表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1



 人形は完成した。

それが世界の七日目だった。人という人形が、何者かによって作り出され、いつしか自らで脚を動かし、口を聞くようになった。そして生まれた場所から這い出ると、世界の広さと人生の短さに驚嘆と落胆を覚えつつ、一歩一歩前へと歩み出て、その度に足の裏が踏む土の感触を噛み締める。旅に出てしばらくして、不意に後ろに視線を落とすと、そこには真っすぐ踏み固められた土が足跡の軌跡を刻んでいる。

 「ああ、私とはこういう人間であったのだ」と、その時はじめて自覚するのだ。

 聞くところによれば、私たちを作ったというモノは自分に似せて私たちを作ったという。それが何故かは判らないけれど、そこには意味があるのだという人たちもいる。創造主に似せられて生まれてきた私たちは、すなわち彼(彼女?)の代行者たりえる唯一の被創造物なのだと。

 つまりは私たちは人形なのだと。そういう風に思って、平凡な自分に誇りを取り戻そうという人たちがいる。

取り柄のないただの人間でいるより、特別なだれかの人形でいたいと。そういう空想の中で足を止めて、越えてはいけないものを超えず、見てはいけないものを見ずに済んでいる人たちがいる。

誰かのためにとか。

何かによってとか。

自分以外の要素で上塗りして、自分というものを周りにも分かるように定義する。それで成長した気になってしまう。

子供たちはきっと下らないと思うだろう。

何故だ、どうしてだと、答えを持たぬ大人たちに食って掛かるだろう。

でもそれが生きるってことだ。

生きてるって証明することだ。

私たちはこうして生きている。

生きてここにいると。

そう強く主張するには、やはりそれは必要なことだ。

あるいはそれが大人になるってことだ。

自分ってやつを分かりやすく記号にする必要に迫られて、そんなことできないって分かってるから、自分らしい何かではなく、分かりやすいものを見繕って、これが私ですと主張する。

そうだろ。そうだよねって周りに聞いてまわる。

そして本当の自分を見失う。

あとで後ろを振り返ってみれば、自分で歩んできたはずの道が、自分で分からなくなっている。

はて自分は何者かとなる。

慌てて探してみても、そんなものは見つかるはずも無くて。

無くした今となってはそれを証明することさえ難しいけれど、それでもかたくなに、存在を主張しなくてはいけない。

私は確かに息をして、

その時代を生きていた。

そう胸を張っても誰もが知らん顔だけど。

だからどうしたのって笑われてしまうかも知れないけれど。

双対の蒼い眼が、きっと私を見届けたろう。

私のしらない、私の人生を。

彼女たちだけが知っているだろう。

私が歩んできた、私自身の無くした道程を。


 1


 「それで?」

医者はカルテへの打ち込みを継続しながら、横にいる私に視線もくれずに、こう言った。

「これからどうしますか?」

日系人にしては長い足を机の下で組み直すと、彼はようやくこちらを見た。そういう態度に腹も立てないで、私はか細い声で

「判りません。」と言った。何もかも、絞りとられたような声だった。妙に明るい電灯が眼に痛い。少し眼を萎めて、医者の方を見つめた。

私は続けた。

「思うに、今の私にはそれを判断する能力がありません。」

「そうですか。」医者はただそう返した。遺族には珍しくない反応だったのかもしれないと自分で納得しようとしていると、まぁ個人的には、と医者が続けた。

「ご本人がお決めになるべき事象だと思いますが。」

分かってないな、と初めて医者に苛立ちを覚える。それができなくて、今私はここにいるんじゃないか。苦々しいと思うのをどこかで押さえて、

「どうしたらいいと、先生は思いますか?」と聞くと、

「判りません、私にも。」

またなんでもないように医者は返す。

「…わからない?」

「どうしてもと仰るなら、カウンセリング・プログラムを、オーダーしましょうか?」

「プログラムですって?」背筋に冷たいものを感じる。

「これから先は専門外ですから、私としてはそのような処置をとらざるを得ません。」

私の世話を機械にさせようというのか、この男は。私は彼に見放されたような気がして、より一層気が遠くなるのを感じた。

「…いや、《プログラム》はいい、結構です。」

「でしょうな。みなさんそう言われます。いや、当然と言えばそうですがね。」

医者の表情に、わずかな嘲笑が垣間見える。これは何か形式的な質疑なのか?どうしてこの医者は私を追い詰めようとするのか。口の中に苦いような感じがして、下唇を噛んだ。

私は気付けば、座っていた椅子から腰を上げて、帰るような姿勢をとっていた。この場の空気に、もう耐えられそうになかったのだ。医者もそれを感じたのか、お帰りですか、とも聞かずにただこちらを見つめていた。私はそっけなく、

