世界の構造
今回もツバキの能力が活躍です。
「ハッ・・・ハッ・・・」
『ガルゥゥーー!!』
広大な森の中を、ツバキは息も絶え絶えになりながらひたすら走っていた。その背後からは、大きな唸り声が聞こえてくる。よくよく耳を澄ませば、獣の荒い息遣いと四肢が大地を蹴る音まで聞こえてくる。そして、その獣の鳴き声から推測できるのは、それが狼であることだ。
ここは、ツバキの目的地の付近の森の中で、彼女がいったん休もうとして降り立った場所でもある。何の気配も無いと事前に感知していたのに、追いかけてくる狼はそこにいたのだ。
首元目掛けて飛び掛かってくるので避けて逃げ出すと、目をギラギラと血走らせながら追い掛けて来たのだ。その様子から、何かに操られているのだとツバキはすぐに気が付いたが、対抗しようにも今のまま、走っていては何もできない。
どれくらい走り続けているのか、ツバキの真珠のような色の細い足には血が滲んでいて、彼女が走った場所にはそれが付着してしまっている。痛みが激しいのか、ツバキの表情は険しく、後ろを振り向くような余裕など感じられない。
その森の中は特別に荒れているというわけではないが、地面に転がっている石や木の根っこがあるので、素足のツバキにとって危ない場所であるのは確かである。しかも、相手は狼。そんな相手に、安全な場所を選ぶように走っていては、追いつかれてしまう。
そんな中、ツバキは地面から露出していた木の根に足を引っかけてしまった。まずいと思ったが、咄嗟のことで反応が遅れてしまい地面へ打ち付けられ、体中に痛みが走った。そのせいで、走るのに必死で忘れていた足の痛みが全身に広がっていく。突き刺さるような痛みに、ツバキの口から小さなうめき声が零れた。
はっと、後ろを振り返ってみると、狼はツバキが突然倒れたことに驚いたのか彼女を飛び越して、そのまま目の前にあった比較的太い木の枝に頭をぶつけて気絶してしまった。相当なスピーでド走っていたらしい。
ツバキはほっと安心しながらも、体を起こして狼をみた。じっとみていると、かすかに濃紫の煙が、狼の体を薄い膜上になって覆っているのが見えた。不安定に揺れているが、しっかりとその体全体に絡まっている。
「・・・魔の瘴気」
ツバキはそう呟くと、狼の傍に動いて、その体に手を当てた。ジュウッと、ものが焼けるような音がしてツバキが手を放すと、その平は、火傷したように真っ赤になっていた。それを見たツバキは、もう一度狼の体に触れた。しかし、今度は物音一つしない。
ツバキは、忌々しそうに濃紫の煙を見た。生命体の体に取り付いて、その精神を操作する『魔の瘴気』と呼ばれるそれは、簡単にはがれたりしないし、完全に消さなくてはならない。そういないと、また別の生命体に取り付いてしまうから。
「大丈夫。わたしが、助けてあげるから」
彼女はそういうと、緋色の双眸を閉じて口を開いた。
『――ai-na remi-ei-shia (世界が忘れた あの日の約束を)』
それは、センチュリーオーヴァの森で、ツバキが紡いだ言葉。古代ルミネシア語で、扱えるものはもうほとんど残っていない言語だ。あの時と同じように、ツバキを中心に風が巻き起こった。可視化されたそれは、淡い緋色の粒子を纏っていた。
『aria/aria shia-ria. (想いと想いの鎖を繋いで描く)
you toie/kureia (あなたは眠れる世界の夢を見る)』
それは、とても懐かしい音だった。小さい頃に聞いた子守唄か、母の口ずさんでいた歌か。上手くは言えないが、心の奥底に眠る何かに語りかけてくるような神秘的な音。――瞬間、ツバキの掌から光が溢れ、狼の体表を波のように伝い包んでいく。
淡い緑の光は、濃紫の光を侵食しながら広がり、いつしか禍々しい煙は跡形もなく消え去っていた。ツバキはもう一方の手を、自分の胸元――心臓がある場所へ当てた。すると、そこから緋色の光が溢れ出して来た。
