チャプター28
ー王都 竜の紅玉亭ー
「ただいま〜」
誰もいない自宅に帰り、店のカウンターに座って一息つく。昨日は帰って来てすぐに寝てしまったために、掃除も荷解きも全然出来ていない。何日も店を留守にしてしまったため、店の中はうっすら埃が積もっている。
王都に帰って来た時に、三人で「疲れているからフォルクローレのアトリエに行くのは明日の午後にしよう」と決めたのだ。おかげで、昨日に引き続き朝までゆっくり眠る事ができた。
「あー、片付けしなきゃ。掃除もしなきゃ」
明日にはお店を開けなければ。普段通り店を開くまでに、やらなきゃならない事がたくさんある。掃除、換気、食材の買い付け、考えただけで頭が痛い。旅暮らしがいかに気楽だったかという事を思い知らされる。
そんなに長い期間ではなかったが、本当に気ままな生活だった。基本的にはずっと馬車に揺られていればいいのだ。懸念された盗賊や魔物の類も、基本的にゲートムント達が退けてくれた。食事の支度は自分から進んで担当を引き受けたが、これは普段からやっている事だから苦にならない。親しい間とはいえ男二人との旅だという事を考慮しても、あまりに気楽だった。当然、馬車酔いもない。元々ここの街に来るまでの道程は全て馬車だったのだ。
「んー、これは生活戻すの大変かもしれないなぁ」
こんなに長い間家を空け、店を休みにしたのは初めてだ。そもそも人間ではないエルリッヒ、人間と同じような病気になる事もなく、生活の事を抜きにしても、店を休む事自体あり得ない。単純に、気持ちの問題である。気楽な気ままな生活を何日も過ごしては、疲れが取れたとしても、さすがにだらけてしまう。
「ま、のんびり戻して行くか」
ひとしきり全ての窓を開け放つと、思い切りよく伸びをした。
「んん〜っ!! 気持ちいいっ!」
窓を開けると、部屋中にまぶしい光とさわやかな風が入って来る。伸びの気持ちよさとも相まって、なんとも心地いい。数日分の掃除は面倒だけど、床やテーブルが綺麗になるのは嬉しいものだ。
我ながら随分人間くさくなったものだと思う。最初の頃は意識して人間らしい仕草や機微を真似ていたが、いつしか、今では無意識にしている。結局、心というのは人間も竜族も同じなのかもしれない。
「そういえば、あのドラゴンも言ってたっけ……」
『何故、竜の王族が人間の真似事をしているのだ』
と。
「そんなの……」
あの時あの場で答えた事以上の理由はない。
ー裾野の森・深部ー
『何故、竜の王族が人間の真似事をしているのだ。このような矮小な生き物の真似事を!』
ドラゴンは、意識を失い横たわっているツァイネに視線を向けた。確かに、絶対強者であるドラゴンからすれば、人間は小さくて寿命も短く、弱い生き物だろう。彼らによって自分も傷ついたが、命を奪われるほどの事ではない。今したたかなダメージを負っているのは、目の前にいる桜色の竜によって傷付けられたものだ。
『真似事は真似事かもしれないな。お前の言う通りだ。けど、彼ら人間は、私たち竜族よりも遙かに毎日をおもしろおかしく過ごしている。確かに竜族は人間と同程度の知能を持ち、人間よりも大きく強い体と長い寿命を持っている。それでも、竜族は人間ほどその一生を楽しんでいるか? 私はな、人間の世界、人間の生活を体験したいと思ったんだよ。喜怒哀楽、それが全てだ』
とても希有な事だったが、エルリッヒの生まれた竜王族は、人間の姿を取る事が出来た。それが一番最初に人間に興味を持ったきっかけだった。一度興味を持ってしまうと、次第に人間の生活に交じってみたいと思うようになって行った。周囲の家族からはこのドラゴンと同じように信じられないと言った様子で呆れられたが、決意は固かった。「竜を裁く者としてドラゴンスレイヤーを振るうには、人間の姿を取って、人間の生活に解け込んだ方が有利だから」というかなり強引な理由で周囲を説得し、その理解が得られないまま、それを意に介す事もなく流れ者として人間社会に紛れて行った。
今思えば、それがどれほど昔の事だったのか、詳しい時期はもう覚えてすらいない。