「どうも先生、いままで、お世話になりました。」と言った。

「まだ、答えをいただいていませんが」

なにか返そうとしたけれど、喉に詰まって言葉にならなかった。医者は分かった風に鼻をならして、そして静かに口を開いた。

「あなたが殺すわけではないんですよ、ミスターギブスン。奥さんはもう死んでいるんです。意識を失った14年前から。」

何を当たり前のことを、と半ば呆れつつ、医者が私の罪悪に気づいていたことに、少し驚いた。



ありきたりに言えば、夫として最低の部類だったと思う。

家族よりも仕事を優先し、

出勤は早く、帰りは遅い。

これだけでもう十分に、誰にでも予想しうる結末があるだろうに。それでも私は、そんな生活を正しいと思っていた。これは全く不思議なことだけど、人間は自分のこととなると明示な事象さえ見逃して、実に初歩的なミスを繰り返すという。まさに私がそうだった。しかし私たち、ジャック•J•ギブスンと、アリス•ギブスンはありきたりな結末には至らなかった。一重に、彼女のおかげでだ。



 診察室を出て、白い廊下に出た。どこからふいたのか、はらり、と前髪が踊る。つるつるの壁と床を、ほとんど窓から差す光だけが照らしている。中の電気はつけないらしい。私はそれを見た事がない。といっても、夜にここにきた事はないのだけど。

 目の前を看護師や、パジャマ姿の人たちが通り過ぎていく。不思議なぐらい遠巻きに感じたそれらの往来をしばらく茫然と眺めてから、私は出口へと歩いて行った。

 歩きながら私は医者の言ったことを口のなかで呟いていた。胸の真ん中に居座っていた感情を露出する。口の中でそいつは像を結んで外に吐き出された後、速度を持って私に迫る。どこかでそれから逃げる自分を感じて、そいつにとどめをさすように事実をつぶやく。

 今さっき、アリスは死んだと。

 なにかが胸に刺さったのを感じて、感覚が冷たく全身を這うように伝うのが分かった。逃げ切れなかったな、私は。心の中で足に杭を打たれた私は、何もできずにさめざめと泣き伏せっている。まるでたった今、ようやっと現状が呑み込めたようだった。

そうだ。

言ってみれば今日、私の半分かそれ以上の部分が死んだ。

私の妻が。

 


 「14年前にも言いましたが、」

あの後医者はそう続けた。

「現代の医療のほとんどは、病んだ身体のパーツを、患者の遺伝子情報を元に作成したコピーと取り換えるという手法によって成立しているものです。その方法をとれば、奥さんをまたこちらの世界に呼び戻すことは可能です。ただ、問題なのは、」

「…脳内の記憶。」

せまい診察室の中で、立ったままそうつぶやいた。私の喉からは低く唸るような声が出て、後ろから誰か見てるんじゃないかと、突然そんな気配を感じた。背中の力が抜けて、後ろの壁に寄りかかる。

「そうです。奥さんの場合、脳に激しいダメージがあるために脳の交換が必須です。しかし、パーツは交換できても中身までは修復できない。一般にはそういった脳内の記憶情報は、クラウドのサーバか、自分のタブレット端末にバックアップをとっておくものですが、残念ながら奥さんはそれをやってらっしゃらなかった。」

「自然回帰主義者だったんです、彼女は。生前に残したテキストに、『パーツをすげかえるくらいなら、ナチュラルな自分のまま死にたい』とまで書くほどでした。」

「あなたがパーツを取り替えないのはそれが理由でしたか…。まぁ奥さんのような方は少なくないですから、ナチュラルメディスンもたしかに存在はします。しかしまぁ、保険も効きませんし、そもそも奥さんの場合は治療は不可能だったでしょうからね。」