『you ris-sia Ruminesu. (あなたに 緋色の世界を与えて)
Siariris-- remi-ei-shia (緋色の世界の■■と―― あの日の約束を)』
ツバキが緋色の双眸を開いた途端、辺り一面が眩い緋色の光に包まれた。
すると、森の木々がまるで生き物のようにざわざわと騒ぎ、急に葉を茂らせ始めた。緋色の光を浴びて、生命力が溢れてきたと言わんばかりに茂っていく森は、本当に生きているみたいだ。その光は、次第に小さくなり、木々の急成長も止まった。
光が消えたそこには、白銀色の美しい狼が、ツバキと向かい合って立っていた。
王者の貫禄を放っているその姿は神々しく、まるで、神の化身か何かを見ているような気分になる。獰猛だった金色の鋭い瞳は静かさをたたえていた。それは唐突に、頭を垂れた。
『──助けていただき、感謝する。緋竜の巫女姫様』
「お礼なんていらない。私は、やらねばならないことをしただけ。だから、頭をあげて?」
ツバキは、そのふかふかの体毛に包まれた狼の首元に、腕を回して顔を埋めた。温かい体からは、規則正しい心音が、ドクン、ドクン、と聞こえてくる。魔の瘴気は、もうなくなっている。安心したツバキは、ふさふさの毛を堪能しようと頬ずりをした。
狼もされるがままで、抵抗する気は全くないらしい。しばらくそうしてから、ツバキは狼から離れた。
「魔の瘴気が、どうして狼なんかに・・・」
『我は魔族の狼・魔狼だ。それゆえ、あれが取り付きやすかったのだろう』
「魔狼なの?初めて見た」
『我等一族は、貴女のことをよく知っている。緋竜の君が、久方振りに選ばれた巫女姫様として』
緋色の君、巫女姫、というのは、この世界の全生命体の頂点に立ち、世界の管理・統制を行っている存在。人々が、伝説の神として崇めている存在である。
* * * * * * * *
この世界は古に、神が見放した世界だった。争いと混沌に満ちた世界を管理・統制できなくなった創造主たる神は、それを見放すことに決めた。壊されていく大地に、神様は耐えられなくなったのだ。
しかし、そのまま放っておくわけにも行かないので、神様は自分のかわりとなれる存在にこの世界を託すことに決めた。それが、世界のあちこちに生きている生命体『竜』だった。最初に作られた最古の生命体たる竜は、人間たちを見放して生きていた。
彼らになら、世界を任せられると、神様は彼らに世界を託して姿を消した。
竜は、最も能力の高かった緋色の女竜の一族を軸に。世界を整頓していくことにしたが──人間たちは、竜にまで、最も醜い道具を手にして襲い掛かった。緋竜の血肉を手に入れ、世界の覇者にならんとしたのだ。
──緋竜は悲しみ、その娘が人間たちに牙を剥いた。
当時、緋竜には一人の娘がいた。その娘は、人間に対して並々ならぬ怒りと絶望を持っており、完全な竜になることを望み、人間たちを許さなかった。だから、千年前──世界は地獄の業火に包まれた。
彼女は、世界を元の姿に戻すために、最も邪魔だった人間を一掃することに決めた。自らの命を引き換えに発動した禁忌の魔術は、世界を四日間も地獄の業火で包み込んだ。世界から、多くの人間が消えた。
残ったのは、ツバキが『最後の願い』を託した生命──灼熱の中で彼女を信じ続けた人間だった。世界のあるべき姿を伝えた彼女は、眠るように死んでいった。一粒の光を、その胸に抱いて。
娘を失った緋色の女竜は、彼女の魂を世界の力の根源として、生まれてくる娘たちと、今でも守り続けているといわれている。その中でも、彼女は──ツバキは、特別な存在だった。
『貴女こそ、我等の主ですよ。──ルミネス様の純血を継承した巫女姫様』
白銀の狼の言葉は、森の音の中に消えていった。