竜神の池
むかし、むかし。
ある山奥の小さな村のはずれに、竜の住まう池がありました。
この竜は何事にも興味がない質で、池に住み着いてこの方、滅多に水面に顔を出す事もなく、ただひたすらに仄暗い水底に寝そべっていました。
村人達も、当初は池のほとりに祠など建て供物を捧げ、丁重に奉りましたが、姿も見せず禍福も呼ばぬ竜にやがて信仰を失いました。
そんな村人達にも我関せずで、竜は眠り続けました。
一年、十年、百年。
ーーーその日が来るまで。
ある日。
ふと気配を感じ、竜は目を覚ましました。
そして何気なくーー本当に他意なくーー首をもたげ、水面を見上げました。
朝の陽がキラキラ揺れる水面に、ふと何かが映り込んでいて・・・。
竜は目を見開き、息を詰めました。
雷が落ちたような衝撃が身体中を駆け巡ります。
水面に映っていたのは、一人の若い村娘でした。
娘は水底から覗く竜になんかこれっぽっちも気づかず、水鏡に映る自分を見ながら長い黒髪を満足いくまで丁寧に梳き、そして帰っていきました。
娘がいなくなった後も、竜はひたすら水面を見つめ続けていました。
明くる日も、娘は池に来ました。
水鏡で髪を梳き、愉しげに野花を摘んで帰っていきました。
その次の日も娘は池に来て髪を梳きました。
そしてその次の日は・・・雨が降り、娘は現れませんでした。
竜は毎日、水面を見上げていました。
娘が来た日は心が踊り、来ない日は心が沈みました。
夜が明ける度、今日は娘が来るのかと待ちわび、帰った後は明日が待ち遠しくなりました。
娘を見つめている時も、娘が居ない時も、竜の頭は娘の事でいっぱいになりました。
会えた日も会えぬ日も、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられて苦しくなります。
自分が何故こんなに苦しいのか、理由が解りません。
そんな竜の苦悩も知らず、娘は気まぐれに現れては去って行きます。
ーー何故、俺がこんな目にーー
娘の姿を想いながら、竜は夜な夜な水底の泥の中をのたうち回りました。
そして・・・ひとつの答えにたどり着きました。
ーーあの娘が俺に呪いをかけたーー
そうに違いない、竜は思いました。
こんなに心が千千に乱れるのは、全部娘の呪いの所為だと。
竜は人と比べようのないほど途方もない歳月を生きていました。
それでも・・・自分の娘への感情が『何か』は知らなかったのです。
胸の中にじりじりと燃ゆる火を抑えられず・・・。
ある日、いつものように髪を梳く娘の前に、竜は静かに水面から顔を出しました。
驚きにこぼれ落ちそうなぼど見開かれた瞳。
・・・それが竜が見た最後の娘の顔でした。
竜はその大きな顎で一瞬にして娘の躯を捉えると、池の中に沈みました。
牙にはめりきめきりと骨の砕ける振動が伝わり、辺りの水が真っ赤に染まります。
それに構わず竜は咀嚼しながらずんずん泳ぎ・・・水底に着いた時には、娘の骸をすっかり嚥下していました。
竜は嗤いました。
泥の中で身をよじり、声にならない声を震わせて嗤い続けました。
これで自分は自由だと。
自分を苦しめる呪いは消えたのだと。
竜は嗤いながら池の中を暴れ回りました。
暫く嗤って暴れて・・・不意に、それでも胸の苦しみが消えていないことを知り愕然としました。
そればかりか、両の眼が熱くなり、止めどなく水が溢れていることにさえ気付いたのです。
竜は水底に横たわりました。
眼から溢れる水の正体を竜は知りません。
・・・ただ、もう娘に会えないのだと思うと、苦しみは一層重くなり、眼から水が流れるのでした。
竜の流した涙は池をどす黒く濁らせました。
魚も棲めなくなった池には村人も来なくなり、祠も朽ち果てました。
それから長い長い年月が経ちました。
しかし、今でも・・・。