私は医者の言葉を無視して大きく息をついた。なんて馬鹿なやつだ、とでも思っているのだろう。そう感じた。頭の中ははっきりと鮮明に、とはいかず、どろどろと深くまどろんでいるようだった。思考が安定しないというか、もういっそのこと、この14年をどこかに投げ捨ててしまいたいという思いがあった。

どうせ殺すなら、さっさとやっておけば良かったと。

悲しいけれどそれが本音だ。

もう彼女のことで一晩中悩んだり、見舞いのたびに切なくなったりというのはうんざりなのだ。もうアリスから解放してほしい。そう思った結果が今の現状で、結局私は今もアリスに縛られ、むしろ束縛はより厳しくなっている。

しかし、と自分に話しかける。お前は愛していただろう?つまりそんなことはできなかったろう?お前はやれることをやったんだ。それに何より、生存の可能性を、最後にゼロにしたのは彼女自身だ。この医者の態度が示す通り、実に馬鹿げた主義主張によって、自分で自分の首を閉めたのだ。

 


 自慢じゃないが、生前私は妻を理解などしていなかった。できなかった。何度も話をして、彼女の意見を聞いては、今のように頭をなやませていた。アリスが何を言いたくて、実際どのようにそれを表現したかなど、もうとっくに忘れてしまっていた。ただ彼女はいつも、ひとつことに拘っているようだった。それだけは胸の奥で、そっと憶えている。

「私たちは誰なの?」

なにかとアリスはいつもそう問いかけてきた。そういう時も、やはり私は戸惑って、

「誰って、私は私だよ。」という他にない。

「じゃあ、自分は自分だって言い切ってしまっているあなたは、どこにいるの?」

「どこって…。」私は少しの間うつむいて、それからまた彼女を見た。そしてごくありきたりに

「ここにいる。」と答えた。言いながら自分でも、もう少しひねりようがあったろうにという後悔を感じながら。しかしそれに反して彼女は満足げに表情を崩して、

「その通りよ、ジャック。今あなたが言ったことは全て正しい。あなたはあなたでしかない。逆に言えば、あなた以外のものがあなたになれるはずがない。あなたが寝る前に欠かさずクラウドにアップロードしてるバックアップデータが、あなたであるはずがない。そのデータを組み込んだ脳があったとしても、それはあなたに近い他人というだけ。その他人があなたと同じぐらい私を愛して、あなたと同じぐらい私を理解しようとするなんてことはないわ。あってはならないのよ。それは『記憶』ではなく、『感情』や『思考』だから。毎夜こまめにやっているようだけれど、全ては無駄なことよ。あなたは自分に近い他人を、クラウドのデータボックスに閉じ込めているだけなの。」そういう内容を早口でまくしたてたあと、彼女はよく、最後こう付け加えた。

「私はただ、死ぬまで自分でいたいというだけ。あなたを心から愛して、心から感謝しているアリスでいたいだけ。もしあなた以外の事象があなたになれるのだとしたら、それはあなたを心から愛している私だけよ。」

 彼女の言う事が理解できた試しはない。でもその不可解な文章の後に付随する、とってつけたようなその言葉が私に愛しい、という感情を思い出させた。

最期の瞬間まで、自分らしい自分でいたい。美しい言葉だと、そう思ったのはきっと自分だけだろう。



 薄暗い病棟の先に、光が差し込む出口が見えた。その透明なガラスのドアを出ようという時、見知った看護婦が私のそばを近づいてきた。その人はこちらに気付くと、厳かに会釈をしてきた。深く例をした彼女の遠い背中は、グロテスクな現実を、真っすぐ指し示していた。私はそれに軽く返して、ゆっくりと病院を出た。

 町はいつも通り忙しそうに回転を続けていた。分かっていたけれど、彼等はアリスを知らないから、当然彼女が死んだとか、そういうことにはおかまいなしに、「そんなもんは忘れてしまえ」と私に促す。「さぁ働け。」そう迫る。

