AIに似ている
「AIに似ている」
AIに似ているというのは、正確ではないけれど。
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声を探している人は多い。
まだ、AIが生成した画像と生身の人間が区別できる時代に、どうしても人間だと解析される、声の存在を、誰もが探していた。
顔立ち、体つき、雰囲気、それが完璧でないのが完璧という完成度。
人間であること以外、なんの情報もない。
化粧の具合によって、年齢は十五歳から三十歳まで自在。
背景に解析をかけても、全くヒットしない。まるで作られた世界の中に閉じ込められた女の子だ。
コラージュのような違和感もなく、確実に人ではある。声は、本名なのかもわからない。
検索しても、信憑性のある情報はない。
AIも答えを知らない。それは、どうやってやるのか。どうやってAIから情報を隠せるのか。
素人臭くない画像やビジュアルは、どこかがプロデュースしているのでなければ考えられないほど。
まるでVTuberの中の人並みの匿名性だ。
画像は元画像から加工され、オリジナルとともに複製版が拡散されている。
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東京で高校に通うことは、声にとっては難しいことでもなんでもない。メガネ一つかけるだけで、声を「声」と同定することはできなくなるし、化粧を抑え、髪型をもさっとするだけで、誰も「声」を、認識できない。
明日声戀が彼女の名前だ。
隣の人が「声」の写真を持っていても、声戀に気づくことはない。
身をやつすというわけでもない。
彼女本人のSNSは、友達を中心に人気で、加工を加えた写真は、いいねが百から千ほどつく。
彼女は「声」として写真を上げる時は、とてもミステリアスだけれど、声戀として写真を上げる時は、実に明るい。
ただ誰も、友達と写っている声戀を「声」と推察することはなかった。
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声の写真を撮るのは、友達の瞳だった。
化粧のアイデアや、写真の角度、そのプロデュースは、瞳が一手に引き受けていた。
二人は、塾で知り合った。
よく塾の自習室で耐久バトルをして、勉強時間を増やす。メガネをかけて、模試で上位に位置していると、男子からは遠巻きに見られ、声をかけるのもはばかられた。
二人は夜の新宿で、小田急線と京王線にわかれて帰るまで、一生懸命勉強した。
声のプロデュースは、そんな受験人生に対する復讐のようなものだった。
瞳の家は、広い。祖師ヶ谷大蔵の一軒家に、よく声を誘った。写真を撮るのは瞳の家だった。
兄がいたが、医学部に行っているから忙しくしていて、家で会うことはなかった。
瞳も医学部を目指していた。兄が慶應に行ったから、妹は国立だなと、父が軽く言うのが忌々しい。
声戀は文系で、勉強の内容はかぶっていなかったが、兄弟のいない声戀からすると、瞳の家の文化資本は羨ましかった。
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外では決して撮らない。写真は瞳の家の中でだけ。
複雑怪奇に拡散する写真は、半ば都市伝説になっていた。多くの人の好奇心をくすぐり、画像解析の技術の応用に使われていたりする。
例えば、彼女の着ている服装を解析して、服が売られている店を特定し、住んでいる地域を東京としてみる。
服はただ、瞳が用意したもので、決して足がつくことはない。
子ども如きの狡知であっても、この場合ないよりはマシだった。むしろその賢しさが、極めて有効に作用する。自分たちが何かの潮流を作っていることに、彼女たちは無自覚ではなかった。
そのSNSの反響に対して、二人は写真を上げることで応じ、それ以外の反応は載せない。
「で、結局声って誰なん???」
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瞳は千葉大の医学部へ。声戀は慶應の文学部に入った。
二人は入学してしばらく活動を控えていた。
声戀は、誰が見ても綺麗な女の子になった。メガネをかけても身をやつせない。どころかむしろメガネが、彼女の知性のトレードマークになった。柔らかくて甘い女の子というより、知的で美しい女の子として、SNSの外でも受け入れられていく。
それを、それをというかどれも、なんとも思っていないのだ。
声戀と瞳のペアは、何かの目的があって写真を上げているわけでも、わざわざ動画にしないのも、SNSで注意を惹きつけるのも、意識してのことではない。
ゲームでも趣味でもない。
何の意味もない。
たとえ二人がSNSの沸き様に、自恃を得たとしても、少なくともそれは、彼女たちの個人的な活動に、何の影響も及ぼさなかった。
社会の一部にとっての難度の高いパズルで、解くための鍵はほとんどない。それを提供することが、彼女たちのメタ的な目的であり、仮にインフルエンサーになることができたとしても、その瞬間に作り上げた今までの写真が、無に帰すこともよくわかっていた。欲望に応え続けなくてはならなくなる。
目的が不明瞭だから解析できない。それは、一つのパラドックスであり、深い暗闇だった。
瞳はすぐに彼氏を作り、声戀とのやり取りはまばらになった。友情は変わらなかったが、写真の更新は間をおくようになった。
声戀は、メガネを外さない。
クラスで、大学らしく集まって飲み会をやったりする。隣の席に座った男子は、しばらく声戀を見て、からっと雰囲気を変え、他愛のない世間話をした。
関西出身だという。
からからと冗談で笑わせて、声戀を楽しませた。
ふと、その顔を見て、声戀は何か違和感を持った。なんとなく、その男子の本質を直観した。
「どうでもいいんでしょ?」
声戀は聞いた。