『人間の生活に興味を持つ事自体、貴様は竜としてのプライドを失っているか。我はこんな腑抜けた小娘に苦戦しているというのか!』
悔しそうなドラゴンの言葉はもっともかもしれない。だが、竜社会に於いて力関係は絶対だった。エルリッヒがどれだけ竜としてはみ出した物の考えを持っていようと、歯が立たないという事実だけが強烈に横たわっている。王族という立場を守り続けられる血筋というのは、伊達ではない。
『苦戦も何も、私が手加減をしているのに、気付いていないようだな。これだから若造は困る。それに、私はこう見えても数え始めてから三百年は生きている。お前のような若造に小娘呼ばわりされる筋合いはない!』
エルリッヒは竜族といえども女性であり、竜王族の寿命からしたら若い女性であり、それ故に若く見えれば嬉しいし、竜本来の姿の時はともかく、人間の姿をしている時は、年相応かそれより若く見えるように努力している。だが、それはあくまで人間として暮らしている普段の事。本来の姿である竜の姿の時とは違っていた。
寿命が長い竜族の中でも、古龍の血を引く王族だけは、ひときわ寿命が長かった。目の前のドラゴンからして見れば、人間の若い娘から変身したから年若く見えるのかもしれないが、実際は三倍前後は生きていた。ただ、外見上、肉体上の歳の取り方も、一般の竜とは違うのだが。
『年齢でも、力でも、お前は私には勝てない。それを理解するんだな!』
頭部の角が強い光を発し、次の瞬間、ドラゴンの頭上に一条の雷が落ちた。
『がぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!』
そのダメージに、ドラゴンは意識を失った。結果的には短い時間の気絶だったが、落雷など、初めてだったのだろう。これも、エルリッヒが古龍の力を受け継いでいるからこその、自然を超えた不思議な能力だった。
『人間社会は、お前たち他の竜が思ってるほどくだらない物じゃないよ』
それが、実際に人間社会に溶け込んでみて感じた全てだった。
ー数百年前 竜の巣ー
『人間社会で暮らしてみたい? バカを言うな! 我が子の中で最も強い力を受け継いでいながら、そのようなくだらない事を!』
お父様はそう言った。
『エルリッヒ、よく考えるんだ、私のかわいい妹。人間として暮らしたって、いい事は一つもないよ』
お兄様はそう言った。
『エル、あんた前から変わってると思ってたけど、ここまでとは思わなかった。正直理解に苦しむけど、好きにしたら? 関係ないわね』
お姉様はそう言った。
唯一文句を言わなかったお母様は、もうこの世にはいない。もしお母様が生きていたらなんと言っただろうか。他の家族と同じように、無理解に吐き捨てるだろうか。
同じ「人間の姿になれる」という特殊能力を持ちながら、それを一切使う事もなく、暮らしている家族たち。なんともったいない事か。そして、ちっぽけな理由で人間を見下す同胞たち。これが生物の頂点を自称する竜社会かと思うと、嫌気がさす。人間社会も、もしかしたら同じかもしれないけれど、それでも、まずは知らなければ判断できない。
『みんなの、バカーーーーッッッ!!!』
怒りとともに虚空に向け吐き出した叫びは、巨大な火柱となって周囲の雲を貫いた。
エルリッヒが竜の巣を飛び出したのは、それから数日後の事であった。
ー再び竜の紅玉亭ー
「っとに、深い理由なんてあるかっちゅーの。あのドラゴンには理解できないかもだけど、こっちは毎日充実してんだから」
もう討伐され、バラバラの素材になってしまったドラゴンの事なんて、考えたって仕方がない。それでも、久しぶりに話した同族の事だ、記憶に残らないわけがない。
『初めて会った同族よりも、たとえ異種族であっても、友達の方が大切だ』という気持ちや考えは絶対で、討伐するのは当然の流れだったが、久しぶりにその言葉を聞くことが出来たのは、貴重な経験だった。
「っとと、感傷に浸ってる暇はないや。やる事満載だ!」
物置からほうきを取り出すと軽く髪を結わえ、三角巾とマスク、それにエプロンを身につけ、早速床を掃き出した。いよいよ日常が帰って来る。
〜つづく〜