 無愛想で、無関心な要求。でもそれはむしろ有り難かった。そうだ。忘れてしまえ。少なくとも今は。何故かって?楽じゃないか、その方が。グラスの電源を入れる。メールがいくつか来ていた。送信元を確認して眉根を寄せる。全て上司からのものだ。なにかあったのか、と考えながら、上司のことを思い出す。

 時代遅れにもメール嫌いという彼、ウィリアム・テンゼントは、同じ人間に連続してメールを送りつけるなどということはしない男だ。メールにはただ、早く電話をよこせ、というようなことしかなく、それこそ一通送れば事足りるわけで、それだけでもウィルが冷静でないということと、事は急を要することが伝わってきた。

 私が指示通り彼に電話をすると、すぐに反応があった。

「ジャックか?」間違いなくそれはウィルのものだった。

「いままでかかったのか、ずいぶん経ったろ?」

「すまないウィル、医者の話が長かったんだ。」ごまかすように私はそう返した。

「本当はそのまま帰ってもらってかまわなかったんだが、」彼の言い方に、やはりただならないものを感じた。

「何かあったのか?」

「ああ、タレこみだ。」

自然と脈拍があがる。ウィルの声色も、気のせいか上がり気味だ。

「売りか?」

「かなり大きいやつだ。ダウンタウンのほとんどの売女がからんでるだろう。金の動き自体は掴んではいたんだが、具体的な場所の特定には至らなかったんだ。」

「集団で?」

「ああ、そうらしい。」自分の中で、スイッチが入るのが感じられる。カチッと、蛍光灯がつくみたいに。

「妙だな、そこまで大きな動きを彼らがするとは思えないが。」

「なんでもするさ、金が絡めば。そういう人種さ。」

そういうウィルの言葉はうかつだが、どこか私をうなずかせるところもある。しかしやはりそれはないな、と私は私の中で断ずる。

 犯罪をグループで行い、そこで利益を上げるために最も重要なことは、絶対に捕まらない、とうことだ。たとえどんなに大きな商売でも、どんなに巨大な利益を得られるにしても、警察側、つまり我々の方に情報が回ってくるような派手な動きは、彼等は絶対にしない。私は彼らの現れるという場所をウィルから聞くと、急いで車の向かった。この病院の、いまどき珍しい野ざらしの駐車場は、雲行きの怪しい空の下ではより一層物憂げに見える。

「ああ、それからウィル。」私が切り出す。

「なんだ。」

「今日医者に言われたよ。」

「何を?」

大きく息を吸って、私は小さく彼に伝えた。

「アリスが死んだよ。」そこで一瞬の間があって、

「…そんな、まさか。」

予想通りの反応がかえってくる。

「交換しなかったんだ。」

「ああ、ジャック、なんと言っていいか…。」

ウィルが電話の向こうでむせぶように泣いているのが分かった。

「済まないウィル、私は君の親友を殺してしまった。」

「殺した?」

「ああ、」

「何のことだ?」

「交換すれば、アリスは生きられたんだ。」

「それは彼女の…」わかってるさ、と彼の言葉を遮って、私は自分の後悔を吐露する。

「やはり交換するべきだった。」

ウィルは少し息を詰まらせ、ひとつ、間があった。それは彼女の意思に反するとか、倫理上の問題でとか、ありきたりな論理的反証を試みているに違いないが、結局諦めたように、

「なぜ、そう思うんだ。」と聞いてくる。

「彼女は、いつも言っていた。交換された自分は、それはもう自分ではないからと。」

「ああ。」その通りだとウィルがうなずくのを感じて、私は続ける。

「だがそれがなんだっていうんだ?本物である必要がどこにある?私にはそれがわからない。そもそも偽物とか本物とか何の話だ?どうせ私には分からない。うんざりだったというのは本当だ。この14年間、何度諦めようと思ったか。何度医者に諦めろと言われたか。だができなかった!彼女を殺すことは!それだけはどうしても…。」

「…」

「私には…、このとんでもなく弱い半人前には、彼女が必要だ!いまでも。いまでも彼女の言っていたことは分からない。偽物か本物か、私にはその区別がつかないんだ。だったらもう偽物でよかったんだ。どうせ分からないんだから!偽物でもいいから、…そばにいてほしかった。」

