くような小さな声が聞き取れない。
「え?」
頭の後ろに、先生の大きな手が触れる。
「セン、セ」
さっきの言葉とこの手の意味を尋ねようとした言葉は、重ねられた先生の唇に、吸い込まれてしまった。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。掠めるように触れただけの唇は、今はもうわたしの頭よりも上の位置にある。
「泣かせようと思ったわけじゃないから」
突然の事にびっくりして、目を見開いたまま硬直したように動けなかったわたしの耳に、先生の優しい声が届いた。
「じゃ、なんなんです、か」
「んー。やっぱり、あれだわ。あんたが可愛すぎるのが、悪いんだわ」
先生の言葉に翻弄されるのはいつもの事のはずなのに。可愛すぎるなんて言葉も、これが初めてではないはずなのに。それでもわたしの頬を赤く染めるには、それは十分な効力を持っているのだ。
涙なんて、いつの間にか止まってしまっていた。
「あんたは僕の特別なんだって、それだけは何度もちゃんと伝えたはずですけれどねえ」
「う」
先生にとって、わたしが他の女子生徒とは違うのだという事は、理解していた。むしろ間接的な力技でもって、強引に理解させられていたというのが正しい。
社会科の教師達でさえも滅多に立ち寄らない準備室で、二人きりになるなんて珍しい事ではなかった。教師と生徒なんて大義名分を振り翳していたくせに、時々ではあるものの、手を握られたり軽いハグをされたりなどというスキンシップを何の前触れもなく取って来たのも先生の方からで。そのたびにわたしの鼓動が激しくなり、心臓に悪い事この上なかったのだ。
それでも、先生は決して言葉に出してわたしに伝えようとはしなかった。それが先生のこだわりでありけじめなのだと何度も聞かされ、そういうものなのかと思ってはいたのだけれど。
それでも。どれだけ特別扱いをされていても、たった一つの言葉が欲しくて仕方がない時だってあったのだ。不安に押し潰されそうになり、眠れなかった夜も一度や二度ではなかった。けれどたぶん、何も言わなくても先生は、そんな不安定なわたしに気づいていたのではないだろうか。
「まあ、今日からは晴れて一人の男と女になれたわけですよ」
「え。あ」
卒業式が終わったからと言っても、年度末までは学校に籍がある。日が空いていたから気付かなかったけれど、今日は年度替り。つまり、先生とわたしの関係が、教師と生徒ではなくなる日だったのだ。
「てことで」
体に巻きつくように抱きしめられていた先生の腕が離れ、ほんの一瞬だけれど寂しく感じてしまう。
「待たせたね」
体が離れた分、はっきりと見る事ができた先生の顔には、何度となくわたしに向けられていた優しい笑みが浮かんでいて。
「あんたが、好きだよ。って、なんでそこで泣くかな」
せっかく止まっていた涙が、また溢れ出て来てしまった。
「だ、って、センセー、が」
「あー、また僕のせいですか」
困ったように眉尻を下げ、ぼりぼりと頭を掻く先生が、なんだかとてもおかしくて。
「センセー、好き」
先生が覚えているかどうかは分からないけれど、一年前にこの場所で、冗談ですませてしまった言葉を口に乗せる。
先生は一瞬びっくりしたように眼を見開いて、すぐにいつもの少し意地悪な笑顔を浮かべた。その表情から、どうやら先生もさっきの台詞を覚えていたらしい事を知り、わたしの口元が少しだけ緩む。
ゆっくりと、先生との距離を詰めていく。恐る恐る伸ばした指先が先生の頬に触れると、心得たとばかりに腰を屈めてくれた。どきどきと激しく打ち続ける心臓の音を無視して、先生の唇に、そっと触れるだけの口付けをする。