この池には、夜になると竜の咽び泣く声が聞こえ、近寄る人間は池の底へ引き摺り込まれるという伝説が残っているのです。
***
「へぇ~、そんな由来があんのか」
私が話終わると、タクヤは面白そうに淀んだ池の水面を眺めた。
夏休みのとある日、私は恋人のタクヤを誘って故郷の村にドライブしてきた。
・・・故郷と言っても、廃村になって十年も経っているけど。
「しっかし、ホント何にもねー所だな!ヒトミはこんなトコに住んでたのかよ!」
小馬鹿にするタクヤに私は苦笑いを返す。
「どうせ田舎者ですよ」
高校三年生の時に村が無くなり、大学進学と同時に上京した私を、生まれた時から都会暮らしのタクヤはいつもからかう。
「最近、仕事どう?」
「え!?」
私が水を向けると、タクヤは一瞬ギグリと肩を震わせる。
「まだ忙しいの?夜は電話も繋がらないし、メールも返信遅いし・・・」
重ねて問うと、タクヤは面倒臭そうに返す。
「忙しい時期なんだって言ってるだろ!お前みたいなお気楽OLとは違うんだよ。今日だって無理してスケジュール調整して来てやったんだからな!」
「・・・うん。ありがとう」
タクヤとは大学の頃・・・二十歳から付き合い始めて八年目。
付き合い始めの頃の新鮮さはなくなったし、別々の会社に就職してすれ違いも多くなったけど、長い分、お互いを理解して信頼を深めてきたつもり。
ーーだけど。
「っマジかよ!ここ圏外じゃん!」
スマホを取り出してタクヤが舌打ちする。
「廃村だもん。人がいなきゃ電気もアンテナもないわよ」
「使えねーな!早く帰ろうぜ」
「待って」
踵を返して車に戻ろうとするタクヤを私は呼び止めた。
「もう少し、いいでしょう?それとも急いで連絡取らなきゃいけない人でもいるの?」
「・・・そんなんじゃねーけど・・・」
タクヤは渋々戻ってくる。
「私ね、子供の頃から竜の伝説とこの池が大好きだったの。だからタクヤをここに連れてきたかったの」
池のほとりに二人で立って、私は風に乱れる髪を掻き上げる。
「タクヤは竜の伝説を聞いてどう思った?」
「竜は馬鹿だと思ったよ」
タクヤは鼻で笑った。
「竜は村娘が好きだったんだろ?それなのに何で殺すんだよ、意味ないじゃん」
「そうね」
私も一緒になって笑う。
「でも・・・あ!」
驚きの声と共に、私は右耳を押さえた。
「イヤリング落ちちゃった」
「は?どこだよ」
辺りをキョロキョロする私に、タクヤも一緒になって探し出す。
「そっちに転がっちゃって・・・あった!」
「どこだよ?」
「そこの奥」
私が指し示すままにタクヤが池の縁を覗き込んだ・・・瞬間!
ドンッ!と渾身の力を込めて、私は彼の背中を突き飛ばした。
「な!?ヒトミ!」
何が起きたか理解出来ないのだろう。
下半身を淀んだ池に浸しながら、タクヤが焦った声を出して藻掻く。
「この池ね、水面近くから水底までヘドロが溜まって底無し沼みたいになってるの。だから、暴れると早く沈むわよ」
「な、なん・・・」
私の忠告を無視してジタバタ藻掻くから、タクヤはもう首まで池の中だ。
「浮気、気付いてないと思った?会社の後輩の女の子。若くて可愛いのね」
弁明を聞きたいのに、もう口まで埋まって声が出ないみたい。
「竜はね、村娘を本当に愛してたのよ」
静かな山奥にバシャバシャと水の跳ねる音が響く。
「だから殺したの。いつ会えるか期待するより、いつ会えなくなるか不安になるより、確実にずっと一緒に居れる方法を見つけたの」
水音が小さくなるにつれ、私の声が大きく響く。
「貴方は馬鹿だって言ったけど、私は竜は最良の選択をしたと思ってる」
水面に小さな泡が浮かんでは消える。
「この話はハッピーエンドなの」
最後の泡粒が消えた。
「ねぇ、聞いてる?」
私の眼から落ちた涙がひとつ、淀んだ池に波紋を作った。