私はアリスにいてほしいんだ。ずっとウィルは黙って聞いてくれていた。少し落ち着いた私は、彼に一言謝罪をして、彼もそれに答えた。

電話を切る最後に、ウィルが言った。

「ジャック、俺には分からないよ、君って人間が。」鼻から息が漏れるのを感じる。

「当然さウィル、私だって、その答えを知らない。」

「なぜそう平然としていられる?彼女を愛していなかったのか?」平然と?今の動揺を平然と、とは言わないだろう。

「愛してたさ。誰よりもずっと。」

「だったら、何故?」

「もう彼女がいないからさ。

私が涙を流すなら、それは彼女のためであって、私自身のためではないからさ。」

長い沈黙があった後、電話は自然と切れた。



ハイウェイは、暗い夜の中で、明るく浮いていた。

ウィルが突き止めたという「売り」の場所は、都心から離れた郊外の、いわゆるベッドタウン。その一角の、ごくありきたりな一軒家だという。私は病院から真っすぐ向かうとウィルに伝え、ウィルは現地で落ち合おうと言った。他の同僚たちも順次向かっているという。ハイウェイに乗って、ドライブをオートに切り替える。手元に収まるように突き出ていたハンドルが、ゆっくりと折り畳まれた。気が抜けたように口から息が漏れて、

窓の外を、町は黙って過ぎていく。

ちょっとした愛嬌とか、ユーモアもなしに。

ああ、お前は行くのか、というわけでもなく、

町は最初に打ち立てられたその場所に真っすぐ突き刺さっている。

まるで影だ。本当はそこには何もないのかもしれない。

もしこの町がハリボテでも、驚かないな、という想像が頭をよぎって。なにをバカなと自分で笑ってみる。町にとって私はきっと取り換えの効く歯車でしかないだろうから、きっとお互いに何の関心もないだろうと…。

「ああ、そうか。」と思わず呟いた。それが、私のずっと探していた答えだ。

そう考えてしまえばどんなに肩の荷が降りるだろうか。

どんなに呼吸が楽になるだろうか。

一人のジャックという人間ではなく、ただこの街のピースになって、彼らと同じように、行き交う人と時間の群れをただ見つめて、後から来る人たちに追い抜かれ続けることを、それが自分自身で許せたら。

もしやこれがアリスの言いたかったことか?

やめてしまえばいいのだ。刑事など。

忘れてしまえばいいのだ、屍者の事など。

それでいい。

それで何が変わる?

だが自分が自分に関係ないということはない。

町や人が、そっくり機械たちに入れ替わったとして、今の私にどれだけの影響があるというのか。その逆は?きっと何も変わりゃしないのだ。

だが私にとってのアリスは?

アリスにとっての私は?

そういうやるせない思いに、いままで何度となく押し潰され、打ち捨てられて、それでもその度に図々しく起き上がって見せたのは、やはり妻の存在があったからだ。

けれど彼女はもういない。

私をただ私として見てくれた人は殺されたのだ。

他ならぬ私自身に。

ただ目覚めないというそれだけのために。

まるで自分自身を責めるように、喉元でケホン、と咳がでた。



ハイウェイを降りて、閑静な住宅街に入る。窓の明かりはひとつも点いていない。道をてらす街灯も少々心許ない明るさで、時々瞬きをしていた。暗い町の中を少し迷ったあと、道路のあたりに何台かの電気自動車と、ウィルを含めた同僚たちが浮き上がった。私は車の火をそのままに、外に出た。そのうちの一人、ウィルがこちらに歩み寄ってくる。

「遅くなった。」

「間に合ってるよ、ちゃんと。」

ウィルはぎこちなく笑いながらそう言った。そして私がそちらに歩いてゆくと、小さな声で続けた。

「済まないジャック、本当なら休んでもらうのが筋だが。」

「うちの課が人出不足なのは、君より私の方が分かってるよ。君の気にすることじゃない。」

そう言うと、ウィルはまた少し笑った。

私たちのそばに二人の男女が寄ってきた。後輩たちだ。最初に話しかけてきたのは、プライスの方だった。黄色のダメージジャンパに、白のYシャツと紺のネクタイをあわせている。彼はぎこちなく両手の指を絡ませて、うつむきがちになって、