「そりゃそうだよ。どうでもいいさ。だって人は、そう違いないし、興味を持っても、興味で返されるはずがない」
「でも、赤継くんは、慶應に来た」
本当は東大に行きたかったんでしょ? と聞いてもよかった。でも、それは差し控えた。
「どこにいても同じだよ」
「興味がないのはわかるけど、それならどうして人と話すの?」
「どうして明日さんは写真を撮るの?」
「……にっははー。何の話?」
「声、だよね?」
「違うよ」
「違う? 違わないでしょ?」
「他人の空似だよ」
「メガネを外して見て」
「それはできない。メガネは私の体の一部」
赤継は、微笑んだ。取り繕い方が下手くそだ。やはり瞳がいなくてはごまかせない。頑ななところが証拠としてどんどん提出されてしまう。
ここで例えばメガネを外せば、それもまた証拠になるし、メガネをつけたままだと、やましいところがあるように見える。
「お手洗い行ってくるね」
と言って席を立ち、幹事にPayPayで送金して、飲み会会場を出た。
特段まずいこともないけれど、まずくないわけでもない。
核心にたまたま近かっただけのことでも、核心は核心であり、そこには事実がある。
簡単な質問で馬脚を現して、とりあえず赤継のアカウントを探す。赤継という名前で出ていないから、辿ることはできない。
間をおかずに情報は形成された。声は慶應にいるらしい。
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どこで撮られたのか。声戀のキャンパスでの写真が出回った。週刊誌の写真みたいだった。画角も何もあったもんじゃない。でも、それを事実だと崇めるネット民に、情報の奔流は託されてとどまるところを知らなかった。
ただ、声戀が声として活動していたのは、高校生の時だから、背格好や化粧、服装も、完全に一致するわけじゃない。うまくごまかせればの話だが。
声が、人の興味をそそるのは、それが女優やタレントやYouTuberじゃないところだ。素人くさくない素人。
慶應というのもブランドだ。それらしく聞こえる。ただ、写真をもとに探すのはかなり骨が折れる。でも、着実に声戀の情報は拡散されていった。
声は半ばバーチャルな存在だから、彼女を現実に把持することはできない。
一方の声戀は、か弱い現実の存在だ。
ただただ、何か奇怪な現象が起きないように、注意する。色気を出して情報を漏らし、面倒を起こさないようにする。大丈夫だ。声は何も言っていない。
一年が過ぎる頃には、声も風化していった。
降り積もる火山灰が下の地層を隠すように、それらは決して掘り返されない。指名手配犯を見つけることはできない。
声戀は三田に行くと、そろそろその美貌は誰も放っておくことができず、ミスコンに推挙する声がそこここであった。
ただ、他の候補者と違って後ろ盾がなく、「無所属」での出馬となることに、支持者たちは不安を隠せなかった。知的ではあるけれど、華がないように見えるのは、ミスコンの票集めには不利に働く。あざとくあれとは言わないまでも、愛嬌は欲しかった。
声戀はミスコンに出る気はなかったが、なんと瞳が意外にも参加を勧めた。
「いいと思う。もったいないよ」
それだけで、声戀は気持ちを変えた。
メガネを外すと、性格まで変わるのだろうか。
それともメガネが、彼女を抑圧していたのか。
おそらくは、声を守るために容貌をくすませていたことに、もう大義がなくなったのだろう。
声戀は声より美しい。もう、後ろを振り返る必要も、過去を守る必要もない。声戀は声戀であり、SNSアカウントの声ではもはやないのだ。
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AIが生成する美人より、本物のアウラは凄まじい。
写真に収められていない声戀の生身の美しさは、筆舌に尽くしがたい。デジタルデータは加工ができるから、よっぽど美しいはずなのに、それを軽々と超えてくる。
こういう人が、女優でもモデルでもなく市井にいることに、誰もが驚嘆した。
そして、彼女が実はとても親しみやすい性格をしていることに(それを演じられることに)ミスコンは熱狂した。
たとえ、赤継が、声戀が声だったとリークしたのだとしても、それはもう何の意味もなかった。写真ではもう、彼女の美しさを写し取れない。
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それはほんの僅かの間のことだった。
AIの生成する絵や写真は、人を欺けるくらいまでに巧妙に作られているだけでなく、かつて存在しなかった美しさを、差し出すことができる。
美しさは全て、デジタルデータの中にある。今や声戀を再現することも不可能ではない。
複製と真作という概念は、徐々に解体され、結果だけが求められて、まとまりや違和感のなさが重要視される。
少し前まで違和感がないことに違和感を感じられたのに、絶妙な違和感、奇妙な画像上のあやまでもが再現されて人を惑わす。
見ればわかる、はずだったのに。
区別がつかなくなる。審美眼は欺き続けられるけれど、人の住まいがSNSと生成AIに移行したことで、審美眼自体が変容しているのかもしれない。
誰が美しいかはもはやどうでもいい。何が美しいかが重要で、もっと言うと、美しいものが「何であるか」も、もはや意味をなさなくなるのかもしれない。
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ミスコンで見せた、声戀の顔が、声と結びつけられることはなかった。それらは関連しているはずなのに、文脈を共有しておらず、美しさそのものは消費されても、その所属を誰も気にしなかった。
気にしていないのは、声戀も一緒で、美しさは概念化されることなく、時間の中で埋没していく。
それは特別の栄誉でも何でもなく、株価のように投機によって釣り上げられた単なる数値でしかなかった。