「ジャック、話は課長から聞きました。あの、その、ご、ご、ご愁傷さまでございます。」か細い声でそうつぶやいた。聞いたことのない言葉に少し驚く。

ふん、と鼻を鳴らしたのは、となりにいたダークスーツの女性だった。

「背筋を伸ばしなさい、プライス。あなたがそんな格好じゃ、警部に気を使わせてしまうわ。」プライスが本当に泣きそうな顔をしたので、

「いいんだよ、プライス。君が心配してくれているのはちゃんと分かったから。」とあわててフォローする。

そう言うとプライスはほっと息をついて、うれしそうに、しかし眼にはまだこちらを憂うものを残したまま笑った。私は彼に笑い返した後、ステイシーを見た。彼女はいつもの通り、冷静な風を装ってはいるが、やはり眼には悲しみの後があり、紅いルージュの唇は、かたく引き結ばれている。

「ジャック、とても残念です。すばらしい人が旅立ってしまいました。」

ステイシーもアリスと同じ自然回帰主義者で、アリスとはとても懇意にしていた。

「警部の判断は正しかったと思います。」とステイシーは続ける。

「あなたのおかげで、アリスは彼女自身のまま、亡くなったのです。あなたのおかげで…。それに14年という間、彼女の世話をしていたのですから…。遺された身はつらいですが、そう思えば少しは肩の荷が軽くなるのではなくて?」どことなく冷たくも、心の奥では人の痛みを理解し、気遣っていることがちゃんと伝わってくる。

こういう言い方はアリスに似たのかな。

「ああ、そうだねステイシー。そうかもしれない。」

私はそう返して、仕事に話を進めるようウィルを促した。

 ウィルがひとつ咳をして、ブリーフィングが始まる。

「今回のホシは、『ブラック・パレード』。みんな知っての通り、この町全体の売春を仕切っているマフィアの下請けだ。メール、通信でも言った通り、今回の売りはかなり大きな規模で行われるとみられる。逃がすわけにはいかない。」

ステイシーが手をあげる。

「ステイシー?」

「規模、とはこの場合、売りの人数が多い、ということですか?もしそうなら、制服組に応援を頼むべきでは?」

「はっきり言ってそれは分からない。今回のことがこちらに漏れたのは金の流れからで、この場所だって、匿名のタレ込みで割れたんだ。ただ、動いた金は尋常じゃない。」

「そんなにか?」少し身を乗り出して私が聞くと、ウィルは重々しくうなずいた。

「正直眼を疑ったよ。桁違いなんてもんじゃない。」

「しかし、君の言った通り、現場がこの住宅街のごく一般的な一軒家なら、売りの規模で言えば今回のはそう大きくはないはずだ。少なくとも普段我々が扱っているレベルのものだろう?」

「そこだジャック。買い主や組織側の人間を含めても、人数は多くても十数人だろう。」

「…不気味だな。」

そこにいる全員が同じ気持ちだったろう。こういった類の犯罪において、動く金額の大きさとはいわばスカラー量のようなものだ。犯罪の重要度や、危険性、社会に与える影響などにそのまま比例することが多い。いや常にそうだと言っていい。少なくとも私の20年近いキャリアの中で、その例に漏れたケースは一つもない。それはウィルや若手の二人も良く分かっているはずで、つまり今回のケースは、いまのところ例外中の例外というわけだ。プライスは眼に見えて怯えているし、ステイシーは表情にこそでていないが心内でひどく緊張しているに違いなかった。

いやな事件だ。そしてこのタイミングの悪さに腹立たしいとさえ思った。

私は時計を見て、ひとつ息をついた。

「時間だ。」

まもなく「ブラック・パレード」傘下の車がここに到着する。



 「来ました!」

目標の道路脇に隠れているプライスのころした声がスマホから聞こえてくると同時に、暗い住宅街の中で、電気自動車の静かな駆動音が広がる。

「車種は2世代前のプリウス、カラーはブルーです。」とは、向かいの家側に潜むステイシーからだ。

私とウィルは目標の家の脇に隠れ、敵の到着を待っていた。

「…一台だけか?」

「はい、ジャック。確かにプリウス一台だけです。」

「こ、こちらも確認できていません。」

「クソっ。」敵はなかなか尻尾をだしてくれない。

「落ち着けジャック、まだこれだけとは限らん。」

プリウスが件の家の前に止まった。こちらからはまだ中を確認することができない。

「プリウスのドア付近を確認しろ!」

「プライス!動けるのはあんただけよ!」

「わ、分かった!」

(ガチャ)ドアのキーロックを解除する音が聞こえ、それにつられるようにドアが横に開いた。

そしてひと組の華奢な足がアスファルトに下ろされ、すっと人が立ったのが見えた。


女だ。


だがこちらからは人影しか見てとれない。

「見えたか、プライス?」

「…。」

「プライス?」

「…あ。」

抜けたような声がプライスから漏れた。

「なんだ、あれは?」今度はウィルの声だった。ウィルは、ちょうど私の反対から車を見ている。

「ウィル、そっちから見えるのか?」

「…そんな。」

「プライス!返事をなさい!状況を報告しなさい!」

「いや、こんなことが」

わけのわからないまま、ステイシーと私が二人に呼び掛けていたその時だった。

ドアがゆっくり閉じたかと思うと、プリウスはすい、と、

来た時と同じように去って行った。

私は急いで道路に出て、降りてきた人物を確認しようとしたが、そこにはもう誰もいなかった。

次いでステイシーが降りてきた。

「あの女は?」と聞かれ、私は首を横に振った。

「何者でしょう?」

「普通に考えれば娼婦だが、護衛も客も連れていなかった。」

「ええ、一層気味が悪い。」

「…すいません、警部。」

プライスが持ち場から姿を現し、うなだれながらそう言った。私は息をついて、

「謝って済むと…。」そう詰め寄るステイシーを制して言った。

「どうした?なにがあった?」

「…、あの。」

「いいんだよプライス。動転することは誰にだってあるさ。落ち着いて、見たままを言うんだ。」

「…見たまま。」プライスは少し考えて、はっきりとした口調で言った。

「綺麗だった。」

「なんですって?」

耳を疑うようにステイシーが声を上げる。

だがプライスはかまわずに続けた。

「ほんとに綺麗だったんです。なんていうか、お人形さんみたいな。」

「大きすぎる金の流れは[これ]を指してたんだな、きっと。」

後ろからウィルがやってきた。

「ウィルさんまでそんな、」

「君は見てないからそう言うのさ、ステイシー。それに君は女だからわからんだろうが、あれだけの美女が抱けるなら、私だって金なんぞ惜しまないさ。」

「…呆れた。」ステイシーは鼻を鳴らした。

「とにかく、中に入ろう。これ以上の来客はないだろう。」



玄関のドアは少し開いていて、そこから中の光が漏れている。

「プライスとウィルは外を見ていてくれ。」

「見張りに二人は必要ないだろ?」

ウィルはそう言っていたが、ステイシーの提案だと言ってやった。

「言っちゃまずかったかな。」

「なぜです?」

腰をかがめて家の敷地踏み入る私の後ろの付いてきながら、ステイシーが言った。

「かまいませんよ、本当のことですから。」

「君の上司だし、一応。」

「上司らしい行動をとってくだされば、私はこんな提案はしなかったですよ?」

「正論だな。」

「ふふっ」突然彼女が笑った。

私が面くらって後ろを振り向くと、彼女は本当にニコニコ笑っていた。

「どうした?」

「いつもの警部に戻ってきました。」

「え?」

「やはり男性は仕事となると他のことを忘れられる生き物なんですね?」

「…冷徹だと思うか?」

「いいえ。」

「本当に?」

「ふふっ」彼女はそこでまた笑った。

「警部はもっと、自分に自信を持つべきだと思います。」

「分からないな…。」

 手が、ドアに触れる。

私はドアノブをそっとつかむと、ステイシーに目配せで伝える。

「行くぞ。」

「はい。」

少しずつ力を入れていく。すんなりとドアは開いた。

すると小さく、なにかの音楽が耳に届いた。

クラシックだ。ずいぶん音質が悪い。今時2チャンネルなんて、音源を探すのも一苦労だろうに。

「なんて曲かしら?」

ピアノのソロが、滑らかな音階を奏でる。

そして私の脳に、小さく衝撃が走る。

単純な、しかし耳から離れることのない音の連なり。自分が何を聞いたのか一瞬分からなくなって、後に残るのは「切ない」という結論だけだ。そしてピアノソロは、まるで自らの美しさに絶頂したように弦楽器を誘い、激しく熱情を歌う。

そのオーケストラの奏でるメロディを、口が一歩先に呟く。

「ジャック?」

「知らないのかい?この曲を。」

「ええ。」

私は家に置いてあるCDのタイトルを思い出す。彼女がある日、駅前のヴィンテージショップで、プレイヤと一緒に買ってきたそれは、確かあれもステレオではなかったかと思い出す。そして演奏の邪魔をすまいと、ごく小さな声で曲の名をつぶやいた。

「『パガニーニの主題による狂詩曲』」


(ねぇ、ジャック。素敵でしょ?クラシックには多くの名曲があるけれど、私はこれが一番好きよ。ラフマニノフっていう人が書いたのだけれど…。ねぇ一緒に聞きましょ?


…綺麗でしょ?

あなたがいない夜とか、一人でさびしい時にこれを聞くと、なぜだかよく眠れるの。

きっと私をつつんでくれているんだわ。あなたがいつもそうしてくれるように…。私を甘えさせてくれるの、あなたの代わりに。)


「アリスが好きだった曲だ。」


玄関の奥は電気もついていて、誰の気配もない。(タン、タタタタン)

化粧室やら、物置やらのドアは閉じられていた。(タラララン)

ただ一部屋のドアだけが、口を開けていて、(タン、タタタタン)

私たちは曲につられるようにその部屋に入った。

「あ…。」


そこは寝室だった。ここの住人のものか、キングサイズのベットが置かれていた。ふわふわと白いレースで包まれていて、私はおそるおそるそれを手ではがした。

裸の少女が、そこにいた。

真っ白な肌に、真っ黒な髪がしだれかかっている。

彼女はベットの上で、長い睫毛の中で眼を閉じて、静かに寝息をたてている。

仰向けに、胸の前で腕をたたんで、指をもう片方のそれぞれに絡ませていた。

首筋から乳房、背中にいたるまでどこまでも真っ白で、傷どころかシミの一つもなく、なによりもその華奢な体は、余分なもののなにひとつない、

「美しい…。」

気付けばそう口が動いている。

「プライスに謝らなくちゃ。」

後ろでステイシーがそう呟いた。彼女も少女に見入っていた。

「買い主は?」

「…あ、探してきます。」

「頼む。」

ステイシーが部屋を出て、私は音源を捜した。

『パガニーニ』は、部屋の奥にあるCDプレイヤーから流れていた。それの方へ歩みながら、こいつをここに置いたのは誰だろうと考える。この少女では無いだろうな。20もいっていないような子が、CDなど扱えるはずもない。

私は少女を起こさないようにベッドの前をゆっくり通った。

少女は眼を閉じたまま、深く眠っているようだった。ゆったりとした呼吸が、静かな音をたてている。少し隠れるようにして、指に絡んだシーツを強く胸元にたぐり寄せている。

…似ている、とすぐにわかった。

誰に?

聞くまでもない。

ただ寂しいだけだ、と結論づける。きっとこの部屋のほこり臭い感じが、それに彼女の瞳と髪がアリスを思い出させているのだ、と。

ほう、と息を吐いて、私が停止ボタンを押した瞬間だった。

「うっ。」

少女の呼吸が突然乱れた。虚をつかれて、肩がゆれる。

「…んっ。」

なにかにうなされるように、何度かあえいだ後、

ぱっ、と、その両目が開かれた。蒼い瞳が暗い部屋の中で爛々と輝く。まるでそこだけ光っているようだ。「それ」はぐるぐるとあたりを見回すと、すぐさま私をとらえて、じっと目線を外さなかった。なにかを思案するように眼を細める。

そしてその小さな唇から、少女は確かにこう言った。


「……、ジャック、なぜ殺したの?」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